『ベイビー・プリンセス』における継承と発展

〜『シスター・プリンセス』との対比にみる〜



はじめに 〜問題の視点〜

 電撃G'smagazineの読者参加企画『Baby Princess』(以下べびプリ)が開始されて、すでに2年が過ぎた。本誌はもとより、ネット上でもそのファンダムは拡がりを見せ続けており、同人誌オンリーイベントも開催されるに至っている。論者もまたファンの一人としてこの企画を楽しませていただいている身だが、その姿勢は、公式日記に描かれる姉妹の日常にどっぷり浸かるというよりも、いくばくかの距離を置いているように感じられている。それは、べびプリの先行作品であり、また論者の人生に決定的な衝撃を与えた『シスター・プリンセス』(以下シスプリ)と本作品をつねに比較するという視点が、論者から離れることがないからである。
 この2作品は、公野櫻子というテキストライターを共通の原作者とする同一雑誌の企画という、直系の間柄にある。また、シスプリは妹12人、べびプリは姉妹19人という似通った設定のため、後者が前者の量的拡大版であるかのように思われやすい。あえて言えば、昨今の雑誌不況下で、かつてのシスプリフィーバーにあやかり読者数の維持・新規確保を狙った「二匹目のドジョウ」である、という批判もできないわけではない。
 しかし、雑誌発行者にとって売れる企画こそ重要であるという事実はさておくとしても、はたしてべびプリはそのような二番煎じにすぎないのだろうか。本作品の公式日記について論者はすでに1年目における姉妹の相互言及度を調査し、各人の性格や相互関係が丁寧に表現されていることを明らかにした。このような配慮のもとで日々更新されている作品が、たんなる模倣であるとは考えがたい。例えば長男=読者に反発する姉妹がシスプリには存在しなかったように、べびプリには先祖と異なる要素が意識的に導入されており、作品を質的に変えている。そしてその一方で、べびプリはもちろんシスプリの諸要素を選択的に継承しており、シスプリファンをも積極的に取り込もうとしているのである。
 あのシスプリという怪物企画を母として、べびプリは何を継承し、どのような独自性を示そうとしているのか。それは、シスプリが残した課題をその成果とともに引き受け、新基軸によって応えようとする努力として、理解することが可能ではないだろうか。本論では、このような関心から、シスプリを比較対象としてべびプリの共通性・独自性を検討し、さらに新たに生起しつつある課題についても指摘を試みる。


1.シスプリの特徴・展開と課題

(1)物語の動因としての緊張・葛藤

 まず、先行作品シスプリの特徴について概観する。シスプリは、本誌連載を含む原作(公野・天広作品)を中心としながら、ゲーム版・アニメ版・漫画版などのメディアミックス展開によって、いわばシスター・プリンセス界を相互補完的に拡大させていった。これについてはすでにリピュア考察1にて述べたが、本論ではその内容も踏まえつつ別の角度からも検討していこう。
 読者参加企画であるシスプリの枢要は、妹12人(当初は9人)みな兄のことが大好きだということにある。兄=読者の側から積極的なアプローチをせずとも、最初から妹に慕われているのだから、擬似恋愛ものとしてはベタ甘である。しかしこれだけでは、連載するにも内容に変化のつけようが乏しい。兄と妹がより親密になる、あるいは両者の関係が安定していない、といった「進展」「危機」など物語の動因が与えられないかぎり、そんな甘すぎる設定を好む読者以外にはファン層を広げようがない。
 企画それ自体としては、本誌連載にて人気投票や読者参加ゲームが実施されており、プレゼント当選などの物質的利益のほか、読者が好む妹(マイシスター)の趣味や選択を予測し的中させることで兄としての自信を強固なものにするという、精神的なご褒美もあった。また、人気投票による毎月のランキングも、各妹のファンが自らの妹の順位を押し上げる努力のきっかけになったが、これについては、マイシスターが人気投票の上位を占めれば当然嬉しい一方で、逆に不人気だったとしても、それは競合する兄の数が少ないということだとして肯定的に受容する向きもあった(裏返して言えば、マイシスターの人気が出すぎても困る、という葛藤となる)。結果的にはどの妹のファンも不満に陥らせないように人気投票が機能していたことになるのだが、ともかくもファン同士の競争心・独占欲を刺激するというかたちで、物語の外部に緊張・葛藤をもたらしていたのがこれらのイベントだった。
 これに対して、シスプリ原作は、作品内部にいっそう重要な動因を2つ盛り込んだ。まず挙げられるのは、兄妹が何らかの事情で別居しているために限られた日にしか会えない、という設定である。それぞれの妹は兄を慕いながらも、不可避の境遇によってその兄と距離を置かざるを得ない。会いたいのに自由に会えない。ここに、作品世界における緊張状態・葛藤が生じたのである。シスプリの本誌連載は、妹達のプロフィールを個別に提示したのち、各妹の兄愛(心理的近接)と別居(空間的乖離)との緊張状態をエネルギーとして、妹がその空間的距離を消せる「お兄ちゃんの日」に兄への愛情を集中的に注ぐさまや、そばにいない兄を想って独白するさまを、読者に向けて描き出すこととなる。
 つぎに、兄妹という基本設定そのものがすでに葛藤を胚胎している。妹達が実妹か義妹かについては原作では明確な表現を避けていたものの、もし実妹だとすれば、近親相姦タブーによって妹達の「初恋」は間違いなく敗れる運命にある。兄妹という血縁関係は、両者を親愛な者同士としては最も近接させつつ、恋愛成就の相手としては最も遠ざける。いわば血縁は、肉親愛における引力であるとともに異性愛における斥力でもある。じつはシスプリは、この過酷な現実を前にした愛しい妹の姿を、兄=読者がいかに誠実に受け止めるかが問われるという、意外にも厳しい企画だった。そして作品中では、妹達のこのような葛藤の根源である兄こそが、その妹達に癒しと救いを与える唯一の存在であるということもまた、物語の様々な場面において描かれたもう一つの緊張でもあった。

(2)妹達の設定・描写における緊張の具体化

 妹12人の設定は、これらの緊張・葛藤を、それぞれの個性に応じて具体化している。彼女達の設定をとりあえず大別するならば、標準グループ(可憐、花穂、咲耶、雛子)、特技派グループ(衛、鞠絵、白雪、鈴凛、千影)、帰国子女グループ(春風、四葉、亞里亞)となる(26氏による区分では、より細分化されている)。
 標準グループの妹達は、幼児期から思春期までの各段階における妹像をそれぞれ示しており、女性的成長に比例する兄愛の深化が血縁の斥力をいっそう強く作用させていくさまがうかがえる。恋愛対象として兄を希求するほどにまで成長した妹は、かえってその成長によって自らの想いが成就しないという事実を悟ってしまうのである。雛子の無邪気な兄愛、花穂の見捨てられる不安、可憐の諦念と夢想、咲耶の絶望的な「タタカイ」は、各人の個性にも依拠しているがゆえに単純に並べられるものではないとはいえ、ある程度は時間軸(成長段階)に沿ったグラデーションをなしている。
 特技派グループでは、各人の特技や特殊な境遇に基づく個性が、兄との固有の絆として機能しつつ、しかしまた新たな斥力の源にもなる。衛はスポーツを通じて兄と親密になれる一方、兄と自分の成長による体力差・性差の拡大に心を痛める。鞠絵は病弱であることが兄の配慮を呼び寄せつつ、兄との日常生活を妨げる。鈴凛はジジの思い出を兄と共有しながらも、勉学のために留学を志す。千影は前世からの兄愛を遂げようとしながら、そのオカルト志向が兄を慄かせる。白雪は料理という特技が兄を遠ざけないために、キャラクターコレクションのマダム・ピッコリを予兆としながら、ついに本誌連載最終回で兄愛成就が不可能であることに自ら気づいている。彼女は成長による喪失(不安の獲得)を示したという点で、特技派グループの中でも標準グループに近く、しかしそれゆえに立ち位置がはっきりしなかったとも言える。
 帰国子女グループはゲーム版製作にあわせて追加登場した年長・年中・年少の3人であり、海外生活という空間的・文化的乖離の大きさと、そのお国柄をふまえた若干エキセントリックな性格づけによる過剰な心理的近接が緊張をもたらしている。春歌は年長者であるにもかかわらず兄との結婚を疑わず、おきゃんな和風で攻め立てる。四葉は兄との失われた過去の絆を探し求めて、ホームズばりに捜索を繰り返す。亞里亞は大豪邸に何不自由なく、しかしきわめて不自由に暮らす中で兄の全能を夢想する。

