アニメ版『シスタープリンセス』補論1

〜眼鏡とデジカメ〜



はじめに 〜問題の視点〜

 他のアニメ作品と同様、本作品でも様々な小道具(ガジェット)が登場した。その中でも最も頻繁に用いられ、物語の展開にも役立てられた物として、眼鏡とデジカメが挙げられる。ここでは本編考察の補足として、これらの小道具の意味と役割について考察する。


1.眼鏡の意味と役割

 まず眼鏡について検討しよう。本作品における代表的な眼鏡といえば、航が第1話でかけていた伊達眼鏡である。この他に、サングラスやゴーグルなどまで含めれば、作品中に登場した眼鏡は、以下の表に示す通り、それなりにバラエティに富んでいる。

<眼鏡一覧>
登  場  し  た  眼  鏡  類
1 航・皆井の眼鏡、東京人全員の眼鏡、水没する航の伊達眼鏡、眞深の変装用の眼鏡
2 眞深の変装用の眼鏡、鞠絵の眼鏡、亞里亞の耐火シールド
3 航の水中ゴーグル
5 ラボで作業中の鈴凛のゴーグル
6 山田監督のサングラス
7 礼拝堂での撮影時に一瞬眼鏡に隠される鞠絵の瞳
8 病床の鞠絵の外されている眼鏡
9 咲耶のサングラス、その真似をして鈴凛がかけるゴーグル
10 衛の水中ゴーグル、航の水中ゴーグル(第3話のものとは別)
13 咲耶の夏の思い出のサングラス
19 白雪と航の台所でのタマネギ刻み用ゴーグル
22 四葉の美少女怪盗クローバー変装用アイマスク、山田の名探偵変装用眼鏡
23 燦緒のイメージにおけるかつての航の伊達眼鏡
25 燦緒の手でかけられる航の伊達眼鏡、燦緒のサングラス、一度も瞳が見えない皆井、眼鏡を貫いて輝く航の瞳
26 燦緒が外すサングラス、航が外す伊達眼鏡、転校時に燦緒が外すサングラス

(1)一般的・否定的な眼鏡描写

 アニメの一般的文法において、「不透明な眼鏡」が意味するのは、着用者の心理的抑圧・隠蔽、あるいは着用者の驚愕や暴走・異能力発揮などの状態、のいずれかである。このうち後者は、「メガネ」(『うる星やつら』)を演じた千葉繁氏が音響監督を務めているにもかかわらず、第6話で「アドリブ」と叫ぶ山田と、第7話礼拝堂でミカエルがデジカメに突進したさいの鞠絵、の2例しかない。山田については「メガネ」の(眼鏡なき)正当後継者と言いたいところだが、あのキャラクターほどに際立った存在感を示すことはなかった。なお、第1・2話で眞深がかけていた変装用眼鏡は半笑いをもよおす代物だったが、それでも航が、後で変装を解いた眞深と同一人物だと気づかなかった(第13話で、初めて会った妹は可憐だと回想している)あたり、目的を全うしていると言える。
 一方、心理的抑圧・隠蔽については、航の伊達眼鏡がこの代表格である。第1話で受験に失敗するまでの航は、エリートコースに乗るための受験勉強に専心していたが、その視野狭窄が伊達眼鏡によって示されていた。東京では、燦緒以外の全員がこの意味での眼鏡を着用しており、皆井に至っては名前で「見ない」姿勢を宣言している。これに対して航は、島で溺れたさいにこの眼鏡を失い、さらに可憐に眼鏡をかけてない方が素敵と言われたことで、自らの感受性を解放し、新たな生活に踏み入っていくことができた。しかし、第25話で燦緒がこの眼鏡を再び航にかけさせたとき、航の感受性は島での記憶とともに封じられてしまった。この危機を乗り越え、第26話でこれを自ら外したことによって、航は自分の心を真にあるがままに受け入れ、島の共同生活に復帰しえたのである。
 隠蔽としての眼鏡は、第3話でも登場している。航は島から逃げ出すために水泳用ゴーグルを用意し、そこに現れた可憐に背を向けて、しばらく逃走経路を探し回る。そのさい、可憐が背中にしがみついて涙をこぼし、そして離れていくまでの間、航はそのゴーグルをかけたままだった。これは、妹達の想いに向き合おうとしない彼の心を表している。また、第24話から第26話にかけて燦緒がかけているサングラスは、彼の本心を航達に、あるいは自分自身にすら曝さないための手段であり、それゆえ逆に、外した瞬間の燦緒の心はきわめて素直で脆くなってしまう。さらに、第7話で妹達につれない態度を取り続ける航は、礼拝堂で咲耶に苦手意識を正直に告げるまでは、心に伊達眼鏡をかけていた状態にあったとみてよいだろう。このときの航は共同生活に距離をおき、受験生としての自分に立ち返ろうとしていたからだ。

