日記
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2005年9月1日(木) むしろ蹴られる
 薔薇乙女の7体目は、最後のキャラに相応しく王女然としたツンデレ。現在の下僕は「しゅん」(仮名)。学校にツンデレがいないので引きこもり中の少年。

 「踏まれますか 踏まれませんか」

 答えて始まる不思議な物語。

 つか、巴ってあんな怪しい電話に怯えながら、最後の質問に「まきます」と答えてるわけですよねえ。そのあたりも意外と大胆。
2005年9月2日(金) 苦悩
 貧乳と妹と少女と、この3つに優先順位をつけるとするならば一体どうすればいいんだろう。
2005年9月3日(土) まきまき
 明日のローゼンオンリーイベント「まきますか?まきませんか?2」(10:00〜14:00 東京都立産業貿易センター台東館[浅草の方]5階)にて、文月さんとこのサークル「パン食グランギニョル」(桜20)の新刊『合わせ鏡のアリス』が頒布されます。今回は文月さんたちSS職人ならではの作品はもちろんのこと、あまのさんの絵にサンフェイスさんのテキストが合体とか。おおお。いろいろ凄そうですので皆様ぜひ。

 まいてまいて。てーまきずしー。(80年代)
 おいしくってひとをまーきながらたべます。(70年代)
2005年9月4日(日) バクくんのおしり
 マジレンジャー、長男が絆を守る話。ゴーゴーファイブを思い出します。あれも「気合い」でした。
 響鬼。あ、井上脚本だったのか、と後で気づく。田舎でのほのぼの&伝奇的雰囲気から、都市部の陰影へと舞台を移すとき、井上氏という予備の投入は必要だったのかもしれません。が、どうなることやら。あの新キャラ少年の性格描写がせわしなかったという批判もあるようですけど、嫌味な印象を1週間引きずらないようにこの1話で全部さらけ出してしまうというやり方は、ぼくには好感触でした。最後の台詞も響いたし。でも。ああいうときは逃げろ明日夢。
 プリキュア。ポルンがそろそろ育ち気味なので、次なるかきまわし役ルルン登場。って、今までどこにいたんだ。いわゆる怪談話で、演出も作画も非常に良好でした。ほのかもきっちり作為的。そして、なぎさの悲鳴を聞いて駆けつけるひかりを見て、ほのかは何を思う。
 マイメロ。とうとうここに並ぶ作品に。クロミが禁断の魔法を使って人間の少女に。乙女の夢のいじらしさと、バクのいじらしさ。直前にあれだけ虐げられていながら、クロミさまをいじめたやつにお礼参りにいく、ですよ。蝋燭の灯を身を呈して守ったり、クロミに精神的とどめを刺されたりしつつ、最後には幸せの相互増進。ああ。願いがちょっぴりだけかなうことで、明日も広がるのです。でも来週のナイスバディ話はどうか。むしろ、つるぺたないすばでぃ。そしてエンディングテロップのクロミさまに悩殺。
2005年9月5日(月) 気がついた
 クロミは柊のことが好きだから、クルミの髪型もヒイラギっぽくなってたのか。
2005年9月6日(火) 萌え
 いずみのさんの「萌えの入り口論」を遅ればせながら読む。ファンタジー論における作品世界と現実世界の関係にも重なる議論か。基本的に、それも含む関係性というものの中で「萌え」をとらえようとする試み。

>理想的な萌えキャラとは「自己投影」と「他者性」が適度にブレンドされた存在なのだと言えよう。

 この言葉からはすぐさま、猿元さんの「みつからないんだよ」「『えいえん』に対する態度」を想起する。「萌え」についての理論的な検討は、この両氏のおかげだいたい見通しがついているのかも。
2005年9月7日(水) 告白
 クロミがバクにまたがる場面を見るたびに、クルミがバクを股間にすりすりする姿を想像してしまう心の汚れた人間です。
2005年9月8日(木) 妹の遠近
 猿元さんより、「『シスター・プリンセス〜リピュア〜』における人間関係 」。「社会ネットワーク分析の手法」に基づいて、リピュアAパートにおける妹相互関係のそれぞれの親密度(と言ってよければ)を測定したものです。これ、前にぼくがアニプリの補論用にと試みて、方法論も不明確なまま挫折した調査なんですよね。なるほど、こうやればこうなるのかー。こういう基本的な統計調査というのは非常に大切です。
 リピュアでの結果は、作品構成の影響で、指摘されてる通り「バイアス」がかかってますね。それでもだいたい納得のいく風味。ぼくの考察では、年長者:咲耶・鞠絵・千影・春歌、年中者:可憐・白雪・鈴凛・四葉、年少者:衛・花穂・亞里亞・雛子と区分されていましたが、ほぼそのような切り分けと重なる数値です。年中者の2グループ分離具合も。ただし、「場面」をどういうふうに切り分けるか、そして「一緒にいる」という判断をどうやって下すかが問題であり、その結果として四葉と兄が一緒にいる場面というものがえらく少なくなってしまってます。ぼくが挫折したのも、そのへんの判断が難しすぎたから(アニプリでは、場面での人物の出入りがかなり激しく、また人数が多いために「対話的」なのか「たんに一緒の場所にいるだけ」なのかなど、質的判断が問われると考えた)。これ、社会学などの世界でも実際にどうやってるんだろ。
2005年9月9日(金) 我々自身の中の
 速水螺旋人さんの日記(9/2-3)より。

>おそらく意外に近い将来、我々の身近でポグロムが起こるのではないかという不安。

>ウェブで不特定多数に向けて嫌韓ネタ、憎悪や嘲笑を煽るようなネタは自重しよう!
>ネタにしたいときは、なぜそれを書くのか一旦振り替えれ!
>君の書き込みでレイシストが増える可能性を考えろ!

