アニメ『シスター・プリンセス Re Pure』考察1

〜ストーリーズパートの意義を中心に〜



はじめに 〜考察の視点〜

 『シスター・プリンセス Re Pure』(以下リピュア、2002年10月2日〜12月25日放映)については、しばしば前作『アニメ シスター・プリンセス』(以下アニプリ)との対比が行われてきている。シスター・プリンセスという原作、そしてアニメというジャンルを共有する以上、両者を比較せずにおくことは確かに難しい。そのさい、このリピュアがストーリーズパート(以下Aパート)とキャラクターパート(以下Bパート)に全く分かれており、前者はアニプリとの関係を予感させうるオリジナルな内容である一方で、後者はほぼ原作キャラクターコレクション準拠であるといったことが、この比較のあり方に影響を与えている。つまり、Aパートがアニプリファンからも原作ファンからも中途半端なものとして扱われやすいのに対して、Bパートは原作ファンの評価を得ながらも、アニプリファンには製作者側からの決別として受け止められがちなのである。この結果、リピュア全体としての評価は今なおまとまりを持たないまま、ファンそれぞれの立場からの賛否両論が繰り返されているのが現状といえる。
 本考察は、このような状況をふまえて、リピュアの意義、とくに否定的評価の目立つAパートの意義を明らかにしようと試みるものである。そのさい、監督の個人的な好みやスポンサーの意向など、作品外の要因が内容に多大な影響を与えている可能性がもしあるとしても、それらを排除して作品内論理を見出し、再評価の手がかりを得ようという論者の態度は、アニプリ考察のときと何ら変わらない。ただし今回の場合、その作品内論理とはリピュア内部にではなく、自律的発展性を仮定されたシスター・プリンセス作品総体、いわばシスター・プリンセス界において見出されることになるだろう。


1.3領域と相互関係

(1)原作・ゲーム版・アニメ版

 メディアミックス作品の常として、シスター・プリンセス界にはラジオやイベントなど様々な領域が含まれるはずだが、ここでは便宜上、原作・ゲーム版・アニメ版の3領域だけを取り上げて論じることにする。
 各領域の最初期の作品は、それぞれの領域の特徴を端的に示している。例えば原作では雑誌連載や『オフィシャルキャラクターズブック』が、妹視点による一人称形式の叙述、兄妹の一対一関係の徹底(他の妹達の存在の有無が明示されない)といった特徴を示す。キャラクターコレクション全12巻や『オリジナルストーリーズ』もここに含めることができるだろう。また、ゲーム版では『シスター・プリンセス』(以下ゲーム1)が、兄視点による一人称形式の叙述、妹12人の同一空間への登場、兄妹の一対一の物語への収束という特徴をみせている。そしてアニメ版ではアニプリが、兄(航)寄りながら第三者視点の描写、妹12人の共同生活、兄妹全員の物語のままの収束などの非常に独特な方向性を示している。これらを簡単にまとめると、次の表になる。

領域 視点 兄妹 物語の帰結 舞台 文法
原作 一対一 一対一 不定 児童文学・少女漫画
ゲーム 一対多 一対一(血縁の有無) とある市街地 ギャルゲー
アニメ 兄(航)・第三者 一対多 一対多(兄妹の絆) プロミストアイランド コメディアニメ

 3領域は、その領域自体の性質をふまえて、それぞれ独自のシスター・プリンセス像を提示している。このうち、特にアニメ版(アニプリ)については、当初から原作ファンからの否定的評価が多く見られ、シスター・プリンセス界の中できわめて辺境に位置するものとされていた。しかし、ゲーム版が登場するさいにも、原作ファンから必ずしも全面的な好意をもって受け入れられたわけではないことを、ここで思い出す必要がある。3領域は妹達という共通基盤を有しつつも、それぞれが描写するその姿は少しずつ異なり、場合によってはファンを驚かせるような大胆な解釈をも提示しているのである。それは本来、自分の領域でしかできない表現方法を存分に用いることで、他領域での表現に欠けてしまう部分を補い、シスター・プリンセス界全体の発展に寄与するはずのものであり、また事実そのように働いていった。
 だが一方で、そのような大胆な表現は、解釈の許容範囲を越えた「逸脱」として把握されてしまったとき、シスター・プリンセス界の分裂・破綻を導いてしまいかねないという危険性をもはらんでいた。その臨界点は、ファンの反応によって決定されるという曖昧さを持っているが、自らの存続発展を至上命題とするシスター・プリンセス界の意志は、このような各領域の過度の対立を未然に阻止すべく、相互関係の構築を図ろうとした。