(2)肯定的な眼鏡描写と航の成長

 しかし、このような否定的な意味での眼鏡のみならず、本作品には肯定的な役割を演じた眼鏡も登場する。
 例えば、第10話で衛が航に贈った水泳用ゴーグルは、航の自己欺瞞を鋭く突いた一方で、衛の想いを航に伝え、さらに航が亞里亞を助けにプールに飛び込むさいの彼の拠りどころにすらなった。ここでは眼鏡は、妹の想いの在り処でもあり、兄の勇気を支える手段でもある。また、第19話では、航が白雪と並んでタマネギを刻むとき、二人ともにゴーグルをかけている。タマネギが目にしみないようにしながら、航が台所におそらく初めて白雪と一緒に立ち、正直に気持ちを伝えることができたのは、この眼鏡のおかげである。いずれの場合にも、航が妹と本当に心を交わすさいには眼鏡を外しているのだが、その準備段階として眼鏡で適度な距離をおいたり、相応の構えを作ったりするのに、眼鏡が役立てられたということになる。
 もちろん、兄妹が同じものを着用することで心を繋ぐという意味では、その小道具が眼鏡である必然性はないかもしれない。しかし、上述の2例で用いられているゴーグルという種類の眼鏡が、水泳や機械整備などの特殊環境において眼球を保護するために使用されるものであるということに、ここで注意する必要がある。つまり眼鏡の役割は、先述したような隔離・隠蔽・抑圧などを意味するだけでなく、一時的保護という機能も有しているのだ。プールに飛び込む航の恐怖を抑え、白雪と一緒に台所に立とうとする航の優しさを守っていたのが、これらのゴーグルなのだ。
 保護するための眼鏡というこの観点に立てば、航の伊達眼鏡についても新たな意味が見えてくる。つまり、この伊達眼鏡を彼にかけさせたのは、航の感受性を抑制して両親との別離に耐えられるようにしようとする、じいやの計らいであったと考えられるのだ。この伊達眼鏡によって航は、自分の内面の悲しみや外部の雑音に対する抵抗力を備えた。伊達眼鏡という殻を被ることで、航の感受性は、その豊かな可能性を保持したまま無闇に傷つけられることなく、島での共同生活に持ち来たらせることが可能となったのである。
 そう考えれば、燦緒が第25話で航にかけさせた伊達眼鏡は、航の意志を今後従属させるための桎梏であるという点で、じいやがかけさせた最初の伊達眼鏡とは全く意味が異なるものだと分かる。「これで何もかも元通り」という燦緒の言葉は、このようにきわめて表層的な、燦緒の欲求充足のためだけの、復旧にすぎないのである。だが、あるいはこの誤れる伊達眼鏡こそは、航の瞳と意志を燦緒から隠すことによって、燦緒がそれに気づかず何ら対抗措置を施さないまま眞深の到来を許すことになった、一つの要因と言えるかもしれない。そうであるならば、燦緒の意図を裏切って、この伊達眼鏡が航の意思決定のために功を奏したということになるだろう。

 こうしてみれば、航は、眼鏡という道具を通じて、他人や現実世界との関係をいかにして構築し、その距離をはかるかという知恵を、本作品で描かれる以前の段階から最終話に至るまで、少しずつ学んできたのだと理解しうる。幼少期、東京時代、共同生活のそれぞれの段階は、やはり一貫して彼に不可欠な経験を与えてきたのである。