 さらにそこからリンクで「他者化したがる人々」も。読みながら毎度の反省。

 嫌韓中朝米のみならず、「ネット右翼」とか「ネット左翼」とか、ネット上でもいろいろ立場があったりレッテル貼りがなされたりするわけですが。とりあえず、全体主義というものはそういう個々の立場を越えて出現する、ということを、歴史の中で再確認する必要があると思う。官僚主義、虚無感、排他性、形式論理、そしてうつろな言葉が鳴り響きあっているうちに、ふとその無責任の悪夢は開けているものです。

 それと関係あるのかないのか。ある議員が以前、国際貿易センターでのテロに関連して「『ざまーみろっ』って思っている国だってきっとある」と記して騒がれましたが、実際にかつてアメリカの介入をうけたアフリカ国民の一人が、「自業自得」に近いニュアンスのことをラジオで発言してるんですよね。「国」ではなくて一個の人間の声ですが、そういう声を一方で無視しつつ、他方でさも議員本人がアメリカを侮蔑したかのように印象操作していくネット言説というものには、自分もそれに参加しつつ疑問を抱きます(その政治家の発言行為の是非は別問題として)。朝日新聞がどうだの言いながら、自分達がやってることはもっと劣悪な言葉いじり。
 情報化社会では、根拠のないプロパガンダもそのソースを吟味されてたちまち失効するかもしれません。しかし、例えば「2日だけ効き目があればいい」という限定づきでいいのなら、ネット社会は非常に有効なプロパガンダ環境が整ったと言えるのではないでしょうか。要はその限られた時間内に、何らかの不可逆な目的(例えば人命に関わるような)が達成されればいいわけですから。しかもそれは、情報流通(リンク)というニュートラルな技術によって、あるいは善意によって、遂行されます。
2005年9月10日(土) がっちゃま
 「倒すぞキャラクター 世界の小悪魔」

 とか歌ってました。
2005年9月11日(日) 夢だけど、胸じゃない
 マジも響鬼も見逃し。ううう。
 プリキュア、ポルンが「妹のお兄ちゃんもいいにゃあ」と目覚める話(誤解)。この幼い兄妹、帰宅後に一緒にお風呂に入ってるんでしょうか。そんなことばかり気になる年頃(三十代)。あと、なぎさがルルンの面倒を見てあげると宣言したとたんに、自分も協力することが前提と言わんばかりに介入するほのかが素晴らしい。
 マイメロディ、貧乳話。
 いや、これは本当に。
 体型に劣等感を抱いている同級生が、魔法の力で他人のボディパーツを奪いまくり。ドラえもんにこんな話があったような……。しかしここはさすが少女向けアニメ、目指す部位は尻に胸に髪。だが、そんなプレイボーイ表紙的体型にご満悦な少女の過ちを優しくとがめたのは、同級生の少年の告白だった。
「俺は、お前の元の貧相な体型の方がいいんだ」
 いや、これは嘘ですが。でも、その少女のことをいつも見ていたから、たとえ姿が変わっても分かる! そのままの君でいい! 背中ごしに告白キメ。貧乳が結ぶ恋もあるよね。そんな感じで、少女に胸よりも夢を与える素晴らしいお話でした。もちろん男の子にも夢を与えたよ。貧乳好きは少女を救うんだよ。いや、それは。
 とりあえず、歌ちゃんも牛乳を飲むのはほどほどに。貧乳のままならイイナ。
2005年9月12日(月) 夢見るぞ
 Rosen Maiden traeumend 夢見る薔薇乙女。ジュンくんはむしろtraumatischかtreulichか。真紅はtraurig。闘うことの悲しみ。
2005年9月13日(火) 注文百出
 馬鹿話。

 『ここではきものをぬいでください』

美 森「こういう壁書きを読んで、着物を脱ぐか履き物を脱ぐかっていう話があるよね。」
らむだ「あー、読点の付け方で文意が変わるという。」
美 森「どうせお前のことだから、靴下がどうの言うんだろ。」
らむだ「いや、言いませんて。でも、靴下は着物なのか履き物なのか。難問ですな。」
美 森「だろ。」
らむだ「まあ素直に読めば、着物を脱ぐかパンツを脱ぐか、という問題なわけですが。」
美 森「いや、パンツは関係ないだろ。」
らむだ「でも『履き物』か『穿き物』かだって判別不可能じゃん。」
美 森「つか、パンツ脱げって指示されるかもしれない状況ってどんなだ。」
らむだ「レントゲンとか。直腸検査とか。」
美 森「それ、専用の白衣があるから。」
らむだ「ここで下着だけの姿になるのと、パンツだけ脱いでスカートの前後を抑えてるのと、
    どっちがいい?」
美 森「書いとけ。」

 『ここではきものをくんくんしてください』というのもどうか。
2005年9月14日(水) 一人のアリス
 馬鹿話。

らむだ「『ここでは赤いランドセルだけを背負ってください』というのもどうか。」
美 森「いや、その話題はもう終わったから。」
らむだ「『黒くて、赤くて、うにゅーっ!』とか。」
美 森「それは全然分からない。つか、あの絵でジュンはよく分かったなあ。」
らむだ「あそこで姉に教えて買ってこさせずに、自分で買いに行っちゃうとこがジュンだよね。」
美 森「ジュンもお前と同じか。」
らむだ「それはジュンに失礼だぞ。」
美 森「そうだな。」
らむだ「……否定してー。」
美 森「まあジュンにはまだ未来があるからな。」
らむだ「あうー。」
美 森「しかし、アニメ版でののりは一体何を買ってきたのだろう。」
らむだ「原作だとその場で磯辺焼きとか出してるけどね。」
美 森「まあ、全然違うものということは確実なんだろうが。」
らむだ「たぶん、これだろ。」
美 森「うは(笑)。それのどこが『うにゅー』なんだか言ってみろ!」
らむだ「ほら、この黒いとこって根源からの放射だから。力がうにゅーって。」
美 森「書いとけ。」

 黄色くて赤くてウラー。
2005年9月15日(木) シスプリメの現状について妄想
 遅まきながら。逢ちゃんは、逢ちゃんのままでいいと思います。ぼくもよくお話してもらえました、今までありがとう。

 で、御児さんの作品日記ALINEさんの日記。クリエイターの方々からの声は、やはりシスプリメの現状に対して厳しいわけで。ほんと、七夕企画の掲載だけでも何とかお願いしますよ。もちろんクリエイター諸氏がまず自らの創作活動に対して厳しい態度を維持されてる以上、企画者側もファン側もそれに負けない必要があるのでした。

 ただ、現状でさらに一つ気になることがあります。
 あずみゆきさん(逢ちゃんクリエイター)の日記にて、今回のシスプリメ離脱に関する記述がここここにあります。このうち前者の記述では、あずみさんの個人的経験からではありますが、クリエイター側と企画者側の関わり合い方について、「ビジネスライク」という言葉が登場しています。そして、後者の記述では、こんな一節が目に飛び込んできます。

