間に合わない妹、間に合う長男

〜きょうだい関係にみるべびプリの可能性〜



はじめに

 本テキストは、クインテッサ氏・26氏企画によるサークル緋燕白昼夢同人誌『うらプリ』(2009年2月11日刊行)所収の拙稿を、若干加筆修正のえ転載するものです。当時お声がけをくださいましたお二方をはじめとする関係諸氏に、あらためて感謝申し上げます。同人誌『うらプリ』は雑誌『電撃G's magazine』の読者参加企画『Baby Princess』の登場人物である麗(うらら)に焦点を当てた様々なコンテンツの集成本であり、論者は本テキストにてこの時点(企画開始からほぼ1年)での公式日記・雑誌の内容をもとに麗と長男の関係を考察し、そこから作品の特質を読み取ろうとしました。なお、文中で引用・言及している公式日記(2007/12/24-2008/12/22)は現在すでに閉鎖されているため、「WHOLE SWEET LIFE 検索」内にリンクさせていただいています。



1.べびプリの挑戦と麗


 姉妹19人という突き抜けた設定の読者参加企画『ベイビー・プリンセス』(以下べびプリ)は、掲載誌と原作者を共にする妹12人企画『シスター・プリンセス』(以下シスプリ)のたんなる拡大版ではない。その設定には、シスプリと一線を画す要素が含まれている。まず何よりも、19人姉妹の中には長男を表向きではあれ拒絶する者がいる。また、長男=読者に期待できる一般常識を踏み越えた特殊な趣味をもつ者がいる。シスプリの妹達は最初から例外なく兄に恋い焦がれており、また趣味も鈴凛の発明などはごく曖昧な描写のみ許されていた。兄=読者の参入障壁を下げるために必要だったこれらの設定・描写の外枠は、シスプリ妹達の正確の一面性を招いたとする批判もあるが、べびプリはこの制約の一部を解除し、より多面的な少女のありようを描くことに挑戦している。
 これらの新たな特徴をすべて担っているのが、九女の麗である。彼女はこの意味でべびプリを代表する存在だが、それゆえに彼女の危うさは本作品自体の危うさと軌を一にする。つまり、麗がその兄である長男を突き放し、マニアックな話題を延々と綴るとき、それは作中の兄妹関係のもどかしさを指し示すとともに、読者が麗や作品自体に親しみにくいという読参企画としてのリスクをも招くのである。シスプリが諸制約を設けることで回避したこれらの問題を、べびプリはどのようにして正面から受け止め、乗り越えようとしているのだろうか。

 この検討にあたり、論者は、べびプリが導入したもう2つの新機軸、すなわち先行する姉妹の生活に長男=読者が参入するという共同生活設定と、長男=読者が姉妹にとって兄でもあり弟でもあるという年齢設定に注目する。前者は、シスプリにおける兄を媒介とした妹同士のやや他人行儀な間柄では描きにくかった、家族ならではの負の感情や理解のすれ違い、長幼の序など生々しいありようを、姉妹関係のなかで自然に表現させる。後者は、兄妹のみならず姉妹・姉弟という多様なきょうだい関係をもたらしている。アニメ版シスプリ2作品に端緒をもつこの共同生活と姉妹関係という要素を、べびプリはより徹底的に導入する事で、麗という妹を起点に大きな可能性を獲得しているのではないだろうか。この観点に立つ本論は、テツ(鉄道ファン)でない論者が麗の心を辿っていくための軌道を、きょうだい関係という既知の路線の先に探し出す試みでもある。



