アニメ版『シスター・プリンセス』における前世

〜第18話にみる薔薇十字の意味〜



はじめに 〜問題の視点〜

 アニメ版と原作とを問わず、千影は独特の地位を占めている。またゲーム版では彼女の背景世界についての描写もなされ、その独自性はいっそう強められている。しかし、その超常能力は一見して荒唐無稽に思われるだけに、無視されるか、占い等の能力に限定して受容されるか、その荒唐無稽さ自体をよしとするか、といった一般的反応を導いている。これはアニメ版の本作品でも同様であるが、特に他の妹達との共同生活という独自の制約の中では、千影の能力も、周囲の日常的水準に引き下げられて解釈されやすい。その結果、千影の行動は周囲から浮いた、あるいは逆に周囲に迎合したものとして理解され、どちらにせよ彼女らしさの描写に失敗したものとして本作品の評価を下げる一因となっている。
 本考察では、千影をめぐるこの問題に対して、一貫して反対の立場をとってきた。千影を日常的水準から判断するのではなく、作品の世界観そのものにとって千影が示す超常的領域が不可欠のものであり、しかもそれが共同生活や作品展開にとってきわめて重大な意義を有すると考えるのだ。この観点から、既に第15話については、亞里亞をヒロインとしながら島の精霊達と航達の関係を検討し、そこに見られる異世界の姿を描き出した。本考察ではこれとのつながりの中で、第18話「…永久の…契りを……」(永久:「とわ」)における千影の行動とその帰結について検討していく。そのさいに用いるいくつかの参考文献については、文中に『』で示し、考察末尾に一覧を付すこととする。


1.夢の中二人でいたよね

航 「ふふっ、千影ちゃん、またやってる…。」

 黄昏時に宙を見上げて何者かに語りかける千影を、離れから見守る航。

千影「フフッ…そう…それはなかなか興味深い話だね…。ありがとう、教えてくれて…。ああ…それじゃ…。」

 第15話の老紳士は亞里亞視点では姿を見せていたが、ここで千影が話している相手は画面に描かれない。視聴者は航の視点を共有していることになり、千影の振る舞いの異様さないし滑稽さを、航と共にうかがうことになる。語り終わって相手に別れを告げる千影に近づき、「また、姿の見えない人と話をしてたんだね。どんな人だったの?」と気さくに話しかける航の態度は、明らかにからかい混じりのものである。

千影「…知りたい…?」
航 「え?」
千影「教えてあげようか…?」
航 「い、いや…遠慮しときます…。」
千影「そう…それは残念だな…。兄くんと、気が合いそうだったのに…。」

 真っ直ぐ見返して堂々と答える千影に、航はさっきまでとは逆に気まずさを感じてしまう。自分のふざけた態度を反省したのか、それとも相変わらず千影に対しては戸惑いがあるのか。第12話では千影に星を見てもらおうとしてはいるが、それはあくまで天文学的知識・技術として彼女の能力を評価したに過ぎない。第11話では千影の水晶球によるナビゲーションを信用できず、第13話では占いしている以外の行動を把握しておらず、第14話では彼女のリンゴを不審に思っている。これらの態度を見る限り、航は未だに千影の力について何も理解せず、何も受け入れてはいない。この点、妹達は、第11話の鈴凛や第12話の花穂などを見るまでもなく、早くから千影の占い等の能力には全幅の信頼を置いてきている。おそらく、第2話以降、当番表作成までの段階で、千影が他の妹達の求めに応じて占いを行い、その結果があまりに的中することを知った妹達から一目おかれ、ついでに当番も非常に少なくてもよいこととなったのだろう。そのような認識を共有しない航が、今回、ついに千影の力を信じざるを得なくなる。

航 「燦緒へ。聞いてくれる…?ぼく、不思議な夢を見たんだ。
   なんだ夢の話かって笑われそうだけど、夢の中で、ぼくは…。」

 夕陽が傾く西空に、蝙蝠達が舞い騒ぐ。それは、千影が話していた相手の従者達なのか。千影がその存在と向き合っていた西という方角は、神々なり死者なりが住まうとこしえの国を想起させる。精霊界とはやや異なる異世界の予感を抱かせて、アバンタイトルは終わる。
 風景は一変して青空の下。遠くに雪を被った山、近くには森、流れる川には魚が2匹、草むらには蝶が2匹。この「2」という数字には、当然意味がある。草むらの中に立つ航と千影をそのような対として喩えているだけでなく、「2」であるということは、シンボル的にみて「分裂」や「対立」をも示すのだ。航に向かって立つ千影の姿は、髪型はいつものままだが、身には赤いドレスを纏っている。このドレスはゲーム版の衣装と色違い(黒から赤へ)のものである。千影は手にペンダントをぶら下げ、航の前に差し出す。そのかたちは薔薇十字。薔薇の花びらはこの場面では7弁のようだが、より詳細に描写されている最後の場面ではおおよそ10弁に見える。そして、薔薇を中央に載せている十字架には、ケルト的な紐文様が一面に描かれており、形状そのものもアイルランド風のケルト十字(ハイ・クロス)である。(ちなみに第7話で鞠絵が想像する結婚式の教会に立つ石の十字架も明らかにケルト十字架であり、その中央部の十字印の周囲には10個の丸が穿たれている。)

