アニメ『シスター・プリンセス Re Pure』補論1

〜時計塔と舞台世界〜



はじめに 〜考察の視点〜

 本作品Aパートをアニプリと比較する場合にしばしば問題として指摘されるのは、両者の舞台設定や世界観の連続性である。第9話で登場した山田・眞深によく似た人物や、マッキー像のような樹木のシルエットなどは、リピュアAパートが暗黙裡にアニプリの続編として製作されていることの証拠と見なされることがある。論者は考察5においてこの連続性を否定したが、たとえどのように結論づけるにせよ、そのためには本作品の世界観全体を再検討する必要がある。
 これを考えるさいに無視できないのは、本編中のみならずサブタイトルにも登場するカラクリ時計塔の意味である。これに関しては、CD『シスター・プリンセス Re Pure オリジナルサウンドトラック ”サウンド オブ ストーリーズパート”』添付ブックレットに記載された下田屋つばめ監督のコメント「プリピュアオリジナル舞台設定〜サウンドトラックによせて…」にて、「翼多(ツバタ)市」という街の名前が初めて登場する(作品中では語られない)ほか、カラクリ時計に記された街の歴史についての説明がなされている。実際に本作品の展開におけるカラクリ時計塔と兄妹達の関わり様を踏まえれば、監督自身によるこの説明は、舞台設定を考察するうえで不可欠の資料として用いられるのが本筋ではある。
 しかし、監督の手になる設定にも関わらず、その後刊行された『アニメシスター・プリンセス Re Pure 完全ビジュアルブック ストーリーズ』では、この設定は時計塔もろともほぼ完全に無視されている。設定資料集のトビラ(p.67)に、サブタイトルで用いられたカラクリ時計盤面一覧がある以外は、時計塔やその意味について、絵でも文章でも一切登場しないのだ。前作アニプリのビジュアルブックでは、大林清隆監督のオリジナルキャラクターであるマッキー像などはイラストにもかろうじて登場し、黄色い麦藁帽子の少女についてもストーリーダイジェスト中で言及されていた。これと比較しても、時計塔の扱いはあまりにも軽いと言わざるを得ない。そしてまた、視聴者の側にしてみれば、作品を普通に鑑賞するさいに、監督による説明なしでも全く問題がないという困惑すべき事実が存在する。
 この状況の背景に、製作側の何らかの問題を読み取ることは可能かもしれないが、論者は一貫して作品内在的な解釈を行ってきた以上、そのような試みをあえて行うことはしない。しかしまた、監督の設定もこの時計盤面を除いてはほとんど活かされていないと予想できる以上は、監督の説明を唯一の正解として受容することもまた避けねばならない。つまり、監督の説明は、カラクリ時計盤面についての歴史的背景を一応教えてくれるものではあるが、それは同時に、作品内部から導き出される他の観点からの解釈のために、活用されるべき資料でもあるのだ。
 本考察では、こうした立場から、Aパートの兄妹達を支える世界の設定について、時計塔のカラクリ時計盤面を中心に、いくつかの解釈を示そうとするものである。


1.前作との関係 〜同一説批判〜

 まず、本作品の兄妹が前作アニプリの兄妹と同一であるという説、つまり本作品が時間的に前作の未来に位置づけられるという説に対して、論者の批判点を示しておくことが必要だろう。両者の関係をどう捉えるかによって、ここで検討すべき解釈の方向性も大きく変化するからである。
 なお、ここで扱う同一説とは、アニプリのほとんど直後か、せいぜい数年後までの間に、本作品の時期を想定するもののみを指す。例えばアニプリのはるか未来に兄妹が転生したという説は、これに含まれない。

(1)同一説の根拠と利点

 同一説の有力な根拠とされる場面は、以下の通りである。

場        面
OP 雪だるまがプロトメカに似ている。
A全 カラクリ時計がアニプリCD『Prologue of Siste Princess』にも登場している。
A9 眞深の姿をしたパンの売り子(EDテロップでは「あの人」)が、鈴凛と四葉に激辛カレーパンを薦める。
A9 タミヤ的模型会社ロゴ入りエプロンをした山田太郎似の青年が、玩具の家から飛び出た四葉に驚く。
A9 マッキー像に似た影の樹(?)が鈴凛の墜落を和らげる。
A10 サブタイトル(カラクリ時計盤面)にプロミストアイランドおよびマッキー像らしき姿が描かれている。
A13 昨年のクリスマスを回想する場面で、妹達がアニプリ第20話と同じ冬服を着ている。
A13 クリスマスツリーに点灯するさい、鈴凛のプロトメカ9号が用いられる。
B5 花穂の赤い靴を包装していた新聞紙に、眞深と山田の顔写真が掲載されている。
なお、眞深の顔写真は、アニプリ第12話のコテージ内での夕食時に、島で確保できる魚や雑草などの食糧について航に語る場面の画像。
山田の顔写真は、 アニプリ第4話でガルバンのぬいぐるみに囲まれて「俺って幸せ〜!」と馬鹿笑いする場面の画像。

 Bパート第5話はともかくも、Aパート内に同一説の材料がそれなりに存在していることが分かる。
 もしこの説をとるならば、第13話回想場面でクリスマスツリーのガイディングスターに対して花穂が「去年のよりずっと大きい」、雛子が「おにいたまがとってきたお星さま」と言っていることから、この回想場面は少なくともアニプリ第20話の翌年以降のものである。アニプリ第20話では、ツリーの星は兄が取ってきたものではなく、サンタ山田が偶然にもたらしたものだったからだ。ここから本作品の兄妹は、アニプリの2年後以降の姿ということになるだろう。
 これを踏まえれば、両作品をつなぐ過程を、例えば次のように想像することができる。つまり、アニプリの翌年は(アニプリと同じ服装であることから)ウェルカムハウスで再び兄妹のクリスマスを楽しんだ。だが、それから今秋までの間(最短10ヶ月)に、兄妹は何らかの理由で共同生活をやめ、プロミストアイランドを離れてこの街に移り住んだ、というものである。
 この説の利点は、何よりもアニプリと本作品を一つの時系列におけることであり、とくにアニプリの兄妹の生育歴における家庭環境を第25-26話分考察3(2)補論3のようにやや否定的に想定した論者にとっては、次のように両作品を結びつけようとする誘惑を避けがたい。すなわち、兄妹がいったん共同生活によって絆を確定できたからこそ、今度はあえてその共同生活の場を離れてそれぞれの家族を呼び寄せ、兄妹は分散していてもその絆を守り続け、さらに親や保護者たちまでもその輪の中に招き入れることが可能となったのだ、と。こう捉えれば、本作品の別居状態は共同生活の発展的解消ということになり、一応の連続性と「調和の拡大」が認められることになる。

