『シスター・プリンセス』二次創作の可能性




はじめに 


 本論は、『シスター・プリンセス』を素材とする二次創作の現状と可能性について、ごく大まかな素描を行うものである。大まかな、というのは、本論で取り上げる二次創作の諸作品が論者の知るごく狭い範囲に限られているということ、とくにそれらが絵よりも文章に偏っていること、その解釈があくまで論者個人の原作理解をもとにしたものであること、そして何より、論者自身が二次創作をほとんど実践していないために視点が内在的になりがたいこと、などの理由による。
 テキストの原型は、サークル「Purple Sights」の同人誌『魔弾の射手』に掲載された同名コラムであり、2005年4月に著されている。その後、論者サイトの日記にて微修正のうえ分割転載したものに、さらに今回の再公開にあたって2006年2月の状況をふまえつつ加筆修正した。このような主題について考える機会を与えてくださったZoro氏に、あらためて感謝の念を表したい。
 なお、文中で代表的事例として紹介・リンクする作品の作者名・編者名・サークル名は、失礼ながら敬称略とさせていただく。


1.二次創作の素材としてのシスプリ

 シスプリの公式展開が終了してだいぶ経つが、ファンによる二次創作活動はSSやイラスト、ゲームなど非常に多岐にわたってなお活発である。この原因は、作品自体の人気の高さや活動的なファンの多さなど様々に考えられるが、まず注目すべきは、シスプリの原作そのものがもつ素材的・可塑的な性質だろう。これについては、すでに論者サイト掲示板にて栗本規司氏による十全な説明がなされている(論者日記2003年4月15日分に転載)ので、ここでは本考察の主旨に添った若干の補足を行う。
 雑誌『電撃G's magazine』の読者参加企画として生まれたシスプリは、兄像をあまりに具体化してしまっては、そこに自己投影できない読者を切り捨てることとなり、また妹を具体化しすぎれば、連載を通じて読者を引き込んでいくことを困難にしてしまう。それゆえ、読者の想像力を段階的に刺激しながら、多様な読者の感情移入を可能とするために、兄(=読者)の姿や兄妹関係を包括的かつ厳密には描写せず、妹達の設定も連載を通じて少しずつ提示していった。(ここには、企画当初での白雪の兄呼称「兄あに」や、千影の「いま、忙しい」という台詞に暗示される性格などを、後の連載で修正していくという作業も含まれる。)
 その結果、テキスト版(ここでは、天広直人・公野櫻子による狭義の原作のこと)では、後のキャラクターコレクション(以下キャラコレ)などを含めても、妹視点からの情景や妹の内面だけが読者に示されるにとどまり、具体的な世界観や明確な物語は最後まで欠落したままに終わった。つまり、ファンとしては、この欠落部分あるいは隙間を「補完したい」という意欲を、その作品愛や創作的関心の度合いに応じて喚起されることになるわけだ。
 そしてこの意欲は、公式作品そのものが二次創作的なメディアミックス展開を行っていることで、いっそう強くかきたてられる。ゲーム版では兄妹が初めて一対十二の関係となり、兄(=プレイヤー)はその中から一人の妹を選んで実妹・義妹エンドを迎えることになった。アニメ版第一作(以下アニプリ)では兄妹の共同生活という独自設定のもとで兄妹の成長が描かれた。これらの公式作品は、テキスト版にない新設定を取り込むことで、シスプリに何らかの明らかな物語を作り出そうとする試みだった。しかもそれらの試みの成果は、あくまで部分的にではあるが、原作にも取り入れられていくことになった(これらの相互関係についてはリピュア考察1参照)。
 とはいえ、そういったゲーム版やアニメ版の新規さは、テキスト版ファンからすればやはり「逸脱」に近く、元の素材を用いて創造した亜種にすぎなかったかもしれない。だが、同時にそれは、ゲーム版やアニメ版を受けいれられた者からすれば、原作という素材を活かして独自解釈のもとで新たなシスプリ像を組み立てるサンプルを、公式作品が示してくれたということにほかならなかった。実際に論者もアニプリからシスプリを深く知り、ファンになったくちだが、アニプリやリピュアに触発されていくつかのシスプリアニパロを設定するに至っている。いわゆる「物語消費」的なメディアミックス戦略に基づいて提供された自由度の高い素材としてのシスプリ、これが活発な二次創作を支える根本要因の一つなのである。


2.シスプリ二次創作の要素分類

 さて、二次創作とは主に、広義の原作にはなかった(あるいは不明瞭だった)要素を導入(あるいは明確化)して、原作解釈の幅を広げたり、原作に新たな姿を与えようとしたりするものである。シスプリ二次創作の場合、この要素は、兄の具体像・妹相互関係などの人物関連、成長・別離などの時間関連、そして世界設定関連にひとまず分類できる。これらはあくまで分類のための視点であり、実際の二次創作作品では、それぞれの要素が密接な相互性を持っていることは言うまでもない。以下、各要素について説明していくが、そのさい、論者が現時点で思いつく若干の可能性について付記していくこととする。

