アニメ『シスター・プリンセス Re Pure』考察7

〜キャラクターズパートと原作の距離(前編)〜



はじめに 〜考察の視点〜

 リピュアを構成する2つのパートのうち、一般的にストーリーズパート(以下Aパート)は評価が低く、逆にキャラクターズパート(以下Bパート)は非常に高い。それは確かに作画や音楽などの差も大きく影響しているとはいえ、より重要なことは、Aパートが、原作、ゲーム版、『アニメ シスター・プリンセス』(以下アニプリ)のいずれからも距離をおいているがゆえに中途半端な作品と見なされやすい(考察1参照)のに対して、Bパートは、公野櫻子氏と天広直人氏によるキャラクターコレクション全12巻に準拠していることで「本来あるべきシスター・プリンセスのアニメ作品」として受け入れられやすい、という点にある。
 しかし、Bパートが原作に完全に忠実な作品であるかと問えば、キャラクターコレクションを実際に読んだ者ならば、決してそうではないと答えるだろう。Bパートの演出・絵コンテ・作画監督はほぼ各話別のアニメーターに委ねられていることから、この原作との相違は主に、彼ら製作者側の原作解釈(そしてシスター・プリンセス解釈)に拠るものと理解されてきた。これについては、Bパート全体の評価とは別に、個々の話をめぐって様々な議論がなされているが、ともすれば、今までシスター・プリンセスとは無縁だったアニメーター達による恣意的で無理解な組み換えとするような、きわめて否定的な意見さえ存在している。しかし、それらの議論の前提として必要な、実際にキャラクターコレクションのテキストと対照したうえで内容の改変を具体的に検討する試みは、管見の限り、曽我十郎氏『R.S.T』における四葉話考察を例外として、未だ充分にはなされていない。それゆえ本考察の目的の一つは、基本的作業としてまずこの原作との対照を行うことにある。
 そして、この対照という目的から、2つの条件が本考察に課せられる。まず、キャラクターコレクションのテキストを基準として用いることにより、Bパートはこの基準との距離において測られる。つまり、原作のテキストの削除・新たなテキストの追加・アニメ的表現による置換などがBパートにおける翻案として具体的に指摘されることになるが、これ自体はたんなる相違点の確認であり、肯定的にも否定的にも評価を与えられるものではない。
 次に、キャラクターコレクションに描かれたそれぞれの妹の個性やシスター・プリンセスとしての普遍的主題に対して、Bパートにおける翻案がいかなる影響を与えているかを検討する。ここでは当該キャラクターコレクションに対する論者の解釈をもって暫定的な基準とし、そこからの発展や省略、さらに「逸脱」などを判断する。論者個人の解釈を基軸におくこのような評価は、たとえその解釈が原作のテキストに単純に従うだけのものだったとしても、作品製作者の解釈を相対化するための仮構にとどまらず、多少なりとも独断的な偏向を含まざるをえない。それにも関わらずあえてこの方法をとるのは、キャラクターコレクションに即して妹達を理解するということ自体がほとんど等閑に付されている現状に対して、少なくとも一連の考察でアニプリとキャラクターコレクションを対照させてきた論者が、その蓄積を踏まえつつ一石を投じようとする意図による。これがあくまで一つの解釈例にすぎないという当然の指摘は、別の解釈が他者から示されたときに初めて現実的な意味を帯びるだろう。

 ところで、論者はこれまで、Aパートの意義をシスター・プリンセス界における「中点」としてとらえつつ、物語の内容に即して、描かれた妹達の個性・年齢的特性・妹としての普遍性や、Aパートが担った主題を明らかにしてきた。これらはAパートを肯定的に再解釈する作業である一方で、同じリピュアの構成部分であるBパートについても、たんに原作の映像化というにとどまらない物語性への志向を確認することにもつながった。考察1でBパートの構成に「おわり」への意識を見出したとき、このBパートが12人の妹達を個々に取り上げただけのものでなく、可憐に始まり咲耶に終わる一連の流れの中に主題を描きこんだものとしてひとまず理解されたのである。これに加えてBパートでは、演出などは複数のアニメーターに割り当てられている一方で、パート全体については宮崎なぎさ氏が監督として総括するのみならず、脚本も全話一括してあみやまさはる氏が担当していることに注目したい。キャラクターコレクションの内容との相違、あるいはともすれば乖離とさえ言える要素は、演出側の解釈とともに、Bパートに対するこの主題の付与によっても、必然的に招き入れられたものなのではないだろうか。
 論者は、このような仮定をふまえつつ、Bパートの各話が原作キャラクターコレクションの内容とどのような距離にあるかを確認することで、Bパート総体の再検討の手がかりを得ることを目指す。そのために本考察ではまず、前半の6話を取り上げる。なお、本文中で書名のないページ指示(p.)は全て当該妹のキャラクターコレクションのものである。また、岡崎律子氏による各妹の主題歌は、言うまでもなく各話の内容の不可欠な部分として扱うべきだが、ここでは著作権問題を考慮してあえて歌詞引用等による直接的な検討を避け、このことによる対照の不備を甘受する。


1.可憐 (第1巻第7話「可憐ちゃんとロケットの秘密」)

