アニメ版『シスタープリンセス』補論2

〜ガルバンとガソバル〜



はじめに 〜問題の視点〜

 本作品世界内での放映番組として登場した『機甲戦記ガルバン』(GARBAN、以下ガルバン)は、作中の作品として、とくに前半におけるオチに多用された。この番組と、そのパチモンである『機甲戦線ガソバル』(GASSOBAR、以下ガソバル)については、既に本編考察にてその都度付帯的に言及しているが、ここでは改めて両者を包括的に検討する。
 これらについては、本作品のメタフィクション的性格を指し示すものであるという指摘が、例えば転叫院氏『遅れてきた青年』内のシスプリ批評で(放映途中での試論という留保や注記のうえで)なされている。そのような立論まで至らないとしても、各話の最後に登場するガルバンネタと山田の姿が、本作品を視聴するアニメファンに対するメッセージ、しかも非常に批判的・嘲笑的なメッセージであるという理解が一般に見られる。これについて主観的な水準を越えたものとしては、例えば、りなも氏『萌え萌えアニメ日記』の日記内「天国のアニメとBDの呪縛」および「シスター・プリンセス」「キャラの変質と大畑清隆の敗北」において、ガルバンへの言及はないものの、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』以来の流れを踏まえつつ論じられている。
 これらの論が前提としている作品製作者の視聴者へのメッセージを、論者は本編考察において可能なかぎり想定せず、物語そのものを内在的に検討することに目的をおいてきた。(もし仮にそのような視点を定めるとすれば、例えば本作品が萌えアニメであるにもかかわらず、多くの正統派ファンを萌えさせなかったという点にこそ、萌えアニメに対する本作品の批判性が見いだせるのではないか、と考えることもできる。ただしこれは、メタフィクション的というよりはトマソン的ではあるのだが。)それゆえ、この補論での作業も、ガルバン・ガソバルをアニメファンに対する批判として解釈するのではなく、物語の展開に果たした役割をまず明らかにすることを試みる。つまり、第26話で山田がガルバン・ガソバルについて語った「あれは、昔はよかったなーっていう後ろ向きの象徴さー。」という言葉の意味が、作品内論理に照らして問われねばならないのである。


1.ガルバン・センチネル

 まず、ガルバン・ガソバルそのものが、それぞれどのような作品として描かれているのかを確認しよう。本作品に登場したガルバンの画像・音声のうち各話の結末部のものや、ガソバル模型のパッケージなどは、EVI氏『潮見工房』アニメ「シスタープリンセス」雑記」「ガルバンオチの全て」に網羅されている。また、『アニメシスタープリンセス完全ビジュアルブック』および『シスタープリンセスデスクトップアクセサリー2 マテリアルコレクション』の中に幾つかのガルバン設定資料が含まれている。

 この「ガルバン」「ガソバル」という名前とその色・形から視聴者が直ちに思い浮かべるのは、『機動戦士ガンダム』およびそのパチモンである『ガンガル』『バイソン』だろう。実際にガソバルはガルバンのパチモンとされている。ガルバンの初回タイトル「ガルバン大地を断つ」(第1話)はそのまま『ガンダム』第1話を思い起こさせる。また第6話第15話では敵軍の赤い機体が模型として登場していることも、『ガンダム』を否応なく連想させる。ガソバルが軍用(模型箱絵に「F・レンド軍バトルコート」と記載)であることから、おそらくガルバンも軍用であり、いわゆる絶対的な正義があり得ない世界観に立脚していると予想される。そして、「いつ終わるとも知れない闘い」(第21話)に対する苦悩や疑問、「あなたは正しいわ!」(第3話)と励まされねばならない葛藤など、主人公のマック大和が精神の不安定さを吐露しているとすれば、これもまた『ガンダム』以来の「戦争」描写を想像させる。
 しかし、それではこれが「リアルロボットもの」かと問われれば、首を傾げる点も少なくない。例えばガルバンの腕に装着されるドリルなどのアタッチメントは、決して「リアル」向きではない。また、マック大和がたびたび示す荒々しい口調や、彼とその相棒であるオペレータのミッチィの服装などは、むしろスーパーロボットものの登場人物を髣髴とさせる。マック大和の一人称が「俺」(第21話)だったり「僕」(第11話)だったりするのは彼の内面の動揺を意味するものだとしても、「どうしよう、ミッチィーッ!?」(第12話)のような台詞はもはやコメディのそれである。そして、操縦席に搭乗する方法が、ガルバンの額から発せられた光線に乗って「フレームIN」する(『マテリアルコレクション』参照)という設定からは、『勇者ライディーン』の「フェードイン」をまず思い浮かべて当然だろう。
 こうしてみると、ガルバンは、「リアルロボットもの」、「スーパーロボットもの」、「コメディもの」といった要素を織り交ぜた内容を有していることになる。航達がガルバンを観ていた時期を共同生活開始の3−5年ほど前(航は10-12歳)とすれば、一連の「リアルロボットもの」の流行と自壊などを経たアニメ業界が、ポストエヴァンゲリオンの廃墟を前に再び子供向けの良質な作品として登場させたのが、このガルバンという作品になるだろうか。そこでは、かつて主流だった「スーパーロボットもの」と昨今の「リアルロボットもの」をコメディで折衷させたきわどいバランスの上で、子供第一の内容でありながら、同時にアニメファンもロボットものというジャンル総体のパロディとして楽しめるという、奇跡的な調和が実現したのだろう。変形・合体の設定がないにも関わらずそれだけの人気を得られたというのは、作品自体の相当の質を予想させる。

