キャラクターコレクションにおける挿絵の役割

〜テキストとの関係から〜



はじめに

 『シスター・プリンセス』キャラクターコレクション全12巻について、論者はこれまで予備的な数値調査設定要素の分析などを行ってきた。その成果はあくまでも暫定的なものではあったが、例えば『シスター・プリンセス・メーカー』作品に適用されることで、一定の解釈視点として機能しうるものと理解された。
 しかし、これらの考察ではテキストにのみ焦点を当てており、作品のイラストやカットについて言及することは、若干の例外を除いてほとんどなかった。この対象限定は論者の方法論的限界に基づくものであり、その問題も自覚のうえでのものではあった。とはいえ、『シスター・プリンセス』という作品がそもそも「illustration 天広直人 word 公野櫻子」という二人の原作者による創作であり、絵の重要度は言うまでもなく高いどころか絶対不可欠のものである以上、このグラフィック面を除いて作品を理解しようとすることは、本来あるべき態度ではない。だがこれに対して、論者は、イラスト考察の必要性を知りながらも、自らが絵についての知識も技能も全く持たないことを理由に、沈黙を守ってきた。
 しかしこの問題について、論者は秋ヶ瀬夜月氏からの私信の中で次のような示唆を与えられた。つまり、「技術的な問題ではなく、テキストのどの部分をイラスト化するか、どのタイミングで挿入するか、妹の出てこない(例えば、花穂のキャラコレにあった猫だけのイラストなど)はどんな場面で登場しているのか」といった問題については、論者にも検討可能ではないか、というものである。ここに一つの突破口を得たことに感謝して、論者は、これまで行ってきた考察の内容を踏まえつつ、本考察において新たな限定的視点からキャラクターコレクションのイラストを検討することとする。その視点とは、天広直人氏による各話の挿絵が、そのテキストとどのように関連づけられているのか、またその内容をどのように深めているのか、のみに向けられたものである。
 もちろんこの視点は、テキストを主・イラストを従とすることで、本来両者が対等であるはずの『シスター・プリンセス』に色眼鏡をかけて眺めることにすぎないかもしれない。だが、キャラクターコレクションに限って言えば、この12巻シリーズではそれぞれの分量からいってもテキストが主体であり、イラストはあくまで「挿絵」として、イメージを具体化してテキストの理解を促進するという補助的・支援的な役割を果たしていると予測できる。それゆえ、論者が今まで明らかにしてきた『シスター・プリンセス』のテキスト上の諸原則・要素をもとに絵を解釈することで、その解釈から再びテキストを読み直すという相補的作業も、このシリーズについて可能となるだろう。


1.挿絵の位置

 
キャラクターコレクション挿絵の検討にあたって、まず、シリーズ全巻各話での挿絵の位置について一覧する。挿絵に対応する場面の有無やそのページについては異論もあると思うが、本考察ではひとまず以下の通りとする。

<挿絵の位置> 左は挿絵ページ、右は対応場面ページ、( ) は憶測、- は場面非対応
話 数  7 . 話 数  6 .
可 憐 6/- 7/9 3/6 6/9 3/2 7/8 6/9 白 雪 7/6&10 10/9 7/10 7/8 7/- 7/6 7/-
花 穂 7/5&9 7/(4) 10/9 6/8 3/- 7/8 9/8 鈴 凛 9/8 7/(8) 7/8 7/8 7/1&8 7/9 7/-
7/9 6/8 7/10 6/7 3/(10) 7/9 7/- 千 影 7/6 7/8 7/6 7/(6) 7/- 7/8 7/-
咲 耶 6/- 7/9 7/10 6/(8) 7/6 7/(8) 7/6 春 歌 7/8 3/5/9 7/(1) 7/- 7/- 7/- 7/10
雛 子 9/8 7/8 7/9 6/5 7/8 7/10 7/4 四 葉 7/10 7/- 7/4 7/(9) 7/9 7/9 7/8
鞠 絵 7/9 3/5 7/8 7/5&9 7/5 7/9 7/6 亞里亞 9/- 7/6 7/(6) 7/10 7/10 7/8 7/8

