キャラクターコレクションにおける妹の設定

〜分析枠組みの仮説的提示〜



はじめに 〜問題の視点〜

 これまで論者は、シスター・プリンセスのアニメ版作品を考察する中で、アニメ版と原作やゲーム版との比較を行ってきた。とくにリピュアBパートについては、脚本元である原作キャラクターコレクションと対照させながら、アニメ版独自の解釈の内容を具体的に検討した。そこでは、アニメ版を通じての多様な解釈可能性が確認された一方で、その原点としてのキャラクターコレクションを再検討する必要性が指摘された(リピュア考察8参照)。
 考察という机上の作業の結果として問題化されたこの必要性は、また同時に、実践的な意義も有している。熱心なファンによって開始された妹創造企画『シスター・プリンセス・メーカー』(以下シスプリメ)は、企画者・クリエイター諸氏の多様な活動を通じて、既に大きな広がりを見せつつある。その活動の多様性は、しかし同時に、参加者各人の意識の相違によって、それぞれが目指す創造の方向性を拡散させる危険性も有している。これに対して企画者側が提示した「原作準拠」という原則は、参加者間で一時期その内容をめぐる議論を展開させることとなり、これを通じて参加者は、各人の意識を相互に理解しながら、自覚的な「原作準拠」の内容究明に踏み出すための契機を得た。この努力はまた既に、企画者側からはガイドラインの設定やクリエイターへの指示などを通じてなされている一方、クリエイター側からは、各人のネオシスター創作そのものの中で意図的に、あるいは無意図的に試みられてきている。例えば、企画者の一人である26氏は、『Sister Freedom』2003年12月25日分日記において、兄妹関係を中心とするシスター・プリンセスの基本原則をいくつか提示しており、これに基づくクリエイターへの指示は、U−MA氏『ナラルトホテプ』内にその具体的内容が掲載されている。
 だが、それらは確かに「原作準拠」の最重要点をおさえているにしても、物語創作以前に必要な独自の妹(ネオシスター)造形についてはその過程の一切が公開されていないため、とくに妹の設定における「原作準拠」の内容は、ほとんど不明なままにされている。シスプリメが、原作の形式的模倣に始まり、「シスター・プリンセスらしさ」の探求とともに、原作には見いだせない新たな妹像の構築へと進みゆくはずのものであるならば、そのためにも、妹像における「原作準拠」の内容が、さらに明確化される必要がある。
 本考察では、これらの問題を踏まえ、シスター・プリンセスらしい妹を構成する設定上の共通形式を明らかにするための準備的作業として、キャラクターコレクションにおける個々の妹像をいくつかの観点から対比することを試みる。これまでは属性や若干の性格特性によって理解されることが多かった妹達の背後に、「妹が兄を愛する」ことを基軸に据えたある共通の枠組みを看取することにより、「妹らしさ」のより包括的な把握のための手がかりが与えられるだろう。そして、キャラクターコレクションの各話構成がいかなる必然性に基づいているかも、妹の設定からその一部を説明しうるだろう。(なお、キャラクターコレクションの形式についての数値的調査と、挿絵についての考察も、後日公開した。)


1.外面と内面


 人間は誰しも、外面的な「その人らしさ」と、内面的なそれとを有している。例えば、一見恐い顔で気性も荒っぽいが、実は内面では心優しい照れ屋という人がいる。あるいは、人当たりよく面倒見がいい人なのに、内心では凄まじく利己的で冷酷という場合もある。もちろん、外面と内面がほとんど一致している人もいるだろう。ここでは第三者の性質が重要な意味を持っているのだが、本節ではこれをさしあたり、読者から眺めた妹の表層的イメージと、その妹が普段は表に出さないような比較的深層の「彼女らしさ」として位置づける。ただし、夏葉薫氏が『四季折々のかおるさん』2004年2月24日分日記で指摘するように、キャラクターコレクションの独白部分で示される妹の外面は、あくまでも独白にすぎず、第三者から見たその妹の姿を伝えるものではない。
 キャラクターコレクションの巻末で、妹達はその全身像とごくわずかの説明文だけで読者に紹介されている。この最低限の基本情報から、読者はそれぞれの妹の個性を大まかに理解することになる(それ以前の既得情報はさておき)。これが外面的な性格特性であり、しばしば「属性」あるいは類型に単純化して理解されうる。これに対して、基本情報の中身を越えた要素が作品の中で示されるとき、それは独白や他者の目に触れない場所での振る舞いとして、そしてまた兄に対する秘められた想いとして、描かれることが多い。これが内面的な性格特性であり、これと外面的なそれとの力学が、妹達の個性を読者がどうとらえるかに大きく影響する。