(3)鞠絵の眼鏡

 最後に、日頃から眼鏡をかけている唯一の主要登場人物である鞠絵について検討しよう。
 彼女は、原作版の妹12人において、いわゆる「眼鏡っ子」(はいぼく氏『めがねがね』「めがねっこ論文」参照)および「病弱」(前世紀末覇者氏『大(仮)帝国』「帝国療養院」参照)という2つの属性を割り当てられた妹として、その立ち位置を定められている。これらの属性を付与されたキャラクターはきわめて類型化されやすいため、鞠絵の人格が薄い、あるいは存在感がない、などという批判を一方で生んでしまっている。
 ここでは、そのような批判に直接答えるすべを持たないにせよ、鞠絵の病気と視力に何らかの関係がある可能性をひとまず指摘しておくことはできるだろう。それは症状としての視力低下ということかもしれないし、たんに病床で読書に耽りすぎたためかもしれない(この問題についてはリピュア考察5で再検討している)。いずれにせよ、『オリジナルストーリーズ』によれば少なくとも幼い頃には眼鏡をかけていなかった以上、鞠絵の眼鏡は発症そのものと、つまり兄のいる世界から切り離された瞬間と、結びついている。そしてそれはまた、自分が兄のそばにいては迷惑がかかる、という後ろめたさをも内包している。
 第8話冒頭の鞠絵が自室で読書する場面では、彼女の眼鏡は、兄や他の妹達に迷惑をかけまいとし、その一方で寂しさを抑えようとする、心理的抑圧・隠蔽を指し示す。しかしそれでも、鞠絵の眼鏡が不透明に曇る場面が第7話の一例しかないという事実は、彼女がいかなる悲しみを抱いたときでも、その心を兄に向けていたことを間接的に物語る。その甲斐もあって、ミカエルの働きにより兄と買物に出かけることができたとき、鞠絵は、兄のいるこの世界に生きようと望み始める。雨に濡れて熱を出したとき、枕元で看病する航に、自分がいると迷惑ではないか、と訊いたのは、彼女がそれだけ素直に想いを口にすることができるようになっていたからだ。この場面での鞠絵は、病床にある以上当然のことではあるが、眼鏡を外している。それは彼女の心の眼鏡が外された姿をも意味している。
 その後、回復した鞠絵が再び眼鏡をかけるとき、それは、今までのような抑圧の象徴としてではない。兄に受け入れてもらえた喜び、兄と一緒に生きていこうとする意志は、彼女の心身を力強く支え、さらに共同生活のために自分にできることを精一杯していこうという前向きな姿勢をもたらした(第9話など)。そして、第12話で鞠絵が念願かなって航と砂浜を歩くとき、彼女は、眼鏡をかけたまま微笑んでいる。健康だった過去の思い出にしがみつくことなく、いまの自分を受け入れてくれた兄のそばで、いつまでも続く幸せな未来をかち得て行こうとする彼女の姿が、ここにある。鞠絵がいわゆる「眼鏡っ子」であるとすれば、彼女はこの時点において、眼鏡を自分の一部として肯定的に受容し、自他共に認める真の「眼鏡っ子」となったのだ。だからこそ鞠絵は、第22話で振袖を身に纏うときにも眼鏡を外さず、第26話で兄を待つときも、眼鏡を外して「いま」を否定することなく、貝殻に静かに耳を澄ますことができたのである。


2.デジカメの意味と役割

 航のデジカメは、本作品を通じて、彼の体の一部であるかのように頻繁に登場していた。これによって撮影された画像は少なからぬ数にのぼる。作品内には、これ以外にも四葉のデジカメ(および第17話で購入した一眼レフ)が登場するが、こちらは運動会で撮影班を務めるなど以外の場合、専ら兄をチェキするのに用いられた。これらのカメラで撮影された被写体をまとめると、下記の表の通りとなる。