 可憐は12人の妹の標準であり、比較的オーソドックス、つまりは平凡な設定が与えられている。それゆえ彼女の個性については、公式の紹介文でも一途さを強調する程度でしかないが、逆に言えばこの一途さをいかに描写するかが、可憐を取り上げた作品の決定的な評価基準となる。(例えばキャラクターコレクションでは、兄を呼ぶ回数が他の妹達に比べて非常に多いなどといった描写努力によって、一途さが実質的なものとなりえている。)
 この観点からすれば、Bパートでキャラクターコレクションの第1話「兄妹だっていいんだもん!」を用いなかったことの得失は検討に値するだろう。標準的な妹である可憐が、兄と結婚できないこと(これは可憐自身も既に理解している、p.7)を彼女にわざわざ告げた綾小路を平手打ちし罵倒する(p.15)というあまりに衝撃的な行動は、彼女が完全に被害者として振舞っていることもあわせて、可憐の一途さを読者に強烈に印象づけることに成功している。そしてそれは、キャラクターコレクションを読む側に、気持ちを引き締めて進むよう注意させるものでもあった。兄への報われぬ愛をそれと知りながら、それでも想いを大切にして生きていく可憐の姿を、もし読者が嘲笑しようとすれば、その者もまた涙ながらの平手打ちと罵倒を覚悟しなければならないのだ。この覚悟を読者に突きつけるという点にこそ、「兄妹だっていいんだもん!」が第1巻第1話という、キャラクターコレクションシリーズ全体のまさに劈頭に置かれた理由がある。

 だがリピュアBパートでは、第1話ではなく第7話のロケット話が用いられることになった。原作を知らない視聴者は、この第7話をもとにした内容にも相当の衝撃を受けたらしいが、その内容を原作そのものと比較したとき、そこにはある重大な変更がなされていることが分かる。
 可憐の祖母は、このロケットを、結婚のさいに自分の兄から贈られた。それは、妹の結婚に「落ち込ん」だ兄の「あてつけ」とも言うべきものだった。その兄は、夫となる男性の写真でも入れておけと「ぶっきらぼうに」言ったが、祖母はその語られざる意を汲んで、夫の写真の下に兄の写真も入れていた。その事実は兄も含め誰にも秘密にしていたが、兄も夫も既にいない今、その秘密は、自分と同じように実兄の写真を入れている孫娘にだけ、打ち明けられることとなった。つまりロケットは、兄と夫の間にありながら、その両者への関係にたくましくかつ繊細に折り合いをつけていこうとしたこの女性の生き方を示す象徴だったのであり、祖母の優しくもさばけた口調がこの姿勢を裏づけている。だからこそ可憐はロケットの中身を兄にも秘密にしつつ、最後に次のように、今は亡き祖母に自分なりの決意を込めて語りかけることができた。それは、可憐が祖母の姿から学んだ、現実の厳しさの中で彼女の一途さが進み行くための道しるべでもあったのだ。

可憐「おばあちゃんはおじいちゃんとお兄さん、どっちの方が好き…だった?
   可憐はお兄ちゃんより好きになれる人なんて全然できそうもないけれど…
   おばあちゃんが教えてくれたとおり、いつも自分に正直に、きっときっとステキな女の人になって…
   将来、必ずおにいちゃんを振り向かせられるように…なりたいです(はぁと)」(p.88)

 しかし、リピュアBパートでは、祖母の生き方に関する箇所がほとんど削除され、祖母の台詞も可憐による間接話法に置き換えられている。それゆえ、可憐にとってこの祖母がどれほど憧れの対象だったか、またその祖母は実際にどんな女性だったかが分かりづらくなり、たんに「兄妹愛の遺伝」程度の印象しか視聴者に与えない結果となった。また、祖母が実兄に寄せていた想いと、これをロケットを通じて受け止めた可憐の真摯さが描かれないために、ロケットの中に兄の写真を入れていることが兄に秘密である、という一節が削除され、その代わりに、兄の写真を入れることに対する友達の否定的反応が追加されている。これは第2話での友達の反応(p.19-21)を説明的に挿入したものであるとしても、これでは可憐が自分から友達にロケットの秘密を打ち明けてしまっていることになり、そこに秘めたる想いを継承していくことの重みは抹消されてしまう。写真の二重底についても、夫のことが語られないため、ただ兄の写真しかロケットに入れていないかのようであり、それゆえ祖母なりの生き方の知恵と哀しみが一切伝わらない。そして、「あてつけ」という祖母の実兄の振る舞いも何ら言及されないために、この祖母の兄から祖母への関わり方に重なるはずの、可憐の兄のありよう(そしていつまでも可憐を愛してくれるはずの未来)が暗示されないままに、可憐から兄への一方的な想いのみが強調されて終わる。厳しい現実に向き合う真摯な姿は、こうして、可憐の少女性や純真さを過度に示すかたちで覆い隠された。

 以上、この話については、原作の翻案としてはあまりに決定的な省略がなされており、描かれるべき兄妹相互の想いが消し去られてしまっていると結論するほかない。実際に演出の山名隆史氏が「見どころは、いつもお兄ちゃんのことを考えている可憐の回想(妄想?)です。」(『シスター・プリンセス RePure 完全ビジュアルブック キャラクターズ』以下『ビジュアルブック』と省略、p.8)、作画監督の小島正士氏が「ちょっと無難な感じのアガリになりました」(同p.8)、さらに宮崎なぎさ監督も「可憐が1番わかんなかったんですよ、王道キャラすぎて(笑)」(同p.77)と述べているように、いずれも可憐を把握しきれていないらしき形跡がある(なお絵コンテは保戸木知恵氏)。これについては、あみやまさはる氏の脚本の段階で省略がなされていたために、そのような理解の困難が生じた可能性があるとしても、「原作本を全員に回した」(p.76)以上はそれが唯一の原因ではあるまい。あるいはまた、シリーズの最初の話で、いきなり兄との別離を予感させることは避けようとしたのかもしれないが、そうであるならば原作第7話をわざわざ用いる理由はない。主題歌作者の岡崎律子氏は可憐の主題曲について「言葉で言い過ぎたくなかった」(p.79)と述べているが、歌詞のないこのピアノ曲によって彩られるべき内容が本編にやや欠けてしまっていたのは、論者としては残念なことではあった(ただし、後編で述べるように、この可憐話の単純化にはBパート全体においては一つの重要な意味を見出されることになる)。