 外面と内面が大きく異なる場合、内面描写は、それが普段の外面とうまく接合しうるとき、読者にその妹の意外な一面を示す機会になる。そして、その意外性は、ほぼ間違いなくその妹の人格的な奥行きを増し、読者の思い入れを新たにさせる。この肯定的な作用の例として鈴凛が挙げられる。巻末・口絵での彼女の説明は、機械好きと調子のよさ(「資金援助」)を強調している。しかし本編では、第6・7話のジジ・メカ鈴凛話で彼女の日頃語らない兄への想いを綴り、いわゆる現代っ子な表層の奥に秘められたせつなさを伝えてくれる。ここで読者は、その意外な一面に驚き、そして兄にさえ隠されたその想いを知ることで、読者は一種の特権的な意識を与えられつつ、その妹をより身近なものとして受けとめるのである。ここで外面と内面の落差は、妹の性格全体が乖離してしまわない程度に対照的であるのが、最も効果的だろう。例えば鈴凛や衛は、積極的な明るくさばけた外面と、受動的にためらい涙ぐむ内面とを対置することで、意外な「女の子らしさ」を表現し、男性読者への訴求力を高めている。また、咲耶は「運命の赤い糸」を信じての積極果敢な行動と、時に不安に揺れる独白とを対置している。これらとは逆に、普段は頼りない妹がある場面では芯の強さを見せるという対置も可能なはずだが、キャラクターコレクションに限って言えば、どの妹もこれに該当しない。(ゲーム版やアニメ版では、例えば花穂が該当する。)
 外面と内面がさほど違わない場合、妹の性格は意外性のない、「深み」に欠けた平板なものとして捉えられてしまいかねない。それゆえ、この場合の内面描写は、表層的説明の単純な反復にならないように留意する必要がある。例えば可憐のあくなき純粋さは、写真やピアノ、デートなど多様な題材を通じて、平手打ちにまで至るその表れ方を豊かなものにしている。また、雛子の幼児らしい一途さと寂しがりとは、やはり様々な状況や喜怒哀楽の起伏によって示されている。これらにおいては、読者は、性格特性の意外性によって引き込まれることはない(平手打ちは意外か)としても、一つの性格特性への徹底を、一種の「深み」として認識することになるのである。
 このどちらの方策も明確に適用されていないとき、その妹の個性は平板化するか、あるいは曖昧なものとなる。例えば白雪の場合、第3話シュークリーム勝負でミナコの仕打ちに泣いて逃げ出すのみならず、班の仲間であるめぐみの勢いにも気圧されている。先述の夏葉氏の指摘にある通り、これは彼女の内気さを示すものであり、日頃の夢想癖や兄への積極性と対照させれば、内弁慶さとも言い換えられる。しかし、この対照性は、キャラクターコレクションでは白雪の自己認識などのかたちで明確化されておらず、この内面と外面とが乖離したままであるために、読者が白雪の「深み」に気づきにくくなっている。


2.特技と個性

 ほとんどの妹には、何らかの特技がある(趣味もこれに含む)。それは、鈴凛の機械いじりのような専門的なレベルから、亞里亞の歌唱のような、ほとんど端緒についたばかりのレベルまで、様々な水準にある。これらの特技を兄妹関係において捉えると、対称的なものと非対称的なものの2種類があることに気づく。
 対称的な特技とは、兄妹が共有し、楽しみをほぼ対等に分かち合うことのできるものを指す。例えば衛のスポーツは、現状では性差や年齢差によって不均衡が拡大しつつあるとはいえ、基本的には兄妹が共に参加してその楽しさを分かち合える。対称的な特技は、兄とそれを一緒に楽しむ親密な姿を描くことができる。しかし、兄にその特技を共有させることが必要なため、本来は具体的特徴をできるだけ排さなければならない兄が一定のイメージによって限定づけられてしまう。つまり衛の兄は、それなりに運動能力に秀でていなければならないわけだ。
 これに対して非対称的な特技とは、兄妹の役割が同一のものでなく、相手の役割と入れ替わることができないものを指す。例えば可憐の場合、ピアノを演奏するのはあくまでも可憐のみであり、兄は彼女が演奏する曲をほとんど聴くだけの役割を担う。非対称的な特技は、兄とそれを共有しないために兄のイメージを限定せずにすむ。しかし、兄とその特技そのものを共に楽しむことはできない。つまり可憐の兄は、ピアノ演奏の技術などについて、つっこんだ関心を全く示せないのである。
 ただし、鈴凛の機械いじりの場合には兄が作業を若干手伝うなど、この対称・非対称は必ずしも絶対のものではない。それでも、兄のイメージをどこまで限定しうるかによって、対称的特技の自由度は決まる。

