アニメ版『シスター・プリンセス』序論

〜考察の視点〜



1.既存の視点

 本論では、アニメ版『シスター・プリンセス』(2001年4月4日-9月26日放映)全26話を考察するための基本視点を提示する。
 これにあたり、まず、既に数多く存在している本作品についての感想・考察・批評サイトを参照し、作品に対するその視点を類型化して検討する。言うまでもなくこれは、視聴者やサイト管理人の多様な視点・楽しみ方を否定しようとするものではなく、論者が明確な視点から考察を行うための基礎作業にすぎない。

(1)否定派

 アニメ版作品が、いわゆる原作とは大きく異なる設定に基づいて制作されていることは、例えば上海亭氏『12人いる!』「しすぷりファンダメンタリズム宣言」においてその内実とともに説明されている。ここで言う否定派とは、このような原作からの「逸脱」と言うべきアニメ版を、全くのイレギュラーとして扱い、その存在を認めないという立場を指す。公野櫻子による原作の繊細な描写、「お兄ちゃんの日」などに示される兄妹の微妙な距離感などをシスター・プリンセスの要諦ととらえるならば、確かにこのアニメ版における変更は改悪以外の何物でもないだろう。この立場に立つ代表的なサイトとして、先述の『12人いる!』を挙げたい。このサイトでは、アニメ版への理解ある解説が全話分提示されている一方で、やはりそのような改悪を真正面から批判すべく、原作を中心にすえたゲーム・アニメの位置づけがきわめて明瞭になされている。その批判によれば、アニメ版は「もうお話にもならない」ものであり、「ドラマとしては最悪の出来で、結末も破綻」している。アニメ版独自の設定の「必然性は皆無」であり、「ただスタッフが原作の本質を理解していないがために安易な変更を行ったのだと断定できる」。つまりここには、スタッフがシスター・プリンセスの何たるかを押さえずしてアニメ版を制作されてしまった、という視点がある。この問題について理解を深めるために、ガンダムにも造詣の深い氏の巧みな表現をそのまま引用しよう。

「喩えるならば、本物のガンダムは富野由悠季にしか作れないのと同様、シスプリの本質は公野櫻子にしか表現できないのである。もちろん、絵柄だけでなく性格も含めたキャラクター造形に与るところの大きいキャラクターデザインの天広直人もないがしろにできない。さしずめ安彦良和といったところか。これらに倣ってガンダムに置き換えると、TVアニメ版シスプリは『機動武闘伝Gガンダム』みたいなもんだ。Gシスプリ。
 だから、「シスプリはアニメしか知らない」というのは「今までガンダムって知らなかったんですけど『Gガンダム』でハマりました!いや〜ガンダムって面白いですよね!」というのと同義であり、そういう人がシスプリファンの大半を占めるようになっていく過程を手をつかねて見ているしかなかった私の気持ちも少しは察してほしいところである。
 ただ、Gガンダム自体はいい作品だったのであのシスプリアニメに喩えるのは申し訳ない気もする。そこで、「つまらない」「監督が途中で交代」「原作の設定まで台無しにした」など多くの共通点を持つ『MS第08小隊』である、と言いたいが、残念ながら比喩としてはあまり分かりやすくないかもしれない。 」

 ここには、雑誌連載開始時から原作をたゆみなく応援してこられた氏のシスタープリンセスへの愛情と、それゆえにこそアニメ版が許されざるものとして断罪されねばならない所以が、明示されている。そして、その上で氏が「私を含めた多くのファンがこのアニメの異常さを積極的に楽しんでいたのは事実」として、アニメ版それ自体を受け入れる寛大さを示したのは、後進のファンである論者も見習うべき姿勢として敬服する次第である。ただし、原作からの「逸脱」としてアニメ版を位置づける以上、その「異常さ」を楽しむことは可能であるとしても、原作無視としか思えないような表現描写に対しては、厳しい評価を下さざるをえなくなる。とくに千影ファンである氏の場合には、「TVシリーズ全話解説![暫定版]」における第18話の全面否定がこれを指し示している。

(2)肯定派

 これに対して、アニメ版の設定を原作からの「逸脱」ととらえずに、むしろ原作やゲーム版に対する独自性として肯定的に受け入れようとする立場がある。例えばナカイパト氏『パト通』では、「アニメシスプリ全メディア作品中最高説」が主張されている。おそらくアニメ版に関わる全サイト中では少数派と思われるが、これに論者が非常に勇気づけられるということを別としても、原作からの「逸脱」に留まらないアニメ版そのものの価値という視点は、非常に重要な意味をもつ。つまり、アニメ版を原作との距離においてとらえるのではなく、まずアニメ版それ自体として内在的に理解することで、先入観にとらわれずにこの作品を解釈できるようになり、さらにここから原作やゲーム版を振り返ることで、原作中心の視点からは得られない、原作への相対的視点を確保できるのである。ただしこの場合、共同生活などアニメ版独自の設定を肯定するあまり、今度は原作に忠実に見える描写が、アニメ版からの「逸脱」として否定的に認識されてしまうという可能性ももつ。