(1)人物関連

 人物関連では、まず、テキスト版で曖昧なままにおかれた兄の具体化をはかるものがある。ゲーム版やアニメ版では、それぞれの独自の兄像が賛否両論を招いたように、ファン=兄の広い共感を得ることはなかなか難しい。だが、もしも独自の兄像を説得的に提示できれば、シスプリ二次創作は兄の多様性(つまり兄妹関係の多様性)に向けて新たに開かれていくことになるだろう。ただし、これは実際には、その二次創作作品の主たる鑑賞者が男性なのか女性なのか、どんな世代なのか、萌え作品好きなのかやおい作品好きなのかなど、受け手の側の性質によっても大きな影響を蒙るかもしれない。例えば、アニメ版第1作の兄である航が視聴者に比較的好意的に受け入れられていたとすれば、それは航の成長への努力や妹達への誠実さといった美点への評価のみならず、深夜アニメの主たる視聴者である男性達と似通った欠陥への共感が働いていたかもしれない。むしろ女性ファンにとっては、男性ファンから不人気だったリピュアAパートの兄の方が、より好ましく感じられていたかもしれない。もちろんこれは憶測にすぎないが、作品を誰に読んでもらいたいかを考えたとき、兄像の中身は一つの焦点になるだろう。なお、ファンの最大多数に無理なく受け入れられるのは、当然のことながら原作的な兄すなわち(妹視点から見た)曖昧で最大公約数的な兄像である。
 次に、原作では描かれなかった妹同士の関係を取り扱うものがある。原作では、どの妹も平等に扱うために、固定的なペアなどはできるだけ避け、『ポケットストーリーズ』でも誌上ゲームでも様々な組み合わせが試みられていた。一方、とくにアニメ版では、妹達の性格に応じて、相性の良さそうな者や年齢の近そうな者同士が自然に集うさまが描かれていた。こうして公式作品で生まれたものの中で最も有名なのは、アニメ版で確立した鈴凛・四葉ペアであろう。二次創作界でも、このような妹同士の組み合わせは重要視されており、とくにいわゆる百合的な趣味から、カップリングなどがすでに盛んに行われている。ただし、自由に試みられているこのカップリングでも、稀にしか二次創作化されない組み合わせも存在する。例えば、カップリング専門リンク集『妹×妹同盟』に2006年2月の段階で登録済みの各サイトが挙げる組み合わせ(表記は「A×B」)を一覧化すると、次の通りである。

カップリング一覧   (この他に、雛子×亞里亞×花穂 1 がある)
左\右 可 憐 花 穂  衛 . 咲 耶 雛 子 鞠 絵 白 雪 鈴 凛 千 影 春 歌 四 葉 亞里亞 その他 総攻め 合 計
可 憐 3 2 2 2 1 0 0 0 0 0 1 11
花 穂 1 8 0 1 1 0 0 1 0 0 0 12
0 12 0 0 0 0 2 1 0 3 0 18
咲 耶 6 2 12 0 0 1 0 16 1 2 1 1 42
雛 子 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 4
鞠 絵 0 0 0 1 1 0 2 1 2 0 0 7
白 雪 0 0 0 0 0 0 0 1 1 0 7 9
鈴 凛 0 0 1 0 0 0 0 2 0 5 0 メカ鈴凛 1 8
千 影 0 0 7 9 1 0 1 2 2 13 7 メカ鈴凛 1 1 44
春 歌 0 1 1 0 0 1 0 0 1 0 1 5
四 葉 0 1 2 0 0 1 0 7 1 0 1 13
亞里亞 0 1 0 0 2 0 1 0 2 1 1 8
総受け 1 1
合 計 7 21 34 12 7 4 3 14 26 7 24 21

 ここに明らかなように、好まれるペアとそうでないペアの間には相当の差があり、二次創作における妹同士の組み合わせには「自由」とはいえあらかじめ大きな偏りが存在している。ここには、「百合」という二次創作界特有の性質が影響しているかもしれないし、またここに登録されたサイトの傾向をもってシスプリのカップリング全体を把握できるわけでもない。しかし、積極的に喧伝され一般的用語として定着したカップリング略称も、かほまも・まもかほ(花穂と衛)、さくちか・ちかさく(咲耶と千影)、よつりん・りんよつ(鈴凛と四葉)、ちかまも(千影×衛)、ちかあり・ありちか(千影と亞里亞)、あとはあまり一般的でないがひなあり(雛子と亞里亞)やしらあり(白雪と亞里亞)、それにちかよつ(千影と四葉)くらいにとどまっており、上記の表とそれほど違いがない。ここから、シスプリ二次創作のカップリングが百合創作界の枠組みとさほど異ならないこと、あるいはその枠組みに強く影響されていると結論づけてもいいだろう。また、逆に、ここであまり取り上げられていないペア(衛−亞里亞など)や、さらに二人以上の妹を組み合わせるような二次創作は、今なお非常に大きな可能性を有しているとも言える。
 なお、このような関係を描くさい、一般的な百合作品との相違点として意識化されるのは、そこで描かれる者達が妹同士であり、兄との絆のありようが妹同士の関係深化に反映されるということである。シスプリの二次創作であるかぎり、ある妹が別の妹と関わりを持つときに、お互いの兄への意識がそこにどのように影響を及ぼしているかが、つねに問われることになる。兄の存在がまったく感じられない作品はシスプリの二次創作の範囲を超え出てしまうし、兄が登場しなくても情景の背後にその存在を感じさせるような作品は間違いなくシスプリの二次創作である。しかし一方、シスプリそのものの二次創作としてではなくとも、ある妹の人物造形を掘り下げるためにあえて兄と切り離してみるということは、二次創作がなしうる積極的な試みのひとつであるとも考えられる。このあたりは一概に境界線を定められるものではない。
 ところで、兄の存在をふまえながら妹同士の関係を描くとき、その妹達の年齢が離れている場合には、年長者の妹は、兄にとっての妹であると同時に、年少者の妹にとっての姉ともなる。このような年長者としての自己意識は、公式作品ではとくにアニメ版において描写されていた。この自己意識とともに姉妹関係の形成を主題化した二次創作の代表例としては、デンセン文・Mヲ『Familiar』における兄−千影−亞里亞の関係が挙げられる。両氏は、ウェルカムハウスの共同生活を基盤にしながら独自の兄妹観・姉妹観を重ねた(しかもそれが調和ある兄妹関係を成り立たせている)二次創作を数多く生み出しており、それらの作品はデンセン氏サイトの「読み物」ならびにMヲ氏サイトの「ログ」内にて公開されている。
 この組み合わせの可能性をさらに発展的にとらえていくならば、例えば、原作的な兄1−妹1の関係と、ゲーム・アニメ的な兄1−妹12の関係の間にも、じつは大きな空隙があることに気がつく。兄1−妹1を12組作り上げる(妹全員にそれぞれ1人の兄がいる)という原作準拠の延長上の設定も可能だが、他にも、妹達を複数の姉妹グループに分け、それぞれのグループごとに兄がいるという兄妹関係も想定しうるのだ(例えば、可憐・鞠絵・花穂/咲耶・雛子/千影・白雪・亞里亞/鈴凛・衛/春歌/四葉、といった具合に)。妹達をどのように組ませ、それぞれにどんな兄達を置くかは、ほとんど無限の可能性を持つ。『ポケットストーリーズ』で描かれた様々な4名組は、ひとつのお手本として参照できるだろう。