 一部の妹達においては、ある特技がそのプロフィールに明記され、キャラクターコレクション所収話の大部分で言及されている。このような妹を特技派妹と呼ぶことにする。(ゲーム版では主に若草学園に通う妹達がこれにあたることから、26氏『Sister Freedom』では「若草ユニット」と名付けられてもいる。)特技派妹の長所は、その特技によって固有性を明確に主張できる点にある。
 しかし、この特技の利点は、逆に妹の描写にとって足かせにもなる。まず、その特技に直接関わる物語ばかりでは、妹の性格描写が一面的なものになりやすい。この場合、特技はいわゆるパターン的な「属性」に陥る危険性がある。次に、これを回避しようとして妹の意外な内面を独立に描写しようとすると、今度はその性格特性と特技とが乖離しやすい。これは、1.で述べた内面と外面の関係と似ているが、性格特性の場合はそれぞれの要素の結びつきを読者が「性格」という枠組みで捉えようとする意識を持ちやすいのに対して、特技の場合は、性格は性格、特技は特技とそれぞれ別個に把握しがちであるため、妹像は分裂しやすい。
 この問題に対しては、まず、特技そのものの設定を工夫する方策がある。例えば、男性的な特技を妹に与え、その特技と普段のやや男性的な性格特性を一致させ、その一方でたまに彼女の女の子らしい側面を描くことで、「特技と個性」は「外面と内面」のずれが大きい場合と同様の図式に置き換えられる。また、その特技が発揮される状況や具体的形式を多様化すれば、これは「外面と内面」のずれが小さい場合と近似する。この特殊なタイプとして特技を複数与えるというものがあり、春歌の万能さがこれにあたる。
 この設定と連関しながら、キャラクターコレクションでは、特技の二面性を描く方法と、巻全体の展開の中で特技と個性を対立させたのち結びあわせていく方法の、2種類を併用している。
 特技の二面性については、例えば衛では一緒にスキーを楽しむ話とサッカーで落ち込む話とがあるように、妹の特技は、直接的に兄との絆を結ぶ展開と、一時的に兄との距離感をもたらす展開との両方を与えるものとして用いられている。それらはどちらも最終的に兄との関係をより強固にするにせよ、妹の様々な感情の揺れや行動を導く基盤となっており、特技を「属性」へと単純化してしまうことをも阻んでいる。
 対立と結合については、衛の場合、第2話でスポーツをさほど前面に出さずに、彼女の心身における女性的成長のずれを描写する。これを踏まえつつ第3話では、衛の意外な女の子っぽさを強調し、読者が抱く衛像の内面的な「らしさ」を、スポーツという外面的な「らしさ」と対置させる。そして第7話では、球技を特技(スポーツ)の例外とすることで、スポーツという固有の絆の危機に悩む少女衛の姿を通じて、外面的な「らしさ」と内面的な「らしさ」を結びつけることに成功した。そこでは、女性的成長という衛の本質的問題はそのままに残しながら、彼女のスポーツへの困惑と兄との距離感を、兄が一挙に解消していることに注意したい。シスプリらしさの最重要点の一つは、兄との絆においてのみ、妹が個性と特技を結びつけられるということにある。