 ところで、この作品の登場人物はマック大和とミッチィの2名しか直接には描かれていないが、第6話のジオラマ「** ****[文字不明]!!爆発5秒前」を検討することで、それ以外の重要な人物の手がかりが得られる。このジオラマには、赤色の敵ロボットが目の前まで迫り来る中、ガルバン(左手ドリルタイプ)に「フレームIN」する2人の影が映し出されている。そのような微細な部分まで造形を施しているとは、山田が「改めて見ると凄い」と感嘆する通りだが、ここでその2人の影をよく見てみると、一方はマック大和だとしても、もう一方はミッチィのシルエットではなさそうだ。いわばララァ風に、腕から袖がだらりと伸びているのである。ここから想像するに、敵軍、とくにあの赤い機体に登場しているエースパイロットにとって重要な異能力少女がマック大和とときめきあい、これにミッチィを含めた四角関係が、物語を盛り上げたのではないだろうか。この少女が悲劇のうちに落命したのか、それともコメディ的な落着を迎えたのかは不明だが、第21話で放映された「ミッチィその愛」ではマック大和がミッチィに「俺はお前を失いたくはないんだ!」と叫んでいるあたり、ともかくこの両名は元のサヤに収まったと考えることもできそうだ。なお、この赤い機体の敵エースパイロットだが、第8話で山田が風邪で寝込んでいる場面では、マック大和が「きったねえぞ******[テイレグゼン?]め!」と叫んでいる。不明瞭にしか聞き取れない固有名詞が敵軍の名称でないとすれば、あるいはこのライバルの名前ではないだろうか。
 この敵達をも含めた人間ドラマの中で、とくにマック大和とミッチィの関係は、いかにも熱血漢でありながらいざという時にはミッチィに頼るという依存性を仲立ちとして、大人のアニメファンに好評を博したかもしれない。こうして子供にも大人にも絶大な人気を誇ったガルバンは、模型業界などの積極的な商品展開をも惹き起こし、その勢いはやがて便乗商売のパチモンまでも登場させるに至った。その最も有名なパチモンがガソバルであり、日本アニメが世界的なファンを獲得しつつあった放映当時、「国内で販売されなかった」(第1話)商品までもが海外で出回ったほどであり、国内のマニアには「幻のキット」(第24話)としてプレミアつきで珍重されたと考えられる。
 以上、想像を多く交えてガルバン・ガソバルの作品内容を述べてきたが、しかしこのことは、これらの作品内容についてあまりにも情報が少ないことも意味している。同様の作中作品として有名な、『機動戦艦ナデシコ』における『ゲキガンガー』と比べれば、本作品内でのガルバンらの扱いはおそらく非常に小さいものと思われる。


2.巡りあい・島

 それでは、このようなガルバン・ガソバルは、航に何を感じさせ、何を与えたのだろうか。このことはしかし、本作品を観るかぎりでは、全く検討し得ない。なぜなら、航がTV放映を観ている姿は、山田の部屋でたまたま見入った場面(第1話)以外に描かれていないからだ。さらに言えば、航との接点は、アンティークショップのショーケース内に飾られたガソバル模型を発見するとき(第2話)、山田が抱えていたガルバンのぬいぐるみ2個(とミッチィ1個)に気づくとき(第4話)、鞠絵とアンティークショップに入り「これ、山田が好きでさー。」とガソバル模型を示すとき(第8話)、山田とガルバンについて会話するとき(第26話)、ときわめてわずかしかない。とくにガソバルに至っては、「ああっ!ガルバンのプラモデル!…って、パチモンのガソバルかよ。」(第2話)と落胆して以来、航が積極的な関心を示すことはついになかった。
 また、航がガルバンの台詞を真似したり、山田が真似するのを見聞きしたりすることも、明確には一度もなかった。論者がいる世界にガノタ(ガンダムオタク)がいるように、作品内世界にもガロタ(ガルバンオタク)がいるとすれば、彼らはそのようなマニアックなファンというわけではなさそうだ。山田の場合には(後述するように)いくぶん濃い行動が認められるとしても、航は間違いなく、これらの作品に対してさほどの関心を抱いていない。つまるところ、ガルバン・ガソバルは航にとって何物でもなかったのだ。もし意味があるとしたら、それは、あまり友人にしたくないタイプの山田と打ち解けあえるような会話ネタを、ここに獲得できたということにある。このことの意味は決して小さくはないが、だからといって航がガルバンの内容から何かを得たというわけではない。

 主人公のこのような関心の薄さは、『機動戦艦ナデシコ』における『ゲキガンガー』とは大きく異なっている。『ナデシコ』では、主人公側のみならず敵側にまで『ゲキガンガー』という作中作品に熱烈なファンが存在し、その登場人物の言動は主人公達に多大な影響を与え、その一方で、番組内容と(作品内での)現実世界との対照を通じて、「戦争」や「現実」についての認識を転換させる視点が、主人公達のうちに構築されていく(参照)。このように作品内で主人公達によってたえず直接参照される作中作品としては、しかしガルバン・ガソバルは用いられていない。そもそも島での生活を相対化するための視点や理想化された主義主張をそれらに求めずとも、航には東京での生活やエリート進学コースという、はるかに明瞭な足場が既に存在していた。だからこそ、第1話で画面に見入り「プラモ作ったよなぁ。」と懐かしがりながらも、航はそこに逃避の場を見出すことはせず、むしろ東京への逃亡やメル友との会話、勉強への専心という現実世界での逃避先を求め続けた。つまり第1話の場面は、航もかつてはそのような普通の遊びをする男の子だったことを指し示すだけであり、これ以降の航とガルバンの密接な関係を予告するものではなかったのである。
 もちろんこのような直接的な関係の希薄さは、妹達がガルバンに関心をもたないために、共同生活の都合上否応なく強制されたものだと考えることもできる。しかし、であればなおさら航は山田との会話をはけ口にしてガルバンネタで盛り上がってもいいはずだ。あるいは自室でガルバンを視聴する場面や、キャッチャー用ぬいぐるみなどのグッズが飾られている場面があってもいいだろう。だが、それらは一切描かれなかったし、少なくとも描かずにすむ程度にしか、航にとっての意味を持ち得なかったのである。

