キャラクターコレクションにおける妹の設定
〜分析枠組みの仮説的提示〜
はじめに 〜問題の視点〜
これまで論者は、シスター・プリンセスのアニメ版作品を考察する中で、アニメ版と原作やゲーム版との比較を行ってきた。とくにリピュアBパートについては、脚本元である原作キャラクターコレクションと対照させながら、アニメ版独自の解釈の内容を具体的に検討した。そこでは、アニメ版を通じての多様な解釈可能性が確認された一方で、その原点としてのキャラクターコレクションを再検討する必要性が指摘された(リピュア考察8参照)。
考察という机上の作業の結果として問題化されたこの必要性は、また同時に、実践的な意義も有している。熱心なファンによって開始された妹創造企画『シスター・プリンセス・メーカー』(以下シスプリメ)は、企画者・クリエイター諸氏の多様な活動を通じて、既に大きな広がりを見せつつある。その活動の多様性は、しかし同時に、参加者各人の意識の相違によって、それぞれが目指す創造の方向性を拡散させる危険性も有している。これに対して企画者側が提示した「原作準拠」という原則は、参加者間で一時期その内容をめぐる議論を展開させることとなり、これを通じて参加者は、各人の意識を相互に理解しながら、自覚的な「原作準拠」の内容究明に踏み出すための契機を得た。この努力はまた既に、企画者側からはガイドラインの設定やクリエイターへの指示などを通じてなされている一方、クリエイター側からは、各人のネオシスター創作そのものの中で意図的に、あるいは無意図的に試みられてきている。例えば、企画者の一人である26氏は、『Sister Freedom』内2003年12月25日分日記において、兄妹関係を中心とするシスター・プリンセスの基本原則をいくつか提示しており、これに基づくクリエイターへの指示は、U−MA氏『ナラルトホテプ』内にその具体的内容が掲載されている。
だが、それらは確かに「原作準拠」の最重要点をおさえているにしても、物語創作以前に必要な独自の妹(ネオシスター)造形についてはその過程の一切が公開されていないため、とくに妹の設定における「原作準拠」の内容は、ほとんど不明なままにされている。シスプリメが、原作の形式的模倣に始まり、「シスター・プリンセスらしさ」の探求とともに、原作には見いだせない新たな妹像の構築へと進みゆくはずのものであるならば、そのためにも、妹像における「原作準拠」の内容が、さらに明確化される必要がある。
本考察では、これらの問題を踏まえ、シスター・プリンセスらしい妹を構成する設定上の共通形式を明らかにするための準備的作業として、キャラクターコレクションにおける個々の妹像をいくつかの観点から対比することを試みる。これまでは属性や若干の性格特性によって理解されることが多かった妹達の背後に、「妹が兄を愛する」ことを基軸に据えたある共通の枠組みを看取することにより、「妹らしさ」のより包括的な把握のための手がかりが与えられるだろう。そして、キャラクターコレクションの各話構成がいかなる必然性に基づいているかも、妹の設定からその一部を説明しうるだろう。(なお、キャラクターコレクションの形式についての数値的調査と、挿絵についての考察も、後日公開した。)
1.外面と内面
人間は誰しも、外面的な「その人らしさ」と、内面的なそれとを有している。例えば、一見恐い顔で気性も荒っぽいが、実は内面では心優しい照れ屋という人がいる。あるいは、人当たりよく面倒見がいい人なのに、内心では凄まじく利己的で冷酷という場合もある。もちろん、外面と内面がほとんど一致している人もいるだろう。ここでは第三者の性質が重要な意味を持っているのだが、本節ではこれをさしあたり、読者から眺めた妹の表層的イメージと、その妹が普段は表に出さないような比較的深層の「彼女らしさ」として位置づける。ただし、夏葉薫氏が『四季折々のかおるさん』内2004年2月24日分日記で指摘するように、キャラクターコレクションの独白部分で示される妹の外面は、あくまでも独白にすぎず、第三者から見たその妹の姿を伝えるものではない。
キャラクターコレクションの巻末で、妹達はその全身像とごくわずかの説明文だけで読者に紹介されている。この最低限の基本情報から、読者はそれぞれの妹の個性を大まかに理解することになる(それ以前の既得情報はさておき)。これが外面的な性格特性であり、しばしば「属性」あるいは類型に単純化して理解されうる。これに対して、基本情報の中身を越えた要素が作品の中で示されるとき、それは独白や他者の目に触れない場所での振る舞いとして、そしてまた兄に対する秘められた想いとして、描かれることが多い。これが内面的な性格特性であり、これと外面的なそれとの力学が、妹達の個性を読者がどうとらえるかに大きく影響する。