2.麗の「間に合わなさ」


 まず、姉妹の中での麗の位置づけを、公式日記における1年目の相互言及度にみてみよう。姉妹のうち母性的保護者タイプ(海晴、蛍、氷柱)は言及度(自分の日記で姉妹の名を挙げる頻度)も、被言及度(他の姉妹の日記で名を挙げられる頻度)も高い。父性的保護者=男役タイプ(霙、ヒカル)と観察者タイプ(小雨、吹雪、綿雪)は言及度のみが高い。バランスタイプの星花を除く残り全員は関心事優先タイプであり、言及度がおしなべて低い。最後のタイプに属する麗の詳細をみると、初年担当22回(姉妹平均比160%強の多さ)中の麗から他姉妹への言及度は乳幼児並みの低さである一方、他の姉妹の日記からの被言及度は姉妹中4番目に高い。内訳では、麗からの言及数は上位から海晴(6)、春風と蛍(各3)。姉妹から麗への言及数は上位から小雨(8)、海晴(5)、吹雪(4)である。
 日記の内容については鉄道関係の話題が大半を占め、自分を叱った姉達以外の姉妹に言及することは稀である。吹雪の病気(3/6)や星花のラブレター騒動(6/16)など、妹達の事件には進んで顔を出しているらしく、旅のしおりも自主的に作成しているので、麗が家族に無関心で孤立しているわけではない。ただ、その融通のきかなさが姉達の心配とからかいの種となり、また3人部屋(立夏・小雨・麗)の最年少でもあるため、麗は基本的に妹の立場で共同生活を送っているのである。しかし、これの状態で暮らすことが麗にとって十分幸せとは言いがたい。幸福な共同生活のかけがえなさを姉達が語る一方、その幸せな日常のなかで麗は何重もの不公正に対してずっと「損してる」と感じ続けてきたからだ。

 まず、テツという趣味人としての不満。昨今の鉄道情勢自体、麗が嘆くように後ろ向きな話題が多い。そして、鉄道ファンがそのこだわりや知識や悲しみを他人に理解してもらうことは難しい。多くの場合はぶしつけな非難や嘲笑や儀礼的沈黙、あるいはいっそう悪いことに半可通の思いこみさえ投げかけられる。幼い麗が七夕の短冊に記した地下鉄の「うんてんし」という夢を、「うんてんしゅ」の書き間違いと誤解しかねないような周囲の者達に、麗はずっとうんざりさせられてきたのではないか。
 次に、性別と年齢における不満。女の子の麗は、一般的には男趣味であるテツの話題を同性の友人と分かち合えない。ただし、テツの弟をもつルナちゃん(10/17)という例外もいるし、他の同級生達と女の子らしい付き合いもしているだろう。姉達に褒められれば猫耳メイド姿でポーズを決め(『電撃G's mgazine』2008年(以下G's)8月号)、着物姿の小雨を褒めもする(G's12月号)。しかし、そこに男の視線の介入を感じるとき、麗は強く反発する。その視線は、自分を一人の鉄道ファンとして受け止めるのではなく、可愛い・女の子の・鉄道ファンとして評価してしまう。美形「なのに」実はテツ、という公式紹介文に示された麗像は、こんなに綺麗「なのに」と残念に感じる姉妹からの批判にせよ、女の子「なのに」すごいという男達からの称賛にせよ、女の子・美少女という基準からの逸脱を評価する点で表裏一体なのだ。
 このことは、麗にシールをくれた男性運転士に向けられた敬意や感謝の念と対照的である(2/8)。男だからすべて拒絶されるべきなのではなく、女の子というレッテルや顔立ちという表層によって自分の人格や生き方を一面的に評価してしまう視線が、麗には耐えがたいのである(なお、麗の父親については本考察では材料欠如ゆえ検討しない)。そんな女性・子供・美形である麗がテツとして自力で行動するには、悪い大人の男達の存在が妨げとなる。このため、かなりの行動力を前提とする麗の趣味追求の自由は不当にも、年下の男の子以上に大きく制約されてしまい、ただでさえ喪われゆく鉄道車輌を最後に一目見ることにさえ間に合わない。
 そのうえ麗は大家族の一員として、姉妹の行動に歩調を合わせねばならない。文句は言えども家族行事には必ず参加し、青空に大切なシールを分け与えまでしても、寝台特急カシオペアでの家族旅行は許されない。麗が感じる大家族という足かせ、つまり家族の一員としての義務と権利の間にある大きな不均衡が、第3の不満の源である。