 連載内容によって各妹の人気投票順位は変化したが、つねに最上位を争っていたのは咲耶と千影であり、全般的に見てもおおよそ年長の妹達に票が集まった。この事実は、読者の多くが恋愛対象となりうる年長者を好んだという理由のほか、作品世界を支える緊張・葛藤を最もよく体現するものとして年長者が描かれていたということにも由来するかもしれない。シスプリにおいて、物語の進展は必ずしも幸福を導かない。それどころか、悲劇的運命を予感させる「初恋」にほかならない。そして、その厳しい未来に挑んでいった姿こそ、キャラクターコレクションで描かれた咲耶の凛々しさと哀しさであり、また前世の記憶と魔術によってタブーさえ破らんとする千影の切実さだった。年長者の魅力は、一つにはこの自覚的な戦いぶり、絶望的であるがゆえにいよいよ燃え上がる妹の兄愛の美しさにあるのだろう。
 なお、12人の年齢は公式に決まっていないが、身長でみれば<咲耶、千影、春歌、鈴凛、衛、四葉、可憐・鞠絵、花穂、白雪、亞里亞、雛子>の順である。ただしアニメ版第1作では、<可憐・咲耶・千影、白雪・鈴凛・春風、鞠絵・四葉、衛、花穂、亞里亞、雛子>の年齢順(アニプリ第3話分考察参照)であり、アニメ版第2作Aパートでは<年長者:咲耶・鞠絵・千影・春歌、年中者:可憐・白雪・鈴凛・四葉、年少者:花穂・衛・雛子・亞里亞>というまとまりだった(最後の区分のうち鈴凛を年長者に移動させれば、原作でのイメージに最も近いかもしれない)。

(3)メディアミックス作品における緊張・葛藤の置換

 いま12人の妹達の名を挙げたが、連載当初の時点では、妹同士の間柄について公式には何ら言及されていない。一対一の兄妹関係がたんに並列しているだけであり、妹達はそれぞれ別の兄を有していたと見なされる。そのため、兄をめぐる妹達の競争は、本誌連載では公式には描かれていない。
 原作では、そのような妹が固有の兄=読者に向かって語りかける・あるいは独白するさまを描写した。本誌連載は1年目にイラストストーリーによって各妹を紹介し、2年目以降にはより深い内面や日常の姿を捉えた。連載以外ではキャラクターコレクションという妹ごとの単行本を刊行し、「少女小説」的な一人称の語り口を通じて妹像を叙情的に掘り下げていった。とくにキャラクターコレクションでは、例えば兄妹・家族以外の第三者を登場させることで、妹達が身近な友人知人からどのように理解されているかをいくぶん表現できた。これは、兄妹の対話のみに集中せざるをえない読者参加企画の制約に、ある程度対処しようとするものでもあった。
 このような制約は他にもいくつか存在する。まず、兄の設定をあまり詳細にしてはならない。具体的すぎる兄像は、それに当てはまらない多くの兄=読者を遠ざけてしまうからである。また、妹視点で表現されるため、兄はあくまでも妹が認識するイメージによってのみ表現されるほかない。妹の一人称では、その内面を豊かに描けるという利点がある一方で、妹の興味をひかない対象への言及や俯瞰的な描写は扱いかねる。しかしまた、妹が関心を寄せる対象についても、それが女の子らしい趣味にせよそうでない特技にせよ、あまりつっこんだ説明をすることも(読者の多くが理解しづらいため)やはり避けねばならない。これらの制約をふまえて、原作では、公野テキストが妹達の内面描写に重点をおく一方で、天広イラストが妹達の衣装その他を(文字にできない分いっそう)美麗に描き出し、結果として男性ファンのみならず女性ファンをも引きつけたのだと考えられるかもしれない。
 しかし、妹視点による表現にも、妹を個々人として掘り下げることにも、作品世界の拡大のためにはやはり不利な点や限界がある。そこで次の段階として実施されたのが、メディアミックス展開における別視点・別設定の導入である。それらはまた、原作が示した緊張状態・葛藤を、さまざまにアレンジしようとする試みでもあった。

 まずゲーム版では、兄視点を導入した。これは明らかにギャルゲーの形式に則したものだが、しかし友人・他人から恋人へといった攻略プロセスは、兄妹の相互愛情に立脚する本作品には無用であり、ゲームとして必要な競争性・問題解決構造が得られない。そこでゲーム版では、プレイヤーがクリアすべき課題を、2つのポイントにまとめ上げた。
 1つは、主人公=プレイヤーと攻略対象キャラの距離を縮める努力を、12人の妹達の中から毎日特定の妹のみを選ぶという作業のみで表現したこと。つまり、ここで妹達が別々の家の子供ではなく、同じ兄を愛する妹達として初めて設定されたことによって、妹達の視点から見れば、一対一関係における心理的近接と空間的隔離の緊張状態が、どの妹の兄愛が成就するか(兄に最も近づけるか)という競争へと置き換えられたのである(プレイヤーから見れば、どの妹を選び他を捨てるかという葛藤となる)。
 もう1つのポイントは、「血縁度」という斬新なパラメータを導入することで、実妹・義妹を選べるようになったということ。原作では未確定のままにおかれていた血縁関係の有無を、ゲーム版では兄=プレイヤーの判断に委ねたのである。原作における血縁関係による斥力は、実妹エンドを選択すれば最大値となり、義妹エンドでは最小値となる。プレイヤーがこの葛藤をどの程度受容するかに応じて、つまり肉親愛と異性愛のどちらを選ぶかによって、シュレディンガーの兄妹関係の蓋を開けられるようにしたのである。
 こうしてゲーム版は、原作における2つの緊張・葛藤を、独自のかたちで置き換えた。そして、そのことを通じて、本誌連載では人気投票などのかたちでなされていたマイシスターを選ぶ=他の妹達を選ばないという表裏一体の事実を、一人の妹のために他の妹達との逢瀬を徹底的に拒むというあからさまなゲーム的行為によって顕在化した。さらにプレイヤーに血縁関係の有無をも決定させることで、妹一人称の原作における兄の受動性に対して、かなりの能動性と責任を兄=プレイヤーに託すことに成功したのである(ちなみに論者の場合、マイシスターの可憐のみ実妹エンドに、他の妹達では義妹エンドに辿りつけた)。