(2)時間関連

 シスプリの作品内時間は、原作者の公野氏自身が『シスター・プリンセス Re Pureセレクション』の中で、妹達の想いを「初恋」になぞらえているように、妹達が兄に対して異性愛ときょうだい愛のアマルガムを半ば幻想的に抱けるような、きわめて短い年齢期(児童期から思春期前期)に限定づけられている。この微妙なあやうさを秘めた時期のみを対象とすることで、妹達の成熟や成長は原作では充分に描くことが困難になっていた。また、兄愛の終わりを何らかのかたちで読者につきつけることも、企画の性質上、避けられねばならなかった。それらは、各妹やその兄愛の根本的な変化をもたらしかねず、また新たな展開をファンに与えることができなくなってしまうためである。その結果、企画としてのシスプリは、ファンを最後まで捉え続けることができた、。しかしその一方で、ファンの側には当初からの基本的な関心事が最後まで未解決のまま残されることとなった。兄と妹はなぜ別居しているのか。1人の兄に12人の妹がいるのはなぜか。そして、それぞれの兄妹愛はどのような結末を迎えるのか、である。もちろんそれらの問題については、各ファンが自由な想像に基づいて自分なりの答えを見つけていけばよい。そのようなファンの対応の一環でもある二次創作では、このような時間上の枷を取り払うことによって、原作の限界を大きく踏み越えていくことができる。
 この時間的要素に関わる二次創作としては、まず、兄妹の未来を描くものがある。これは、妹の兄愛にとって肯定的な時間経過否定的な時間経過とで様相が異なる。肯定的なものでは、兄妹の絆を深めることによって兄妹の成長しゆくさまが描かれる。原作で残されていた各人の課題(鞠絵の病気など)が昇華される場合もある。ただし、ゲーム版のように兄妹が恋愛関係にまで至る場合、その後の二人の姿を描くような二次創作は、もはや狭義のシスプリの枠から外れる。否定的なものでは、妹の兄への想いの挫折や絆の断絶などが描かれる。公式作品でも、リピュアBパート咲耶話がほぼこのような原作(キャラコレ)解釈に基づいており、ファンに多大な衝撃を与えたのは今なお記憶に生々しい。また、原作『Sincerely Yours』では、白雪がそのような挫折の可能性に気づく瞬間が取り上げられている。兄を別の女性に「奪われる」という現実に妹が直面するとき、その物語はやはり狭義のシスプリの枠から外れてしまう。そして、こういった二次創作の多くは、作者の恋愛観や成熟度を赤裸々に物語るものであることが多く、読者からの作品批判は作者の心に真っ直ぐ突きささりかねない。
 いずれにしても、未来に向けた時間経過は、兄妹個々人のありようとその関係を変化させるものであり、その意味で非常に挑戦的な作品を読者に期待させる。その変化に説得力を持たせながら新たな方向性を与えられれば、二次創作は、兄妹愛の行方のみならず、それぞれの多彩な成長のあり方を提示できるはずであるからだ。例えば、EXTRALOVERS『ff-LOVE』では、とくに鈴凛の内面的成長と微妙なためらいとが、兄や四葉、そしてメカ鈴凛との関わりの中で豊かに描かれている。また、m-hiro『LOVE ARIA』には、亞里亞の成長しゆく姿が、執筆者各人の想像力に基づいて多様なかたちで収められている。ウェブ上で読むことのできる優れた作品として最も代表的なものを挙げるなら、四葉が在英時の問題を昇華し自己肯定感を獲得するまでの過程を描き出したよつばねぎ『Piece of Heart』だろう。
 次に、兄妹の過去を描く二次創作ももちろん様々に可能である。例えば、直接的には、兄妹の幼少期を描くものが考えられる。また間接的には、兄妹の由来を物語るかたちで、彼らの親族関係を検討するものなどもあり得る。しかし、物語のありうべき結果を描こうとする未来探求型の二次創作に比べて、物語の原因を模索する過去探求型の二次創作は、あまり人気がない。キャラコレでも用いられているような「回想」としての過去ならば決して数は少なくないのだが、過去そのものを取り扱う作品は希である。その理由は幾つか考えられる。回想の場合にはその過去の記憶を通じて「いま」兄と一緒にいることの意味を(例えば対比的に)浮き彫りにできるが、過去の描写のみではそれが不可能であること。「12人の妹」という設定が現実的理由をほとんど拒んでいること。そして、すでに存在している兄妹の物語を前にして、あらためてその原因を探るという行為自体が野暮で非創造的なものに感じられること、である。実際に論者もアニメ版第1作の兄妹の親について若干検討したことがあるが、その結論の是非はともかくとしても、想像する過程での面白みは少なかった。結局、SSとしての雰囲気になじまないほど説明的にならざるをえないというのが、やはり最大の問題であろうか。
 それでも、この過去探求型の二次創作には、大きな未開拓地が存在していることには間違いない。そして、説明的な叙述をさほど必要としないかたちで、過去の重要な光景を描くことも決して不可能ではないだろう。その一例として思いつくのは、それぞれの妹が兄を好きになった瞬間や、兄愛を自覚した瞬間を(妹主観ならば幼い言葉で)表現するというものである。未来探求型の作品が何らかの「おわり」を描き出すのなら、過去探求型は「はじまり」を紡ぐのである。