 これらの複合要因による麗の不公正感を、さらに刺激してきたのが長女の海晴である。悠然かつ軽妙な海晴と生真面目で癇癪もちな麗は一見対照的だが、「美意識」(G's12月号)やアイスの好み以外にも、公正さへの信念や強情さ、責任感、「損な役回り」の自覚(8/8)とそれゆえの孤独感など共通点も多く、たしかに「相性良すぎ」で「好みも似て」いる(6/26)。海晴は長女として、家族の安心と幸福と公平を実現しようとする強固な信念と責任感と高い能力をもっている。その指導的立場を妹達は認め、長女が定める家族の義務を相応に分担してきた。母性的な役割を主に春風や蛍が担う一方で、長男参入以前の父性的・家長的な役割を補完してきたのが海晴(そして霙とヒカル)である。海晴は必要とあらば妹達を厳しく叱りつけ、全員の義務と欲求充足をなるべく公平なものへと調節するのである。
 この役割に基づいて、海晴は、「食わず嫌いの性格で、凝り性で固」く「不器用」で、男嫌いというより「単に苦手なだけ」の麗に、「もっと大人になって」ほしいと求めてきた(4/16)。しかしここで注意すべきは、この海晴の配慮が「女の子らしい人生」を絶対視する価値観に基づいており、別の可能性を想像できていないということである(6/19)。海晴は麗の素直になれない性格をよく理解しながらも(2/193/13)、鉄道趣味については同性の立場から一方的に否定し、よかれと確信して長女の責任と権限において麗に命令を下す。その命令が、家族のために個人的欲求充足を諦めろということならば、麗もその正しさを頭では納得できる。だが、それに紛れて海晴の女性観を押しつけられるとき、麗はこれを敏感に察知する。自分が「鉄道にばかり興味があるのを/きっとあんまりよく思ってない」ために、海晴は「家族の決まりとは別に」拒否するのだ、と(10/17)。それゆえ、海晴がこうして男達と同様に、美少女「なのに」テツ、という認識を持ち続けるかぎり、自分をそのように理解したつもりの一面的な態度や、きょうだいの公正原則に海晴自身の個人的欲求を混入させる不公正さと不純さを、麗は拒絶するしかない。そして海晴への反発は、「なのに」という同じ視線を投げかけてくる男達への嫌悪感をさらに悪化させてしまうのだ。

 ここで相部屋の立夏と小雨も含めた4人の関係を考えてみよう。小雨は長女に憧れており、麗にその海晴のような自立した女性の萌しを見てとり羨望する。しかし当の麗は長女に反発し、自分のような可愛げのない者よりも小雨の方がよほど女性らしく海晴に近いと感じている。海晴は、小雨には自信を求め、麗には女の子らしさを望むのだが、強く働きかければ逆に小雨配宿し麗は抵抗してしまう。そして関心事優先タイプの立夏は、彼女なりに気遣うときでもあまり姉らしくは見えない。このままでは、麗は姉妹の誰にも自分の趣味を理解してもらえず、単独行動が許されたときに家族からの解放感を味わいながら「間に合わな」かった多くの遺失機会を悲しむことになっただろう。あるいは麗が諦めて姉達の望むとおりに生きることを選び、しかもその断念を姉達が手放しで喜び安堵するという悲劇が待っていたかもしれない。麗は麗のままでいい、と言える姉妹はいなかったのか。
 例えばヒカルも男勝りな性格を姉妹に受け入れられているが、それは家族における男役の必要性と彼女の性格が一致したからであり、麗の趣味は姉妹にとってそのような必要性をもっていない。霙は麗の趣味を積極的に支援するよりも、この妹の頑なさをほぐすつもりでからかうのだが、かえって麗を怒らせてしまう(9/17)。氷柱は周囲からの期待に応える必要などないと語るが(7/4)、そういう自分は綿雪相手に母性愛だだ漏れである。
 チョコ作りも日記もやりたい子がやればいい、と麗が言うとき、それはやりたいことを禁じられた自分への嘆きでもある。しかし、これまでの家族生活という路線には、長女が描く理想的女性像へ向かう単線だけが麗の前に敷かれており、その進行は長女の時刻表からすれば遅延しすぎていた。こうして麗はあらゆる面において「間に合わ」ずにいた。鉄道車輛の引退に間に合わないだけでなく、欲求と義務とが間尺に合わず、姉や世間の男達や自分の性との適切な間柄に自らを合わせられずにいたのである。



