アニメ版『シスター・プリンセス』の主題歌映像

〜作品主題の徴として〜



はじめに 〜考察の視点〜

 『シスター・プリンセス』のアニメ版2作品の主題について、論者はそれぞれ次のように明らかにしてきた。すなわち、第一作『シスター・プリンセス』(以下アニプリ)では(兄妹関係の構築も含めた)兄妹の人間的成長と調和的共同体の拡大発展序論ならびに結論参照)、第二作『シスター・プリンセス Re Pure』(以下リピュア)のストーリーズパート(以下Aパート)では兄妹における「再−浄化」の相互性考察6第3章参照)、である。このことを踏まえて作品全体を見直すとき、各話の内容からそれらの主題をただちに看取することは、しかし決して容易ではない。その原因としては、求められる視聴時間がそれなりに長いということも挙げられるが、何より重大なのは、第1話の段階でそれらの主題を予感することがきわめて困難という点である。アニプリの場合は、第1話のあまりにも独自の展開に視聴者が困惑し、主題を理解する前にこの作品を「逸脱」として否定し去ってしまうのもやむを得ないほどだった。また、たとえこの最初の危機を乗り越えても、「航が兄になる成長過程」という主題の一面は理解されやすかったが、「妹達の成長」というもう一つの面は見過ごされる傾向があった。これと同様にリピュアAパートでも、兄から妹達への支援という面は掴みやすかったが、このことが第1話であまりにはっきりと描かれる一方、妹達による兄の救済という逆方向の面は最終話まで明示されず、視聴者をこの兄に感情移入しづらくしてしまってもいた。もし論者の考察にある程度の妥当性があるとしても、そこで論じられた主題が早い段階で視聴者に伝わらなかったということに、2作品の一般的評価が低い原因の一端を見ることができるだろう。主題が曖昧な第一印象を与える作品は、物語重視の視聴者を遠ざけ、表層的作品(例えば「萌えアニメ」)としてのみ楽しもうとする傾向を強めるからである。
 ところで、そのような主題は、アニメ作品では通例、誰もが最初に視聴しその後も繰り返し観ることになる箇所で部分的に明らかにされている。それは言うまでもなくオープニングとエンディングであり、そこで流される歌は文字通り「主題歌」と呼ばれることが多い。アニプリとリピュアAパートでもこれらの歌が確かに定められており、毎回繰り返し視聴者に届けられていた。アニプリオープニングのイントロへの評価や、リピュアAパートの主題歌を担当したインディーズバンドへの賞賛の声は、放映当時からネット上にも残されており、これら主題歌へのファンの関心は決して浅くはなかった。だが、その主題歌が作品の主題を視聴者にどのように予め伝えているのかについては、これまで明確に論じられることはなかった。もっとも、上述の理由により「萌えアニメ」として一義的に理解された2作品に、主題というべきものを見いだしがたかったとすれば、あえて主題歌にそれを確認しようとする必然性はなかったのかもしれない。さらに言えば、これらの作品の主題歌について語るとき、アニプリ放映初期の衝撃のオープニング映像(いかにも絵が間に合わなかったかのように、第1・2話の本編映像を散りばめたうえ、歌唱する声優の姿をも取り込んだ)を避けて通るわけにもいかず、真面目な話になりにくい、という問題もある。
 このような状況を踏まえつつ、本考察では2作品の主題歌について、論者がとらえた主題がどのように描かれているかを検討する。ただし、著作権などの問題を鑑みて、歌詞については(リピュア考察同様に)取り扱わず、あくまでも背景に流れる映像にのみ注目する。これは、本来その歌詞と映像とが一体となって理解されるべき主題歌を、全体として検討するには全く不十分な姿勢であるが、まずは主題歌を作品の主題と結びつける端緒を映像からだけでも得たいというのが、ここでの論者の基本的態度であることを了解されたい。


1.『アニメ シスター・プリンセス』 〜兄妹になりゆく時の流れ〜

 アニプリの主題歌は、オープニングが「Love Destiny」、エンディングが「翼」である。いずれも第1話から第13話までの前半部では1番、第14話から第26話までの後半部では2番を(歌詞の省略箇所はあれど)用いていた。このうちオープニングは後半部に入るさいに映像も大きく入れ替えられた。


(1)前半部オープニング

 まず、前半部の主題歌映像から見ていこう。第13話までの物語は、主として兄妹関係の構築を描いているが、オープニング映像もその展開を予感させるものとなっている。(以下、斜字体の部分は映像の説明。)

 冒頭で、朝靄の遠い山並みを背景に、丘の上に佇む可憐。やがて朝の光をうけてその顔を上げる場面で、「シスター・プリンセス」のタイトルロゴが本のページのように開かれ、花びらが舞う。再び可憐の姿に戻り、彼女が光に向かって両手を伸ばすと、その輝きの中に兄の横向きの姿が浮かび上がる。これを求めるように伸ばされる可憐の両手と並んで、他の3人の妹達の手(おそらく花穂、咲耶、雛子)も現れる。
 