 このようなゼロサム選択の能動性を追求したゲーム版と妹12人と兄1人という設定を共有しつつも、「一人だけなんて選べない」という逆方向へ突進したのが、アニメ版シスプリ第1作(アニプリ)ならびに第2作(リピュア)Aパートである。このうちリピュアAパートは、ゲーム版設定に近い近距離別居の街中で兄妹たちの日常を穏やかに描きながら、年長者・年中者・年少者それぞれのありように注目させていた(リピュア考察2ほか参照)。これに対してアニプリでは、兄妹全員の共同生活という新たな設定をも導入し、基本的には兄視点ながらアニメならではの俯瞰的視点も用いつつ、兄妹関係が培われていく過程をコメディタッチで描き出した(アニプリ考察序論参照)。この雰囲気が原作からあまりに逸脱したものという印象を与えた結果、放映当時には多くの反発を招きもした。しかし、原作における表現方法上・雑誌企画上の制約に挑んだ試みとして考えれば、兄の具体化(固有な人格としての「海神航」)、兄妹関係の「はじまり」の明確化、そして共同生活における兄妹関係にくわえて妹同士の関係の描写など、その成果はきわめて大きい。例えば、鈴凛と四葉のコンビなどは、このアニプリによって初めて具体化され、ファンに広く受け入れられたのである。
 そして、原作設定における緊張・葛藤について見るならば、アニプリの物語としての動因は、原作と逆に、共同生活開始による空間的近接と心理的乖離(充分な妹愛の未確立)の緊張にあった。これが個々ならびに全体としての兄妹関係の進展にしたがい、ついに最終話にて空間的乖離の危機を乗り越えてより深い心理的近接を獲得するのである。また、この大枠のなかで、例えば咲耶鈴凛などのメイン話が将来の別離を予感させたほか、眞深というオリジナルキャラクターは偽妹としてトリックスターを演じつつ、血縁関係に基づく葛藤を別の視点から照射していた。これらもまた、ゲーム版とは異なるかたちで、原作を支える2つの緊張・葛藤に新たな切り口を与えるものだったのである。
 また、妹が兄によって苦悩を得ながらその兄によって救われるという原作の構図は、アニプリでは妹達に癒された兄から妹達への恩返しとして(「感謝の円環」第14話分考察参照)、リピュアAパートでは妹達への配慮の限界に直面した兄が妹達から贈られた救済として(リピュア考察6参照)、兄視点の強調による相互贈与関係のなかに移された。そこでは、例えば泣き崩れる春歌に亞里亞がハンカチを差し出したり(アニプリ第25話)、療養中の鞠絵のために可憐達が配慮したり(リピュアAパート第8話)と、同じ兄を愛する妹同士が助け合う姿もまた、様々に描かれていた。それは、妹の苦悩を兄だけが癒し得るという基本原則を原作ほど厳しく適用せずにすませながら、しかし同時にまた、妹達の相互支援と兄をめぐる競争との新たな緊張・葛藤を生じさせてもいたのである。

 こうして諸領域の(いわば公式の二次創作的な)作品がもたらした成果は、原作にもフィードバックされ、また相互に影響を及ぼしていった。リピュア考察1でも述べたように、妹相互のやりとりは、兄に複数の妹がいる唯一の原作テキストである単行本ポケットストーリーズ全4巻の中で、ゲーム版・アニメ版と異なるシチュエーションで表現された。兄妹関係の「はじまり」という時間の流れは、妹達の成長や、兄愛の社会的障壁への気づき(つまり白雪など年中・年少者による「おわり」の発見)などによって描かれた。しかしそれらはまた、妹同士の競争の激烈化や血縁関係の明確化などをあくまでも避けており、原作を支える緊張・葛藤について根本的な転換を迫るものではなかったのである。ゲーム版・アニメ版などに対する原作の独自性とシスプリとしての土台は、そこにおいて守られていたとも言えるだろう。


(4)シスプリの課題と制約

 このように当初の設定をもとにしつつ多様な展開をみせたシスプリだったが、しかしその中で、上述の緊張・葛藤と表裏一体の課題をいくつか抱えてもいた。

 まず何よりも、妹達は兄を嫌うことができない。兄を嫌っているかのような態度もとれない。一時的に兄への不満を示す場合でさえ、それは、兄からの愛情や配慮を十分に感じられないときに限られている。この絶対的な兄愛は、シスプリという作品の緊張・葛藤を支える唯一の基礎であるだけに、いかなる場面でも揺るがせにできない。このため、負の感情(強すぎる嫉妬心や憎悪、侮蔑など)や歪んだ表情なども避けられることとなり(その上限は咲耶の「お兄様のバカ」や千影による兄へのからかい程度である)、そのような切り捨ての結果として、妹達の人格描写はやや一面的なものと受け取られやすくなった。
 このことは、兄の描写にも等しく看取される。作品内における兄の描写は、「この兄なら妹に愛され信頼される」とほとんどの読者が納得できるだけの必要最低限量が与えられさえすればよい。それ以上の具体化は、様々な兄=読者の感情移入や一体化を妨げかねないからである。原作キャラクターコレクションでは第5巻(雛子)のイラスト1枚を例外として兄の外見を登場させず、妹一人称に徹することで兄の内面を描写しなかった。このことはまた、兄の能動性を大きく制限することでもあった。ゲーム版やアニメ版では兄視点を導入してその内面・外面を具体化し能動的な存在として表現したが、そのことによって「あの兄は好ましくない」と感じるプレイヤー・視聴者もまた出現することとなった。

 兄妹以外の存在について言えば、妹達は兄以外の何ものかに兄愛を離れて執着できない。例えば趣味や特技は、あくまで妹と兄を結ぶ絆として、そして同時に葛藤を生み出すものとして、働くべきものである。また兄妹以外の第三者にしても、彼らとの交流は、妹と兄との関係が再確認されたり、そこに何らかの危機を与えられたり(そしてその結果よりいっそう強固なものとなったり)する契機として機能しなければならない。作品世界の一切は、兄妹関係の緊張・葛藤を描くために役立つことを求められる。つまり、この目的によって整序された世界からは、そのために有用でない物事や読者を感情移入させづらくする物事の詳細な描写は取り除かれるのであり、そのような排除の結果として、兄妹が生きる世界の描写は曖昧で閉鎖的なものとなった。最も俯瞰的なアニプリでさえ、現実世界をそのまま用いることなく、プロミストアイランドという特殊な閉鎖空間の中で描かれたのである。
 また、ゲーム版・アニメ版から原作へと導入された12人のつながり、つまり妹同士の関係についても、基本的には兄妹の一対一関係を補強するために用いられた。そのことは、年齢の違う妹同士の間で「お姉ちゃん」という呼び方がいずれの領域でも登場しなかったことに示されている。1人の兄と12人の妹の間柄は、12の兄妹関係の集積にほかならず、そこに姉妹関係をあえて浮き彫りにする必要はなかった。姉と呼ばれたキャラクターは、己の妹性を弱められてしまうからである。それゆえ、とくにアニメ版では年長者としての役割や責任が強調して描かれた(リピュア考察3参照)としても、それは姉としての意識によるものというより年長妹としての意識、すなわち自らの務めを果たすことで兄から立派な妹として評価されることへの期待や、同じ兄を愛する妹という対等な少女同士の連帯感や競争心、相互支援的配慮に基づくものだったのである。