 ケルトと薔薇十字の連関を考えれば、すぐに薔薇十字団とイェイツ(W. B. Yeats, 1865-1939)という2つの名が思い出される。
 前者は、漫画『メタルK』の敵組織のことではない。17世紀の奇書『薔薇十字の名声』や『化学の結婚』などでその名が知らしめられた、ヨーロッパの知的・政治的な普遍改革運動を唱導する秘密結社である。この結社が17世紀当時に実在したかどうかは不明であり、先述の書物も当時の著名な思想家による創作とされている。しかしこの結社の存在と理念、カバラ的数秘術・魔術・錬金術等の要素を包摂する知識観などについては、17世紀以来強い関心を呼び起こしてきた。そのシンボルは名前が示すように、十字架の中央に咲く10弁の薔薇の花である。この結社の流れを汲むと称する魔術結社「黄金の夜明け団」に19世紀末に入会したのが、アイルランド国民文学の創造に尽力した著名な詩人・劇作家であり、また神秘思想家の一人でもあったイェイツである。彼はやがてこの結社の内部対立の中でロンドン支部長となり、『紅薔薇黄金十字は魔術結社として存続すべきか』(1901年)を著す。その中で彼は、魔術の原理について、「われわれが想像力において明確な表現を与えるすべては、それを十分に強く表現しさえすれば、われわれの霊魂あるいは自然の精霊を通して作用し、この世の世界に実現する」(『錬金術』p.233より重引)と述べている。この他にも彼は、『神秘の薔薇』や『幻想録』など、その神秘思想に基づく作品を多数著している(以上『神秘の薔薇』解題を主に参照)。
 このような秘儀結社的文脈で、薔薇十字のペンダントが意味するものは何か。まず、赤い薔薇は女性、十字架は男性をそれぞれ表す象徴である(『大系』p.188)。純潔を示す白い薔薇に対して、赤い薔薇は情愛を表し、さらに薔薇の開花は、「霊的な開花の象徴」としても理解された(『大系』p.161)。一方、十字架は「人間の肉体の象徴」でもあり、つまり薔薇十字とは、「肉体に固定された人間の魂」の象徴であり(『大系』p.160)、イェイツによれば「ときには相反する要素を含むさまざまな要素からなる統合体」(『イメージ・シンボル事典』)である。この人間を薔薇十字団は救済せんとするが、その救済とはつまり、魔術を通じての不死性の獲得と神との合一化、「宇宙の全機構を動かす魔術師として神の座へと昇り詰める」(『錬金術』p.68)ことだった。また、ケルト十字に描かれる紐状の文様は、生命・自然諸力の流動や循環を示す、キリスト教以前からのモティーフである。これは(イェイツはもちろん)薔薇十字団が人間の転生を否定していないことと関連するが、ただしケルト的意匠が再発見されるのは19世紀以降である。
 千影が薔薇十字のペンダントを手にする姿は、彼女とこの秘儀結社との強い繋がりを示す。ただし彼女の目的は、薔薇十字団のそれよりも、はるかに具体的欲求に基づくものだった。原作版キャラクターコレクション第9巻第4話「闇の光り」で描かれているように、千影は数世紀前の前世において、騎士である実兄と結ばれていた。禁断の関係はしかし、辺境での戦争に赴いた兄の死によって唐突に断ち切られ、悲嘆した前世の千影は兄の後を追って自害した。それは、さらにはるか昔の両人が禁忌を破って以来、生まれ変わるたびに繰り返されてきたかのごとき永い悲劇のほんの一幕にすぎなかったが、原作版では、この前世の記憶を取り戻した千影は、この生で今度こそ兄と結ばれることを決意している。この決意は、千影という妹存在の根幹にかかわる部分であるだけに、ゲーム版でも背景設定を補足・変更しつつ描写されており、アニメ版でもやはり基本的に共有されているだろう。この視点から本作品における背景設定を創造すると、例えば次のようなものが考えられる。

(1)千影は原作版での前世以降、転生する間に薔薇十字団と接触し、その秘儀を通じて、自分の目的のために必要な力を修得していった。その霊的能力の向上により、少なくともキャラクターコレクションに描かれた以降の前世の記憶は、能力ともども継承されるようになった(ただし、それぞれの覚醒は生後ある段階でなされる)。最も最近の前世は19世紀のケルト復興期にあたり、当時の薔薇十字団系の秘儀結社で、今のケルト的意匠の薔薇十字架を最重要の魔術具として入手した。

(2)千影は原作版での前世(あるいはさらにその前生)の時点で、既に薔薇十字団と接触があった。二度の生で禁断の関係を結べたのは、その間に彼女の能力が高められていたことを意味する。十字架のケルト意匠は、彼女と兄がアイルランド貴族だったことを直接示し、原作版で兄が戦死した戦争は、大きいものであれば15世紀のばら戦争の余波か17世紀の清教徒による侵略であろう。千影の薔薇十字架はそれ以来の所有物であり、転生するたびにこれを何らかの方法で入手した。

 いずれにせよ、千影は繰り返される転生の中で、今再び兄の妹として生まれ、ここに共に生きることを得た。しかしそれは、自分以外の妹達という、彼女にとってはきわめて理不尽な存在を伴っていた。このような障害は、後に見るように、決して今生が初めてのものではない。千影はひたすらに、自分が兄と再び結ばれることのみを願って、数百年にわたる年月を越えてきたのだ。(なお、千影が亞里亞に示す親近感を、アイルランドとフランスの歴史的関係から説明するのはさすがに無理がありそうだ。)彼女が薔薇十字団の秘儀を通じて修得してきた力は、この目的のためにこそ役立てられねばならない。
 説明が長くなりすぎた、草原に立つ航と千影の姿に戻ろう。

航 「千影ちゃん…?」
千影「兄くん…行こう…。」
航 「うん…。」

 航はペンダントを受け取ろうと腕を伸ばし、触れる前に千影にその手を胸に抱かれる。ここでは未だ、航が自分の意志でペンダントを受け取るには至っていない。

千影「この手は、決して離さないよ…。行こう…。二人だけの、誰にも邪魔されない、私たちだけの世界へ…。」

 言うが早いか、千影の周りに突如闇が広がりだし、千影を引きずり込もうとする。必死に手を掴み、こちらに引き戻そうとする航だが、力及ばずその手は離れ、千影は闇に吸い込まれ消えていってしまう。千影の名を叫び、その自分の声で目覚めてしまう航。そう、これは夢だったのだ。


2.兄くん照身霊波光線

航 「ゆ、夢か…。…ん? …そ、そんな、馬鹿なー!?」

 目覚めて安堵し、ふとベッドの上に目をやると、そこにはなぜか航本人が寝ている。彼はいつの間にか幽体離脱していたのだ。全く想像もできなかった異常事態に、航は完全にパニックに襲われるが、その姿を追う前に、この状態と夢との関係をみておこう。千影と航が向かい合う姿は、「薔薇−十字」そのものであり、魂と肉体が対となっての人間の生命の誕生を象徴している。そこで二人は手を結ぶが、それは兄妹という禁忌を破るものであるために、千影は闇に引き込まれ、航と引き裂かれてしまう。この心身の分離は、覚醒した現実の航においても、魂が所在無く浮遊する一方で、肉体は部屋に閉じ込められたままというかたちで重なり合う。
 そんなことを考える余裕はもちろんないまま、航は右往左往し、つい壁を透過して隣の可憐の部屋に入ってしまう。寝ている可憐の枕元に膝をつくと、可憐は寝返りをうってこちらを向き「お兄ちゃん、大好き…。」と寝言で一言。最近勘が鈍っている可憐だが、寝ている間は無意識に働くものがあるのか。航は「そそ、そんな馬鹿な!?」と焦って走る、壁を突き通って雛子、咲耶、花穂の部屋へ、台所からさらに階段へ、3階の鈴凛の部屋へ。なぜ鈴凛の部屋に入ったのか不明だが、妹全員の部屋に入ったことを省略しているとすれば途中の2階で千影に引っかかっているはずであり、おそらく1階で全員寝ていたことから起きていそうな鈴凛の部屋に直行したが気づいてもらえなかったということだろう。電磁波などの影響で鈴凛の部屋の機械に航の姿や声が現れる可能性を期待したとも考えられるが、昔『ムー』でも読んでいたならともかく、そこまでこの手の問題に詳しい航でもあるまい。それより問題なのは、彼がなぜ走れるのかである。その後自室に戻って燦緒に訴えたくともメールも打てず、「そんな、馬鹿な…。」と嘆いているだけに、なぜ指はキーを打てずに足は階段を登れるのか。これについては、幽体なりエーテル体なりとはそういうものだと割り切ることもできるが、さらに航の意志が強く集中するほどその行動はうまくいかないという法則性を見出すこともできそうだ。これはまた、「そんな馬鹿な」という台詞が久々に繰り返されることからも分かるように、彼が現状の理解を拒絶していることをも意味している。