(2)同一説の問題点

 しかし、この同一説については、既に以下のような批判が示されている。
 まず、本作品の兄の声がアニプリの航と違う。作品外論理によって割り切るのでなければ、一般的には兄と航を別人として理解するべきだろう。だが、逆に妹達の声は全員同一である以上、むしろ主要人物の声優共通率は9割を越えているとも言える。同じく主要人物の声優を変更した『ルパン3世』よりむしろ高い数字を示していることからも、この点だけで同一説を反駁するのは難しい。
 次に、同一説がその根拠となる主要材料を見出している第9話第13話に、アニプリでは助監督だった本作品監督下田屋つばめ氏が脚本として関わっているという事実が挙げられる。しかし、作品外論理にできるだけ依存しないという本考察の姿勢に即して、これはひとまず状況証拠としてのみ置いておく。
 また、前作であれだけ幸福に見えた共同生活をなぜ解体したのか、その理由が不明だという指摘も存在する。しかしこれは先述のように、調和の拡大のための方策として解釈することが可能であり、やはり決定的な反駁にはならない。

 論者が同一説を批判するよりどころは、それゆえ、本作品の兄妹と前作の兄妹との対照に見出される。
 まず妹達について。例えば本作品の亞里亞は、原作・ゲーム版的な我が儘さ(第7話)や、雛子を模倣する態度(第8話)などに、その性格特性を示している。だが、もしこの亞里亞が前作の彼女と同一であるならば、兄を独占したいという個人的欲求は共同生活で既に緩和されているはずであり、もし自我の成長などにより新たにそのような傾向が強化されたのだとしても、その発現は、共同生活解体直後にその衝撃を契機として訪れていていいはずだ。今頃になってそれがそのまま現れるというのは、前作から2年以上経過しているという時間の価値を失わせる。模倣についても同様に、雛子達との共同生活の中でこそ、それは具体化されていていいはずだった。
 この亞里亞のみならず、妹達が共同生活の中で成し遂げた成長や、その後の2年間で培ったであろうものが、本作品の妹達からは感じられにくい。千影はほぼ前作の延長上にあるが、花穂などは年少者の世話をすることもなくかえって退行してしまっているなど、年少者にとってこの2年間があまりに軽すぎる。(アニプリ第3話分考察によれば、2年後の春時点での妹達の学齢は、次の通りとなる。可憐:高3、咲耶・千影:高2、白雪・鈴凛・春歌:高1、鞠絵・四葉:中3、衛:中2、花穂:小6、亞里亞:小4、雛子:小2か小3。)
 また、とくに鞠絵については、アニプリでは持病も後半ほとんど問題にされず健康を取り戻しつつあったはずだが、本作品では療養所に入所中(一時的な検査入所かもしれないにせよ)という悪化のほどを示している。もちろん病状悪化の可能性は客観的に言えば必ずあるにせよ、論者はあくまで主観的にこれを許容しない。それは、鞠絵がヒロインとなる第8話のサブタイトルで、墓場の十字架を並べるという悪趣味さに対しても同様である。

 次に兄については、声優の変更よりも、行動の過剰な落ち着きぶりが違和感を与えている。「航の皮を被った燦緒」とはよく言われたものだが、航の二枚目になりきれない小心さ、滑稽さ、そして不器用な誠実さは、本作品の兄からはほとんどうかがえない。それは兄としての成長の証とすることもできようが、例えば第13話で大きなガイディングスターが見つからないとき、航ならば、どこかで(あるいは初めから)踏ん切りをつけて、拙いながらも心を込めて、星を自作しようとするのではないか。実際、航が星を作るのであれば、アニプリ第6話で示したように、花を作ればヒトデみたいな星形になるのでそれを金色に塗れば済むわけであり、また既に樅の木の周りでパーティ準備の工作をしていたほどなのだから、その程度の作業は能力的にも可能なはずなのだ。総じてこの兄は、視聴者の観ている場面で自分の体を酷使することがほとんどない。それは体力向上の結果などというよりも、航にはないある種の距離感として受け止められてしまう。

 最後に兄妹の関係について。例えば第13話のクリスマスソングは、アニプリ第20話の歌を知っている者にとっては、ほぼ蛇足と言ってよい。ただしこれは、兄の過剰な責任感を緩和したという意味ではアニプリ第14話の航の状況と同様であり、そのような問題およびその解決が再びなされたのだと考えることもできる。だが、第5話の兄と千影がプラネタリウムを訪れた場面や、第11話の兄と可憐・咲耶・千影が花嫁のブーケに手を伸ばした場面などで描かれた、幼い頃の兄と妹達の姿を、アニプリの航達に重ねることができるだろうか。
 もし航がそれらの記憶を、アニプリ第25-26話分考察3(2)で想像したように、その後の悲劇的事件に遭遇した衝撃で忘却してしまっていたのだとしても、ではそれならば第11話の咲耶は、小箱の中にプロミストアイランドでの思い出の品を1つなりとも詰めているはずではなかったか。第1話の可憐は、コルクボードでなくとも机の上なりに共同生活の思い出の写真を飾っているはずではなかったか。言うまでもなく、作品内で描かれた事実は逆である。兄と共に培っていったあの島での生活が、妹達にとって思い出にすらならないほどに軽んじられるようになるとは、論者には到底信じがたい。兄妹の一部が幼い日にこの街に住んでいたという仮定を受け入れたとしても、ウェルカムハウスはいまの13人の兄妹の絆を確定した大切な場であり続けるからだ。そのような前作の引用が番組制作側の問題により不可能だった、という同一説側の反論は、もちろんそれが作品外論理であるがゆえに、ここでは認められない。そしてまた、ウェルカムハウスを離れるに至った経緯が悲劇的なものだったがゆえにその記憶をあえて封じているなどという発想は、論者にはやはり許容できない。

 以上の理由から、論者は、両作品の兄妹同一説に対して否定的な立場をとる。ただしそれは、本作品が前作の否定・無視のうえに成り立っていること、「Re Pure」というタイトルがそのような前作の忘却を意味すること、などという一般的理解を踏襲するものでは決してない。「Re Pure」がむしろ兄妹の救済の過程を指し示すことは既に考察6で述べた。また、アニメ版でのこのような不連続性は、原作・ゲーム版・アニメ版の相互関係の中で、またゲーム版でも第1作『シスター・プリンセス』と第2作『シスター・プリンセス2』の間で、やはり同様に見出されているものであり、アニメ版だけが不協和を甘受していることにはならない。さらにこれは不協和として捉える前に、シスター・プリンセスという作品を様々に解釈した結果の多様性として、まず理解されるべきものだろう。
 ここで一応、作品外の事情にも目を向けておくならば、とくにアニメ版については、アニプリ放映のさいに、原作に忠実な内容で兄視点のアニメ作品を望んでいた原作者側と、オリジナル設定に基づいて実際のアニプリを生み出したアニメ制作者側との間で、何らかの軋轢があったと言われている(2001年前半期における『電撃G's magazine』連載の紆余曲折)。これが真実だとすれば、リピュアAパートは、当初の原作者側の意図に忠実なアニメ版作品として、確かに企画され制作されたということになるだろう。しかしそれでも作品内容そのものについては、前作をかき消すこともなく前作の蛇足にもならず、シスター・プリンセスの多様な姿の一つをアニメの世界に描いた新たな作品として、その固有性を認められるべきだということは、ここでも改めて主張しておきたい。
 以上、本作品とアニプリとをいったん非連続なものとして確認したうえで、問題のカラクリ時計についての検討に移ろう。