(2)原作とゲーム版

 この関係構築の過程を、原作とゲーム版の間に見てみよう。
 ゲーム版登場以前の原作は、妹同士の関係を不問に付したまま、妹各人の視点から兄への想いを綴る叙述形式を貫いていた。そこに登場する兄は、それぞれの妹が理想とする姿そのものであり、この兄像を読者は批判できなかった。ただしこの兄像は兄本人の心象描写を伴っていないため、読者はこの空白の自由を利用して、自らが望む兄の具体像を想像することができた。しかし、兄妹は全て一対一の関係で描かれているため、妹同士の会話などによってシスター・プリンセス界が発展していく道筋は、パロディ以外には存在していなかった。
 これを突破しようとするゲーム1では、妹全員にとっての兄がただ一人登場し、この兄の視点でゲーム内の物語が進行していく。プレイヤーは妹達に愛される兄の立場を満喫できるが、これは原作でも想像の中で可能であるものの、その具体性においてゲーム版の優位は明らかだった。しかしこのことは、ゲーム内でその思考や感情までもテキスト化される兄が、プレイヤーのより深い感情移入の対象になることをも意味していた。原作では曖昧なままだった内面を詳細に描写されることで、かえってプレイヤーは、果たしてこのような兄が妹達の想いに十分応えうる存在かどうかを考えさせられる。そして、行動の自由度が高い(攻略対象以外の妹との接触が常に可能な)ゲームシステムゆえに、個々の場面ごとにぶつぎりの心象描写を積み重ねるしかなく、またどの妹にも対応しうるように八方美人的な性格を基盤とせざるを得ず、結果として愛想だけはいい無個性なギャルゲー主人公がここにも誕生した。こんな兄が、なぜ妹達に愛されるのか。もしプレイヤーが兄の人格に魅力を感じられなければ、兄妹の相思相愛関係という作品の根幹部分が、疑念にさらされることになってしまうのだ。

 これらの問題を解決するために、原作とゲーム版は相互に歩み寄りを見せた。まずゲーム版側からは、『シスター・プリンセス ピュア・ストーリーズ』(以下ピュアスト)が登場した。この作品にはADVゲーム「バレンタイン・ストーリー」モードと「クリスマス・ストーリー」モードが収録されている。このうち「バレンタイン・ストーリー」は、ゲーム1で兄視点から描かれたゲーム内容を、それぞれ妹視点から語りなおすものである。発売後の評価としては「選択肢の少なすぎる半端なADV」というものが多かったが、パッケージ裏にある「あなたが体験した12人の妹達との思い出を、妹の視点から追体験できる」という言葉に注目するならば、この批判は的外れだろう。「バレンタイン・ストーリー」は、ゲーム1では不可避なものだった兄視点の限界を、原作の形式によって解消しようとするものだからだ。つまりここでの「追体験」とは、兄視点の物語を妹視点から単純に再構成するというだけでなく、プレイヤーが演じた兄の姿を妹視点から捉えなおし、妹に愛されるに相応しい格好いい兄像を獲得するということでもある。そしてそのためにこそ、血縁・非血縁を分けるだけの選択肢を徹底的に絞り込み、原作の独白的な叙述形式に類似した語りかけという表現形式をとり、他の(話者以外の)妹達をその内容から排除するといったことが、必要だったのだ。
 これがゲーム版から原作への歩み寄りを意味する一方で、「クリスマス・ストーリー」は、兄視点・妹全員登場ものというゲーム版の独自性をそのまま保持している。こちらについても分量の少なさが批判されているが、「バレンタイン・ストーリー」による原作側への傾斜と釣り合いをとるために、ゲーム版のよさを再度示すことがこのモードの目的だと考えれば、あの妹達がクリスマスに一堂に会した姿を描くだけで、ゲーム版のよさを再確認させるのに十分だったのだと分かる。
 さて、これらゲーム版からの歩み寄りに対して、原作側では、『ポケットストーリーズ』全4巻(以下ポケスト)が「12人の妹に1人の兄」という設定をゲーム版から継承し、さらにゲーム1ではほとんど描けなかった妹同士の交流を主題とすることで、ゲーム版で端緒をつけられた妹相互関係をもう一段階発展させた。その一方で『ゲームストーリーズ』全2巻では、ゲーム1のイベント内容を元にしながらも、妹視点で、しかも他の妹達を登場させず兄・妹の一対一関係で描くことで、原作の独自性を保持しつつ、ゲーム版では表現しにくかった妹の内面を豊かに描き出した。
 以上、原作とゲーム版は、自らの長所を発揮しつつ互いの欠陥を補い合い、シスター・プリンセス界をよりいっそう充実させてきたことが明らかとなった。それでは、アニメ版についてもこれと同じことが言えるのだろうか。