>企画の「シスプリメ」では、それは一切あってはならない。
>「自分をどれだけ殺せるか」の追求だと、ある人は言った。
>つまり、「プリメ」は同人ではない。

 文中の「それ」とは、創作そのものを自ら楽しむこと、と受け止めてよさそうです。すると、これまであずみさんが企画者側と交渉してきた中で、こういう(&対話の欠落という)結論に到達した、ということですよね。 ですが、これを読んでぼくはただちに疑問を抱きました。そのような規制の強い創作を追求する「アーキネオシスター」と、より自由で原作からの距離もとりやすい「ネオシスター」との区別が、企画者側に今まであったはずではないのか、と。
 いや、これがぼくの思いこみだったのなら話は別ですけど、一応これが2年前からずっとぼくの理解のありかたでしたので(その前後の日に述べていることも、ぼくは今なおそのまま主張できます)。ところが、これに関連してもう一つ気になるのが、シスプリメ公式ページから「アーキネオシスター」のガイドラインが消滅している、という話(ALINEさんより)。もしかして、企画者側では2つのネオシス形態の区別が消えました? つか、これって消えたのは「アーキネオシスター」の方じゃなくて、「ネオシスター」なのではないかしら。つまり両方の区別をとっぱらって、「ネオシスター」を全部「アーキネオシスター」の制限枠内に編入してしまった、という。全ネオシスがアーキ準拠なのだとすれば、もはやわざわざ「アーキ」と付す必要はない、と。
 もしもこの推測が正しいとすると、ぼくたちみんな、ちょっと頭を冷やした方がいいんじゃないかしら。そうしないと、消えていく妹たちの数はこれからぐんと増えますよ。なんとなく想像するに、現状というのは、まず企画者側については

・シスプリファンダムの緩やかな衰退&シスプリメ関係者の多忙による創作・企画活動の停滞
・「これじゃいかん!」と反省、焦燥
・状況の一発逆転をもくろみ、従来以上に完成度の高い水準を目指そうとする
・純粋な「シスプリらしさ」のイデオロギー的絶対化  (←いまこのへん)
・先鋭化・セクト化にともなう周辺者の排除

というような、理想追求集団が陥るパターンをきっちり踏んでいやしませんか。七夕企画ページがなかなか公開されないのも、あるいは完璧なページ体裁を期そうという気持ちが裏目に出てたりして。そして、何が真の「シスプリらしさ」なのかについて、すごく徹底した議論が影で行われていたりして。まったくの杞憂なのであればごめんなさい。
 次にクリエイター側については、一定の制限下でこそ独自性を発揮する、ということの再確認が必要なのかも。ただし、その「制限」の範囲が曖昧ないし流動的なのでしんどい、ということはあるのだと想像します。

 このへん7月にも書いたのですが、アーキとそれ以外の区別は残しておいた方がよさげに思います。そして今となっては、どの妹がアーキなのかを決めてしまうのも手です。企画者側が何を求めずとも、すでにクリエイターがきっちりアーキ準拠で創作してるとこは幾つかありますし。それから、「シスプリらしさ」についての判断は、ファンの側にもう少し信頼を置いていただいても構わないんじゃないかと思います。『Sisprist』さんのとこで開かれたコンペでも、原作の「シスプリらしさ」に迫る作品がちゃんと評価されてるわけですから、ファンの目はある程度確かです。ただしその一方、シスプリメの場合は独自性も評価されるべきですから、原作的「シスプリらしさ」とは別に、「オリジナリティ」という評価尺度を用意しておき、その両方について投票するといいかもしれません。アーキ以外の一般ネオシス作品もシスプリメコンペから排除されるべきではないはずです。

 なんとなく、シスプリファンダムは守りに入ってる感じがします。「シスプリらしさ」をこのまま保持し続けよう、という。でもシスプリメは最初、オリジナルシスター創作活動を通じて、シスプリのおもしろさ・素晴らしさを「シスプリらしさ」とともに新たに発見して作品愛を深めていくという、アグレッシブな試みだったはずです。これを忘れずに攻めましょう。責められるのは可憐からだけでいいです(違)。で、その攻め方というのは、ALINEさんが提起されてたような原作の「シスプリらしさ」への接近に役立つフォーマットなどの提供に加えて、創作の自由度をある程度確保する、という(一見矛盾した)方向もあってしかるべきだと思うのです。

 ここまで書いてkanaさんの日記も拝見。
2005年9月16日(金) 間に合うか島
 というわけで、「サイト管理人的ネギま!同人企画」に参加させていただくことになりました。しかし凄いですねこの参加者リスト……。それでもぼくが気後れしないのは、『萌え文集』での経験のおかげ。
 この時間のない状況&コンテンツ更新もままならぬ環境下で、はたしてぼくの原稿は間に合うのでしょうか。担当原稿は、『スチューデント・プリンセス Re Pure』です(嘘)。ええと、前に掲載したネギま考察3本を要約しつつ、最近考えている問題について若干触れてみようかと思っています。
2005年9月17日(土) 『シスター・プリンセス』二次創作の可能性・前編
 御児さんより。「“あの”ゆきさんが、“あの”逢ちゃんがシスプリメに相応しくないと企画室に判断された事に驚いた」という言葉には、ぼくも同感です。とくに逢ちゃんは、固有の空気を纏わせていたネオシスでした。その空気が、「シスプリらしさ」と相反するのか、それともこれを拡大深化させうるものなのか、という問題。

 ところで、今回のことを通じて、シスプリメも含むシスプリ二次創作の現状と今後について、あらためてじっくり考える機会が得られたように思います。ファンダムがいまこのときも変化し続けている以上、本来は具体的な方策こそが真っ先に求められるのでしょうが、ただ、ここでそれをいきなり提起しても、結局その方策の有効性は、それが依拠するぼくの二次創作観の中身次第。なので、今後の方向性を考える手がかりとして、ここではまず、シスプリ二次創作の現状についてのぼくの考えを述べておくことが必要だと思われます。
 というわけで、これから2回に分けて日記に掲載するのは、サークル「Purple Sight」さんの同人誌『魔弾の射手』に収録されたぼくのコラム「『シスター・プリンセス』二次創作の可能性」です。転載するにあたり、収録テキストの内容を若干修正してあります。なお、この転載については、Zoroさんからご快諾いただきました。本当にありがとうございます。


『シスター・プリンセス』二次創作の可能性・前編

    (くるぶしあんよ・著 初出同人誌『魔弾の射手』

 日頃お世話になっているZoroさんに、『シスター・プリンセス』(以下シスプリ)の二次創作についてコラムを書く機会をいただいた。二次創作の現状と可能性、そして本同人誌掲載作品『魔弾の射手』について考察することで、感謝の念を表したい。
 なお、文中で事例として紹介・リンクする作品の作者・編者名・サークル名は、失礼ながら敬称略とさせていただく。

1.二次創作の素材としてのシスプリ

 シスプリの公式展開が終了してだいぶ経つが、ファンによる二次創作活動はSSやイラスト、ゲームなど非常に多岐にわたってなお活発である。この原因は様々に考えられるが、まず重要なのは、シスプリの原作そのものがもつ素材的・可塑的な性質だろう。
 雑誌の読者参加企画として生まれたシスプリは、読者の想像力を喚起するために、兄(=読者)の姿や兄妹関係を厳密には描写せず、妹達の設定も連載を通じて少しずつ提示していった。その結果、テキスト版(ここでは、天広直人・公野櫻子による狭義の原作のこと)では、後のキャラクターコレクション(以下キャラコレ)などを含めても、妹視点からの情景や妹の内面だけが読者に示されるにとどまり、具体的な世界観や明確な物語は欠落したままに終わった。つまりファンとしては、この欠落部分を「補完したい」という意欲を、その作品愛や創作的関心の度合いに応じてそそられることになるわけだ。