<デジカメの被写体>
被  写  体
1 燦緒/美駆鳥居高校門/合格番号×3/本土船着場/島船着場/可憐/咲耶・航/花穂/雛子・可憐
2 可憐・花穂・咲耶・雛子・眞深/衛・鞠絵・千影・春歌・ミカエル・眞深/白雪・鈴凛・四葉・亞里亞・眞深
3 航/花穂
ファインダー映像のみ:可憐の後姿
(1可憐/1咲耶・航/1花穂/1雛子・可憐/2白雪・鈴凛・四葉・亞里亞・眞深/2衛・鞠絵・千影・春歌・ミカエル・眞深/2可憐・花穂・咲耶・雛子・眞深)
なお、第2話以降第3話中までで以下の画像が撮影されているはずである:
衛/鈴凛・プロトロボ1号/白雪/四葉・千影・衛/千影/鞠絵・ミカエル/亞里亞・鞠絵・ミカエル/春歌/
4 {航×4/庭1}
5 (1可憐/1咲耶・航/1花穂/3衛/1雛子・可憐/3鞠絵・ミカエル/3白雪/3鈴凛・プロトロボ1号/3千影/3春歌/3亞里亞・鞠絵・ミカエル/3四葉・千影・衛/1燦緒/1燦緒)
6 可憐・咲耶/花穂・衛・雛子/四葉/春歌・亞里亞/白雪・鈴凛/鞠絵・ミカエル/千影と眞深以外の11人・ミカエル/山田・可憐・咲耶・鞠絵・春歌/山田・花穂・衛・雛子・白雪・鈴凛・四葉・亞里亞/山田×2/白雪・可憐・咲耶・鞠絵・ミカエル/鈴凛・春歌・四葉/衛・花穂・雛子・亞里亞/鈴凛・花穂・雛子・四葉/鈴凛・衛・可憐/鞠絵・春歌・咲耶・白雪・亞里亞・鈴凛・千影・ミカエル/13人・ミカエル・プロトロボ1号
7 千影以外の12人
[花穂・航×2/白雪・航×2/春歌・航×2/衛・航/四葉・航・山田/亞里亞・航・山田/亞里亞・航/鞠絵・航・ミカエル/鞠絵・ミカエル/鈴凛・航・山田×3/雛子・航/可憐・航/咲耶・航×3]
8 デジカメ映像だが撮影不能、あくまで回想として:航・鞠絵
9 {航}
10 なし
11 四葉・衛×2/雛子・鞠絵/花穂・可憐/可憐/可憐・花穂/可憐・四葉/可憐・花穂・衛・春歌/可憐・衛・春歌・四葉/可憐・春歌・四葉/可憐
{航/春歌・航他×5}
12 鈴凛/可憐・雛子/咲耶・白雪・花穂・春歌/花穂・春歌/料理/花穂/衛・鞠絵・白雪・春歌/花穂・可憐・雛子・白雪/眞深/衛・白雪・四葉/咲耶・亞里亞
(11四葉・衛/11雛子・鞠絵/11可憐・花穂)
なお、以下の遭難までの場面がデジカメ映像化されているが、撮影は不可能と判断される:
潜水艇/可憐・花穂・衛・咲耶・雛子・鞠絵・千影・亞里亞・眞深・航/全員・じいや/花穂・衛・雛子・四葉・航/潜水艇/航×2/鈴凛・雛子・航/可憐・花穂・雛子・鈴凛・航/衛・咲耶・亞里亞・航/鞠絵・鈴凛・春歌・亞里亞・眞深・航/可憐・花穂・雛子・鞠絵・白雪・鈴凛・春歌・眞深・航/航
13 (1可憐/1咲耶・航/1花穂/1雛子・可憐/3衛/3鈴凛・プロトロボ1号/3白雪/3四葉・衛・千影/3千影/鞠絵・ミカエル/3亞里亞・鞠絵・ミカエル/3春歌)
なお、以下の画像が非デジカメ画面で航の回想として示される:
(1咲耶・航/1雛子・可憐/7雛子・航/7白雪・航/7鞠絵・航・ミカエル/7春歌・航/1花穂/7可憐・航)
14 なし
15 通常・望遠ファインダー映像のみ:亞里亞×2/亞里亞×2
16 {航/咲耶/衛/花穂}
17 なし
18 なし
19 {昼食/雛子・航・ミカエル/衛・亞里亞/可憐・花穂・春歌/鞠絵/咲耶・眞深/千影/千影・雛子・ミカエル}
20 なし。ただし、第21話で登場する14人・ミカエルは、このときセルフタイマーか山田により撮影されたと思われる。
21 四葉/
(兄妹14人・ミカエル、おそらく20話に撮影)
{航/航・プロトロボ1号/鈴凛・航}
22 白雪・眞深/千影・鈴凛・メカ鈴凛・プロトロボ1号/春歌・四葉/亞里亞×2
[可憐・花穂・咲耶・雛子・航/衛・鞠絵・航・ミカエル]
23 可憐・咲耶・雛子/花穂・衛/春歌/鞠絵/白雪・鈴凛・四葉/亞里亞/千影
24 なし
25 ファインダー映像のみ:眞深
26 兄妹13人・ミカエル/鈴凛・プロトロボ1号/オブジェ