2.衛 (第3巻第7話「サッカーをやるときは……」

 可憐と同じくキャラクターコレクション最終話を用いられた衛は、やはり同様に未来への希望を見出す。ただしその過程は可憐とは異なり、衛の女性的成長に関わって描かれることとなる。キャラクターコレクション第3巻を通じて、無邪気な幼年時代から、多感な少女時代へと心身共に(しかし心身のずれを伴いつつ)成長しゆく中で、衛は兄との距離を感じたり、改めてその絆の強さを見出したりと揺れ動く。
 最終話である第7話は、その絆を確認した一幕を描いているが、この原作とBパートを比較すると、冒頭での「仲間」(p.79)という言葉が削除されていることにまず気づく。男子達に、一緒に遊ぶ仲間とはもはや思われにくくなっていること、むしろ女の子らしくあってほしいというかたちで、仲間から排除された位置づけを与えられていること、これに気づかされたときに衛は孤独を感じ、そこから横滑りして兄の「パートナー」になれない不安を強く抱くのだが、Bパートの独白では、「仲間」からの排除に対する事前の不安がやや弱められていることになる。このような希薄化は、男子にとっての女の子らしい存在である「さゆりちゃん」と自分を比較して、兄も彼女のような「かわいい女の子が…好き…なの?」(p.86)と具体的に悩む場面が、Bパートでは欠落していることにも見られる。また、原作の衛は「久しぶり」にサッカーを楽しんだために、自分の下手さを最初は「なんだか」調子がおかしいとしか思っておらず、男子達に比べて劣っていることを男子達の会話から聞き取ってしまうのだが、Bパートの衛は自分の球技の下手さ加減を最初から自覚しており、この衝撃も弱められている。
 しかし、それらの欠落を補って余りあるのは、幼い頃の衛と兄の姿、そして兄を追いかけてきたはずなのに距離は開くばかりで、ついに自ら足を止めてしまう衛の姿を描いたことである(「もう…絶対に…前みたいには…戻れないの…かなぁ…グスッ」(p.83)という省略された回顧も、ここの映像にうまく包摂されている)。演出・作画のみならず脚本においても、原作では級友と兄の間で何度も行き来する衛の心の揺れ方が、Bパートではかなりすっきりと並べなおされているのは、単純化というだけでなく、このような映像とあいまって主題の強調を実現している。

 ところが、『シスター・プリンセス〜リピュア〜 デスクトップアクセサリー』に収録された「絵コンテ」(というより台本)を読むと、この後の場面で原作から大きな変更がなされていることが分かる。それは、衛が自室に籠もっているときに兄が訪れるという原作の展開が、夜のサッカーの練習中に兄が現れるというかたちへと変更されたというだけでなく、その登場に対する衛の「何が何だかわからくなって、あにぃの胸に飛び込むと、今日のことを全部話したんだ」という独白が用意されているのである。原作ではただ「ボクがもっと女の子らしい方が…好き?」とのみ、しかも離れた位置から尋ねているのに比べ、Bパートの衛は非常に積極的でためらいがなく、同時に迂遠である。原作の彼女は、今日あれこれと思い悩んだ内容を、目の前にいる兄に、どんな自分が好きかというただ1点に突き詰めて問いかけるのに対し、Bパートの彼女は「全部」話してしまう。その結果、原作で兄が、「なにバカなこと言ってるんだ」と笑って「どんな時も、そのままの衛でいいんだよ」と答えてくれた(p.88)その率直さの意味が、そしてそこから読み取れる衛と兄との絆の深さが、これでは相当に失われてしまうのだ。
 これを救ったのは、岡崎律子氏の主題歌だった。『ビジュアルブック』(p.77)によれば、主題歌を聴いた宮崎なぎさ監督が「歌だけでいけますよ」と判断したことにより、この場面での説明的な独白をごっそり削ったのである。このおかげで先述の「全部」話したという独白も実際の映像では語られずに済み、衛が兄にどこまで打ち明けたのかは明示されず、画面の中で衛が2、3呟く姿から想像するに留めることができるようになった。そして、この背後に流れる曲の歌詞では、衛の想いが見事に語りつくされていた。こうして紆余曲折を経つつも、可憐の場合とは異なり、直接語られざる内容が主題歌によって画面から引き出されるという理想的な状態が、ここに実現することとなった。それとともに、主題歌終了後に置かれた「ボク、いつかあにぃに追いついてみせるから、あにぃの本当の仲間、いつも一緒に遊ぶパートナーになるからさ、それまでまっててね、あにぃ。」という本編独自の独白も、もはや語りすぎの印象を与えることなく、むしろ兄妹の無言のやりとりの後を引き締める役割を果たしている。そして画面そのものも音楽に一方的に支えられてはおらず、夜の光景のやや湿っぽい雰囲気は、最後のスキー場にて一面の雪へと凝結し、衛の照れた笑顔をカラリと輝かせているのである。