 もっともこれらの課題の多くは、根本的には読者参加企画ゆえの制約に由来しつつ、シスプリという作品がその制約に挑戦し続けた成果でもある。作品の制約と個性とは表裏一体のものであり、シスプリファンはその制約によるままならなさも作品の味わいとして受容し、また制作者側もメディアミックス展開を通じてその自由度をできるだけ高めていった。この制約を最も厳格なまま楽しもうとするのがいわゆる原作ファンであり、自由度の大きさに魅力を見出すのがアニメ版ファンなどということになるだろう。作品の間口をしだいに広げていきながら、様々な好みをもつファンを取り込んでいったシスプリは、そのファン層同士の対立なども含む活発な反響をつねに受け取っていったのである。
 さらに、シスプリという作品が残した課題とは、ファンの側からすれば、所与の限られた情報から兄妹達や作品世界について自由に想像する余地を気前よく許してくれている、ということでもある。いわゆる「物語消費」的なファンの二次創作活動は、それゆえシスプリの場合にもきわめて活発なものとなった。これについて論者は2004年の状況を概括したことがあるが、本論の観点からすれば、原作などの諸領域が示した兄妹関係における緊張状態・葛藤をいかに新たな切り口で解釈しているかにも着目し、二次創作を分類したものとして読みなおせる。例えば、兄の一人称や第三者視点からのSS、妹同士の愛憎を取り上げるもの、千影を「ねえや」と呼ぶ亞里亞などは、公式作品群が扱わなかった切り口を用いて、兄の能動性を多めに確保したり、心理的近接度の競争を激化させたり、姉妹関係を具体化したりするものである。
 その成果は、とくに『シスター・プリンセス・メーカー』という、シスプリのフォーマットを用いながらシスプリファンの手でオリジナルのネオシスターを創造するファン企画のなかで、じつに多様なかたちで表された。妹の趣味・特技の具体化や、現実世界とのいっそう緊密な結びつき、近親相姦タブーへの自覚的な戦い、嫉妬心など負の感情の表明、兄の積極的行為などといった独自の要素は、原作の枠組みを破壊しかねないものまで含めて、妹の兄愛を描くという作品の最も基本的なポイントのみ守ったうえで導入されている。その自由度の高さは、もちろん逸脱と受け止められる危険性ももちながら、同時にシスプリの制約を突破し作品世界を拡大させるために必要とされていたのである。ただし、兄愛の徹底や愛憎などを主題とするとき、その担い手となるオリジナルシスターの年齢設定が比較的高め(中高生が中心)となるのは当然の帰結であるとともに、雛子や亞里亞が表現していた「幼い妹」という一面を扱いにくくすることにもつながった。とはいえ、その少数派である幼い楓(かえで)が、ネオシスター同士の交流の中で他の年長妹達を「あねさま」と呼んでいたのは、やはりシスプリから踏み出した一歩だったのである。


2.べびプリによる継承と新たな挑戦

 2007年末に公開されたべびプリは、シスプリファンダムの二次創作でもほとんど考慮されることのなかった方向で、先行作品を乗り越えた。登場する少女の数が19人に達したのである。ほとんどヤケとも思えるこの設定は、しかし、上述のようなシスプリの特徴・課題と細部で対照させたとき、シスプリの制約を突破して作品世界の幅を広げながら、新たな課題を呼び込むものとして理解可能となる。べびプリが突破を試みた方向軸は、大きく分けて、世界設定の具体化と、これによって可能となる人物設定の自由度の拡大である。

(1)世界設定の具体化

 べびプリの作品世界はシスプリに比べていわば生っぽく、女の子らしい夢想よりも生活感覚が強く滲み出ている。この雰囲気は、まず何よりも、大家族の共同生活という設定に由来する。シスプリ原作では兄妹の一対一関係をもとにそれぞれの妹を育む家族・親族が登場しており、ゲーム版・アニメ版では親の存在についての描写が曖昧なままに留められた。これに対してべびプリでは、19人の少女達は最初から家族・姉妹であり、母親の台詞も(本誌連載ではその姿までも)登場している。べびプリは、シスプリ原作がゲーム版・アニメ版から導入せず、シスプリファンによる二次創作の多くもまた選ばなかったこの共同生活設定をあえて取り入れることで、キャラクター達が生きる場をより具体的なものに感じられるようにしえた。そして、日々の共同生活の中で当たり前のものとして積み重ねられてきた相互関係は、各人の言動に厚みを与えている。
 このことに最も貢献しているのは、日々更新される「WHOLE SWEET LIFE」(公式日記)である。長男を家族に迎えるにあたり、この生活に早く馴染んでもらうために始められたという設定のこの日記では、大きな事件の顛末も記されはするが、多くの内容は日常的でたわいない出来事・心情を綴ったものにすぎない。しかし、それゆえにこそ、そのような場を与えられていなかったシスプリの妹達がある程度構えたテキストでしか真情を吐露できなかったのに対して、本作品の姉妹はごく自然に(もちろん長男への各自の身構え方をとどめつつだが)思いを綴ることができている。今日の食事や天気など、ごくありふれた物事について日々語りかけるそのさまが、長男=読者に作品世界の現実性を強く感じさせ、緩やかな没入へと誘うのである。
 この現実性は、公式日記中で様々な具体物について言及されることで、いっそう強化される。例えば麗がくりだす鉄道関連の話題は、その日記が綴られた時に生じた読者世界での事件(車輌の引退、記念イベント開催など)そのものである。また、「ポニョ」や「じゃがりこ」、「つまんないの歌」など、現実の子供達の生活を彩る事物が、日記の中に頻繁に登場する。これらもまた、シスプリでは、作品世界を曖昧にせざるをえない必要上から、遠ざけられてきたものだった。しかしべびプリでは、むしろ作品世界を現実世界とできるだけ接近させることによって、読者を作品世界に入りやすくするという方法を選んだのである。もちろん、接近といってもそのために政治・経済などの話題が用いられるわけではなく、きょうだい関係に直接関わりのない物事は注意深く取り除かれてはいる。また、現時点では、家族外の第三者についての言及機会も、さほど多くはない。とはいえ、これだけの人数がいる大家族となれば、各自の日記中で他の姉妹について触れるだけで、全体として見れば網の目のような相互言及が張り巡らされることとなる。ある出来事について複数の姉妹が綴るとき、それはその出来事を複眼的に理解する手がかりを長男=読者に与えるだけでなく、姉妹それぞれの個性や、その出来事に関わった姉妹を他の物がどのように見ているかなども、豊かに教えてくれるのである。姉妹の人数を増やせば、普通なら一人あたりの描写が少なくなるものであり、実際に各人の日記担当は月1回分さえ確保できていない。しかし、各人の綴る日記は、自分自身だけでなく他のきょうだいについての情報も部分的に補完する。この相互言及は、シスプリではポケストやアニメ版などでわずかな機会が与えられただけだったが、べびプリではそれが日常化している(本誌連載でも、1年目の一人称シリーズや2年目のTrue family storyシリーズで、この点が重視されていた)。ときには軽い口論やケンカさえ含むこの濃密な家族内情報の積み重ねによってきょうだい関係が、そして現実の事物によって作品世界が、読者を取り囲む。さらに公式日記では1年を通じて季節の移ろいや誕生日・学校行事などの(読者にもお馴染みの)日常的な話題を追っていくことで、空間のみならず時間の流れによっても読者を作品の中に引き込んでいくのである。
 もっとも、このような空間・時間における現実性は、(シスプリでそれらを回避する原因となっていた)様々な問題を生じさせるものでもある。これについて検討する前に、もう一つの人物設定上の特徴について見ておこう。