3.姉妹の間に入り込む長男


 この状況を一変させる千載一遇のチャンスこそ、長男の参入にほかならなかった。シスプリと同様、姉妹の相互支援原則のみでは解決できないとき、もつれを解きほぐすのは唯一の男子の務めである。しかし、ここで注目したいのは、本作品では長男は兄であるとともに弟でもあること、そして妹への働きかけの方向性を決定するさいに長姉が主導権を握っているということである。この兄妹・姉弟・姉妹という重層的なきょうだい関係のもとで、海晴は、長男を女家族との不慣れな共同生活になるべく早く馴染ませるという任務と、妹達の反発や過剰な密着を抑制しつつ全員の望ましい成長の機会にするという任務を、同時に担うことになった。具体的には、共同生活の公平性を保ったうえで、長男に妹達の世話をさせ(兄妹関係形成の促進)、自分や霙が長男を労い(兄妹関係形成の支援と姉弟関係形成の促進)、さらに特定の妹に対しては個別に指導する(既存の姉妹関係の適用)。この方針が氷柱の場合には海晴の思惑どおり、ホワイトデーの決定的な転回点として結実した。
 では、同じように長男を拒絶し海晴に叱られている麗の場合はどうか。海晴としては、長男の手で麗の男嫌いを治してもらいつつ、その過程で傷ついた弟を自分が慰労するつもりである(4/16)。しかし両者の努力にもかかわらず、麗は立夏が「懲りてない」(6/26)と驚くほど、いつまでも日記を拒み続ける。そこには、長男にさえ鉄道趣味とありのままの自分を受け入れてもらえないという麗の諦念があるのだ。素直になれと言われても、素直に日記にテツ話を綴ったならば、長男は理解できるのか。氷柱の場合にはそのような特技派妹としての制約はないうえに、綿雪という妹を媒介に保護者=兄・姉として寄り添うすじみちも与えられていた。しかし麗と長男の間では、年少者を仲立ちにすることもできないし、同じテツとして趣味を、あるいはせめて趣味人としての感覚を共有することさえできない。読者が長男に自らを重ね合わせにくくなるため、長男の人物像をなるべく曖昧にしておくというシスプリ同様の読参企画としての制約が、ここに厳しく停止信号を発しているのである。

 ところが、吹雪が言及するとおり(1/25)、そんな長男のことを麗は当初から切り捨てられずにいた。それは、長男の外見が王子様であるのみならず、意外と「勤勉で飾り気がなくてとても働き者」(G's5月号)でもあり、さらに麗が同年代の男子達に感じてきた頭の悪さや身勝手さを長男に見出せなかったからでもあるだろう。あるいは長男が麗の趣味を最初に知ったとき、女の子「なのに」と反応せずにその趣味や知識について虚心坦懐に尋ねたのだとすれば、それは無知ながら先入観なく、自分の趣味の土俵に乗り自分をありのままに見てくれる相手と出会えた瞬間である。
 だから「オトコ」じゃなくて「家族」(10/17)と海晴が強調したとき、それは海晴からすれば麗が長男を受け入れやすくしつつ次第に男性に馴染ませていこうという姉なりの配慮だったかもしれないが、麗からすればこの言葉は、兄との関係をこれからずっと男女の性別抜きにたんなる家族の一員同士にとどめるものとして理解された。そうすれば、麗は兄の前でありのままの自分でいられるはずであり、自分が女の子として振舞いたいときでも兄にはそのことに気づかないでもらえるはずだからだ。しかしそれゆえにこそ、自分のコスプレ姿を目撃した兄が笑顔で何か言いそうになった瞬間、麗はたまらず怒鳴って暴れるしかなかった(G's8月号)。「私、死ぬもん――。」とは、ここで兄に「カワイイ」などと言われてしまっては自分が維持したい適度な兄妹関係の中での自己像が崩壊してしまう、という気弱な悲鳴なのである。そこには、今までの自分の態度を変えたくないという強情さと、変えるのが怖いという臆病さが露呈しており、その危うさを自覚するがゆえに麗は兄に対してできるだけ無関心でいようと努めるのだ。



