「みつからないんだよ」

猿元(MFRI / ぷにネット)

 この小論では、「萌え」と呼ばれる心理現象の成立条件について考えてみたい。これには、いくつかの切り口が考えられるが、本稿ではラカン派の構造論的な精神分析学をベースにして、議論を試みる。よって、これは「萌えている人」の無意識レベルの動力学に関する話になる。結論を先に書いておけば、次のようなものだ。

 「萌え対象となるキャラクターは、人間同様に欠如を持っており、言語の中で生きるしかないという、自己疎外的な主体のあり方を強いられている。逆にこれが、萌える主体との共感の成立の基盤となっている。」

 まずは、議論のベースについて簡単に確認しておこう(注1)。
 赤ん坊が「自分」とでもいうべき、統一の取れた安定した精神的一体像を手に入れるためには、視覚的な外部の像を取り入れ、それと同一化することが必要とされる(「鏡像段階」)。このようにして得られた「自我」は、当然のことながら、主体にとって理想的なものの像である以上、自己愛的なものである。母子一体の共生段階にある乳児は、母親の欲望の複製として、自己の欲望を見出す。即ち、「母親が創造的男根(ファルス)φを欲望している」と理解し、自分がそれになる(想像的同一化する)ことで、母親の欠如を埋めようとする。この、子供がなろうとする想像的ファルスの本質は欠如である。

 やがて、母親の欲望の対象となるはずの鏡像(つまり乳児)に母親が見向きもしないことがある現実を前に、子供は母親の真の欲望の対象(象徴的な意味での父のファルスΦ)が手の届かないところにあることに気づくことになる。この、「父の名」によって行われる「去勢」によって、鏡像段階における主体と鏡像の間で生ずる主人性の争いが回避されると同時に、人は言葉=意味のネットワークである世界(象徴界)で生きていくことが可能となる(注2)。

 これらの話より、次のような仮説が成り立つように思われる。即ち、
  1. ある人が特定のキャラクターに萌えるとは、そのキャラクターに対する想像的同一化の試みである。
  2. 同一化対象となるキャラクターは、それゆえに自己愛的な側面が投影されたものとならざるを得ない。
  3. 更に、対象となるキャラクターは、単なる「かわいい女の子」のイコンであってはならず、それ自身、(萌える人によって埋められるべき)欠如を持っておく必要がある。

 まず、はじめの二つについて見てみよう。
 「ONE」における長森、あるいは「Kanon」における名雪といったキャラは、ダメダメ星人な主人公(=プレイヤー)に対する、想像的な「母」としての側面を有しているように見える。「Air」の美凪に到っては「内には深い母性愛を秘めている。」という触れ込みだ。いずれも優等生的な「よいこ」キャラであるという共通点を持つのは、キャラが同一化対象であると同時に、自らの鏡像であるという点を考慮すると、「母親に愛される、よいこである私」を描き出しているものと理解できるだろう(注3)。 上で述べたように、子供は母親のファルスに「なる」ことで想像的同一化を図ろうとするのだが、これと同様のメカニズムが萌え主体について働いており、萌える対象に対して「ファルスを欠いた母親像」が投影されているとしたらどうだろうか?そして去勢に対してチャレンジされている人が、その想像的ファルスと化そうとする試みが「萌え」の一面を表すとしたら。こう考えると、鍵系ゲームから「父親」、あるいは「学校(規律)」「社会」という概念が希薄なのも理解できる。いずれも「父の名」のもとに、プレイヤーに対して去勢恐怖を与えることを、見抜いてのことだろう。そう考えるならば、「萌え」という感覚が、言語表現を通じて表現できない、非意味な力の噴出であったとしても不思議はない。なぜなら、それは原象徴化を通じた、言語化がなされ得ないものだからだ。
 ラカンが「エメ」や「パパン姉妹」の症例の分析から明らかにしたように、鏡像は一方で主体にとって「主人性を略奪するもの」として、憎悪と攻撃の対象にもなりえる。「ONE」の長森シナリオで、主人公が彼女をレイープさせようとする場面があるが、この辺の事情も、主人公の無意識レベルでの主体性の争いが反映されているのかもしれない。

