本稿では、「ONE2」(注1)のメインヒロインである小菅奈穂の主体の構造を、「ONE」の里村茜のそれと比較することを通じて、一見、不条理に見える奈穂の「永遠逝き」の原因を解明することを目的としている。
ストーリーの概要は以下のようなものである。奈穂は「ONE」における長森瑞佳同様、「世話好きの優等生」としてのキャラクター付けが行われている。彼女は幼い日に、とある「いい人」に預けられることになる(この人が後に孤児院を作り、そこで育つことになる)。彼女が全く知らない人に預けられるにあたって、母親が言った「いい子にしていれば、すぐに迎えにくる」という約束を間に受けてか、彼女は大真面目に学業にバイトに取り組んでいた(←そば屋のバイトシーンに萌える人多数)。主人公はそれを見て「何とか手助けしよう」とするのだが、彼と奈穂を取り合うことになる同級生の及川は、主人公の態度に対して否定的だった。及川はかつての経験から、奈穂が「もうすぐ母親に会えるから、頑張らねば」と言っているのが妄想であることを知っていたからだ。そこで主人公が下手に彼女を手助けすることは、ますます彼女の「良い子にならねば」という気持ちを後押しすることになり、妄想を強化することに繋がるとして、主人公と対立を深めていく。主人公の思惑とは裏腹に、及川の危惧の方が現実となる。奈穂と母親の「対面の日」がやってきたのだ。しかしそれは彼女の「脳内約束」であり、主人公は土砂降りの雨の中を徘徊している奈穂の姿を目にすることになる。ここで選択肢が出るのだが、true endを目指す場合、彼女に「母親は来ない」という事実を断固として突きつけることになる。それまでの自我の拠り所を失った奈穂に対して、主人公は「いつまでも一緒にいる」という約束をするのだが、それを彼女が受け入れたように見えた瞬間に、なぜか奈穂が目の前から消滅。周りの人は奈穂の存在そのものを忘れたような感じだが、主人公だけは「漏れは断固、奈穂を待ち続けるぞ!!」と1年間、毎日、消失現場の公園に通う。そして1年後に奈穂が復活してハッピーエンドを迎えると。
上で見たように、シナリオ上では奈穂が物理的に消失し、かつその痕跡が幼女と主人公以外の人には認知されないことになっている。これは「ONE」において主人公が物理的に消滅して「永遠の世界」へ行くストーリーを裏から見た形で(つまりヒロインと主人公を入れ替えた形で)表現したものであるようにも読める。だがそういう単純な理解を許さない事情がこのシナリオには存在する。「ONE」において主人公が「永遠の世界」に旅立つきっかけは「永遠の盟約」であって、奈穂シナリオにおいては「母親との約束」がこれに相当する。ゆえにこれが機能している限りにおいてしか、彼女の「永遠逝き」は発生する理由がない。しかしながら実際には、主人公の介入によって、この約束がフェイクであることが判明し、彼女が現実を受け入れたとたんに主人公の目の前から消えるのだ。これは不合理であり、いかに客観的な状況が似ているからと言っても、奈穂が「ONE」で描かれたものと同等の理由で「永遠の世界」に旅立ったと理解することは困難である。むしろ状況的には、危機的状況に追い込まれたことで、奈穂の精神が解離したと理解する方が自然であり、物理的消失は奈穂の自我崩壊の比喩的表現と理解した方が解釈が容易だと思われる。
「愛してやまない対象への囚われと、その場からの解放」を主題とする作品で、すぐに頭に浮かぶのは、「ONE」に登場する里村茜であろう。このシナリオの概要は次のようなものである。茜が「こちらがわの世界」を拒否しているように見えた理由が、主人公の浩平が雨の降る空き地で倒れた茜を介抱するシーンで明かされる。茜が、その空き地で別れた幼なじみを今も待ちつづけている事を告白した時に、浩平は「おまえは…ふられたんだ」と答える。茜はその言葉に対して涙を浮かべながら「ありがとう…」と答え、その日以来、浩平と茜は互いが大切な存在であることを、しだいに意識し始めていく。