ここで暗示されるのは、兄の存在を教えられた段階での妹達の期待と欲求である。兄という輝きの到来によって、個々の妹の生活は夜明けを迎えた。だが、このとき妹達が求める兄の姿は未だ各自の理想像にすぎず、実体を伴っていない。また、妹達の手は同じように兄に向けて伸ばされているが、欲求を同じ対象に向けながらも相互の関わり合いは明確ではない。つまり、相互支援や分かち合いといった、後の共同生活で構築される原則を勘案するどころか、ようやく他の妹達の存在を知らされるかどうかという時期の、妹達の正直な姿がここに描かれている。

 海鳥が飛び、島に向かう。
 便りを手にプロミストアイランドに向かった妹達は、そこでお互いの存在を知り、兄の到着に先立って共同生活の足場を築こうと努力する。

 玄関外の柱に寄りかかり、咲耶はっと顔を上げる。玄関前で雛子は顔を上げて空を見つめる。屋内の階段で花穂はパンジーの鉢を横に腰を下ろす。庭の柵に寄りかかりながら衛はスケートボードを脇に風を受けて海を眺める。1丁目で亞里亞は日傘を回して振り返る。2丁目で夕日を浴びる四葉はワトソンくんを横に腕を組んで空を見上げる。船着き場で鈴凛はプロトメカの肩に乗り空を見上げる。
 ここまで、妹達が兄の到着を今かいまかと待ちわびる姿がそのままに描かれている。多くの妹達の視線は、空を経て、幸せに満ちた未来へと向けられる。ただし、咲耶が見上げる直前には、内心の不安が彼女の視線を下げさせていたのかもしれない。はっとした表情は、その気弱さに気づいて振り払おうとしたものとも考えられる。また鈴凛については、もしこの段階で既にプロトメカが完成していたとすれば(船着き場で重い荷物を受け取り運搬するのだろうが)、彼女は航と出会う前から早くも兄と別れる時のことを想定していた可能性がある。

 可憐が航の部屋の窓を力一杯開ける後ろ姿。
 
この部屋には既にテレビやラック、くまのぬいぐるみが存在している。ようやく到着した兄を迎え入れ、共同生活が始まった段階の描写だとすれば、ここではその時期の問題が幾つか暗示されている。航が兄として自覚し人間的に成長するためには、自分の殻を内側から開かねばならなかった。そのためには妹達の多少強引な支援を必要としたが、その妹達の側にも兄をめぐる互いの競争などの問題があり、雛子と航によるくまのぬいぐるみの探索行などを生起させた(第4話)。

 自室で鞠絵は開け放たれた窓にふと目を向け、その傍らにミカエルは寝そべる。自室らしき暗闇で千影は縦に10本・横に4列並びの蝋燭の灯に囲まれて立つ。
 ここでは共同生活の原則再構築以降に生じた問題が示されている。鞠絵は自身の欲求を抑圧(寝そべるミカエル)しつつ、兄と生きる「外」を望み(第8話)、千影は一見幸福な生活の中に、固有の満たされなさと未来の凶兆を密かに抱く(第5話)。

 可憐の手から滑り落ちるハーモニーボールが、チョーカーに変じて床にはずむ。
 ようやく軌道に乗った共同生活だが、それは個々の妹が来島以前に思い描いていたもの(ハーモニーボール)とは異なっていた。しかし、試行錯誤を積み重ねる中で、航達は兄妹としての絆を互いに結びあおうとし、それに成功する。そしてその絆(証としてのチョーカー)は兄妹の生活に調和をもたらし、「一人だけなんて選べない」という言葉を通じて島全体にさえ広げていく(第6話)。

 3丁目で春歌は夕日に染まりつつ空を見上げる。黄昏色の学園で白雪はバスケットを抱えて階段脇に腰掛ける。
 ひとたび構築された共同生活は、食事などに示される日常(ここで背景が夜まで至る)を繰り返すことを通じて、一見変化のないままに、しかし着実に兄妹を成長させていく。だがその日々は、日常を維持する役目を果たす妹達に、密かな欲求不満をなお与えてもいた。

 眞深とガルバン頭の山田が、お尻をくっつけあってくるくる回る。じいや(漁師、マラソン、運転手)が忙しげに行き交い、後ろでマッキー像が旋回する
 海神家の主からの指示に従い、じいやは様々に身をやつして航達を支える。眞深は与えられた任務のために、山田は自らの仮面を脱げないまま、空転しつつも支援的第三者としてじいやの計画に取り込まれていく。

