アニメ『シスター・プリンセス Re Pure』考察8

〜キャラクターズパートと原作の距離(後編)〜



はじめに 〜考察視点の確認〜

 本考察では、リピュアキャラクターズパート(以下Bパート)の前半6話を取り上げた考察7に続き、後半6話における原作との異同を明らかにする。また、シリーズ全体を通して、そこに存在する制作者個々人の解釈と全体構成の意味について検討することを試みる。


1.千影 (第9巻第1話「金色の果実」

 原作からの変更が最も大きいのは、咲耶とこの千影である。ただし、前者が原作テキストを保持しながら劇的な解釈を行ったのに対して、千影の話は明らかにテキストの大半を入れ替えている。しかもそれは、以下にみるように、原作からの逸脱を、必ずしも意味していない。

 第1話である原作では、まず千影から見た兄妹の基本的な関係のありようが、冒頭で次のように示される。自分が「兄くんを追ってこの世に生まれてきた」こと、兄妹は「求め合い、引かれ合う」ような「たった1つだけつながって、この世にしたたり落ちた血の雫」、「同じ魂を分け合ったモノ」であること(p.7-8)。兄が注意していなければ、「そんなに無邪気な生き物じゃない」2人にとっての本来の世界のことを思い出すように兄を「目覚め」させ、この世界から連れ出してしまうだろうこと(p.9)。ここには、オカルト的な血縁理解に基づいた兄への静かに狂おしい情愛が、これを実現しうる世界を求めて兄を振り回すという、一見するときわめて一方的な関係が描かれている。ただし、「私にさらわれてしまわないように」と語る千影は、小悪魔的というより悪魔的な欲望を兄に向けつつも、その兄の常識的という以上の「鈍感」さと、彼なりの妹への愛情ある接し方によって、兄が千影の手を逃れつつ、ぎりぎりのためらいをも妹に与えていることが暗示されている(p.8-9)。
 このことは、千影が「禁断の果実」を兄と一緒に口にする「贖罪の儀式」のために、兄を「隣の世界」の黒い森の中へ連れ込むという企ての中で明確化される。千影が生まれた日にここに植えられた「姫リンゴ」のメモリアルツリーには、1つだけ金色の果実が付いていたが、これは創世記の「禁断の実」そのものや北欧神話に登場するイドゥンのリンゴ(永遠の青春を約束する)を想起させる。千影に誘われるまま、魅入られるようにしてこれを口にした兄は意識を失い、千影は自分達が「罰せられる運命」であることを予感する(p.10-14)。千影も決意してリンゴを口元に運ぶが、「無心な子供」のような顔をした「なにも知らない」兄を連れて行くことに躊躇した結果、いましばらくは現実世界に留まるべくそのまま帰ることにした。そのさい千影は金色の果実を持ち帰り保存するが、それはいつの間にか「完全な形に戻っていて」しかも赤い普通のリンゴになっていた(p.15)。そして兄はといえば、「夜露に濡れて」森の中で置き去りにされていた(p.16)。兄も災難だが、ここでは、千影が兄を導いた「隣の世界」がそのまま現実世界と重なっていること(それゆえ千影による現実世界の独自解釈なり妄想なりとして読むことも一応不可能ではないこと)、そしてどうにも付き合いのいい兄の意志ではなく、その無垢な存在としてのあり方が、千影を実行寸前で思いとどまらせていることが分かる。この寸止め感覚は例えば咲耶にも共通のものだが、千影の血の背徳性は、兄を独占するために現実世界や兄の主体性をも否定しかねないという崖っぷちまで迫りくる(原作第7話)。

 さてBパートでは、この原作を大幅に組みかえながら、千影の兄への想いのみならず、それに対する兄の想いをも描いている。つまり、原作が兄をほとんど受動的な存在として示していたのに対して、兄の主体性を示す翻案を行うことで、この独特な兄妹関係のありようを双方向的に描写し得ていると考えられるのである。
 冒頭で映し出されるステンドグラスには、リンゴの木、白い花、そして黄金のリンゴの実。その頂上の(シスター・プリンセスのロゴである)ハートは薄黒く、本来の赤色を未だ与えられていない。これは千影の心の状態を、つまり兄からの愛情に飢え、自分の地上世界での生命を見失いつつあることを暗示している。荒れ果てた冥い森の中を急ぎ通り抜けていく千影の焦燥は、覆い隠されもせずに唇から漏れ出る。やがて到着した小さな丘に立つメモリアルツリーは、彼女が生まれた日に「兄くんが植えてくれたリンゴの木」という、原作とは異なる(少なくともより詳細な)説明が与えられている。回想場面では、兄が手ずから植えるその横には、幼い千影の姿もあるのだ(ここで登場する幼い千影がウサギの髪飾りをつけた姿は本編独自のものではなく、Aパート第5話と共通であり、またそもそもキャラクターコレクションp.25,66,73で既に描かれている)。メモリアルツリーといえば、当人の出生したまさにその日に親族の手で植えられたものが一般的だが、本編では、幼少の頃の千影の誕生日に植えられたことになる。
 このような改変は、原作では千影の性的成熟や破戒への意志を象徴していたメモリアルツリーに、より豊かな意味を付与することになった。まずそれは、兄が千影の誕生日を祝ってくれた嬉しい思い出のよすがである。次に、千影にとっては、ここに植えられた兄妹の絆がやがて「結実」することを約束するものである。しかしこのような認識は、この木を植えながら「千影ちゃん誕生日おめでとう、おいしいリンゴができるといいね」と無邪気に笑っていた兄の即物的な理解が及ばないものであり、それゆえに千影は、兄のその無垢さと無理解を「いつだって兄くんはそうだ…。」と愛憎半ばに思い起こしている。つまり第3に、この木は兄妹特有のずれを指し示すものである。
 さらにこの木の周囲の状況をあわせて捉えるならば、もう1つの意味がそこに現れる。メモリアルツリーのそばには大木が立っているが、それはかつての瑞々しさを失い、いまや傾ぎ枯れ果てている。これに限らず陰鬱な森の情景は、その中でただ1本だけ花をつけ実を結んでいるメモリアルツリーと対照をなす。これはまず、兄を求めるその想いがあまりに満たされない千影の飢餓感と、これを救う唯一の希望がこの絆としての木にあることを示す。次に、それとは全く逆に、兄を求める想いのために他の一切を犠牲にしてしまっているという千影のもう一つの姿をも具現する。さらに、この木を囲む柵の存在は、千影の他を省みない欲望がこの想いまでをも飲み込んでしまうという危険性から、千影自身がこの大切な想いだけは清らかに守り抜こうとする真摯さの表れであり、しかし逆に捉えれば、他の一切を排除するための、場合によっては兄の意志さえも排除するための、否定的な心の壁でもある。
 黄昏の空、手を繋いでいる幼い兄妹、その繋がれた2人の手を映す黄昏色の果実。それらは重なり合いながら、千影のこのような逆説的な心の姿を指し示し、そして「私と兄くん、二人だけの世界へ行く禁断の果実」として、兄の意志に関わらず兄を独占し、現実世界を否定し、時間の流れも想いのずれも存在しない場所へと兄を拉致しようとする彼女の切迫した決意を如実に描いている。兄の寝室に侵入した千影は上着を脱ぎ、ベッドで寝ている兄に静かに近寄り、「兄くん…おいしいリンゴができたよ…。」と一口齧る。このリンゴは、兄が自分の意志で妹のために植えてくれたものであり、それゆえ兄と自分との絆を永遠に確証するものでなければならず、そしていまや一緒に禁忌を突き破ろうという誓約の印にほかならない。
 だが、この果実を兄に差し出したそのとき一陣の風が部屋を吹き抜け、サイドテーブルに置いてあったメッセージカードが千影の視線の先に落ち、そこに記された「Happy Birthday Dear Chikage」との文字を月明かりが照らし出す。思わず目を上げれば、サイドテーブルにはさらに、おそらく千影にプレゼントするつもりらしい(これにもHappy Birthdayの文字あり)、赤いリンゴを持って寄り添う2羽のウサギの置物。リンゴを持つ男の子ウサギの頬に女の子ウサギがキスをしようとしているその姿は、直接的には、2羽のウサギが幼い千影の髪飾りを、その手に持つリンゴはメモリアルツリーの果実を、そしてキスは兄への愛を指し示す。そして冒頭のステンドグラスを思い起こせば、千影が求めてやまないリンゴのごときハートとは兄の中にあるはずの自分への想いであり、いまここで「贖罪の儀式」を行おうとしている彼女は、兄に永遠への「目覚め」を約束する象徴的な接吻を行おうとしていることになる。