 全体として、挿絵の位置は7ページ目が多い。各話あたりのページ数は挿絵も含めて8-9ページ程度なので、結びに至る場面、つまり通常は兄による妹の問題の解決にさしかかるあたりで、そのときの妹あるいは兄妹の姿を描写することとなる。ただし、その挿絵が必ずしも前後のテキストに対応しているとは限らず、1場面(2-3ページ)程度のずれは十分可能であることも分かる。また、テキストと完全に対応しない挿絵や、テキストと全く対応していない挿絵も、少なからず存在する。それらはたんに挿絵とテキストの不一致ということではなく、テキストに記されていない妹の空想や夢が、そこに描かれている場合があるのだ。挿絵場面にどの場面を用いるかという問題は、それゆえ、挿絵位置とともに、その話の主題や、その妹の特徴に応じて、検討されるべきものとなる。


2.挿絵場面と描写内容

 次に、各巻における挿絵描写のありようを、それぞれの妹の特徴やテキストに結びつけながら検討していくことにする。


(1)可憐

 まず、この第1巻の中で、第1話挿絵だけが本文に全く対応していないことに注意したい。可憐のウェディングドレス姿を全身像で描いたこの挿絵は、可憐が「今はもう、そんなことはできないんだって知っているけれど、でも」(p.1)と独白するように、頭では理解しているものの、今なお彼女の理想の未来像であり続けている。それゆえ、この挿絵は、シリーズ第1巻の劈頭にあたって『シスター・プリンセス』の主題である妹の兄愛の純粋さとその婚姻不可能性という限界を端的に示すものであり、そのことは、可憐が読者目線であることによって読者=兄への訴求力を増している。また同時に、この第1話では、綾小路の言葉が可憐に与えた(淡い夢想の破壊による)苦痛の大きさを知るよすがにもなる。
 次に気がつくのは、第3話と第5話の挿絵の関係性である。第3話では、兄の手を「ぎゅって」握った可憐が、兄の笑顔を見て「いっぺんに緊張がとけ」た姿を表している(p.35-6)。笑顔の可憐の目線は、兄が横に描かれていることから、その兄に向けられている。1話はさんで第5話では、兄とのデートにはしゃぐ可憐が「こっちに腕を出して!」と兄にせがんで手を伸ばす姿(p.56)が描かれている。盛り上がりまくる可憐の表情は、しかし第3話に比べるとまだ落ち着いている。それは、既に手を握り兄の笑顔を確かめた後の可憐(第3話)と、いよいよこれからというときの可憐(第5話)との対比をなしている。あるいはまた、第3話では手を握ることにもなお緊張していた可憐が、第5話の段階ではその経験をふまえてやや大胆さを獲得していたという、微妙な変化の表れとして理解することもできるだろう。
 第7話の挿絵では、可憐の空への目線は今は亡き祖母へのものでありながら、さらに読者へと向けられてもいる。これは、「将来必ずお兄ちゃんを振り向かせられるように」(p.88)という可憐の未来への願いが、過去の祖母の思い出によっていっそう強く喚起されていることを示す。なお、可憐の祖母は自らも実兄への思慕を抱いていたわけだが、第2話で可憐の父(妹達の父親の中では例外的に印象深い)に借りたカメラのハーネスが、可憐と兄の並んだ写真立てをぐるりと抱くように囲んでいる挿絵では、この父もまた、可憐の想いに何らかの理解があるのではないか、少なくとも可憐の現状にある程度肯定的な(「パパがあんまりニヤニヤするから」p.24)態度を有しているのではないか、と想像させられもする。