 次に、萌え対象の持つ欠如について考えてみよう。そのためには、「萌え」の対極に位置すると思われる概念「かわいい」との比較で見て行くことが分かりやすいと思われる。実際、世の多くの人が「かわいい」キャラクターが大好きだという(注4)。しかし、これらの全てが「萌え」の対象になるわけではない。「萌え」対象になりうるかどうかを分ける条件は、一体、どこにあるのだろうか。
 一つ指摘できることは、この種の、「たれぱんだ」に代表されるキャラクターが、背後に「物語」を持たないという点である。そして「物語」の成立には、ある言葉と別の言葉との間に、隠喩的な連鎖が成立する必要がある。例えば、「メイドさん」という言葉(言語表現:シニフィアン)は、別の国では maid, Maiden などと表記されるように、それ自身は恣意的で、内容も空虚なものであるが、しかし「メイド服」「ご主人様」「ご奉仕」あるいは「蹴りてー」(←違う)と言った、別のシニフィアンの連鎖の間で、その意味内容が定位する性質を持つために、種々のシチュエーションを想定した物語が可能となる。一方、キティーちゃんなどのキャラクターは、動物や人間の形態的な特徴のみを媒介とした換喩的記号とでもいうべきものである。「たれぱんだ」の例で言えば、「パンダ」という動物の、抽象的な特徴だけを取り出したものであり、「パンダ」→「ふわふわ」→「ねこーねこー」→「苺サンデー」といった、隣接する事物の隠喩的連鎖から切り離されているという特徴を持つ。これを使った物語を作るのは難しそうだ。北海道の土産物屋に行くと、「まりもキティー」や「クリオネキティー」といった地域限定商品が販売されているのを目にするが、こういうことが可能なのも、キティーちゃんの背後に確たる「物語」が存在しないからだろう。
 土人人形で有名なタカラが出している、「リカちゃん」シリーズの変遷を見ると、これがますます理解しやすくなる(注5)。1967年に発売された初代リカちゃんファミリーについては、「さすらいの太陽」もビックリな、強引な設定が行われていたようだが、後にはそのような「物語」は忘れ去られ、「お嫁さん」「プリンセス」といったものの換喩的記号としての新製品が続々と登場する。2001年11月には「妊婦リカちゃん」(「カプセルに入った赤ちゃん」と「おなかを小さくするひみつのパーツ」付き)まで販売されている。もし、リカちゃんの背景に一定の「物語」が存在し、彼女がその中で「11歳の女の子」の位置を占めていたとするならば、その意味の連鎖から隔絶された、このような商品が、ユーザーによって受容される可能性がない。逆にいえば、物語性が排除された「キャラクター」を受容する人が増えたからこそ、このような商品も成立すると考えられる。  斎藤環が「若者のすべて」で議論しているように、このような換喩的なキャラクターに対して、人は本質的に共感が不可能である。なぜなら、共感の対象には、人間と同様、根源的な欠如が要求されるが、「にゃんまげ」や「キティちゃん」のようなキャラに対し、それは望むべくもないからだ。人間の共感(間主観性)が成立するのは、イメージの網の世界であり、「意味」に満たされた空間である。意味とは、原象徴化によって成立する、象徴界におけるシニフィアンの作用である。先に述べたように、シフィニアンは去勢によって生じた欠如によって成立する。ゆえに、欠如をもたないキャラクターに対しては意味が成立せず、よって共感も発生しない。

 「萌え」という感覚の背景に「共感」が成立する必要があるとするならば、人がキャラクターに「萌える」場合、そのキャラクターの背後に、なんらかの「物語」を見ているはずだ。「共感」には対象へのナルシシスティックな想像的同一化の作用も働いているはずだが、一方で共感が可能になるということは、対象が象徴界におけるシニフィアンの連鎖の中に位置付けられることを意味し、これは「物語」と同一の構造を持つからである。逆にいえば、同じ対象を見たとしても、それに何の「物語」を見出せなければ、そもそも「萌え」という感情は(無意識のレベルからして)発生し得ない。
 一例を示そう。
 ぷにねっと のweb鯖に対して、存在しないファイルが要求された場合、「404 見つからないんだよ」という文字とともに、あゆ画像が出てくるようになっている(注6)。
ある日、一般人(40代女性)がこれを目にして、「なんか、かわいらしい女の子の絵が出たけど」と私に言ったことがある。「Kanon」というゲームをプレイしたことのある人が、ここで示されている月宮あゆ の画像、あるいはその台詞を見た場合、そのシニフィアンはKanonの物語(意味の連鎖)にリンクされることになる。このような作用が働くためには、対象である「あゆ」に欠如、いわば「みつからないもの」が必要である。一方、あゆ画像を「リカちゃん」と同様、「かわいらしい女の子」のイコン=換喩として理解した一般人は、同じ対象を目にしているにもかかわらず、それに対して共感作用は働かないと説明することができよう。