 制服姿の航が灰色の東京を歩く後ろ姿。その背中を嘲笑しつつ、眼鏡輝く皆井が本を片手に過ぎ去る。燦緒はサングラスを外してその場所に立ち止まり、航を振り返る。
 かつての友人達の対照的な態度は、エリート意識や航への感情の相違を示している。しかし両者とも、東京に背を向ける(東京に拒絶された)航を振り向かせることはできない。

 航が背後に光を感じて振り返ると、制服姿から島での服装に変わる。見上げる光の中から可憐が腕を広げて現れ、航の胸に飛び込もうとする。可憐に続いて、雛子、咲耶、亞里亞、白雪、四葉、鈴凛、鞠絵、花穂、春歌、衛、千影が、航を囲むようにして現れる。
 航の目を新たな世界へ向けさせ生まれ変わらせたのは、妹達の輝きと温もりだった。自分のあずかり知らぬところで妹達に光を与えた航は、ここでその妹達から実体のままに迎え入れられ、求められ、包み込まれる。未だなお妹達の勢いにつられた受動的なものであるにせよ、航はこの妹達に目を向け、おぼつかなげにでも受け止めようとしている。そして妹達も、もはや兄をただ求め願うだけでなく、兄を中心にして共に光の中を歩もうと集うのである。つまりこれが、前半部で到達する兄妹それぞれの成長段階ということになる。

 夕暮れのウェルカムハウス、煙突から煙が立ち上る。
 『サザエさん』のエンディングとよく比較される場面であり、兄妹が作り出した家族の団欒が間接的に描かれている。

 以上、この前半部オープニングでは、第13話までの兄妹関係ならびに共同体構築の過程が、来島以前の段階をも含めて時系列的に描かれていた。そこにはまた、本編でも語られることになる様々な問題が、きわめて暗示的に登場してもいた。それらの問題を相互の協力によって解決していくとき、兄妹は絆をいっそう強く結んでいくわけだが、にもかかわらず本編でも完全には乗り越えがたい問題が登場していたことをここで指摘しておくべきだろう。例えば第7話では咲耶が兄との絆に不安を覚える姿が切々と描かれるが、この話の後にあらためて本オープニングを見直すと、そこで空を見上げる咲耶の横顔に、この第7話で綴られた未来への不安を重ねることも可能となる。逆に鞠絵については、第8話までの間は、航の来島以前に期待と不安半ばで待つ姿として単純に受け止めることもできる。また、可憐が兄の部屋の窓を目一杯押し開ける場面は、歌にあわせて繰り返されるのだが、これは航の心を開く困難さを物語るとともに、たとえ共同生活の原則が再構築されても兄に毎日最初に「おはよう」と告げる役目は誰にも譲らないという可憐の決意が、彼女の背中を通じてこれ以上もなく雄弁に視聴者に突きつけられているのかもしれない。
 このように、各話の段階でたえず見直されることによって、本オープニングの各場面は兄妹達の姿を様々に映し出すのであり、またそれを可能にするだけの中間的な描写を行ってもいた。オープニングとしての一般的な条件を満たすため、とくに妹達12人全員を登場させるなど厳しい条件下で、このような多層的解釈が可能な描写をなしえたことは、十分評価に値するだろう。このことがしかし、オープニングに曖昧さを持ち込み、主題を不明瞭にしていたとすれば皮肉なことではあるのだが。


(2)後半部オープニング

 第14話以降、航は既に兄としてほぼ確立しており、兄から妹へという働きかけも前半部よりはっきりと示されるようになる。その一方で、最終話までの4話で描かれる燦緒の画策が後半部の最重要事件となり、オープニングでもそのことを暗示するような変更がなされる。

 右から可憐、四葉、春歌、花穂、咲耶、雛子のバストアップが流れる。タイトルロゴが開く。左から眼鏡外した鞠絵、白雪、亞里亞、鈴凛、衛、千影のバストアップが流れる。
 妹達の体は植物で飾られているが、ツタか葡萄らしきものは「生命」「豊饒」「死と不死(復活)」「至福」などを意味する女性的象徴である(『イメージ・シンボル事典p.361、p.669』)。