(2)花穂

 可憐の挿絵では妹の兄目線が多かったのに対して、花穂の場合はそれが少ない。それどころか、花穂すらも描かれていないものが2枚もある。
 兄目線でないのは第1話と第4話である。第1話では、花穂が光のツリーを見上げ、その目の前にガイディングスターが浮いている光景が描かれている。これは、直接的には、かつて幼い花穂が兄と早く会えるようにお祈りをしていた姿(p.10)である。また、兄に導かれて訪れた花屋の煌びやかさに見とれる姿(p.12)でもありうる。そしてさらに、兄と植えたもみの木が「今年もいっぱい大きくなって、早くクリスマスになぁーれ!」(p.15)という、いまの花穂の願いを指し示してもいる。ガイディングスターを前に祈るように見上げる姿は、つまり、育ちゆくその先に期待される兄との時間を待つ想いのかたちであり、しかもその期待は、兄自身が導きの星として与えてくれたものである。となれば、ここでの花穂の目線が兄に間接的に向けられていることが分かるだろう。第4話の場合も、これと同様に、習字の練習をしながら、習字にまつわる兄との思い出を反芻している花穂の姿が描かれている。だから、花穂は「知らないうちにお袖に墨汁のしみが」(p.51)ついてしまうのであり、ここでの花穂の目線は、半紙を通して、その向こうに兄の姿を映し出しているのである。
 花穂が登場しない挿絵では、その挿絵を見る読者の視線そのものが、妹の視線と重なり合う。第5話では、赤い靴(花穂の足は描かれていない)が水たまりに小さな波紋を揺らし、その水たまりには空と雲と虹が映っている。これは、赤い靴を履いて兄に見せに行こうとする花穂の、心踊るさまを示している(それはリピュアBパート第5話でより具体的に描写された)とともに、最終的に兄に見せようとする直前に転んで一切台無しにしてしまった花穂の涙が、兄によって晴れ上がるであろうというその後のすじみちを、予感させるものでもある。また第6話では、花穂の眼前で眠る子猫の姿が描かれているが、これは、自分にも「こんなちっちゃな頃があった」と気づいた花穂が、そんな自分を兄が見守っていてくれたであろうこと、「花穂が猫ちゃんを見てる時に感じる、このふんわりしたあったかい気持ち」を兄も感じていたかもしれないことに、思いをはせるその目線を示している(p.72-5)。そしてこれは、その「ちっちゃな頃」の花穂を見守る兄の目線をも、この子猫を見つめる花穂の目を通して読者に与えるものであり、つまり兄妹を描かないことで、兄妹の心情を複層的に描写しているのである。

(3)衛

 衛の特徴として、第二次成長期を迎える彼女が心身の不均衡や兄との距離感に悩むという点が挙げられる。第3巻の挿絵も、このことを示すのに一役を担っている。
 第2話では、身体測定にさいして自分の成長にとまどう衛が「あにぃに女の子扱いされ」たくないと駄々をこねるが(p.27)、この身体測定ならびに肉体的成長へのためらいと、それを契機に与えられる兄との距離感が、手前の同級生達の屈託ない姿と、その奥に遮られるようにしてたたずむ衛の困惑した姿とによって、描かれている。また第1話と第7話では、兄に追いつけない自分への焦りが、挿絵の枠線によって暗示されている。つまり兄との遠さが、これらにおいて描かれていると言っていい。
 これらに対して、第3話では、恐くて思わず兄にしがみついてしまった衛が、照れながらも再び兄に抱きついて自分達だけの秘密にしてほしいと懇願するさまが描かれている(p.39-40)。この挿絵では、思わぬ女の子らしさを発揮した衛と兄の身体的距離の近さが、上半身アップの構図によって端的に示されており、そしてその兄目線での表情や仕草も、衛の少女性を読者=兄に直接的に伝えている。また、第6話では、キャンプに行った衛が兄と二人きりのテントの中で、微妙なくすぐったさと恥ずかしさを感じつつもこの状況を満喫している衛の想いが、シュラフに入りかけの全身像で描かれている。これらにおいては、逆に兄との近さが、構図や目線によって明確に示されていることになるだろう。
 なお、第5話の挿絵ではキャンプ用品だけがいくつか並べられているが、これは花穂の場合と同様、これらを見る視線が衛のそれと、つまりキャンプという絆への期待や兄そのものへの喜びに満ちたまなざしと、重なり合っている。また、第7話では、衛が兄にサッカーを実際に教えてもらっているという、テキストの結末部の後に続くはずの場面が挿絵に描かれているが、これは衛の不安を越えた先に、兄との未来を予感させている。