 朝方になってリビングに行くも、集まった妹達は誰も航の存在に気づかない。(何でこんなことになっちゃったんだ…。)と自問するが、確かにこれは一つの問題である。一体、なぜ航はこの時点でこのような事態に巻き込まれてしまったのか。亞里亞だけは彼の気配に気づいているかのような視線を向けるが、しかし目の前に置かれたパンに「亞里亞、ふわふわが好きー。」と気を逸らしてしまう。ミカエルはさすが犬、幽体の航を舌で舐めるが、妹達はもちろんその意味に気づかない。

千影「フフッ…魂が器から出てしまったんだね…。珍しいケースだよ…兄くん…。」

 ここでただ一人航の存在に気づいたのは、リビングの入り口に現れた千影であり、しかもその意思疎通の手段はいわゆる心話だった。ここで千影が「珍しい」というのは、幽体離脱という現象そのものではない。それが睡眠時だけでなく、覚醒時にまで継続しているということが非常に稀なのだ。なぜなら、その状態のままで、つまり「時間と空間によって制限されない神秘的なエーテル体の肉体」(『大系』p.166)で意識的に行動できる能力は、薔薇十字団で研鑽されるものだからである。その能力を修得した達人は、「人間を助けて『十字架から薔薇』を外させ、意のままに物質的な肉体から抜け出せる方法を教えることができると信じられていた」(『大系』p.166)が、今回は千影が航にそのような方法を伝授した、あるいは一方的にそうさせたという描写は見られない。では、なぜ今回航は幽体離脱したのか。それは、たんなる偶発的な出来事だったと割り切ることもできるし、第15話にも見られた精霊界の動きなど異世界の変化が作用した、または千影の計画を時宜にかなって発動させてやるために誰かがその機会を与えてやった、などとも想像できる。しかしいずれにせよ原因は不明であり、ただ千影だけが、困惑する航とその状態を認識できたことから、彼女の能力を再確認するにとどめるほかない。

千影「私は、兄くんがどこにいても分かるよ…。兄くんは、特別だから…。」
航 「じゃ、じゃあ、元に戻る方法を、知ってる!? 千影ちゃん!」

 これを受けて、食欲がないとの言い訳を残してリビングから去る千影に、他の妹達の訝しげな目が向けられる。眞深の「はぁ。何考えてんのか、ちっとも分かんない子だねぇ。」という言葉が、年長者達の気持ちを代弁している。航は千影に連れられて彼女の部屋に入るが、こうして入室するのは実は初めてかもしれない。縦に11本横に10並ぶ蝋燭が灯り、航と千影は卓を差し挟んで座る。

千影「マンドラゴラと賢者の石を煎じた秘薬…。効き目は十分あるはずだよ…。」

 いきなり最初から大技炸裂。だがマンドラゴラはまだしも、錬金術にとって最大の価値を持つ「賢者の石」を、こうも簡単に処方するものだろうか。そもそもこれは「煎じ」て服用するものではない。液体に粉を入れたら泡立ったという様子を見ていると、これは兄のために本気で処方したというよりも、今までの疑念をかなぐり捨てて焦る航を今しばらく楽しむための魔術の真似事、つまりその色からして、3丁目の駄菓子屋で買ってきた
グレープ味の粉ジュースではなかろうか。もちろんこの状態では口から飲むよりも「香気を飲む」(『幻想録』p.478)ことが正しいのかもしれないが、そうとは知らず普通に飲もうとしてグラスを掴めず慌てる航を見て、千影は手のひらにあの薔薇十字架のペンダントを乗せながら、「フフッ…何を焦っているんだい…?」と笑い、それよりも「手伝ってほしいこと」があると言い出す。元に戻る方法を求めている航にはとんでもないことであり、自然に口調も熱くなる。

千影「兄くんは滅多にできない貴重な体験をしているんだよ…。もう少し、楽しんだらどうだい…?」
航 「楽しむって、そんなのできないよ。ぼくは元に戻りたいんだ!」
千影「…兄くんは、私と二人っきりになりたかったんじゃ、ないのかい…?」
航 「え?」
千影「やはり、覚えていないんだね…。お互いに、この時を待ち焦がれていたはずなのに…。そうだろ、兄くん…。」
航 (千影ちゃん、何を言ってるんだ…?)

 航をからかっているかのような千影の態度が、不意に寂しげなものに変わった。航にはその言葉の意味がまだ分からないが、それでも兄としての自覚は、妹の願いを可能な限り実現することを目指す。状況から逃げ出そうとしていた航は、ここで一旦は踏みとどまれたことになる。「分かった、手伝うよ。」と椅子にかけなおすと、千影は再び微笑んで「助かるよ…。今の兄くんにしか、できないことだから…。」と応え、航は即座に後悔し始める。まず最初の実験で悲鳴。続いて「服を、脱いでくれないか…。」と人間椅子めいた鏡像。さらに「最後にもう一つ、試してみたいものがあるんだ…。」と、鉤爪の足つき壺から何やら出現。これがゲーム版でいう「蛇の入った壺」かどうかは不明だが、航は絶叫し階段を転げ落ち「そ、そんな馬鹿な!?」と喚く。何をされたのかは不明ながら、最前までは足に靴下だけだったところを見ると、どうやらここで霊体にスリッパを履かされたことだけは間違いない。手はすり抜けても体は転げ落ちられるという、あまりありがたくない状態は相変わらずだが、これはスリッパのご利益だろうか。ここでも可憐達に気づかれない航は、もはや全く余裕のない声で、再度千影に問いかける。

航 「千影ちゃん。元に戻る方法って、あるのかな。」
千影「兄くんは、なぜ戻りたいんだい…?」
航 「みんな、心配してるし。」
千影「みんな、か…。私と二人では、楽しくないのかい…?」
航 「え…?」
千影「兄くんは、本当に忘れてしまったんだね…。思い出させてあげるよ…。」