 海鳥が飛び、島に向かう。
 第12話の後では航の島への偶然的帰還を、また最終話を踏まえれば島への自発的帰還を示す。

 船着き場のロープ止めに腰掛けて、可憐は猫を膝に抱き水平に見つめる。玄関外の柱に寄りかかり、咲耶は空を見上げる。玄関前で雛子は顔を上げて空を見つめる。屋内の階段で花穂はパンジーの鉢を横に腰を下ろす。1丁目で亞里亞は日傘を回して振り返る。自室で鞠絵は開け放たれた窓に目を向けずベッドに腰掛け、その傍らにミカエルは寝そべる。2丁目で夕日を浴びる四葉はワトソンくんを横に腕を組んで空を見上げる。3丁目で春歌は夕日に染まりつつ空を見上げる。黄昏色の学園で白雪はバスケットを抱えて階段脇に腰掛ける。庭の柵に寄りかかりながら衛はスケートボードを脇に風を受けて海を眺める。下りのエスカレータに立って鈴凛は前を見る。星空を背景に千影は数多の蝋燭の灯に囲まれて立ち、その前を花びらが舞う。
 島の各所に一名の妹達を配したこの箇所は、前半部オープニングと大部分重なりながら、顔アップ挿入や亞里亞の日傘の回転数にも若干の違いを見せている。まず、可憐が新たに登場する。その屈託のない笑顔と猫は第14話時点での可憐の心情を予感させ、船着き場という場所は第26話の姿を暗示する。咲耶は「はっと見上げる」ことはなく最初から空を見上げている。とくにクリスマスでは彼女の不安は一時的に払拭され、「来年も」という希望が素直に告げられている。しかしその一方で、夕空から宵の入りまでの妹達については、鞠絵が窓の外に目を向けなくなり、春歌や白雪から笑顔が消えるなど、一概に否定的な変更がなされている。燦緒の来島による兄妹関係の危機がここに示唆されているのだが、これを乗り越えた後の妹達は、衛のような元の笑顔に戻り、あるいは鈴凛の場合は将来へと至る門(エスカレータの出口)へ向かう勇気を再確認する。それらが、来島以来、運命(星空)を兄妹ともにおぼつかなげであっても(並びの変化した蝋燭)切り開いてきた証であり、その努力が精霊をも含む調和の拡大や、過去と未来の結びつけ直し(花びら)をもかちえたことは、千影の笑みが予め示してくれている。

 可憐、雛子、白雪、千影、亞里亞、春歌、鈴凛、四葉、咲耶、鞠絵、衛、花穂、眞深、亞里亞、雛子、可憐、山田と漁師じいやの顔アップ。
 妹達が基本的に笑顔なのは、『シスター・プリンセス』の挿絵の原則と合致する(キャラコレ挿絵考察参照)。その中でも鈴凛と衛だけうつむき加減なのは、先の登場場面での笑顔と対照的に、彼女達の内面的な繊細さをとらえたものであり、原作でもその外面と内面のずれが魅力となっている(キャラコレ設定考察など参照)。雛子と亞里亞が2回登場するのは、この年少者達が妹達の成長を最も端的に示すからであり、そのことは雛子の2度目の服装が第4話・第25話のものということに明らかである。可憐も2回登場するのは、船着き場の姿が後半部の最初(第14話)と最後(第26話)を二重に暗示していたのと同様の意味であり、可憐による何らかの計画あってのことではない。山田を押しのける漁師じいやの姿は、山田の否定的干渉を防ぎつつ航達を支援してきた彼の矜持を指し示すものである。

 眞深とガルバン頭の山田が、お尻をくっつけあってくるくる回る。
 前半部との変更点として、まず背後のマッキー像とじいやが消えている。これは「海神」の書物に記されていたはずの外的計画を、航達が前向きに乗り越えていくことを暗示している。次に、背景に星が並んでいるが、これは兄妹を導くガイディングスターが兄達の数だけ存在することの象徴である。星の色が黒い理由は不明だが、例えば作品全体や可憐に一面的な闇を見いだそうとしてしまう視聴者の心の色であるかもしれない。

 正面を向く航の笑顔、その背後に燦緒の横顔が浮かび、航を横目で見て笑う。
 島での生活に満足し、過去を振り返らない航に、その過去の躓きを手がかりとして、燦緒が来島することを暗示する。じつにこの過去とどう向き合うかが、航にとって大きな試練なのだが(第25-6話分考察参照)、そのことは次の場面で明確に描かれる。

 東京を歩く眼鏡の群衆を背景に、島での服装の航と黄色い帽子の少女がすれ違う。点滅する歩行者用青信号の手前で、航ははっと振り返り瞬きするが、少女の姿は消え、黄色い帽子が風に舞い、信号は既に赤い。
 来島以来の航は、都会での自分(過去)と島での自分(「いま」)との折り合いがつかず、その結果、歩みゆくべき未来もはっきりしなかった(点滅する青信号)。いったん東京に戻った航は、この乖離を埋めることができず、さらなる過去の約束さえも見失ったまま、誤った未来を選ぼうとしかける(赤信号)。だが、その危機を乗り越えたとき、航は自らの意志で道を選ぶ。

 黄色い帽子が消えると、妹達が玄関前に並ぶ姿(左から衛、白雪、千影、亞里亞、咲耶、雛子、可憐、花穂、鞠絵とミカエル、四葉、鈴凛、春歌)が現れる。
 自らの意志で島での生活を選び取ったとき、航は本当に兄として島に戻り、妹達に向き合える。

 夕暮れのウェルカムハウス、煙突から煙が立ち上る。
 このような最終話にたどり着く大団円を迎えて、ようやく兄妹の住む家は真の団欒を獲得する。つまり、ここでのウェルカムハウスの姿は、危機を乗り越える前後の兄妹像が二重に投影されていることになるのである。