2.カラクリ時計と監督設定 〜歴史的解釈〜

 本作品内におけるカラクリ時計の意味を考えるさい、直接的な手がかりとして、それぞれのカラクリが描く様々な光景と、その盤面の周囲に刻まれたドイツ語句・英語句が挙げられる。下田屋つばめ監督による「本篇では語られなかった」「プリピュアオリジナル舞台設定」は、これらを、作品の舞台である街の由来を描く歴史絵巻として説明している。そこでは、街(ツバタ市、「翼多」という漢字名があてられている)の歴史は、4つの時代区分に大別されている。以下では、それぞれの時代区分の説明を概括しながら、補足を行っていくことにしよう。

 (a)街の形成期。街が存在する一帯は「有史以来」の荒蕪地で「『モミの木』が立っているだけの寂しい場所だったらしい」。そこに「最初の開拓者」である「一組の若い夫婦」が入植し、続いて「三賢人」「四人のマイスター」「五氏族」という者達が移住して「持ち寄った技術や資産を基に産業を興」した。
 第8話で鞠絵が演じる人形劇の物語は、囚われの姫が牢獄を脱出して王子とともに新天地に移り住むという内容だった。あるいはその姫達は、ここで言う「一組の若い夫婦」を指すかもしれない。この場合、街は貴人の建設になるという古典的な建設伝説をもつことになるが、しかし鞠絵が語るところでは「その後、お姫様と王子様は、大きなモミの木のある街にたどり着き、たくさんの人達と素晴らしい…」とあり、街の建設の方が先に行われていたことになる。妥協点をとるならば、「若い夫婦」の入植と他の者達の移住は相前後して行われたものであり、伝説を数字順に、そしてキリスト教的モチーフで整理するにあたって、「若い夫婦」である貴人達を「最初の開拓者」に祭り上げたのかもしれない。
 その頃の共同体の祝祭は、今日のクリスマスでも、街の広場に設えられるクリッペ(Krippe、本来はイエス誕生などの光景を扱う人形ジオラマ。本サイト掲示板にてアニマ・アニムス氏が指摘)にて、理想化されたかたちで描かれている。

 (b)街の発展期。「煉瓦造りの工場から空にのびる巨大な『六本煙突』は昼夜を通し赤黒い煙を吐き続け」「通りに響くプレス音の賑わい」という産業革命期的な光景のもとで、工業労働者が流入し、産業資本が再投下されていく。中でも「工房の二つ、リントグレン舎の『鉄親爺』とオールコット工房の女丈夫『八重歯のお嬢』がそれぞれの技術を持ち寄って画期的な風力発電ユニットを開発した」ことは、街の今後に多大な影響を与えた。世界中からの需要を独占し、「空前の繁栄を手に入れる」一方で、「次の時代の憂いに続く『原罪』も彼らは掌にしてしまった」。
 カラクリ盤面は、共同体創設の伝説から、その後の前近代史を一挙に越えて、産業化以降の描写に移る。(あるいは創設者の移住さえも、この時期の資本家および支配階級による工業都市開発そのものを指し示すのだろうか。)さらに次の「風力発電ユニット」という言葉からは、きわめて現代的なエコロジー産業の勃興を想起させられ、ここでは既にごく最近の史実が語られている可能性が高い。ただし、その製造が既存の工場施設の枠内(レンガ倉庫)でなされていたことは、第9話の倉庫内に遺棄された風車部品や倉庫外の貨車引き込み線路などから明らかであり、都市形態の根本的な変化をもたらしはしなかった。ただし、リントグレン舎とオールコット工房がその後の都市運営に決定的な影響力を有したことは間違いなく、ここで伝統的な支配階層との対立・超克、あるいは深刻な労働問題などの生起といった、階級構造の変動が想像される。これを「原罪」と呼ぶ監督のキリスト教理解には疑問があるが、今は措く。
 なお、監督が「鉄親爺」「八重歯のお嬢」という言葉から示唆したがっているように、この両者が鈴凛と四葉の祖先に関わる人物であるとすれば、彼女達は現在も特殊な地位を占めている可能性がある。例えば、他の兄妹達の住居がほとんどユニット化されている(第1話の可憐、第3話の花穂、第4話の兄、第5話の千影、第8話の白雪、第11話の咲耶の家は、玄関を含む住宅の前半部分が、屋根の色以外ほぼ共通している)のに対して、第9話で登場した鈴凛の家があまりに独特の形状をなしているのは、彼女の家がそのような都市計画に従わずにすむだけの権勢を暗示している。
ところで、ここに登場するリントグレン(Lindgren)という名前は、第5話でプラネタリウムの閉鎖看板に、第6話で衛のマグカップに、第10話で自動車の側面に、それぞれストライプ柄の長くつしたとともに描かれている。おそらく『長くつしたのピッピ』の作者であるアストリッド・リンドグレーン(Astrid Lindgren)に由来するのだろう。また、オールコット(Alcott)という名前は、第5話で自動車の側面に、クローバー模様とともに描かれている。これも『若草物語』の作者であるルイザ・メイ・オールコット(Louisa May Alcott)に由来するものだろうか。またクローバー模様は、第1話の結婚式の夢でも、第4話のベティーズの紙袋ロゴにも、第8話のミルクパックと療養所の暖炉にも、第11話の過去の噴水タイルにも描かれており、街のシンボルあるいは十字架模様の一種ということでなければ、オールコットの企業勢力をそれとなく暗示している。そして、その子女である四葉がイギリスへの留学を果たしていたことは、次にみる英語句の問題とあわせて、オールコットとイギリス資本とのつながりを物語る。

 (c)街の停滞・没落期。これまで町の発展に主導的な役割を果たしてきた長老達が、「工場の社長室で、工房の片隅で、静養に訪れた山荘で、教壇で」逝去した。「エイトメンアウト」と呼ばれる彼等の死の記録は「煤煙にけぶる丘に建てられた八つの墓碑」に残される。その後、街は工業化に伴う煤煙公害で住民の健康を悪化させ、また世界的な「大恐慌」が風車の供給過多を生じ工場を休止させ、「人心は荒み街は羽を縮め震える天使のように煤煙の中に身をすくませ」るという事態を招いた。これを「クラウド・ナイン」と呼ぶ。
 ドイツ語の盤面文字のうち、ここの時期区分にあたる8時と9時のみが英語で記されている。英語句そのものの由来は後述するが、ここでは、なぜこれらの箇所のみが英語表現なのかを作品内論理で考えよう。キリスト教的モチーフをドイツ語、それ以外を英語にあてているという仮説は、「六本煙突」がドイツ語であることから否定される。世界史的事件として英語句が一般化しているという仮説も、「エイトメンアウト」があまりに局所的な事件であるために妥当しない。とすれば、例えば、産業にせよキリスト教などにせよ伝統的にドイツ文化の影響を色濃く受けていた街が、リントグレン(ドイツ的企業)とオールコット(イギリス的企業)の提携を機に、この時期アングロサクソン勢力との結びつきを強めたという経緯を想像できるだろうか。この場合、カラクリ盤面製作者がドイツびいきの保守的な篤信家で、そのような伝統からの逸脱を快く思っていなかったということも考えられる。(しかし、第4話の時計盤面に描かれた方位盤の東が「Ost」の「O」でなく「East」の「E」というのはどういことか。)
 さて、「アウト」という表現からは、たんに死去という事実だけでなく、「追放」に近いニュアンスが見いだせる。風力ユニットの生産独占により、一部の新興階層が台頭した結果、旧来の指導者は、その変動をもたらしたリントグレン舎・オールコット工房の主を含めて、急激な共同体解体の波に押し流されていったことになる。また、ここで興味深いのは、「風力ユニット」といえば通常は環境問題やエネルギー問題の解決に結びつくはずなのに、ここでは逆に、その製造拠点にさらなる公害問題を惹起しているという点である。これは、それらの問題に取り組む他の地域から受注を受けて発展してきたこの街が、じつはその世界的なエコ運動に最も乗り遅れていたことを示している。古色蒼然としたレンガ倉庫を風力ユニット製造に用い続けるなど、従来の産業施設や労働者雇用などの形態を(保守勢力の慰撫のために)維持しようとしたことで、工場再編や都市再開発の機会を逸してしまったのだろうか。
 結局、街はこの環境悪化のみならず階層間の問題などを未解決のまま残し、そこに到来した「大恐慌」が、既にほぼ解体していた共同体にとどめを刺した。ここから致命的な階級間闘争に至る危険性を、しかし住民達はどうにか回避し、別の解決手段を模索することになる。