千影「兄くん…覚えていてくれたんだ…。嬉しいよ…。」

 金色のリンゴを胸に引き寄せて抱く両手が、震える。ここにこそ、原作には明記されていなかった兄の妹への想いと、それを受け止める千影の心の揺れが描かれている。幼い頃の兄と自分の姿を思い出すとき、千影はその思い出の中にも眼前の寝姿にも、「どこまでも優しく、どこまでもあどけなく、どこまでも純粋」な兄を見出す。それでも本懐を遂げようと、「兄くん…私を困らせないでくれ…何も言わないで連れ出すのをためらうじゃないか…。」と葛藤しつつも、再び金色のリンゴを前に差し出す。その瞬間に黄金のリンゴが輝いたのは、儀式の極点を示すものなのか、それともこの果実が本来象徴するところの兄妹の絆を正しく結びなおす力の発現なのか。ここで兄が寝言で呟いた一言を耳にして、千影は衝撃に目を見開き、果実を床に落としてしまう。その衝撃は兄の一言が「かれんちゃん…」などであったためのものではなく、千影が聞きたかった、そして聞けるとは思ってもみなかった言葉だからこそのものだが、これによって千影は、昔と変わらず純粋な兄の、その心のうちにも、やはり何ら変わることのなかった自分への愛を確認できてしまったのである。
 そして、落とした金色のリンゴは赤い色に変わる。求めていた永遠の世界への鍵である必要性を失ったことによって、また千影が本当に求めていた兄の愛を、兄らしい健全さではあれど見出せたことによって。ハートの色を得たリンゴは、メッセージカードが風の悪戯に失われないようその上に置かれ、千影は「フッ…今日はやめておくよ…。」と兄の唇を指でなぞり、「急ぐことはない…。」と退室する。自分への愛の持ち主である兄に指先で接吻し、こうして千影と兄の相互贈与は置物のウサギたちのそれと確かに一致した。

千影「でも兄くん、いつか必ず、捕えてみせるよ…。
   そして、いつか必ず、自分からこの実を欲してくれることを、願っているよ…。」

 冥い森、木々の上に輝く満月を見上げる千影。その月がステンドグラスと重なるが、それはしかしグラス上の黄金のリンゴと、未だ彩られないままのハートのいずれをも選びえていない。千影が求める狂おしい愛は兄のうちになお見出せず、欲望は完全には満たされていないままにある。それでも今宵は、兄が昔と同じように自分に差し伸べている手のひらを感じられたのであり、兄妹の手はこれからもメモリアルツリーとともに、この現実世界で成長しゆく2人を変わらずに繋ぎとめていくのだろう。エンディングの最後に描かれる、幼い兄に抱かれてはしゃぐ小さな千影の姿は、そんな今の千影の心の中に蘇り、木の柵を越えて、枯れる森を少しずつ癒していくかもしれない。あるいはまたその姿は、あんなファンシーなアイテムを兄からプレゼントされることに心浮き立つ千影のこれまたファンシーな乙女心をも暗示しているのかもしれないが。そう考えると、もしや「贖罪の儀式」とは、妹の誕生日のお祝いを忘れていそうな「罪」な兄への千影なりの報復だったのだろうか。まさかとは思うが、しかしゲーム2で何だかんだと理由をつけて兄とケーキを食べていた姿を思い起こせば、それでもいいかという気もしてはくる。

 以上見てきたように、千影の行動を阻止するものを、外在的な禁忌や千影自身のためらい(兄の無垢さに由来するものの)から、兄の想いそのものに置き換えることで、本編は原作の千影を逸脱しないままで、そこに描かれなかった兄妹のありようをも表現しえている。それは例えば、キャラクターコレクション第7話の続きとしても読み替えることのできる内容なのだ。原作を大幅に翻案しながら逸脱せず、さらに原作を補完するという、優れた解釈がここに示されている。演出・絵コンテ・作画監督の追崎史敏氏は「全体の流れとかよりも、とにかく一枚絵にとことんこだわってみようと思いました」(『ビジュアルブック』p.56)と語っているが、論者は「全体の流れ」についても肯定的に受け止めるものである。また千影の脱衣については議論があるが、論者はこのあからさまに性的な場面からよりも、血のモチーフや接触などに込められる千影の背徳的なエロチシズムが、密やかに描かれていたことに注意したい。
 それにしても本編は、幼い千影と今の千影とを巧みに組み合わせて演出していたが、じつはここには一つの落とし穴がある。回想場面や最後のカットでは、幼い千影は顔を赤らめたり無邪気な笑顔をみせたりと、いかにも今の彼女とは異なり、いわゆる普通の幼女だったかのようにも受けとれる。『オリジナルストーリーズ』(p.85)で、子供達の輪の中に入れずに寂しがっていた幼い千影が描かれているのも、このことを確かに裏付ける。だが、キャラクターコレクション第6話を読めば、ウサギの髪飾りをつけた千影にはそのような子供らしさがあるだけではなく、今の彼女に直結する性質も既に現れていたことに気づくに違いない。願いを3つかなえてくれるという「小さな王様」に、幼い千影はすぐさま「あにくんをちかのものにしてください!」(p.71)と答えたのだ。三つ子の魂百まで。兄の手で植えられたメモリアルツリーと同じように、千影の想いもはるか昔に芽吹いていた。あるいは現世の彼女がこの想いを自覚したのは兄の手で木を植えられたときだったとすれば、生誕日以来のものでないメモリアルツリーとは、まさに千影のこの意味での新生を記念し、この想いとともに時を歩んできた存在なのかもしれない。


2.四葉 (第11巻第1話「壊れたユニコーン」

 大地丙太郎氏演出ということで『フルーツバスケット』が引用されることがあるが、論者は未見のためこれに言及しえない。アニメならではの表現としては、DVD用全体オープニングで四葉に付された「dance」という言葉の通り、彼女のめまぐるしい動き(とりわけ回転運動)がよく描かれており、またそれほど目立つ運動でなくとも、例えば彼女の期待や不安が歩き方や顔の上げ方にくっきりと示されていることには注目したい。四葉の個性である内面的不安と外面的積極性の対比は、これらの動きの中で、さらに作画監督の山本佐和子氏が四葉の体型を非常に華奢に形作ることで、少女期特有の危うい均衡を忍ばせながら生き生きと描かれていた。
 そして本編では、 この活発な運動を描き入れるための原作改変を、最小限度に留めている。例えば、兄の自室をチェキするさいに、体ごとぐるぐると回転させながらあちこち物色する場面では、ベッドや日記などよりも前に、原作同様(p.12)まず本棚に虫眼鏡を向けている。キャラクターコレクション第6話では、イギリスでのプライマリースクール女子寮生活に馴染めなかった四葉が「探偵のお勉強」(p.71)には熱心だったことが記されているように、彼女にとって読書とは、束縛の強い環境の中で生来の想像力を満たし、まだ見ぬ兄との絆を予感させてくれる重要な行為だった。つまり兄の本棚をチェキするとは、兄の興味関心や知的傾向を探ることに加えて、読書歴を確認することで離ればなれだった時期の兄をうかがい知ることでもあり、もしそこに自分が持っている本や自分の本棚と似たような傾向があれば、やはりお互いを向いていた兄妹のまなざしを、そこに感じ取ることができたはずなのだ。原作ではこの本棚に直ちにユニコーン像を発見しているが、本編では机の上にこれを見つけるまでしばらく活発なチェキが続けられており、アニメとしての翻案が原作の含意を消さないままで、画面を活性化していることが分かる。