(3)エンディング

 歌詞の変更はさておき、エンディング映像には前後半で変化は見られない。

 青空、生まれて流れては消えていく雲、やってくる飛行機雲。丘のてっぺんには、上に何も載せられていない土台があり、風になびく草原に、黄色い帽子の少女の後ろ姿がただひとつ。やがて少女は飛行機雲を追いかけて駆け出し、次第に夕暮れの色に染まっていく草原をどこまでも走る。最後には真っ赤な景色の中で木に寄り添って、少女は、山の向こうへとゆく飛行機雲を見送る。
 かつてこのような開発の端緒についたばかりのプロミストアイランドで、幼い航は妹(達)と約束を交わした。その航が去っていったとき、約束を記憶の底に封じてしまったとき、妹は、その想いは、兄の影を追いかけ、どこまでも見つめ続けていようとした。そして、兄妹達の「いま」がウェルカムハウスでようやく結ばれたならば、いつかこの島を兄妹達が離れるときも、島に刻んだ想いは皆をつなぎ止め、再びここに集わせるだろう。

 以上をまとめれば、アニプリのオープニングとエンディングは、前後半の展開にも対応しつつ、兄妹の成長や調和の拡大といった作品主題を予兆的に描いていた。そして、物語が航達の「いま」のみならず過去と未来の姿をも綴っていたように、兄妹が生きる時の流れを包み込むように、重層的なとらえ方が可能な表現がなされていた。だが、このような結論は、最終話まで見通したうえでようやく語り得るものであり、主題歌映像が作品の主題を視聴者に端的に伝えるには、問題があったということもなお否定できはしない。しかし、この作品の本放映時には、視聴者は、兄妹が成長しゆくそのような時の流れを、この主題歌映像からも感じることができたはずなのだ。ここで思い出すべきは、第1話のオープニングでいきなり主題歌を歌う声優が登場し、その後次第に映像が差し替えられて第4話からここで取り上げた全アニメバージョンに移行したという事実である。このことは、たんにオープニング映像が間に合わなかったという番組制作側の不備ではなく、「成長」と「時の流れ」という作品主題の要点を視聴者に伝えるきわめて斬新な手法だった。ただ残念なのは、この手法があまりに衝撃的だったために、視聴者の関心が兄妹の成長ではなく作品そのものの成長(あるいは変わりえなさ)に移ってしまったということなのだが。


2.『アニメ シスター・プリンセス Re Pure』ストーリーズパート 〜重なりゆく兄妹の「いま」〜

 アニプリが一つの物語として兄妹関係の形成過程を描いたとすれば、リピュアAパートは既存の兄妹関係をめぐる様々な問題とその解決を描写した。この作品のエンディング主題歌「君と生きていく」映像では、時計塔のカラクリのシルエットと背景の海(しばしば色を変更された)が描かれるだけなので、ここではそのカラクリも同じく登場しているオープニング主題歌「まぼろし」の映像に絞って検討する。


(1)一般的解釈

 「かっこよくって優しくて(……)」という可憐の言葉とともに、時計塔のカラクリが海を背景に浮かぶ。
 このカラクリは妹達による兄への贖罪を意味する(考察6補論1参照)。つまり、妹達に「優しい」兄のかけがえなさを告げる可憐の言葉と、カラクリに示される妹達から兄が与えられる救済とによって、じつは驚くべきことに「再−浄化の相互性」というAパートの主題は早くも言い尽くされている。ここから後はそれゆえ、実際の映像のように、主題が展開される舞台と主役達の姿とを次々と映し出すだけでも十分なのだ。

 木立の中に、可憐、咲耶、白雪、衛。療養所の近辺らしき風景の中に、四葉、鈴凛、花穂、鞠絵。路地裏の中に、春歌、亞里亞、千影、雛子。
 街の内外で妹達はともに生き、そして皆が兄を見つめる。

 海を背景に鳥たちが飛ぶ。
 アニプリとは異なり、鳥たちは島へ向かいはせず、また1羽でなく群れをなしている。街での兄妹全員の生き方と重なるだろうか(ただし12-3羽ではない)。

 日差しの中で夏の衣装の可憐は、木々に囲まれ腕を広げる。
 夏の昼間の開放感は、可憐が兄と生きるこの世界との調和を意味する。

 1時のカラクリ、夜の時計塔、廃工場のもみの木、風車がワンカットずつ。
 兄妹の生活する場である街の風景であり、それぞれが兄妹の絆を象徴する(補論1参照)。

 ブドウ園で白雪は、エプロンの前掛けに葡萄をいっぱい抱える。
 葡萄の収穫期は例えば日本でも7月下旬から10月上旬頃まで様々だが、淡い紫色であることからデラウェアやキングデラなどの品種だとすると8月あたりの姿か(日本の例参照。なお、第7話で亞里亞が朝食に食べていたのはピッテロビアンコだろうか、「別名をレディースフィンガー(淑女の指)とも。外観は芸術品のようで皮ごと食る」)。