(3)世界設定関連

 シスプリ原作は世界描写も人間描写もその多くをあえて曖昧なままに留め、読者の側に想像の余地を残している。この余地に対しては、公式作品でもゲーム版では居住街を設定して1人の兄に12人の妹を結びつけ、アニメ版第1作ではプロミストアイランドのウェルカムハウスで兄妹に共同生活を営ませているなど、様々な可能性をかたちにしてきている。しかし、それらの公式作品は今なお共通して、世界や人間に存在するはずの負の部分をあえて取り上げないままに済ませている。これは、シスプリ原作の「少女趣味」的・「児童文学」的な雰囲気を壊さずにおくためであるが、その結果として、作品中に描かれる生活世界の手応えのなさや、登場人物の内面の薄さといった問題が指摘されることにもなった。このような問題に注目する二次創作は少なくないわけだが、そこで扱われる世界設定関連は、さしあたり、外的世界関連と内的世界関連とに分けられる。
 まず、外的世界に関わるものは、主に原作と異なる舞台で兄妹を行動させ、独自の物語を構築しようとするもので、パロディやクロスオーバー作品が多い。この場合、作品の独自性をはっきりさせるには、その舞台がいわゆる日常世界と大きく異なっている方が効果的である。それゆえ、戦場やファンタジー界などの非日常世界は、世界観さえ確固としていれば、それらの世界を成り立たせている原理原則が明らかに日常世界と異なるため、非常に豊かな可能性を持つ。ただし、日常世界から離れれば離れるほど、シスプリでは入念な制限のもとで扱われていた諸概念、とくに「死」などについての位置づけを考えておかねばならなくなる。
 例えば、Zoro『機動戦士ガンダム 妹たちの戦争』では、いわゆる一年戦争の設定を下敷きにした物語の中で、重要な登場人物の死が描かれている。これは、導入した世界観とその非シスプリ的原則をあえて重視した二次創作の典型である。一方、氷室沙羅『妹戦隊プリンセスファイブ』では、戦隊ものの枠組みに準拠しながら、メンバーを幼い妹中心で編成し、テレビ番組のそれとは異なるほのぼのした雰囲気を醸し出すことで、死などの問題を回避し得ている。このように、二次創作者各人の求めるものや作風に応じて、この導入された世界観の比重は様々であっていい。また、きわめて特殊な例として、おさかんコンビ『シスター・プリンセスRPG』が挙げられる。ここでは「死」の一部は「ゲームオーバー」というかたちで、既存のCRPGシステムの中に柔らかに組み込まれているのである。
 ところで、原作での千影の能力が示すように、作品の舞台が一見して日常世界のままでも、ある異質な要素や法則を世界設定にごくわずか取り入れることで、大きな変化をもたらすこともできる。これは魔法のような明らかに特殊なものだけでなく、例えばアニメ版第1作もほとんど「共同生活」という独自の、しかし一般的ではある設定のみでも、一つの作品たりえていただろう。おおよその目安として、原作が依拠している「少女趣味」や「児童文学」的雰囲気から逸脱するような日常世界の要素を盛り込むことで、二次創作は原作と異なる作品世界を構築することができる。ONA「生シス(18歳未満閲覧禁止)は、直接的な性描写を避けながらも、非少女趣味的な「生活臭」と「日常的な女性の生」を主題化しているという意味で、この代表格である。
 このような異質な要素のうち、最も破壊力が大きいのは、先述の「死」のようにシスプリから周到に排除・制限されている内的世界(性格)要素、つまり暴力性や憎悪・性欲などの導入である。これらは前述の人物関連などとも、またここでの外的世界関連とも重なるが、原作の童話的な世界から一変してエロスやタナトスに満ちたシスプリ世界が出現するとき、しかもそれが兄妹の内面から立ち現れてくるとき、ファンはその二次創作を通じて、反シスプリすれすれのところで、原作で表現しきれなかった複雑な人間性というものを見いだすだろう。もちろんそのような試みは、もしも兄妹の人格的核を喪失してしまうなら、ありがちな成年向け二次創作のごとく、シスプリの名を借りた欲望消費ものに堕するという危険と隣り合わせではある。これを乗り越えられるか否かは、人格の軸を維持しつつ導入要素によって深化させていく作業を、どこまで徹底できるかによる。
 この困難な試みに取り組んだ二次創作として、例えば性的要素の導入については、つくね文・編妻恋坂乳業『Kiss You』が挙げられる。そこでは、兄妹間の恋愛と連続的なものとしての性愛が丁寧に描かれており、欲望消費ではない作者の作品愛や妹愛が横溢している。また、暴力や狂気を主題化したものについては、何よりもまさきみどり『システリック深海』の名を掲げるべきである。現在も継続中のこの一大シリーズでは、シスプリ原作とは対極にある血なまぐさい世界とそこに生きる人間達の姿が、迫真の描写のもとに読者に突きつけられる。これらの二次創作は明らかに読者の趣味や年齢をより強く選ぶものであるが、一見して原作枠内に留まっているようでじつは自らの恋愛観などを無意識に混入しがちな公式作品世界準拠の二次創作に対して、はるかに自覚的・自己批判的な二次創作であると言えるかもしれない。(もちろん、これは二次創作の優劣を意味するものではなく、それだけ変更するには重い要素であるということを述べているにすぎない。)
 ところで、兄妹の内面に原作では存在しなかった要素を導入するというこの方向性とはまったく逆に、あるべき要素を除去するという手もないわけではない。ただし、この場合には兄妹の人格がそのまま担保されるわけではないので、シスプリらしさを損なう危険性が明らかに高い。上述の諸作品でも、妹達から幼さや穏やかな心情などを除去しているとも言えるわけだが、その最も極端な例は、妹達から兄愛を消す・弱化させるというものである。兄=読者がたんに妹に無視されたり冷たくあしらわれたりするという、ある意味で非常にリアリティのある光景が表現可能となるわけだが、それで喜ぶのは一部の被虐趣味な者達だけだろうし、そもそもこれを「シスプリ」と呼んでいいとは思いがたい。さすがに作品の具体例が挙がらないのも当然ではある。しかし、例えば(1)で述べたような人物関連の要素を二次創作で扱うさいに、兄妹関係よりも妹同士の関係が優越してしまうことや、兄妹関係自体の変質をきたしてしまうことはあり得るし、実際しばしば目にするものである。