4.間に合わせを越えて


 このような双方の厳しい制約下にあって、それでも麗は長男との関わりの中で変化を遂げてきている。その萌しは例えば、体調を崩した長男に蛍が特製おかゆを作ってくれそうなとき、麗が「あとで少し分けてくれる?」と尋ねた場面に見られる(3/18)。この長男参入後4か月の時点で、男嫌いの少女が男の食事を一口分けてほしいと言える程度にまで距離が近づいた。たとえそれが麗の食い意地の表れでしかなく(8/16スイカ絵)、実際には長男が手をつける前に自分の茶碗によそり分けたのだとしても、本当に長男のことが嫌いならば同じものを取り分けて食べることさえ嫌がるはずだ。日々の共同食事は古来より、家族や共同体の維持強化というきわめて大きな意義をもっている。これは、春風や蛍の愛情に満ちた料理と、なるべくきょうだい全員で食卓を囲むようにという海晴・霙の指導の賜物だろう。

 そんな地道な関係構築のもと、ついに大きな転機が訪れるのは、夏旅行の交通手段をめぐる家族会議の折りである。よく似た状況だった5月連休の顛末と比べてみよう。
 4月24日の麗からの依頼では、彼女は長男に無条件の賛同を求めるだけだった。しかし小雨の日記(4/25)によれば、直後に姉達に鉄道利用案を却下されて憤懣やるかたない麗は、長男を「役立たず」と怒鳴りつけた。それは、鉄道では長男の隣の席が「取り合いになる」という姉達の言い分にあるとおり、長男の存在がただの多数決の数合わせどころか麗の妨げになってしまったからだ。たとえ憤っても家から出ていけとまで言わないあたりがこの妹の公正さではあるが、しかし長男としては立つ瀬がない。地下鉄に付き添ったさいには麗も相当喜んでくれたものの(6/30)、それはやはり麗が出かけるための間に合わせとして兄を連れ出したにすぎない。
 夏旅行の談判直前に至ってなお、麗は長男にクイズ形式で夜行寝台案に賛同させるが(8/4)、そのやり口のとおり麗にとっては、姉達に影響力をもつ長男を味方につけておくことだけが肝心であり、長男が自分に積極的に協力してくれることなど考えてもいなかった。それは、今からの予約など不可能と知っていた麗が(8/6)、自暴自棄の戦いにせめてわずかな希望を灯そうとした儚い努力だったのかもしれない。
 ところが談判当日、姉達との戦いに望んだ麗が自らのすぐ傍らに見たものは、自分と「一緒に」姉達に立ち向かい、麗が「気が済むまで食い下が」ることに最後までつきあった長男の姿だった。実際には、麗が長男を無理やりに引きとめたのかもしれない。しかし、論者の想像では、長男は連休旅行時の反省をふまえて年長者達への説得手段を用意していた。おそらく、長男の隣席の取り合いという5月と同じ懸念に対処できるように実行可能な移動ローテーション(長男が基本的に動く)を組んで提案したり、自分なりに調べて検討した鉄道利用のメリットを目いっぱいに並べ立てたり、最後刀折れ矢尽きてもなお、たまには麗の希望を叶えてやろうよ、と感情論まで持ち出して粘り抜いたのではないか。海晴、春風、蛍といった面々も、そんな長男の姿に困惑しただろうが退くわけにはいかない。そのとき麗が見た長男の真剣な横顔は、幼児達の安全管理やお世話といった大家族ならではの束縛を喜んで担おうとする家族の一員としての責任感を、また自分なりに家族の公正原則を現実適用しようとする家長的な信念を、そして麗の個人的欲求充足のために最大限努力しようとする兄らしい誠意を、雄弁に物語っていたのではないか。
 この想像は決して無根拠なものではない。フレディ失踪事件のとき、蛍達が設置した罠にフレディがかかっていないことを早朝発見した長男は、せめて虹子をがっかりさせまいとして自分が代わりに捕縛された(4/3)。たとえそれが天然のボケだったとしても、そのおかげで虹子は元気づけられた。このとき手ごたえを得た長男はアニプリの航のごとく、妹のために人事を尽くそうとする意志をより堅固なものにしたはずなのであり、それゆえに8月の長男はこの半年ほどの経験を活かしつつ、麗の絶望的な戦いに本気で身を投じることができたのである。
 だから、麗は日記に筆を走らせた(8/6)。