* [ ]は航以外の者による航デジカメ撮影、{ }は四葉デジカメ撮影を示す
  (斜字体)は記録画像の登場、半角数字は元の撮影話数を示す

 ここで論じられるのは、もちろん航とデジカメの関係についてであり、彼が撮影した画像がその検討材料となる。
 ただし、航のデジカメ画像らしきものの中には、撮影行為が描かれず、本当に撮影されたものとは考えにくい画像が若干ある。例えば、第12話冒頭で次々と流れていくデジカメ画像には、水中で荒波にもまれる潜水艇や、その内部で浸水をくいとめる兄妹の姿が映し出されている。また、ここまで極端な例ではないが、第23話で燦緒からプレゼントを貰って喜んでいる妹達の姿も、ここで航なり誰かなりがわざわざ撮影しているとは考えにくい。同様の事例は他にもあるが、これらの画像は、実際にその場面を撮影したものであるというよりも、別の意味をもつものだろう。
 一つは、これをアニメの表現手法として理解するものである。つまり、これらの画像は、ある出来事を軽快に描写するためのものにすぎないということになる。もう一つは、これを航の心象描写として理解するものである。つまりこれは、航にとって印象の強い光景が、彼の記憶の中に、一つの画像のように焼き付けられているということを意味する。第23話の場面では、燦緒のそつのなさに驚きつつ劣等感を抱いた航の姿が直後に描かれているため、この解釈が当てはまるように思われる。しかし、これらの画像が常に航視点で映し出されているわけではないので、これを唯一の解釈とすることはできない。やはり、ここで挙げた2つのどちらもが各場面に応じて適用されていると考えるべきだろう。

(1)画像の分類と撮影行為の意味

 航がほぼ間違いなく撮影したと判断される画像は、イベントなどの記念写真と、それ以外の写真とに分けられる。
 記念写真については、第1話の合格発表、第20話のクリスマスパーティなどを筆頭に、航はイベントごとに、妹達あるいは家族全員の写真を撮影している。これはもちろんごく一般的な行為であるが、ここで注意すべきは、航が撮影を行わなかった状況についてである。例えば、第17話で春歌と秋祭に出向いたさい、あるいは第21話でメカ鈴凛がお披露目されたさいに、航は全く撮影をしていない。第23話で燦緒が来島したときも、彼と一緒に記念写真を撮ろうとしていない。さらに、第20話でも、合唱する妹達の撮影や、パーティの食卓での撮影を、作品内では行っていない。後述するように、ここには一つの変化が生じている。
 この一方で、非イベント的な日常記録としての写真はどうか。じつは航は、そのような写真をあまり撮影していない。例えば、第21話で「一心同体少女隊デス」と喜ぶ四葉を撮影したのは最も日常記録に近い。(これは、その直前に四葉が航を撮影したお返しであり、「一心同体」であることを航の側からも示す行動であると解釈できる。)しかし、第3話までに撮影されている妹達の個々の姿は、あくまでも彼女達と初めて出会った記念写真である。つまり、航が道々で撮影する写真は、何気ない日常の一幕というものではなく、彼の辿ってきた道筋を記録するためのものであり、そのような小さなイベントの対象という意味では、妹達も、第1話で撮影した船着き場も、当初それほど違いはなかったのだ。
 ここで、どうでもいい日常の風景を撮影することは航以外の人間にとっても一般的ではない、という批判が上がるかもしれない。しかし、これに対しては、第1話で航が可憐達を撮影するさい、一緒に写った咲耶を除いて、当人の反応を考えもせず、断りなく行っているということを指摘しておきたい。そして第3話までに、航は妹達全員を個々に画像に収めている。だが、このときの航自身は、その被写体である妹達の名前すら満足に覚えていない有様だった(「春歌ちゃん、だっけ?」)。ここで航は、他人の姿を記録を残しながら、その本人を遠ざけるという態度を、(密着する妹達への反発があったとはいえ)示している。
 つまり、航がデジカメで何かを撮影するという行為は、画像で切り取られた対象や出来事を自分の経歴の証拠として記録保存するとともに、その被写体と自分との距離を確認し、被写体から影響をうけない位置に自分をおこうとする意識を背景にもっていることになる。ただしこれは、被写体と自分との完全な隔絶を求めているのではなく、むしろ撮影行為によって、自分に好ましい関係の距離を構築しようとするものであることに注意しなければならない。両親との別離を経てた後、航はこのようなかたちで外界との関係を結び、自分のあり方と居場所を見いだそうと、彼なりの努力を重ねてきたのだろう。また、やむを得ない事情で感受性を抑制されてきた航にとって、撮影行為が一つの自己表現であり、その画像を見返すことが受験勉強からの一時的解放でもあったと考えることもできる。
 しかし、自分に好ましい人間関係の距離が妹達によって一方的に切りつめられていく第3話では、航は、学校でも妹達から逃れられないことに嫌気がさして、夕暮れの教室で一人、自分自身の顔を撮影している。この自分像は、彼がもはやいかなる他者とも関係を結ぼうとせず、ひたすら孤独の静けさを欲している姿を端的に示している。画像として切り取られた自分自身は、好ましい孤独の中に安住できるはずの理想化された自分なのだ。