このような別離体験をテーマとするシナリオはいわゆる「泣きゲー」の中でけっこう散見されるように思える。この種の作品の中に存在する「静止した時間」は、精神分析学の立場から見ると、ヒロインの精神内部における小他者との想像的同一化現象の隠喩的な表現として理解することができよう(注2)。ヒロインたちの自我は、小他者としての対象から送り返されたイメージの集合体、すなわち「恋人・母や姉に愛される、理想的な<私>」とでも言ったものとして構成されるのだが、ここで重要なのは彼女たちの主体が対象としての小他者と完全に分離されておらず、むしろ同一化しているという点である(注3)。
ここでONEに話を戻せば、茜シナリオにおける浩平の「おまえは・・・ふられたんだ」という言葉(パロール)は、対象との鏡像的関係から抜け出せない茜の、想像的かつ自己愛的なニ項関係を分離・調整する働きを持つ。一方で茜の主体を示すシニフィアンが大他者の領域に入ることで消滅し、そこに発生した欠如に、欲望の原因(対象a)が発生する。対象aは主体の心の中の、対象を容認する場所のことであり、この部位にさまざまな直接的対象が現れては消える。対象の本質は空であり、欲望を起こさせる原因である。この主体の根源的な欠如の成立に伴い、茜は浩平に対して恋愛感情を持つことが可能となったと考えることができる。
上で見たように、去勢が完全に行われることで、鏡像と自我を分離する大他者が内在化され、この時点で話は一件落着するというのが構造論的精神分析理論から導かれる結果である(注4)。奈穂シナリオもこの系譜に属するように見えるのだが、特異的なのは、主人公が決定的に介入した時点で、奈穂が「永遠の世界」に行ってしまう点である。これは不合理な展開のように見えるが、この現象を物理的消失ではなく、奈穂の統合失調(精神分裂)発症と考えるならば、以下で述べる「排除」のメカニズムによる理解が可能になる。
ここで彼女の幼少期について、想像してみよう。おそらく、彼女は初め、母親から「愛されている」と思っていたはずだ(正確に書くなら、「愛すべき完全な自己像」を母親の中に見ていた)。しかしある日、母親の視線が自分以外の「誰か」に向かっている事に気づく(それが父親か不倫相手かは問題ではない)。彼女は「母親に何か欠けていて、それを視線の先の人に求めている」と解釈して、「母親が望んでいる<もの>になる」ことで、愛情を繋ぎ止めようと考える。いわゆる「鏡像段階」の成立である。
現実世界で普通に生じているケースでは、このような近親相姦的な関係は「親離れ」を命じる父性的な原理の介入で解消される。つまり「母親の想像的ファルスであること」を否定されると同時に、自らの世界の中に象徴化された欲望の対象の痕跡(対象a)が発生する。奈穂シナリオも、基本路線は主人公が父性原理に基づいて、彼女と母親の関係を断ち切ることが主題とされているように見えるのだが、主人公にとって悲劇だったのは、自らが(浩平のように)大文字の他者としてその場に現れた時に、想定されたケースのように話が進まなかった点である。その理由は(多分、心理的外傷により)奈穂の内部で大文字の他者が排除されていたためと考えられる。
さらに彼女の過去について想像を続けてみよう。ある日、彼女は母親から突然、別れを言い渡される。この時、奈穂の主体の中では、別離という事実を解釈する上で、二つの可能性が立ち現れたはずだ。一つは「母親が自分を捨てて、その欲望の視線の先にある何かの方に行った」というものであり、もう一つは「母親の欲望の対象そのものの排除」である。先に書いたように、この別れを奈穂は「一時的なもの」として理解していることから、母親との鏡像的な二者対峙関係は継続していると考えるのが自然である。とするならば、この時に奈穂が選んだ道は後者の「排除」のルートであったと考えるべきだろう。通常であれば、自分と母親の分離を要求する、「掟」としての「父の名」のシニフィアンが、母親と父親の関係などを通じて、何らかの形で子供に差し向けられるために、鏡像的な母子関係は初めのルートで解消される。しかし奈穂のケースではおそらく、信頼しきっていた母親が突然、自分から他人に欲望の対象を移すという事実が(少なくとも彼女の理解の上では)生じたために、「見えない母親の欲望の対象」を前にして、それを排除することで母親との近親相姦的な対峙関係を欲望し続けたと考えることができる(注5)。