3.亞里亞 (第12巻第3話「サーカスが来た日」

 林明美氏演出・絵コンテ・作画監督によるこの話については『少女革命ウテナ』などがよく引き合いに出されるが、論者は未見のため言及できない。ともかく本編を見るかぎりでは、ただでさえ文章量の少ない亞里亞の原作をさらに極限まで(実質7行程度にまで)省略して、画面と音楽で描きつくそうという姿勢(『ビジュアルブック』p.74)が如実に示され、そしてそれに成功している。原作を読んでいないとよく分からない箇所(猿から手渡されるのがポップコーンであることなど)も存在するが、何よりも亞里亞が認識する世界のありようが美しく表現されている。賛否両論はあれど、少なくともこの演出には多くの視聴者が衝撃を受けたことは間違いない。
 ただしそこには、原作との相違点も若干みられる。例えば、原作では檻の中のライオンは「お口からヨダレをダラダラ」垂らしており、亞里亞も「亞里亞のことを食べちゃいたいのかな?」と「ドキドキ」した不安を感じているが(p.31-2)、Bパートではライオンはぬいぐるみのように描かれ、ヨダレも描写されず、亞里亞の感情は直接的には描写されずに終わる。しかしこれは演出の失敗ということではなく、むしろ漠然とした不安は伝わるほどにまで成功している。ここで問題なのは、原作の亞里亞がライオンをより現実的な肉食動物として認識しているのに対して、Bパートの亞里亞には、生物としての生臭さを払拭されたぬいぐるみ的存在として映っていることである。このことは他の動物の場合も同様であり、また檻の中とはいえ猛獣に近寄る亞里亞には当然御付きの者がいるはずだが、そういった他の人間達の姿も一切描かれないということから、亞里亞が他者をどのように受け止めているのかが、ここに暗示されていることになる。それは、無害な可愛い存在であるか、存在しないか、でしかない。空中ブランコでも玉乗りでも、それを演じる人間は影としてしか描かれない。そうでない唯一の存在はピエロだが、そのピエロは、夢から覚めた亞里亞が目の前に見た兄と重ねあわされ、「やっぱりいつも亞里亞にいいものをくれるのは兄やなの」(p.39)と納得されてしまう。彼女にとって意味のある他者とは、つまり、兄ただ一人なのだ。このような亞里亞の対人関係については、他の作品でもそれぞれの作品世界に合わせたかたちで描かれてきてはいる。だが、例えば本編の原作では、亞里亞はサーカスを見ていたうちに夢の中に入ってしまっていたがために、目覚めた後で亞里亞は兄と一緒に実際のサーカスの続きを見ているのに対して、Bパートの亞里亞は本を眺めていた間に夢を見ていたがために、目覚めてもそこには兄しかいない。つまり、本編での亞里亞は、他作品での彼女に比べても、兄以外の人間との関わりが非常に希薄であるように思われる。それゆえ、もし本編の亞里亞に違和感を覚えたならば、それは翻案のこの傾向に加えて、視聴者がアニプリやAパートでの彼女の姿を前提にしているからである。
 この一方で、亞里亞の言葉が2回ほど字幕として示されるのは、この希薄さというよりは、彼女の意識の、いわば言葉にならなさを表現するものだろう。その言動からしばしば精神発達上の問題が云々される亞里亞だが、監督達の共通認識では、「頭の中で全部あるんだけど、口から出てくるのが少ないだけ」(『ビジュアルブック』p.78)であり、原作では亞里亞自身による言語的な独白としてしか記述し得ない内容を、本編では画像や音楽によって非言語的に置き換え、亞里亞の世界の捉え方や独特な時間の流れ方を包括的に示しえているのである。そのさい、この字幕という表現方法の妥当性については異論もあるだろうが、論者の初見時は、亞里亞の声が聞こえなさすぎのためテレビ機器の故障かと思って慌てたが、このトーキーやそれ以前を思い出させる字幕を見て、音が出ていないわけではなかったと安心したという効果があった。それはともかくも、亞里亞の台詞をもっと削るべきだったという林明美氏自身の意見(『ビジュアルブック』p.73)まである以上、本編における亞里亞の理解は、原作にほぼ即した方向にあったと結論できる。台詞の省略によって、視聴者には原作の知識や亞里亞への理解を前提として要求する内容になってはいるが、それは原作に沿いつつアニメの特性を発揮したための一つの結果として認めることができるだろう。
 なお余談ながら、最後の場面で登場する兄の顔は、顎や鼻筋が割合にがっしりくっきりとしており、本編以外の兄と一線を画している。これは亞里亞がフランス帰りということもあって、ベルバラ的な男性造形を与えたということなのだろうか。


4.雛子 (第5巻第4話「ピヨちゃんと雨降りカエル」

 亞里亞の話が言葉を惜しんだファンタジーとすれば、この雛子の話は、彼女らしい饒舌なファンタジーである。原作の内容をほぼ忠実に再現した本編は、そこに演出・絵コンテ・作画監督の田頭しのぶ氏がアニメならではの若干の補足を行うことで、さらに輝きを増している。
 例えば、家を出る前に髪を直して鏡で確かめる雛子。兄と出会えて一緒に帰る道すがら、公園のブランコや、車がはねる道路の水溜り、アジサイの葉の上のカタツムリなどに、子供らしくきょろきょろと気をとられてしまう雛子。この小さな妹の分まで傘を持ってやり、さらに雛子を自分からおんぶしてあげようと声をかけた(らしい)兄。兄の背中におぶさって、目を閉じてみる『親指姫』の夢。全て見事というほかない。雨の日のお迎えという些細な日常の中に、兄妹の想いが込められたちょっとした冒険絵巻が、このように隠されていたのである。それは、脇目もふらず兄のお迎えに行く雛子が、カエルとの二者関係の中に封じ込められてしまい、兄によってそこから解放され、ようやく周囲の世界に開かれていく(そしてもちろん兄とともに歩む)という、童話の展開をそのままにしながら、兄妹の絆の中にこれを組み入れたものとなっている。とくに道草を食いがちな雛子の姿を付け加えたことは、世界に開かれていくというその最後の部分を、兄がそばにいればこそ道草も食えるという前提とともに、独自に明確化している。
 ところで原作に「ほぼ」忠実とは述べた本編だが、このほかにも、やはり少々の変更点が存在する。例えばカエルと出くわした場面で、原作の雛子は「ここをどいてくれないとおにいたまのところへイケナイよぅ」(p.47)と重大な障害としてまず認識したうえで、これを突破する手段としてにらめっこに思い至っているが、Bパートでは、自分を嫁に迎えに来た可能性については原作同様思い至りながらも、自分の行動の障害としては認識せずにカエルが自分とにらめっこをしたいのだという理解に向かっており、その後に埒が明かなくなってからようやく「どいてくれないと」と泣き出している。これは、まず目の前の対象に一切の興味関心を注ぐという幼児性の表れであり、脇見がちな描写といった本編の追加部分とあわせて、雛子の幼さをより明瞭に描いている。
 これはしかし、兄のお迎えという目的を後回しにしてしまう態度として否定的に理解される可能性もあるが、この一方で、原作の雛子が兄の傘を持っていくべきかいったん考える(p.45)のに対して本編では何の迷いもなく黒い傘を持っていく、あるいは原作ではカエルとのにらめっこに夢中で兄が間近に来るまで気づかなかった(p.49)のに対して本編では自分から兄の姿に気づくなど、あたかも(おそらくその意図はないにせよ)均衡をとるような修正もなされている。
 また、最大の削除箇所を挙げるとすれば、おそらくそれは最後の場面で雛子が兄に肩車をせがむという原作の台詞(p.51)が削られたことだが、これは本編では兄の方からおんぶしてあげるというかたちに置き換えられている。原作では登場する以上の積極的行動を示していない兄だが、本編では、道草を食いがちな雛子の世話を焼き、それでもなかなか進まないのでしまいにはおんぶしてしまったのだとすれば、Bパートの他の妹達の話では見せないような苦笑混じりの面倒見のよさを、ここで示していることになる。そして肩車にせよおんぶにせよ、お気に入りのレインコートが雨に濡れ長靴を履いたままの雛子を、ものともせずに制服の上に背負ってしまうというのは、いずれも雛子の兄らしい振る舞いだろう。晴れの王様の背中は、世界のどんな場所よりも暖かく広く、小さなお姫様を包み込む。その雛子は、兄を迎える『親指姫』の物語を夢に見ながら、雨の日の「大好き」をまた1つ発見したのである。
 以上、他の妹達の話に比してあまりに手短な考察だが、これは本編が原作にきわめて忠実な内容だったことによるものであり、論者の好みによる不平等ではない(むしろ個人的にはこの話が最も好きである)ことを最後に申し添えておく。