 表情を硬くした千影が、ペンダントを持つ手を前にかざす。ペンダントが揺れ、中央の薔薇が輝き、航の周囲に闇が開く。恐怖の叫び声をあげながら、しかしその声は他の妹達に届くことなく、航はその闇の中に包まれて消えていく。その様を見つめる千影は、ついにこうして彼女の計画を実行に移したのだ。それは彼女にとって、大きな賭けだった。兄を自分のものとして永久に独占するか、それとも自分と兄との絆を断ち切ってしまうか、いずれにせよこの共同生活に終止符を打ちかねない企てだった。だが、千影はここで賭けざるを得ない。第5話で占いの結果として突きつけられた「別れ」を回避するために最大限の努力をしてきたが、共同生活を前提とするかぎり、その措置には自ずから限界がある。このままでは「別れ」を避けられないのであれば、それに対抗しうる力を唯一持つ自分が、兄を独占してでも守り抜かなければならない。
 この理屈は、しかし、彼女本来の個人的目的をそのまま現状に適用し合理化することでもある。ゲーム版でも「永遠に続く時の中を…一人で過ごすのは…耐えられないと思った…。」と告白されるように、永い年月を孤独のうちに過ごしてこざるを得なかった彼女の心痛は想像を絶するものがある。だが、だからといって兄を独占しようとする行為は、他の妹達に受け入れられるものではない。千影はまずここで、自分かそれ以外かという軸を立てて、他の妹達と対立する。そして、そのような障碍を余儀なくされている現世に、兄妹二人だけで生きることができた前世の立場から対立する。さらに、物質的限界をもつこの世界や肉体に、融通無碍な霊的世界や魂の立場から対立する。このような対立は、千影の個人的欲望に起源を持つ業とでも言うべきものであり、これを認めようと認めまいと、千影はただひたすらに己の目的を満たそうと、その計画を強引に発動させる。本来ならばより入念な準備のもとに行われるはずだったこの計画は、航の幽体離脱という絶好の機会を逃すにはあまりに惜しいがゆえに、急遽ここに実行されることとなったのである。


3.兄、旅立ち

 目覚めれば、そこは紫雲の空の下。見渡す限りの草原の中に、航は現れていた。今度は靴を履いた状態で。

少女「大丈夫…?」

 うろたえる航に、どこから現れたのか一人の少女が静かに声をかける。首にあの薔薇十字のペンダントをかけたその姿は、髪を下ろした千影そのものだった。思わず「ち、千影ちゃん、早く元に戻してよ!」と迫る航に、しかし少女は、彼の顔を見つめ、そして「二人っきりになれたからって…恥ずかしいんだ…。」と頬を赤らめる。この少女は、千影であり、千影でない。はるかな昔から何度も生まれ変わってきた彼女の魂が、他の時代の生とともに現世の千影の記憶をも包摂しつつ、ここに立っているのだ。それゆえ、この考察では彼女をたんに「乙女」と呼ぶことにする。乙女は航の問いを取り合わず、自分の満願成就へと邁進する。

乙女「それより、急がなきゃ…。」
航 「い、急ぐってどこへ、何で?」
乙女「忘れてしまったのかい…? 私達、やっと誰にも邪魔されずに、二人だけで生きていけるんだよ…。
   どれほどこの時を望んでいたことか…。」
航 「千影ちゃん…?」
乙女「もう、誰も私達を、引き裂くことはできない…。」
航 「だって、ぼくたち兄妹じゃないか!?」
乙女「何を言うの…? 確かに、ずっと一緒だったけど…私達は特別なの…。」
航 「え?」
乙女「永遠の愛を、誓った仲でしょ…?」
航 「そ、そんな、馬鹿な…。」
乙女「さあ、行こう…。誰にも邪魔されない、二人だけの世界へ…。」
航 「ちょ、ちょっと待ってよ、邪魔って…誰がぼくたちの邪魔をするって言うの…?」

 それは、現世における他の妹達の存在であり、その存在を必然にしている世界の理であり、そして究極的には、乙女を兄から引き離す力である。この力は禁忌としてかつての兄妹を引き裂き、兄妹としての転生を可能なかぎり阻み、今この時にも働こうとする。航と乙女の前に突然闇が開け、そこに死神のごとき姿が鎌をかざして出現したのである。航は「な、なんだ、あれは…?」と慄くが、タロットの「死」の意味を手がかりにすれば、この不吉な影には二重の意味が込められている。
 まず素直にとらえれば、これは、兄妹を引き裂いた死や「塵は塵に」という定命の限界そのものであり、また禁忌を繰り返し破ろうとすることによって生じる秩序の乱れ、そしてこの不均衡による破滅の象徴でもある。世界の秩序を壊乱しようとすれば、これを均衡に戻すために排除の作用が働く。この意味で死とは慈悲なき正義であり、ゲーム版でいう「運命を司る時の輪」そのものである。つまりこの場合、「死」に相対して打ち克つことは、兄妹を束縛してきた力を打破し、乙女の目的を全うすることにほかならない。
 だが、「死」の表す意味はこれだけではない。「このカードは世界の絶えざる再生の象徴であり、より高い意味での再統合がそれに続く解体を意味する」(『大系』p.114)。この場合、「死」とは断絶や均衡回復というのみならず、さらなる上昇のための再生の契機として理解される。先に「死」が兄妹としての転生を「可能なかぎり」阻むと述べたが、より正確にするために付言すれば、必要に応じて、つまり兄妹がより高次の段階に進む機会を与えるためには、再び兄妹としての転生を許すのである。
 このような第二の意味での「死」を、しかし乙女はこの相手に見いだしてはいない。兄と再び結ばれるというきわめて個人的な欲望にかられる彼女には、求めるべきは「より高次」などというものではなく、ただ過去への回帰と、そこに永久に生きることなのだ。時間の移ろいに抵抗する乙女の意志に、「死」は無言の攻撃をもって応える。乙女をとっさに庇う航は、「死」がなぎ払った鎌で左頬を浅く斬られる。にじみ出る血の感覚に、「そ、そんな馬鹿な!?」と叫んで乙女の手を掴み逃亡するのが、ここでの航には精一杯だった。

 ようやく逃げのびて、森の中の泉のほとりに息をつく。へたりこむ航の頬の傷を、乙女は泉の水で清めた手布で拭こうとする。つい呻いてしまう航に、乙女は「痛かった…?」と気遣うが、この状況は第1話の可憐を思い出させる。しかし、航の視線に「なに…? そんなに、見つめないで…。」と照れる乙女の仕草は、さすが年季が違うだけのことはある。思わず驚き笑う航は、「い、そ、その、意外と、女の子っぽいところもあるんだな、って。その、」と言い訳するが、気を悪くした乙女につねられてしまう。

乙女「失礼なこと言うから…。」
航 「…ごめん。」

 見つめる乙女の瞳は次第に潤み、瞼を閉じて顔をそっと寄せていく。魅入られた航も拒もうとせず、このまま口づけをかわすのか。もしそれが遂げられたなら、現世における兄妹の戒めを打ち破り、航はこの乙女の世界にそのまま囚われただろうが、その障壁として未だ超克されていない「死」が、ここで当然のごとく再び邪魔に入る。

