『シスター・プリンセス・メーカー』における妹の可能性

〜企画第2弾を手がかりに(1)〜



はじめに 〜問題の視点〜

 シスター・プリンセス(以下シスプリ)ファンによる妹創造企画『シスター・プリンセス・メーカー』(以下シスプリメ)は、企画者・クリエイター諸氏の個人的活動と相互交流を通じて、オリジナルの妹(ネオシスター、以下ネオシス)創作において、「原作準拠」を追求しながら独自の妹像を生成しつつある。
 本考察は、このシスプリメにおける「原作準拠」と独自性の現時点でのありようを確認するために、シスプリメ企画第2弾「St.Valentine's stories」を取り上げ、それぞれの応募作品のテキストにおける「シスプリらしさ」(普遍性)と「ネオシスらしさ」(固有性)を検討する。この企画を考察対象とする理由は、当該自由応募企画が作品の人気投票を実施すると明言しており、これにあえて参加しようとするクリエイターは、他者の批判を受けることを予期している以上、何らかのかたちでの「原作準拠」「シスプリらしさ」を既に志向しているものと予測できるからである。
 ただし、本考察での「シスプリらしさ」とは、企画応募作品と対比させる都合上、原作キャラクターコレクションに示されるものに限定される。その分析視点については「キャラクターコレクションにおける妹の設定」で仮説的に提示された諸要素を、関連数値については「キャラクターコレクション分析作業」で公開されている暫定的結果を用いる。作品中のイラストについては、これがテキストと不可分な作品構成要素であることは認めるものの、論者の分析視点が定まらないために、考察の対象外とする。また、「ネオシスらしさ」を検討するには現時点(2004年3月15日)での個々のネオシス像を確認しなければならないが、このために、企画応募作品のみならず、そのネオシスに関する他のキャラクターコレクション相当の創作物も適宜参照する。「キャラクターコレクション相当」とは、妹による独白形式の短編で、一組の兄妹のみが描かれるものを指す。それゆえ、クリエイターの日記や複数のネオシスが登場する作品などの内容は、ここでは一切考慮しない。
 なお、本文中では企画応募作品などを適宜引用するためネタバレになること、ネオシスは敬称略とすることを、予めお断りしお詫びしておく。


1.秋那(秋ヶ瀬夜月氏) 〜特技と個性〜


 本編「胸いっぱいの愛」では、秋那(あきな)が兄にチョコレートを作って届けようとするさいの事件とその結末が、ほぼキャラクターコレクション1話分(33字換算で115行、8ページ相当、イラスト1枚)の物語として提示される。秋那が兄のために作ったチョコレートは、届ける途中で偶然出会った年下の女の子に譲られ、兄に手渡されることはなかった。この展開は、兄最後登場パターンに属する。つまり、妹の想いが他者によって、あるいは不可抗力や自らの空回りによって傷ついたとき、最後に登場する兄がそれを受けとめ癒し、結果的には妹が兄への愛情をいっそう深くする、というものである。この形式に従う本編の中で、兄に救われるべき秋那の悲しみは、バレンタインチョコの自発的な喪失というかたちで主題に即しつつ確定されており、しかも結末で秋那が、兄の言葉とは自分の心を「チョコレートのように甘く溶かしてくれる」魔法だと独白するとき、チョコに込められていた想いの甘さは、妹の健気な努力を契機としつつ、逆に兄から妹に贈られることになる。この逆贈与もまた、きわめてシスプリ的な図式である。

 次に、「ネオシスらしさ」を検討するために、秋那のプロフィールを引用しよう。

「秋那ちゃんはとにかく音楽が大好きな女のコ。特に古い洋楽が好きで、いつでもどこでも歌い出してにぃちゃんを困らせているみたい。でも本当は、歌を通して大好きなにぃちゃんに気持ちを伝えたがっているのです。」