 航にしてこの程度であるならば、妹達にとってはもはやガルバン・ガソバルは何の関心事でもあり得ない。第8話で鞠絵がガソバルの模型を前にして航の話に相槌をうっている以外には、直接関わりをもつ場面はないのである。ただし妹達の中でも、鈴凛にだけはガルバンへの関心を見出せるかもしれない。例えば第14話では、プロトロボ1号の装備の中に、腕部用ドリルアタッチメントや飛行オプション(ジェットスクランダー似)らしきパーツがある。また、プロトロボ1号には、アームの中から細かい作業用のミニアームが出てきたり足裏がローラーダッシュできたりする(第3話)という『機動戦士Zガンダム』『装甲騎兵ボトムズ』的「リアルロボットもの」のギミックや、アームが腕部に引っ込んでハンマーが出てくる(『マテリアルコレクション』参照)という「スーパーロボットもの」のギミックが、あの古典SFに近しいレトロな形状の中に詰め込まれている。さらに腹部のナンバーパネルを開けると謎のボタンがある(『マテリアルコレクション』参照)というのは、もはや『タイムボカンシリーズ』を髣髴とさせる。このようなロボットもののパロディといえる発明品を作り上げてしまう技術力はともかく、その発想の根底には、ガルバンから受けた刺激が少なからずあるのではないだろうか。もしガルバンに合体・変形のメカニズムがあったなら、鈴凛はプロトロボ1号にもそのような機能を付与したかもしれない。
 ただし、ここから鈴凛とガルバンの強固な結びつきを結論することはやはり困難であるだろう。彼女が航とガルバンについて会話した形跡はなく、ドリルなどのパーツを実際に用いたこともない。だとすれば、鈴凛自身のロボットセンスがたまたまガルバンと重なったというだけかもしれない。彼女の感覚は全般的にレトロな印象があるので(第11話の旅行のしおり「バナナはおやつに入りません」、第21話のメカ鈴凛お披露目時の「じゃんじゃかじゃかじゃかじゃーん」など)、この可能性は十分ある。あるいは、この作品世界では、たんにドリルなどが一般的な存在であるということかもしれない。ここでは、以上の可能性について指摘しておくに留めよう。

 こうして見ると、ガルバン・ガソバルの存在が、航と妹達の関係構築や成長に、何らかの直接的な寄与をなしたとは到底言えないことになる。 妹達はガルバンについて何の興味も持ち合わせないままに1年を過ごし、航もあくまで話のネタ程度の関心を持ち続けるに留まった。だから最終話で航は、新年度を迎えた教室で1年前のこの季節を振り返り、その中でガルバンのことにも触れたのであり、別にガロタ的熱心さをそこで示したつもりではなかった。にもかかわらず山田に「ガルバンー?ガソバルー?ッハハハハ、いやだなー航くん。」と、いかにもそれらの作品に未だ拘泥しているかのように笑われたのは、航にしてみればお門違いであり、それゆえに「はぁ?」と首を傾げざるを得なかったのである。そもそも航がガルバンにそれほど入れ込んでいたとすれば、第8話で「これ、山田が好きでさー。」と鞠絵に話しながら、山田本人にはこのパチモンプラモの存在を教えていない(第24話で自分で発見する)などということがあるだろうか。
 それでももし航達にとって何らかの意味があるとすれば、それは兄妹関係の象徴としてのそれである。第4話で心を結んだ航と雛子がアンティークショップに立ち寄ったさいに、ガソバル模型が一瞬映し出されている。これは、未だパチモンの兄妹としての航と雛子を象徴するとともに、あんな模型があるくらいだからもしかしたら、と思いついて店に立ち寄った航の予測をも意味している。妹への配慮に基づいたこのような機転は、第14話でより明確なものとして繰り返され、再びこの店で航は可憐が探し求めるランプを発見できた。アンティークショップという場所は、にわか作りでパチモンな兄妹関係を象徴するガソバル模型を収め続けた場所であり、それが初登場した第2話から第4話第8話へと至る筋道は、航が妹達の想いを受け止め、兄としての自覚を培っていく過程をそのままなぞっている。この意味でガソバルの模型は、店の奥に大切に保管されていた海神家の書と分かちがたく結びつき、兄妹の過去と未来を見つめているのである。
 しかし、これはもはや航達への間接的関係という以上に、物語の主題そのものを指し示すものとして理解されるべき問題である。このことを結論づけるためには、ガルバンオチの検討なしにすますことはできない。


3.オチる宇宙

 ここで論者が本作品における「物語」をどのように理解してきたかを確認すると、さしあたり以下の通りとなる。
 本作品は、共同生活において兄妹の絆が結ばれる過程と兄妹の成長を描いたものである。兄の成長は妹達との関係構築を通じてなされ、妹各人の問題も同時にこの兄との関わりを深める中で解決していった。最終的に航は島での生活を選んだが、島と東京は一方が虚構で一方が現実という関係にあるのではなく、そのどちらもが航にとって生きられた現実であった。それゆえ航は、唯一の現実と信じていた東京の虚構性に気づいて島を選ぶのではなく、また島も東京も虚構であるという認識からあえて選択しないのでもなく、両方を現実として認識しつつ島の「いま」を選び取った。より正確に言えば、 航が虚構から現実に回帰したとすれば、それは、航が、そのままでは虚構にすぎなかった東京時代や島での1年間を結び付け直し、彼の生きられた現実へと再構成したということを意味していた。
 これを前提としつつ、個々のガルバン場面が意味する内容について、その場面の直前にある台詞とガルバンオチの関連を手がかりに分類してみよう。