(3)アニメ版の特質と問題

 先の表に示したように、原作・ゲーム版・アニメ版は、それぞれ独自の特徴をもってお互いに距離を保っている。しかし、この中でもアニメ版、つまりアニプリは、他の2領域からきわだって遠い位置にあるように受けとめられている。アニプリの問題性とは、表面的には絵が崩れすぎていたことであり、より根本的には、きわめて個性的な舞台設定と、そこに繰り広げられた物語のコメディ性である。原作以来のファンの多くは、原作の叙情的な雰囲気をシスター・プリンセス的な要素として重視する。それゆえ、ファンによるパロディこそ許容しても、オフィシャルによる兄妹世界の戯画化は、この雰囲気を破壊するものとして拒否反応を示すことになる。そして、アニプリが行ったことは、まさにオフィシャル(に近い立場)からのこのシスター・プリンセス界の破壊行動に他ならないものと理解されたのだ(「お兄ちゃんの日」にしか兄に会えないという重大な制限を反転させた、共同生活という独自設定も同様)。この結果、原作なりゲーム版なりのアニメ化を期待していた原作以来のファンの多くは、アニプリの存在を黙殺するという否定的対応や、コメディとしてのみ楽しむという限定的評価を行うこととなった。その一方で、アニメ視聴は雑誌購読やゲームプレイよりも間口が広かったため、多数の視聴者がこのアニプリの「壊れ方」を喜び、原作ファンとは正反対に、このコメディ的性格をシスター・プリンセス的な要素として楽しむこととなった。
 とはいえ、このような新たなファンの獲得を伴うシスター・プリンセス界の拡大と、それに重なって生起する界の分裂の危機という筋道自体は、原作とゲーム版との間に生じた事態と構造的に何ら異なるものではない。そして、より重要なその質的相違を確認してもなお、そこには一般的評価と異なって、共通性と肯定的独自性とが、つまり原作以来の妹達の性格をある程度そのままに保持したキャラクター達と、彼ら兄妹の物語とが、見出せるのだ。この物語の内容が原作などと照応する程度については、論者は「アニメ版シスタープリンセス考察」で既に述べているのでここでは繰り返さない。いま注目したいのは、アニプリが主題とした物語とは、離ればなれだった兄妹が、兄妹の絆を自覚的に結ぶ過程の物語だったということである。兄妹関係の形成過程を扱うことによって、アニプリは、独自の時間の流れを獲得した。原作では時間が流れず、妹達は明確には成長しない。ゲーム版では別ルートでプレイするたびに時間が反復される。そしてどちらにせよ、兄妹の相思関係は所与のものとして存在している。これに対してアニプリは、「はじまり」を、つまり時間の起点を創造したのである。その結果、原作やゲーム版で妹達に違和感を覚え兄に感情移入できなかった人は、アニプリ前半の航の積極的・消極的抵抗には共感しえたのであり、そして物語の進展により航が妹達を受け入れ、一緒に成長していくにしたがい、視聴者もこの関係の心地よさに引き入れられていくこととなったのである。
 しかし、この「はじまり」の明確化は、同時に、不可逆な時間の流れの帰結として、「おわり」をも暗示してしまう。原作でも、兄に恋人ができる可能性が少なからず示唆されているが、それはあくまで妹の不安や漠然とした予感としてだった。ゲーム版では、非血縁エンドによって、ある意味逃げ道を設けていた。これに対してアニプリは、「はじまり」を示すため共同生活という場に依拠したことによって、やがてこの共同生活から各人が独立していくという、はるかに具体性をもった未来の「おわり」の姿を提起することとなった(例えば第21話の航「いつか祭は終わる」)。この幸福な共同生活は、最終話で今しばらく継続されることを確認できたが、それでも期限付きであることには変わりない。このような不可逆な時間の桎梏をシスター・プリンセス界に持ち込んでしまったことが、アニプリの最大の特徴であり、また「おわり」を意識させることでシスタープリンセス界に終焉を招き寄せかねないという意味で、重大な問題でもあった。