「ありがと。

 つきあってくれて。

 アナタと一緒に、
 海晴姉様や春風姉様やホタ姉様たちに言いに行って、
 気が済むまで食い下がったら――

 やるだけやって、なんかスッキリしたわ!」

 それは、麗から長男へはっきりと伝えられた初めての感謝の言葉である。ホワイトデーでも地下鉄に同行してもらったときでも決して言わなかった「ありがと」の一言が、孤独でなくなった麗の想いを静かに告げる。このときの爽快感と満足感は、麗が諦めを受け入れる過程の一段階とも考えられる。しかし、麗が遠慮なく文句も言えるし共闘もできる相手として長男に抱いた連帯感は、この兄には使用禁止のはずだった麗専用の緑と青の色を(4/15)、夏旅行の兄のしおり表紙に選んで用いている(8/8)ことにも表れている。麗と長男は、ここに固有の絆を獲得した。間に合わせの外出同伴者にすぎなかったはずの長男は、ついに本当の意味で間に合った。麗という妹との「間」がしっくり合ったのである。

 さらにこの絆の成立は、姉妹関係にも影響を及ぼしていく。吹雪はもともと麗の「偏愛」(1/25)を冷静に理解していたが、電車絵コンクール(9/17)では他の妹達も麗の趣味に無邪気な関心を寄せている。霙の揶揄めいた促しにより、真璃と虹子は自分達の絵をコンクールに応募して、獲得した賞品の運転士用鉄道時計を嬉しそうに麗へプレゼントした。その麗はといえば、以前から欲しかった運転士の笛が自分自身の応募した絵による参加賞として届けられていたが、その笛を観月たち幼児に貸してあげた。妹達にはその信号用の笛の音の意味は分からなくとも、「とても――キレイな魔物を払えそうな音」の快さは気に入った。それは、長男が麗の鉄道話につきあう姿を日々見ているうちに、幼い妹達がなんとなく興味を抱いたということかもしれない。麗が趣味の話を以前よりも柔らかく持ち出すようになったことで、麗の浮きたつ気持ちがきょうだいに伝わりやすくなったのかもしれない。
 ここには、より柔軟で先入観のない妹達を通じて、麗の孤独な趣味がやんわり受け入れられていく(きょうだいの「間」に合っていく)過程が描かれている。それはまた、麗にとっては、兄の必死の説得を真横で聞きながら、みんなで寝台車というのも楽しいかもしれないと感じ始めたあの夏のように、大家族という制約の負のイメージを和らげて、「家族みんなを乗せ」た電車の運転士という幼稚園時代の夢(G's6月号)に、笛の響きとともに立ち戻る手がかりにもなっていた。兄妹の固有の絆における喜びがきょうだい全体の調和と幸福の増進をもたらすという、シスプリの原則がここにも生きているのである。



5.間もなく発車


 ところが、逆に固有の絆や相互支援の過剰がきょうだい関係の不均衡などを呼び起こすという表裏一体の原則をも、べびプリはシスプリから引き継いでいる。例えば、長男が参入したことによって、氷柱や麗の反発はもとより、吹雪や綿雪の発熱、青空のちんちん願望、頭が春風など、姉妹に様々な問題が生じている。そして麗との関わりでは、夕凪が長男を独占しようとした事件(11/252627)がある。あの暴走には、海晴が姉妹間での公平原則を適用しながらも麗にだけは懲罰というかたちで、しかし夕凪から見れば麗だけが優遇されているかのように日記を連続で当番させたことも、間接的に影響していたのではなかろうか。海晴がどの兄妹・姉弟関係も実質的に不均衡なく形成促進しようとしたことが、かえって夕凪や麗(6/2712/11)には形式的に不公平であるとの印象を与えているのである(兄を独占できる時間の形式的公平さを優先して破綻したアニプリ第3話とは逆向きに)。
 長男と麗の間のぎこちなさにいつも適切な慰撫と指導を与えてくれる海晴の心遣いは、掛け値なしにありがたい。だが、この長女は家族のために精一杯努力する中で自らのやりすぎや先入観に気づけず、また妹達の誰もそのことを面と向かって指摘できない。唯一指摘するのが麗などとなれば、その批判をむしろ麗のわがままとして、そして妹の側にある問題の表出として捉えた海晴が、いっそう過剰な干渉に踏み出すという悪循環に陥ってしまう。