5.花穂 (第2巻第5話「ぴっかぴっかの赤い靴」

 Bパートの問題作といえば、鈴凛、咲耶、そしてこの花穂である。本編については、アニメ独自の描写における性的な暗喩が賛否両論を招いており、この問題に対して論者は、どちらかといえば否定的な立場をとるものである。『ビジュアルブック』では演出の山名隆史氏が「見どころは、お兄ちゃまの家にたどりついてからエンディングのところでしょうか」、作画監督の小島正士氏が「他愛ないところがポイント」と述べており(p.14)、監督は作画監督の名を挙げて「あんなにエッチっぽくなるとは思わなかった」「描く人の中身がにじみ出た、典型的な作品」と笑っている(p.77)。また、『デスクトップアクセサリー』所収の本編台本では、花穂が兄の家に到着した後の場面C86で「赤い靴」が登場するはずだったが、実際の画面では赤い靴が全く登場しない。ここからおそらくは、演出と作画監督の双方が、本編の翻案に関わっていたことが分かる。そしてそれは、原作を読む限りでは逸脱にきわめて近い。ただしこれは彼らだけの問題ではなく、原作と本編の台詞などの相違点は多岐にわたる以上、脚本の時点で相当な修正がなされていたと思われる。この脚本での修正によって原作の主題が曖昧になってしまい、しかも「クンクンペロペロ」などという扇情的な台詞が追加された結果、演出や作画監督はこの方向性をさらに推し進めることとなったのかもしれない。しかしいずれにせよ、責任の所在を想像することはここでの主題ではない。