3.心と体

 妹の心身の成長は各人の発達段階(女性性も含む)に即しているが、心と体の成長の度合いは必ずしも等しくない。
 発達段階を大まかに分けてみよう。年少者の場合、心身は総体として未熟であるため、成長のずれはほとんど問題にされない。例えば雛子はほぼ幼児そのものであるが、多少おしゃまなところが見られる場面では、幼児らしい背伸びというかたちでのみ、心身のずれが示される。
 年長者の場合、心身は女性として成熟しつつあり、それゆえの葛藤などは生じるにせよ、比較的しっかりした現実感覚や自己認識、そしてそれらを含む判断能力に見合った行動力を有する。ここでも心身のずれはあまり問題にされないが、逆にそれがないからこそ、妹の子供っぽさが現れる場面を描写することで、普段の大人びた態度が隠している未熟さや弱さを読者に強調することができる。
 心身のずれが最も大きな意味をもつのは、年少者と年長者の間に位置するいわば年中者の妹達の場合である。思春期に入りかけるこの年齢期には、妹の体は第二次性徴を示しつつある一方、その心は未だ子供らしさを強く残しているかもしれない。体の成長が心の望む方向と一致しないという悩みは、衛が端的に示している。体の女性らしさに心が気づいていないという無自覚さは、お泊まりの日の可憐に見いだせる。あるいは、これらとは対照的に、妹が必要以上に大人びた態度をとろうとして、体がついていかないというタイプのずれもあり得る。白雪の「ムフン」はこれに該当するかもしれない。

 ところで、心身のずれは、このような発達段階や女性性と関わるものばかりではない。体固有の、あるいは心固有の問題によって、ずれが不可避になってしまう場合もある。
 体の問題の実例が、鞠絵の病気である。
彼女は本来の成熟度に相応して年中者あるいは年長者の心を有しており、これに見合った行動をとりたいのだが、病に冒された体がそれを許さない。思いのままにならない体に鞠絵は苦しみ焦り、時には絶望を抱きかけて兄に癒される。キャラクターコレクションにおける鞠絵の弱さは、この兄のために何事も能動的になしえないという点において、決定的なものとなっている。そして、彼女の「兄のために」という欲求が抑圧されているという心身のずれが、鞠絵の性格特性の不可欠な一部となってしまっているがゆえに、彼女の病気を治すことは公式作品には不可能だった。ただし、現状でも兄のためにできることを、という意志や、それに基づく若干の代償行為は、最終連載やアニメ版などで描かれてきてはいるのだが。
 一方、心の問題については、亞里亞の言動に精神発達遅滞を見出す者もいるが、これはむしろ彼女の過度に鋭敏な感受性として解釈すべきだろう。

 以上のような心身のずれは、妹の理想的自己像と現実の自己像とのずれとして捉えることもできるが、この場合それは「内面と外面」のずれと近似する。ただし、その現実の自己像を突きつけるのが妹の自己認識そのものなのか、兄の言動なのか、それとも兄妹以外の第三者なのかという点には、注意する必要がある。多くの場合には、第三者に指摘された現実の自己像と、理想的自己像とのずれに妹が葛藤するとき、兄が妹をありのままに受け止めて解きほぐす、という展開となり、ここでも特技の場合と同様、妹の心と体が兄によって結びつけられている。しかし、そもそもその心身のずれこそは、兄への想いゆえに生じているのだが。