航 「ち、千影ちゃん逃げて!」

 気合いを入れてこの恐るべき影に向き直り、乙女が逃げる時間を稼ごうと航は敵を目がけて勇躍するものの、一閃のもとに跳ね飛ばされる。ここでもし「死」が航を殺そうと意図したなら、それはあまりにも簡単なことだったはずだ。だが、「死」の目標は航ではない。乙女にその利己的な目的を捨てさせること、兄を束縛することを諦めさせること、そしてこの転生の中で積み重ねられる業を断ち切ること、である。これにしたがい「死」は、航が倒れている間に乙女をさらい、嘲笑う声を残してはるか彼方の城館へと飛び去っていく。さして大きくはない衝撃から回復した航も、「ち、千影ちゃん! 待てーっ!」と躊躇なく追いかけていく。乙女と「死」の対決は、こうして最後の舞台を迎える。


4.また来世

 さて、ここで一度、ウェルカムハウスに目を向けよう。朝食の時には「ゆっくり休ませてあげましょうよ。」ということになったものの、その後、兄の部屋を何度訪れても一向に返事がない。四葉は直感的に事件発生かと思うが、眞深は放っておけと気にとめない。元々内向的な航のことだから独り静かにいたい日もあると考え、眞深なりに気遣ったのかもしれないが、今回はこの配慮が裏目に出ている。航の肉体を、周囲から隔離された部屋に放置することとなってしまったからだ。誰一人異変に気づかないまま、航の魂は異世界によりいっそう引き込まれていく。
 この状況を、全くそれと知ることなく変えたのが、山田の襲来だった。勝手に遊びに訪れた山田は、航がまだ起きていないと聞くや、航を放置して妹達と買物に行こうと言い出すが、眞深に睨まれてすぐさま方針を変更し、航を起床させてやろうと無断で部屋に乗り込む。魂が肉体という器から解放されたように、肉体が部屋という器から外に開かれた。山田は航に嫌な起こし方を試み、無理矢理に体を起こそうとするが、航の肉体は何の反応も示さない。その異様さに、まさか死んだのでは、と恐ろしい可能性に気づいた山田は、扉の外から声をかける妹達に、慌てて応えながら顔を青ざめさせる。

山田(このことを妹さん達が知ったら大変なことに…! なななな、なんとかごまかさなきゃあ…!)

 結局、彼らしいごまかしに走るのだが、ここで彼が無自覚ながらも扉を開ける役目を果たし、千影以外の妹達が航の肉体に近接できるようになれたことは、重要な意味を持っていたのである。その後山田は、当面の状況をごまかすために、差し向かいでチェスを指しているかのように、卓の向かいに航を座らせる。当然航は一手たりとも指せはしないのだが、『ら・がるーぶーる』などという怪しげな絵本を手に部屋に入ってくる雛子達を厄介払いするためには、一応の役には立つはずだと山田は考えていた。
 しかし、彼が想像するほど航の妹達は甘くはなかった。この休日の朝からずっと挨拶もせずにいたわけで、皆それぞれに兄にしてほしいことも、してあげたいこともある。山田とチェスをしていようとしていまいと構わず続々と訪れる妹達に、山田はさらに顔色を悪くし、「そんな一度に来なくても…勘弁しちくり…。」と泣き言を始める。航のそばでじっと観察していた四葉は、ついに真実に気づいたかと山田を絶望させるが、四葉の言葉は「この手だと、山田さんの負けデスね。さっすが兄チャマ、チェキ!」と、全く方向違いで、山田を安堵させつつも衝撃を与えている。彼はソロプレイしながら自分が負けるムーヴを行っていたわけだが、その盤面を復元すると、正確とは到底言えないが、下図のような戦況が確認できる。なお、[?]の場所には、どのような駒があるのか不明である。

8  K(k):キング
 Q(k):クィーン
 B(b):ビショップ
 N(n):ナイト
 R(r):ルーク
 P(p):ポーン

 大文字は白
 (手前、山田)、
 小文字は黒
 (向こう側、航)

盤面は場面ごとで若干異なり、左図が正しいとは言えない。
黒のキングは位置不明だが、a3に既に入り込んでいるか。
白のf3キングには黒e5ナイトと黒e2クィーンの両方から
チェックがかかっている。あり得ない事態だが、白番なら、
白キングで黒クィーンを取るしかない。すると黒はh1ポーン
(多分クィーンに成っている)でg2白ナイトを取りつつチェック、
白キングがどう逃げてもe5黒ナイトでd7白クィーンを取れば、
黒a4ビショップが働き出し、白に楽しみがないのではないか。
最初に白キングがf4に逃げてもジリ貧か。
もちろん盤面が黒の手番なら白キングを取って直ちに勝利。
7
6
5
4
3
2
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a b c d e f g h

 この盤面については、初心者の論者にはこれ以上説明できないが、ここでひとまずチェス自体の意味を考えてみよう。チェスで一番大切な駒はキングであり、相手のキングを詰ませば勝利する。そのための最強の攻撃駒はクィーンであり、王と女王が睥睨する中、騎士や城塞などが戦うことになる。おそらく前世の千影と航も楽しんだであろうこのゲームは、彼らが生きた時代そのものの象徴であり、かつては兄は騎士として命を落とした。だが、今や彼らは王と女王として、異世界に永久の生命を得ようとしつつある。それはチェス本来のあり方とは逆に、さらわれた千影を航が追いかけるという展開によってなされようとしていた、あたかもこの盤面で黒のキングが敵陣深くに突き進んでいったように。そして黒が勝利するとは、千影の目的が達成されようとしていることを暗示し、このさい付け加えれば、四葉の名から連想されるクローバーとは、アイルランドのシンボルでもあった。だが、乙女の慕うキングは、このような勝利を望んでいるのだろうか。チェスでは自分のキングを守り相手のキングを詰ますために、他のあらゆる駒を犠牲に厭わない。取られた駒は持ち駒にもできず、そのままゲームから排除されてしまう。しかし、航が望むのは、誰かの目的のために他の誰かを犠牲にしたり、守るべき優先順位があったりするような、そういう世界ではないはずだ。むしろ、キングさえもが他の駒を守るためにその身を危険にさらすのが、共同生活に対する航の真意であるはずだ。

 そして航の魂は、少女を追いかけて城館の中へと全力で駆け込んでいく。天井が高く幅も広い真っ直ぐな通路は、この城館の所有者の権勢を物語るが、これが千影と航が前世で暮らしていた城館の似姿でないとすれば、「死」を退けた後で二人の魂がよすがとする場所なのだろう。扉を何度も開け放ち、赤い壁に囲まれた長い通路をようやく抜けると、眼前の広間の正面には、茨で9重に巻かれ玉座に縛り付けられた少女が、力なく目を閉じていた。9という数字は物質的傾向のほか、死と再生の観念も暗示する(『世界シンボル大事典』)。ここでも明らかなように、乙女は現世における肉体的限界と「死」の秩序によって束縛されており、彼女と航の間には、あたかも血の絆のごとく赤い絨毯が続いている。航の呼び声に少女は目を開けるが、近づこうとする航の前に、あの死神が姿を現した。