 萌え対象における「欠如」は、言語活動の限界という点からも説明することができる。人は自らが意味するものを話すためにシニフィアン(意味表現、記号表現)を使う。それはシフィエ(意味内容、記号内容)にアクセスするためにである。これに伴う欲求伝達の不完全性は、言語活動を行う限り、避け得ないことである。
 一般に人は幼児期の早期から、欲求を表現するために言葉を使用するようになる。しかし、このような表現を行ったとたん、この欲求の対象は言語活動によって粉砕される運命にある。たとえば、母親にかまってほしいことを表現する目的で、「しーしー」と言う言葉を発した場合、本来の欲望の対象である「母親の関心」は、この言葉によって見えなくなる。つまり、欲求の対象は欲求それ自身により覆い隠される性質を持ち、言葉を話すことは、「喪失」(欠如)を世界に導入することになる。
 先の例では、「おむつを替えてもらうこと」あるいは「おまるに乗せてもらうこと」は、言葉を発した子供にとって副次的なものである。このように言語活動は、欲求の対象からわれわれを分裂させる。言い換えれば、言語活動=記号表現の領域に入ることで、メッセージの歪曲は避け得ないことであり、その段階で確実に失われるものがある。つまり、話した時点で、望むものが手の届かないところに逝ってしまう。「ファルス」は、われわれが言語活動に入っていく段階で失われたものを代理するものであり、かつメッセージの歪曲過程を象徴するものでもある。
 「ONE」に出てくる茜というキャラは、見ようによっては、陰気なヒキー系キャラである。某オリジナル作品で、「茜が楽しそうに話していた」ことが、批判の対象になっていたことも、これを傍証する。しかし、「茜萌え」な人は、少なからず存在すると聞く。それはなぜか?  茜が「大切な人」の喪失という事実を、言語活動を通じて他者に伝えることで、何らかの「癒し」を期待したとする。しかしそのような欲求は、それを現に行ったとたん、メッセージの喪失・欠如の過程を通じて、歪曲が生じてしまう。これはストーリー中でも、「名前を出しても、自分以外の人からは思い出してもらえない」などの形で、メタファーとして表現されている。多くの人は、言語活動のこのような側面には無頓着であり、ある意味で「自明な世界」に生きていると言える。しかし、ある種の人が、このような意味の喪失に対して、感受性が高いとしたらどうだろうか。これが「萌え属性」の一因子をなしている可能性はないだろうか。
 言語活動の不完全性による葛藤、あるいは言語を手に入れることの引き換えに自らの主体のありかが失われることは人間の宿命であり、その意味で「全ての人は神経症である」ともいえる。このような特徴を持つことが萌え対象としてのキャラクターにも要請され、それゆえに物語が成立するという構造が存在すると考えられる。

(注1)
 ラカン派精神分析学の人間認識によれば、主体はその本性として欠如に刻印され、いかんともしがたい裂孔をもった存在である。人間は、直接知ることができないが、自らの存在に本質的要素であるだろう<<もの>>を喪失している。<<もの>>は主体の絶対的<<他者>>であり、主体から排除されているにもかかわらず、一方で主体の中心に位置するという、特殊なあり方をする。<<もの>>の欠如は象徴界における欠如に裏打ちされ、これは主体を終始貫いて、構造の根幹を形作る。象徴界における根源的欠如とは、<<もの>>を直接示すシニフィアンの欠如に他ならず、主体の存在の核にかかわるシニフィアンの排除と言うことも可能である。
 言語による象徴化の外に存在する領域は「現実界」と呼ばれ、シニフィアン・シニフィエの外部の、非意味の領域である。<<もの>>はここに存在する。主体から見た場合、現実界は出会うこと、知ることが原理的に不可能であり、充満した欠如からなる「空虚な場所」である。そのため、現実界は主体にとって、「裂孔」「裂け目」の形でのみ存在する。言語の機能は、この裂け目を縁取ることである。この「原象徴化」を介して、現実界は象徴界に支配される。言語のもつ、このような機能の不全が、精神病の原因である。それゆえに、精神病者の妄想は、当の本人ですら意味が理解できない(言語化されない)性質を持ち、この裂孔の突出は「圧力」「力」といった形で意識される。
 この「裂孔の縁取り」は「父の隠喩」に代表される、隠喩化の過程によって進行する。即ち、「母親の欲望」のシフィニアン(あるいは、欠如した対象一般に代わる根源的シフィニアン)[S1]を、象徴的<<他者>>の領域(象徴界)にあるシニフィニアン[S2]により代理し、S2がS1の代わりに、主体を代表象する。この時点で<<もの>>は抑圧され、無意識が成立する。これは原抑圧の成立と同時に、主体の確立をも意味する。象徴的<<他者>>の存在の核心は<<父の名>>のシニフィアンにある。これは言語の象徴作用を支える究極的なものであり、シフィエを持たないという点で「不在性に刻印された、根源的他性」を有する。
 このようなメカニズムで進行する「原象徴化」は言語レベルでの<<もの>>の喪失の反復を意味し、現実界での裂孔を保持し、機能させる効果を持つ。一方でこの原象徴化により、人は根源的欠如の直接の露呈を回避することができる。<<もの>>が主体の存在の「芯」である以上、隠喩化・原象徴化は主体の喪失を引き換えとしたものであり、その意味で「主体は喪失として自己実現する」。このような意味での、自己自身の分裂と主体の疎外は、人間にとって本質的なものである。主体は原象徴化により、(主体にとって他性の次元にある)シフィニアンの連鎖の中に自己存在の指標を見出す。通常考えられていることと異なり、言葉は人の外部の非人称のエスの次元にあり、主体から独立した自発性と自立性を持つ。なお、このような言語の象徴化を通じた主体の構成については、我々が知覚する対象(「もの」「他者」)一般についても、似たようなことが言える。すなわち、外界の対象も言語の象徴化作用に媒介されることで、<<もの>>の次元に縁取りがなされ、通常の意味での現実性を獲得する。
 結婚・妻の出産、あるいは責任ある仕事の引き受けなど、「父性」の発揮が要請される場面で、精神病の発症・症勢憎悪が起こる例が知られている(シュレーバー症例など)。それまでは、自分の方向性を指し示してくれる人物との想像的同一化による、想像的杖を拠り所にしていたのだが、父性との出会い・要請によって、主体のもつ<<父の名>>のシフィニアンの排除が表面化し、主体が無化の危険に晒されたためと理解される。