 夕日の中で雛子は、兄におんぶされて寝入る。鈴凛と四葉のバロムクロス。咲耶・鞠絵・春歌・千影の4人ウェイトレス。これらもワンカットずつ。
 兄に不安なく依存する年少者、兄との関係を模索する年中者、年下の者達のために務めを果たす年長者
といった、本作品で描かれるそれぞれの姿の例である。なお、年長者のウェイトレス姿は、DVDでは最終話のみシルエットから全身画像に変化している。シルエットとは、第12話で描かれる年長者の隠れた努力を示しており、その影が引き払われるというのは、年長者の想いを兄が誠実に受けとめ、それに応えたことで、年長者と兄(視聴者)がお互いの姿を正しく理解し合っていることを意味する。


 チェック模様の薄暗い床の上に座り、亞里亞は赤い積み木で弧を描く。
 自分の世界を囲い込む弧の外側、左向こうから光が差し込んでいるのは、一見して兄の暗喩とも思えるが、これはむしろじいやさんのことである。亞里亞の視線は画面側に向けられており、その視線を反対側にも向けさせて、じいやさんという既に亞里亞を見守っている温かな光に気づかせるのは兄の役目である(第7話)。

 日差しの中、衛はマウンテンバイクでトラムバスの横を駆け抜ける。雛子はタンバリンを叩く。花穂はヒマワリ畑の中からボンボンを振る。
 直前の亞里亞も含めて年少者(考察2参照)で揃えているが、このあたりまでが妹達の夏の姿だろうか。

 千影は部屋の窓際で「月」のタロットカードを投げつける。四葉はドーナツをくわえる。
 この2つは季節も時間帯も不明だが、前世からの因縁を信じて兄との行方を占う千影が「不安」(「月」のカード)を手にしてしまいつつ振り切ろうとする真摯さと、ほとんど未知の兄との絆を確信しつつその証(ドーナツ)を探し求める四葉の真剣なおかしみとの、共通性と相違点とが見て取れる。

 夕日を背中にして、咲耶は公園らしきゲートに立つ。和風の色合いの部屋で、春歌は窓の外の雪を眺める。雪夜のトラムバスから、鞠絵はミカエルと降りて雪を見上げる。
 このあたりは年長者(考察3参照)で揃えつつ、夕暮れから夜に至る時間帯と、秋から冬に至る季節とを描いている。なお、鞠絵に冬の雪夜が割り当てられていることについては、第13話での兄妹のクリスマスを予感させるものでもある、ということのみをひとまず指摘しておく。

 青空に流れる雲、輝く時計塔。きらめく海と街並みの俯瞰。
 兄妹が暮らす場所の中心と全体を再びとらえ直す。

 四葉と鈴凛と兄がプロトメカ風の巨大雪だるまを完成させる。
 雪だるまの肩には四葉と鈴凛が乗っているのだが、おしりが冷えそうなのはともかく、完全に冬の光景である。スコップ片手の兄はほっと一息つきつつ頬に汗を浮かべており、妹達のために苦労する兄の姿がここにある。雪だるまの頭部は後から持ち上げられたのではなく最初から胴体の上にぺたぺた作られたのだとしても、その作業をする四葉達に地面から雪を補給する労力は、並大抵のものではない。ここで兄の顔が初めて登場するのだが、視聴者は兄のこの苦労をも同時に看取すべきだった。

 兄達のもとへ、他の妹達とミカエルが駆けてくる。兄と合流し、互いに賑やかに語らう妹達(白雪・雛子・ミカエル・鞠絵、可憐・亞里亞・咲耶、千影・衛・春歌、花穂・鈴凛・四葉)。
 兄を中心に集いつつ、妹達相互の関係も描かれる。ところで、冒頭での妹達4人ずつとここでの3人ずつとでは当然組み合わせが異なるのだが、それでも同じ面々が顔を揃えている場合、それは非常に強い結びつきを想定していいのだろうか。

 雪だるまを前に、一同整列して写真を一枚。左から鈴凛、春歌、花穂、衛、亞里亞、可憐、兄、雛子、咲耶、白雪、四葉、鞠絵(ミカエル)、千影。
 年少者の雛子が兄の手をとっているのはいいとして、同じく年少者の亞里亞を可憐が阻みつつ兄の腕をとっていることに注目すべきかもしれない。咲耶も兄に腕をからませている可能性がある(腕が隠れていて不明)が、いずれにせよ兄妹の相互関係を認めながらの可憐の戦いぶりがよく分かる。直前の場面でも、他の妹達と映像に収まりながら、兄のそばに次第に接近しているのだ。なお、もう一つの注意点として、衛が花穂に抱きついている。上述の4人組・3人組とも重ならないペアである以上、ここまでの妹達の組み合わせに深い意味を読みとろうとするのは難しいかもしれない、たとえ抱きつくほどに明確であっても。