(3)部分的肯定派

 上述の2つの派ほどには態度を明確化せずに、アニメ版をそれとして楽しもうとする立場がある。(実は『12人いる!』や『パト通』をそれぞれの「派」に分類するのは一面的にすぎるのだが、比較の問題としてこのような位置づけを行っている。)例えばEVI氏『潮見工房』「アニメ『シスタープリンセス』雑記」では、アニメ版を楽しむための数多くのコンテンツとともに、「アニメ『シスタープリンセス』の楽しみ方」として、次のような視点が示されている。すなわち、「作画が低くても気にしない」、むしろその「B級テイスト」をこそ楽しむべきである。「元々世界観が破綻している」以上、「少々電波の入った不条理なストーリー&脚本」はむしろ積極的に歓迎される。そして、原作の踏襲をあえて避け、「センチジャーニーや、セラフィムのようにカタログ形式にしなかったのは高く評価」できる。なぜなら、アニメ版作品とは、主人公である兄の「航の心の成長の物語」であるからだ。このように、アニメ版独自の主題をとらえ、そこから解釈するという視点はきわめて重要であり、肯定派とも共有されるものである。そして、アニメ版の作画描写の酷さをある意味で突き抜けたものとして楽しんでしまおうとする態度は、否定派にも柔軟に受け入れられるものである。この楽しみ方を放映時にWebを通じて共有しようとする試みが2chでなされ、その豊かな内容は、世界氏『廃墟21』「実況戦記」や、可憐車氏『シスプリ保管庫』において確認することができる。しかし、このような楽しみ方は、原作からの「逸脱」さえも楽しんでしまおうとすることにより、「最初から『妹萌えアニメ』として見ない」(EVI氏)という、アニメ版のシスター・プリンセス性そのものを疑う地点にまで到達してしまいかねない。また、作品のB級さ加減を喜ぶことは、アニメ版そのものの真面目な検討を阻み、内在的な解釈をかえって困難にするという危険性をも持ち合わせている。論者自身このように楽しむ作品もあるのだが、しかし「考察」を行うさいに依拠すべき立場ではない。


2.本考察における視点

 以上の検討の結果、論者が依拠する考察視点は、基本的に肯定派に立ちつつ、次のようなものとなる。

(1)アニメ版をそれ自体で評価し、そのうえで独自の価値を明らかにする。

 これはまず、原作やゲーム版からの「逸脱」という視点でアニメ版を批判しない、ということである。原作やゲーム版とは異なる点は多々あるが、それは何らかの標準からの「逸脱」ではなく、アニメ版の独自性としてとらえる。これによって、本作品を妹萌え作品の一つのあり方として位置づけられ、またアニメ版の評価を著しく下げていた設定、つまり共同生活設定や山田太郎達アニメ版オリジナルキャラクターの意義を、初めて公平に検討することが可能となる。

(2)可能な限り、作品外部の論理ではなく作品内論理によって解釈する。

 作画の乱れ・誤りや脚本演出の不条理さについて、番組制作スタッフやスポンサーなど、このアニメ版に関わる外部の存在の都合(予算・時間の不足など)から解釈することを、できるだけ回避する。より正確に言えば、アニメ版は、与えられた制約下で誠意あるスタッフが最大限の努力のもとに制作したものととらえ、それ以上の判断を行わない。これは問題点を無視するものではないが、作品内の展開や人物描写については、可能なかぎり、作品内での人間関係や因果関係などの論理連関を用いて説明する。これは、安易な思考停止を防ぎつつ作品に内在して解釈するということであり、また論者が外部事情について疎い以上、これを基本的な判断材料にはできないという個人的制約もある。ただし、スタッフリストなど公表されている一般情報については、作品内論理の傍証としてのみ必要に応じて参照する。

(3)人物を単純化しない。

 一般に、アニメのキャラクターはその性格を類型化・固定化されやすいが、本考察ではこの立場をとらない。一人のキャラクターが異なる場面で矛盾する言動をとった場合、これを演出上の失敗としてではなく、その人間の複雑な内面性が露呈したものとして解釈する。これはたんに邪悪な可憐好きという論者の個人的性向によるものではなく、人物を単純な性格要素に還元せずに、多面的なものとしてより現実的にとらえようとする態度に基づいている。

 以上の3点を基本的な視点とすることで、論者は、このアニメ版を成長物語として仮説的に把握する。それは、先述のサイトでも既に述べられていた「航の成長物語」であるだけでなく、妹達の成長物語でもあるということを意味する。アニメ版が独自の設定をあえて行った背景には、兄である航の成長のさまを描くのみならず、兄と妹達の共同生活の中で、妹達もまた各人の問題を乗り越え成長していく姿を描こうとする意図があるのではないか。そしてその中には、妹達同士の不一致や対立なども生起し、各人が自分の中にある否定的な感情などをも自覚させられる場面もあることだろう。だが、そのような自己認識を受け止めたうえで、兄と他の妹達とともに互いに支え合い人間的に高め合っていくことこそが、アニメ版でしか描くことできない独自の主題なのではないだろうか。このような仮説に立脚しつつ、以下、アニメ版の各話について具体的に考察していくこう。

 なお、最後になったが、本文中で引用させていただいたサイトならびにここでは紹介していない数多くのサイトの管理者の方々には、様々なかたちで表現されたアニメ版への愛情を拝見することで、論者もまた自分なりの土俵の上で自らの愛情を形にしようという勇気を与えていただいたことに、深く感謝したい。


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