 まず原作の内容を確認しよう。冒頭では、ママの買物の手伝いのご褒美(p.55)として、花穂が赤い靴を買ってもらえた経緯が語られる。ママは日頃「きちんとした女の子」に見えるようにと「黒い靴」を勧めていたため、花穂は今まで赤い靴が欲しかったものの我慢していた(p.56)のだが、この日はお手伝いできるまでになった花穂に特別な許可が初めて出たことになる。つまり、赤い靴とは、花穂が少し大人になった証しであり、しかもそのことをママに認めてもらえたということなのだった。しかし、それは直ちに、花穂が自分自身をそのように受け止めたということを意味しない。自宅に持ち帰った後、赤い靴を足にはめてみるまえに、花穂は「お兄ちゃま、このお靴見たら…ほめてくれるかな?」(p.58)と独白し、兄の家に行くことを思い立っている。「憧れの赤い靴」が自分に相応しいことを確信するためには、花穂は兄の評価を得ることを求める。それは、自分の女の子らしさを認める真の主体が自分ではなく兄であるからにほかならない。原作第2話では花穂は「どんなにつらい時にも喜びをあたえる笑顔」である兄の笑顔を思い出して、自分の辛い気持ちを乗り越えている(p.26)が、このような兄の想起によって回復するまでに兄に依存している(それは同時に絆の深さでもあるが)のはこの花穂をおいてほかにない。そんな兄に最初に晴れ姿を見てもらうために、花穂は、「ホントは勝手にお兄ちゃまに会いに行ったりしたらいけない」と分かっていながらも、「ただ、お兄ちゃまにこのお靴を見てもらいたいだけだから」と言い訳をして、「急いでこっそり」出かけるという約束破りを犯してしまう(p.59)。「新しいお靴を玄関におろす時はいつだってすごく緊張するよね」(p.58-9)というのは、女の子らしいドキドキと同時に、この約束違反へのビクビクをも若干隠しているのだが、ここで童話『赤い靴』のモチーフは、背伸びする花穂の違反とその罰というかたちで置き換えられることが予想されることとなる。
 その予想を裏付けるかのように、兄の家に到着するまでに花穂は怖い黒犬に遭遇し、雨に祟られる。だが、犬は花穂になついて「遊びたかっただけ」(p.61)であり、雨も小降りのままで落ちついてくれ(p.62-3)、世界はさほどに懲罰的ではなかった。ただ花穂自身は、怖いと思った犬から逃げようとしても「あっ、でもそしたら靴が…せっかくの新しい靴が…」(p.61)と無理に走るのを思いとどまり、小雨にはついに意を決して一生懸命走り、しかも転ばぬようにできたおかげで「新しいお靴も…ちょっとシワができちゃったけど、まだ全然ピカピカのまま…。よかった、これならお兄ちゃまに見せられる」(p.63)と安心している。花穂の外出目的はあくまでこの赤い靴を履いた姿を兄に見て評価してもらうことであり、そのために彼女は、彼女なりに最善を尽くしているのだ。そして「花穂はあんまり走るのが得意じゃないけど、お兄ちゃまのためにがんばったかいがあったよ!」(p.63)と安堵するとき、花穂は、家を出たときの「本当はあまり上手じゃないんだけど」「ちょっとスキップしちゃいたくなるくらいウキウキした気持ち」(p.59-60)よりも、「お兄ちゃまのために」と兄を応援するときの気持ちにきわめて近いところにいた。
 そして、この気持ちがあればこそ、原作の最終場面における花穂の心情の暗転がいっそう際だつ。頑張って走り続けてきた花穂は、「おしとやかにしてた方が、きっとお兄ちゃまも似合うって言ってくれるもの…」という期待から、兄に会う前に息を整えて精一杯「おしとやかに」オスマシしようとする(p.63)。しかし、そこへ兄が向こうからやって来るのに気づいた途端、タイミングのよさに浮かれた花穂は、兄をお迎えしようと駆けだして、兄に抱きつく寸前で「びたん!!」と派手に転んで失敗する(p.63-4)。ひざをすりむいて痛いだけでなく、肝心の赤い靴も「ちょっぴり汚れちゃった」ため、花穂は「わんわん泣きだし」てしまう。兄に「かわいいね」と言ってもらうための今日の隠密行動は、こうして達成直前で台無しになってしまった。それはここまで細心の注意と努力を積み重ねてきた彼女の苦労をご破算にしただけでなく、何より「お兄ちゃまのために」頑張ってきたことを駄目にしてしまったことが、あまりにも悲しいのだ。童話のモチーフに重ねられた花穂の、そしてシスター・プリンセスの主題とは、つまりここにある。性的成熟とそれによる社会規範侵犯の危険性を暗喩する『赤い靴』は、ここで花穂と兄の絆や、花穂の兄への想いと「兄から見た自分」への意識といった視点から翻案されていた。原作の結末で花穂が「せっかくお兄ちゃまに…お兄ちゃまに…ぐすん。…お兄ちゃまぁ…こんな花穂だけど、見捨てないでいてくれます…か?」(p.64)と呟くとき、彼女は、最悪の場面で転んでしまったことで、背伸びに失敗したことに加えて、兄のために行うという自分の妹としての行動規範とこれによる絆をも無化してしまったかのように感じ取り、その不安を「見捨てないで」という想いに結んで兄に縋ろうとするのである。そして言うまでもなく兄は妹をありのままに受け入れ続けるであろうし、花穂もまたいつものように、心の中に兄の笑顔を輝かせ続けるだろう。童話の少女のように足(存在意義)を切断されずに済んだのは、花穂にそのような兄がいればこそである。

 これに対してBパートでは、あまりにも大胆な翻案がなされている。
 まず冒頭のママとのやりとりが大部分省略されたことで、赤い靴が花穂にとってどれほど特別な意味を持っているかが不明瞭になった。このことは、赤い靴それ自体を扱うことの意味を薄めさせている。
 次に、「お兄ちゃま、このお靴見たら…ほめてくれるかな?」(p.58)という原作の独白は、本編でも確かに用いられている。だが、原作の花穂が自宅で「買ったばかりの靴を箱から出して見て」いる段階で、つまりまだ自宅でこの靴を履いてみる前に、兄のことを想っているのに対して、本編では部屋の鏡の前で靴を履いてその姿を確かめてから、兄に見てもらうことを思いついている。これによって、赤い靴を履いた自分を兄に認めてもらうことの重みと、ここから暗示される花穂の兄への依存的態度は、大きく軽減されている。
 また、黒犬との遭遇と雨の降り始めとを原作とは逆に並べたことで、映像的には雨傘の輪舞や水溜りの上を滑るように駆けていく姿など、非常に美しい演出がなされ得た。しかし雨・雨上がり・一見障害となる動物・そして兄という展開は、前話の雛子と似たような流れになってしまい、しかも雛子の方がずいぶんとしっかりしている印象を与えてしまっている。リピュアAパートでも確かにそのような印象は共通して描かれているのだが、少なくとも本編の原作は、花穂の女の子らしい成長をめぐる機微を描くことが主眼だったはずである。
 そして外出時に、花穂はショーウィンドウを覗き込んで爪先立ちしたり、水たまりの上を走ったりと、赤い靴をそれなりに痛めつけている。原作でも「ちょっとシワができちゃったけど」と認めてはいるが、それは「お兄ちゃまのためにがんばった」(p.63)彼女なりの靴への気遣いの結果であり、そのことを彼女自身も「これならお兄ちゃまに見せられる」という安心感によって示しているのだ(p.63)。しかし本編では、赤い靴への気遣いは全く描かれない。ここに至って、本編の制作者にとって赤い靴はもはや主題として扱われていないことが判明する。童話『赤い靴』をモチーフとする原作をさらに翻案したことで、本編において切断されたのは赤い靴そのものだったのだ。
 論者は初見時に、あの雨傘の輪舞を美しいと思う一方で、もし花穂がアーケードの下など雨つぶの落ちなさそうな場所を必死で見つけつつ、足元にも気をつけようとして顔を上げ下げしながら一生懸命歩いていたとすれば、その一見無様な姿こそを、輪舞にも増して美しい花穂の舞いとして受け止めたかった。それは原作の「あまり上手じゃない」スキップ(p.59-60)や「あんまり走るのが得意じゃない」(p.63)という自己認識と重なりながら、彼女の自然な魅力を示したはずだった。しかし本編では、花穂は華麗に舞い、滑らかに走る。これはむしろ花穂自身の心象描写であるとすれば、ここで姿を見せているのは「憧れの赤い靴」を履いた花穂ではなく、ただひたすら兄に会いたい一心の花穂である。兄との絆の中では、彼女は確かにこのように伸びやかであるに違いなく、つまり本編における翻案は赤い靴を切り捨てることで、これを重点的に描こうとしていることになる。
 これと連動するかたちで、花穂が転ぶ場面も原作とは変えられている。まず、自室の中で赤い靴を履いて転ぶという、原作にない場面が存在する。そして兄の家に向かう途中では、原作にょうに兄を前にして転ぶのではなく、兄の家に近づいたあたりで、一人で転ぶ。赤い靴に暗示される花穂の「お兄ちゃまのため」という想いが本編では省略された結果、原作での転ぶことの意味も一緒に消し去られ、「花穂がどこでも転びやすい」という事実の説明と、「目的地到着直前で失敗する」という展開上の役割だけが残されることになったのである。
 以上を踏まえれば、花穂が最後の場面で赤い靴を履いていないどころか、赤い靴そのものが画面に登場しないまでに至るのは、当然の帰結だったとも言える。原作と異なり、ただ一人でいるときに転んでしまった花穂は、兄の家にたどり着き、玄関のチャイムを鳴らし、そこに迎え出た兄の胸に飛び込むしかない。そして、兄の胸に飛び込んでからは、赤い靴は(おそらく作画段階で)完全に見失われ、その代わりに、兄のベッドで休らう花穂の姿が丹念に描かれる。赤い靴が花穂の性的成熟の象徴であるとすれば、無理に背伸びせずとも自然体のままでいいと思いなおして赤い靴を脱ぎ捨てたということかもしれない(それにしては過度に扇情的な自然体であることからすれば、かえって赤い靴が内面化してしまっているのかもしれないが)。だがそれは、原作で示された花穂にとっての兄の意味や花穂の心の機微を、原作最後の「見捨てないで」という言葉ともども削除したことによって描かれたものなのだ。
 しかしこれを裏返せば、原作よりしばらく後の花穂の姿、つまり成長によって今までの花穂らしさが変化しつつある(例えば、今までほどには兄に依存しない)彼女の姿を描いたものと、あえて言うこともできるだろうか。あるいは、Aパートの3話にて花穂のお茶目なドジっぷりは十二分に描かれていたため、本編での花穂はかえって新鮮に映るという側面もあったかもしれない。そしてもう一つ付け加えれば、本編を視聴するさいに最も注目しなければならないのは、あの最終場面での花穂の艶姿でも、雨傘の美しい輪舞でもない。あれほどまでに軽快に心を踊らせていた花穂が、水たまりに転んでしまった瞬間から、兄の家のチャイムを押すまでの間は、画面では省略されている。だが、この省略された時間の中で、花穂が何を思い、何を感じ、何を堪えていたのか。これについて改めて思いを巡らせることこそが、本編では言葉をもって語られず、また最終場面の印象に隠蔽されてしまいがちな花穂と兄の絆のありようを、改めて確かめることに結びつくのである。そのためには、画面に喚起される自らの欲動を断ち切るだけの意志が、視聴者に必要なのかもしれないが。