2.中点としてのリピュア

(1)リピュアの位置とAパートの役割

 原作とゲーム版は、シスター・プリンセス界の危機を発展の契機に転じるために、ポケストやピュアストでお互いに歩み寄った。これと同じように、アニメ版ともそのような関係性を構築するための試みがなされたのだろうか。これについてはしかし、最初に否定的な答えを返すほかない。アニプリの独特すぎる設定やコメディ的性格は、原作やゲーム版で組み立てなおすにはあまりに異質なものであり、アニプリのノベライズなりゲーム化なりという原作側・ゲーム版側からの試みは、ついになされることがなかったのだ。しかしまたそれゆえにこそ、まずはアニメ版の側からの歩み寄りが、しかも大幅な譲歩が、シスター・プリンセス界の統合性のためにどうしても必要だったということも、ここから予測されるだろう。つまりその具体的な表れが、新たなアニメ版作品であるリピュアということになる。アニメ版第2作リピュアの課題の一つは、第1作アニプリの遺産の昇華を、原作やゲーム版との結びつきの中で行うことにあった。原作やゲーム版からあまりに遠い位置にあるアニメ版は、リピュアをいわば中点として、ようやく連結されるはずだったのだ。
 この努力は、リピュアのBパートにおいて、脚本原案をキャラクターコレクションに求めるという非常に分かりやすいかたちで具体化されているように思われる。原作ファンはこれを「本来あるべきアニメ版」として受け止め、原作ファン以外の者もその質の高さを肯定的に評価した。こうしてアニメ版と原作とのつながりはきわめて容易に構築されたかに見えるが、しかしこれに続けて「Aパートもポケストに準拠すればよかった」と批判してしまえば、リピュアの目的を見誤ってしまうことになる。もしAパートをポケスト準拠にしてしまえば、リピュアはAパートもBパートも原作準拠となり、ゲーム版とのつながりが欠落してしまうからだ。

 ここで、ポケストはゲーム版登場をうけて原作に妹の集団性が持ち込まれたものであるから、このシリーズをAパート脚本に用いてもゲーム版とのつながりは間接的に確立できる、という反論もあるかもしれない。しかし、妹全員同時登場という設定がアニプリでも踏襲された以上、共同生活と個別生活という違いはあっても、この集団性にゲーム版の独自性を見出すことはいまや困難となっている。それゆえ、ゲーム版の独自性とは、原作が「妹を選ぶ必要がない」・アニプリが「妹全員を選ぶ」という兄妹関係の基本線に対する、「妹1人を選ぶ」というまさにギャルゲー的な性質にこそ存在することになるのだ。
 もちろんAパートでは、兄が誰か特定の妹1人を選び、それ以外の妹達と行動しないなどということはなかった。だが、物語構成の中で、特定の妹達が複数回ヒロインとして選ばれていたという事実は、じつはこのゲーム版的な側面を暗黙裡に示してもいたのである。ただしこのことは、Aパートにおける各妹の不均等な扱いを正当化するものでもないし、その責任をゲーム版に押しつけようとするものでもない。しかし、Bパートが原作側に非常に近い位置に立った時点で、Aパートは3領域の均衡ある結びつきを実現するため、なるべくゲーム版側に接近することを求められていたのである。もしこれを徹底したならば、Aパートは全話にわたって特定の妹ただ一人をヒロインに定めたことだろう。しかし、ゲーム版と異なり別のルートを繰り返すことができないというアニメ版の限界から、それは年少者の代表としての花穂と、年長者の代表としての咲耶とを前後半の中心におくというかたちで、妥協をはかられた。そして、他の妹達もこの中心となりえた可能性については、今回のAパートでその全てを描くことができない以上、Aパートを視聴するさいには、直接画面に登場している妹の姿を追いつつも、登場していない妹達の姿を想像するという二重の視点が要求されることになる。これはとくに第12話のような、登場しない妹が少数(4人)である場合に、論者を含む一部の視聴者が「可憐は裏で何をやっているんだろう」などと実際に強く意識したところのものであった。
 さらにAパートは、ポケスト的な状況下で視点を妹寄りに定めながら、最終話では兄視点を明示しつつ「全員のクリスマスエンド」という物語の結末をおくことでゲーム版に接近する。これは、Aパートが、原作の妹視点とゲーム版の兄視点とを関連づけようとしたことを意味している。原作とゲーム版は既に『ゲームストーリーズ』と「バレンタイン・ストーリー」で兄妹視点の相互交換を行っているが、リピュアAパートはアニメの俯瞰的性質を利用して、これを一つの作品内で行おうとしたのである。(なお、アニプリでもこれは試みられていたが、それでも航視点が非常に強く、その点ではゲーム版に近かった。これに対してリピュアAパートは兄の主観をなるべく語らないことで原作側に接近し、アニプリとのバランスをとったとも考えられる。)