4.肉親愛と異性愛

 妹は皆、自分の兄を愛している。だが、その愛情の中身は、各人の個性や発達段階によって大きく異なる。これを本節では大まかに、肉親愛と異性愛に区分する。肉親愛は、主に年少者によって示される。例えば雛子にとって兄は保護者であり、自分の欲求を兄が満たしてくれることにほとんど疑いを持たない。異性愛は、主に年長者よって示される。例えば咲耶にとって兄は恋愛対象であり、独立した他者である兄に想いが届かないことに葛藤しつつその事実に向き合う。
 もちろん、原作の妹達全員がこれで単純に区分できるわけではなく、それぞれが両方の要素を混在させていたり、変化の過渡期にあったりする。衛は、自らの女性性に直面しつつあるのと軌を一にして、兄を異性として意識し始める最中にある。ただし彼女の場合、スポーツが対称的特技であるがゆえに、兄への想いは肉親愛というよりも「パートナー」という独特の言葉で表現される。これに対して、花穂も同様に兄を異性として見出しつつあるが、兄との関係が最初から対等でないため、基盤としては肉親愛である。鈴凛は「恋愛よりも兄弟愛」と自ら明言しており、年長者としては最も肉親愛に近い。春歌は兄に対してあからさまな異性愛を抱いているが、そこにはいわゆる恋愛特有の葛藤がない。
 兄に対する異性愛の萌芽は、主として、兄が妹のために振る舞う姿を通じて得られる。例えば、自分に触れる兄の掌が温かいことや、自分を守ろうとする兄の腕が意外に逞しいこと、自分への兄の語りかけの中に男性的魅力がほのめかされること、などである。そこでの妹の反応は、素直に喜んだり、どきどきしたりすることがほとんどである。また、それらの場面では肉親愛から異性愛への変化の契機が描かれるわけだが、逆に異性愛から肉親愛へという流れは、作品を支える兄妹関係を「終わり」に導くものであるために、キャラクターコレクションでは登場しない。
 また、妹の側が兄に対していかなる愛情を抱こうとも、兄の側から示される妹愛は、基本的に肉親愛の枠内にとどまる。これを越えるような想いは、兄のうちにあるのかもしれないが、キャラクターコレクションには全く明記されない。兄妹関係が相互の異性愛によって結びつくとき、それもまた一つの「終わり」を導いてしまうからである。もちろん、妹や読者が兄からの異性愛的振る舞いとして解釈することもできる曖昧な言動を、兄が示すこともある。例えば、咲耶が第3話で「義理」の兄妹という嘘をついたとき、兄はその話に思い悩むが、これは、実の兄妹でなかったという「事実」への困惑であると同時に、咲耶に対して今まで密かに抱いていた異性愛を公然と表明しうる機会を得てしまったことへの動揺なのかもしれない。ただし、これはあくまでも解釈可能性にすぎず、兄がそのような意識を有していることが確定してしまうような記述はない。基本的に、兄は恋愛にはオクテである印象を与えるからこそ、妹達は各人の兄愛に基づいて積極的な行動をとることができる。


5.過去と未来

 妹の現在は、言うまでもなく過去と未来との間に存在する。この過去と未来をいかに設定するかによって、つまり過去に兄といかなる関係にあり、未来にいかなる兄妹関係を期待しうるかによって、現在の妹の振る舞いは定められる。

 兄と一緒の過去・現在を所有し、未来も兄と一緒にいる自分を想定できる妹は、不変の兄妹関係を疑うことなくひたすら享受しようとする。これは年少者の特性として雛子や花穂に顕著である。また、より年長の妹であっても、過去の親密な兄妹関係の延長上に兄との結婚生活を想定する者は、このグループに属する。例えば白雪がこれである。ただし彼女の場合、マダム・ピッコリによって暗黙理にその不可能性が突きつけられており、そのことに気づかない白雪の純真さが悲劇的に際だたせられている。
 兄と一緒の過去・現在を所有するが、未来に兄との別離を、あるいは少なくとも現在の兄妹関係が維持できないことを想定する妹は、その危機意識に基づいて、兄と別れないための努力を示す。別離の最も明確な姿は、兄が他の女性と結婚するというものであり、これを想定する妹としては咲耶が最右翼である。より穏やかなものとしては、衛が兄のパートナーでいられなくなることへの不安を抱くことや、鈴凛が将来留学時に他の女性が兄を奪わないようにとメカ凛々を創造することなどが挙げられる。
 なお可憐は、兄と結婚できないことは自覚しているが、兄が他者と結婚することについては語らない。これによって彼女は、咲耶のように未知の第三者に対する嫉妬を抱くことなく、自分を女性として高めていこうと望むことが可能になっている。しかし、その一見穏当な意識の背後には、「世界の終わりの日」にも兄と一緒にいたいという、あるいは兄と結婚できないことを指摘する第三者を平手打ちするという、凄まじい切迫感が潜んでいることに注意しておきたい。

 兄と一緒の過去を持たず、現在に至り兄と一緒になれた妹は、その過去の欠落を埋め合わせる努力に邁進し、あり得べき未来を獲得しようとする。帰国子女である後発3人がこれにあたる。春歌は、過去に兄の存在を知った時点から兄との結婚生活を前提とした言動を一貫してきており、彼女の過去は、兄と共にいる現在と未来を支える諸資質を鍛錬・修得してきた時期として肯定的に位置づけられる。これに対して四葉は、理解者のいない孤独な学寮時代という過去と、兄という理解者かつ理解の対象がそばにいる現在とを明確に対照させており、過去の否定的印象とそこから脱出しようとする意志とが、現在の兄をチェキし、兄の過去を共有し、兄との絆を過去に遡って仮構しようとする努力を導いている。
 この両名に対して、亞里亞は、お屋敷暮らしという環境の中であまり自由に振る舞えずにいるために、過去のみならず現在も兄と一緒に共有し得ていないという距離感を読者に抱かせる。第2話での「兄がいればじいやは不要」とする彼女の発言は、そのような不満な現状を変革して理想的な未来を実現しようという想いの表れである。