 (d)街の再生期。工場閉鎖にさいして「約半数の住民が街を離れ、遠方の某島へ移住する」という、形成期を思い出させる植民が大規模に行われた。また、既存産業も、例えば「リンドグレン&オールコット社」が発電ユニット産業から「レッチワースやハムステッド式の田園都市の管理運営にシフト」していくように、劇的な方向修正を余儀なくされた。「あらたなる契約」とは、このような共同体総体の再編過程を指す。「新たに街の中央に造られたベティーズ百貨店の円い広場にカラクリ時計が設置されたのもこの時期」だが、製作者は「街の創世の記憶」をカラクリに「込めたのだろう」し、その意図は「自分を見つめ直す『鏡』」にも示されているという。なお、「十二番目のカラクリの窓は何らかの理由により開かなくなっている」が、その理由と、兄妹にとっての「開かない最後のカラクリ」の意味とは、監督の意向にも関わらず、本編中で明確化されることはなかった。ついでに言えば、風車にどんな意味があったのかも結局分からずじまいではあるが。
 レッチワース(Letchworth)とは、エベネザー・ハワード(Ebenezer Howard)の「田園都市論」に基づき、1903年に建設されたロンドン郊外の最初の田園都市である。またハムステッド(Hampstead)とは、ロンドン郊外にある最高級住宅街である。作品中の街も、確かにレンガ造りの建物やドイツ風の家屋など伝統的様式を守ろうとしており、またトラムバス以外の交通手段が存在しない(自動車は第5話第10話で登場するが、それぞれオールコットとリントグレンのイニシャルが車体側面に描かれており、しかも比較的低速であることから、企業用の電気自動車かと思われる)。しかし一方でこの街には、大多数の妹達の家や兄の家について見たように、一般住宅が規格化されている区域が存在している。それらは、街に残った労働者家庭のために新たに郊外部に建設されたものであり、旧来の市街地とは一線を画している。なお、街路を横切る細い水路の存在は、バリアフリーの理念に抵触するものにも思えるが、この街に住む大半の身体障害者は、リントグレン&オールコットで開発された個人用補助具によって、その程度の障壁をものともせずに済んでいるのだろう。
 街に留まることを選んだ者達には、このような福利厚生が図られたわけだが、街を出ることを選んだ者達には、どのような運命が待っていたのだろうか。10時の盤面にマッキー像の立つ島が描かれていることから、監督はどうやら、彼らがアニプリの舞台プロミストアイランドに移住したと示唆したいらしい。この場合、海神家を中心とする指導者達が、その庇護下にある労働者達とともに、移住先の島で新たにテーマパーク産業を興したことになる。この論の問題点は既に述べた通りであり、ここでは繰り返さない。
 さて、伝統的な共同体が解体した後、移民と都市再開発によって再生を試みたこの街は、往事から一変したとはいえ、生活の豊かさを取り戻すことには成功したように見える。だがその一方で、「街の創世の記憶」とその後の過ちを忘れずにいてほしいというカラクリ時計製作者の願いは、残念ながら成就しないままにあるようだ。例えば、雛子と花穂は第13話で時計塔に現れるカラクリを当てようとしているが、2回とも外している。とくに花穂は小学校で自分の住む街についてある程度学んでいるはずであり、その授業の中でカラクリ時計が教材化されていてもいいはずだが、しかしそのような気配を微塵も感じさせないのは、たんに花穂が勉強不足なのでなければ、街の由来を教わる機会が子供達に与えられていないことを暗示している。また同話で、年長者である千影でさえレンガ倉庫のことを知らなかったのは、中等教育でも地歴的内容がさほど重視されていないことの現れである。(あるいは妹達は、自分の行動範囲以外の地域についてほとんど知識も関心も持たないのかもしれず、この場合ゲーム版のマップ画面における妹達を彷彿とさせる。)つまり、クリスマスのクルッペなどで一定の継承努力がなされているにも関わらず、再開発された市街地や新興住宅街に住む者達にとって、街の由来は既に身近なものではなくなっており、その向こうでベティーズに代表される現代的な消費文化がこの街にも否応なく流入し、共同体を再び形骸化していく姿がここに見てとれる。そしてそのことは何よりも、12時の盤面が開かないカラクリ時計を誰も直そうとしないという現状に、端的に示されているのである。(『バーチャルネット偽妹(パチモン)・眞深16歳』平成15年1月3日分日記によれば、監督は最終話で眞深にカラクリを直させる予定だったらしいが、もちろんそのような裏話はここでは問題にならない。)

 以上、監督による説明に論者の補足を与えながら、街の歴史を想像してきた。これを批判するとすれば、キリスト教的モティーフが多々用いられているにも関わらず、旧約・新約の内容を混在させ、「原罪」を近代産業主義の害悪に矮小化するなど、換骨奪胎が目立つ点がまず挙げられる。(あるいは、この世界のキリスト教はこれでいいのかもしれないが、アニプリでは第14話で聖母子と天使の絵が、第20話で降誕祭に相応しい歌が登場していることと対比すると、アニプリと本作品が連続性をもたないことの新たな証拠となるかもしれない。)また、そもそも肝心のイエスにまつわる情景がカラクリ盤面に一切登場していないという事実も、一つの疑問を与える。
 だが、これらをもって監督の能力不足なり設定上の独善なりと一概に断じることはできない。例えば、カラクリ時計に示される内容は、聖書全体の要約ではなく、旧約に該当する律法的部分であり、その一方で新約に記されている救済のすじみちは、閉ざされたままの12時の盤面と、本作品に描かれた兄妹の物語そのものによって示されていると考えることもできるからだ。論者は既に考察6において、本作品が兄の原罪を妹達が絶えず赦していくという「再−浄化」の物語であることを明らかにしたが、それはこの新約部分としての作品内容という解釈を裏づける。そして、このような兄妹の救済への歩みを確認したうえで、新約聖書におけるイエスの救済が旧約聖書のイザヤ書に預言されているという聖書解釈の一視座に関心を寄せるとき、あるいはカラクリ時計盤面もまた、兄妹の救済を予め提示しているのではないか、という仮説が成り立つ。そこで次の章では、この仮説に基づいて、カラクリ時計盤面に描かれている内容を具体的に検討していくことにする。