(1)兄妹についての間接的言及

第1話:航メール「追伸。急に4人の妹ができたら、君ならどうする?」
 メールを送信し終えた航がTVスィッチを入れる場面に、限定品のジオラマつきガソバル模型を通販紹介する番組の声が重なる。山田と眞深が見入るものの、限定品ながらパチモンのそれは、山田にとっては希少価値を持つ存在だが、眞深にとっては取るに足りないまがい物にすぎない。未だ仮初めの兄妹に対する否定的な評価がここに暗示されている。

第2話:航の独白「これ以上妹が増えませんように。」
 この台詞を受けて、大和は敵の数の多さに焦って怒鳴り、山田は「追い詰められてんなー、主人公。」と見入る。これは多数の妹達に圧倒される航の心情を揶揄しているが、航の消極的な感情(諦念)が攻撃的な情動(怒り)に置き換えられている。

(2)航と山田の対比

第3話:航の独白「ぼく、やっぱり間違ってるのかな…。」
 この自問を打ち消すように、ミッチィが「ううん、あなたは正しいわ!戦うのよ、大和!」と叫び、山田もつられて「そうだ大和、信じるままに進めぇ!」と喚く。航の疑念に対する積極的応答がここにあるが、戸口を開けっ放しで騒ぎすぎた山田は直後に隣人に怒鳴られている。周りを見ない山田の熱狂的で無反省な性格もうかがえる。

第4話:航メール「けど、こんないい子達に囲まれてるし。こんなぼくを見たら、きっと皆井は呆れるかもしれないけど、ね。」
 これに続いて、ガルバンのぬいぐるみに囲まれて「俺って幸せ〜!」と馬鹿笑いする山田の姿に、ミッチィの「大和、本当にあなたはそれでいいの?」と必死に問う声が重なる。これは航と山田の両方への批判とも受け取れるが、航が皆井という外部の批判視点から自分を客観化しえているのに対して、山田にはそれがなく、ただ多幸感に酔いしれていることから、ミッチィの批判はむしろ山田にのみ向けられたものと理解するのが妥当であろう。
 なお、この話ではオチ以外にガルバンネタが2回登場している。ひとつは先述のアンティークショップ内で一瞬映る模型であり、もうひとつは、航と雛子が熊のぬいぐるみを一緒に探しまわる最中に出会った山田が、ガルバンのぬいぐるみ2個とミッチィ1個を抱えている場面である。航は驚き、山田は自慢する(そして1個分けてやろうとはしない)が、雛子の探し物が最優先の航には、それ以上の反応を得られずに終わる。

第5話:航メール「今後もよろしく。」
 これに続く大和の「このガルバンを便利に使いやがって!」という怒声、またガルバン模型を前に山田が呟く「これでゲットできないかなぁ、可愛いメル友。」という独り言にミッチィが叫ぶ「無茶言わないで!」という声は、航が妹達との直接的な関係に向き直ったのに対して、山田が人間関係の構築・深化の手段として道具に依存することへの批判である。もちろんこれはまた、ガルバン模型でどうやって「メル友」を獲得できるのか、というあまりに正当な疑問でもあるが。

第6話:航メール「こんな気持ちを、君や皆井も感じられたらいいのに。こんなふうに、兄妹みんなで一つのことを頑張った、こんな気持ちを。」
 その台詞につながるように大和が「分かって欲しいんだ、ガルバンの素晴らしさを!」と訴え、山田が「二つ目だけど、改めて見ると凄いよ、昔のキットなのに。」と感嘆するのに、ミッチィは「そんなの見かけだけよ!」と否定する。これも前回と同じパターンで、航が内面的な一体性に気づいたのに対して、山田の皮相的な判断への批判である。航の主張への批判でもあるとするのは、やや無理があるだろう。

第7話:大家族なんだねぇ、に応えて航「まあ、そんな感じで。」
 大和は「敵さんは数で勝負ってことかよ!どれを持っていけばいいんだよ、ミッチィ。教えてくれ、ミッチィーッ!」、山田は「ん〜、無理だぁー!誰か一人なんて選べないぞぉ、どうしたらいいんだぁーっ!」と叫ぶ。選択にさいして主体性のない両者の態度をミッチィは「自分で選びなさい、自分で!」と突き放す。ここではまた、前回で「一人だけなんて選べない」と叫んで全員を選んだ航と、全員をただ区別なく認識している山田との対照も暗示されている。

第8話:航「あ、ああ。よかった、元気になって…。」(オチではなく後半途中で)
 航が看病疲れで倒れる一方、山田は下宿でくしゃみをし、鼻水をすする。大和が「くっそぉー、きったねえぞ******(テイレグゼン?)め!ミッチィ、アタッチメントパンチだ発射しとけぇ!ミッチィ!?」と喚き、ミッチィは「そんなのあるわけないじゃない!」と返し、山田は「くっさめをしても一人。サビシーッ!」と嘆く。妹達全員の見舞いをうける航と、孤独な山田とが対照的であるとともに、自分で貝殻を探しに行った航の主体的意志と、必要な兵器を用意してもらおうとする大和の依存性とがもう一つの対照をなしている。

第9話:衛「じゃ、明日から早速頑張ろうか。あにぃ!」
 大和は「そうだミッチィ、ガルバンも水中戦仕様に改造だぁ!」と鼻息荒く、山田は「太郎も水中戦仕様に改造だぁ!」と不安気ながらうそぶくが、ミッチィは「まぁそうすれば?…とりあえず!」とつれない返事。これを後の潜水艇と結びつけることも可能だろうが、ここではあくまで水泳特訓のみと関連づける。その場合、「改造」すべきは意志という内面であって外面ではない、たとえ外面だけを取り繕ってもそれは「とりあえず」のものでしかない、という主張として受け取れる。山田の場合の外面とは、直接的には次回購入する水泳学習ビデオソフトを指し示す。