(外部の小他者の像としての)理想的な自己像を内在化するためには、「そこから自己と理想像の関係を見る」視点の導入が必要となる。これを大他者と呼ぶならば、「父の名」による去勢体験は、自我の中に大他者を組み込む作業と言い換えることができる。おそらく奈穂のケースではこの特殊なシニフィアンの排除が生じたことが悲劇の原因となっている。だが、このようなケースであっても、必ずしも精神病症状が発生する訳ではない。「エクリ」の表現で言うならば「精神病が発症するためには、排除され、<大他者>の場に一度もやって来なかった<父の名>が、主体と象徴的に対立する位置に呼び出される必要がある」(注6)。これを奈穂のケースでわかり易く解釈するならば、主人公が奈穂に対して、彼女と母親の鏡像的な関係の現実的な不在を突きつけた時、その関係を外から見る視点(大他者)を持ち合わせていなかった彼女に、<父の名>のシニフィアンを呼び出すという無理な要求が行われる。これが引き金となって排除の操作が確立されることで、精神病の急性症状が発生したという推論が成り立つ。
新宮 (1989)によれば、「神経症者の治癒への入り口は、分裂病者の病的体験の入り口である。精神分析における無意識のシニフィアンの座は、一つの決定的な分岐点であり、神経症的なものと分裂症的なものがリンクしている場所なのである。この分岐点が姿を現すのが、精神科医が患者の中に深く入り込みすぎた時であるということも一般的に知られている」とされる。ここで患者をヒロインたち、医者を主人公と置き換えて考えるならば、同じようなシチュエーションで主人公たちが同じような行動を取った場合に、茜と奈穂が全く違う反応を示したような事態は、現実問題としても起こりえることが理解できる。一言で言うならば、ヒロインたちの主体が神経症的であるか、分裂症的であるかという点が、事態を二分する(注7)。
「神経症者はしばしば自分が何を求めているのかを知らないが、それで いながら自分には何かが欠けているという感覚や、自分が何かを求めてい るという感覚を失わない」という。茜は自分が求めている「失われた対象」(の代替物)に対しては自覚的な態度を取っている。だからこそ、主人公の言葉も意味を持つ。「ONE2」においても、主人公は浩平が茜に取ったのと同じような態度を奈穂に対して取っている。基本的に恋愛感情が神経症的な主体を持つ者同士の転移−逆転移的な関係を根底に持っている以上、主人公たちがこういう態度を取るのは自然の成り行きだと言える。だが、奈穂の主体が分裂症者的なものであったとするならば、その介入行為はむしろ急性の妄想症状の形を伴った主体の防御活動を引き起こしても不自然ではない。
以上見てきたように、奈穂シナリオは里村茜シナリオに一見、よく似ているように見えるが、実は別の深層心理的なメカニズムを背景に持つことが示唆された。茜シナリオにおける「お前は・・・ふられたんだ」という宣告は、主体と鏡像的関係にある対象の間に区切りを設けるパロールとして理解され、大他者としての主人公が主体に内在化されることで、ヒロインの去勢体験が完了するという構造を持つ。これに対して奈穂シナリオは主人公が大他者としての地位を占めることに失敗したケースとして理解することが可能である。すなわち、主人公の「奈穂を恋愛対象にしたい」という欲望を前に、「自分とは何か」という問いを突きつけられた奈穂が、それまで排除してきた「父の名」のシニフィアンを強制的に呼び出すことを要請され、それに失敗したことに対する自我の防御反応としての精神症状が発生したと理解できる。奈穂の「永遠逝き」について、「主人公が介入した時点で、既に永遠への扉が開いていた」とする見解があるようだが(注8)、上の考え方に立つならば、開いていた扉とは、主体のありかを示すメカニズムそのものの排除を意味すると捉えることが可能である。
「ONE2」奈穂シナリオにおいて「真実を告げる」という選択がシナリオライター的には「正しい」とされることは、「真実を告げない」という選択を行った場合にバッドエンド直行という事実から窺い知ることができる(多くの人も「それは正しい」と考えるだろう)。だがそれが仇になって、奈穂が「永遠の世界」(なる妄想世界)に取り込まれていくという罠が仕掛けられているという点に、「ONE2」の新規性がある。遺憾なのは、その後の一年間が全くのブランクとされている一点である。
(注釈)
(参考文献)