外面と内面が大きく異なる場合、内面描写は、それが普段の外面とうまく接合しうるとき、読者にその妹の意外な一面を示す機会になる。そして、その意外性は、ほぼ間違いなくその妹の人格的な奥行きを増し、読者の思い入れを新たにさせる。この肯定的な作用の例として鈴凛が挙げられる。巻末・口絵での彼女の説明は、機械好きと調子のよさ(「資金援助」)を強調している。しかし本編では、第6・7話のジジ・メカ鈴凛話で彼女の日頃語らない兄への想いを綴り、いわゆる現代っ子な表層の奥に秘められたせつなさを伝えてくれる。ここで読者は、その意外な一面に驚き、そして兄にさえ隠されたその想いを知ることで、読者は一種の特権的な意識を与えられつつ、その妹をより身近なものとして受けとめるのである。ここで外面と内面の落差は、妹の性格全体が乖離してしまわない程度に対照的であるのが、最も効果的だろう。例えば鈴凛や衛は、積極的な明るくさばけた外面と、受動的にためらい涙ぐむ内面とを対置することで、意外な「女の子らしさ」を表現し、男性読者への訴求力を高めている。また、咲耶は「運命の赤い糸」を信じての積極果敢な行動と、時に不安に揺れる独白とを対置している。これらとは逆に、普段は頼りない妹がある場面では芯の強さを見せるという対置も可能なはずだが、キャラクターコレクションに限って言えば、どの妹もこれに該当しない。(ゲーム版やアニメ版では、例えば花穂が該当する。)
外面と内面がさほど違わない場合、妹の性格は意外性のない、「深み」に欠けた平板なものとして捉えられてしまいかねない。それゆえ、この場合の内面描写は、表層的説明の単純な反復にならないように留意する必要がある。例えば可憐のあくなき純粋さは、写真やピアノ、デートなど多様な題材を通じて、平手打ちにまで至るその表れ方を豊かなものにしている。また、雛子の幼児らしい一途さと寂しがりとは、やはり様々な状況や喜怒哀楽の起伏によって示されている。これらにおいては、読者は、性格特性の意外性によって引き込まれることはない(平手打ちは意外か)としても、一つの性格特性への徹底を、一種の「深み」として認識することになるのである。
このどちらの方策も明確に適用されていないとき、その妹の個性は平板化するか、あるいは曖昧なものとなる。例えば白雪の場合、第3話シュークリーム勝負でミナコの仕打ちに泣いて逃げ出すのみならず、班の仲間であるめぐみの勢いにも気圧されている。先述の夏葉氏の指摘にある通り、これは彼女の内気さを示すものであり、日頃の夢想癖や兄への積極性と対照させれば、内弁慶さとも言い換えられる。しかし、この対照性は、キャラクターコレクションでは白雪の自己認識などのかたちで明確化されておらず、この内面と外面とが乖離したままであるために、読者が白雪の「深み」に気づきにくくなっている。
2.特技と個性
ほとんどの妹には、何らかの特技がある(趣味もこれに含む)。それは、鈴凛の機械いじりのような専門的なレベルから、亞里亞の歌唱のような、ほとんど端緒についたばかりのレベルまで、様々な水準にある。これらの特技を兄妹関係において捉えると、対称的なものと非対称的なものの2種類があることに気づく。
対称的な特技とは、兄妹が共有し、楽しみをほぼ対等に分かち合うことのできるものを指す。例えば衛のスポーツは、現状では性差や年齢差によって不均衡が拡大しつつあるとはいえ、基本的には兄妹が共に参加してその楽しさを分かち合える。対称的な特技は、兄とそれを一緒に楽しむ親密な姿を描くことができる。しかし、兄にその特技を共有させることが必要なため、本来は具体的特徴をできるだけ排さなければならない兄が一定のイメージによって限定づけられてしまう。つまり衛の兄は、それなりに運動能力に秀でていなければならないわけだ。
これに対して非対称的な特技とは、兄妹の役割が同一のものでなく、相手の役割と入れ替わることができないものを指す。例えば可憐の場合、ピアノを演奏するのはあくまでも可憐のみであり、兄は彼女が演奏する曲をほとんど聴くだけの役割を担う。非対称的な特技は、兄とそれを共有しないために兄のイメージを限定せずにすむ。しかし、兄とその特技そのものを共に楽しむことはできない。つまり可憐の兄は、ピアノ演奏の技術などについて、つっこんだ関心を全く示せないのである。
ただし、鈴凛の機械いじりの場合には兄が作業を若干手伝うなど、この対称・非対称は必ずしも絶対のものではない。それでも、兄のイメージをどこまで限定しうるかによって、対称的特技の自由度は決まる。
一部の妹達においては、ある特技がそのプロフィールに明記され、キャラクターコレクション所収話の大部分で言及されている。このような妹を特技派妹と呼ぶことにする。(ゲーム版では主に若草学園に通う妹達がこれにあたることから、26氏『Sister Freedom』では「若草ユニット」と名付けられてもいる。)特技派妹の長所は、その特技によって固有性を明確に主張できる点にある。