(4)咲耶

 兄との婚姻不可能性に最も思い悩む咲耶は、その自覚的な認識のありようを挿絵でも示す。
 まず第1話では、文章と無縁のお化粧姿が描かれているが、それはその姿を直接とらえたものではなく、鏡に映し出されたものである。この鏡像ということこそが、咲耶が彼女自身を客観視する目線を示している。第2話では、やはり「鏡の中」の「幸せな花嫁の姿」(p.27)がいったんは挿絵にも描かれるものの、その「幸せ」がまさにこの鏡の中にしかない実現不可能なものにすぎないことを、咲耶自身が告白しつつ慟哭する。これらに描かれる鏡像は、つまり、妹の願望と、それを自ら否定せねばならない客観的認識とを、二重に示しているのである。
 また、兄への想いのこの複雑さは、咲耶の目線が兄にまっすぐ向けられる挿絵があまりないことにも表れている。それは、兄の側でも咲耶の振る舞いを受けとめかねやすいということの裏返しでもあり、第3話では兄に腕をからめる咲耶の目は閉じられて兄の頬にキスをしようとしており、その間近に迫る妹の顔をのぞき込む兄の表情は挿絵からはうかがい知れない。そもそも、カバー絵でも咲耶は上述の妹達と異なり、読者=兄目線で描かれていないのである。第4話では兄の誕生日ということもあり、兄へ目線を向けてはいるが、一方、第5話では、兄からあえて離れようと試みる咲耶が、街灯の光の中に、自らの孤独や兄との距離感を不安げに見いだしている。
 結局、この悩める妹の想いの一切は、寝ている兄を枕元で見つめる第7話の挿絵にて、その咲耶の瞳のいろにこそ、兄の気づかぬ間に立ち現れているということになるだろうか。そしてその瞳のいろは、テキストのどの場面を重ね合わせるかによって、不安から安堵と慈しみまでをそれぞれに微妙にきわだたせてくれるのである。

(5)雛子

 最年少妹の雛子は、当然身長も最も低い。この幼さ、小ささを兄妹関係においていかに示すかが、第5巻の挿絵の目的となる。
 小ささを示す方法としては、第3話のように頭上に余白をとるという手もあるが、この巻で特徴的なのは、他者との対比による表現である。例えば、第2話ではライオンの赤ちゃんを抱きかかえる雛子を、同様に第6話では迷子として保護されていた雛子が兄に再会できて安堵する笑顔をやや上方から眺めることによって、また第4話ではカエルを見つめる雛子の全身像を横からとらえることで、雛子の小ささと幼さを描いている。これらの挿絵では、雛子への読者の目線は、つまり兄の目線と重なり合う。
 この一方、兄を挿絵の中に登場させることで、妹の小ささを描く方法もある。これは、第5話では、流し場で泣き笑いする雛子と、その足下にかがむこんで雑巾をしぼる手前の兄との対比が挙げられる。また第7話では、「おにいたまが抱きかかえるようにして」「ヒナの小さな歩き方にあわせてゆっくりと」(p.82)御聖堂へと雪中を歩いていく雛子の姿が描かれているが、兄のコートの中にすっぽり入ったその姿は、兄の顔を見上げながら歩く妹の小ささを端的に示している。なお、この第7話での雛子の兄に包まれ庇護された安心感は、第6話での迷子だった雛子の不安と対照されることで、いっそう強調されてもいる。そしてこの対照による強調は、第7話の挿絵が最後のページに置かれているにもかかわらず、結末場面をあえて描かない(そこでは雛子は兄と手を繋いでいる)で、その代わりに結末場面と似た雰囲気の出発場面を選ぶことで、テキストとの違和感を与えることなく可能となっているのである。