3.カラクリ時計と兄妹 〜「再−浄化」的解釈〜

 ここでは、各話ごとのサブタイトルに示されたカラクリ時計盤面と語句から、そこに込められた兄妹の救済の証を読み取る。刻印語句の後ろのカッコ内は語句の直訳であり、ドイツ語句のウムラウトやエスツェットはそれぞれae, oe, ue, ssで代用する。また、文中の引用文に登場する『事典』とは、アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』(山下圭一郎他訳、大修館書店、1984年)とその該当ページを示す。

I. Der Tannenbaum(樅の木)
盤面:手前に海の波、次に丘と樅の木、奥に山々、上に太陽。
 モミは一般にクリスマスツリー、つまりキリスト降誕祭に用いられる常緑樹であり、象徴としては「不死、不変、再生」や「生命」「力と若さ」(『事典』p.242)。救世主による救済、兄妹の絆の不変性がここに暗示される。また、自然諸物(四大)の調和が示されている。

II. Adam und Eva(アダムとイヴ)
盤面:手前に男女(下腹部に木の葉)、奥に船首像つきの船。
 神によって「土の塵」から創造された最初の人間の男と、「彼に合う助ける者」としてアダムの肋骨から創造された最初の人間の女(創世記2,7-25)。既に原罪を得た男女だが、この男女から全ての人類は生まれ、そしてやがて救済の道を与えられた。兄妹愛という「禁断の木の実」を知った者達にも、同様に救いの光がいつかさしのべられるだろう。

III. Die Heilige Drei Koenige(聖なる三王)
盤面:手前に丘(砂丘)、奥に3人の鼻筋通った老人、周囲を巡る星。
 一般に「東方の三王」「三博士」と呼ばれる「占星術の学者たち」(マタイ2,1)。イエス出生時に「ユダヤ人の王」の星を見て、東方よりエルサレムに訪れる。これと次の「Die Vier Weisen」とを関連づけることで、この「聖なる三王」を、キリスト教における3つの対神徳「信仰、希望、愛」の象徴と解釈する。

IV. Die Vier Weisen(四賢人)
盤面:中央に方位盤(東がE)、上下に男老人、左右に女性。
 上の「三王」を「三賢人(die drei Weisen aus Morgenland)」と呼ぶこともあるが、ここではギリシャの「七賢人」のような異教的存在を連想しておく。そして「三王」を対神徳の象徴としたことに対応して、この「四賢人」を、古代ギリシャのプラトンに由来するとされる4つの枢要徳「正義、剛毅(堅信)、節制、深慮」の象徴と解釈する。なお、「正義」は天使ミカエルに象徴されることが多いが、カラクリ盤面に描かれた人物のうち、左の女性は縦ロール、右の女性は三つ編みの髪型をしている。前者は亞里亞、後者は可憐か鞠絵を暗示させるが、ここで「正義」=ミカエルとすれば、後者は鞠絵ということになる。

V. Die Fuenf Geschwoerenen(五人の宣誓者)
盤面:手前に5人、奥に5つのリンゴがなる樹。
 普通訳される「陪審員」よりも、元の「誓う・宣誓する(schwoeren)」という意味に基づいて、「宣誓者」ととらえた方がよい。描かれた人物は、左からヘアバンドで前髪を上げた女性(?)、横巻髪の女性(?)、短い横結びの女性(?)、虫眼鏡状の物体を手にする老人、長髪の女性(?)。このうち、ヘアバンドの者は花穂、横巻髪の者は白雪、横結びの者は雛子、虫眼鏡の持ち主は四葉、長髪の者は髪を下ろした千影をそれぞれ暗示させる。
 ここまでのIII、IV、Vの3つの盤面に登場する人物を合計すると12人となり、妹の数と合致する。救済にあずかる者がもつべき徳、そしてそのような信仰とともに兄への愛(それは禁断の木の実でもある)にも宣誓した妹達が、祖先の姿を借りてこれらに示されている。

VI. Die Sechs Schornsteine(六本の煙突)
盤面:手前に3つの回転する歯車、奥に工場と、煙を吐く6本の煙突。
 6は男女の配偶による創造や豊饒の、しかしまた不完全な数として悪徳の象徴(『事典』p.583-4)。煙突は女性器(煙突掃除人が男性器)の象徴(『事典』p.126)。近親愛の可能性と危険性とが端的に暗示されている。

VII. Die Sieben Todsuende(七大罪)
盤面:手前に風車(7本の鉄塔)、奥左にややプロトメカ似のロボット、右に非常に長髪の女性。
 「七大罪」とは、カトリックにおける「傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、憤怒、怠惰」。先に対神徳と枢要徳とが述べられていたが、その対極にあるのがこれらの罪である。兄妹における個人的欲求や兄独占欲求、兄の側の過剰奉仕など、様々な過ちの危険性がここに指摘されている。また、風車は豊饒や節制の象徴(『事典』p.690)だが、肉体と精神(ロボットと女性)の正しい統合が、そのためには必要となる。

VIII. Eight Men Out(八人の男の追放)
盤面:手前に幼天使、奥に地面に立つ8つの十字架、上に雲。
 英語句。「Out」はまた「終了」「退去」「露見」など、他者による強制力を背景におく。8は「復活」「永遠」およびその前提となる「罰」「死」を象徴する(『事典』p.205-6)。なお、現実世界でのこの語句は、1919年の米国ワールドシリーズ(ホワイトソックス対レッズ)におけるホワイトソックス側の八百長問題から、当チームの選手8名が永久追放処分を受けた事件、いわゆる「ブラックソックス・スキャンダル」のこと。しかしここでは作品世界と全く無関係なものとして無視する。
 歴史的事件としての8人の死去を示すとともに、兄妹の罪に対して下される罰と、その向こうに約束された救済を象徴する。