(2)人物設定の自由度の拡大

 べびプリとシスプリそれぞれのきょうだい関係を比較すれば、人数以外ですぐに気づく違いとして、前者には「姉」がいる、という点が挙げられる。シスプリの妹達にも年齢の高低はあったが、あくまで個々の兄妹関係を軸とするシスプリでは、妹同士の姉妹関係はほとんど描写されなかった。これに対してべびプリでは、長男よりも年上の姉が3名、同年齢の者が1名存在することで、兄妹・姉弟・姉妹などといったきょうだい関係の重層性が与えている。さらに姉妹各人について長幼の序が明らかになっていること、長い(長男参入以前から続く)家族生活の中で親密圏と役割分担が当然できあがっていることなどから、本作品における姉妹の性格設定は相応の自由度を与えられることとなった。
 まず姉弟関係では、きょうだい最年長としてリーダーシップを発揮する海晴、長女不在時のリーダーながら観察者・トリックスター的な霙、母性的だが妄想度の強い春風が、それぞれ長男=弟をこの不慣れであろう女系家族生活に温かく迎え入れている。この姉達にとって弟は可愛がる対象であり、またきょうだい唯一の男性として頼るべき相手でもある。とくに海晴は弟をからかいながら、長女・長男のパートナーシップを求め、それに応えようと努力する弟を信頼してきている。このパートナーシップは、アニメ版シスプリでは航と咲耶あるいは可憐の間にかすかに感じられた程度のものだったが、本作品では公式日記でも本誌連載でもたびたび明示されてきた。
 兄妹関係では、妹達が中学生から0歳児までずらりと並び、シスプリに比べて低年齢層が分厚くなった。このため、妹から兄への愛情のありようも、雛子や亞里亞よりさらに幼い表現が可能となった。とくに姉達という保護者の存在によって、長男に多少のことがあってもきょうだい関係が壊れないという安定が得られたため、妹達の中には長男に対する攻撃的・否定的態度を示す者さえ登場した。個々の兄妹関係を揺るがせにできないシスプリでは考えられなかったことが、本作品では実現したのである。もっとも、それらの態度はあくまで長男への興味関心の裏返しであり、無関心な態度を示す者は存在していない。その意味では、シスプリ企画開始時にあった千影の「兄くん……いま、忙しい……」というキャプションの失われた路線は、べびプリでもやはりそのままでは復活できなかったことになる。しかし、氷柱や麗の「男嫌い」という設定や「はね返り」「下僕」呼ばわりといった行為が、本作品を特徴づけるものであることは間違いない。
 姉妹関係では、長男参入以前からすでに長い時間を経過していることもあり、ケンカやすれ違いも含む当たり前のやりとりを実現した。シスプリで妹同士のケンカという光景はほとんど存在しなかったが、べびプリではケンカも雷が落ちるのも日常茶飯事である。現実世界の事物も、長男との関係強化とは無関係に、姉妹のやりとりのために登場してかまわない。この姉妹関係が(しかも19人分)存在しているおかげで、作品世界にだいぶ緩やかなゆとりが与えられている。
 また、大家族という枠組みや公式日記という表現方法によって、姉妹の性格設定はシスプリとはやや異なる区分を生みだした。シスプリでは上述のように、年齢段階による標準グループ・専門や境遇による特技派グループ・異国経験を反映させた帰国子女グループの3つに大別できた。これに対してべびプリでは、標準グループや特技派グループでの区分も可能ではあるが、むしろ姉妹の個性と役割分担にしたがい、母性的保護者タイプ・父性的保護者タイプ・観察者タイプ・バランスタイプ・関心事優先タイプに分けられることとなった(1年目公式日記調査参照)。シスプリの妹達は基本的に全員が関心事優先タイプに属し、アニメ版などでいくぶん母性的保護者タイプ・バランスタイプへの傾向を示すにとどまるだろう。しかし、べびプリでは、きょうだい全体を積極的に世話する役割を担う者や、皆の様子を見守る立場をとる者、表向きにではあれ長男以外の対象にのみ関心を寄せる者などが存在する。
 特技による特徴づけはなお効果的に用いられているものの、その比重はシスプリよりも小さい。例えば料理は春風・蛍のツートップとしても、海晴が小説版で台所に立ち、小雨や星花もおそらく日常的に手伝っているなど、決して独占的な特技ではない。蛍はむしろコスプレが主軸かもしれないが、しかしコスプレが長男との固有の絆というわけではない。たしかに執事その他の話題もある一方で、雛祭りにはきょうだい全員の着物を皆でこしらえ、本誌連載でも麗に猫耳メイドの格好をさせるなど、彼女の特技・趣味はきょうだい全体の中に位置づいている。もちろん、その趣味が姉妹にあまり受け入れられていなかった場合には、それが長男との固有の絆となる者もいる。例えば観月のキュウビはおそらく現時点で長男と霙以外の姉妹に察知されていない。青空が求めるおちんちんは長男にしかついていない。このように姉妹それぞれの設定に応じて、特技の重さは多様なものとなっている。さらに麗の場合は、鉄道趣味を姉妹にもしだいに認めてもらえてきたが、その過程で長男の果たした役割は大きく、またその中で麗と長男との関係も少しずつ確固たるものとなっていった(麗考察参照)。ここでは、長男参入以後の時間の流れが、絆の構築・深化という変化に多大な寄与をなしているのである。
 これと関連して、標準グループ的な姉妹についても、べびプリはもう一段登ることができている。例えばさくらは、シスプリでいえば花穂に相当するドジっ子・食いしんぼである。花穂と同じく自分を律して頑張りやさんであろうとしているが、しかし幼いために泣き虫で堪えきれない。だが、さくらは、同じ幼稚園に通う真璃の姿に格好良さを感じて、この優れた姉を見ならおうという志を抱いた。完璧幼女たるマリーへの道は当然険しいのであるが、しかしさくらが幼いながらこのように年長者に動機づけられた成長への意志を告白できたというのは、シスプリの標準グループでは(対等な妹同士ではこの感情がただの羨望・劣等感になりやすいため)ほとんど描かれなかったきょうだい関係の効果であった。
 さて、きょうだい関係という観点からは、長男と同年齢のヒカルが最も重要な存在となるのだが、彼女については後述することにしよう。