 この亞里亞とは反対に、兄と一緒の過去を持ちながら、現在、あるいは未来までもが兄と別々という妹もいる。
 一人は鞠絵であり、かつて兄と一緒に元気に遊んでいた彼女は、発症を境に、兄と別れて療養所生活を送り続けている。この断絶の激しさは、ゲーム版で兄と昔一緒に暮らしていたことがあるとされる程度の他の妹達には、到底及びもつかない。そして、この輝ける過去と現在の残酷な対照が鞠絵の性格特性に深甚な影響を与えているがゆえに、その性格特性を「鞠絵らしさ」として保持し続ける必要のある原作では、病気の完治は永遠に先送りされるしかなかった。その一方で、未来は、再び兄と一緒の生活に戻るという希望と、このままの生活が続くかもしれないという恐怖と、現状の中でせめてできることをしていこうという「いま」への専念との間で、常に揺れ動いているのである。
 もう一人は千影であり、前世での兄との関係があまりに濃密に過ぎるために、現在の兄との関係は、たとえ日常的に接触しうる間柄だとしても、彼女に満足を与えられない。しかし、現世での千影の過去である幼い日々は、彼女に普通の兄妹関係における安らぎをもたらす。ここで、千影の過去は、前世過去と現世過去との二重構造になっていることに注意したい。前世過去は彼女を兄への強引なアプローチへと導き、現世過去は彼女を日常的幸福へと回帰させようとする。これらはそのまま未来像の二重性をもたらすものであり、そしてこの分裂を生起させつつ繋ぎ止めるのは、もちろん兄である。
 この観点からすれば、千影と亞里亞、あるいは鞠絵の「近さ」は、性格特性の類似性などによるものであるとともに、この現在における兄への「遠さ」をそれぞれが抱いていることによる共感的理解にも基づいていると考えられる。


6.第三者

 キャラクターコレクションは妹の独白として叙述されるが、その妹が世間でどのように認識されているかは、第三者の言動を通じてのみ読者に理解される。とくに兄がいない場所での妹の現実的自己像を描くさい、あるいはまた妹の社会性の有無などを示すさいに、この第三者からの相対的な視点が役立つ。
 第三者は、支援的第三者と批判的第三者、そして中立的第三者に大別される。ここでの「支援」「批判」とは、その第三者が意図的に妹の兄愛を支援したり批判したりせずともよく、妹の立場からみて、その第三者の存在や言動が、自分の兄愛を促進するものと受け止められるか、それとも妨害するものと受け止められるかで主観的に決定される。

 支援的第三者には、可憐のピアノの先生や祖母、花穂の母親や拾い子猫、白雪のマダム・ピッコリ、鈴凛のジジなどが含まれる。妹の想いを知ったうえでそれをよしと認める者もいれば、特技の教授や事物の授受などによって兄妹の関係を円滑にならしめる役割の者、兄への想いを深めるのに役立つ媒介的存在などもいる。
 ただし、マダム・ピッコリは、彼女から教わったお菓子作りの技能によって白雪が兄により親密になりうる一方で、彼女が暗示する妹の悲恋によって白雪の兄愛そのものは批判されるという、二重性を有している。これは、可憐の祖母にも一見当てはまりそうだが、可憐の場合は兄と結婚できないことを既に自覚しており、祖母のロケットが可憐をその自覚のうえで兄と分かちがたく結びつけているという点で、結婚不可能性の自覚のない白雪と決定的に異なる。