 この一方で、原作からの最大の変更点としては、兄の自室に置いてあるボーンチャイナのユニコーン像についてのものであり、原作では後ろ足をその場で四葉がうっかり折ってしまった(p.14)のに対して、本編では以前に折られていた前足を修理された跡があるということが挙げられる。
 原作の第1話にあたるこの話は、「コレから新しい学校に通わなくちゃいけない」(p.7)とあるように、ゲーム版『シスター・プリンセス』冒頭で描かれた(四葉を含む)帰国子女組3人と兄の出会いと交流に、続くべき内容となっている。「とっても仲良しの兄妹なんだけれど、ずぅーっと離ればなれで育ちました」(p.8)と語るとき、四葉は兄との絆を自明のものと思いたい一方で、「これからは、目の前にいる兄チャマをいっぱいいっぱいチェキして、離ればなれでいた分を取り戻して…ホントのホントに仲良しの兄妹になるの」(p.9-10)と、その絆が未だ十分なものではないことを自覚してもいる。だからこそあらゆる機会をとらえて兄をチェキしなければならないのであり、そこに見出される一切の喜び、驚き、偶然は、それを見出す過程そのものとともに、兄と自分とを結びつけるよすがとなる。
 そしてユニコーン像は、兄がいきなり姿を消してしまうという状況の中で、それはそれで「大チャンス到来」(p.12)と前向きに兄の部屋をチェキする中で発見される。それは、四葉が幼い頃から持っていたものと瓜二つで、四葉が手に取ろうとして落としてしまった結果、その後ろ足は折れたものの、裏に書かれた「四葉2歳のお誕生日に」という文字を見つけて驚く。「これってきっともしかしたら…。うぅん…チガウ、これはきっと絶対に、このユニコーンは兄チャマがくれた…遙か遠く日本からやって来た兄チャマからの贈り物だったんだ…。」(p.16)と断定する四葉は、それがあるいは日本の兄とイギリスの自分とに大人が別々に贈ってくれたものである可能性など、全く斟酌しない。「なんだか四葉を守ってくれるみたい」(p.15)な気がしていた以上は、それは兄からの贈り物でなければならず、「四葉がゼンゼン知らなかった兄チャマの気持ち」をここにチェキできるのであり、こうして「ホントはずっと前から、つながっていたんデスね」と納得することができた(p.16)。そして、もしもこれが兄からの贈り物でなかったとしても、四葉は自分が壊してしまったユニコーン像の代わりに自分のを持ってくるつもりであり、そのときには「その頃の話」を兄から聞かせてもらおうと思っている(p.16)。ここに至れば誤解はもはや問題ではなくなり、ユニコーン像を媒介にして、兄の過去を知る契機が与えられ、四葉は「離ればなれでいた分を取り戻」し兄との絆をいっそう強く結ぶという目的を果たすことができるはずなのだ。つまりこの原作では、四葉が今の兄と行き違い、もしかしたら過去の兄とも行き違っている可能性があるにもかかわらず、それらを自覚的あるいは無自覚的に前向きの力へと転化し、その行き違いを目的に適うものにしてしまうという、四葉のつよさが描かれているのである。

 これに対してBパートでは、ユニコーン像は、四葉自身が忘れていた一つの記憶を思い起こさせる手がかりとなっている。幼い頃に自分のユニコーン像の足を折ってしまって泣いている四葉に、兄が自分のと交換してくれたという記憶を。本編のユニコーン像の底部にただ「よつばちゃんへ」とだけ記されていたこと(原作の漢字交じり文よりもこちらの方が幼い兄らしい)や、幼い四葉の頭身などを見ても、原作が「2歳」と限定することで四葉の記憶不可能な過去であることを示唆しているのと比べて、本編は明らかに四葉の記憶を確定的なものとして突きつけている。この場合、やはり四葉は兄との絆を過去に発見するものの、それは自分が知らなかった兄の気持ちに向ける想いだけでなく、自分が忘れてしまっていたという事実への意識をも喚起してしまう。ここで自分の内面へと過度に踏み込んでいったならば、それは原作の四葉を逸脱していってしまっただろうが、「四葉と兄チャマの2人だけの秘密ができました」という本編独自の独白を挿入したことで、それは未然に防がれている。つまりこの挿入句は、ユニコーン像で暗示された四葉の内面への意識を、そのままにとどめず兄との絆の中へと開放するために、必要だったのだ。また、イギリスにて兄の存在を知らされた彼女が驚くとともに「もう世界中の人ぜーんぶに、『四葉には兄チャマがいるんだぞー』って叫びたくなっちゃうくらい」嬉しくなった(p.8)という原作の一節が削除される一方で、「会えなかったときも、四葉の寂しい気持ちを兄チャマだけが埋めてくれた」という、原作第6話(p.71)相当の独白が追加されているのも、キャラクターコレクションに示された四葉という妹を包括的に描き出そうとしたことの表れだろう。その結果、四葉の破天荒な快活さのみを強く求めていた視聴者には(主題歌の軽快な曲調を除いては)肩透かしをくらい、また原作第1話で示された無自覚なつよさはやや不明瞭になってしまったのではあるが。
 ただしこのことについては、本編の四葉もまた、兄が自分のユニコーン像と取り替えてくれたという望ましい「記憶」を今まさに創り出したのだとすれば、原作と同様の展開となることに注意しておきたい。原作に示された四葉の「怪我の功名」的な特性は、その場合、いま折ってしまったユニコーン像によって発揮されるのではなく、幼少期の過失を逆転するかたちで、ここに現出することになる。もしも「人間万事四葉がユニコーン」という諺があるならば、確かに10年くらいの時間差があった方がそれらしいのかもしれないし、別々に贈られたはずの兄のユニコーン像の裏面に「よつばちゃんへ」という文字がどうして記されたのかは、四葉と兄が解決すべき楽しい難問になるのかもしれない。

 なお、本編については既に、曽我十郎氏(『R.S.T』2002年11月21日分)が、原作における四葉の不安や寂しさをより重視する立場から、対照・検討を行っている。「幸せな四葉に置いてけぼりにされたほうの四葉の気持ち」をすくい上げる氏の見事な考察を参照していただければ、論者がここに述べた内容の多くは蛇足と理解されるだろう。


3.春歌 (第10巻第6話「揺れる想いを短冊に」

 「日本で最高レベルに作画の力がある」(『ビジュアルブック』p.78監督談)平松禎史氏が演出・絵コンテ・作画監督を務めた本編は、放映当時、他の話にも増して視聴者を圧倒した。Bパートの各話を評価するさい、この春歌の話を批判する声はついぞ聞かれない。音楽との調和はもはやこの話に限らず当然として、雨の効果や脚線、そしてとりわけ春歌の身のこなしについては、にっち氏『電脳御殿』2002年11月28日分)に詳述されているように、日本の女性としてのそれ、つまりは平松氏が留意した「日本(=兄君さま)への憧れと、祖母から教わった”日本女性”らしさ」(『ビジュアルブック』p.62)が、見事に描写されている。(浴衣の着付けの場面は、論者のアニメ視聴史においては『プロジェクトA子2』で魔神英子が水着に着替える場面と双璧をなしている。)
 それでもなお原作との相違点を確認すれば、まず何よりも、原作では雨が全く降っていないことを指摘しなければならない。この変更は、雨そのものの描写があまりに美麗であること、また春歌の心情が天候の変化と重ねて巧みに描かれていることなどによって、アニメ独特の改善点として理解することもできる。しかし論者はここで、この翻案によって原作の主題の一つ、すなわち春歌のある感情の推移が、不明瞭になってしまっていることをあえて述べることにする。