6.鈴凛 (第8巻第5話「東風が吹いたら」

 曰く、「ジブリシスプリ」。柴田由香氏(スタジオジブリ所属ではない)の演出・絵コンテ・作画監督によるこの鈴凛話は、そう呼ばれるに相応しくも思える質の高さと「非シスプリ的」な個性を有しており、またそれゆえに、論者を含むB級好きな一部シスプリファンを困惑させてきている。Bパートの妹達絵を並べてみると、確かに鈴凛のみにやや違和感を抱くのは事実だが、動いている映像を見れば、その躍動感は随一のものである。
 ここで違和感の根拠を省みれば、それは絵柄そのものの問題というよりは、むしろアニメ表現における優劣の先入観と、類型化の思考法によるものと考えられる。論者はじつはジブリ作品に疎いため柴田由香氏の絵柄がどのようにジブリ的なのかを示すことができないが、もし本当にその傾向が強いのだとすれば、ジブリだからどうこうと言うより、ともかくシスター・プリンセスの外部にある既存のいかなる形式をも、この原作準拠の作品に持ち込んでほしくないという反発を、論者の心に生じさせるものなのだろう。それは、「シスター・プリンセスのジブリ的表現」ではなく「ジブリのシスター・プリンセス的作品」に主客転倒してしまうことへの不安によるものであり、そこにはジブリの圧倒的な力に対する先入観と、シスター・プリンセスに対する不信、そしてそもそもアニメーターの個性を「ジブリ的」と一括りに類型化してしまう粗雑さとが隠されている。これを反省して、あるいは『火垂るの墓』など兄妹が登場する作品を全て「シスター・プリンセス的」と呼ぶことも可能だが、これではむしろ問題をややこしくするだけだろう。ここではまず、そのようなアニメ表現に適合するだけの内容が原作に備わっていたということを、確認するにとどめたい。

 内容は原作にほぼ忠実だが、相違点を挙げれば、まずジジの研究についての説明(p.56)が省略されている。原作では「ECOカー」なども研究していたとされるジジだが、本編のラボはレトロな味わいばかりが強調されており、この古典SF的雰囲気に加えてジジのあの顔立ちから、論者などは、ジジこそ『ジャイアントロボ』OVA版のフォーグラー博士であり、すると鈴凛はじつは銀鈴なのではないか、などとあらぬ想像をしてしまった(実際の銀鈴はフォーグラー博士の娘なので一致しないわけだが、そんな話はどうでもいい)。
 これより重要な変更点としては、幼い頃の兄がジジのラボにあまり来なくなった経緯(p.56)が削除されていることである。幼い鈴凛は、そんなジジのために役立つことを嬉しく思っていたのであり(p.57)、既に野球などに興味を移していた兄が、自分の修理したロボットを見て素直に驚き褒めてくれたこと(p.58-9)、つまり機械いじりによって兄とジジとを喜ばせ、自分と兄とジジの絆を確かめられたことは、彼女にとってかけがえのない思い出だった。ある意味ではこの喜ばしい経験こそが、鈴凛を今まで発明研究に取り組ませてきた原動力になっていたのだ。この箇所が削除されたことで、ジジが亡くなったとき泣きじゃくっていた鈴凛に、兄が「これからはジジの代わりにぼくがリンを見ててやるからな」と言ってくれたことの重みが、やや失われたことは事実である。それは、兄がジジの代わりになるというだけでなく、ジジと3人で結んだ絆を兄も鈴凛と共に忘れずにいるということをも、指し示していたからだ。ただしそのことは、兄がこうして春の日に何気なく訪れてくれることで、充分満たされているとも言える。