 そしてこの意欲は、公式作品そのものが二次創作的なメディアミックス展開を行っていることで、いっそう強くかきたてられる。ゲーム版では兄妹が初めて一対十二の関係となり、兄(=プレイヤー)はその中から一人の妹を選んで実妹・義妹エンドを迎えることになった。アニメ版第一作(以下アニプリ)では兄妹の共同生活という独自設定のもとで兄妹の成長が描かれた。これらの公式作品は、テキスト版にない新設定を取り込むことで、シスプリに何らかの明らかな物語を作り出そうとする試みだった(これらの相互関係についてはリピュア考察1参照)。
 そういったゲーム版やアニメ版の新規さは、テキスト版ファンからすれば「逸脱」に近く、元の素材を用いて創造した亜種にすぎなかったかもしれない。しかし同時にそれは、ゲーム版やアニメ版を受けいれられた者からすれば、原作という素材を活かして独自解釈のもとで新たなシスプリ像を組み立てるサンプルを、公式作品が示してくれたということにほかならなかったのである。実際に論者もアニプリからファンになったくちだが、アニプリやリピュアに触発されていくつかのシスプリアニパロを設定するに至っている。自由度の高い素材としてのシスプリ、これが活発な二次創作を支える根本要因の一つなのである。


2.シスプリ二次創作の要素分類

 さて二次創作とは主に、広義の原作にはなかった(あるいは不明瞭だった)要素を導入(あるいは明確化)して、原作解釈の幅を広げたり、原作に新たな姿を与えようとしたりするものである。シスプリの場合この要素は、兄の具体像・妹相互関係などの人物関連、成長・別離などの時間関連、そして世界設定関連にひとまず分類できる。

 人物関連では、まずテキスト版で曖昧なままにおかれた兄の具体化をはかるものがある。ゲーム版やアニメ版では、それぞれの独自の兄像が賛否両論を呼んだように、ファン=兄の共感を得るのはなかなか難しい。だが、もしも独自の兄像を説得的に提示できれば、シスプリ二次創作は兄の多様性(つまり兄妹関係の多様性)に向けて新たに開かれていくことになるだろう。
 次に、原作では描かれなかった妹同士の関係を取り扱うものがある。カップリングなどはすでに盛んだが(リンク集『妹×妹同盟』)、そこでも稀なペア(衛−亞里亞など)は存在する(2年前のデータ)し、さらに二人以上の妹を組み合わせる二次創作となると、その可能性は限りない。
 また、一対一と一対十二の間にも大きな空隙がある。妹達を複数の姉妹グループに分け、それぞれに兄がいるという兄妹関係も想定しうるのだ。妹達をどのように組ませ、どんな兄達を置くか、これも無限の可能性を持つが、そのさい「妹」が「姉」にもなることへの意識は常に必要になる(例:デンセン文・Mヲ『Familiar』における兄−千影−亞里亞の関係)。

 時間関連では、まず肯定的な時間経過と否定的な時間経過で様相が異なる。
 肯定的なものでは、兄妹の絆を深めることによって兄妹の成長しゆくさまが描かれる。原作で残されていた各人の課題(鞠絵の病気など)が昇華される場合もある。ただし、ゲーム版のように兄妹が恋愛関係にまで至る場合、その後を描く二次創作はもはやシスプリの枠から外れる。
 否定的なものでは、妹の兄への想いの挫折や絆の断絶などが描かれる。リピュアBパート咲耶話がほぼこのような原作(キャラコレ)解釈に基づいており、ファンに衝撃を与えたのは未だ記憶に生々しい。
 いずれにしても時間経過は、兄妹個々人とその関係を変化させる。その変化に説得力を持たせながら新たな方向性を与えられれば、二次創作は兄妹愛の行方のみならず多彩な成長のあり方を提示できるはずである(例:EXTRALOVERS『ff-LOVE』における鈴凛・メカ鈴凛、m-hiro『LOVE ARIA』における亞里亞)。
 なお、時間を過去に遡及して描く二次創作も、例えば兄妹の幼少期を描くものや親族関係を検討するものなど、様々に可能である。

 世界設定関連は、外的世界としては、原作と異なる舞台で兄妹を行動させ、独自の物語を構築しようとするもので、パロディやクロスオーバー作品が多い。
 戦場やファンタジー界などの非日常世界は、世界観さえ確固としていれば非常に豊かな可能性を持つが、シスプリの世界では薄い「死」の扱いを考えておく必要がある(例:Zoro『機動戦士ガンダム 妹たちの戦争』おさかんコンビ『シスター・プリンセスRPG』におけるそのドラマ的・ゲーム的位置づけ)。
 また、原作での千影の能力のように、一見して日常世界のままでも、ある異質な要素や法則を世界設定に取り入れることで、大きな変化をもたらすこともできる(ONA「生シス」[18歳未満閲覧禁止]も、非少女趣味的な生活臭という点でこれに属する)。
 この異質な要素のうち、最も破壊力が大きいのは、先述の「死」のようにシスプリから周到に排除されている内的世界(性格)要素、つまり暴力性や憎悪・性欲などの導入である。これらは前述の人物関連とも重なるが、原作の童話的な世界から一変してエロスやタナトスに満ちたシスプリ世界が出現するとき、ファンはその二次創作を通じて、反シスプリすれすれのところで、原作には弱かった複雑な人間性というものを見いだすだろう(例:つくね文・編妻恋坂乳業『Kiss You』における恋愛と連続的な性愛、まさきみどり『システリック深海』における暴力と狂気)。もちろんこの試みは、兄妹の人格的核を喪失すればシスプリの名を借りた欲望消費ものに堕するという危険と隣り合わせなのだが、例示した作品はこれを巧みに回避しているのである。

 (後編「3.表現形式とスタイル」「4.作品への適用と解釈」に続く)
2005年9月18日(日) 『シスター・プリンセス』二次創作の可能性・後編
 シスプリメのクリエイターであり企画者のお一人でもある貴也さん(9/17)から、今回の問題についてのお話。このタイミングでお考えをいただけて、ほんとに助かりました(礼)。
 「ネオシスター『逢』に関して企画室はシスプリメに相応しくない、とは判断していない」とのことですが、そうするとぼくが先日記した不安は勘違いということでよろしいのでしょうか。そうだとすれば(そのことについては)とても安心しますし、また自分の軽率な行動を深く反省するところです。しかし、そこにクリエイター側と企画者側の間でのすれ違いが存在していることは、なおもぼくの思いこみではないように思われます。ので、これからの議論がそのすれ違いを埋めていく方向で進むように、ぼくも注意する所存です。
 あと、「ネオシスターを作り育てる」「個々のキャラクター形成」といったお言葉を拝見するにつけ、その過程に読者も参加させてくださいっ……と願わずにはいられません。具体的には例えば、七夕作品に感想書きたいんです。一人のファンはそのネオシスをこう受け止めました、というのを示すために。普段からやっておけばいい、という話もありますけれど。