IX. Cloud Nine(九の雲)
盤面:手前に小さな翼を持つ天使が雲の上で体を折り顔を覆って泣く姿、奥に雲(煙)の中の6本の風車。
 英語句。雲は神の顕現や神意、また偽りの姿の象徴(『事典』p.132-3)。9は完成、真理、母性の象徴(『事典』p.460-1)。
 なお、英語句の口語句としては、「とても嬉しい気持ち」。由来は、ダンテ『神曲』天堂篇における10の天。うち第十天は神の座そのものであり、第一天から第九天はそこ(至福)に近づいていく階梯であることから。第九天(原動天)は9級の天使達がそれぞれ輪をなしているが、あるいはこの「月日の暈」(山川丙三郎訳下巻、岩波文庫、1958年、p.177)のごとき9の輪のことを指すか。(ただしこの場面の絵には、ダンテ達が立つ雲が中央に描かれている。)このイメージをもとに、米国気象局が1950年代に高層に達する積乱雲をこの語句で表現し、さらにこれが人気ラジオ番組「Yours Truly, Johnny Dollar」で「雲の上を歩くような・天にも昇るような(on a cloud)」と同様の「ハイ」な状態を指す語として用いられたため流行し、日常会話に使用されるようになった。(小稲義男『新英和大辞典』、研究社、1982年、『Sayings and Everyday Expressions』「C」項『Cloud Nine』内「About Sheepskin」、2ちゃんねるアニメ板シスプリ103スレ917)。しかしこれもまた、ここでは作品世界と無関係なものと見なす。
 歴史的事件としての致命的な煙害を示すとともに、神罰の苦痛や自己欺瞞の苦悶と、その絶望を越えてなお現実を直視するときの、真の完成への可能性が描かれている。ただし、そのような克己を果たすためには、未だ兄妹の精神は未熟なままにある。

X. Die Zehn Gebote(十の掟)
盤面:手前にVIIにて登場したロボットと女性と2本の風車、中央に海を裂く道、奥に5段の島と頂上のマッキー像似の像、上に開かれた書物、周囲にツタ。
 いわゆる「十戒」(出エジプト記20,3-17)。ユダヤ人の律法の基底をなす。この律法的・旧約的な「義なる神」の姿は、やがてキリストが示す新約的な「愛なる神」によって止揚される。
 ツタは繁茂、生命、不滅の愛の象徴(『事典』p.361-2)。律法的な規範や親達の意志によって兄妹は自らを束縛するが、やがてその強制的な規律は、肉体と精神の調和に基づいて、約束された幸福へと兄妹を解放しなければならない。

XI. Der Spiegel(鏡)
盤面:手前に向き合う男女の横顔、奥に流れる雲、下に風車と教会。
 鏡は、自己の検証、創造、真理、愛などの象徴(『事典』p.431-2)。第9話第13話で示されたように、向かい合う兄妹は互いの存在をかけがえのないものとして確認し、兄妹愛の絆を結び、利己的欲求を抑制する。

XII. Die Zwoelf Singenden Engel(十二の歌う天使)
盤面:第12話サブタイトルでは閉じたまま。第13話アイキャッチでは、左からそれぞれ千影・雛子・花穂・鈴凛・白雪・可憐・鞠絵・衛・咲耶・四葉・亞里亞・春歌に似た天使像。
 12は、宇宙の秩序、完全、循環、救済の象徴(『事典』p.657-8)。第13話で示されたように、兄としての原罪を負い、現世で妹達のためにさらに罪を重ねていく兄は、妹達によってたえず贖罪を与えられ、「再−浄化」されていく。この過程は、歌の調和に象徴されるごとく、やがて完全な救済を約束する。

 各のカラクリ時計盤面をこのように検討してきた結果、そこには、兄妹の幸福へのすじみちが、兄妹の陥りやすい危険性をも警告しつつ、示されていることが分かる。時計盤面は、過去の歴史的経緯を並べたものというだけでなく、本作品が物語るいまの兄妹の姿を象徴的に表現し、さらに未来の兄妹の救済への希望をかたちに示している。これからも兄妹は互いに支え合い、愛し合い、時には欲求を衝突させ、危機に見舞われていくことだろう。しかしその危機を皆で乗り越えていくことで、より大きな試練にも耐えていけるようになり、より大きな幸せを共に作り出していくことができる。その歩みは、時計の針が経巡るのと同じようにたゆみなく繰り返されるが、その針が進み鐘が鳴るごとに、兄妹は救済への道を一歩ずつ着実に進んでいるのである。
 また、ここで本作品とアニプリを比較するならば、両作品はともに兄妹の幸福への歩みを描いているという点で共通している。しかし、これと舞台世界とのつながりを見てみると、アニプリが全話を通じて「兄妹から島全体へ」という調和の拡大過程を描写していたとすれば、このリピュアAパートは、最終話を焦点として、共同体の再生への意志が兄妹の「再−浄化」関係によって確証されるというかたちをとっている。これも両作品が兄妹をとらえる視点の違いに基づくものであり、しかもどちらの物語においても、兄妹は決して彼らのみの閉鎖的関係の中で幸福を獲得するのではない。それにもかかわらず、リピュアAパートの兄妹が閉鎖的に見えるのは、最終話に至ってようやく一つの起点を描くことができた、つまり兄の「再−浄化」を描くことができたためであり、ここから本作品の兄妹は、その幸福への努力を街とともに続けていくはずなのだ。第11話で咲耶が気づいたように、この街には、他ならぬ兄との思い出が溢れているのだから。そしてまた第13話で兄がカラクリ時計の前で気づいたように、街そのものが兄妹に救済の糸口を与えてくれ、そしてそれを通じて兄妹は、カラクリ時計に込められた街の創世の想いそのものを受け継ぐことができるのだから。


4.トゥルーシスターズ・ショー 〜メタフィクション的解釈〜

 さて、通常の意味での舞台設定解釈は、ここまでで完了している。しかし、アニプリと本作品とを結びつけて考えようとする立場からすれば、以上のような解釈に満足を覚えることはないだろう。先述のように、論者は、両作品を連続した時系列のもとに並べるという単純な方法について批判的である。だがこのことは、他の方法による両作品の結合を拒絶することまでも意味するものではない。例えば、Aパートの兄妹は、アニプリの兄妹が別の時間、別の世界に転生した存在だと想定することもできる。また、アニプリの兄妹がプロミストアイランドに住まないようなパラレルワールドの一つとして理解することもできるだろう。しかしそれらは、一見何らかのかたちで連続性を確保しようとはしているものの、両作品の、とくにアニプリの設定を生かした解釈とは言いがたい。
 そこで、論者がこれから示すのは、アニプリのあの設定をある程度用いたうえで両作品がいかにして結びつきを持つことができるか、その方策のうちの2例である。

(1)GARBAN SEED

 最初の解釈は、リピュアAパートの街が、『機甲戦記ガルバン』の舞台世界内に存在していると理解するものである。Aパートの兄妹がアニプリのはるか未来やパラレルワールドに存在すると考えることができるなら、いっそガルバンワールドにいてもいいはずだ。きわめて荒唐無稽なこの論点は、美森勇気氏から個人的に示唆されたアイディアに基づいており、それが途方も根拠もない発想であるがゆえに、いかにもアニプリらしい解釈の喜びを論者に与えてくれる。(ガルバンについては、既にアニプリ補論2にて詳述している。)以下、ほぼ完全に空想ながら、その背景を描いてみよう。