3.表現形式とスタイル

 ここまで見てきたような内容上の変更と不可分のものとして、シスプリの場合、表現形式やスタイル(文体や語り口、絵とテキストの相互性、表現媒体など)がきわめて重要な意味を持つ。公式作品を振り返れば、各作品の特色と形式・スタイルは以下のように対応している。

作品 テキスト版 ゲーム版 アニメ版第1作
特色 少女小説的な繊細さと感傷性 ギャルゲー的な恋愛感と目的達成感 家族コメディ的な賑やかさ
形式 妹視点による妹の内面叙述 兄視点による妹言動の確認と行為選択との反復 客観視点による物語鑑賞

 つまり、各領域での特色を最大限発揮できるような形式・スタイルが選び取られているのである。ところで、ゲーム版における兄視点からの物語を妹視点に組み替える試みは、ゲーム版内部でも『シスター・プリンセス ピュア・ストーリーズ』所収の「バレンタイン・ストーリー」によって実現した。しかしこれに対して、ゲーム版のノベライズ(テキスト版への変換)である『ゲームストーリーズ』では、キャラコレ形式に忠実にしたがった結果、兄視点からのテキスト化をまったく排除したまま、妹視点のみの組み替えとなっている(リピュア考察1参照)。全体としてみると、テキスト版は妹一人称スタイルのみを非常に堅固に保持しており、兄一人称スタイルなどはゲーム版テキストやアニプリでの航の独白以外に存在していない。ここに、シスプリの二次創作(とくにテキストもの)が、他作品の二次創作に比べても、表現形式・スタイルによりいっそうこだわるべき理由がある。これらの公式作品における特色と形式の対応に準拠するのか、それとも異なる組み合わせを意図的に選ぶかは、その二次創作にどのような目的を与え、何を試みるのかといったことと密接に関連するからである。
 例えば、兄の具体像を描き出すような、兄の一人称によるSSを著したとしよう。すると、このSSはすでに公式作品との対比の上では相当なペナルティを負わされていることになる。シスプリファンは、兄の具体像を示すような内容に抵抗を覚えるだけでなく、兄視点のテキスト版作品に馴染みがないという点で形式にも違和感を覚えるのである。もちろん、ここには個人差があるだろうし、シスプリ二次創作というよりSS界一般の流儀なども考慮すべきではある。あるいはここで、キャラコレなどではなくゲーム版テキストに読者が馴染んでいれば、そのような兄視点のSSに抵抗を覚えないのでは、という意見もあるだろう。しかし、ゲーム版テキストは、兄自身の内面描写も含みはするが、むしろ兄が妹の言動をどのように受けとめたのかについての叙述と、その妹の台詞そのものに、多くを費やしている。ギャルゲー的主人公の没個性さや受動性に基づく兄の姿は、じつはテキスト版の妹視点からの兄像とさほど異ならない。さらに言えば、ゲーム版の妹達は大量の台詞を音声でしゃべることによって、ゲームの進行速度を支配している。兄視点のゲームでさえ、実質的な主人公は妹なのだ。しかしこのことは、シスプリSSを兄の一人称で書いてはならない、ということを意味するものではない。むしろ、兄の一人称で書くときに何を理解しておくべきかを示すものである。そして、その理解に基づいた自覚的な試みこそが、読者の違和感を越えて新たな兄像や妹像を共有させることになる、と論者は考える。
 このことを四葉という一人の妹に対して最も徹底的に試みた二次創作として、例えば疏水太郎「クローバーランドのお姫様」「四葉の眠れない夜のお話」が挙げられる。これらの絵本のようなお話は、作品としてあまりに独立しており、シスプリとしての枠組みを完全に解体してしまっているかに見えるかもしれない。しかし、そこに描かれた四葉という女の子の姿をつぶさに捉えようとするとき、そこに、「雑文集」に示されている妹像がかたちを結んでいることを理解できる。そして、そのような妹像を描き出すためには、シスプリ原作の形式・スタイルではなく、このようなきわめて独特なそれが必要だったと言うこともできるだろう。また、作品世界の継承と組み替えの例としては、先にも挙げたおさかんコンビ『シスター・プリンセスRPG』に再び注目したい。この作品は、アニメ版第1作をゲーム化するさいに、プロミストアイランドにRPG的なファンタジー要素およびシステムを導入することで、元アニメのあの祝祭的な空間を見事に継承し拡張しえている。公式作品がADVのみだったこととあわせて、この二次創作の意義は非常に大きいのである。