 また、本編では非常に美しい瞬間として描かれている、鈴凛の視線を模型飛行機が横切る場面だが、これは原作には存在しない。原作では、鈴凛は「家の前に立って」(p.55)待っていたのであり、涙にかすみそうな視線の先に「その時、遠くにちっちゃな白い影が…。」(p.62)というかたちで兄が登場する。ここには、かつてこの道を通って会いに来たジジと、いま同じようにして鈴凛のもとに来てくれる兄とが、彼ら自身の姿において連続的に重なり合っている。原作の絵の中で微笑んで立っている鈴凛(p.61)が空や思い出ではなくその姿を見つめているのだとすれば、ジジの後を引き継ぐ兄という主題は、こうして兄の姿そのものに、そして兄への妹のまなざしに、具現されている。
 これに対してBパートでは、鈴凛は座って空をふと見あげ、そこに模型飛行機を見出す。より正確に言えば、追憶の最中に割り込まれる。ここには、鈴凛がジジとの別れになお向ける哀しみを、切断する兄がいる。そして、これがたんなる切断で終わらないことは、切断の象徴である模型飛行機が兄の手の中に降りる場面で描かれる。模型飛行機といえば原作第2話の、かつて兄が作ろうとしたものを鈴凛が手伝えたという物語が思い出されるが、本編でもこれが兄の手になる品であるならば、ここでは兄はジジの技術と魂とを共に受け継いだものとして、あるいはそこまでいかずともかつての日々をともに歩み続けている者として、原作よりも3人の絆(そして鈴凛への兄の想い)に引きつけて描かれているのである。

 最後に細かい点を指摘しておくと、本編で鈴凛は兄に「特別な研究の資金援助」を求めているが、原作では「特別な援助」をお願いするつもりだと話している(p.63)。後者の場合、兄が鈴凛に与えるものは、資金にとどまらない広がりを持つように思われる。兄が来てくれたこと自体が既にそのような「特別な援助」であり、一緒に過ごす時間も、発明品製作の手伝いも、そして兄の温もりもまたおそらくは。ただし鈴凛の考えること、新たな研究のために兄を今日一日被験者にしようという腹積もりなのかもしれないが、それだと今度は千影に引きつけすぎてしまうだろうか。


終わりに 〜中間まとめ〜

 以上、前半6話を検討してきた結果、演出や作画のみならず、脚本のレベルでも原作からの翻案が大きくなされている可能性が指摘された。ただし論者は脚本と演出それぞれの段階での翻案状態を比較する資料を持っていない(『デスクトップアクセサリー』所収の「絵コンテ」は実際には「台本」と言うべきもの)ために、これを断定することはできない。また、演出側にも「原作本を全員に回した」(『ビジュアルブック』p.76)以上は、テキスト改変の責任を脚本のみに負わせることもおそらく無理がある。しかし、これらの留保を認めたうえでなお、エンディングテロップに「脚本」の名があり、たんに原作の流用ではないことを明記している以上は、脚本段階での相応の翻案を指摘しておくことが必要だろう。
 とくにその翻案は、現段階では、原作各話で示された妹達の姿を、その個性の一部が強調されるようにできるだけ単純化し、他者との関わりから導きだされるべき心の機微を省略するといった方向で整えられていると理解できる。これはBパートの放映時間の制約によるだけでなく、本作品で妹達を表現するさいの重点のありかを示すものである。Aパートが妹同士の関係をも描くとすれば、Bパートはあくまでも1人の妹と兄との関係のみを描写しなければならない。そのためには、それ以外の他者による干渉を最大限排除し、それによって原作の複雑な意味合いを喪失してまでも、なお妹個人の想いに収斂した内容に整形することが必要だったのだ。その点では、原作の翻案は目的をおおよそ満たしており、しかも高水準の演出・作画や音楽という製作者側の解釈によって原作のよさをさらに引き出しえたことで、本作品はテキスト媒体でなしえないアニメの可能性を存分に示す結果となった。
 ただし、一部の話について述べたように、この翻案が必ずしも妥当かどうか疑わしい事例も存在している。だが、それらにしても製作者の一つの解釈として受け入れることは可能であり、あるいはそこから従来になかった新たな妹像を読み取っていく手がかりさえ見出せるかもしれない。Bパートを「原作の完全映像化」としてではなく、またシスター・プリンセスとは無関係なアニメーター達による個人芸の寄せ集めとしてでもなく、彼らが妹達を受容し解釈していく過程をその背後にみることで、シスター・プリンセス界が拡大しゆくみちすじをここにも認めるべきなのだろう。本考察では具体的に言及し得なかったが、岡崎律子氏による妹達の把握の的確さについては言うまでもなく、また宮崎なぎさ監督も本作品を全く知らなかった状態から、製作を通じて「みんな自分の子になっちゃう、かわいいんですよね」「なんとなくおにいちゃんの気持ちがわかる」(『ビジュアルブック』p.78)と語るまでにその意識を変化させているのだから。
 ところで、可憐の話については先述のように批判を行ったが、その一方で、このリピュアBパート全体の中でその位置を捉えるならば、考察1での指摘を越えた意義を見出すこともできる。これについては、後半6話を検討した後で再び取り上げることになるだろう。


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