航 「…夢だ…!これは…夢だ。夢だ、夢なんだ…!」

 あまりに非現実的な光景に、航はこれをただの夢の出来事として納得しようとし、その認識のうえで「死」に突撃する。だが、そのような認識では、「死」を乗り越えることはできない。「死」を虚像とのみ捉えて立ち向かうのは、たんに「死」の力から目を逸らし、運命から逃避しようとしているだけにすぎない。それゆえ、航は果敢に向かっていったものの、「死」の振り下ろす鎌の勢いに恐れをなして、すぐさま元来た方向へと逃げ出し始めるしかないのだ。

航 「夢だけど、やっぱり…」

 「死」から必死に逃れようと駆けながら、その向こうにいる乙女・千影のことを想えば、このままでは何の解決にもならないことは明らかである。航の背中を遠く見つめながら、乙女は再び力なく目を閉じようとする。ここで航が城館から逃げ出してしまえば、乙女は敗れ「死」は勝利し、乙女はそのままこの孤独の中で独り眠りにつくことになっただろう。それはすなわち、この乙女に包摂されている千影の魂もここに永久に留まり続け、現世における千影の肉体は、「死」の滅びに委ねられてしまうことを意味する。この玉座の前での戦いにこそ、千影の生命が賭けられていたのだ。そして彼女が勝負を諦めかけた瞬間に、航は踵を返して、「死」に本心から立ち向かう。その意志を支えたのは、共同生活の中で鍛え上げられてきた兄としての自覚、妹への愛だった。

航 「千影ちゃんを助けられるのは、ぼくだけなんだ!」

 勇気を奮い目を閉じて「死」に突っ込む姿は、第2話でウェルカムハウスに駆け戻る姿や、第10話で亞里亞を助けにプールに飛び込む姿などを思い出させる。その背に振り下ろされる鎌の刃を感じて、航はまたも闇の中に沈む。

 ふと目を開ければ、そこは礼拝堂の中。航は傷一つなく、光差し込む通路に立っていた。

航 「そんな、馬鹿な…ち、千影ちゃんは!?」

 今日何度目の「そんな馬鹿な」だろうか。妹のために死を覚悟した航は、その想いゆえに「死」に打ち克った。「死中に活あり」という言葉もあるが、「死」を直視し逃げることなく、妹の生を守るために戦えばこそ、「死」はすみやかに役目を終えて姿を消した。ここで注意すべきは、航はあくまでも千影を救おうとしていたのであり、乙女としての彼女ではない、ということである。だが、乙女にとってそのような区別は重要ではない。航の行為は、自分と兄とを引き裂いた「死」への勝利として受け止められ、この勝利はただちに、兄妹が再び結ばれることを確実にするはずだった。
 だからこそ、航の前に現れた乙女は、美しい花嫁衣裳を纏っていた。薔薇のケープを髪にかけ、身にはキャラクターコレクション第9巻第4話のイラストに基づいたウェディングドレス。しかしそれは、兄の死に絶望した彼女が毒を仰いださいに、死後の世界で兄と婚礼するために纏った死装束としての花嫁衣裳ではないか。かつてなしえなかった婚礼をこの思い出のドレスで果たそうとする気持ちはそれとして、このまま契りを結べば航が現世の命を失う、そうでなくとも今の共同生活に終止符を打つということを、乙女の衣装が暗示しているとも考えられる。やはり乙女にとっては、現世の航や千影は問題ではない。「ありがとう…嬉しい…。」と近づく乙女は、ついに念願を叶えようと最後の儀式に臨む。

乙女「命を捨てて、私を これでもう、邪魔者はいないよ…。さあ、二人で、永遠の契りを結ぼう…。
   もう、決して離れることはないよ…。私は、あなただけのもの…。そして、あなたの体も魂も、私一人のもの…。」

 穏やかな口調に言いしれぬ迫力をこめて、乙女はペンダントを差し出す。

少女「たとえ肉体が朽ち果てても、魂だけになっても、けして離れるこことない、二人だけの約束のしるし…。
   未来永劫、生まれ変わろうとも、ずっと一緒だという、証し…。」

 それは乙女の悲願であり、永久に同じままであり続けようという意志の表れだった。そしてその契りを結べば、他の妹達は永久に排除されたままとなる。共同生活の喪失を予感して、航は、乙女から後ずさる。

少女「どうしたの…嬉しくないの…? なぜ…? さっきは命がけで、私を助けようとしてくれたのに…。
   私を愛しているのではないの…? 私のために戦ってくれたと、信じていたのに…。」

 この乙女の誤解こそが、彼女を兄との契りに自ら束縛し、その業を繰り返させていたものだった。「死」が示す第二の意味、再生への契機が、「死」を打破したかに見える今こそ、彼女に真に与えられねばならない。そうでなければ、彼女は再び転生したさいに同じことをただ繰り返すしかない。そして、それに失敗するたびに、彼女にとってもはや無意味な現世での命を何の喜びもなく生きねばならない。
 無論航はそんな事情を知らない。航には前世の記憶すら未だに一部たりとも蘇らない。だが、だからこそ航は、現世に千影とともに生きる兄として、その務めを自らの意志で果たすことができる。

航 「ぼくは、戻りたいんだ…。ぼくには、妹がいる。君を助けたのも、その…。」
乙女「妹に似ている、だから…?」
航 「…もちろん、千影ちゃんも大切な妹だよ。
   …けどぼくは、戻りたいんだ。千影ちゃんや妹達と一緒に暮らしていた、ぼくの家に。」
乙女「みんなと一緒が、いいんだね…?」
航 「う、うん、うまく言えないけど…。」

 千影のために、航は命賭けで立ち向かえる。しかし、それは千影にだけではない。あの家の妹達全員が、航にとってかけがえのない存在であり、自分を盾にして守るべき大切なひとだった。第6話で「一人だけなんて選べない」と叫んだ時から今に至り、航はそのことを何よりも自覚していた。「戻りたい」とは、こんな夢から覚めたいという逃避願望ではない。あの家で皆と生きたいという積極的意志である。この言葉はやがて現世でも力強く繰り返されることになるが、ここで乙女は、その悲痛な面持ちを不意に和らげ、かなしげに微笑む。その瞬間に、そこにいるのは乙女の魂ではなく、千影のそれに替わっていた。

千影「…フッ、変わらないね…。そう言われたのは、これで何度目かな…。覚えていないだろうけどね…。」
航 「え?」
千影「フフフッ、兄くんらしいよ…。」
航 「え、じゃあ、君は…!?」