 春歌の感情の起伏は、「最初はもっと、おきゃんな感じ」だったのが本編では「意外としっとり」としていたという宮崎なぎさ監督の感想(『ビジュアルブック』p.78)にも見られるように、Bパートでは話全体を通じて原作よりも穏やかなものとなっている。(『ビジュアルブック ストーリーズ』p.55では、春歌の声優のかかずゆみ氏も「最近、おとなしい気がするんですよね」と述べているが、これはBパートのみを指した言葉ではないだろう。)それでも、当初はおしとやかにしていた春歌が金魚すくいについはしゃいでしまう姿(p.74-5)は、射的などの場面を増やすことで原作よりもやや強調されており、また(原作にはない)お参り後で「な・い・しょ」と笑う仕草のお転婆加減や、兄を待つ間の「ああーッもうどうにかなってしまいそうです、ポポッ」がアニプリ第17話も及ばない最強の「ポッ」であるなど、この面での春歌らしさはアニメに相応しく集中的に描かれているとも考えられる。
 だが、原作と対照してみたときに、春歌の感情描写は次の2点で根本的に変更されている。
 まず原作では「催涙雨」(原作でもこのように誤記している)が七夕に多いという事実に「なんだか怒ってしまいましたわっ!」「断固、職女星さまを応援することに決めたんです!」(p.69)と義憤にかられる箇所が、本編では(「催涙雨」への言及以外)完全に削除された。じつは原作の春歌は、「応援することに決めた」結果、「兄君さまとワタクシの幸せが…2つのお星さまにも届きますように」という理由で「2人だけの七夕のお祭りをすることにした」のであり、この思考過程には、兄と自分との結ばれを確定的なものとしてのみ理解している彼女の強引な純粋さが示されている。しかしBパートではこの部分を削除することで、兄を巻き込んでいく「春歌らしさ」のこの一面を、さほど強調せずにおいている。
 そしてまた、この「おとなしさ」は、春歌が自分で縫い上げた新しい浴衣をめぐっても立ち現れる。原作で、浴衣姿を兄に「似合うよ」と褒めてほしかった(p.71)春歌が、兄の家に迎えに行ったときに兄が「…何も…おっしゃいませんでした。」(p.72)という場面での、彼女の押し殺された失望感は、本編ではそもそも兄の家に迎えにも行っていない(神社の境内での待ち合わせに替わっている)こともあって、明確には描かれていない。原作ではこの後、兄のそんな態度につい無口になって「ちょっぴり恥ずかしかった」春歌が、兄に「今日はおとなしいんだなあ」と言われてさらにはにかんでしまう(p.72)。しかし、通りかかった神社の小さなお祭りに足を止め、その夜店ではしゃぐ春歌に兄が今度は「元気な方がイイ」と微笑み、さらに「浴衣、よく似合ってるよ」とささやく(p.75)ことで、浴衣にかけた春歌の想いは満たされる。
 つまり原作では、春歌の怒りと期待、失望と過剰な抑制、本性への回帰と満足、という流れの中で、彼女と兄との絆に重ねて、春歌が彼女なりの「日本女性らしさ」に覚醒する過程が描かれているのだ。初めての七夕への気負いもあって、春歌は当初、七夕飾りや浴衣など外面的な事柄ばかりに気が向かっていたが、それがいかに上滑りしていたかは、「催涙雨」という表記そのものに端的に示されている。本来「洒涙雨」などと記されるべきこの言葉は原作者の誤記なのではなく、春歌自身がこのように誤って記憶していたのであり、真に日本的であろうと努力する彼女がそれでも完全には日本的になりがたいという残酷な現実を暗示する表記なのである。そして春歌は浴衣とともに「日本女性らしさ」を身に纏おうとするが、そのような意識こそ心身を分裂させ、「ずれ」や「わざとらしさ」という全くの対極を生み出してしまうはずだった。ところがその「浴衣姿」という形式的な価値をいったん兄に否定され、「浴衣だからおとなしくしていよう」という外面的意識もこのことによって動揺したとき、春歌が夜店でつい普段どおりの明るさを示してしまうことで、かえって兄に彼女らしい可愛らしさを、つまり彼女の内面と外面の調和を認識してもらうことができた。このとき春歌は自分を浴衣に合わせるのではなく、また頭で理解した「日本女性らしさ」に心身をはめこむのでもなく、浴衣の内側から春歌の個性が溢れ出るようにして、春歌らしい浴衣姿、春歌らしい日本女性さを、ようやく獲得しえたのだ。それは平安時代の女官や理想化された「日本女性」というよりは、「はいからさん」(「大正時代のチャーミングレディ」)のそれに近いものであるにしても。

 原作の主題である春歌のこの心の機微と真の日本女性化は、先述のとおりBパートでは省略されている。より正確には、原作では生じなかった「催涙雨」を降らせてしまうことによって、別の流れに置き換えられている。つまり、雨の中で佇む春歌の織女になぞらえた憂いと、兄が2人分の傘を持って現れたときの喜び、そして傘を差し出した兄の指にちょっと触れつつ受け取るときの春歌の小さなためらいをここに代入することで、手を引いて水溜りを越えさせるときの温もりや、射的のときに兄が「浴衣、よく似合ってるよ」と耳元でささやかれた一瞬の赤面へと、繋げているのである。ここには、浴衣に象徴される春歌の「らしさ」のずれとその超克は描かれていない。さらに言えば、本編の春歌の身ごなしがあまりに流麗であるために、原作の彼女が直面している「ずれ」の問題を既に克服しているかのようにさえ見える。皮肉なことに、本編の春歌は日本女性らしすぎるのだ。この段階はゲーム2に描かれた夏の春歌のそれとほぼ重なるものであり、本編の七夕もゲーム版の時期の直前と捉えれば、むしろ原作よりもこちらに合致する。
 それとも、本編だけを鑑賞すればこのように省略として把握される春歌の感情を、あくまでも原作に引き寄せて再検討するならば、例えばあの傘を受け取るときの指の危うい接触と春歌のためらい・微笑みとは、兄から浴衣姿の賛辞を得るにはどうにも味の悪い空模様であることへの諦念を、密かに忍ばせていたのかもしれない。そして春歌が、その逢瀬の瞬間に様式美の内側から溢れあがる生の喜びをもって、兄から手渡された傘でディヴァイディングドライバーのごとく雨雲さえも吹き飛ばしてしまうのも、原作と同様に兄と自分の幸せを空の2人に伝えようとする彼女らしい真っ直ぐな心を指し示していることになるだろう。本編ではこれに関わる独白が削除されてしまってはいたが、それでも原作の春歌が抱えていた問題が共有されているであろうことは、『ビジュアルブック』でも「催涙雨」と表記されている(p.58,60)ことに、かろうじてうかがえるのである。
 なお蛇足ながら、兄が春歌の家にお泊りしたこの夜、ファイナルフュージョンまで承認されたかどうかについては、「な・い・しょ」というわけでもなく論者は否定しておく。いくら雨に濡れた春歌のうなじが艶やかだったとしても、兄はまだ春歌のそのような女らしさと子供っぽさの「ずれ」を容易に乗り越えはしないはずだからだ。もちろん原作通り兄が春歌の家に泊まったことは、春歌の家の玄関前に兄の傘が吊るされていることで分かる。そしてこの雨傘は、平安時代の通い婚を思い起こさせるものでもある。


4.鞠絵 (第6巻第2話「お天気のいい日は……」

 宮崎なぎさ監督が自ら演出・絵コンテを手がけた(作画監督は山本佐和子氏)本編は、色の淡さ、影の薄さ、シャボン玉(若死の象徴)などの危うげな美に彩られている。鞠絵が高熱に意識混濁として臨死的な孤独の闇に陥る中で、「兄上様…!」と求め叫んだ言葉に本当に兄が応え、鞠絵が兄の手の温もりに再び目を開けてこの世界に戻るさまが、幻想的に描かれる。しかし監督自身は「鞠絵ちゃん、捉えづらかったですね。けっこう典型的なめがねっ娘ですよね。でも、めがねっ娘で押してるわけでもなくて…すごく考えました」(『ビジュアルブック』p.77)と述べており、演出にさいして困難があったことが分かる。その間接的な証拠は、原作と対照したとき、本編にきわめて重大な変更点が存在していることにも見て取れる。

 まず前半から見ていくと、ミカエルの世話をするのは鞠絵にとって「ただ1つだけ他の誰かのためにしてあげられるお仕事」(p.19)であるという自覚が省略されている。これは、その代わりに本編独自の「兄上様がいらしたときに、きれいでないと笑われますよ」というミカエルへの語りかけや、「今頃、兄上様は何をしていらっしゃるのかしら。こんな日に兄上様とご一緒できたら…。だめだめ、そんなわがままいけません。兄上様は、いつもわたくしに優しくしてくださっているのですから。」という独白によって、鞠絵の遠慮やためらい、そしてそれによって抑制されている兄への想いへと置き換えられている。療養所生活を余儀なくされている彼女の状況を説明するためにも、これは不可欠な挿入だろう(原作は第2話なのでこの説明が不要だった)。また、凍えるような悪夢の中で鞠絵が眼鏡をかけていないことも、彼女の眼鏡に対する意識(眼鏡=病気)を暗示させるものとして理解できる。
 問題は、その悪夢の中で、不意に現れた兄に抱かれた場面での鞠絵の想いである。原作では、このとき鞠絵は初めて涙を流し、そして次のように独白しているのだ。

鞠絵「こうして兄上様の腕の中にいられるのなら…もうこのまま…はかなくなってしまってもいいって…。」(p.27)