 神が創りし自然世界に、アダムとイヴ以来「生めよ育てよ」とその根を下ろし広げていった人類。だが、人口の急激な増加、消費社会の過剰な発展など、地球上で人類が生きていくための条件は加速的に悪化していった。それらの問題を一挙に解決するための方法として、ついに人類は多くの犠牲を払いながらスペースコロニーの開発に成功し、人類の半数が宇宙への移住を開始した。
 しかし、それは問題の根本的な解決をもたらすことはなく、ただ神の手になる地球を離れた人類は、その傲慢な精神をさらに肥大させていった。地球に住む旧人類は、「5人の宣誓者」という名の寡頭体制(5時の盤面で頭の上にぶら下がったリンゴは「魂を重力に引かれた者」の象徴)に服していた。この地球連邦と、コロニーに住むスペースノイドとの経済的対立は、やがて互いの憎悪を増幅させ、両勢力の和平派を排除し合った(「エイトメン・アウト」)後、ついに人類を絶滅させかねない巨大な戦争を生起させてしまったのだった。
 地球からの独立と、旧人類の撲滅を唱道するスペースノイド急進派の拠点は、コロニー国家「クラウド・ナイン」。ダンテ『神曲』の天国篇に名の由来を持つこの軍事国家は、宗教権力者である「3聖人」と、テクノクラートである「4賢人」からなる評議会によって指導され、小規模な人的資源にも関わらず、新兵器バトルコート(これは『ガソバル』での兵器呼称だが)によって圧倒的な攻勢をとり続け、地球連邦に地獄を、また日和見な他コロニーに煉獄を与えようとしていた。
 その戦火は、ここ閉鎖型中立コロニー「翼多」にもいよいよ接近しつつあった。中立宙域近辺での戦闘や戦局全体の情報は、市民の動揺を招かないよう完全に統制されていた。だが、地球連邦と秘密協定を結んでいた「翼多」は、ついに自らを戦火に投じることとなった。コロニー内で極秘裏に共同開発を進めていた地球連邦軍初のバトルコート「ガルバン(GARBAN)」の存在を、「クラウド・ナイン」正規軍に察知されてしまったのだ。「敵のV(ご)作戦を知っているかね?」士官学校時代の親友にそう語る仮面のエリート指揮官は、偵察部隊をコロニーに潜入させる。後に彼らは、V(ご)作戦によって開発されていたバトルコートのうち、ガルバン以外の4体を奪取することに成功する。
 その頃、兄は、妹達にかつて「本物の星を見せてあげる」と約束したことを、未だ実現できていなかった。コロニー以外の世界を知らない妹達。地球に移住できる可能性があったにも関わらず、開戦でその未来が閉ざされた妹達。親達も渦中にある諸勢力の闘争を前にして、妹達の生命と平和を守るために、兄は何をなしうるのだろうか。彼は知っている、レンガ倉庫に隠されていたマッキー像が、「クラウド・ナイン」から提供された緑化促進モノリスであることを。そして地球連邦からの依頼によってこそ、「翼多」の産業がようやく潤っていることを。政治の論理に兄は嫌悪感を抱きながら、それに抵抗できない自分の非力さを呪う。「偽物の星でさえ手に入れられないなんて…。」そう呟く兄の頭上を、一筋の流れ星が越えていく(第13話参照)。それは敵の偵察部隊か、それとも、マック大和が乗り込んだガルバンの軌跡なのか。そして兄は、本物の星を妹達に贈ることができるのか。地球連邦軍の希望の星ガルバン、しかし妹達にとっての真の希望の輝きとは…。

 そう、この解釈(というより空想)に立てば、リピュアAパートは『機甲戦記ガルバン』本編のサイドストーリーであり、マック大和がガルバンに搭乗して戦う最初の場面の片隅で、一般人がいかに精一杯生きていたかを描くOVA的物語なのである。(主役ロボットなどが全く登場しないというあたり、いかにも製作者の美学のみで作られた昔のOVAの臭いがする。)そしてこのように解釈することによって、アニプリとリピュアAパートは、ガルバンという最もアニプリ的な要素を通じて関連性を持つことができるのだ。もちろんこの解釈については、閉鎖型コロニー内に夜空を投影できるのか、海は存在できるのかなど、非常に多くの設定上の問題が指摘されることだろう。だが、それらの究明は論者の能力を越えている。少なくともそのようなコロニーであれば気候は調整されており、クリスマスの夜も鞠絵はそれほど酷い寒さに苦しまずにすんだのではないか、と考えることで満足し、あとはSF考証家やガロタ(ガルバンオタク)の手に委ねるほかない。

(2)山田太郎の溜息

 次の解釈は、アニプリ第6話で「第一回プロミストアイランド演芸大会」に出場し、その劇で審査員特別賞を受賞したものの優勝は逃していた航達が、翌年に捲土重来を期して、今度はドラマを製作して「第二回演芸大会」なり「第一回映像芸術大会」なりに参加した、とするものである。つまりこの場合、リピュアAパートとは、航が妹達や眞深・燦緒・山田達に担がれて、無理矢理に主演させられた映像作品なのだ
 この場合、なぜ13話もこしらえたのかが問題になるが、当初の製作予定では第1話だけで完結するはずだったのだろう。実際、内容的に見ても「お兄ちゃん大好き」「お兄ちゃんは世界で一番」というテーマはそこで十分描かれている。しかしこの公開作品が好評だったこと、可憐以外の妹達とくに咲耶あたりから「自分がヒロインのお話も」という声が出てきたこと、山田がそれに便乗したこと、じいやがこのさい全面的に支援して、あわよくば島のケーブルテレビで放映してしまおうと企んだこと、などが継続製作の理由として考えられる。
 監督等はやはり山田が一括就任を目論んだのだろうが、眞深(眞深美)に却下され、妹達による脚本・演出の修正を受け、「山田フィルム」の冗長なオープニングを省略され、カメラワークなどは燦緒達に任され、結局のところ共同製作というかたちで落ち着いた。眞深はあくまで裏方に徹するつもりだったが、鈴凛や四葉達の懇願で、第9話に「友情出演」することとなった。逆に山田はもっと重要な役を演じるつもりだったが、修正削除の末にほんのチョイ役に収まった代わりに、「総監督」の肩書きを保証された。燦緒も出演するよう勧められたが、航の邪魔をすまいという本人(というより眞深)の遠慮と、自分よりも目立つ男に出演してほしくない山田の意向が一致して、一切姿を現さないこととなり、むしろ航に「格好いい兄」らしい振る舞いを教授する役割を果たした。本作品中の兄が声も含めて燦緒めいて見えるのは、主にこの演技指導によるものである。

