『シスター・プリンセス・メーカー』における妹の可能性
〜企画第2弾を手がかりに(1)〜
はじめに 〜問題の視点〜
シスター・プリンセス(以下シスプリ)ファンによる妹創造企画『シスター・プリンセス・メーカー』(以下シスプリメ)は、企画者・クリエイター諸氏の個人的活動と相互交流を通じて、オリジナルの妹(ネオシスター、以下ネオシス)創作において、「原作準拠」を追求しながら独自の妹像を生成しつつある。
本考察は、このシスプリメにおける「原作準拠」と独自性の現時点でのありようを確認するために、シスプリメ企画第2弾「St.Valentine's
stories」を取り上げ、それぞれの応募作品のテキストにおける「シスプリらしさ」(普遍性)と「ネオシスらしさ」(固有性)を検討する。この企画を考察対象とする理由は、当該自由応募企画が作品の人気投票を実施すると明言しており、これにあえて参加しようとするクリエイターは、他者の批判を受けることを予期している以上、何らかのかたちでの「原作準拠」「シスプリらしさ」を既に志向しているものと予測できるからである。
ただし、本考察での「シスプリらしさ」とは、企画応募作品と対比させる都合上、原作キャラクターコレクションに示されるものに限定される。その分析視点については「キャラクターコレクションにおける妹の設定」で仮説的に提示された諸要素を、関連数値については「キャラクターコレクション分析作業」で公開されている暫定的結果を用いる。作品中のイラストについては、これがテキストと不可分な作品構成要素であることは認めるものの、論者の分析視点が定まらないために、考察の対象外とする。また、「ネオシスらしさ」を検討するには現時点(2004年3月15日)での個々のネオシス像を確認しなければならないが、このために、企画応募作品のみならず、そのネオシスに関する他のキャラクターコレクション相当の創作物も適宜参照する。「キャラクターコレクション相当」とは、妹による独白形式の短編で、一組の兄妹のみが描かれるものを指す。それゆえ、クリエイターの日記や複数のネオシスが登場する作品などの内容は、ここでは一切考慮しない。
なお、本文中では企画応募作品などを適宜引用するためネタバレになること、ネオシスは敬称略とすることを、予めお断りしお詫びしておく。
1.秋那(秋ヶ瀬夜月氏) 〜特技と個性〜
本編「胸いっぱいの愛」では、秋那(あきな)が兄にチョコレートを作って届けようとするさいの事件とその結末が、ほぼキャラクターコレクション1話分(33字換算で115行、8ページ相当、イラスト1枚)の物語として提示される。秋那が兄のために作ったチョコレートは、届ける途中で偶然出会った年下の女の子に譲られ、兄に手渡されることはなかった。この展開は、兄最後登場パターンに属する。つまり、妹の想いが他者によって、あるいは不可抗力や自らの空回りによって傷ついたとき、最後に登場する兄がそれを受けとめ癒し、結果的には妹が兄への愛情をいっそう深くする、というものである。この形式に従う本編の中で、兄に救われるべき秋那の悲しみは、バレンタインチョコの自発的な喪失というかたちで主題に即しつつ確定されており、しかも結末で秋那が、兄の言葉とは自分の心を「チョコレートのように甘く溶かしてくれる」魔法だと独白するとき、チョコに込められていた想いの甘さは、妹の健気な努力を契機としつつ、逆に兄から妹に贈られることになる。この逆贈与もまた、きわめてシスプリ的な図式である。
次に、「ネオシスらしさ」を検討するために、秋那のプロフィールを引用しよう。
「秋那ちゃんはとにかく音楽が大好きな女のコ。特に古い洋楽が好きで、いつでもどこでも歌い出してにぃちゃんを困らせているみたい。でも本当は、歌を通して大好きなにぃちゃんに気持ちを伝えたがっているのです。」