第10話:航「明日も頑張ろう。」
 先日の勢いもどこへやら、大和は「そうだ、頑張ろう。頑張れば、きっと、なんとか、なるさ…。」と、山田も「ボキ、なんとかなるのかなぁ…?」と、いずれも意気消沈している。ミッチィの「なんとかするのよ!」という怒鳴り声は、他者への依存や外面的装飾で解決を図るのではなく、自分自身の意志こそが決定的な意味を持つということを端的に伝えている。

第11話:航「ただ、昨日と違うことといえば、妹達の明るい声がない。それにここは、家(うち)でもない。そうだ、ぼくたちは遭難したんだ。」
 自分のあるべき場所・関係を失った航の独白は、大和の「僕はマック大和なのに、みんな『やまわ』って間違えるんだよね…。」という自分を正しく認識されない寂しさとやや重なり合う。一方、山田の留守録メッセージは「ボキのことをダイダイダーイスキなよい子のみんなぁ、さみしいだろうけどちょっとの我慢だよ。」と、自分がいないことで他者が抱くだろう寂しさだけを念頭においている。ミッチィが「さみしくなんか!」と叫ぶのは、孤独に耐えようという強がりであるとともに、雛子の言い回しの真似をするような山田にそんな寂しがる他者など存在しがたいという糾弾でもある。

第21話:鈴凛「アニキ、いつか必ず、ね。」
 「いつか必ず…って、なぁミッチィ。」と言葉を受けた大和は、「こんないつ終わるとも知れない戦いの中で、俺はお前を失いたくはないんだ!」と、戦争を拒絶する。一方で山田はTVの故障でこの「年末特番年忘れガルバン大会 ミッチィその愛」の映像が見られずに悶え苦しむ。ミッチィは「ガルバンでこの戦いを終わらせるのがあなたの使命。そうでしょ?」「今のあなたは偽物よ!」と手厳しい。戦争ものに必須のこの葛藤場面は、大和や山田の未練がましい性格を浮き彫りにしつつ、鈴凛が夢に向かって歩んでいるのに対して、航が自らの未来像を描けていないことを指摘する。この点で航は山田と同様であるが、しかし航は少なくとも来るべき別れを受け止めようとしている。

(3)純粋なオチ

第12話:花穂「ドリルがいっぱい残ってるよぉ!」
 大和は「ドリルドリルって、敵さんドリルばっかりつけて出てきやがったぜぇっ!どうしよう、ミッチィーッ!?」と悲鳴をあげ、山田は「はぁ、空白だらけのボキの宿題…。」とうなだれる。これに対してミッチィは「バカね、決まってるじゃない!やることは一つよ!」、眞深は「そりゃ当然、もちろん、」と返し、二人揃って「強行突破だぁ!」と言い切る。これはほとんど「ドリル」をネタにしたオチにすぎず、ただ大和と山田がともに追い詰められた心境にあることのみ確認しておく。

 以上で明らかなように、ガルバンオチは航達兄妹のみに焦点付けられたものではない。むしろ、彼らの関係や成長を、つまり物語の主題を、とくに航と山田の比較を通じて、あくまで間接的に指し示すものである。しかしその表現方法が山田を媒介とするものであるために、視聴者には必ずしも好意的に受け入れられはしなかった。場面それ自体としては、ガルバンは間違いなく、航よりもむしろ山田のためにこそ存在していたのであり、それは兄妹団欒の余韻を最後に破壊してしまう効果ばかりが目立っていたのである。失敗の側面が目立つこの設定は、なぜ必要とされたのか。これをみるためには、物語に山田が占める役割を検討することが必要となる。


4.君はボキの涙を見る

(1)山田の意味


 アニメ版オリジナルキャラクターとして眞深達とともに登場したこの山田太郎という脇役は、本作品の評価に多大な影響を与えている。作品をギャグアニメとして捉えるならば、彼はその立役者として賞賛され、原作ファンの立場からすれば、シスタープリンセスを貶めた元凶として非難される。また、この人物にいわゆる類型的なアニメファンの姿を見出し、制作者がアニオタ叩きをするための道具として登場させたとする解釈もある。視聴者の嗜好にも基づくこれらの意見について是非や優劣は問えないが、いずれの立場をとるにせよ、実際に作品に登場した山田の姿が総体的にどのようなものだったのかを確認することが必要だろう。彼は毎回ガルバンを観ており、第4話では収集した多数のぬいぐるみに囲まれて喜んでいる。第15話では絵の宿題から逃避するために模型で遊んでいたのか、あるいは模型を描こうとしたのか不明ながら、どちらにしてもガルバンへの強い関心を示している。では、これらの場面から、山田がアニメファンの典型として理解してよいのだろうか。各話での彼の言動については、これまでの考察でも適宜言及してきたが、ここでは新たな材料として、作品を通じて描かれた山田の下宿部屋の様子を探ってみよう。

<山田の部屋の物品>
ガルバン・ガソバル関連 ダンボール箱数 特殊な品 テレビ
1 ガルバン模型1個 15個 - 青灰色、レンガ台
2 - 4個、最終場面では5個 - 青灰色、レンガ台
3 ガルバン模型1個 5個(窓側にさらに6個) - 青灰色細枠、レンガ台
4 ガルバンぬいぐるみ17個 0個 - -
5 ガルバン模型1個 6個 - 紺色、レンガ台
6 ガルバンジオラマ1セット 0個 ギター 紺色、レンガ台
7 - 3個、最終場面でも3個 ギター 青灰色、木製ラック
8 - 15個、最終場面でも15個 - 青灰色、レンガ台
9 - 0個、最終場面でも0個 海水パンツ 青灰色、レンガ台
10 - 0個(戸口側不明) 水泳学習ソフト -
11 - 0個 - 青灰色、レンガ台
12 - 2個 ギター(ビデオ消滅) 青灰色細枠、レンガ台
13 - 0個 栄養ドリンク多数 -
14 - 0個 - 紺色、スチールラック
15 ガルバン・敵ロボット模型各1個 0個 - 青灰色、レンガ台
16-20 - - - -
21 - 0個 コタツ 青灰色(故障で分解)
22-24 - - - -
25 ガソバル模型13個 0個(戸口側不明) - -
26 - - - -