(6)鞠絵

 兄と遠く離れての療養生活を送る鞠絵は、兄との不可避の距離をたえず痛感しつつ、様々なかたちでこれを埋めようとする。挿絵では、このことが目線によってきわめて明瞭に示される。
 第1話では、兄と元気に遊べた発病以前の夢(p.9-10)を連想させる写真と、兄からの手紙を読んで励まされ、遠くの兄を想ういまの鞠絵の姿(p.12,15)とが、描かれている。この左向きの鞠絵の目線はそのまま絵の左方向へと向けられているが、ここには、元気だった過去の記憶を完治後の未来に投影しつつ、いまの療養生活を兄の支えによって生きようとするという、鞠絵の心境を端的に示している。同様の、過去を媒介にしつついまに向き合うという鞠絵の態度は、第3話でもかつて兄がくれたお守りを胸に抱きながら目を閉じる姿として、また第4話でも思い出の本を開きながら回想する姿として描かれている。
 しかしこのとき、過去があまりにも輝かしいために、治癒しないかもしれないという決して消えることのない不安が、かえって増幅してしまうこともある。第4話の挿絵も、本を読みながら「また涙が」(p.47)こぼれそうになってしまう前なのか、それともそこに兄が登場してくれた後の、感想文のために本を読んでいる(p.51)場面なのか。この2つの場面の間に、鞠絵の焦燥と悲痛とが語られているわけだが、その狭間は第4話では挿絵の場面が特定できないことによって、また第1話では写真と鞠絵の目線のずれによって、暗示されていると言えなくもない。同様の心の空隙は、第5話ではひばりちゃんと向かい合って語らう笑顔が、寂しさゆえにひばりちゃんに「退院してほしくない」と感じてしまう鞠絵の自己嫌悪(p.56)と、ひばりちゃんに兄をとられたくない自分の胸の痛み(p.62-3)との狭間にあることにも、表れている。
 こうして、間接的にのみ描かれてきた兄への目線や、あえて暗示されるにとどめられてきた心情は、最終的に第7話において、兄と二人きりの観覧車の中で、読者=兄を振り返る目線と笑顔の中に、その収束点を見いだすことになる。

(7)白雪

 前半では兄目線の挿絵が多い第7巻だが、白雪の挿絵で最も注目すべきは、第5話のものである。キャラクターコレクションの挿絵は、兄からの視点や、妹自身の視点、あるいは不特定な第三者の視点から描かれることが多いが、この第5話では、白雪がお菓子を作るひたむきな姿を、特定の第三者の視点、すなわちマダム・ピッコリの目に映る像として描き出しているのだ。この白雪の姿は、いまラング・ド・シャを作っている最中のそれでは、おそらくない。「猫の足のシェイプ」(p.57)であるはずのこのお菓子と、挿絵にあるウサギ形のお菓子とは、別物と思われるからだ。白雪の兄への想いを知り、しかしその未来に悲しみが待っているであろうことを自らの経験に即して予感するマダムは、白雪を婉曲的に励ましながら、そのお菓子作りに熱心な小さな姿を沈黙のうちに見つめる。白雪の真剣な瞳には、お菓子の向こうに兄の姿が映し出されているのだろうが、これを横から捉えた挿絵では、マダムのせつない共感的な目線が読者のそれに重ね合わされる。つまり、この潜在的に否定的な第三者の目線は、読者に客観的な認識を与えるだけでなく、妹の想いの健気さとはかなさを同時に伝え、兄としての愛情をかえって高められるのである。
 ここでの第三者の心情は、白雪のリボンがあまりに黒いことに、その重さを暗示している。しかし、続く第6話で白雪がこのリボンを外した姿を鏡に映している姿を見るとき、ここには、兄との絆の象徴であるリボンをあえて外したときに、白雪の新たな可能性が開けることが示唆されている(p.72-3)。咲耶の鏡像とは異なる意味での自己像の再確認が、ここで白雪にむしろ未来への希望を抱かせる。それゆえ、最後の第7話では、リボンではなく冠をいただいた白雪が、兄という王子様にまみえるさまが描かれることになる。これは確かに夢の中の出来事だとはいえ、白雪の未来に何らかの道を期待させるものであり、その希望の成就のためには、読者=兄がこの妹の目線をいかに受けとめるかが問われるのである。