 ドラマの舞台となる街は、既存の市街地、プロミストパークに新たに設けられた映画村、山田苦心のジオラマなどを最大限に利用している。第10話で海に夕日が沈むにも関わらず、その海に背を向けている時計塔が第4話で夕日を浴びているなど、時々影が逆になってしまっていたりするのは自主制作ゆえのご愛敬。兄妹の住宅が半分がた使い回しなのも制作進行の厳しさを物語るが、とくに第11話で登場する咲耶の家は、最初と最後で若干形状を異にしているように見える(最後の場面では第5話の千影の家と同じ)。脚本の甘い箇所も含めたこれらの細かい失敗や苦労は、おそらくやがて『メイキング・オブ・シスター・プリンセス Re Pure』などといったかたちで編集されたことだろうが、そのさいには、第9話で激辛カレーパンを囓った四葉が大騒ぎするといったカットシーンのほか、第5話など出演した千影似の幼女を後で探しても見つからず、じつは誰だったのか分からずじまいだったことなど、謎めいた逸話も盛り込まれることになる。
 作品の内容については、第8話で鞠絵の療養所生活が描かれるのは、航にその当時の様子を知ってほしいという彼女自身の要望と、そのときにできなかった兄妹のお見舞いをここで実現しようという妹達の計らいとが手を結んでのことである。第11話に登場した咲耶の宝箱の小物は、彼女が兄と「一緒に過ごせなかった時間を、少しでも取り戻したい」(アニプリ第7話参照)がために、このさい子供時代を創造してしまおうとするもの。あくまでフィクションであるため、アニプリで得た思い出の品はここでは登場させていない。第13話の回想場面で妹達がアニプリの服装をしているのはむしろ当然のことだが、しかし実際にはあのクリスマスから2年どころかまだ半年しか経ていない。
 そして、第7話などでじいやさんが登場するのは、兄妹の絆が確定し、島の未来も開かれていく予感を得て、ついに妹達の保護者達が島を訪れ、あるいは移住し、兄妹の調和の中に結び入れられるときが来たことを指し示している。まずその第1段階として、実母でなくメイドであるじいやさんがウェルカムハウスを訪問し、亞里亞はもちろん兄妹全員の生活態度を厳しくチェックしつつ(ついでに、しつこくつきまとう山田をあしらいつつ)、続いて島を訪れるはずの亞里亞の保護者を兄達と引き合わせる準備を進めているのである。このドラマ出演は、それゆえ、その準備の一環として執事じいや達がじいやさんに勧めたものであり、だからこそ第7話は、亞里亞とじいやさんの絆を取り結ぶ兄の姿を描くことで、妹の保護者達を一様に絆の中に招き入れることのできる航への信頼感を、このドラマを見る保護者達に与えられるように差配されていたのである。
 そのような配慮に基づく内容構成は、花穂を年少者の代表としつつ連綿と続けられていたわけだが、しかし第9話までさしかかるに至り、何かクライマックスへ向けて盛り上げたいという山田総監督の欲望と、より年長者向けのロマンスを盛り込みたいという咲耶達の欲望とが、脚本の前面に現れてきてしまう。これが咲耶メインの3話最終話に結実するわけだが、13話にも及ぶ本作品の撮影を終えて、航も演劇が苦手という以上にさぞ疲労困憊したに違いない。しかし、妹の保護者へ向けて自分の想いを精一杯込めようとした航の誠意を見て、妹達は何よりの愛を感じ、そしてこれから待ち受ける関係者一同の対面に向けて、各自の不安を払拭し共に歩んでいく決意を固めることができたということも、また間違いない。最終話で妹達が兄に捧げる歌は、まさにそのような決意のもとで、兄への愛と感謝を包み込んだプレゼントだったのだ。ドラマというフィクションのための演技でありながら、そこに兄妹の心のつながりを本心のままに表現しえている彼らに、もはや現実と虚構の区別はなく、ドラマ的な演出は必要ない。だからこそ、カラクリ時計を直すためにわざわざ眞深が登場しなかったのは正解だったのであり、むしろ視聴者は、そのような兄妹の姿をカメラ越しに見つめている眞深の微笑みを、隣にいる燦緒の視点から想像すべきなのかもしれない。

 以上、ここに挙げた2つの解釈は、いずれもリピュアAパートをアニプリの作中作品として理解するものであり、あるいはガルバン的解釈の場合は、さらに本作品を「じつはマック大和が観ていた萌えアニメ番組」とすることで、作中作中作品という位置づけさえ与えることもできる。これらは、アニプリについて論じられていたメタフィクション的解釈の可能性(アニプリ補論2参照)について、見当違いの方向から一石を投じるものでもある。つまり、一見『トゥルーマンズ・ショー』に似ているかに思われるアニプリよりも、舞台世界にリアリティを持たせたリピュアAパートの方が、じつははるかにメタフィクション的だったという逆説が、ここに見いだせるかもしれないのだ。もちろんそのような逆説は、両作品を結ぶ空想の力によってしか成立し得ない。しかしまた、この航達兄妹ならば、リピュアAパートに先取りされた夢を、「ビューティフル・ドリーマー」に陥ることなしに可能な限り幸福なかたちで実現するはずだ、と期待したくもなるのである。


終わりに 〜作品外論理による解釈〜

 本考察では、舞台設定を様々な角度から検討してきたが、それぞれはあくまで一つの解釈であり、作品を楽しむ手段にすぎない。その楽しみとは、言うまでもなく本来、兄妹という主人公達を共感的に理解することから導き出されるのであって、設定そのものを「正しく」理解しようとしてその世界に生きる者達の姿を見失ってしまっては本末転倒となる。本考察が「補論」である理由はつまるところ、そのような錯誤に陥らないための自己限定にある。
 それにしても、論者ができるだけ言及を避けてきた作品外論理、つまり制作スタッフや原作者側の問題は、噂の域を出ないにせよ、確かに完全には無視できないという苛立ちを感じさせる。また実際に、下田屋つばめ氏が監督を務めた別作品である18禁OVA『椿色のプリジオーネ』にて眞深がプロミストアイランドに送り込まれる経緯らしきエピソードを挿入した(しかも辻褄が合っていない)ことや、メディアワークスが関わるアニメ作品『住めば都のコスモス荘 すっとこ大戦ドッコイダー』にてアニプリのゲーム版めいた作品「Thirteen Sisters」が登場する(キャラクターや舞台設定などはアニプリ同様で、作画をアニプリキャラクターデザインの新田靖成氏などが手がけるが、性格描写や情景が違和感を与える)というセルフパロディなど、制作スタッフによるお遊びをみるにつけ、論者も思うところがないわけでもない。
 そこで最後に、製作者側について想像される事情を題材にした舞台設定解釈をあえて掲げることで、多分に主観の入り交じった本考察の結びとしたい。

 角川本社との騒動の中から蘇ったメディアワークス(「樅の木」)の元、天広直人氏と公野櫻子氏というクリエイター(「アダムとイヴ」)によって生み出されたシスター・プリンセスは、関連各社・スポンサーや広告会社の結集(「三王」「四賢人」)、さらにアニメ版製作委員会の設立(「五人の宣誓者」)によって、さらなる作品的・商業的発展を遂げようとした(「六本煙突」)。
 しかしアニプリスタッフが暴走(「七大罪」)して原作者側との軋轢を生じさせた結果、関係者が斬首(「エイトメンアウト」)され、アニプリが彼岸的な仕上がりで常軌を逸した成功を収めたことにスタッフが舞い上がった(「クラウド・ナイン」)にも関わらず、新作リピュアでは様々な制限が厳しく課されることになった(「十戒」)。
 2つのパートからなるその構成は、視聴者に否応なく両パートを比較させたりアニプリファンの批判を招いたりした(「鏡」)が、それらのゴタゴタに振り回され、そして製作者側の活動が終わりを迎えてもなお、12人の妹達は永遠に輝き続け、兄妹の歌を奏で続けるだろう(「十二の歌う天使達」)。

 開かない最後のカラクリの扉を開くのは、そんな歌声を忘れない、胸の小箱に星を宿したファン達なのだ。

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