 これに対して、原作の特色・形式の組み合わせに則った二次創作は、当然のことながら、その形式を有効利用しながら特色をいかに発揮するかが勝負となる。例えば、厳格な枠組みをもつテキスト版(狭義の原作)に対しては、キャラコレの形式・スタイルにできるだけ準拠して、原作の中でもあり得たはずの兄妹の姿を描こうとする二次創作が存在する。このような準拠作品としては、すでに挙げたよつばねぎ『Piece of Heart』が、四葉考察の成果とあわせてこの妹像を深く掘り下げながら原作に忠実に描ききっている(ただし、文体は原作準拠だが形式は独自のものを効果的に用いている)。また、アニメ版作品のノベライズものとしては、本多由亨文・作「四薔薇会」刊『シスター・プリンセス 〜あんちゃん大好き〜』(pdf形式)が、眞深の一人称によるオリジナルの物語を示している。元の作品と比べればそこに多少の時間の流れなどが存在するとしても(あるいはそれだからこそ)、このような二次創作はほとんど原作の補完とさえ呼べるだろう。そしてそこには、自由形式によるSSよりも、確かにシスプリらしい雰囲気が備わっている。とくにテキスト版にみられる叙情性は、その「少女が見た世界の姿」(『シスター・プリンセス Re Pureセレクション』解説より)を描くための表現形式に支えられるところが大きいからだ。あえて形式上の制限を継承することで、シスプリ二次創作は原作のよさ・「シスプリらしさ」に限りなく接近していくことになる。
 この接近方法の極北は、シスプリ原作の要素・形式に基づいてクリエイター達がオリジナル・ネオシスターを創造する一大企画『シスター・プリンセス・メーカー』である。この企画を通じて、原作と異なる妹達とその兄達に向けて、シスプリは無限に開かれたのである。ただしそのさい、何が原作の要素・形式であり、何が「シスプリらしさ」なのかについての検討が不可欠であるわけだが、それらを客観的かつ十全に提示することは、この企画の内外で未だなしえていない(その準拠幅についても参加者間で意見が分かれている)。もちろん最も基本的な問題である以上、すでに各所でも議論がなされてきている。また論者自身もアニメ版とキャラコレを対象に統計的調査設定分析挿絵考察など部分的に試みてきてはいるのだが、このような考察スタイルでの論者の追究は、現状ではあくまで補助的なものにすぎない。考察が要素還元的な手法をとっているために、実際の作品に用いられるスタイル(とくに文体や描写技法など)そのものの検討については、ほとんど寄与するところがないからである。それゆえ、このような分析的考察の限界などに左右されることなく、例えば企画参加クリエイターであるALINE「成慕キャラクターコレクション」や、同じく秋ヶ瀬夜月「秋那キャラクターコレクション」などにおいて、すでに原作要素や形式・スタイルの理解とネオシスター作品への再構成、そして「シスプリらしさ」の継承が実現されていることを、その重要性とともにあらためて確認しておきたい。そして、これらの原作準拠型ネオシスターによる成果の一方で、より自由な形式・スタイルを選択したネオシスター創作においても、各クリエイターがその自由度を活かしてきわめて多様な可能性を探求してきていることも忘れてはならない(その一部は、『シスター・プリンセス・メーカー』企画参加作品考察を通じて、暫定的に具体化されている)。また、星倫吾他作『とんかつうめ茶づけ』「Sister Princess Maker in Summer Vacation」がファンブックとして編集されており、さらに御児勇馬『仮面シスター剣』ではこれらのネオシスターと原作の妹達を登場させたクロスオーバー的世界が描かれるなど、この企画はいわば三次創作の手がかりまでも提供している。今後の企画展開については現時点で幾つかの難しい問題を抱えているとはいえ、『シスター・プリンセス・メーカー』がシスプリ二次創作にとって大きな潜在力を今なお有していることは間違いない。
 また、原作準拠ということを考えるとき、とくにその基本にある兄妹関係を「きょうだい愛」として一般化するならば、きょうだいの年少者が年長者を恋い慕うというその構造はそのままに、シスプリとは異なるきょうだいのあり方を描くことが可能となる。少女性をカッコに入れて実現可能となるこの構造準拠の二次創作の代表例が、犬子「ブラザー・プリンス」である(同様の発想に基づく二次創作は複数あるが、最も「シスプリらしさ」に準拠していると思しき作品を選んだ)。この観点からすれば、兄妹・姉弟・兄弟・姉妹という4種類の組み合わせが1vs1の枠内でも可能となり、さらに複数の年少者がいることを鑑みれば、12人のうちの幾人かを妹に、他を弟にするなどといった試みもできないわけではない。例えば百合的な雰囲気を与えられやすい花穂と衛のペアの場合、最初から衛を弟に設定しておくこともあり得るわけだ。もちろん逆に、花穂だけを弟に変更しておくことで、日々女の子らしく成長してしまう衛の葛藤を、花穂とのねじれた対比の上でよりいっそう激しく描くこともできるのである。