 こうしてリピュアAパートはオリジナルな内容によってゲーム版との関係を緊密にし、Bパートはキャラクターコレクションに依拠することで明瞭に原作と結びつき、全体としてアニメ版と2領域との関係性を保持しようとしたことが明らかになった。だが、これで問題が解決したわけではない。アニメ版第1作が提起した「おわり」への意識、時間の流れへの意識は、リピュアにおいてどのように受け止められたのか。そして、リピュアに示されたアニメ版からの接近の試みに対して、原作とゲーム版からはどのような応答があったのか。これらのような、アニメ版の中での相互関係と、3領域の相互関係とを検討することで、初めてアニメ版はアニプリとリピュアの協同のもとに原作・ゲーム版と結びつき、シスター・プリンセス界全体に寄与することになるだろう。そしてそれが確認できなければ、例えばリピュアBパートは原作のたんなる副産物としてのみ理解され、アニメ版が原作に従属する立場に甘んじることにもなりうるだろう。

(2)リピュアにおける時間の流れ

 アニプリが示した時間の不可逆な流れは、リピュアにおいてはほとんど無視されているかに見える。アニプリのようなドラマ性を払拭したAパートの展開は、アニプリ以上の「ぬるアニメ」(かがみ氏『男爵ディーノ』「本気で薦めるシスプリ論」より)であり、そしてBパートは原作に忠実であることによって、時間の桎梏を免れているかに思える。これは、アニプリに対していわば立ち止まる時間を描き、終わらない物語を提示することで、原作・ゲーム版の雰囲気に、つまりアニプリ以前の時代に回帰しようとするものである。それゆえ、ここでは兄は航のようには成長しない。既にほとんど完成した存在として描かれ、何事があっても、妹達からの愛情や信頼を失墜することはありえない(最終話が代表例)。
 しかし、それにもかかわらずアニプリの遺産は完全に黙殺されることなく、リピュアの中に受け継がれることとなった。アニプリとリピュアAパートのつながりとしてまず想起するのは、アニプリのオリジナルキャラクターである眞深や山田がそれとなく登場していたこと、なぜかマッキー像に似ている木の影、昨年のクリスマス回想場面でのアニプリそのままの服装、などである。ここから、アニプリにAパートを直接結びつけて続編として考える論考が示されているが、この可能性については別に補論1で論じる。いま注目したいのは、Aパート内でのアニプリの引用・暗示によって視聴者が両者の連続性を意識させられたこと、つまり連続的な時間の流れをここに予感したこと、そのこと自体にある。明確な連続性こそ確認しがたいものの、その可能性を曖昧に示唆されることで、視聴者はAパート世界での時間の流れを受け入れることができる。そして、原作・ゲーム1が示す年少期という思い出の「遠い昔」とは異なり、とくにクリスマス回想場面が示すように「1年前」という具体的かつ最近の過去に言及されることで、現在もまた成長の歩みを共にしている兄妹の姿を想像するのである。あるいは兄が昨年よりも大きいガイディングスターを探してきた姿に、「来年はどのくらいの大きさが必要なのか」と考えてしまうのも、このような時間の流れを視聴者が受け入れたことの証しと言えるだろう。