 悠久の年月を経て転生を重ねてきた乙女の魂は、この場面までもずっと千影という現世の個を包摂したままにあった。だが、兄が航という現世の個として、そのかけがえのない命と、かけがえのない妹達との生を求めて意志した時、同じ現世に生きる千影の魂もまた、ここに乙女という全体を越えて現れることができた。乙女の記憶を共有する千影は、兄が変わらないことへの喜びをせつなく示す。兄は変わらない。そう、機会を得るたびに乙女は繰り返し試み、そして、今と同じように兄に拒絶されてきたのだ。その都度彼女は悲しみ、あるいは憎しみ、あるいは怒り、長く暗い道のりを歩んできたのかもしれない。だが、だからといってそれが全く無意味だったわけではない。その記憶を胸に秘めたまま、千影は、いま、微笑むことができた。少なくとも、このような兄を、兄らしさとして受け入れることができるようになった。他の者達を排除しても、強引な手管を使おうとも、兄が兄らしくあるかぎり、自分の望みは決して叶うことはない。それは一つの重すぎる諦めであり、そして同時に、一つの救いでもあった。自分の力への絶望を通じて救済は訪れる、その絶望が「死に至る病」として愛を閉ざさないかぎり。永い年月の試みの果てに、ようやく彼女は、千影という個において、再生への契機とまでは言わないにせよその足がかりとなるような段階にまで到達した。

 礼拝堂は不意に光を失い、その闇の中で、乙女は航から遠ざかりながら、振り返って再びペンダントを航に差し出す。最初の夢では航の手を引き寄せ、つい先刻は航にこれを受け取るよう迫った乙女は、いまやこれを航に託す。そしてペンダントが、彼女の手のひらから浮かび、航の手の上へとそっと降り立つ。あたかも、二人の想いの絆を描くように。ゲーム版では「想いを受け止めて呪いを解いてくれたクロス」と言われるが、ここでは、千影達現世の妹への航の想いが前世の呪縛をひとまず解きほぐし、千影を現世に向き直させてくれたことへの感謝を込めて、ペンダントが贈られている。
 そしてそれは、乙女が薔薇十字の象徴を手放しながら、同時に薔薇十字の真の意味に立ち戻ることでもあった。人間の神化を目指す結社の理念は、その目的のために霊的世界への逃避を推奨したわけではない。むしろ薔薇十字団は、霊的世界と物質世界、魂と肉体、永遠と有限などといった対立の中でこそ、しかもそこで耐え抜くことによってこそ、初めて目的を全うできると考えていた。薔薇−十字とはそのような対立と止揚の象徴でもあるのだ。イェイツは『薔薇』(1893年)所収の「時の十字架にかけられた薔薇に」という詩で、「『時の十字架』(Cross of Time)の上での自己放棄の苦しみを味わって初めて得られる永遠」を暗示している(『イメージ・シンボル事典』)。薔薇十字に象徴される「劣等で現世的な本性と高次の永遠の本性の結合によって達成される人間の救済」(『大系』p.188)、「死」を通じて「新しい愛古い愛の死を経験して再生していく過程」(『錬金術』p.94)とは、まさに千影と乙女、死すべき肉体と滅びざる魂、現世の一回的生とたゆまぬ転生といった対立を、「死」に立ち向かう兄の愛によって、止揚していこうとする姿として描かれたのだ。こうして、千影を破滅や独善から本当に断ち切って高次の再生に向けてくれた航は、千影を救うためにあえて断ち切る剣を振るったかつての騎士にほかならなかった。

千影「このペンダント、忘れないで…。私の気持ちは、伝えたから…。」

 背後へと遠ざかっていく千影の姿は、千影という個の魂として語りながら、乙女のこらえきれない望みを今なお自分のものとして、ペンダントとともに航に想いを託す。自分を救った兄への感謝と愛が強ければそれだけに、その記憶を、そして自分の想いを、兄に忘れずにいてほしいと願う。兄と結ばれることがないのなら、せめて現世で自分を独りにしないでほしいと願う。千影の姿はさらに遠ざかり、やがて航の視界から消えていく。はるかな過去が、「いま」という時から押し流されていくように。その記憶は、流されることなく想いの中に留まり続けるだろうか。

航 「千影ちゃん…。」

 呟く航の視界に、入れ替わるようにして眩い光が飛び込んでくる。迫り来るその光は、アーチのトンネルとなって航の前に開ける。開かれた未来へ向かう「いま」に生きるために、航は光を抜けて歩き出て行く。そのアーチの左脇には、黄色い麦藁帽子の少女が無言で佇んでいる。千影の計画の成り行きを沈黙のうちに見守り、その最高の結末を見届けて、航を出迎えるこの少女もまた、過去に出自を持ちながら、しかしその過去に航と自らを束縛することなく、だが過去を忘却することもなく、「いま」を積み重ねて生きていく意志を、航に培ってきた霊的な支援者だった。あるいは、航の幽体離脱の契機を与えたのも彼女だったかもしれない。だが、少女は乙女に勝利したというわけではない。両者の間に戦いはない。ただ、千影を含む妹達と兄が、その唯一の生を共に守りえたのだ。少女はそれを望み、乙女もそれによってより高次の段階へと進む過程に入る。愛の絆で結ばれた全員が、今回の勝者なのだ。薔薇十字団の基本書『化学の結婚』から歌の一節を引用しよう。

「一切に打ち克つものそも何ぞや?
  愛なり。
 ひと そも愛を見出し得るや?
  愛を通じて。
 ひと 神の御業の顕われをいずこに読み取るや?
  愛のうちに。
 何者ぞ二を一たらしめ得んや?
  愛なり。」
                           (『化学の結婚』p.134)

「我らなお生きてあるかぎり、
 愛と大いなる慈悲とを、
 大いなる力もて分離しきたれば、
 我らまた愛の炎をて、
 首尾よく両者をふたたび一つにせんことを
 神は叶え給おう。

 さればこの苦悩は、
 苦しみのあまた生れ出るかぎり、
  永遠に、
 大いなる歓喜と化さん。」
                  (『化学の結婚』p.135)

 光をくぐって現世に帰還した航は、肉体に戻るやいなやバランスを崩して頭からチェス盤に突っ込む。特定の者だけが勝利する世界を拒絶して、航は等しくかけがえのない妹達と共に生きられるこの現世に戻ることができた。突然つんのめった兄に驚き介抱しようとする妹達こそ、兄の肉体のそばから離れず、それと知らずに絆をこの世界に繋ぎとめていた。そしてこのために大役を果たしていた山田は、そんなことに気づくはずもなく、蘇生したと思しき航に安堵してそそくさと逃げ出していく。

山田「あのなあ、ボキは一人いれば十分だっ。みんなのお世話はお前に任せるぞっ!」

 山田にしてみれば、この半日は彼こそ生きた心地がしなかったに違いない。妹達に囲まれて暮らす航を羨望していたものの、こういう状況でいざ一度に相手をするとなると、その労力は言語に絶するものがあった。結局山田が求めるのは誰か一人の女性であって、それが誰か未だに特定できないにせよ、全員でこの共同生活を分かち持つことではない。それをなし得、そしてそこに幸福を見いだす兄は航以外にあり得ない。妹達を気遣うのも兄の喜ばしい務めの一つであり、つい今まで霊的世界においてその務めを果たしてきたばかりの航は、部屋の入り口に佇む千影の姿に気づく。