 ところで、すでに指摘した通り、「シスプリらしさ」の内容については、ファンダムの中でまとまった共通理解がなされているわけではない。やはりファンダムの主流としては、二次創作のコンペなどを通じてファンが具体的な作品鑑賞を積み重ねながら、そこに同時に「シスプリらしさ」についての共通理解を作っていくことが、今後さらに必要なのではなかろうか。このコンペについては、いくつものシスプリファン・二次創作リンクサイト(『Sisprist』『Sister Princess Paradise』『Sister Princess SS Links』など)で既に実施されてきてはいるものの、それぞれのリンクサイトでの「棲み分け」があるため、シスプリ二次創作界としての全体的な催しには至っていない。優れた二次創作作品を広く知ってもらえる方法を、リンクサイト開設者以外の非創作的なファンも、積極的に模索していくべきだろう。それが作品世界の拡大深化につながるとともに、ファンによる反応が二次創作者の創作意欲を喚起するかもしれないからだ(逆の場合もありうるが)。
 あるいは、「シスプリらしさ」を求めて原作のスタイルを考察していくのであれば、個別作品の検討で得られる成果をいっそう拡張するために、作品間の比較を行うことが有効に思われる。例えば、ゲーム版でのギャルゲー的な兄視点叙述の一部は、テキスト版『GAME STORIES』で叙情的な妹視点叙述に再構成されている。この両者の文体や表現方法などと比較検討することで、とりわけテキスト版スタイルの特色はより明確に把握できるのではないだろうか。領域横断的な比較は、このような意味で今後の重要課題の一つとなるように思われる。そしてその一方、同じキャラコレ同士を比較すれば、重点的に明らかになるのはそれぞれの妹の個性に関わるスタイルになるだろうし、この「個性とスタイルの対応」把握もまた重要であるだろう。


終わりに 作品への適用と解釈

 以上、幾つかの観点に基づいて、シスプリ二次創作の現状と可能性について論者の意見を示してきた。これを踏まえて、Zoro氏による本同人誌作品『魔弾の射手』を振り返るとき、本論で述べたシスプリ二次創作としての可能性が幾つか具体化され、その綜合によって一つの新たなシスプリ像を提起していることが分かる。本論を結ぶにあたって、上述の観点を適用しつつ、この優れた作品を解説してみよう。
 なお、ここからは『魔弾の射手』のネタバレが含まれる。それゆえ、この作品をぜひ鑑賞されてから、以下の文章に進んでいただきたい。また、製本された美麗な挿絵入り完全版はこちらから簡単に注文できる。