 このことは、じつはBパートについても当てはまる。これを確かめるために、Bパートの構成とアニメ版における原作の翻案について簡単に検討しよう。
 Bパート最初の2話は可憐と衛、最後の2話は白雪と咲耶の話だった。まず可憐の話「可憐ちゃんとロケットの秘密」は、兄を想う妹の基本形を提示するとともに、可憐の祖母も兄想いのひとだったというエピソードによって、兄妹関係というシスター・プリンセスの主題が時代を越えて反復されていくことを物語る。衛の話「サッカーをやるときは……」は、兄に追いつけない焦燥感と「女の子らしさ」への不安を抱く衛が兄の姿に安堵する内容だが、アニメ版では、兄にどんどん追いつけなくなっていくという時間の流れの残酷さと、それでも自分を受け止めてくれる兄との心の近さが、より強調されている。これらの最初の2話は、時間の流れに立ち向かい、あるいはそこに希望さえ見出す妹達の姿を描いている。
 この一方で、白雪の話「マダムの訓え」は、未だ兄への想いに心囚われたマダムが励ます言葉の哀しさ、「小さなラブ」の儚いからこその健気さ・美しさを、なお無邪気な年頃の白雪の姿に重ねあわせる内容だが、アニメ版では白雪がそのマダムの姿にふと不安と悲しみを覚える姿を印象的に描いている。そして咲耶の話「ホーリーウェディング」は、結婚による兄との別離を未来に予感しつつ、その悲しみに耐えかねる咲耶の苦悶をとらえたものだが、アニメ版では大胆なアレンジによって、幼い頃に気づいた「おわり」への不安の芽生えと、少女に成長した現在の(あるいはその別離の日を現実に迎えようとする)咲耶の涙を重ねている。
 このように後の2話は、アニメ版では「おわり」への不可逆な流れとその絶対性を意図的に描写するものとなっている。とくに咲耶の話は、衛の話のように兄に追いつこうと努力しても、可憐の話のようにこの想いが別の世代に繰り返されるとしても、白雪の話のマダムが示すように、結局はいま・この自分の思いは成就せぬままに終わるしかない、という非常に現実的かつ酷薄な結論を指し示している。あまりに直截的なその言明に、多くの視聴者が「最後にこの話をこのように用いたとは」と絶句したことは記憶に新しい。だが、このようなアニメ版の演出が、アニプリ以来の時間の流れや「おわり」への意識を原作キャラクターコレクションにもある程度導入しようという意図の下になされたのだとすれば、そのことには確かに成功していると考えられるのだ。それは、具体的な時間が流れないキャラクターコレクション世界に、いわば「おわりのはじまり」という要素を挿入することで、原作を妹の成長のすじみちの中に置きなおすことを意味していた。手段としてはいかにも過激なこの演出によって、リピュアBパートは、アニプリが示したアニメ版の特性を継承しつつ、原作とアニメ版を結びつけることができた。あるいは原作と最初から密接しすぎていたために、このような過激な手段に訴えないと、アニメ版と原作との中点を保つことができなかったとさえ言えるかもしれない。(Bパートのより詳細な検討は考察7を参照。)

 以上のように、リピュアはアニプリと微妙な繋がりを維持しながら、原作・ゲーム版との結びつきを図り、しかもアニメ版の独自性を失わないようにするという、非常に困難な課題を達成しようとした。そして、そのために要求されたのが、AパートとBパートの役割分担だった。もし同じ要求を別のかたちで満たそうとするならば、ポケストを元に兄妹集団を描き、ゲーム1のエピソード(『ゲームストーリーズ』はりピュア放送開始時には未刊行)を元に一対一関係を描く、ということもあり得たかもしれないが、それではアニプリが切り開いた「アニメ独自の物語」という道を捨ててしまうことにもなっただろう。その意味では、リピュア監督が述べたとされる舞台設定もまた、アニプリのプロミストアイランドと同様、アニメ版ならではの独特な世界を構築するのに必要だったのだ、とあえて言うこともできる。だがこの問題はおおよそ検討し終えたものとして、解決を待つもう一つの問題に眼を転じなければならない。