 そんな、死さえも受け入れてしまいそうになるほどにまで兄の温もりを切に望んでいる鞠絵が、目覚めてそこに本当に兄の姿を見出し、兄が自分をこの世界に引き戻してくれたのだと知り、自分が刹那的に身を委ねかけた死への衝動を再び突き放して、兄のいるこの世界で生きていこうとする。これが原作で描かれた、鞠絵(と兄)のぎりぎりの闘いのさまなのだ。Bパートで描かれたあの凍りつく世界の光景は、確かに何度観ても論者の胸を締めつけ(歩く足元の場面では『AIR』の「鳥の歌」を思い出させ)、魂が吸い込まれていく思いを抱かせる。そして、そこに出現した兄に抱かれた鞠絵が、再び暖かな色に満ちた世界を取り戻す瞬間は美しい。しかし、これでは原作に示されたような鞠絵が兄上様を慕う心の極限が、全く見えてこないのだ。もし脚本段階で既にこのような改変がなされ、そして演出がそれをもとにしつつ「典型的な眼鏡っ娘」として鞠絵を解釈しようとしていたのだとすれば、本編の鞠絵が単純な「眼鏡」「病気」萌え属性の産物としか評価されないことがあるのも無理からぬところとなる。アニプリ第8話で、そしてリピュアAパート第8話でも、彼女の生へ向けた懸命な闘いぶりが描かれていただけに、それらを負の極限から補完するこの原作内容がBパートでそのまま描かれなかったのは、論者としてはきわめて残念なことだった。

 しかしこの改変は、本作品で一時的にではあっても「死の積極的受容」と理解されうる台詞を語らせてはならないとするような、何らかの外在的な(放送コード的な)制限によるものだったのかもしれない。もしそうであるなら、原作の要点を削除させられた状況で、なおも鞠絵の極限的な闘いのさまをここまで描ききったというのは、むしろ賞賛されねばならないだろう。
 また、それ以上に肯定的な改変として、本編は原作よりも話の筋道が明確になっている箇所がある。原作では暖かな「午後」にシャンプーをしてもらっていたミカエルが、「ちょうど兄上様が療養所に着いた頃」「きっと兄上様を発見したから」(p.27)暴れたため鞠絵が水をかぶり高熱を発したわけだが、この体調悪化が「夜」(p.24)となっており、いったい兄はこの夕方どこで油を売っていたのかがあまりにも謎だった。(ひばりちゃんや看護婦に捕まっていたとは考えにくいとすれば、忘れ物でも取りに戻っていたのだろうか。それとも休日の面会時間が決まっているのなら、日の高いのうちとはいえそれをわずかに過ぎてしまっていたのか。)これに対してBパートでは、この経緯を完全に削除してしまい、目が覚めれば理由はともかく兄が鞠絵の枕元におり、そして最後の場面では丘の木の元に立つ兄にお姫様だっこされた鞠絵と、そばに控えるミカエルの姿をもって幕を閉じる。この一幅の絵による結びが可能となったのは、上述の「はかなくなってしまってもいい」という台詞の削除と連動して、原作の鞠絵が最後に独白する「兄上様…ごめんなさい。わたくし…はかなくなってもいいなんて、もう…考えません。」(p.28)以下の言葉もまた一切不要になったからではあるが、それでも原作の構成上の問題をあっさりと回避しえたのは何よりだった。そしてこのとき、温かで力強い腕の中、兄の鼓動を直に感じているはずの鞠絵は、病床に横たわったままの原作の彼女と等しく、確かにこの生のかけがえのなさを体全体に感じているはずなのだ。


5.白雪 (第7巻第5話「マダムの訓え」

 可憐の祖母話と対になる、兄愛の先人の姿を描く原作を、本編はマダム・ピッコリの表情を消しながら情感溢れる所作によって美しく映像化している。ずばりと語りきる可憐の祖母とは対照的に、マダムの悲恋をそっと偲ばせるこの物語は、考察1で既に述べたように、Bパート全体の構成を考えるうえで重要な位置にある。その一方で、本編の演出・絵コンテ・作画監督を務めた大竹紀子氏は、「料理上手なところが魅力なのでしょうか…?うーん、良くわかりません。スイマセン。」と白雪の人物把握に困難を認めつつ、「話の流れをきれいに」心がけた演出を行ったと述べている(『ビジュアルブック』p.44)。この言葉を手がかりとしつつ、まず原作との相違を確認しよう。

 本編ではマダムの姿が初めて映像化されたわけだが、脇役である彼女の目の表情を明らかにしないことはともかくも、「眼鏡のレンズの向こう側」(p.62)とあるように、彼女が架けているはずの眼鏡さえも描かれておらず、また写真に残る元々の金髪が既に銀髪に換わる年齢であるはずなのに、「もうずいぶんなおトシ」(p.55)とは思えない若さが感じられる(論者がフランスの老婦人というものを知らないだけかもしれないが、宮崎なぎさ監督も『ビジュアルブック』p.77で「映像的には、マダムがすごいです(笑)」と語っている)。この造形によって、原作のマダムがもつ老婦人の哀しみと若い少女を包み込む優しさとは、ややその趣を変えられることとなった。また、彼女の飼い犬のジャン=ルイが「もう13歳になるおじいさん」(p.56)という説明も削除されているが、これによって、マダムが兄と離別(あるいは死別)してから、その孤独を埋め合わせるために犬を(ジャン=ルイが最初でないかもしれず)そばに置いてきた年月の長さが感じられにくくなっている。ただしこれは原作の味を消してしまう一方、マダムを白雪の若さに近づけて白雪の成人後のイメージと重ね合わせやすくすることで、マダムが経験した過去と白雪の未来を容易に交錯させるという効果を持っている。そしてこれに応じるかたちで、白雪の方も「太くて大胆なゾウの足」(p.58)などのセンスに欠ける彼女らしい表現を省略され、夢見る少女としての純情をいっそう際だたせられている(ついでに言えば、料理中にお尻が揺れるというアニプリの個性的行動も本編では継承されていない)。演出上の整理は、まずこれらの人物造形において明確に見て取れるだろう。
 これを踏まえながらマダムと白雪のやりとりを見ると、「小さな2人のラブを応援します。大好きな人がたとえお兄さんでもラブは世界一尊いものです」とマダムが微笑むとき、それに続く「白雪さんの気持ち、ワタシとってもよくわかります…」(p.62)という原作の台詞は本編では省略されており、また「あなたがたのウェディングが挙げられる日が来たら、ワタシがウェディングケーキを作ってあげますわ!」(p.63)という台詞の前にあるはずの「もしも法律が変わって…」という一句も削除されている。この後、原作の白雪は、マダムの表情と「白黒のポートレート」からマダムの過去と自分への「あなたは後悔しないように」というメッセージを受け止め、「この話をにいさまにするために」「絶対に後悔なんかしないように」兄の元へと向かっていく(p.64)。白雪の未来が法律によって阻まれるという過酷な現実が、ここでは白雪に突きつけられているのだが、原作の白雪はこれをまだ十分に受け止め得ていないか、今の彼女なりに受け止めたから「後悔なんかしない」と決意したのだとしてもその内面の独白に乏しく、あるいはここでは描写をあえてあっさりと流すことで行間に彼女の内面を込めているとも考えられる。一方、Bパートの白雪は、マダムの言葉よりもむしろ態度によって、原作以上に激しい不安をかき立てられ、マダムの家を辞して兄の元へ走る足取りはこの焦燥にかられて涙まじりとなり、自分を待つ兄の姿を見つけることで、今まさに抱きしめられる幸福にようやく立ち返ることができている。