 この問題に関連して、純粋クリエイター側からのご意見。
 あずみさん。「『誰かやってくれ』っていう意思表示が普通にまかり通ってる」という指摘にあらためて胸をつかれるわけで。
 星さん。「このまま自給自活状態が続くのなら、オリジナル色を強めるしか」という言葉でも、あずみさんとは違う観点からオリジナリティ(ここでは非シスプリ性と同義)への不可避な展開を示唆。ただ、「コピーしかシスプリメは求めていないならば」というのは、貴也さんも言われているように、杞憂なのだと思いたいです。
 御児さん(9/17)ご提案のML、なるほど。今回のような意見交換がいい意味で活性化し何らかの結果を残すには、これは使い方次第でかなり有効そう。もちろん、業務連絡だけでも読者としては十分ですし。

 この問題とは無関係ですが、『R2.428』さんシスプリサブキャラデータベース。これ、二次創作のさいに重宝しますねえ。

 というわけで、昨日の続きです。前編と同様、『魔弾の射手』収録原稿に若干加筆修正してあります。


『シスター・プリンセス』二次創作の可能性・後編

3.表現形式とスタイル

 2.で見てきたような内容上の変更と不可分のものとして、シスプリの場合、表現形式やスタイル(文体や語り口、絵とテキストの相互性、表現媒体など)がきわめて重要な意味を持つ。公式作品を振り返れば、

  テキスト版の少女小説的繊細さ/ゲーム版のギャルゲー的恋愛感/アニプリのコメディタッチ

といった特色は、それぞれの形式・スタイルにおいては、

  妹視点による妹の内面叙述/兄視点による情動と行為の選択/客観視点による物語鑑賞

というかたちで担保されていた。このように、シスプリ公式作品は、描く内容とその特色が、形式・スタイルと対応している。そして、ゲーム版内での妹視点への組み替えは実現したのに対して、ゲーム版のノベライズはキャラコレ形式に忠実で兄視点を排除したままである(リピュア考察1参照)。全体としてみると、テキスト版での妹一人称スタイルは非常に確固としている一方で、兄一人称スタイルなどはゲーム版テキストやアニプリでの航の独白以外に存在していないのだ。

 ここに、シスプリの二次創作(とくにテキストもの)が、その一つの有力な方向性として、表現形式・スタイルにこだわるべき理由がある。
 例えばまず、厳格な枠組みをもつテキスト版に対しては、例えばキャラコレの形式・スタイルにできるだけ準拠して、ありうべき兄妹の姿を描こうとする二次創作が既に存在する(例:よつばねぎ『Piece of Heart』における四葉、本多由亨「四薔薇会」『シスター・プリンセス 〜あんちゃん大好き〜』における眞深)。そこに多少の時間の流れなどが描かれていたとしても(あるいはそれだからこそ)、このような二次創作はほとんど原作の補完とさえ呼べるだろう。そしてそこには、自由形式によるSSよりも、確かにシスプリらしい雰囲気が存在する。とくにテキスト版にみられる叙情性は、その「少女が見た世界の姿」(文庫本『シスター・プリンセス Re Pure』解説より)を描くための表現形式に支えられるところが大きいからだ。あえて形式上の制限を継承することで、シスプリ二次創作は原作に限りなく接近していくことになる。
 この接近方法の極北は、シスプリ原作の要素・形式を抽出し、それに基づいてオリジナル・シスターを創造するもの(例:『シスター・プリンセス・メーカー』)である。この企画を通じて、原作と異なる妹達とその兄達に向けて、シスプリは無限に開かれたのだ。もちろんそのさい、何が「シスプリらしさ」なのかについて、これまた限りない検討が必要になるとしても。
 もちろん、このことは、シスプリ二次創作が必ず原作に忠実な表現形式・スタイルをとらねばならない、ということを意味するわけではない。しかし、二次創作の表現形式・スタイルは、当然のことながらその作者が表現したい内容に応じて自覚的に選択されるべきだろう。とくに漫画という形式は、非常に多様な表現が可能なものだが、実際に公式作品でも、漫画版はリピュアAパートを題材としながら、元のアニメよりも叙情的な雰囲気を、漫画という形式ならではのタッチで再構成している(漫画版の概要についてはリピュア考察補論2参照)。漫画による二次創作も同様の可能性を持っていることになるわけだが、これに限らず、テキストでもまた独自の形式・スタイルを追究し、そこから原作を照射してより深い理解を得ることも可能だと考えられる。(このような意味では、じつは論者のアニメ版シスプリ考察も、「考察」というあまりシスプリ的でない形式とくどいスタイルを導入することで、新たな角度から元の作品に接近しようとする特殊な二次創作だった、と言えるのかもしれない。)

 ところで、先ほど問題の焦点として指摘した「シスプリらしさ」の検討については、すでに各所で議論されてきており、また論者自身も本稿で若干指摘したほか、アニメ版とキャラコレを対象に統計的調査設定分析挿絵考察など長らく試みてきた。その暫定的な成果は、『シスター・プリンセス・メーカー』企画参加作品考察を通じて、さらに具体化されてもいる。しかし、このような考察スタイルでの論者の追究は、現状ではあくまで補助的なものにとどまっていると言うべきだろう。考察が要素還元的な手法をとっているために、実際の作品に用いられるスタイル(とくに文体や描写技法など)そのものの検討については、ほとんど寄与するところがないからである。
 やはりファンダムの主流としては、二次創作のコンペなどを通じてファンが具体的な作品鑑賞を積み重ねながら、そこに同時に「シスプリらしさ」についての共通理解を作っていくことが、今後さらに必要なのではなかろうか。このコンペについては、いくつものシスプリファン・二次創作リンクサイト(『Sisprist』『Sister Princess Paradise』『Sister Princess SS Links』など)で既に実施されてきてはいるものの、それぞれのリンクサイトでの「棲み分け」があるため、シスプリ二次創作界としての全体的な催しには至っていない。優れた二次創作作品を広く知ってもらえる方法を、リンクサイト開設者以外の非創作的なファンも、積極的に模索していくべきだろう。それが作品世界の拡大深化につながるとともに、ファンによる反応が二次創作者の創作意欲を喚起するかもしれないからだ(逆の場合もありうるが)。
 あるいは、原作のスタイルを考察していくのであれば、個別作品の検討で得られる成果をいっそう拡張するために、作品間の比較を行うことが有効に思われる。例えば、ゲーム版でのギャルゲー的な兄視点叙述の一部は、テキスト版『GAME STORIES』で叙情的な妹視点叙述に再構成されている。この両者の文体や表現方法などと比較検討することで、とりわけテキスト版スタイルの特色はより明確に把握できるのではないだろうか。領域横断的な比較は、このような意味で今後の重要課題の一つとなるように思われる。(この一方、同じキャラコレ同士を比較すれば、重点的に明らかになるのはそれぞれの妹の個性に関わるスタイルになるだろうし、この「個性とスタイルの対応」把握もまた重要である。)