 まず人物関連では、千影−春歌という原作では稀な(二次創作でも同様か)妹ペアを取り上げ、兄妹関係の拡充・深化をはかっている。春歌の成熟度が咲耶や千影に近いことからすれば、年長者同士のペアに春歌があまり加えられないのはやや意外に思える。春歌の和風な趣味や攻撃的とも言える積極性、そして心身のアンバランスなどが、咲耶や千影と組ませにくい要素となっていたのだろうか。この点、本作品では、舞台を千影の居宅である洋館に設定することで、春歌の和風な要素をあえて抑制し、彼女が生まれ育ったドイツ上流社会の風景を通じて、ゴシック的な雰囲気へと取り込んでいる。
 時間関連では、この二人の妹の血縁を示唆するかたちで過去が語られ、そこに独特な絆を新たに構築している。つまり、この珍しいペアが成立する理由がそこに綴られているわけだが、このように過去の決定的な事実を台詞の中で説明する場合、小説的にはその事実による衝撃の効果がやや薄れてしまうことは否めない。しかし、本作品が読者に与える衝撃は、じつはこの過去の秘められた事実そのものにはない。後述するように、ホラーという作品形式の特性が、過去探求型SSの説明的な味気なさを巧みに回避させているのである。
 世界設定関連では、この二人の妹相互愛が性的なものを孕みながら、ゴシックホラー的な設定とやや殺伐とした展開の中で描かれるという、まさに「血」の艶やかさに彩られている。つちのこ氏による表紙絵と挿絵は、黒の背景に鮮やかな色調を重ねながら、その妖しさをさらに具体的に読者に感得させる役割を果たしている。なお、作中にその名が登場する「大侯爵マルコキアス」とは、ソロモンの72柱の霊(悪魔)のうちのマルコシアス(マルコキアス)であり、ザミエルはもちろん歌劇『魔弾の射手』の悪魔である。また、ドレスデンはザクセン公国の主都として発展した伝統ある街だが、第二次世界大戦末期には米英の大空襲によって数万人の市民が犠牲となり、戦後は旧東ドイツ領に属していた。このような歴史を持つ街が、そこに暮らしていた春歌の性格形成にどのような影響を及ぼしたかについては、読者の想像に任されている。
 これらの一部異質な新規要素をシスプリにうまく馴染ませているのは、客観視点(ただし、当初は春歌に寄り添う)による抑制的な文体である。Zoro氏のシリーズ二次創作『東京ハイウェイBATTLE』ではアクションとサスペンスの緊張感を描写し得ていたこの文体は、原作テキスト版と異なるスタイルをとることで内容の異質さへの反発を和らげつつ、本作品ではとくにホラーとしての物語構造を支えている。最初は春歌寄りの視点で物語に歩み入る読者は、最後の場面で視点を春歌側から追い出され、それまで異質な他者であり続けた千影の側へと、強制的に移動させられる。しかも千影にも完全には重なることのできないというこの視点の移動は、物語を第三者的に俯瞰するためではなく、読者が抱かされてきた「確からしさ」をこの結末部で動揺させて不安な眩暈をもたらすためのものなのだ。そして、この眩暈によって、読者はその直前の説明的な台詞に感じた(かもしれない)味気なさをたちまち払拭させられるのであり、しかもその眩暈を導く物語視点移動のきっかけは、その説明的な台詞にあるのだ。このようにして、本作品は、それぞれの難しい新規要素を相互補完的に組み合わせ、全体としての相乗効果を獲得しているのである。

 そんな一見して非シスプリ的な要素が巧みに織りなす本作品の物語を、シスプリ原作や、タイトルの由来であり各節にも引用されているカール・マリア・フォン・ヴェーバーの歌劇と比較すると、さらに新たな意味が、「シスプリらしさ」への洞察を深めるかたちで現れる。
 『魔弾の射手』というタイトルの言葉は、キャラクターコレクションの「千の傷あと」(千影、第9巻第5話)と「鬼退治ですわっ!」(春歌、第10巻第2話)を思い出させるものであり、この作品に千影と春歌の二人が登場するのもうなづける。それぞれの話で「射手」が指すものは「キューピッド」・「春歌」本人と違えども、両者が射止めようとするのは同じく兄である。そして、ウェーバーの歌劇では悪魔と取引していた男が自らの卑劣な計画の犠牲になる一方、本作品では千影と取引していた悪魔が犠牲となる。神の公正さの前に幸せな婚礼(新秩序形成)という結末を迎える歌劇に対して、本作品では影と春歌の血縁が明確化して妹間の新たな絆が生まれるのである。
 本作品が示すこのような翻案は、歌劇の構造を部分的に踏襲しながら、神の恩寵による救済が欠落していることで、ホラー的な余韻の悪さという特色をいっそう強めているかに思える。しかし、それはまた、シスプリ固有の主題をより深く理解させるものでもある。シスプリの妹において恩寵とは兄の存在であり、救済とは兄愛の成就にほかならないではないか。兄不在の本作品は、一見して兄妹関係を喪失した百合作品として受け取られるかもしれない。だが、本作品に登場しない兄は、まさに隠れた神として、千影と春歌の妹同士の絆をあらかじめ担保し、千影に春歌を救わせていると考えることもできるのだ。そして、最後に立ち現れる千影と春歌の隠微な結びつきは、やがて両者に、その想いの密やかな成就を約束しているのかもしれない……それがいかなる兄愛なのか、いやそもそも兄への愛なのかは別にして。
 シスプリ原作を通じて千影を前にして読者=兄が抱いた不安は、こうして本作品において春歌とのペアと視点転換によってさらに向こう側へと押し進められていく。千影よりも春歌の方が行動面ではなお過激に思えるだけに、その不安と眩暈は恐怖にさえ転じていっそう消しがたい。そしてそれは同時に、読者=兄に被虐的な期待をも、あるいはこの二人の妹の間だけに結ばれた絆に踏み入れない焦燥感をも、薄暗い喜びとして与えてくれるのである。妹に救済を与えながら自らは呪縛された宙吊りの神である、兄。この兄規定と兄妹愛の問題性を露呈させた本作品の後に続く物語の中で、彼にいかなる救いが与えられるのか、それはこの二人の妹の意思ひとつにかかっている。



 ……いや、本当にそうだろうか。
古色蒼然たる洋館の暗がりで千影と春歌が血の輝きに身を震わせるとき、
日の光のもとで漆黒の闇を静かにたぎらせる者が、兄との偶然の出会いを企んではいないだろうか。
純真な心の煌めきはその手に握るアイスピックの切っ先に宿り、想いの成就を妨げる一切を排しゆく。
そしてその影は、本作品の千影と春歌に心奪われた読者=兄のもとに訪れるだろう。
……例えばほら、これを読んでいる君の部屋に。











「お兄ちゃん。」











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