航 「千影ちゃん!」

 無言のまま、手の中のペンダントに口づけて立ち去ろうとする千影。自分の部屋で意識を回復した直後、兄の様子を見に来たのだろう。その背中に航は問いかける。

航 「千影ちゃん、そのペンダント、」
千影「悪いけど、今はまだあげられないよ…。気に入っているんだ…。」
航 「千影ちゃん…。」

 
航は覚えていてくれた。この世界に戻っても、忘れずにいてくれた。航の心の中に、あの薔薇十字は確かにしるしを残したのだ。今はそれだけでいい。自分の想いを、受け止めてくれたのだから。そして、いつか兄が、本心から自分の想いに応えてくれる時が来たのなら、その時にこそ。それまでは、乙女の記憶を自分も手放さずに留めておく。自分の悠久の愛の証しとして、自分と兄の絆の象徴として。
 全てを諦めたわけではない千影は航を置いて自室に戻り、そこに飾られたあの紫のウェディングドレスを前にうっとりと頬を染め、やがて手の中のペンダントを見つめる。もはや兄を責めない、他の妹達を恨まない、しかし諦めもしない、ただ純粋な想いに満たされていく。ドレスは彼女の願いそのものであり、またこの現世での生を唯一のものとして精一杯生きるための「死を思え(memento mori)」という警句でもある。

千影「兄くん…。」

 決して人前では見せることのない乙女の喜びを満面に示し、千影はそっと呟く。この島で、ついに千影もまた、今の彼女にとっての癒しを得た。たとえ航にそのことが理解できず、今日の出来事全てが飲み込めておらず、それゆえ最後に燦緒へのメールによる締めの言葉がないとしても、千影は確かに証しを得たのである。

「我らかねてより望みしものを、
 獲ち得たり、
 幸いなるかな、未来に目を向ける者は。」
        (『化学の結婚』p.113)



終わりに 〜妹の一人として〜

 第5話以来続けられてきた千影の努力は、こうして、彼女固有の目的を達成するというかたちでは成功しなかった。それはむしろ、この共同生活全体を守る方向で今後継続されていくことになる。自分に未来への契機を与えてくれた兄のために、その兄を支える「いま」の生活を、そこに生きる他の妹達ともども維持していかねばならない。だが、そのような努力で、本当に「別れ」が回避できるものだろうか。それ以前に、いまさら他の妹達が千影を同じ妹として受け入れてくれるだろうか。
 まず後の問題について言えば、既に千影は孤立してなどいない。第11・12話では、鈴凛や花穂が千影の能力をそのまま信頼している。第9・10話第12話では、千影は皆の輪の中に入って楽しみを共にしている。さらに第16話では謎の競技で1位を獲り第17話では皆と一緒に「あーん」までしているお茶目ぶり。確かに千影は独特すぎる面があるが、この妹達の中でそれを言ったらお互い様だろう。そして、千影が皆と同じかけがえのない妹であることは、何より航が第6話の絶叫以来示してきている。あの演芸大会の帰り道に、妹達は皆が揃って、あのシスタープリンセスのシンボルのチョーカーを胸に下げていたのではなかったか。
 そう、ここであのシンボルに目を向けなければならない。薔薇十字の中央に置かれた薔薇の花弁の中には、実は、十字の印を刻まれた心臓が隠されているのだ(『大系』p.161)。十字印の心臓、それは、この島に来る前から12人の妹達が全員持っていたハーモニーボールの形状そのものである(第1話参照)。あのハーモニーボールを妹達に贈った者がじいやなのか協力者なのか父親なのか、また誰にせよその者が薔薇十字団の秘儀に通じていたかどうかは分からない。だが、その象徴的含意は明らかに、様々な境遇にあった妹達と航が、それぞれの相違や対立を乗り越えてより高次の幸福な共同生活の中に再生することを暗示していた。そして、第6話でこのハーモニーボールのシンボルに王冠と翼が付け加えられたチョーカーが贈られたことは、神(王冠)・キリスト(十字)・聖霊(翼)の三位一体のもとに生きる人間(心臓)というキリスト教的解釈も可能だが、この考察の主旨からすれば、至高性のもとでの統合(王冠)と解放による勝利(翼)を予見したものと捉えなおすことができるだろう(『世界シンボル大事典』)。
 そして、これらのシンボルに託された願いを実現するのは、航であり、妹達であり、その思いの絆であり、千影も既にその中にいる。であれば、「別れ」をいかに回避するかというもう一つの問題にも、自ずから答えが導き出される。この絆を信頼し、皆の想いがどこまでも共にあることによって、そしてそれによってのみ、可能となるはずだ。そのための前提となる現世の生への意志を、千影は航と共に「死」に向き合う中で今回ようやく獲得した。これ以降彼女は、今までにも増して、共同生活の中に身を安らえていこうとし、他の妹達もそれを何気なく受け入れていく。その直截的な姿は、第19話第20話でただちに描かれることになるだろう。


 本考察を終えるにあたり、文中で直接引用した文献を掲げる。


ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ『化学の結婚』、種村季弘訳、紀伊國屋書店、1993年
マンリー・P・ホール『象徴哲学大系III カバラと薔薇十字団』、大沼忠弘他訳、人文書院、1981年(文中では『大系』と省略)
ウィリアム・バトラー・イェイツ『神秘の薔薇』、井村君江・大久保直幹訳、国書刊行会、1980年
ウィリアム・バトラー・イェイツ『幻想録』、島津訳、ちくま学芸文庫、2001年
アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』、山下圭一郎他訳、大修館書店、1984年
ジャン・シュヴァリエ/アラン・ゲールブラン『世界シンボル大事典』、金子仁三郎他訳、大修館書店、1996年
吉村正和『フリーメイソンと錬金術』、人文書院、1998年(文中では『錬金術』と省略)

 なお余談ながら、『化学の結婚』には以下のような問いかけがなされる場面があり、本考察の観点からも興味深い。千影と他の妹達の関係というよりは、むしろ咲耶と可憐の関係をここに見てしまうのではあるが。


「私には同僚が二人いて、二人ともこのうえもなく私を愛してくれています。彼らは二人のうちどちらかを私がとりわけ愛しているかが気になって、ついに私のところに駆け込むことに決めました。私が応対したほうが勝ちというわけです。彼らはそれを実行しました。ところが一方はもう一人の後に続きたがらず、自室にのこって泣いていました。私はびっくりしてそのもう一人のほうを迎えたのです。あとで一部始終を聞いて、わたしはどうしたらいいか分かりませんでした。それでいままで懸案にしていたのですが、この席でなりと何かいい知恵がみつかるとよろしいのですが。」(p.80)

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