(3)原作・ゲーム版からの対応

 アニメ版を原作・ゲーム版と結びつけつつ、アニメ版の独自性を保持するために、リピュアがいかなる努力を行ったかは既に述べた。それでは、この努力に対応して、原作とゲーム版の2領域からは、どのような歩み寄りがなされたのだろうか。
 まず、ゲーム版からは、リピュアAパートをゲーム化したGBAソフト『シスター・プリンセスリピュア』という手が差し伸べられている。このソフトでは、シスプリ1と同様にほぼ兄視点からのみ描くというゲーム版本来の視点変換がなされている。ゲーム版からのアニメ版への応答は、ここで明確になされていると考えてよい。
 また、ゲーム1の続編『シスター・プリンセス2』(以下シスプリ2)は、「続編」という名によってゲーム版世界の時間の流れを意識させ、とくにシナリオでも妹達それぞれの成長を描写する場面が多い(その分、兄の成長は描かれないどころか、ゲーム1よりも退行してしまっているという批判もある)など、アニメ版の提起した要素をある程度導入している一方で、ゲーム1でのイベントの記憶や血縁・非血縁エンドの結果が全く反映されないなど、ゲーム2単体で遊ぶ人への配慮をしている点には、ゲーム版の特性と限界が示されている。

 これと対応する原作からのアニメ版への応答は、『シスター・プリンセス Re Pureセレクション』(以下、文庫本)ということになる。この文庫本は、キャラクターコレクション12巻から、各妹につき2話(うち1話はBパートの脚本元)ずつ選び出して再編集したものである。その意味では、原作からの新たな試みということではなく、ゲーム版に比べれば消極的な姿勢に感じられる。しかし、文庫本の「はじめに…」で、原作者の公野櫻子氏が述べている言葉の中に、上海亭氏『12人いる!』でその重要性を指摘されていた一節がある。

「結局、すべての妹たちにとって、おにいちゃんという存在は初めてのボーイフレンドのようなものなのかもしれません……。」
                  (公野櫻子『シスター・プリンセス Re Pureセレクション』、電撃文庫、2002年、15頁)

 初めてのボーイフレンド、初恋の相手。それは、「初めて」以降があるからこそ、初めての存在として位置づく。このように考えるならば、原作者のこの言葉は、原作の妹達がやがてこの「初めて」の段階を過ぎていく可能性を示したものとして解釈できるだろう。雑誌連載の中でも、あるいはシスプリラジオでも、妹達の成長や、兄のそばにいられる日々が永遠ではないことへの自覚・不安、そしてその裏返しとしての兄への積極的に過ぎるアプローチなどが、今まで以上に強調される傾向にあるとしたら、それはこの「おわりのはじまり」への緩やかな一歩を踏み出したものかもしれない。そしてそのような初恋の苦い甘さは、ゲーム2では血縁エンドにおいて先取りして表現されていたところのものだった。こうして原作とゲーム版は、リピュアを通じてアニメ版と互いに結びつきながら、アニプリが示した時間の流れをそれぞれの内に組み込んでいくのである。




終わりに 〜リピューリタンとして〜

 リピュアAパートの意義を確認する作業を進めるうちに、リピュアの意義、そしてシスター・プリンセス界全体の問題へと、話が拡大してしまった。本考察は、あくまで一つの視点を示すものにすぎず、ここでの解釈や結論が論者個人の主観の枠を大きく越え出るものではないことは、あらためて言うまでもない。さらに蛇足を重ねれば、本考察の内容を受け入れたとしても、だからといってシスター・プリンセス界が自らの終焉に向かって進んでいると悲観するのは、本誌連載の終了という現実に直面してもなお、一面的ということになるだろう。文庫本には、確かに咲耶の「ホーリーウェディング」が収録されているが、その次に並んでいるのは、「消せない絆」なのである。これからも妹達は兄への想いを決して諦めず、シスター・プリンセス界は自らの存続発展にさらに邁進していく。咲耶が向き合う「タタカイ」は、シスター・プリンセス界全体の絶えざる成長への努力にほかならない。ならばファンには、この「タタカイ」に微力ながら参加することが今後も望まれるであろうし、あるいはもし「いつか祭は終わる」ということを受け入れるにしても、その終わり方をいかにして幸福に迎えるか、あるいは至福の頂点でいかにして物語をうまく結ぶかを、積極的に追い求めていくことが必要だろう。そして、祭が終わるその日がいつなのか分からない以上は、つねにそのような頂点を目指していくことになるのだろう。