 兄との関係に不安を抱いた妹が兄に受け止められて回復するというこの展開は、可憐の話よりもむしろ衛の話のそれに近い。衛が「一緒に遊ぶパートナー」として自分を兄と結びつけようとするならば、白雪は明らかに新婚家庭的な妻として兄と共にいようとする。絆の結び方はそれぞれでも、この絆が断ち切られてしまう危険性を突きつけられることで、両者ともに自分のありように強い不安を喚起させられる。そしていずれの場合でも、体力的あるいは法的な越えがたい壁によって、その希望はやがてそのままにあることはできなくなる可能性が高い。ただし、衛が兄のパートナーになれる可能性を信じて未来を肯定的に見つめているのに対して、白雪はむしろ否定的な予感をいっそう強く印象づけてはいる。だがともかくも本編は、妹達以外の人間をできるだけ簡潔に描写することで、妹達の内面に即したかたちで、また妹を受け止める兄の姿に即して、未だかろうじて消えざる希望を表現することに徹している。この意味では、衛の話で指摘した級友男子達の会話の省略なども、マダムのそれと同様に、必要な措置として再度評価されることになるだろう。
 だが、ここで真に強調しておくべき最重要点は、兄妹の結ばれを阻む外在的な壁に対する直接的な「タタカイ」の意志を、Bパートの中で唯一明確に示しているのが、この白雪だということかもしれない。例えば鞠絵の「タタカイ」はまず生存のためのものでり、可憐、衛、咲耶はそれぞれ、白雪ほどには問題そのものと真っ向勝負を挑んではいない(戦略の違いや兄の介在、「タタカイ」の進展具合などにより)。不安を振り払うように兄の胸に飛び込む白雪が眩い光に包まれるとき、それはたんに映像効果である以上に、彼女が外在的な障壁を突破するために必要なその速度を、そして突破した先にある二人だけの世界を暗示している。次の咲耶が街を行き交う人々に肩をぶつけられているのを見るとき、その障壁の厚さはより明瞭なものとなるのであるが。
 そして『電撃G'smagazine』の最後の連載では、白雪は兄と結婚できないという事実についに直面した。この痛みにどのように立ち向かっていくかは、原作においては語られないままに終わっている。おそらく白雪はマダムの慈しみに支えられるのであろうし、そのマダムは既に、いまの白雪の想いを知ったことで、兄との写真を見つめる口元がほころんでいるように、自分の過去と新たなかたちで向き合っていけるようになりつつある。原作の兄は写真の中でただ一人だったが、本編の写真の兄は、別れてなお妹とともにあるのだ。そんなマダムがやがて見つめることになる白雪の姿は、本編原作(p.61)の今このときに見出した一意専心の姿と、どれほど隔たり、どれほど重なり合うのだろうか。たとえ白雪が小さな胸に涙を押し込めているとしても、いつかその傷を癒し、そして再びお尻が揺れる日が来たらんことを。こうしてセンスに欠ける表現は白雪に復活することなく、論者の全く品性に欠ける表現(そしてアニプリの弊害)のみが残される。


6.咲耶 (第4巻第2話「ホーリーウェディング」

 千影と並んで最も重大な翻案がなされたこの咲耶の話(長濱博史氏演出・絵コンテ・作画監督)は、またBパート全体を通じて、最も大きな反響を呼んでいる。そのさい、シリーズをこの話で結んだことの是非が一つの議論の的となっているが、これについて論じる前に、まず作品の内容を確認しよう。そこには、原作のテキストを修正するという方法も用いられているものの、視聴者の意識をはるかに惹きつけるのは、原作のテキストを変更しない箇所にも全く予想外の映像を適用することで、原作に独特の解釈を施しているという点である。原作では現在の咲耶の独白のみによって語られるのに対して、本編では、その独白の一部を幼い頃の咲耶のものとして語らせ(その姿も描き)、これを現在の咲耶と重ね合わせることで、彼女の兄への想いを時間の層の中で描き出しているのである。

 原作では、咲耶は土曜日の午後に(兄への文句を言いつつ)一人で教会のチャリティーバザーに出かけ、結婚式に偶然出くわす。投げられたブーケに思わず届かぬ手を伸ばし、不意に寂しさと不安を覚えて帰宅する。その夜の風呂上り、ドレッサーの前でふと思いつき、活け花やカーテンなどで花嫁衣裳の真似をして、誓いの言葉を呟いてみた途端に、しかし涙をこぼしてしまう。以下、その最後の独白を引用しよう。

「…わかってる!本当は、いくら想ってもかなうはずのないことくらい、もう十分わかってる…。
 だからって、なにもこんな時に思い出すことないのに…もう私ったら、バカね…。せっかく幸せの予行演習のハズなのに…。
 …ポトッ。
 でもきっと…本当は、こうして微笑む私の横に立つのは、お兄様じゃなくて…。
 …ポトッ。
 イヤ…考えちゃダメ。…でも、どうしても、頭の中から消えてくれないの。
 こんなドレスを着て白い燕尾服を着たお兄様の横で微笑むのは、きっと誰か…私じゃない女の人…。
 そして…私はそのそばで…『お兄様、おめでとう』って言ってあげなきゃイケナイの…。

『イヤ…そんなの…イヤよ。…お兄様…私そんなこと絶対に…信じないんだから…。
 お願いです…神様。どうか、私を…お兄様から…引き離さないで…どうかどうか…ずっと…お兄様のそばに…いさせて…お願い…』」
  (p.27-8、改行箇所は引用者により適宜変更)

 ここでは、女性にとって最も幸福なはずの瞬間にこそ咲耶が最大の不幸に直面せざるをえないこと、そしてその悲劇的未来を彼女自身が既に理性では理解しながらも感情までもが納得はしていないという、その苦痛のさまが描かれている。実兄とは結婚できないという明らかな限界を無視することは、彼女にはできない。一般に性的積極性を云々されやすい咲耶は、しかし原作では「思いっきりお色気で迫ってみる?チガウ…。」(p.57)と語っているように、過剰な行動をむしろ慎んでいる。要するに彼女が「絶対にお兄様を私のモノにしてみせる」(p.47)と宣言するときも、そこでまず求めているものは、「世界中の誰よりも私が1番愛してる」(p.40)という咲耶の台詞にそのまま対応するような兄の言葉なのだ(ただし、その先の性的な含意は「私のすべてを…お兄様にあげる…」p.51という言葉にも予感される)。
 咲耶は禁忌を破るまでの意志を持つことができないほどに理性的であり、兄の心を自分に強制的に向けることもかなわない(そしてそれは正しいことではない)ことも受容するほどにまで現実を尊重している。兄は自分と独立した存在であり、だから「あの指輪はもうどこかになくしてしまったでしょうけれど」(p.45)という幻想を混じえない兄理解と、その厳しい現実認識ゆえにこそ兄を全力で求めようとし、そして決定的な場面の寸前で思いとどまる(例えば兄のベッドに潜り込もうとして最初は未遂に終わる、p.82)という寸止め感覚。さらに、もし自分が兄に恋していなければ普通の妹として兄に寄り添うこともできるのに、恋心を抱けばこそそれももはやかなわず、しかしだからといってこの想いを捨て去ることもできないという二律背反。宮崎なぎさ監督が「最初に(お兄ちゃんとの関係を)唯一分かってるキャラなんだと言われていた」(『ビジュアルブック』p.77)のは、つまりこのような咲耶の特性を指している。そしてもう一つ付け加えれば、咲耶のこの煩悶は、兄によってのみ癒される。咲耶が兄の寝顔から「消せない絆」の確かさを取り戻し、今をこのままでと受け止めなおす姿は、第7話(p.84-7)にて描かれ、またこれを最終話とすることで、第2話での咲耶の悲しみも、兄妹関係の中で居場所を得ることができた。そして、咲耶が真に兄との別れを迎える日は遠く想像上のものであり、それゆえにまだ「いま」を享受するだけのゆとりがあった。

 このような原作の全体像の中で、Bパートは第2話のみを取り上げて、宮崎なぎさ監督の言う「本当の咲耶というか、咲耶が持っているある一面」(『ビジュアルブック』p.77)、長濱博史氏の言う「普段の咲耶が見せない、もうひとつの姿」(『ビジュアルブック』p.26)、すなわち咲耶の悲しみの心を描こうとする。
 まず冒頭の場面で咲耶が兄の付き合いの悪さを愚痴る独白は、「…なんてね。お兄様、今日ぐらいは許してあげてもいいわ。お友達とのおつきあいも大切よね。そのかわり、今度のデートはまるごと私のために1日あけてもらうんだから。離れていても、私とお兄様は、運命の赤い糸で結ばれているのよ。」という説明的挿入を含めて、幼い頃の咲耶(以下幼咲耶、『ビジュアルブック』p.26掲載の設定画によれば12歳)がかつて語ったものと変更されている。画面では、新緑の季節を駆け巡る幼咲耶と、冬の小雨の中を(しかも彩度を落とした背景で)うつむき歩く現在の咲耶とが、交互にきわめて対照的に描かれる。なお、挿入された台詞の「運命の赤い糸」とは咲耶の想いの象徴だが、この色を鮮やかに見せつける幼咲耶の髪のリボンはあくまでも軽やかであるのに対して、現在の咲耶はこの色のマフラーを首に重く纏わせ、この色の傘を雨にかざす。それは、もはや彼女と兄を結びながら断ち切る血の縁であり、雨をしのがせても晴れ間を与えてはくれない。
 この現在の咲耶の陰鬱さは、原作の「うーん、やっぱり女はどこにいっても生きている限りタタカイの連続なんだわっ!」(p.21)という(これ自体は兄と直接関係はしていない)独白が本編で削除されていることとも結びつく。本編の彼女は、既にこの「タタカイ」の果てにあり、しかもその不本意な結末を受け入れざるを得ない状況にあると暗示されるのだ。この「タタカイ」の過程を本編がどのように描いているかについては、例えば、兄への愛の成就を無邪気に信じることができた幼咲耶の時期と、その不可能性に直面した現在の咲耶という、2つの局面で捉える視点がまず一般的だろう。これに対して、「Thinking of you in this special day.」(翻訳すると、「この特別な日にあなたのことを想って」あるいは「〜思い出して」か)と文字の出る最後の場面が、兄か咲耶の結婚式(場合によっては2人のそれ)のことを指しているとし、この「特別な日」に幼い頃のことと涙の日のこととを回想しているというように、時間の局面を3つと捉える視点もある。映像に描かれる木の枝の小さな若葉に、冬から春へ、そして冷たい悲しみから暖かな温もりへという時間の流れを象徴的に読みとるならば、この後者の視点は確かに説得力をもつ。
 ただし、作品内における時間の局面は、論者の解釈では以下の通り4つ存在している。