 ガルバン・ガソバル関連については、意外にもさほどの物がない。第15話の模型は第6話のジオラマのものである可能性が高く、そうなると第7話から第24話までの間は新しい品物が一切登場していない。また、例えばミッチィのポスターなどが部屋に飾られるということも最後までなかった。第6話でジオラマに向かって「2つ目だけど」と呟いていることから、この時期にガルバン関連商品を収集し始めていたとすれば、第8話で風邪に倒れるのは、段ボール15箱にも及ぶ収集のために食費を切りつめすぎた結果という考えも一応は成り立つ。しかし、山田もまた高校生でしかないことを踏まえれば、この梅雨の時期に実家から夏物や食料などの仕送りが大量に届いたと見ることもできるし、たんに押入れの荷物から夏物などを出そうとしていた途中だったとも言える。(段ボール箱が猫印であることから、これが「緑猫ヤマトの宅急便」ゆえにマック大和の名前とかけて理解するのは、もはや考えすぎだろう。)島内でグッズが販売されていないとしても、眞深のように通販を試みようとしているわけでもない。いわゆる典型的なアニオタとしては、山田の部屋は不十分な印象しか得られないのである。もし部屋に女性が訪れることを想定して押入に大量のグッズをしまい込んでいるのだという反論もあり得るが、そのような気配りをあの室内着が台無しにしている以上、あまり説得力はない。なお、TVデッキなどが画面に登場しただけで数種類あることから、これらをしばしば買い換えるようなAVマニアである可能性もないわけではないが、そういう人間がテレビをレンガ台の上に置くわけはなく、あくまで作画レベルでの問題だろう。ラックは買い換えているかもしれないが、この費用ならば大したものではない。
 また普段の行動でも、山田は航同様、ガルバンの台詞を真似するなどのガロタ的行動を全く示していない。第6話の演劇でもガルバンネタをほとんど用いておらず、派手なアクションシーンを好みそうな四葉にもお姫様の衣装を纏わせている。本当はそういうネタもしこみたかったものの妹達全体の要求を優先しただけかもしれないが、そうであるならこれは女性に気に入られるための努力として理解できる。そのような努力は、花嫁衣裳作成の手伝い(第7話)、プール掃除(第9話)、山菜摘みバイト(第11-12話)、宿題手伝い訪問(第13話)、運動会盛り上げ(第16話)など非常に活発にみられ、また第19話では白雪手製の弁当を入手するために全力を尽くしている。時々描かれるギターも、女性の前で格好をつけるための道具だろう。

 こうしてみると、山田はアニメファンと呼ぶには無理があり、その象徴であるとしても、もう少し広い立場で捉える必要がある。つまり、山田はひたすらに妹達を追い求めるが、誰か特定の妹を求めるというわけではない。第7話では雛子や亞里亞を含む全ての妹達が花嫁姿で夢に登場し、白雪の弁当という明確な対象がある第17話でも、「妹さんの」弁当という言い方で、白雪個人を見ていないことが分かる。山田にとっては、自分と親しくしてくれる女性なら誰でも構わないのだ。
 とはいえ、山田が妹達以外の女性に言い寄る姿は、第1話最終話以外では描かれていない。彼が目を向けるのは航の妹達であり、それは彼女達が皆可愛らしいということに加えて、自分にではなく航を慕っていることが明らかだからである。つまり山田は、「いいなあ、航のやつ」とさんざん羨ましがっていたように、自分が所有していないが他者が所有している存在に対して、非常に強い欲望を抱く性格なのである。それは女性でも物品でも同様であり、そこに個体の唯一性や尊厳についての認識はない。あくまでもその希少性のみに惹かれて際限ない欲望に支配される、そしていったんそれが入手されてしまったら当初の衝動を失ってしまうというのが、山田の基本的な行動パターンである。それゆえ、彼の行動の積極性は、主体性を意味するものではなく、むしろ目の前の欲望対象にどこまでも引きずられていくという主体性のなさを現していることになる。
 これらのことに加え、例えば第4話で雛子がいるにも関わらずガルバンのぬいぐるみを航に1個も分けてやろうとしない狭量さ、表面的にポーズをつけようとする底の浅さ、総体的な知性のなさ、そのやる気のないルックスなどは、山田を本作品随一の不人気な人物に仕立て上げるのに十分すぎた。それらはオタクというよりは、消費社会の中で欲望する現代人の象徴であり、きわめて表層的な「格好よさ」を取り繕おうとする浅薄な人間の典型である。この一方で、「格好いい」現代人としての燦緒が登場していることを踏まえれば、航はこの両者、つまり泥臭く格好悪い三枚目の山田と、洗練され格好いい二枚目の燦緒の間で、泥臭いながらも真に格好いい二枚目半な兄の姿を体現していくことになったということが言えるだろう。そして、第1話の航が未だ洗練されざる都会人の姿を示していたとすれば、この時点での航と山田の距離はさして遠くはない(航も他者の存在をきちんと受け止められていない)。しかし、物語が進むにつれて航が兄として成長するとその距離は見る間に広がっていき、そのことが各話の最後でガルバンオチによって再確認されるのが前半部の展開だった。そして兄妹の関係が安定期に入る後半部では、そのような再確認の手間は省かれ、ガルバンオチはほとんど登場しなくなる。こうして山田は、格好悪く他者理解ができない人間としての原点、座標点として作品に登場し、航達の成長をはかるために役立てられていった。そして、山田の非主体的な積極性によって、元々受動的な航は様々なイベントに巻き込まれ、否応なく成長するための契機を与えられていくことにもなった。この意味で、山田は物語における触媒として重要な存在だったということができるだろう。