 だが、現実の生活は、決してそれを許さなかった。そして、当初の危機を乗り越え、共同生活に馴染んでいくと、航がこのような自分像を撮影することは二度となかった。また、妹達との関係を深めていく中で、その姿を必要以上に記録しようという欲求も薄らいでいった。撮影が被写体との距離を確保しつつ関係を結ぶための行為であった以上、実際に関係が結ばれ、しかもその距離が密接であることが好ましいという意識に変化した段階では、デジカメは一般的な意味での記念撮影以外に必要とされることはなくなったのだ。物語前半ではあれだけ多くの写真を撮影していた航が、後半にはいると非常に不活発になるのは、撮影行為により自分を出来事の外側におくことを止め、むしろ自分自身がその出来事の当事者として参加することを第一に行動し始めたことを意味するのである。
 このような変化を経て、第20話の航は、合唱する妹達を客体として礼拝堂の入り口から撮影するどころか、導かれるように歩み寄り、妹達の想いを真正面から受け止め、自分の感謝の言葉を直接告げることができた。また、第26話で家族全員やオブジェなどを撮影しているのは、帰還した航がこの島での共同生活をあらためて自分達のものとして受け止め直したことを指し示している。だからこそ、このときの写真は兄妹の一生の記念として、黄色い麦藁帽子の横に飾られていくことになるのだった。

(2)モニターとファインダーの意味

 実際に撮影する以外に、航はデジカメに記録した画像をモニターで見返したり、被写体をたんにファインダーに収めるだけにとどめたりもしている。
 画像の見返しは言うまでもなく過去の確認行為であるが、本作品では第1話早々に、航が「今日よかったことといえば、これくらいだったな。」と呟きながら4人の少女の画像を見返している。これは、上述したような距離をおいて撮影された画像を通じて、自分の生活を再確認する作業であり、これまでも日常的に繰り返されてきた行為である。おそらくはここで「必要な画像」すなわち自分にとって有意で記憶すべき過去と、「不要な画像」すなわち忘れるべき過去とに判別され、後者は消去されることになるのだろう。
 しかし共同生活開始後、航にとって画像の見返しの意味はやや変化している。それは、航が妹達の想いを受け止めなおそうとしたり(第3話)、妹達への自分の想いを見つめなおそうとしたり(第13話)する場合になされることになる。第5話で妹達のメールメッセージとともに画像が示されるのも、これにあたる。航が自分の行動方針を決めるさいに、この画像の見返しがもつ働きの大きさは、島からの脱出を取りやめる・メル友と距離をおく・妹達のために積極的行動をとる、という非常に重要な意思決定に貢献していることからも分かる。つまり、過去の確認を行うことによって、自分と「いま」を捉えなおし、未来を選択する、という本作品の主題そのものが、ここに一つの変奏として看取されるのである。
 ところで第13話では、いくつかの場面が、デジカメ写真としての画像処理を消し去られて用いられている。それは、航が個々の妹達に想いをめぐらすさい、写真という記録に依拠するだけでなく、自分自身の記憶にも拠り所を得るに至っていることを意味する。先述のように、航が被写体である妹達との関係をより親密なものにしていく中で、彼は共同生活の外部から撮影するのではなく、その輪の中に参加することを第一とするようになった。これによって、彼の人生の捉え方も、デジカメという媒体によって記録されるようなイベントの断片的集積から、自分の心身で経験する連続的で不可分な日常の全体的理解へと、大きく様変わりしていったのだ。

 これに対して、ファインダーを覗くだけの行為は、より直接的に「いま」を捉えなおそうとする意識を指し示す。たんなる望遠機能の利用という場合はさておき、ここでは、第3話で泣きながら去っていく可憐の後ろ姿をファインダー越しに見つめる場面に注目しよう。これは、今まで妹達を避けていた航が、妹達の想いにようやく向き合おうとし始めた瞬間にほかならない。それでも未だ逃避への意志を残す航の心は、たとえ後姿であっても可憐を直視することはできず、ひとまずファインダーという緩衝を必要とした。ここでのファインダーの役割は、ゴーグルのそれ(一時的保護)と重なる。しかし、本来は被写体を撮影・記録するためのファインダーは、ゴーグル以上の働きをここで示す。つまり航に、このファインダーを通じて記録した可憐の姿を思い起こさせ、ファインダー下のモニターを開かせるのである。
 こうして可憐の「いま」の姿をファインダー越しに見つめながら、モニターで第1話以来の過去の記録画像を映し出していくとき、そこに航は、先日までの妹達の朗らかな姿と、いま眼前にある可憐の悲痛な姿とを、あまりに明白な相違のもとに見いだす。それは、自分に向けられた妹達の想いを、自分が受け止めようとしなかったことの結果である。デジカメを構える航がこう考えるに至ったとき、それまではたんなる出来事の記録としてのみ理解されていた記録画像が、自分への妹達の想いを伝える媒介として新たな意味を獲得した。これはまた、島到着時以来のきわめて短い期間についてではあるが、過去と「いま」とを結びつけ直す手続きでもあった。そして、ファインダー越しに見るという行為全体もこれをきっかけとして、航が被写体に一方的に関係を結びその距離を決定するという独善的な行為から、被写体が自分に寄せる想いを受け止めて相互的に関係を結ぶための行為へと移行していく。つまり航自身が、次第にそのように他者との関係を構築していくこととなったのである。