(a)結婚式に偶然立ち会う前の咲耶(12歳の初夏以前)
(b)結婚式に偶然立ち会い、ブーケに手を伸ばし、礼拝堂で花嫁の真似をした咲耶(12歳の初夏)
(c)冬の中、かつての思い出の場所で涙する咲耶
(d)「特別な日」の咲耶

 ここでは3つの時間局面にさらに(a)が付け加えられているが、これは、数枚の写真で示されるさらに幼い頃の咲耶であり、場合によっては、「わたし、大人になったら、おにいさまのおよめさんになる!」と振り返りながら微笑む彼女もまたこの時期の姿を示す。追憶を暗示するこの場面で、咲耶は赤いマフラーをしており、それゆえに本編で動き回る初夏の幼咲耶とは時期が異なることが分かるからだ。(ただしこの場面は後述するように、結婚式立ち会いよりも後の時期のものである可能性が高いが。)いずれにせよ、この時期の咲耶は、兄との結ばれを無邪気に無条件の未来として夢見ている。
 次に(b)の局面では、幼咲耶は結婚式のブーケを取り損ね、その届かないという経験を、気恥ずかしく居心地悪く感じてしまう。ここには、年齢期は違えてあるが原作同様に、彼女が不安を自らの内に呼び込む契機が描かれている。(a)と(b)を「幼咲耶」として一括してしまう既存の視点(論者も当初これに従っていた)では、無邪気さというレッテルのもとに、この(b)における契機が見落とされてしまいやすいことに注意したい。これを踏まえて礼拝堂での幼咲耶の行動を再確認すると、そこには確かに無邪気さが一貫しているものの、頭にハンカチをのせて微笑む彼女が、神様にお祈りをしたとき、果たして本当に無邪気な笑顔のままだったのかが問題となる。明るい声が笑顔を確約するかも思わせながら、じつは彼女は、自分でもなぜか分からないままに、涙を一筋こぼしていたのではないだろうか。花嫁の真似をする幼咲耶は、意識的には幸福な未来以外考えもしない一方で、心の奥底に、遠いブーケに感じたあの切なさをそれと気づかないまま根付かせていたとすれば、この意識されざる不安と予感が、咲耶の心を飛び越えて、涙をこぼさせたと想像するのはあまりに飛躍にすぎるだろうか。もしこれが行きすぎだとしても、幼咲耶があえて神様にお願いしていた理由を考えれば、常日頃のお祈りとはやや異質な影をここに見出すことができそうに思う。つまりこの瞬間こそ、まさに咲耶が不安と予感を抱いてしまい、それゆえに「運命の赤い糸」をたえず確認しようとする強迫的な「タタカイ」への意志と、そのためにかえって増大する哀しみとを、自らのものとしてしまった決定的な「始まり」の場面だったのである。長濱博史氏は「作るうえでただ一つ、演出の手がかりとして捉えていたのは”ベール”です。」(『ビジュアルブック』p.26)と述べているが、今の問題に限って言えば、初見時の論者は、2人の咲耶の見事な対照という「ベール」に幻惑されて「始まり」の契機を見落としていたことになる。
 そのように対照されている(c)では、咲耶は「タタカイ」の否定的な「終わり」にもがき苦しんでいるかに見える。(b)と(c)の間には、ブーケに届かない漠然とした不安の陰が、成長するにしたがって次第に濃く、深く、闇となっていく過程があるのだが、対照の「ベール」はこのことをも視聴者から隠蔽することで「終わり」という印象を強め、今後も彼女が渾身の力で「タタカイ」続けることを見失わせかねない。しかし咲耶本編で被る花嫁のベールは、自分の心や兄の想いや無邪気な過去を覆い隠すだけでなく、悲劇的な未来をも、まだ不確定なものとしてその向こうに霞ませるはずでもある。
 そして彼女の「タタカイ」は、原作では、兄がそばにいることによって支えられていくのだが、兄を登場させない本編では、一気に「終わり」としての(d)の場面を最後に暗示することで、兄妹の関わり合う姿を省略している。本編は、咲耶という妹の個性を、その「もうひとつの姿」を描ききろうとすることによって、この妹を通じてシスター・プリンセスに普遍的な主題をも明確に指し示すことができた。それは、一つには兄妹の未来にある何らかの結末である。これは白雪話などでも間接的に描かれているが、咲耶の話ほどに直接的に主題化されてはいない。そしてもう一つ重要なのは、兄不在の妹の姿である。兄がそこにいないとき、妹達は自らの不安や周囲の力によって悲しみに陥り心をもつれさせる。そこから妹を引き上げるのは、いつも兄である。このシスター・プリンセスの普遍的原則を、本編は、兄が登場しない原作第2話をあえて選び、第3話以降の内容を一切挿入しないことによって、その救いのなさという印象において反面から具体化しているのだ。

 いや、このような本編であっても、兄の視点だけは間違いなく描かれていた。咲耶が振り返りながら、つまり画面のこちらを見て「わたし、大人になったら、おにいさまのおよめさんになる!」と微笑むとき、言うまでもなく彼女の視線の先には兄がいるはずである。視聴者は兄を見る咲耶の瞳を受け止め、そして幼咲耶の首に赤いマフラーが巻かれていることにもまた気づかされる。もしこれが、幼咲耶の胸のなかにある「運命の赤い糸」への想いと、その裏面にある不安とを指し示すものであるならば、ここでの彼女は既に「始まり」の契機を抱いた後の姿であり、それゆえ(a)の無邪気な時期ではなく、(b)から約半年後の冬の姿ということになる。そして、この幼い妹の胸のうちにそのような想いが錯綜していたのだとすれば、彼女の瞳に映る兄は、妹の愛に対していったい何を思っていたのだろうか。本編はこうして、兄不在の原作を翻案するさいに、さらにアニメとしての独自性を活かして、画面のこちら側へのまなざしを妹に与えるに至った。そのとき視聴者は、自分を兄と重ねてその妹のまなざしに向き合い、兄として妹を見つめ返すことになる。視聴者はここで兄妹を眺める第三者ではなく、兄という主体になるのだ。シスター・プリンセスという企画が読者参加型のものであり読者こそが妹達の「兄」だったことを考えれば、本編は原作を突き抜けて企画そのものの本質を直観させ、さらに、あえて言えば、この企画の「終わり」までも予感させていたのである。
 最後の場面を再び見つめれば、「Thinking of you in this special day.」、「この特別な日にあなたのことを想」うその主語と「あなた」とはそれぞれ誰なのか。「特別の日」が結婚式であるのか、また誰の挙式であるのかという問題とも無縁ではないが、上述の観点からすれば、ひとまずそれは咲耶が兄を、兄が咲耶を、そして、論者を含むシスター・プリンセスのファンが妹を、兄妹達を、そしてこの作品とこれに関わった全ての人々を、想うのだろう。であればこそ、木の枝に新しい葉が2つ芽生えているのは、涙にかきくれる咲耶がそれでも立ち向かって「タタカイ」続ける未来に、雪の中にほころぶ小さな芽のように、やがてかすかな希望が宿るかもしれないという希望を暗示するだけでなく、シスター・プリンセスという作品とファンの間にもまた、「終わり」に耐えて未来に開かれた希望が守られていくべきことを、沈黙のうちに物語っているのだ。


終わりに 〜全体を通して〜

 後半にわたったBパート考察は、まず本編の内容を原作と対照させることを目的としていたが、そのためには原作のテキストはもちろん、翻案によって変更されるその内容を再検討する必要があった。この結果、本考察では、Bパートの解釈と同時に、原作キャラクターコレクションの解釈をも試みることとなった。この原作解釈が論者の独断を排し得ないことは(それが問題であることも含めて)当然としても、そもそもこの試み自体が、Bパートというアニメによる一つの解釈と対比することで初めて可能となったものでもあることを、ここで改めて記しておく。作品内容への批判と、解釈者=制作者への敬意は、論者においては矛盾するものではない。