秋那は洋楽ファンであり、作曲や演奏をも手がけているという特技派妹である。衛が「スポーツ好き」であるとともに「スポーツを通じて兄との関係を結ぶ」ように、秋那もまた、自分の好きな洋楽を通じて兄との絆をより確固たるものにしようと望むのだ。だが、秋那のこの特技には、原作の妹達にない独自性が備わっている。洋楽という特技は、曲を作り、演奏し、歌う行為を含んでいる。兄妹関係の中では、それらは基本的に、妹から兄に対してなされる。この点だけなら秋那の特技は非対称的なものである。しかし彼女は、「妹からの手紙」によれば、その曲をいつか兄と「一緒にプレイ」することで、洋楽を通じて兄と自分が直接的に結ばれることを望んでいる。この点では、彼女の特技は対称的にもなりうる。ただし、兄は妹にギターの手ほどきを受けねばならないというあたり、あまり得意ではなさそうに見える。それゆえ、秋那の特技は、完全に非対称的ではないが、現実に対称的とも言えず、いわば可能的に対称的ということになる。つまり、この特技は、兄に教授可能という点で独特のものであり、それゆえに秋那は、兄をバンドに加入させる夢も持ち得るほどには、特技を媒介として未来に開かれているのだ。これは、特技派妹としても、また年長者としても、異例のことである。兄妹の未来にも他者との関係にも開かれた、兄に教授可能な、特技の所有者。このような存在として、秋那は原作妹の枠組みを越え出る独自性を有しているのだ。
だが、本編では、この洋楽趣味はほとんど語られない。音楽に関わる記述が登場するのは、台所で「……そうそう、音楽も忘れちゃダメ。」とBGMを流す場面のみである。これでは、彼女の特技に基づく固有の絆の描写が欠落してしまい、バレンタインチョコレートのシスプリ的解釈が示されながら、チョコレートのネオシス的解釈がもう一つ突き詰められなかったということにならないか。これはまた、内面と特技の関連性が今一つ不明瞭になりがちという、特技派妹に共通の問題ともつながっている。他の秋那作品が彼女の積極性を描いていることから、この本編での彼女の振る舞いは明らかに(読者にとって)意外な内面を示すものだが、これと特技が結びついていないのである。
しかし、このような批判だけを行うのは一面的にすぎる。一般に、特技派妹に関わる創作では、妹像を一面的にしてしまわないために特技の描写をあえて弱める場合がある。そのとき、その意図的な空隙を妹像の充実に役立てるのは、兄たる読者の楽しい責務だろう。そこで読者は、洋楽の不在をたんに欠落として理解するのではなく、むしろ逆に、そこに積極的な意味を読み取ることもできる。つまり、特技派妹のキャラクターコレクションを読むとき、ある話ではその特技がなぜ表現されないのかを考えることで、読者は、その妹の内面をさらに深く理解していくことが可能になるのである。
この視点から本編を読み直せば、ラジカセから流れる洋楽は、苦手な台所仕事を励ましてくれるBGMであり、成功へのおまじないでもある。だが、秋那にとって洋楽がそもそも兄へ想いを伝えるためのものだという基本設定に立ち返れば、チョコを作り上げた時点で彼女の想いは全てこのチョコの中に溶け込まされているのであり、これを兄が受け取ってくれるまでの間は、わざわざ洋楽を持ち出す必要はない。むしろ、洋楽を口ずさんでしまえる方が、チョコへ込めきれなかった想いの余剰を暗示してしまう。兄に対してつねに本気である秋那がそんな余力を残すはずがない、と考える方が自然である。そして、このチョコを女の子に譲ってしまった瞬間から、兄に癒されるまでの間は、まさに無音だったのではないか。想いの一切を託したチョコを手放したとき、彼女の感情は一時的にせよ枯渇したからだ。つまり、洋楽が登場しないことこそが、彼女の感情を雄弁に物語っているのだ。最後に、兄の魔法の言葉によって心を溶かされたとき、彼女が「チョコの代わりに」と曲を紡がなかったのは、やはりそれだけチョコに一切を注ぎ込んでいたということでもあり、いまは彼女自身が、曲の源泉である兄への想いをいっそう深く強くしていく豊かさに安らいでいるからでもあり、そしてまた、この兄妹の安らぎこそが既に一つの温かな旋律に他ならないからでもある。やがてその育まれた想いは、新たな曲となって兄に届けられるのだろうが、この場面ではそれが静かな予感として沈黙のうちに響いているのだ。
2.梨愛(竜胆浅葱氏) 〜否定的性格と兄〜