 その写真の横に、スノードームの置物を置く可憐の手。
 冬の飾り物(第13話で店内の商品としてに登場している)を置くとき、兄妹は、おそらくその冬を越えて新たな春を迎えようとしている。季節は巡り、時は流れようとも、兄妹の絆は移ろうことなく結ばれている。「いま」の思い出をたえず積み重ねながら、兄と妹達は固有の絆を、そして妹同士の、兄妹全体の絆を、よりいっそう深く強くしていく。

 アニプリの主題歌映像で描かれる時の流れが、それぞれが兄妹になっていく過程によって示されていたとすれば、このリピュアAパートでは、繰り返される時の中での変わらぬ兄妹の絆によって示されている。この兄妹関係が原作のそれを踏襲していることは、妹達の単独登場場面での表情が一様に笑顔であること(妹の笑顔についてはキャラコレ挿絵考察の末尾参照)や、妹達の組み合わせがポケットストーリーズと同じく多種多様であることにも明らかである。本編でも視聴者が感じたその不変なありようは、しかし、冒頭の(可憐の言葉とカラクリによって暗示されていた)主題と組み合わされることで、はじめて本作品における役割を担うことができた。つまり、変わらぬ関係という一見静態的な兄妹像と、その中で繰り返される「再−浄化」過程とが一体のものとなるとき、視聴者は、本作品で描かれた兄妹像を初めて総体としてとらえ、本作品のシスター・プリンセス界における独自性(考察1参照)を正しく理解することができるのだ。


(2)特殊解釈

 上述の通り、論者のこれまでの考察に基づいてリピュアAパート主題歌映像を解釈したとき、そこに作品主題を確認することも可能となった。本考察の目的としてはこれで十分ではあるのだが、一方で論者は、既に補論1の末尾で、Aパートをアニプリと結びつけてとらえる視点を提起している。とくにその中の「4.(2)山田太郎の溜息」の節では、本作品がアニプリの兄妹によるドラマ、すなわち作中作品だった可能性について言及している。この仮説にしたがった場合、Aパートの主題歌映像はどのように解釈されうるだろうか。本考察を結ぶにあたり、最後にこれを検討してみよう。