(注2)
   2002年にアニメ化が決定しているえろげ「Kanon」(Key 1999)に、「月宮あゆ」というキャラクターが出てくる。ふとしたことから 、あゆは「3つの願いを適える力」を手に入れ、そのうちの一つが残っている。あゆが「見つからないんだよ」と言って探しているものは、その力を使う対象であり、少なくとも名雪・栞シナリオにおいては、あゆの消失を引き換えとした奇跡が発生する。一方、その力を自分自身のために使用して、植物人間状態から回復するのがあゆシナリオ。ただしこのシナリオが成立するためには、「天使人形を探す」という形で、(あゆにとっての)他者、とりわけ主人公の欲望の媒介が必要とされる。なお、舞シナリオと真琴シナリオでは、あゆの介入は無視できる。
 このあゆの欲望の在り方は、次の3点で「主体の欲望」と相似しているようにも見える。

  1. 「みつからないんだよ。」という言葉で表現されるように、あゆ(=主体)は自身の欲望するところを知ることができない。
  2. 奇跡の発生。言い換えれば、主体の欲望が意味の世界の中に位置付けられる(原象徴化される)ためには、主体の喪失が必要とされる。
  3. 主体の欲望は、常に他者の欲望である。これは「欲望する者」が主体ではなく、鏡像段階における想像的同一化によって形成された「自我」であることに起因する。
 もしかすると、「見つからないもの」が見つかった時に、あゆが「遠くに行っちゃう」ことには、構造的な根拠があるのかもしれない(←ありません)。

(注3)
 「空想美少女大全集」(宝島社:1999)に、「空想美少女を読み解く13のキーワード」というものが掲載されている。これ自身は、何人かの著者の趣味から抽出されたもの以上のものではなかろうが、その中に「よいこ」というものが含まれていることには注目すべきかもしれない。「木之本桜」や「真宮寺さくら」などの、「虚構として追求された理想」と、「よいこであることに対するコンプレックス」と言った「リアリティー」の要素に、一部の人は「萌え萌え」らしい。
 「戦闘美少女の精神分析」(斎藤:2000)によれば、オタクの特徴として「超越的他者(自我理想)と内在的他者(理想自我)の極度の接近」が指摘されるという。「自我理想」とは社会的価値観によって成立する「かくありたい自分」を意味し、「理想自我」とは、そのような価値観とは独立した、ナルシシックな自己イメージである。斎藤によれば、理想自我は「成長」という媒介物によって自我理想に変換・固定されるのだが、オタクにおいてはこの媒介作用がパンピーとは異なるために、見かけ上、このような現象が観察されるという。

(注4)
 バンダイキャラクター研究所が2000年に行った調査では、1119人中、87%の日本人が「好きなキャラクターがいる」と回答している(香山:2001)。

(注5)
「土人人形」については http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/ganbare.html を、 「リカちゃん」については http://www.takaratoys.co.jp/OFFICIAL/index.html を、それぞれ参考にされたい。

(注6)
例えば http://www.puni.net/~karen/kyonyuu.gif 。401エラーは茜@ONEという噂も。

(参考文献)
石田浩之「負のラカン」誠信書房(1992)
加藤敏「構造論的精神病理学」弘文堂(1995)
福原泰平「ラカン−鏡像段階」講談社(1998)
別冊宝島421「空想美少女大全集」 宝島社(1999)
斎藤環「戦闘美少女の精神分析」大田出版(2000)
斎藤環「若者のすべて」PHP研究所 (2001)
香山リカ・バンダイキャラクター研究所「87%の日本人がキャラクターを好きな理由」学研(2001)