4.作品への適用と解釈

 以上を踏まえて、Zoro氏による本同人誌作品『魔弾の射手』を振り返るとき、本稿で述べたシスプリ二次創作としての可能性が幾つか具体化され、その綜合によって一つの新たなシスプリ像を提起していることが分かる。本稿を結ぶにあたって、本稿の観点を適用しつつ、この優れた作品を解説してみよう。
 なお、ここからは『魔弾の射手』のネタバレが含まれる。それゆえ、この作品をぜひ鑑賞されてから、以下の文章に進んでいただきたい。また、製本された美麗な挿絵入り完全版はこちらから簡単に注文できる。

 まず人物関連では、千影−春歌という原作では稀な妹ペアを取り上げ、兄妹関係の拡充・深化をはかっている。時間関連では、二人の血縁を示唆するかたちで過去に遡及されつつ、新たな絆を構築している。世界設定関連では、この二人の妹相互愛が性的なものを孕みながら、ゴシックホラー的な設定とやや殺伐とした展開の中で描かれるという、まさに「血」の艶やかさに彩られている(つちのこ氏による挿絵が、その妖しさをさらに明確化している)。
 これらの一部異質な新規要素をシスプリにうまく馴染ませているのは、客観視点(ただし、当初は春歌に寄り添う)による抑制的な文体である。Zoro氏のシリーズ二次創作『東京ハイウェイBATTLE』ではアクションとサスペンスの緊張感を描写し得ていたこの文体は、原作テキスト版と異なるスタイルをとることで内容の異質さへの反発を和らげつつ、本作品ではとくにホラーとしての物語構造を支えている。最初は春歌寄りの視点で物語に歩み入る読者は、最後の場面で視点を春歌側から追い出され、それまで異質な他者であり続けた千影の側へと、強制的に移動させられる。しかも千影にも完全には重なることのできないというこの視点の移動は、物語を第三者的に俯瞰するためではなく、読者が抱かされてきた「確からしさ」をこの結末部で動揺させて不安な眩暈をもたらすためのものなのだ。

 そんな一見して非シスプリ的な要素が織りなす本作品の物語を、シスプリ原作や、タイトルの由来であるカール・マリア・フォン・ヴェーバーの歌劇と比較すると、さらに新たな意味が、「シスプリらしさ」への洞察を深めるかたちで、現れる。
 『魔弾の射手』というタイトルの言葉は、キャラクターコレクションの「千の傷あと」(第9巻第5話)と「鬼退治ですわっ!」(第10巻第2話)を思い出させるものであり、ここに千影と春歌が登場するのもうなづける。それぞれの話で「射手」はキューピッド・春歌本人と違えども、両者が射止めようとするのは同じく兄である。そして、ウェーバーの歌劇では悪魔と取引していた男が自らの卑劣な計画の犠牲になる一方、本作品では千影と取引していた悪魔が犠牲となる。神の公正さの前に幸せな婚礼(新秩序形成)という結末を迎える歌劇に対して、本作品では影と春歌の血縁が明確化して妹間の新たな絆が生まれるのである。
 本作品が示すこのような翻案は、歌劇の構造を部分的に踏襲しながら、神の恩寵による救済が欠落していることで、ホラー的な余韻の悪さという特色をいっそう強めているかに思える。しかし、それはまた、シスプリ固有の主題をより深く理解させるものでもある。シスプリの妹において恩寵とは兄の存在であり、救済とは兄愛の成就にほかならないではないか。本作品に登場しない兄は、まさに隠れた神として、千影と春歌の妹同士の絆をあらかじめ担保し、千影に春歌を救わせている。そして、最後に立ち現れる千影と春歌の隠微な結びつきは、やがて両者に、その想いの密やかな成就を約束しているのかもしれない……それがいかなる兄愛なのか、いやそもそも兄への愛なのかは別にして。
 シスプリ原作で千影を通じて読者=兄が抱いた不安は、こうして本作品においてさらに向こう側へと押し進められていく。千影よりも春歌の方がなお過激に思えるだけに、その不安と眩暈は恐怖にさえ転じていっそう消しがたい。そしてそれは同時に、読者=兄に被虐的な期待をも、あるいはこの二人の妹だけがもつ絆に踏み入れない焦燥感をも、薄暗い喜びとして与えてくれるのである。妹に救済を与えながら自らは呪縛された宙吊りの神である、兄。この兄規定と兄妹愛の問題性を露呈させた本作品の後に続く物語の中で、彼にいかなる救いが与えられるのか、それはこの二人の妹の意思ひとつにかかっている。

 ……いや、本当にそうだろうか。古色蒼然たる洋館の暗がりで千影と春歌が血の輝きに身を震わせるとき、日の光のもとで漆黒の闇を静かにたぎらせる者が兄との偶然の出会いを企んではいないだろうか。純真な心の煌めきはその手に握るアイスピックの切っ先に宿り、想いの成就を妨げる一切を排しゆく。そしてその影は、本作品の千影と春歌に心奪われた読者=兄のもとに訪れるだろう……例えばほら、これを読んでいる君の部屋に。





「お兄ちゃん。」


                     (終)
2005年9月19日(月) 読む観点
 『カトゆー家断絶』さん(9/18-19)、Su-37さん9/18)、ONAさん9/18)、『かーずSP』さん9/19)、シスプリ二次創作コラム紹介ありがとうございました。コラムについては後日、一括コンテンツとして再掲載する予定です。
 そして、Zoroさんにはこれを書くきっかけを与えていただき、本当に感謝しています。9/18日記にも記されてる通り、『魔弾の射手』はすでに続編が公開されてますので、こちらも皆様ぜひ。