(2)ガルバンに生きる山田

 しかし、それでは山田はどこまでも道具的なキャラクターであり、そのような道化として存在し続ける以外の道は一切断たれていたのだろうか。プロミストアイランドが一つの調和ある共同体として築かれていくためには、山田というアウトサイダーを触媒としつつ排除することが不可欠だったのだろうか。
 いや、必ずしもそうではない。第14話で航が「また、妹達からもらったな。」と呟くとき、山田は下宿で「くそぉー夏休みの宿題終わらねえよー…って、え?今誰かボキのこと呼んだ?」と視聴者の方に問いかける。これは、ガルバンオチが登場しないことへの寂しさを間接的に指し示すものというより、島が彼にその秩序のうちに参入する可能性があるのだと囁いていることを直接描いたものである。その後、第18話から第20話までの展開で、ガルバンオチこそ登場しないものの、山田は物語の中で涙を流しながら多くのことを学んでいく。夏休みの宿題で「いい国つくろうロシア革命」などと自分の無知を思い知った頃から、彼は虚飾をはぎ取られた自分自身の姿に直面させられていくのである。これは、山田が成長するための必須の段階であり、これをどのように受け止めていくかによって、彼の今後は様々に変化しうるはずだった。
 しかしながら、彼はその大きな機会を自ら逃し、第25話で自分の欲望を見つめ直すことを途中で諦め、最後まで根本的に変化しなかったように見える。あるいは、その反省が全く活かされずに終わっているかに思える。つまり、下宿での「ぼくはこんなものが欲しかったのかっ、こんなものを手に入れるために必死になってたのかーっ?」という煩悶がそれなりに成果を上げたとすれば、確かに山田は自分の欲望の向きをガルバンから逸らすことには成功したことになる。しかし、最終話で正式に転校してきた眞深美が眞深だと気づかずに「好きだーっ!結婚して下さーいっ!」と突撃し玉砕するというのは、「前向きに生きる」と呼ぶにはいかにも短絡的な行動であり、たんに過去の眞深を忘れ去り、相変わらず他者を認識できないという態度を繰り返しているだけにすぎない。

 山田は山田のまま、というこの結論を受け入れるとしても、しかしそれでは、ガルバンはなぜそこまで山田が惹きつけられる対象になり得たのだろうか。ガルバン・ガソバルを「昔はよかったなーっていう後ろ向きの象徴」として位置づけるに至った直接の原因は第25話での自問にあるとしても、そもそもなぜ山田はそのような「後ろ向きの象徴」を必要としていたのだろうか。
 これを検討するにさいして、論者は、山田も航と同様の出発点に立っていたという仮説をおく。航が高校受験に失敗したように、山田もまた失敗していたのだ。ただしその理由は、高い学力を持つ航が過失によって不合格となったのとは異なり、己の低学力に目をつむり見栄を張って進学校を無理矢理受験し、案の定不合格になった、というものである。この仮説に基づけば、第1話の船での口上は「コネ」の箇所を除けば全くのはったりであり、どこにも進学できずにいたところへ、プロミストアイランドの学園へ進学するためのコネが偶然手に入ったということになる。過剰な自意識を育んできた山田にとって、この挫折は相応の衝撃であり、何らかのかたちで折り合いがつけられねばならなかった。ハッタリによる自尊心の維持、自分にないものを所有しようという欲望の増大などはそのための手段であり、ガルバンを視聴することもまた、その中に含まれていた。それは確かに、自分が万能感に浸り独善的でいられた時期を思い起こさせるものであり、文字通り「後ろ向きの象徴」だった。
 そして、このガルバンには、もう一つ重要な点があった。ガルバンオチについて既に検討したように、ガルバンを視聴する山田が感情移入する度合いは大きい。オチのパターンも、マック大和と山田に対してミッチィが叱咤するというものが多く、大和と山田が非常に近しい存在であることが暗示されている。実際に、大和と山田は、反省せずただ勢いだけだったり、その勢いも突然甘ったれた依存性に転ずるなどという点で、よく似ている。山田からすれば、大和は自分の理想像として認識されていたことだろう。こう考えれば、第12話で大和が自分の名前を「やまわ」と間違えられると語っていることにも、間接的な意味が生じてくる。普通に考えれば大和は「だいわ」と誤読するはずだが、それをあえて「やまわ」と読ませたのは、ここで「やまだ」との類似性を暗示するためなのだ。
 このような自己像の投影対象としてガルバンや大和の活躍を観るとき、山田はそこに、自分が中心にいる理想世界を感得する。それは、ガロタとして台詞の真似をするなどというレベルの問題ではなく、山田自身がガルバンの物語の中に没入し、その世界に生きてしまっているのである。そして、本来ならば航に向けられたかもしれない山田の自己保身のための攻撃性は、ガルバン視聴によりある程度解消され、逆に第9-10話のように、大和の言動が山田の努力の方向に影響していくことにもなっていく。第11話で船頭じいやの「男の中の男にしかできない」という言葉が山田に多大な効果を持ちえたのも、ガルバンで大和の熱血ぶりに染まりつつあったからかもしれない。もしプロミストアイランドでのケーブルTVによるガルバン放映が、例えばじいやの指示によるものであり、また山田を島に呼び寄せたのもじいやの計画の一部だったとするならば、こうして山田はガルバン視聴を通じて、彼自身の問題を部分的に解きほぐしながら、航達の共同生活を妨害せず、むしろそれに貢献するような心情を培われていったことになるだろう。
 しかしそうであるならば、じいやによるこの操作が山田の成長を阻害し、定点として居続けさせたということにならないだろうか。これについては、第23話で「あの幻の」ガソバル模型を通して山田に自省の機会を与えたのは間違いなくじいやであり、これを山田なりに受け止めた結果が「後ろ向きの象徴」という台詞であることを確認しておく。山田にとってガルバンが必要な時期と、もはやその助けが不要な時期とを、じいやなりに察知していたということになるだろう。