 批判的第三者には、綾小路、可憐の級友、竜崎先輩(ゲーム版では最終的に支援的だが)、サッカー男子、カエルの王様、ひばりちゃん、医者、カズくん、ミナコ、、翼ある存在、麹町、じいやなどが含まれる。妹の兄愛を正面から否定する者、妹の自己向上努力(それは兄のためでもある)を妨げる者、兄をめぐるライバル、妹の行動を制限する存在などである。ただし、いかに彼らが兄愛にとって否定的な振る舞いをとろうとも、それによって与えられた妹の悲痛は最終的には兄によって癒され、妹の兄愛をいっそう強化する足がかりとなることに注意したい。なお、いかなる第三者も、兄および妹の恋愛対象にはなり得ない。
 また、亞里亞のじいやは、亞里亞にとっては彼女の行動を厳しく制限する存在として受け止められているが、実際には、亞里亞と兄の関係を良好にならしめようとじいやなりに努力している(梅干しを食べさせるのは、好き嫌いをなくさせる躾であるとともに、兄の生活文化に亞里亞を慣れさせる試みでもある)。この報われなさは、ゲーム版では滅私奉公的に描かれ、リピュアAパートでは兄の配慮によって救済されているが、キャラクターコレクションではそのまま残されている。この印象や登場回数により、じいやは、他の批判的第三者の水準を超えた準レギュラー的存在となっている。
 このじいやという第三者は、しかし、なぜ必要とされたのか。それは、たんに亞里亞がお屋敷住まいであるがゆえの対処ではない。亞里亞の感受性が鋭敏すぎ、やや我が儘さを有してもいるがために、兄妹関係を成り立たせるには、じいやのような批判的役割を持つ者が不可欠だったのである。これを説明するには、キャラクターコレクションにおける兄描写の限界について、まず述べておかねばならない。

 キャラクターコレクションで兄の台詞が対話的に用いられることは、意外に少ない。これは、文章量の制約や物語技法の問題でもあるのだが、そのような表現形式上の事柄とともに重要なのは、兄に関する情報を限定している、という点にある。つまり、読者参加企画としてのシスター・プリンセスは、読者が兄に自己投影できるように、兄の具体像をできるだけ曖昧にしておく必要があった。妹に愛され、妹の想いに誠実に応えられ、妹のために何事かなしうるという「兄らしさ」以上の要素は、意識的に叙述されずにいたのである。そしてこのことは、兄視点のゲーム版や第三者視点のアニメ版はともかく、妹視点のキャラクターコレクションでは当然踏襲されている。
 このような兄の直接的描写の制限は、しかし、妹の性格設定によっては、きわめて困難になりうる。亞里亞の過度の感受性や我が儘さは、それ自体としては、一般にあまり好ましくない性格特性とされる。それらが亞里亞を問題行動に導いたとき、指導を行う役割を兄が担ったならば、兄は妹の心情を傷つけて兄妹関係に亀裂を生じさせるという危険を侵すのみならず、妹に働きかけるための言動をある程度具体的に描写されることになる。これでは、兄の情報を限定するというキャラクターコレクションの原則を逸脱し、結果として読者を兄から遠ざけてしまいかねないのだ。しかも亞里亞の場合、自分の誤った行動を自分で反省し修正することも困難である以上、その反省と修正を強要する役割は、兄以外の第三者が担わなければならない。それがじいやであり、彼女が亞里亞の言動に一定の制限を与えているからこそ、亞里亞の我が儘を兄が存分に受け入れられるのである。逆に言えば、原作では、兄描写に厳しい制限を受けていたために妹達への兄の積極的な働きかけが難しく、そしてじいやのような第三者を数多く登場させ難かったがゆえに、他の妹達にはさほど否定的性格特性を与えることができなかった、と言うこともできるだろう。

 このじいやのような準レギュラーや、サブタイトルに名前が挙がる(「ひばりちゃん」)ほどに重要な役回りでもないかぎり、第三者は、あまり多様な側面を示さない。最後に残った中立的第三者には、真理子や桂子など妹の友人、あるいは花火屋のおじさんなど世間の人々などが含まれるが、彼らは大抵この一面性が強い。



終わりに

 以上、キャラクターコレクションを対象に、妹達の設定のおおまかな枠組みを検討してきた。しかし、現段階での結果は、枠組みというよりは要素の一部を抽出したにとどまり、ここから「妹らしさ」を再構成することはもちろん困難である。これが可能となるためには、妹を個々に取り上げて、本考察で抽出された要素をもとに全体像を捉え直す作業が必要である。そして、これらの要素によっては把握できない内容や形式を、別の視点からあらためて検討することも、今後の課題として残されている。その一方で、ここで得られたいくつかの要素を視点として、現在創作されているネオシスター達について、その妹としての共通性を確認しながら、原作の妹にない独自性を明確化するという試みが、今後なされていくことになるだろう。


(2004年3月9日公開 くるぶしあんよ著)

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