 ぼくの今回の原稿は、半年近く前の状況について、しかもぼくが知る範囲での二次創作同人誌を参考にさせていただきながら、書いたものです。ので、内容については批判・検討されるべき点が多々あるかと思いますが、とりあえずの大雑把なたたき台として読んでいただければ幸いです。
 これを書いた当時は、例えば天野さんの日記のこことかここを思い出しながら、二次創作作品を批評するさいの基盤はどうやって構築できるか、ということを少し考えていました。批評、といってももちろん専門的なそれではなく。想定していたのは、普通の感想・印象批評に加えて、その二次創作作品がいかなる新規な要素を導入し、それによって原作理解をどのように深めたかを、捉えるための視点です。二次創作の作者にとって厳しい(だがそれゆえに積極的な意義をもつ)作品批判を読者が行うにしても、まずそのような視点を読者が持っていなければ、それは批判と言いながら、ただの個人的な趣味に基づいた「好き・嫌い」な感想と何ら変わるところがなくなりかねません。作者がその二次創作に対して誠実であるのなら、これに意見する読者も、批判基準についての誠実な自己批判が必要だろう、というわけです。
 つか、そこまで言わずとも、ぼく自身が「好き・嫌い」にある程度左右されずに作品受容したいので、客観風味の尺度を作っておきたい、ということではありますが。例えば、『システリック深海』というあの大作にぼくが日記でほとんど言及しないのは、その暴力性という要素の導入に対するぼくの抵抗感によるものです。しかし、それはあくまで個人的趣味による評価であり、ぼく自身が二次創作を読者として楽しむぶんにはそれだけでかまいませんが、シスプリ二次創作の可能性などということを考える場合には、どうしても自分の感情を離れて解釈することが必要になります。そこで、先のコラムでいう「内的世界(性格)要素」の導入という理解の仕方で、その特色の一部を受容することになるわけです。(ただし、シスプリ世界への暴力性の導入はもっと露骨でないやり方で、例えば「少女の残酷さ」というかたちで試みられてもいいとは思います。)

 というわけで、ALINEさんのシスプリメ七夕企画参加作品への感想を書きます。この作品、もう教科書的といってもいいくらいに「シスプリらしさ」が充溢しています。(絆ちゃんについてはこちら。)
 まずテキストについて。「夕焼け」という情景への情動が、七夕の一般的な理解に基づく「無事に会えそう」という予感を生み、そこから自分自身の兄妹関係へ目を移し、兄との心のつながりを期待するその想いで結ばれます。この「客観的情景から主観的兄愛へ」という流れはまさに自然で典型的。で、それぞれの段階での絆の心境が、4つの意味の異なる「……」で暗示されていることにご注意あれ。「……」の使い方ってかなり重要です。そして最後にのみつけられた、締めのハートマークが効果的。
 次に絵について。テキストにある絆の「願い事」(当然、シスプリ妹にとっての最大の願い)が、ここに縦書きで記されてます。テキストで独白させず、ここで短冊の文字を読み返すかのようにして示すという手法は、彼女の性格を示すに適切。描かれる立ち姿は斜め上からの俯瞰で、一見して短冊を笹に結びつけようとしている最中です。が、絆の視線は短冊や笹を見つめているようでもありながら、テキストにある通り夕焼け空を見上げているようでもあります。そしてこのような、前(つまり読者の方)を見ず、また絵の中に描かれた特定の対象だけを見つめてもいない(空は絵の中に描かれていない)斜め上への視線というのは、それだけで不在の兄へのまなざしを意味します。
 というわけで、一枚絵もののお手本のような作品でした。もし不満があるとすれば、絆ちゃんの「占い」や「おまじない」への言及がなかったことと、笹などの影が描かれていないために背景の雰囲気が夕焼け時にしては明るすぎること、でしょうか。ただ、前者については毎回そればっかでも逆にいかんわけでしょうし、後者については、絆ちゃん自身の色合いがもともと桃色・紫色ですから、日暮れから夜にかけての影の付け方(普通、紫色っぽくなるような)がつねに難しそうです。むむむ。

 とか書いてる間に、シスプリメ公式サイトで七夕企画「ねがい星 かなえ星」公開開始されましたー。企画者の方々、いろいろ申し上げましたがお疲れ様でした。さっそく拝見させていただきます。
2005年9月20日(火) 狭義の萌え
 しゅんたんからMK2さん、そしてまたしゅんたん。「萌え」の濃度が薄まった、どころかまったく変質したというのは『萌え文集』界隈にいるとあまり感じにくいのですが、世間での「萌え」認知を見ると確かにそういった平準化・平板化というものは進展してますね。ひとつには、「自分(達)は一般人=大衆とは違う」というような逸般人=選民意識がぼく達の側にあったのだと思いますし、これと関連してもうひとつには、作品やキャラを消費しない、という自分なりの誠実さなり固着なりが、つねにどこかにあったように思います。萌えは積み重なる、という言葉はサンフェイスさんのものでしたっけ。
2005年9月21日(水) 美学史読むか
 いずみちゃん楓ちゃん将来ちゃんがシスプリメ卒業。麗音ちゃんは残留。もう急展開です。卒業される方々、寂しいですが今までありがとう。これからもご活躍下さい。

 とりわけふれでぃさんの卒業理由は、クリエイター側からみた現状の問題点を網羅していると思われます。挙げられている5つの項目のうち、1はシスプリメが目指す二次創作の基本的性質について、2〜5は二次創作行為とその鑑賞・批評、企画運営などについての批判であると受け止めました。このうち後者の4つについては、クリエイターや企画者に対してファンとして敬意を払いながらお互いの向上に向けて働きかける、という実際の行動が確かに自分には不足していました。まず、そのことは反省し、次に繋げなければなりません。
 そのための第一歩として、1つめの問題点である「作品に対する姿勢についての乖離」を取り上げ、あらためてシスプリ・シスプリメの一ファンならびに一考察者として、意見を述べてみたいと思います。

 創作がその創作者という一個の人間を自ら投げ込む行為であり、そこに創作者が誇りを抱くこと、そしてこれに鑑賞者が敬意を抱きながら鑑賞すべきこと。こういった一般論に、ぼくは異論を唱えるつもりはありません。ですが、シスプリメという独特かつ意欲的な二次創作企画に対しては、ぼくは上記の態度をそのまま適用することは難しく感じます。
 その理由は、シスプリメがシスプリという原作を前提にした二次創作企画であるかぎり、たとえその二次創作が原作の純粋な模倣でないとしても、原作との距離をつねに考えずに創作・鑑賞することは非常に難しいからです。たんに「兄妹もの」でいいのなら他のプロ作品で間に合います。あえて「シスプリ」メというからには、そこにシスプリ原作という基準があるはずです。
 もしシスプリメ参加クリエイターとその作品をシスプリ原作から独立した存在として受け止めるならば、その作品に対しては、原作に対するのと同程度の批判が可能になります。そして、その批判の基準は、すでにシスプリ原作のうちには見出せません。では、どんな基準をもって作品を評価すればいいのか。原作基準のシスプリメ作品ならまだ「原作のここをうまく継承し、こんな新たな可能性を示してくれている」と具体的に書けるのですが。
 ただし、だからといって二次創作作品が原作の「純粋な模倣」である必要はありません。模倣なども含めた原作要素の継承の仕方と、そこに盛り込まれるオリジナル要素との相互作用を、シスプリメ作品には期待していたのです。「まなぶ」は「まねぶ」が語源だとか言われますが、模倣などを通じて原作をより深く理解していくことで、何がオリジナルなのかをより明確に、より自覚的に示せるのではないか、ということです。
 このへんは、ミメーシス(再現・模倣)とポイエーシス(制作・創造)の関係なのか。ともかく現状では、原作の継承により重点を置くマイスター(職人)的な二次創作者と、むしろ独自性を速やかに発揮できるクリエイター(芸術家)的な二次創作者という、2つの像が関係者間で錯綜しているように思われます。ぼくはつまり、前者のイメージが強いわけですが、そこに独自性を全く認めないわけではないことは、すでに述べたとおりです。