 まず、この仮説が導く前提として踏まえておくべきは、リピュアAパートが妹達の保護者のために演じられたものである、という点である。第1話がプロミストアイランド演芸大会等向けに作られたとしても、これが全13話というシリーズ作品になったのは、妹達をここまで育ててきてくれた保護者にも観てもらい、兄妹が島での共同生活で培ったその絆の強さを感じて安心してもらおう、というじいや達の配慮による。それゆえ、主題歌映像も、この保護者向けに対する何らかの語りかけを含んだものと考えられる。それは例えば、保護者が育ててきた時期の妹(保護者にとってはおそらく娘)の姿と、島での共同生活を経た後の姿とをともに描き出すことによって、保護者への感謝の念と各人の成長を伝えようとするものではないだろうか。
 これに基づいてオープニング主題歌映像を振り返れば、妹達が一人ずつ登場する場面は、保護者の知るかつての子供の姿を彷彿とさせる。ほとんどの妹達は笑顔で映し出され、あるいは四葉のようにとぼけた表情を見せる者もいる。手元を離れた子供のことを心配していた保護者にとって、その子供の明るい表情には何よりも安堵感を与えられる。そして、いい意味での変わりなさをも感じ取り、離れてもなお断ち切れていない絆を見いだす。この安堵感があればこそ、保護者は、子供の成長し変化した姿をも積極的に受容できるようになる。例えば、亞里亞の単独登場場面が一見空虚な雰囲気に包まれているのは、お屋敷で暮らしていた頃の姿を投影しやすくするためであり、しかも同時に笑顔と光の差し込みによってその雰囲気を緩和している。この緩和は、冒頭で亞里亞と他の3人の妹達が路地裏に登場する場面でも、共同生活による絆の形成を予め暗示しつつなされている。そして、共同生活を通じて成長した亞里亞のより明確な像は、最後の場面で他の妹達とともに兄に向かって駆けていく振る舞いや、雪を手に豊かな表情を見せる仕草、年長者に優しく包み込まれる姿などに示されるのである。また、同じ年少者である雛子の場合は、兄におんぶされるなど亞里亞よりも幼い、より甘えた振る舞いが描かれている。これは年齢相応のものでもあり、保護者にかつての甘えん坊な彼女を思い起こさせるわけだが、一方で雛子の成長は、アニプリの頃よりも原作に忠実に従っているとされる彼女の身長によって、端的に示されている。それを見るだけで保護者は間違いなく「大きくなったねえ」と感嘆するに違いないのだ。
 そのような明瞭に過ぎる成長の証は、年長者については映像中にさほど見いだしがたい。ただ例外として挙げておくべきは、鞠絵の登場場面である。一連の単独登場場面の末尾、雪夜のトラムバスから降車する姿を見て、保護者は驚きを声をあげざるを得ない。長らく療養所で暮らしていたあの病弱な鞠絵が、なぜこのような寒そうな夜に出歩いているのか、と。この姿は、鞠絵が共同生活を経て獲得した身体の強さをこれ以上もなく伝えるものであり、かつての彼女の辛い日々を知る者だけが、ここにその素晴らしい成長のさまを看取できる。そして、その「健康な体」という身体的変化に重ねて保護者が見つめるものは、そんな鞠絵の心の強さであり、夜空を見上げる瞳と笑顔に輝く希望の光であり、それを与えた航という兄への愛の灯火である。また、冒頭と最後の場面で他の妹達とともにある姿は、その強さが兄のみならず他の妹達との絆の中で培われたものであることを物語る。そして、かつての療養所生活を支えてくれた者達への感謝の念は、療養所に似た風景の中で3人の妹達と一緒に微笑む鞠絵の姿から、沈黙のうちに届けられる。鞠絵に夜という時間が割り当てられた背景には、このような鞠絵自身の伝えたい想いが込められていたのであり、他の年長者に割り振ると意味深長になりすぎるためではないのだ。
 また、鈴凛は単独登場場面が存在せず、主題歌映像に限っていえば損をしている。これについては、本作品の撮影・編集全般にわたって彼女の尽力があったはずであり、保護者に届けられたフィルムにはじいやによってその旨記載されていたであろうこと、添付の説明パンフレットも旅行の手引きのごとく鈴凛が作成したかもしれないこと、そして何より、あの時計塔のカラクリがジジの作品かも知れないことを指摘しておこう。彼女の敬愛した祖父の作品が物語の中に登場し、とくに主題歌映像ではオープニングの冒頭はもちろんエンディングの全体にわたって映し出されているのを目の当たりにして、鈴凛の保護者は、祖父の魂を受け継ぐ孫娘の想いが、新たな共同生活で獲得した兄妹の絆の中に分かちがたく編み込まれていることに、気づかされることだろう。それは、兄や他の妹達と離れて暮らしていたかつての日々を決して捨て去ることなく、「いま」と結びつけて生きていこうとする、愛しい子供の姿を、間接的に、しかしまっすぐに、描ききっていた。航が、自分の東京時代という過去を忘れずに、島での日々とつなぎ合わせて、その向こうにある未来へと、妹達とともに歩んでいこうとするように(第25-6話分考察参照)。鈴凛をはじめとする妹達もまた、今まで胸に秘めてきたそれぞれの思い出をこれからは分かち合い、皆のかけがえのない過去として共有し、兄妹の手をともに携えて生きていこうとする。そんな彼女達の意志と、それぞれの過去への感謝が包み込まれたこの主題歌映像を、保護者達が見つめるとき、やがて彼らも子供の声に導かれて、共同生活の場へと招き入れられるだろう。兄妹が暮らすウェルカムハウスの調和は、かつてプロミストアイランドに行き渡り、そしてついにいま、島の外へと広がりゆく。オープニングで「誰よりも声が聴きたい」と、そしてエンディングで「君と生きていく」と奏でられるのは、兄妹の間のみならず、子供から保護者への、そして保護者から子供への、そんな感謝と希望に満ちた呼びかけなのだ。


終わりに 〜それが兄妹の響き〜

 歌詞の内容には触れないと初めに断っておきながら、最後に若干言及してしまったのは、2作品の主題歌がやはり歌詞や旋律も含めてアニメ版『シスター・プリンセス』の世界を視聴者に開示してくれていたことを、あらためて確認したかったからでもある。作品内容と主題歌とが映像以外で結びついていなかったり、あまりに「萌え」の表層に甘んじたりする作品・主題歌も少なくない昨今、このように主題歌が「主題」歌たり得た作品を視聴できたことを、論者は一人のファンとして幸せに思う。また、本考察で取り上げなかったリピュアBパートが、故岡崎律子氏による数多の忘れられない名曲によって完成されていることについては、論者があえて述べるまでもない。これらの歌やクリスマスの2曲、さらにBGM(黒鮫建武隊氏『どっかり鯨』「アニメ版シスター・プリンセス」アニプリリピュアサントラCD収録BGM使用場面一覧を参照)もあわせて、アニメ版作品は素晴らしい曲調に彩られて、その暖かな想いが紡ぐ世界を視聴者に伝えてきた。その歌声にファン自らも加わるとき、シスター・プリンセス界はこの現実世界と重なり、己のいのちにとけ込んでいく。そんな歌を響かせていこう、彼ら兄妹と共に生きていくことが、自らの運命であり、意志でもあるのだから。


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