(3)緊張・葛藤の新たな展開

 以上の特徴を備えたべびプリでは、長男と姉妹の間にある物語の動因としての緊張・葛藤はどのように表現されているのだろうか。
 まず、心理的近接と空間的乖離という問題は、共同生活のため総体としては存在しない。ただし、ヒカルや氷柱にはいわゆる「近くて遠い」というかたちで例外的に与えられている。
 共同生活開始による空間的近接と心理的乖離の緊張という段階は、アニメ版シスプリでも第7話までに踏み越えていたが、べびプリでは公式日記でも小説版でもやはりすでに過去のものとなっている(あるいは、一部の妹達による反発を除いてそのような段階が存在しなかった)。
 肉親愛と異性愛の緊張についてはシスプリ同様に重視されており、例えば春風・氷柱は自覚的に、ヒカルは無自覚的にこれを表現している。また、低年齢層の妹達が未分化な兄愛を素直に綴るなか、星花はわりあい明瞭に肉親愛の立場をとっており、逆に吹雪は血縁関係の可能性を理性的に否定しつつ異性愛への関心を仄めかしている(さらに、長男の参入が姉妹の血縁関係に対する不安をも導いている)。なお長男と姉妹の血縁の有無だが、現時点では本誌連載と公式日記では吹雪による検討や姉達による若干の示唆以外に触れられておらず、小説版ではさしあたり非血縁という設定で描かれているが今後の展開ではどうなるか分からない(ゲーム版シスプリと同様の曖昧さ・選択可能性が残されている)。
 女性的成長の両義性については、とくに春風が担っており、本誌連載では理性的な抑制と悲劇的運命への諦念を綴りながら、公式日記では弟への過剰な愛情表現と誘惑に邁進している。この段階に至る標準グループの起点は、虹子あたりということになるだろう。
 特技・趣味・境遇の両義性については、例えば綿雪が鞠絵同様に病身ゆえの日々のままならなさを抱く一方、小説版では自分と同じように共同生活から疎外されていた兄への共感を、固有の絆の手がかりとして獲得している。星花の三国志や夕凪のマホウなど、多くの特技・趣味はさほど強力な両義性(とくに兄との距離を生みだしてしまう斥力の側)を有していない。逆に氷柱の場合は、勉学優秀(特進クラス)ゆえに長男達と一緒に弁当を囲めないという斥力の面ばかりが担わされている。
 ゲーム版シスプリのようなどの妹を選び他を捨てるかという葛藤としては、2年目の本誌連載と公式日記にて「恋愛バトル」が宣言されたことで、バレンタインデーのような一種の修羅場が現出した。ただし、その前提として、姉妹の相互支援と長男をめぐる競争との緊張・葛藤についてべびプリがアニメ版シスプリ以上に主題化していることを踏まえておく必要がある。例えば昨年、立夏の直球な愛情表現を目撃して小雨が衝撃を受けたのち、自分も負けないと勇気を振り絞った(そしてその姿勢を立夏自身が心から支援している)ように、長男をめぐる競争への参戦が相互支援をいっそう促進するという、これ自体としては好ましい活性化のサイクルが生まれている。しかしその一方で、小説版では立夏がヒカルへの嫉妬心をそれと知らずに抱いたように、長男の参入による思春期の目覚めはそれぞれの痛みも伴うものとなっている。
 以上を見れば、シスプリで描かれた様々な緊張・葛藤が、そのままべびプリに継承されているかのようではある。しかし、それらが複合的に具体化されるさまを確認するとき、シスプリを越える何ものかが立ち現れていることが明らかとなる。

 まず、ヒカルである。彼女は長男と同年齢という境遇にある唯一の存在であり、また自らが抱いている長男への思慕の性質に対してきわめて無自覚である。すでに泉信行氏「麗というヒロインと―、ベイビープリンセスという物語」(緋焔白昼夢『うらプリ』所収)が指摘しているように、ヒカルは長男参入以前に長男役を果たしてきており、この新たな男きょうだいの登場によって自分の立ち位置を失いかけている。それは今まで押し殺してきた自らの女の子らしさ(パフェ食べたいなど)を解放することにもつながるはずであり、また季節の折々にせつなさ寂しさを綴るなど実際に乙女っぽさを垣間見せてきてもいるのだが、しかし照れのみならず自分の慣れ親しんだ役割への愛着や男の子らしさへの憧れもあり、すんなりと女の子らしく振る舞えるわけでもない。この内面の無自覚な乙女心、それを隠蔽してしまう外面(他者から見た凛々しいヒカル像)、そしてその像にある程度一致した言動を自らに強制する本人の意識という3者の乖離は、彼女の危うさと魅力を形作っている。家庭や学園で周囲から期待される像を維持することも、それを長男にすべて預けてしまうこともできない。思春期の入り口で突きつけられた自分の女性性とのずれを、ヒカルはずっと抱き続けてきており、そして長男との出会いによってそれは解決の糸口を与えられながらそのためにこそ捻れていく。その捻れのモメントは、ヒカルが長男に対して純粋に肉親愛や友情しか抱いていないと信じているために生じているのだが、そのことに気づいたとしても捻れはさらに酷くなってしまうだろう(春風というブレーキが働いてもいるが)。
 小説版では、陽太郎と最初に出会い、彼を家に引き入れたのがヒカル本人だっただけに、この緊張はきわめて大きなものとなっている。ヒカルは陽太郎にとって最初から特権的な関係にあり、最も近い間柄にある。しかしそれにもかかわらず、他の華やかな姉妹に陽太郎を取られてしまったような寂しさ・不満を覚えてしまい、また陽太郎によって自分の居場所がなくなったかのように感じたりもする。ヒカルにとって、陽太郎は自分がこうあるはずだった男きょうだいの理想像であり、なれなかった自分の姿であり、自分が失敗した存在であることを突きつける鏡でもある。本当に望むものを獲得できない運命の前で、ヒカルは(プラトン『饗宴』に描かれた愛の寓話を想起させる勢いで)この理想像と一体化しようと切望し、しかしそのもの自体を求めることを知らないまま迂遠な方法を選ぶ(制服の交換など)ため、つねに不十分な結果とともに異性的感覚の刺激に思い悩むことになる。天然ゆえの距離感のつかめなさと言ってしまうには、彼女の問題はあまりに複雑な心的連関としての、無自覚な異性愛と自覚的な肉親愛の・内面化された自己像と自己欲求の・役割からの解放と居場所不安の緊張を示している。そしてこの総体において、長男は二人きりの場面でヒカルにガス抜きさせてやりながら、同時にヒカルの女性性を発見させて新たな葛藤を強化するという両義的な機能を果たしているのである。

 次に、氷柱である。単純に「ツンデレ」とまとめてもおかしくないように(この言葉の定義を争えば面倒なことになるが)、氷柱は長男を兄と認めず「下僕」と罵り、しばしば憤懣を爆発させ、しかしそんな長男のことが気になってしかたがない。明らかに言動と心情が乖離して、素直になれない葛藤が彼女自身にも意識されている。さらに心理的距離と空間的乖離の緊張については、学園生活にて、特進クラスに通う彼女が普通クラスの長男や他の姉妹と共に弁当を囲むことができないことに寂しさを抱くという、本誌連載での一幕で描かれている。時間による変化を表現可能にした本作品において、最初の敵対的・攻撃的関係からしだいに共感的・相補的関係へと進展していくさまを担ったのは、第1にこの氷柱、第2に麗であろう。激情家でもある両者のうち、とくに氷柱は(本人が自覚していた以上に)年齢相応に恋愛への関心も強く、また愛情表現も反発も極端に傾きがちであるため、人気投票第1位の名に恥じない揺れ幅をつねに示し続けてきている。
 しかし、氷柱の性格と固有の緊張・葛藤は、長男との絆だけで推し量れるものではない。先行する姉妹関係のなかで、氷柱は、綿雪との固有の絆を結んできている。幼い日、この病弱な妹のためと氷柱は外遊びに連れ出し、綿雪の体調をかえって悪化させてしまった(本誌連載2009.5)。このときの妹を想う愛情の深さと、それゆえに大切な妹を傷つけてしまったことへの自責の念の強さから、氷柱は綿雪を完治させる医療者になるための勉学に邁進し始めた。氷柱は理不尽を許せない。綿雪の持病も理不尽であるし、自分がそれにまだ立ち向かえないことも、よかれと思ってやったことがうまくその意図を実現できないどころか逆の結果を生んでしまうことも、そもそも自分自身を上手に正しく理性的に操れないことも、すべて理不尽で許せない。夕凪たち妹に厳しいのはその一端でしかなく、根源はなにより自罰感情にある。いわば綿雪の幸せのために氷柱は自らの一生を捧げたのであり、それは世界の理不尽を正すこと、そして姉としての過失を償うことである。その道のりは遠く、たどり着けるかどうかへの絶えざる不安は日々の綿雪の笑顔によって(綿雪との固有の絆を毎日毎晩確認することによって)かろうじて和らげられていた。ところが、後から割り込んできた長男が、あろうことか綿雪にとって一番のきょうだいの地位を奪い去ってしまう(綿雪にとって氷柱はなお最も大切な姉だが)。もとより長男の訪れによってこの妹が喜ぶことを期待していたものの(本誌連載2008.8)、しかし自分を除けてしまうかのような長男の理不尽な存在に、氷柱は激昂を抑えきれない。しかしまたこの一方で、氷柱は他の姉妹に長男を独占されることも受け入れるつもりがない。しばしば彼女は長男を連れ出し、二人きりで何事かを企もうとする。むろん綿雪のためにという場合もあるのだが、だいたいは純粋に氷柱自身の衝動のためであり、それは本人が意識していないにせよ、綿雪さえも排除して長男を独占しようとする振る舞いにほかならない。つまりここでは三角関係が生み出されている。先行する姉妹関係に長男が参入した結果として、長男をめぐる姉妹の競争と、妹をめぐる姉兄の競争とが、同時に生起して固有の絆同士の葛藤をもたらしているのである。しかも、長男の側からすれば、いずれの競争もまったく意図したものではない。どう関与するにせよ、あるいは手を出さずにいることさえも、氷柱の自責の念や疎外感を強めたり、嫉妬心や独占欲求を煽ったりすることになりかねない。はるひめ氏による「めんどくさい」女という評価は、じつに的を射ている。