(8)鈴凛

 第1話であえて描かれている小森さんの長髪眼鏡姿は、テキスト描写とあわせて、鈴凛のボーイッシュな個性をいっそう際だたせるのに役立っている。ただしこのような対比は、既に衛の第2話でも見られたものではある。また、第5話ではジジの思い出を遠くに見つめる鈴凛の目線が、いまの兄の姿と重なり合い、妹を大切な者達と結ぶ絆を複層的に描いている。
 しかし、鈴凛の挿絵で最も重要なのは、第7話のそれである。非常にさばけた性格の鈴凛だが、彼女には「アニキにもまだ言っていない」アメリカ留学という夢があり(p.82)、メカ鈴凛の製作はそのための準備の一環である。しかし、当初は兄のためにと考えていたこのメカ鈴凛だが、やがて鈴凛は、これがあくまで自分の「身代わり」であり、兄が自分のことを忘れてしまったり兄を「ほかの女の子にとられちゃったり」しないようにという、自分自身の不安を払拭するためのものであるということに気づいた(p.83-4)。しかも、そのメカ鈴凛に対してさえ、「アニキと仲良くなりすぎないでほしい」という感情を抱いているかもしれないと、鈴凛は自らを省みているのである(p.84)。この、咲耶と同様の、しかしきわめて冷静な自己の客観視は、同時に鈴凛自身の心を「自分」と「その自分を見つめる自分」とに繰り返し分裂させていく。また、既にそれ以前に、留学を希望する想いと、「いっそこのままアニキのそばにずっといようか」(p.86)などと思う気持ちとが、鈴凛の心の中でせめぎ合いながらないまぜになっている。それゆえ、この第7話の挿絵では、メカ鈴凛が人間の肉体の色合いで描かれる一方で、生身の人間である鈴凛は逆に淡い青色で彩られている。淡い色の鈴凛は、やがて兄から遠ざかる未来を暗示しつつ、兄とともにいることの幸せを確信してその笑顔と目線を読者=兄に向けている。そして、色鮮やかなメカ鈴凛は、鈴凛の冷静な振る舞いに潜む情熱をその肉体の温もりの色で示しつつ、いざ別離のときが来たならば秘めた感情がほとばしってしまうかもしれないことを、閉ざされた目によって沈黙裡に物語っているのである。これらのような意味を込めて、この両者を精神と肉体あるいは理性と衝動として捉えるとき、その統合が兄との絆においてしかなされえないことも明らかとなるだろう。

(9)千影

 この謎めいた妹の第9巻でまず気がつくことは、各話の挿絵が全て7ページ目に位置付いているということである。「7」という数字にいわゆる完全さや幸福という意味が込められているとすれば、この挿絵位置をつねに保持していることには、千影自身の悲願成就への想いが見いだされるのかもしれない。
 また、千影の目線にはつねにずれが潜んでいる。第1話では兄に差し出すべき金色のリンゴを手にして見つめ、第5話では飛来しているはずのキューピッドに目を向け、第7話では小さな傷から血をにじませる兄の手指をとって見入っているが、これらは媒体を経て間接的に兄を捉えるという千影の姿勢を示す描写である。第3話では闇の中から兄に手を伸ばしているが、その正面に向くはずの目線は読者=兄から微妙にずれている。第2話では幼い千影が登場し、兄を比較的まっすぐに見つめているが、これは幼児期の妹が兄を直視しやすいという、年少妹ならびに咲耶(第6話)や鈴凛(第2話)で描かれたのと同じ原則に基づく。(この一方で第6話では、その幼い千影が水晶玉を媒介に兄を捉えようとしている。)
 現在の姿の千影が読者=兄を直視しているものは、それゆえ、表紙絵以外には第4話の挿絵しかなく、しかもこの挿絵は、前世において結ばれながらも兄を失って「この人の後を追って行こうって」(p.48)決意した、死に装束であり永遠の婚姻を確実にしようとする花嫁衣装でもある、はるか昔の千影の姿を表している。その目線は、それゆえ、目の前に出現した「羽の生えた禍々しい生き物」(p.48)に向けられているとともに、当時の兄の亡骸を収めた墓地にも、そしてやがて訪れる兄妹の、しかし「2人が結ばれること」も「兄妹として生まれ落ちること」(p.50)もないと告げられた未来(いまの千影にとっての現世)にも、向けられているものと考えることができる。千影はその特異な能力ゆえに、つねにこの世界と異世界とを同時に見つめ、またこの現世と前世とを重ね合わせて兄に向き合う。咲耶の目線と似ているようで根本的に異なるこの複層的な視点が、千影の兄にまっすぐには向きにくい目線に暗示されているわけだが、そのような目線を微妙な混淆のままに受けとめるはずの読者=兄はといえば、そこに言いしれぬ不安とともに魅了されたいという欲求を喚起されることになるのである。