 本考察の執筆意図の一つは、そのようなファンの協同のために、現在も各所で見出されるアニプリファンとリピュアファンの対立を解消したいというものである。とくにその対立の原因が、アニプリとの対比の上でリピュアを否定的に位置づける評価であることが多かっただけに、これについて別のありようを指摘できないかと考えていた。しかし、もとよりアニプリファンである論者がリピュアに肯定的な評価を行うことは当初困難であり、日記等の記述ではむしろアニプリのよさを再確認するための材料にしてしまっていたことを、ここに反省しなければならない。
 アニプリにはアニプリの、リピュアにはリピュアの特性がある。それらは単独の作品として評価されることも必要だが、シスター・プリンセス界という全体の中で、いかなる役割を果たすためなのかという視点からも判断されなければならない。なぜなら、個々の作品の評価のみを重ねる中で、ファンは知らずしてシスター・プリンセス界の発展を妨げるからである。
 例えばアニプリファンの場合は、Aパートをアニプリの後継者に求めた結果、アニプリの肯定的評価に値する部分(人によって様々だが、物語性、共同生活という設定、笑い、駄目さ加減など)がリピュアに欠落ないし不足しているという印象をもつ傾向にある。一方で原作ファンは、Bパートを本来のシスター・プリンセスのアニメと評価しつつ、Aパートを黙殺したりピュアスト準拠を求めたりしがちである。確かにAパートの話の内容や画質には、控えめに言っても、もう少し努力すべき点が少なくなかった。とくにAパートとBパートには放映時にあまりに歴然とした作画の差があり、しかもAパートには前作スタッフが関わっていたため、なおさら否定的な評価を得やすい。しかしいずれにせよリピュアは、3領域の中点としての位置づけを与えられているため、どの領域から見ても中途半端に感じられるという、きわめて不利な立場にあることを忘れてはならないのである。

 ここで論者は、作品の問題点をあえて見逃し、与えられたものをそのまま受け入れろ、と主張したいわけではない。ただ、それらの一面的な価値基準に基づく評価によって触発されるアニプリ対リピュアの相互批判、あるいは領域間のファン同士の応酬というものが、シスター・プリンセス界全体にとってどれだけ発展に寄与しうるものなのかについて、強い疑念を抱いているのである。作品同士、領域同士が相違を越えて互いに歩み寄っていくというのに、ファン達が亀裂を作り出してどうするのか。それらは各作品、各領域へのないものねだりにすぎないかもしれず、むしろ進んで行うべきは、互いの欠点を補い合うことなのに。
 かつて論者が一連の考察を通じてアニプリに見出したものは、兄妹の成長物語であるともに、共同生活を基点とする調和の拡大でもあった。それにもかかわらず、本考察を書く前の論者は、アニプリを絶対視する狭隘な判断基準によって、リピュアを排除しようとしていた。これは、原作ファンがアニプリを排除しようとしたことの繰り返しであり、シスター・プリンセス界の発展を妨げる独善的な行為だった。あえて言い訳をするならば、「Re Pure」と名づけられた新作が、アニメの領域を「再-純化」・刷新し、アニプリを「なかったこと」にしてしまうための作品なのではないか、という不安から、攻撃的な作品擁護の衝動にかられていたということでもある。だが、再純化されるべきは、論者自身の党派的精神だった。それは自らの行動を「ファンの熱心さ」という美名のもとに正当化しつつ、その拠って立つシスター・プリンセス界そのものを蝕んでしまう。
 だから、初心に帰らねばならない。自分の党派性を再純化して原点回帰し、まさに
リピューリタン(Repuritan)になるのだ。それはアニプリに替えてリピュアを絶対視する党派的なファンではなく、自分の中の妹への愛を原動力としつつ、シスター・プリンセス界という全体への視点をもって、その世界の営みに参加し、調和を拡大していく存在である。もちろんそれは個人ファンとしての限界ゆえに全体に対する行動ではありえず、各人の興味の範囲を越えてまで強制的な義務を課すものでもない。論者の場合にはあくまでアニプリ的視点から、他の領域・作品を再解釈し補完していく作業として具体化される。そしてその第一歩のために、リピュアにおける妹達の成長や相互関係が、今後検討されることになるだろう。


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