 あとついでに。クリエイターから企画室への不信感は今回こちらにも受け止められましたが、企画室からクリエイターへの不信感も、じつはこっそり存在していませんかね。つまり、今回の七夕企画がいかに募集発表遅れたとはいえ、参加したクリエイターが少なかったという事実に対して。もしそうだとすれば、相互不信はどこかで断ち切られねば。

 というわけで書きたい放題でしたが、以上を踏まえて、いくつか提案してみます。
 ネオシスクリエイターの方々には、ご自身が上述の「マイスター」に近いのか、それとも「クリエイター」に近いのかを、ご確認いただければと思います。
 企画室の方々には、今後の年間計画などを簡単にでもご呈示いただければと思います。
 ぼく自身は、企画室側の者としてかネオシス「マイスター」としてか、どちらかで参加するかも。ただし、いましばらくは状況が許しませんので、来年になってからですが。ネオシスつくるのなら小学校中学年以下で。自分の表現能力と、既存ネオシスの分布域を考えてのことです。
2005年9月22日(木) ためたー
 各所より平松氏リピュア絵コンテ(その前の方にも関連内容)。あのBパート春歌話のものです、たまりません。

 内田樹ブログのこことかここの後半部とか。運動の結び方など面白い話。
2005年9月23日(金) 何もかも懐かしい
 お祝いでも何でもなくシスプリねた。
 「シスプリが15年前に作られていたら」という声優想定を以前やってみたわけですが、二番煎じで「シスプリが30年前に作られていたら」という想定で声優をあててみるテスト。

らむだ「70年代中盤なんて、ほとんど記憶の限界すれすれだなあ……。
    咲耶は、ええと堀江由衣の代わりに、」
美 森「そりゃ堀江美都子だろう(笑)」
らむだ「ああー(笑)」

 元祖ほっきゅん。そんなノリですが、とりあえず。

可 憐:岡本茉利(『ヤッターマン』アイちゃん)
花 穂:杉山佳寿子(ハイジ)
 衛 :田中真弓(『うる星やつら』竜之介)
咲 耶:堀江美都子(『宇宙魔神ダイケンゴー』クレオ)
雛 子:松島みのり(『てんとう虫の歌』日曜子)
鞠 絵:戸田恵子(『ガンダム』マチルダ)
白 雪:吉田理保子(『シンドバットの冒険』シャルム姫)
鈴 凛:太田淑子(『ヤッターマン』ガンちゃん)
千 影:潘 恵子(『ヤマトよ永遠に』サーシャ)
春 歌:井上瑤(『無敵鋼人ダイターン3』三条レイカ)
四 葉:つかせのりこ(『風船少女テンプルちゃん』タムタム)
亞里亞:山野さと子
眞 深:加藤みどり(『サザエさん』サザエさん)
じいやさん:増山江威子(『ルパン三世』峰不二子)

 ごーじゃす。はっきりいって、15年前のよりも作るのがきつかったです。しかも後で調べたら山野さと子さんは、残念ながら80年デビュー(しかも歌手としてのみ)ということでした。がーん。他にも色々あるでしょうけど気にしない方向でひとつ。
2005年9月24日(土) 先月分になってまった
 ゆっくり更新中。

 Zoroさん、どもですー。なんとかやれております。

 とちるさんより。「航を通して1つの家族の様に見れた作品」というのは、ほんとにその通りでした。また、とちるさん達のシスプリRPGは、CRPGというシステムによってシスプリ世界の綜合をアニプリ中心で試みるという、非常に独特な作品だと思います。CRPGがプロミストアイランドとあんなに親和性が高いとは気づきませんでした。物語の性質と世界設定とが見事に噛み合った好例。
2005年9月25日(日) キティとかやばげ
らむだ「『おねがいマイノリティ』というのはどうだ」
美 森「なんだそれは(笑)」

 オトメじゃない、オタクですぅ。
2005年9月26日(月) 第一歩
 シスプリメ公式サイトブログ公開ー。これから相互信頼が回復・増進することを願ってやみません。作品感想も書かねば。
2005年9月27日(火) 石綿の下にも3年
 うちの下宿の天井が一面アスベスト使用ということが判明しました。わはー。
2005年9月28日(水) あちょー
 店での待ち時間を利用してバキ単行本を読みまくり、現シリーズの方だけですが制覇。これでバキコラとかとらさんのコンテンツがもう一度楽しめます。
 しかし、格闘漫画で「越えるべき、しかし越えられない父親」というのは一つの典型なのですかね。ドラゴンボールもそうだったし(格闘漫画?)。ネギまはどうか。ドラゴンボールは父親=暴力に退行する母親=慈愛という図式が成り立たなかったけど、バキとネギまは成り立つ方向で進むのかしら。
 この暴力vs慈愛というのもじつにパターンなわけですけど、これを越えるような新たな第三項は可能なのかどうか。例えば、そうですね、ふたなり。みさくら格闘漫画ここに爆誕。
2005年9月29日(木) すりすり
 シスプリファンサイトでもローゼンメイデンの波がじわじわ拡がってきてますが、身近ではサンフェイスさんこれとか、ここから続く一連の作品とかが相変わらず凄い。その前後にも硬軟取り混ぜていろいろと。
 あと、やっぱりきょうジュースと読みました(進歩なし)。
2005年9月30日(金) ぎりぎり
 仕事とかの合間を縫って、なんとか締め切りに間に合いました『ネギま!で遊ぶSP』原稿(現在校正中)。いつも文章量無制限でだらしなく書いてるものですから、いざ指定をいただくとなかなか大変です(シスプリ二次創作コラムでもそうでした)。日頃の訓練が大切ですねえ。
 落ち着いたところで、あらためて参加メンバーの皆さんのサイトを拝見し直し、悠然と腰を抜かす。しかし原稿執筆はすでに終わってるので、どれだけ焦っても大丈夫&手遅れ。気が小さい人間の工夫です。

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