 以上のように、デジカメを用いるということは、航が過去や「いま」を確認し再解釈するために不可欠な方法だったと言えるだろう。それは、彼にとって適切な人間関係の距離をその都度規定するものであり、彼自身の成長とともに、その意味を変えていった。しかし、彼の成長そのものもまた、自己表現の手段としてのデジカメを媒介とすることによって大きく促進されてきたのである。


3.眼鏡とデジカメの連関

 このように、眼鏡とデジカメは、航の視点・視野のありようや、航の自己認識・他者理解、社会性などの深化を指し示す表象であり、同時にその媒介にもなっている。本章では、この両者がどのように連関しつつその役割を果たしているのかについて、幾つかの話を例にして、説明の重複を避けず改めて確認しよう。

(1)第3話

 既にみてきたように、この話では眼鏡(水中ゴーグル)とデジカメが共に航の心境の推移を示している。
 妹達の過剰な接近に対して航が忍耐の限界に直面したとき、彼は自分の顔をデジカメに撮影し、ありうべき生活として希求する孤独をせめて画像の中に実現しようとした。そこには自閉的な安息こそあれ、妹達の心を理解しようとする視点は存在しない。そして、現実世界に対する積極的な対応でもありえない。それゆえに間もなく忍耐の限界を超えたとき、航は水中ゴーグルで目を覆い脱出を図るも失敗に終わる。共同生活を拒絶する彼の姿勢は、可憐が現れてもなお彼女に背を向けつつゴーグルを外さない態度に、如実に示されている。
 しかし可憐の言葉を聞き、その涙を背中に感じたとき、航は振り向き、まず彼女の寂しげな後姿を目に留めた。ここで彼は、可憐と自分との間に挟む保護的道具を、水中ゴーグル(視覚対象化の拒絶)からファインダー(意識的な視覚対象化)へと段階的に移行させ、さらにファインダーとモニターを同時に用いることで、共同生活における過去(開始時点)と「いま」を重ね合わせて捉え、そのあまりの落差を直視し、同時に自分の感情と妹達の想いを向き合わせることが初めて可能になった。妹達のことをまだよく知らない、と語る航の心は、ようやく妹達を、表面的な認識客体としてではなく、その内面を理解すべき人格的・対話的存在として再認識するに至ったのである。

(2)第7話第21話

 第7話で航は共同生活の「いま」に埋没する危険を感じ、曖昧ながらも受験勉強の先にあるはずの未来に目を向け直そうとする。この態度は、妹達から目を背けることと表裏一体だったが、咲耶との対話を通じてこの「いま」が不変ではないことに気づいた航は、再び心の眼鏡を外して妹達に心を開きつつも、一抹の不安を抱いている。ここで航が妹達のウェディングドレス姿を前に、デジカメを手にしたまま顔を曇らせている姿は、眞深によって撮影された礼拝堂での画像とあわせて、航が既にイベントの記録だけでは満足できず、「いま」を生きる妹達の輪の中に参加しようとする意志を、そしてそのかけがえのない「いま」を大切にしなければならないという意識を、未だ漠然とではあるが示している。
 その漠然さは、航が自分の未来像を明確にしえていないことにも由来する。「いま」と違う自分の姿を思い描けないために、「いま」の終わりを具体的に想像できないからだ。それゆえ当該時点での航は、この寂しさは何だろう、と曖昧な不安のままでやり過ごすことができたが、第21話ではそのような段階を越えていくこととなる。鈴凛が自らの進路についてはっきりと語る姿に向き合ったとき、航は、自分自身の未来像が明確であろうとなかろうと、否応なく「いま」の終わりを予感せざるをえなくなったからだ。「いつか祭りは終わる」と航がメールに記すとき、それは彼が「いま」に別れを告げるそのときを初めてはっきりと覚悟した瞬間であり、それにもかかわらずメカ鈴凛のお披露目を写真に記録しないのは、妹達との日々がすべて兄である彼自身のうちに生きているからだ。共同生活で育まれたこの確信があればこそ、航は、最終話でおぼつかなげにでも、「いま」の行く先にある未来を自分の意志で選び取ろうとすることができたのである。