(10)春歌

 才色兼備と子供っぽい性格とのずれが魅力であるこの妹の特徴は、テキストをそのままには描いていない仮想的な挿絵が多いことで示されている。第3話では源氏物語の世界に生きる兄と自分の姿をとことん空想しているが、挿絵ではその想像の中にいるだろう十二単姿の春歌が安らかに目を閉じている。第4話ではドイツいいた頃の舞踏会で「初めてのダンスは兄君さまと」(p.52)決心している春歌が、このとき夢見ているはずの光景を、挿絵に描いている。第6話で兄と二人きりの温泉旅行にはしゃぐ春歌はともかくも、挿絵で湯船にお猿さんがお猪口を浮かべているのは、もはやテキストと何ら関係がない完全なイメージ絵である。
 この一方で、前半での挿絵はむしろ凛々しい春歌の姿が描かれているが、第1話で長刀を構えるその姿の目線は、不埒な痴漢に向けられているはずのものである。この目線の厳しさは、本来そのような否定的第三者にのみ注がれるべきものなのだが、春歌の恐ろしさは、続く第2話で、的を射ようとする横向きの顔にも、この厳しい目線が幾分見いだされることである。このとき春歌が見つめているものは、麹町との対決の中で狙いを定めている的でもあり、また、最後に春歌が勝利をかちとったさいの的、つまり兄(の頭上のリンゴ)でもあるはずなのだ。もちろん春歌はこのとき競技用と同じ本物の矢を用い、躊躇なく(たった2行で射る支度をして、p.27)見事に射抜いている。兄も春歌を信じていた、と言いながら顔を青ざめさせているのだが、ここで読者は、春歌に長刀を突きつけられた不埒者としてだけでなく、兄としてもその鋭い目線の前に立たされ、さらに「この次は絶対! 兄君さまのために、この技を役立ててみせます」(p.28)という言葉にだめ押しされて、春歌の兄であることに十分な覚悟を迫られるのである。

(11)四葉

 第1話で描かれるボーンチャイナのユニコーン像と四葉の姿は、第6話での飛行船と四葉の姿と、どちらも上方を仰ぎ見ながら対照をなしている。第1話では、ユニコーン像に見いだした過去の兄との「ずっとずっと昔から、つながっていた」(p.16)絆が、いまの四葉に安心とさらなる兄への愛を抱かせている。これに対して第6話では、英国時代の四葉が、飛行船のゆく大空の向こうに、つまり「この世界のどこかに必ず」いる兄を感じとり、そこへ必ず行くという決意を新たにしている(p.74-5)。この過去・未来へのまなざしは、千影の異世界や前世へのそれとはもちろん、可憐や咲耶、鈴凛などとのそれとも異なり、「チェキ」という言葉に象徴される兄との絆を確信したいという欲求の表れである。その欲求は、しかしこの「いま」への幾分かの欲求不満をたえずはらんでおり、そのことは第3話では、兄との相性を占った結果に納得のいかない四葉がわざわざ変装をして学校に忍び込んでまでして兄の真の誕生日をチェキしようとする行動に示されている。
 「いま」に落ち着くことのできない四葉の心情は、この変装という行為や、目的と手段が簡単に入れ替わることなどにも立ち現れているのだが、またこのことから、四葉の挿絵のもう一つの特徴が浮かび上がってくる。それは、ほとんどの挿絵に共通して描かれている軽快な動きである。とくに腕を大きく広げたり伸ばしたりする動作とともに、四葉は足を軽やかに踊らせたり、立ち入り禁止のテープをぐるりと広げたり、マントをなびかせたり、髪やスカートを翻らせたりしている(生まれの星座からしても四葉のイメージは風である)。表紙絵にも明らかなこの動きの軽さと大きさは、逆にそれが描かれない第5話では、四葉が幽霊を怖がる不安さを強調することとなっている。なお、第7話では、フローティングマットに寝そべる四葉が動かない分、彼女の三角ビキニが躍動している。