しかし、この特技の利点は、逆に妹の描写にとって足かせにもなる。まず、その特技に直接関わる物語ばかりでは、妹の性格描写が一面的なものになりやすい。この場合、特技はいわゆるパターン的な「属性」に陥る危険性がある。次に、これを回避しようとして妹の意外な内面を独立に描写しようとすると、今度はその性格特性と特技とが乖離しやすい。これは、1.で述べた内面と外面の関係と似ているが、性格特性の場合はそれぞれの要素の結びつきを読者が「性格」という枠組みで捉えようとする意識を持ちやすいのに対して、特技の場合は、性格は性格、特技は特技とそれぞれ別個に把握しがちであるため、妹像は分裂しやすい。
この問題に対しては、まず、特技そのものの設定を工夫する方策がある。例えば、男性的な特技を妹に与え、その特技と普段のやや男性的な性格特性を一致させ、その一方でたまに彼女の女の子らしい側面を描くことで、「特技と個性」は「外面と内面」のずれが大きい場合と同様の図式に置き換えられる。また、その特技が発揮される状況や具体的形式を多様化すれば、これは「外面と内面」のずれが小さい場合と近似する。この特殊なタイプとして特技を複数与えるというものがあり、春歌の万能さがこれにあたる。
この設定と連関しながら、キャラクターコレクションでは、特技の二面性を描く方法と、巻全体の展開の中で特技と個性を対立させたのち結びあわせていく方法の、2種類を併用している。
特技の二面性については、例えば衛では一緒にスキーを楽しむ話とサッカーで落ち込む話とがあるように、妹の特技は、直接的に兄との絆を結ぶ展開と、一時的に兄との距離感をもたらす展開との両方を与えるものとして用いられている。それらはどちらも最終的に兄との関係をより強固にするにせよ、妹の様々な感情の揺れや行動を導く基盤となっており、特技を「属性」へと単純化してしまうことをも阻んでいる。
対立と結合については、衛の場合、第2話でスポーツをさほど前面に出さずに、彼女の心身における女性的成長のずれを描写する。これを踏まえつつ第3話では、衛の意外な女の子っぽさを強調し、読者が抱く衛像の内面的な「らしさ」を、スポーツという外面的な「らしさ」と対置させる。そして第7話では、球技を特技(スポーツ)の例外とすることで、スポーツという固有の絆の危機に悩む少女衛の姿を通じて、外面的な「らしさ」と内面的な「らしさ」を結びつけることに成功した。そこでは、女性的成長という衛の本質的問題はそのままに残しながら、彼女のスポーツへの困惑と兄との距離感を、兄が一挙に解消していることに注意したい。シスプリらしさの最重要点の一つは、兄との絆においてのみ、妹が個性と特技を結びつけられるということにある。
3.心と体
妹の心身の成長は各人の発達段階(女性性も含む)に即しているが、心と体の成長の度合いは必ずしも等しくない。
発達段階を大まかに分けてみよう。年少者の場合、心身は総体として未熟であるため、成長のずれはほとんど問題にされない。例えば雛子はほぼ幼児そのものであるが、多少おしゃまなところが見られる場面では、幼児らしい背伸びというかたちでのみ、心身のずれが示される。
年長者の場合、心身は女性として成熟しつつあり、それゆえの葛藤などは生じるにせよ、比較的しっかりした現実感覚や自己認識、そしてそれらを含む判断能力に見合った行動力を有する。ここでも心身のずれはあまり問題にされないが、逆にそれがないからこそ、妹の子供っぽさが現れる場面を描写することで、普段の大人びた態度が隠している未熟さや弱さを読者に強調することができる。
心身のずれが最も大きな意味をもつのは、年少者と年長者の間に位置するいわば年中者の妹達の場合である。思春期に入りかけるこの年齢期には、妹の体は第二次性徴を示しつつある一方、その心は未だ子供らしさを強く残しているかもしれない。体の成長が心の望む方向と一致しないという悩みは、衛が端的に示している。体の女性らしさに心が気づいていないという無自覚さは、お泊まりの日の可憐に見いだせる。あるいは、これらとは対照的に、妹が必要以上に大人びた態度をとろうとして、体がついていかないというタイプのずれもあり得る。白雪の「ムフン」はこれに該当するかもしれない。
ところで、心身のずれは、このような発達段階や女性性と関わるものばかりではない。体固有の、あるいは心固有の問題によって、ずれが不可避になってしまう場合もある。
体の問題の実例が、鞠絵の病気である。彼女は本来の成熟度に相応して年中者あるいは年長者の心を有しており、これに見合った行動をとりたいのだが、病に冒された体がそれを許さない。思いのままにならない体に鞠絵は苦しみ焦り、時には絶望を抱きかけて兄に癒される。キャラクターコレクションにおける鞠絵の弱さは、この兄のために何事も能動的になしえないという点において、決定的なものとなっている。そして、彼女の「兄のために」という欲求が抑圧されているという心身のずれが、鞠絵の性格特性の不可欠な一部となってしまっているがゆえに、彼女の病気を治すことは公式作品には不可能だった。ただし、現状でも兄のためにできることを、という意志や、それに基づく若干の代償行為は、最終連載やアニメ版などで描かれてきてはいるのだが。
一方、心の問題については、亞里亞の言動に精神発達遅滞を見出す者もいるが、これはむしろ彼女の過度に鋭敏な感受性として解釈すべきだろう。