 そしてこの敬意と批判は、Bパートから再びAパートへ、さらにアニプリへと、「原作の解釈」という観点のもとで向け直される。一般にBパートよりも評価が低いこれらの作品だが、そこで原作の内容がいかにして包摂され翻案されていたかについて、既に論者は個々の考察で検討してきている。
 一例を挙げれば、Bパート咲耶話の「ベール」について長濱博史氏は「真実を覆い隠すもの、より華やかに飾るもの。そのベールの内側にあるものや、ベールを上げた向こう側に見えるもの…そこを考えながら見ていただけたら嬉しいです。」(『ビジュアルブック』p.26)と語っている。だが、そのような象徴としてのベールについては、論者はリピュア放映以前に著したアニプリ第7話分考察にて、兄妹関係および過去・「いま」・未来における「顔のみえなさ」などとして、作品内容を踏まえながら既に示していたのだ。もとよりこのアニプリ第7話も咲耶の結婚式ごっこを題材にしており、リピュアBパートの本編と翻案元(キャラクターコレクション第2話)を共有している。そこでは、咲耶の悲しみそのものはBパートほどに深く表現されてはいなかったが、Bパートでは語られずにいた部分、つまり兄との「いま」の関係の中で咲耶が癒されていく過程は、アニプリ独自の世界設定においてではあるが、むしろ重点的に描かれていた。また、咲耶の赤いマフラーについて考えるならば、Bパートで論者がこれに注目したのは、Aパート第10話でこのマフラーが象徴したものの(原作を手がかりとした)理解を踏まえてのことである。
 こうしてみれば、シスター・プリンセスのアニメ作品は、それぞれ独自の原作翻案をアニメらしく行いながら、やはりシスター・プリンセスとしての普遍性を備えていることが分かる。しかしそれらは、個々の作品の「逸脱」ともしばしば結びついている。これらをより詳細に再検討し、多様な解釈として相互に対照させることによって、キャラクターコレクションの内容を理解するための基盤を今後いっそう拡大していくことができるだろう。さらにゲーム版なども同様に検討していくならば、キャラクターコレクションを一つの軸とするシスター・プリンセス界の包括的な理解がやがて可能となるだろう。それはあくまでも一つの視点にすぎないにせよ、これまで重視されているようでその内容をほとんど具体的に検討されてこなかったキャラクターコレクションにいったん座標を定めることは、別の視点を相対化するために必要な手続きであると論者は考える。

 本考察を終えるにあたり、最後に残された問題、つまりBパート全体の流れに何らかの意味が存在するのか、について述べよう。
 既に考察1で言及したように、Bパート最初の2話(可憐・衛)と最後の2話(白雪・咲耶)はある対照をなしている。最初の2話は、時間の流れに立ち向かい、あるいはそこに希望さえ見出そうとする妹達の姿を描いている。一方で最後の2話は、「終わり」への不可逆な流れを暗示している。論者はこのような枠組みを、具体的な時間が流れないキャラクターコレクション世界に時間的要素を挿入し、妹の成長と兄妹関係の推移を明確化するものとして位置づけた。この4話の間に挟まれた8話では、第3話(亞里亞)と第10話(鞠絵)で幻想的な、またちょうど中間にある第7話(千影)で危機的な要素を表出させながら、残る第4話(雛子)・第5話(花穂)、第8話(四葉)・第9話(春歌)で兄妹関係の日常性を重点的に描いている。『電撃G'sマガジン』本誌の予告とも異なる配列となったBパートは「完成した順番に放映した」という説もあるが、しかしこのように対称形をなしているとも言えるのだ。そして、中間の日常的作品がその幸福を十全に描くことで、最後の2話の衝撃はことのほか巨大なものとなった。とくに咲耶の話については、視聴者はまさに最後を飾るに相応しい完成度を称揚しながら、その悲劇的解釈に煩悶したのだった。
 この解釈が「終わり」を見据えるだけのつよさと、それを越えてさらに未来に向かおうとする意志を指し示すものであることは、本考察で述べた通りである。それゆえ、この咲耶の話をもってBパートの最終話とすることは、本来の構成上でも内容上でも全く正しい。しかし、放映時にはこのように配列された12話が、『ビジュアルブック』では可憐から亞里亞へという公式の順番に並べ直されてしまっていることを見るならば、そこまでの大幅な組み直しまで至らずとも、悲劇性を和らげ希望をより鮮明にするために最低限の配列変更を行うことは、視聴者に許されているのだと示唆される。そしてこの配列変更について思いを巡らせるとき、論者はBパート第1話(可憐)に注目することとなる。
 考察7で述べたように、この可憐の話は、原作の複雑な持ち味を大きく損なってしまっていた。またBパート全体の中でその位置を捉えるとき、考察1で論者は、可憐の楽観性が、白雪や咲耶の話によって厳しく拒絶されているものとして理解した。しかし、ここで配列変更という視点を踏まえ、そして原作でもBパートでも可憐が兄と結婚できないことを知っているとはっきり語るのを聞くとき、祖母からのロケットは別の色彩を与えられる。つまり、やがて白雪や咲耶が提示する兄妹愛の不可能性を乗り越えるための手がかりを、可憐がこの祖母の姿を通じてあらかじめ提示しているとも考えられるのだ。それならばなおさらこの祖母の姿をきちんと描くことこそが重要だったとも思えるが、全話を映像化するには尺が足りないという制約の中で、世代間で受け継がれる妹の兄愛のみを描くという限定によって主題を最大限強調しようとする製作者の努力も、そこには新たな意味合いのもとで看取されるべきかもしれない。この単純化された可憐の純真さがあればこそ、咲耶のあの苦悶にようやく対抗しえるからであり、逆に祖母の姿が原作のままに描かれたならば、、兄と夫の間での現実的妥協方法を強調するだけに留まったかもしれないからだ。(もしもキャラクターコレクション第1話を用いてしまったならば、それこそ咲耶に平手打ちということになったのだろうか。自滅するのを待つかも知れないが。)そして、脚本のあみやまさはる氏が宮崎なぎさ監督と使用する原作話を決定するさいに、あえて可憐にこの第7話を選んだのは、他の妹達の話が衛を除いて第7話でないこととあわせて、じつに均衡の取れた判断であり、実際の経緯はともかくも四葉的推理によって、氏の深慮遠謀をここに認めるものである(衛も第7話を用いているが、ここには不安の兆しも語られているため、可憐の話よりも主題を焦点化しがたい)。
 あるいは、さすがにBパート開始早々から、妹が兄以外の男性と結ばれたり兄と別離したりするような未来を暗示することなど作品構成上できなかったとすれば、原作をこのように翻案することもまたやむを得ないことだったのかもしれない。それは、原作第7話というキャラクターコレクションの最終話にあたる物語、つまり不透明ながら希望を込めた未来に開かれていく物語を、あえてシリーズの最初に用いようとしたために生じた一つの「ずれ」だったが、ならばこの「ずれ」を認識したいま、これを視聴者に許される方法で正すことも可能になる。ここで論者は、このBパートを視聴するさい、咲耶の話を見終えた後で、さらにもう一度可憐の話を観ることを勧めたい。可憐はシスター・プリンセスにおける第1番目の妹であり、そして彼女の第7話は、自らのキャラクターコレクションの最終話として結びを示しながらBパートシリーズ第1話として始まりを告げ、さらにもう一度観直されることで、隠された最終話として妹達の希望を未来に繋ぐ。けだし可憐は「王道」である前に妹のアルファにしてオメガなのだ。そして作品内で兄妹愛が次の世代へと継承されていく一方で、視聴者は可憐の話で止まらずに衛亞里亞雛子花穂鈴凛(DVD交換)千影四葉春歌鞠絵白雪咲耶と見通してしまってまたもDVD交換で可憐に戻らなければならず、ここにおいて「終わり」を導入したはずのBパートによる永遠の世界、すなわち妹道輪廻あるいは永劫歓喜は完成する。いや、それはそれでまた新たな問題なのだが、ここから抜け出すためには、やはり本来の「はじまり」としての第1話、すなわち平手打ちが必要なのだろうか。


(2003年8月27日公開 くるぶしあんよ著)

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