(3)第25話

 燦緒の手で再び伊達眼鏡をかけさせられたとき、航は、自らの意志を抑圧され、東京時代の彼に戻ってしまったかのように見えた。デジカメを持とうとするのを燦緒が阻んだのは、ファインダーから覗く灰色の東京と、モニターに映る島の輝きを、対照させないための措置でもあった。しかし、もしここで燦緒が航にデジカメを持たせ、かつてのように自分や皆井を撮影させていたとすれば、むしろその方が航を東京時代に回帰させるには都合がよかったかもしれない。島での1年間を不要なものとして削除させるよりも、その生きられた記憶をたんなる画像記録に解消し、一通過点として平板化してしまう方が、航の心理的抵抗はかえって小さかったのではないか。そのためには、航の撮影・記録行為を奨励し、その大量の記録画像の中に島での記録を埋没させ、同時に航にも過去の自らの振る舞いを繰り返させ、思い出させていけばよかった。もちろんこの方法でも航の心は抵抗しえたかもしれないし、またそれ以前の問題として、島での兄妹の姿に強い拒否反応を示す燦緒が選んだ手段は、こんな穏当なものではあり得なかったのだが。
 さて、じいやを拒絶した翌朝の航は、デジカメに伸ばしかけた手を止めて伊達眼鏡に向けるが、これは航の危機的状況を意味するとともに、伊達眼鏡によって自分の心を保護しつつ、意思決定を確かなものにしようという構えとも(微弱ながら)受け取れる。デジカメをポケットに入れたのは、眞深の言うように妹達のことが忘れられないからでもあるが、持ってきていながら撮影すべき対象を見いだせない(転入の手続きをするというのに、校門さえ撮影しようとしない)ということでもある。ここで島の記憶は記録画像によってひとまず確保されているにもかかわらず、航を島に連れ戻すには、そのような記憶だけでは十分ではなかった。その真の契機となったのは、デジカメに収められた記録を消そうとして見上げた空に舞う風船であり、その持ち主だった少女と少年の姿であり、自分の心の奥底に封印されていた過去の記憶だった。伊達眼鏡を貫いて凝視するその指きりの光景は、伊達眼鏡が示す東京時代のさらに向こうに生きていた、航の少年時代を呼び戻す。そこで幼い彼が指切りをした相手こそ、遠い日の妹達であり、その象徴である黄色い麦藁帽子の少女とは、航が思い出そうとして今まで果たせなかった、そしてこの東京で幻像を前にしながらファインダーに収めることもかなわなかった、想いを結ぶ相手だったのである。


終わりに 〜レンズの向こう側〜

 以上のように、「ものを見る」という基本的な行為にさいして、本作品で小道具として用いられた眼鏡とデジカメは、ものの見方そのものや、相手との関係の結び方、過去・現在・未来の解釈などに関わる重要な働きをなした。その姿を追っていくことは、航の成長過程そのものを辿ることであり、物語における緩やかな縦糸がここに見いだされる。
 ところで、航の小道具という観点を外してみれば、この「ものを見る」ためのものとして、(四葉のデジカメや虫眼鏡以外に)きわめて重大な役割を果たした小道具が存在する。それは千影のタロットと水晶球である。眼鏡とデジカメが過去と「いま」を確認する道具として用いられる一方で、タロットと水晶球は未来を予知し、危機を回避するための不可欠な手段として役立てられてきた。だが、最終的に航が本来の過去と「いま」とを結びつけることに成功したとき、それまで未来を保証してきた千影の占術具は、兄妹が共に未来を切り開いていくという意志の前に、その役目を終えて一歩退く。そしてその未来には、千影自身もおそらく自らの意志をもって加わっていくのである。それは、彼女が前世から引き継いだ運命への視力(そして視野狭窄)をほとんど捨て去って、足元のおぼつかない、だがそれゆえに自由な可能性へと開けている未来へと、手を取り合って踏み出していくことに他ならない。
 こうして航も妹達も、共同生活を通じてそれぞれの心の眼鏡を外してきた。燦緒もまた、やがてそのサングラスを完全に手放すときが来るだろう。そして多くの視聴者に対しても、本作品をどうあっても駄作と断定するような色眼鏡を外すことが切に望まれるのだが、これは可憐を見る論者の暗黒眼鏡同様、既に顔の一部と化しているものなのかもしれない。


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