 以上、ヒカルと氷柱という人気最上位の両名をとりあげ、その緊張・葛藤を検討した。人気順位を受けて彼女達にこのような特徴が後付されたわけではなく、本作品の当初からの設定にしたがっていることは、公式日記の最初回を見ても確認できる。むしろ、この両名に読者の視線が集まったという事実に、シスプリとの相違がどのように集約されているかを敏感に察知したファンの感性を認めることもできるだろう。それはともかくも、この両名に代表されるべびプリらしさが、シスプリのそれを継承しつつ越え出るものであることを、ここに明らかにできたと言える。シスプリがメディアミックス展開の中で強めていった物語性を、べびプリは最初から基本設定をつうじて前景化している。そしてそれと同時に、シスプリではアニメ版においてのみ表現しえた日常性をも、べびプリは共同生活とその平凡な日々の描写によって獲得している。こうしてべびプリは、シスプリよりもはるかに明確に物語性と日常性の両方を兼ね備えるものとして、構想されたのである。

(4)べびプリの課題と長男のありよう

 このようにして新たな可能性に挑みつつあるべびプリだが、物語としての動因を獲得するため前作の制約をあえて踏み越えたがゆえに、そこで危険視されていた様々な問題にも直前せざるを得なくなっている。

 まず、作品世界を現実世界に接近させたため、現実世界の出来事が作品世界に過剰に干渉する余地を与えてしまっている。鉄道関連のニュースを麗の日記で利用しやすいというメリットと引き替えに、その分野で大きな出来事が起きたなら麗が話題にしないわけがない、という新たな制約が生まれている。もちろん日記が麗の担当でなければ構わないとはいえ、他の姉妹であっても(とくに小雨や立夏、吹雪などならば)麗の様子に少しは言及してもよさそうではある。また、蛍はコスプレ趣味だが、コミケその他のイベントに参加したという描写は今までなかった。すると、この趣味はさほどの仲間もいない状態でどうやって維持されてきたのかなど、いくつか考えるべきことが浮かんでくる。とはいえ、作品世界の具体化による不利益はこれまでさほど強く感じられていない。最大の謎はおそらくフレディであり、公式日記中絵師サイトでもその存在について話題となったほどであるが、これは作品世界と現実世界の溝を適度に確保するために必要なものかもしれない。あるいはピンクの象の発見ニュースに見るごとく、むしろべびプリ世界が現実世界に干渉して変容をもたらしているという可能性も、まんざら捨てきれないのではあるが。

 次に、姉妹の人数があまりに多い状況で物語としての収束をある程度求めたため、結果として脇役に甘んじる者が出てきている。現状でヒロインとなりやすいのは、ヒカル、氷柱、麗のように本人の不安定さや緊張・葛藤が鮮明な姉妹である。星花はコヤマくん事件で、夕凪は長男独占事件でそれぞれ主役となったが、その後はどちらかといえば姉達の騒動を観察する役割を果たしている。乳幼児はそもそも持続的に話題となるだけの内的葛藤をもちにくく、逆に海晴や霙などは安定しすぎていて物語の動因になりにくい。公式日記の1年目と2年目を比較しても、氷柱を中軸とした少数の姉妹に話題が集中する傾向にあることが判明している。その中でも吹雪などは観察者タイプでありながら独特の存在感を強めてきているが、皆がそうであるわけでもない。
 とくにこのことは、時間の流れという本作品の特徴とも分かちがたく結びついている。さくらが成長への意志を示したことはすでに指摘したが、しかし実際に成長するさまを継続して描くことは、本作品では難しい。それは日記担当回数など言及頻度の問題ではなく、作品世界における時間の流れが循環的であるためだ。有名な海晴の言葉「0歳の誕生日」がその典型であるが、長男参入の「はじまり」を起点として、立夏が中学校に入学した1年目の春ののち、小雨は翌年になっても小学校を卒業しないし立夏も進級しない。かといって立夏が再び入学式を迎えるわけでもなく、ある時点から作品世界は、くり返される日常というファミリーアニメや4コマ漫画的な時空に突入している。ときおり「2回目」などといった時間の流れを感じさせる表現は現れるのだが、あさひはいつまでも0歳児であり立ち上がることはない。これは作品展開上やむをえないことであるとはいえ、成長を描くにははなはだ不適当な世界である。とくに現実世界と接近しているがゆえに、こちらの世界と同じくある程度の成長を期待してしまうとき、それが満たされないことへの違和感が残されてしまう。実際にさくらはいつまでも泣き虫のままであり、夕凪も氷柱の度量ある振る舞いに感動するもののそれを模倣して姉らしく成長することはない。小雨や綿雪には比較的はっきりした成長の姿が見てとれるし、ヒカル達にはもちろん大きな変化の波が押し寄せているのだが、他の姉妹はそれと比べてしまうだけにいっそう停滞しているかに感じられてしまう。また、変化しゆく姉妹にしても、例えば長男と恋仲になってしまうとか、家を出て自立するなどといった決定的な変化は当然避けられる。すると、どうしても越えてはならない壁のぎりぎりまで接近していくというのが作品内の変化・成長の限界ということになり、光速に近づく物質のようにしだいに変化量を減少させていくほかない。人間関係である以上は危機やすれ違いなどで遠ざかることもあるにせよ、それは和解・再接近と組み合わされてメロドラマ的な振り子とならざるをえないだろう(あるいは、毎週のファミリーアニメとその映画版のような関係となるだろう)。現時点では「恋愛バトル」というてこ入れにより、氷柱をトップに据えて加速し続けているのだが、次にヒカルの反撃を通じて対抗図式が組まれることとなるのか、それとも小説版のように否定的第三者(長男あるいは姉妹に恋慕する他者や、きょうだい関係を批判・妨害する他者)が介入することになるのか、はたまたこのまま氷柱大勝利となるのか、いち読者として予断を許さない状況である。
 ただし、本誌連載と公式日記では、ヒカルからの反撃についてはさしあたり期待しにくい。というのも、これらと小説版とでは、長男とヒカルの距離が異なるからだ。上述したように、小説版ではヒカルが陽太郎と出会い、家に引き入れるという最重要の働きをした。これに対して公式日記(そしてこれとほぼ重なりあう本誌連載)では、ヒカルは長男参入に何ら積極的な役割を果たしていない。紹介ページにあるとおり、「なんでこんな家にひっかかっちゃったんだよ?」「しょうがないから守ってやるか」という、長男が家に来たので受容したという態度でしかないのである。これでは同年齢であるということや男役をめぐる葛藤以外に(それらも非常に重要とはいえ)、小説版のような固有の絆をあらかじめ備えていないことになる(論者が1年目半ばの時点で作成したアニメ版妄想でも、最終的にヒカルより氷柱がやや目立っていたのは、この公式日記の設定に影響された結果である)。このあたりが今後どのように推移するかも注目していきたい。