 ところで、この「後ろ向きの象徴」という言葉は、本当に山田が自問の果てに見出した結論だったのだろうか。彼自身の解釈に基づくとすると、「象徴」などという言葉が用いられることには多少の違和感を抱く。あるいは、この表現は誰かからの借り物なのではないだろうか。ここで示唆するのは批評家などではなく、山田にとって最も近しい人物である。そう、マック大和その人だ。ガルバン本編において、マック大和は自らの戦う目的に疑問を抱き、「ガルバンの素晴らしさ」が「見かけだけ」であることを痛感していく。そして、最終的には大和自身が、ガルバンが「後ろ向きの象徴」であるとしてついに拒絶するに至ったのであり、そしてミッチィにふられてしまったあげくに、過去を振り返らずに「前向きに生きる」ことをいつもの調子で高らかに宣言したのではないだろうか。その決意は、作品内世界における戦争を乗り越えるのみならず、作品内世界自体から逃れ出てしまうという描写で具体化された。つまりガルバンという作品は、大和がガルバンを捨て去って進むこと、ひいてはガルバンという作品そのものを越えて進んでいくことを、その結末として描いていたのである。ガルバン第1話のサブタイトルが「ガルバン大地を断つ」であるならば、当然この最終話のサブタイトルは、「脱出」に他ならない。それは上述のような作品からの脱出であり、エヴァンゲリオンのパロディによるそのトラウマからの脱出であり、ロボットアニメ全体のパロディたるガルバンという作品のフィナーレにまさしく相応しいものだった。そしてガルバンのこのメタフィクション的収束は、本放映時に小学生だった山田には理解できなかったが、今回の視聴でようやくその意味が理解でき、山田に大きな衝撃を与えた。その影響は山田に、理想的自己像である大和の台詞をそのまま語らせるに十分だった。

山田「ガルバンー?ガソバルー?ッハハハハ、いやだなー航くん。
   あれは、昔はよかったなーっていう後ろ向きの象徴さー。ボキは今日から前向きに生きることに決めたんだー。」
航 「はぁ?」

 何度も言及されたこのやりとりを、ここで最終的に振り返るとき、そこには複数の喜劇的意味が込められていることになる。まず、山田の言う「前向きに生きること」がたんに過去の反省を踏まえず衝動的に行動することでしかないにも関わらず、山田自身は進歩と理解しており、ガルバンを振り返ることのできる航の方がはるかに真の意味で「前向き」であるということ。次に、山田がガルバンを第三者的に批判するその文言が批判対象であるガルバンの受け売りであるということに、山田が何の疑問も抱いていないということ。最後に、航をガロタとして嘲笑している山田が、マック大和に自己投影し尽くしている自分こそ骨の髄までガロタであることに気づいていないということ、である。
 それでも、島に来た時点からすれば、これは長足の進歩と言っていいかもしれない。確かに最終話での教壇突撃に示されているように、山田は相変わらずのお調子者にすぎないかもしれないが、それは彼が心中のわだかまりや見栄を捨てて、妙な気取りなしに元来の能天気さを発揮できるようになったのだと言うこともできる。それは第16話の教室で皆に「みんなで優勝しようなー!」と発破をかけた姿が示すように、あるいは第20話で偶然にガイディングスターを兄妹にもたらしたように、いい意味での意外性あるお調子者、三枚目ムードメーカーの役割を進んで引き受けることで、山田なりのよさが発揮されていく大切な一歩を記した瞬間なのかもしれないのである。
 ガソバルが兄妹の象徴だったとするならば、ガルバンは間違いなく山田の象徴だったのだ。


終わりに 〜ほんとのことさ〜

 こうして、ガルバン・ガソバルはそれぞれ登場人物とその成長を読み解くための重要な鍵であることが判明した。そして部分的にではあるが、物語に少なからぬ影響を与えていることも明らかになった。これらを踏まえれば、監督交代による方針転換や製作者側・スポンサー側のメッセージなどを推測する前に、まず物語の内容とその一貫性を確認すべきであるとする論者の主張は、ひとまず具体的に示すことができたと考える。
 しかし、既に『ナデシコ』などで一定の視点を与えられている視聴者が、ガルバンの場面である種の期待を抱いてしまうのは避けがたいことかもしれない。最終話で山田が語る「後ろ向きの象徴」という言葉は、視聴者が抱くそのような期待、つまり過去の作品を投影して解釈しようとする姿勢に対する、さりげない批判でもあったのかもしれない。作品としての収束をつけられなくとも、アニメファンを罵倒するメッセージを露骨に盛り込むことで一定の評価が得られた「昔」のアニメ製作者を揶揄する意味もあるかもしれない。
 だがいずれにせよ、アニメを観ているこのときもまた現実の瞬間であり、自分の生は他の瞬間と同様に、そこにも一貫して流れている。アニメ作品から「現実に帰れ」と言われずとも、現実はつねにここにある。それは、航が、幼い日々と東京時代と島での共同生活とを全て自らの生として結び合わせ、まだ見ぬ未来に向かっていこうとする姿の中に、そしてあくまで喜劇的でありながら自分自身であろうとする山田の姿の中にも、描かれていたところのしごく平凡な、そしてそれゆえに昨今のアニメでは貴重な、真実である。
 以上、ガルバン・ガソバルや山田について長々と述べてきたが、それでもなお、これらについては多くの問題が残されている。例えば、「マック大和」という名前は、どちらが姓でどちらが名なんだろう。教えてくれ、ミッチィ!

ミッチィ「知るわけないでしょ!」


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