 これに対処する手がかりは、きょうだいの重層的関係の中にある。
 まず姉妹関係では、とくに麗にとっては小雨が大きな意味を持つ。観察者タイプの小雨は日記で麗について海晴以上に言及して気遣っている。今までの小雨は気弱で自己主張できない子だったが、長男の参入以降は少しずつ積極性を増してきた。とくに、地下鉄に兄と乗れた麗の嬉しそうな顔を喜ばしく思いながらも、正直に羨ましいと言えたのは(6/30)、自分の素直な感情を直視しつつ、それに相応しい自分になりたいという健やかな成長への意志表明だった。変わりたいと言える小雨のつよさは、海晴のような麗から見ればすでに完成した女性としての姉ではなく、未完成ゆえに伸びゆく姉の姿として映る。かつては買い物の失敗をフォローしてあげていた麗の小雨像は、この1つ上の姉自身の成長にともなって変化していく。G's12月号にて麗が立夏の身勝手さに苦笑したとき、小雨は立夏が自分達のために気を利かせてくれているのだと柔軟に解釈し、麗の考えを改めさせた。このとき「神妙な」顔をした麗は、自分の立夏像を修正しつつ、そんな優しい視点をもつ小雨への評価をより高めたのではないだろうか。目立つことなく己の務めを果たすということが、麗の憧れる鉄道車輛の滲み出る美であるならば、慎ましやかな小雨こそは内面のそのような美が外面の謙虚な美と結びついた300系少女なのである。七五三の写真撮影の順番を小雨に譲ったのも、麗の照れ隠しであると同時に、この姉への敬意を忍ばせたものでもある。麗が長女に対するほど反発せずに見倣える身近な対象であり、また観察者として姉妹の問題を敏感に察知してくれそうな年長者が、こうして生活を共にする部屋に発見された。ヒカルはすでに長男独占事件のさい、夕凪への慰めを長男に求めていたが、小雨も妹のためにその役割を果たせるようになりつつある。
 とはいえ、海晴本人を止めるためには、姉弟関係、というより海晴とのもう1つの間柄である長女と長男の関係が必要となる。海晴は姉として弟を可愛がりながらも、自分が担ってきた重責を、この弟に分かち持ってほしいと願っている。しかし、これが本来のパートナーシップとなるためには、長女の指示を長男が実行するだけでは足りず、状況によっては長男が長女を諫めることが求められる。その予感は、夏旅行の談判の後で海晴が、麗の心境を気遣う長男にかけた労いの中に見出される。「たまには電車でもって思う」ものの「なかなか麗ちゃんの希望には応えてあげられないのよね」という言葉や、「あーあ、私なんてきっと結構恨まれてるんだろうな。/やっぱり長女ってなんか損な役回り!」という言葉は、なるほど公正な裁定者らしい告白である(8/8)。しかし、先ほど述べたような長男の予想外の奮戦を想定すれば、長女のこれらの言葉は、自分の立場と内心の葛藤を弟に理解してもらいたい、そして機嫌を直してこちら側に戻ってきてほしいという、海晴の思わぬ焦りの表れとしても読めてくる。そうだとすれば、麗とのもう1つの隠れた共通性、すなわち強情さの裏側にある臆病さがそっと顔を覗かせていることになり、また少なくとも長男の頑張りに揺さぶられたからこそ、海晴はこのとき弟を「頼れるパートナーくん」として再認識したことになるだろう。ここには、そんな長女の辛さを受け止め甘えさせてやるという役目とあわせて、時には長女をやんわりたしなめて別の方向性を提示するという、姉妹の間に立つ長男固有のきわめて重大な役割が、示唆されているのである。
 ただしもちろん、すべてを長男が間に合わせる必要もない。シスプリでは妹達の希望の全てを担おうとして苦悩する兄が、リピュア第13話にて妹達に救済されていたが、べびプリではさらに一歩進んで、長男もまたあくまできょうだいの一人としてその義務と幸福を分かち担える。そして、長男自身の過失を姉妹が片付けるために海晴や霙との姉弟関係が支えとなり、また氷柱や麗ならずとも妹達が兄を叱ることさえできる。例えば長男と海晴がケンカする時がきたなら、麗は氷柱と同じく、妹の立場から長男を思いきり叱り飛ばすという重要な役目を務めるのである。もっとも、滝沢国電パンチの「下り」のごとく、返す刀で海晴をもばっさりというのがこの妹らしさだろう。そのときまでに絆という連結器の信頼性向上が間に合うかどうか、そのポイントは当面、姉達のときにはいなかった長男が一緒にお赤飯でお祝いするという悪夢をどう迎えるかにかかっている。自らの女性性に麗がこれ以上もなく直面させられる瞬間に、麗ならお赤飯よりも駅弁かと要らぬ気を利かせて激昂させてしまうという展開を、長男に期待していいものか。