 最後に、シスプリでは曖昧なままにされていた兄=読者の姿は、やはりベビプリでも本誌連載・公式日記では基本的にぼかされている。しかし、シスプリ原作でもキャラコレにてそれぞれの兄が妹に対してそれなりの反応を明示していたように、べびプリの長男も姉妹の言葉をたんに黙って受け止めているだけではない。本誌連載でも夜中に制服を洗うヒカルを気遣ったり、足を痛めた氷柱を抱きかかえたりしており、公式日記では毎日更新の特性を活かして、氷柱の「代わりに書いておいて」というそっけない命令に対して長男が「オニイチャン」「大好き」と軽い反撃に転じたことがある。遊園地に行くかどうかについての決定や、麗の機嫌をなだめに行ったことなどは海晴達に委ねられたものだとしても、行方不明のフレディの代わりに罠にひっかかってみたことなど、わりあいに能動的な描写が多く、それなりに頼りにされていると分かる。
 とはいえ、この能動性にも限界がある。まず、循環的時間における目的地の先送りによって、<長男の新規参入>という「はじまり」に対応する<長男を含む家族の完成>あるいは<特定の姉妹との恋人関係成立>などという「おわり」は、その実現を引き延ばされていく。ということは、後者のハッピーエンドはべびプリゲーム版でおそらく具体化されるとしても(19人分?あばっばおっおー)、前者の円満な完成は、つまりそのために必要な長男の完全な役割取得は、まずしばらく期待できないことになる。この構造的な不能について、公式日記では、長男が自らの役割を果たそうと努力している場面で他の姉妹がその役割を代替してしまうというかたちで描かれている。最も印象的だったのは、日記継続をめぐる麗と海晴の喧嘩を長男が仲裁しようとして果たせずにいたとき、ヒカルがたった一度の日記担当によって見事に解決したことである。ヒカルは長男に自分がなろうとしてなれなかった姿を看取しているのだが、逆に長男の側も、自分がこのきょうだいの中でなろうとしてなりきれない姿を、ヒカルにさらっと演じられてしまっている。この点、両者は合わせ鏡のようであり、半身と呼ぶに相応しい。長男からすれば経験の差が露呈したということでもあるが、他にも遊園地行き決定時に、長男は自らその決定という重大な責務を全うしたとはいえ、麗の不満を解消させたのは氷柱の配慮だった。
 これらの出来事から分かるのは、きょうだいの悶着は、長男が解決しなくとも姉妹の誰かが解決できるということである。もとより長男参入以前にそうしていたように、今も自分達だけで間に合わせることができる。考えれば当たり前のことである。しかし、それでは、長男の存在意義とは何なのだろうか。シスプリでは妹の不安や悲しみを解決できるのはひとり兄のみだったが、べびプリではむしろこの原則から後退してしまっているように見える。いや、それは後退というより軽減である。12人の妹達を背負う兄の重責と異なり、長男は年長者の一人としてきょうだいへの責任を負う。長女の海晴と並ぶ長男、しかもたった一人の男きょうだいという立場であれど、霙や春風、ヒカル、蛍といった年長者達と長男は分担し、支え合い、ときには甘え合うことができる。失敗を自らに許すことのできない兄に対して、長男は最善を尽くしてなお失敗したとしても、姉妹がよってたかって助けてくれる。そしてそれは、姉妹の誰かが(海晴でさえ)失敗したときにも長男や他の姉妹で支えてしまうという、お互い様の間柄にほかならない。長男の固有性を探し求める切迫さは、ひとまずこの対等なきょうだい同士の相互性の中に和らげられる。
 そして、この相互性を認めたうえで、長男のかけがえなさを想像する余裕が得られる。それは論者の場合、例えば最初の夏旅行計画時に麗の鉄道利用要求を支援した日である。公式日記でその談判の場面が描かれることはなかったが、「気が済むまで食い下がった」のは麗だけだったのだろうか。長男もまた麗と並んで膝詰めで食い下がったからこそ、そして日頃から麗の趣味につきあい、他の姉妹の前で鉄道の話を楽しそうにしていたからこそ、幼い妹達が電車の絵を自ら描こうとし、コンクールに応募できたのではないだろうか。(このあたりの脈絡は緋焔白昼夢『うらプリ』所収の拙稿「間に合わない妹、間に合う長男 〜きょうだい関係にみるべびプリの可能性〜」にて述べた。)綿雪の病状回復など長男が契機となった重要な事柄はもとより、このような日々の些細な出来事のなかにも、長男が参入したことの影響が確実に実を結び、姉妹の相互理解を豊かに促進していると論者は考える。もはや長男は共同生活のかけがえのない一員として姉妹を不可逆に変化させ、今なお変化させ続けている。たとえ時間は1年という単位で循環するにせよ、「はじまり」は消えることなく、循環するすべての1年もまた消えずに積み重なっていくのである。
 べびプリ初の(原作者が同じだが作品世界を若干違えた)メディアミックス作品である小説版では、このことがいっそう明瞭に描かれている。アニメ版シスプリの航と似て、陽太郎はいきなり姉妹との共同生活に参入させられ、動揺と過失を繰り返しながらも自らのすべきことをなそうとし、姉妹にとって不可欠の存在となっていく。そして航と異なり、陽太郎には財産も優秀な頭脳もなく、その代わりとなるようなとりえも特に見当たらない。だが二人に共通しているのは、自分をあるがまま受け入れてくれた者達への感謝と誠実さである。兄は、自分を愛し、そして赦してくれる妹達に、感謝をもって尽力する。長男もまた、自分を受け入れ愛してくれる姉妹に、できるだけのことをお返ししたいと願い、そのとおりに行動する。べびプリが何よりもまずシスプリから継承したのは、このような喜びと感謝の円環にほかならない。長男とは、まさにこの円環を完成させる最後の結び目であり、読者をこの中に引き入れてさらに巨大な円環へと育むための焦点なのである。


おわりに 〜どこまでも一緒に〜

 シスプリではアニメ第1作放映開始以降という、遅出のファンとして出発した論者だが、べびプリでは幸いにもほぼ企画開始直後から追いかけていくことができた。ウェブ日記という多大な労力を要する試みを、しかも休日更新まで繰り返しながら2年以上にわたって継続されている原作者の公野櫻子先生をはじめ、絵師のみぶなつき・霧賀ユキ・sion・若月さなの各先生方、そしてスタッフの方々にあらためて感謝申し上げる。
 とくにアニメ版シスプリに傾倒した論者にとって、べびプリは原作の時点からその要素を大幅に取り入れつつ発展させた作品として、偉大な先行作品の二番煎じにとどまらない真の継承を意図したものに受け止められた。本論で述べてきたことは現時点におけるその要約にすぎず、おそらくは今後の作品展開のなかで期待を裏切られることなく予想を裏切られることとなるのだろう。喜びと感謝の円環にひっそり加わらせていただきつつ、本作品の「おわり」まで共に歩んでいきたい。


(2010年2月15日公開 くるぶしあんよ著)

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