(12)亞里亞

 春歌と同じく空想癖がある亞里亞だが、ここでは特に彼女の手の表情について注目する。
 第2話で梅干しを無理に食べさせられるとき、亞里亞のフォークを持たない側の手は、辛そうにぎゅっと握られている。この一方で、第3話では夢の中のサーカスに両手を大きく広げ、第4話ではひらめく蝶に左手を開いて伸ばそうとしている。これらの挿絵では、手は、拒絶と受容・親和といった妹の感情を表している。アニメ版などでは腕の動きもそれなりに描かれていたが、キャラクターコレクションでは亞里亞の動作をこの手の動きに限定することで彼女のおとなしさを示し、そこに繊細な表情を読み取らせようとしているのである。(この点では、四葉と対照的でもある。)
 また、第1話では蜂蜜の壺を両手で抱きかかえ、第5話ではベッドに横たわりながら両手を胸元に握り、第7話では兄のためにコックと作ったデザートを自らその両手で差しだそうとしている。それぞれの場面で亞里亞が胸に抱くのは、「兄やのおかげで」届いた蜂蜜であり(p.16)、「はやく兄やに会いたい」という気持ちであり(p.64)、「兄やにあげる、亞里亞のお姫様」である(p.86)。兄への想いが、年長者のように片手を伸ばすかたちではなく、両手によってつねに示されるという点に、亞里亞の年少者としての、また彼女の個性に基づく、特徴が見いだされる。つまりそれは、幼いゆえの体全体を用いた感情表現でもあり、また同時に、亞里亞の内向的・依存的な性格と兄への欲求の絶対的な強さとを示すものなのだ。
 なお、第5話で描かれたじいやさんの姿は、(もしこれが初お目見えだったとすれば)その後のファンの動向をおそらく大きく左右した(ただし、秋ヶ瀬氏のご指摘によれば、ゲーム版1での登場の方がわずかに早いとのことである)。


おわりに 〜ポートレートの表情〜

 総じてキャラクターコレクションの挿絵は、雑誌掲載のイラストなどに比べてラフな印象を与える。だが、1ヶ月に3冊ずつ刊行するという凄まじい時間的制約の中、各巻7枚の挿絵に加えて同数のカットと1枚の表紙絵を描くその苦労というのは、絵を描くことのない論者には察するに余りある。また、たんに緻密な描写が不可能だったというのではなく、テキストの「少女小説的なテイストと児童文学的な話法」(『シスター・プリンセスRe Pureセレクション』内、高野希義氏による解説、p.263)のよさをさらに引き出すのに、これらの挿絵の淡やかさはきわめて効果的なものでもあったことは、論者の主観だとしても積極的に認めたい。そして本考察で述べてきた通り、これらの挿絵は、テキストに即しつつ、あるいは時には大胆に想像の羽を広げつつ、各妹の個性や作品の主題を読者に伝えようとし、それに成功していた。さらにその結果、挿絵の印象からテキストを補完し再解釈させることをも可能にしていたのである。
 その若干の具体例は既に示した通りだが、ここで最後に、全体について妥当する新たな1点を付け加えておこう。それは、妹達の笑顔である。言うまでもなく、妹の真の笑顔は兄に向けられるものであり、キャラクターコレクションでもそのような笑顔はそれぞれの妹ごとにきちんと描かれている。しかし、ここで指摘したいのは、そのような兄と向き合う場面のみならず、また笑顔よりも悲しみや不安の表情が強調されるべき話においてさえ、妹の笑顔が描かれていることがきわめて多い、ということである。挿絵とテキストのずれは、実はここに一つの原因をもつ。キャラクターコレクションは、まさにその妹のキャラクターを読者に最良のかたちで理解してもらうための手段であり、その伝えるべき最良の内容の一つは、妹の笑顔に他ならない。この本自体の目的を全うするために、挿絵は妹の笑顔を様々な場面において描き出し、妹の喜びと幸せをその心情の機微や真摯な目線とともに読者に伝え、読者を兄たらしめるのに大きな役割を担っているのである。
 そして、こうしてみると、あの「笑顔がNo.1!やっぱりネ」という第一印象がきわめて『シスター・プリンセス』らしからぬ歌も、もしかしたらキャラクターコレクションの挿絵が示しているものと意外にも一致していたのかもしれない、とまで言ってしまうとさすがに読者も目線を逸らすだろうか。

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