本編「おにぃたぁにあげるの!〜2にちまえのおはなし〜」では、梨愛(りう)が兄にチョコレートを作って届けようとするさいの事件とその結末が、キャラクターコレクション2話分強(33字換算で空行を除き226行、18ページ以上、イラスト4枚)の物語として提示される。キャラクターコレクション的な展開上のそれ(贈与努力と逆贈与による兄との絆の強化)を有していることは、秋那と同様である。ただし、秋那の場合とは異なり、本編ではチョコを兄に渡すことができた。そしてもう一つ異なるのは、兄が最終場面の前に登場しており、しかもこの兄をめぐる状況が、梨愛に大いなる悲しみを与えてしまっているという点である。この兄途中登場パターンでは、冒頭で示される妹の想いに兄がいったん応え損ね、これによる妹の否定的感情を最終的に兄自身が解消させるという展開が可能だが、本編はこの展開を、兄のそばにいる女子達という批判的第三者の無意図的干渉によって実現している。この構図は例えば咲耶の第3話に近いのだが、あの話では咲耶は自分から第三者の排除に邁進していった。本編では逆に、梨愛が後込みするのを兄が救い出している。この違いはもちろん個性の相違であり、また年長者と年少者の差としても理解できるだろう。
だが、ここで気になることがある。キャラクターコレクションに比して、兄の直接的な台詞が多すぎるのだ。兄情報の限定とは読者参加企画ゆえの必要条件であり、これがキャラクターコレクションでも踏襲されているのだが、本編は、兄の直接的な台詞によって読者の兄像を刺激させやすく、そこに梨愛の兄に対する不満や違和感を覚えさせる危険性がある。兄について丁寧に描写するほど、兄は読者から遠ざかってしまうのだ。この点についてのみ言えば、本編は「シスプリらしさ」をやや損なっていることになる。だが、この原因をたんに文章技法に見出すとすれば、それはあまりに一面的すぎる。それはむしろ、梨愛の独自性と分かち難く結びついているのだ。
先の説明で「年少者」という区分が登場したが、本編の梨愛は、感情の揺れ幅、直情径行ぶり、兄と自分の同一化など、間違いなく年少者らしい特徴を示しており、さらに彼女の明朗さや身長(129cm)をあわせると、読者に原作妹の雛子を連想させる。だが、梨愛が「ウソ」をつくお子様であるという基本設定に注目するとき、彼女は雛子よりも亞里亞に接近する。
「兄の事が大好きで、いつも一緒に居たいあまり、すぐにウソをついてしまう、まだまだ子どもな女の子。ですが、自分では大人だと言い張ります♪ 夢は兄の『アイジン』を経てお嫁さんになること。そのために、日夜『ナイスバディー』になるための努力をおしみません。思った事は即実行で、いつも兄を驚かせます。」
この「ウソ」は四葉の空想癖に近いとも言えるが、四葉の場合は、どんな空想や思いこみを語ったとしても、それはほぼ間違いなく兄を巻き込んでおり、兄と遠ざかる心配は(直接的には)ない。しかし、幼い梨愛の場合は、いま直面している問題をごまかそうとして、かえって兄から遠ざかってしまう可能性が少なくない。
実際に本編では、梨愛は兄にチョコを届けに来たにもかかわらず、ただ学校に行く途中だったなどと兄に嘘をついている。これは、表面的には兄から自発的に遠ざかっているように見えるが、彼女の内面では決してそうではない。むしろ、自分のチョコを兄にいま渡したら、周囲の見知らぬ年長の女子達のチョコに負けていることが明白になって自分が兄の「イチバンになんてなれない」ということを突きつけられるため、なんとか対決そのものを回避しようとしているのだ。もちろん、この嘘のまま兄にチョコを渡さずに帰ったならば、梨愛は自らの嘘によって、想像上の敗北を現実のものにしてしまいかねなかった。(なお、ここで年長者のチョコと自分のを比較してしまえたのは、梨愛の大人志向、つまり常に年長者を意識する姿勢に基づいている。)
このような、自分を兄から引き離しうる否定的性格特性は、兄妹関係にも影響を及ぼす。梨愛が嘘をついたとき、彼女が嘘をつくこと自体を諫めたり、その嘘によって梨愛自身が被ってしまう不利益を回避させてやるために、どうしても他者が介入して事態を収める必要がある。原作では、亞里亞の我が儘に対しては、じいやという第三者が介入することで、亞里亞を直接諫めて嫌われる役割が彼女に委ねられ、兄自身は幼い妹をそのままに受けとめることに専念できた。ところが、梨愛には、そのような第三者の準レギュラーがいない。だから、その叱り役をも担うべき梨愛の兄は、必要十分なだけ自分から妹に語りかけねばならない。これは、ネオシスにあえて否定的な性格特性を与えたことによる、一つの必然的な帰結なのだ。
「ぱんだ高遠のやくそく。」では、兄は梨愛の嘘を兄なりに厳しく諫めている。この態度は、原作キャラクターコレクションの兄やゲーム版の兄