 そんな妄想はさておき、こうして共同生活の中で麗と長男を捉えたときに、シスプリの魂を受け継いだべびプリの独自性と可能性は最も明瞭なものとなり、兄妹・姉弟・姉妹の重層的で双方向的なきょうだい関係をさらなる調和と幸福へと運ぶ日常の発車ベルが、彼らと読者の期待に高鳴る胸のごとく、朗らかに鳴り響くのである。



6.間の悪いことに


 以上の原稿を提出した直後に、公式日記で麗と海晴のケンカが描かれた。発端は麗が日記廃止を求めたことだが(09/1/15)、この過程に関わった日記担当者は、夕凪、霙、あさひ、海晴、そしてヒカル。夕凪は日記担当の喜びを素直に記し(09/1/16)、霙は麗を呼び戻すために挑発し(09/1/17)、あさひは麗の膨れたほっぺたを食べたがり(09/1/21)、海晴は自分の行為の正当性を主張した(09/1/22)。ここまでは本論と合致する展開だったが、決定的な役割を演じたヒカル(09/1/23)だけが予想外。ヒカルは直球性格の男役タイプとして本領を発揮し、麗と海晴の双方を穏やかにいさめながら関係変化の手がかりを与えた(09/1/26)。弱さを認めることの強さを妹に教えたことに加えて、幼い頃の海晴が鉄道ファンの麗と似た「お天気情報が大好きな子」だったという、年長者しか知り得ない事実を示すことで、海晴と麗の距離を縮めたのである。
 つまり、本論で長男に期待した一切を、この同い年のきょうだいが完璧に間に合わせてしまったわけで、論者はなんとも間の悪さを感じざるを得ない。しかし、この感情は、共同生活に参入したばかりで長女の過去を知らない長男が麗と海晴の間で頑張ったものの、長年の生活を共にしてきたヒカルにかなわなかったというその寂しさと、近いのかもしれない。そして、そんな長男の誠意を姉妹が見過ごしていたはずもないことは、直後に日記を担当した綿雪が自らの夢を嬉しそうに語る姿にも明らかだ(09/1/27)。綿雪は、かつての闘病時の欠乏感を新たな夢へと力強く組み換えながら、長男に手を差し伸べている。だから長男も、過去の欠落を未来の共有へとつなげるために、姉妹とともに前に向かっていけるだろう。もっとも論者は、ここでも長男=読者を捉えていた能動性制限という読参企画のレールから、べびプリが脱線してくれないものかと不穏な期待を抱くのではあるが。


 *なお、本テキストの各所で触れているシスプリとべびプリの比較については、さらに発展させた考察「『ベイビー・プリンセス』における継承と発展 〜『シスター・プリンセス』との対比にみる〜」を公開している。



(サークル緋燕白昼夢同人誌『うらプリ』(クインテッサ・26企画 2009年2月11日刊行)所収・2017年12月25日加筆修正版公開 くるぶしあんよ著)


etc.に戻る