 秋那は洋楽ファンであり、作曲や演奏をも手がけているという特技派妹である。衛が「スポーツ好き」であるとともに「スポーツを通じて兄との関係を結ぶ」ように、秋那もまた、自分の好きな洋楽を通じて兄との絆をより確固たるものにしようと望むのだ。だが、秋那のこの特技には、原作の妹達にない独自性が備わっている。洋楽という特技は、曲を作り、演奏し、歌う行為を含んでいる。兄妹関係の中では、それらは基本的に、妹から兄に対してなされる。この点だけなら秋那の特技は非対称的なものである。しかし彼女は、「妹からの手紙」によれば、その曲をいつか兄と「一緒にプレイ」することで、洋楽を通じて兄と自分が直接的に結ばれることを望んでいる。この点では、彼女の特技は対称的にもなりうる。ただし、兄は妹にギターの手ほどきを受けねばならないというあたり、あまり得意ではなさそうに見える。それゆえ、秋那の特技は、完全に非対称的ではないが、現実に対称的とも言えず、いわば可能的に対称的ということになる。つまり、この特技は、兄に教授可能という点で独特のものであり、それゆえに秋那は、兄をバンドに加入させる夢も持ち得るほどには、特技を媒介として未来に開かれているのだ。これは、特技派妹としても、また年長者としても、異例のことである。兄妹の未来にも他者との関係にも開かれた、兄に教授可能な、特技の所有者。このような存在として、秋那は原作妹の枠組みを越え出る独自性を有しているのだ。
 だが、本編では、この洋楽趣味はほとんど語られない。音楽に関わる記述が登場するのは、台所で「……そうそう、音楽も忘れちゃダメ。」とBGMを流す場面のみである。これでは、彼女の特技に基づく固有の絆の描写が欠落してしまい、バレンタインチョコレートのシスプリ的解釈が示されながら、チョコレートのネオシス的解釈がもう一つ突き詰められなかったということにならないか。これはまた、内面と特技の関連性が今一つ不明瞭になりがちという、特技派妹に共通の問題ともつながっている。他の秋那作品が彼女の積極性を描いていることから、この本編での彼女の振る舞いは明らかに(読者にとって)意外な内面を示すものだが、これと特技が結びついていないのである。

 しかし、このような批判だけを行うのは一面的にすぎる。一般に、特技派妹に関わる創作では、妹像を一面的にしてしまわないために特技の描写をあえて弱める場合がある。そのとき、その意図的な空隙を妹像の充実に役立てるのは、兄たる読者の楽しい責務だろう。そこで読者は、洋楽の不在をたんに欠落として理解するのではなく、むしろ逆に、そこに積極的な意味を読み取ることもできる。つまり、特技派妹のキャラクターコレクションを読むとき、ある話ではその特技がなぜ表現されないのかを考えることで、読者は、その妹の内面をさらに深く理解していくことが可能になるのである。
 この視点から本編を読み直せば、ラジカセから流れる洋楽は、苦手な台所仕事を励ましてくれるBGMであり、成功へのおまじないでもある。だが、秋那にとって洋楽がそもそも兄へ想いを伝えるためのものだという基本設定に立ち返れば、チョコを作り上げた時点で彼女の想いは全てこのチョコの中に溶け込まされているのであり、これを兄が受け取ってくれるまでの間は、わざわざ洋楽を持ち出す必要はない。むしろ、洋楽を口ずさんでしまえる方が、チョコへ込めきれなかった想いの余剰を暗示してしまう。兄に対してつねに本気である秋那がそんな余力を残すはずがない、と考える方が自然である。そして、このチョコを女の子に譲ってしまった瞬間から、兄に癒されるまでの間は、まさに無音だったのではないか。想いの一切を託したチョコを手放したとき、彼女の感情は一時的にせよ枯渇したからだ。つまり、洋楽が登場しないことこそが、彼女の感情を雄弁に物語っているのだ。最後に、兄の魔法の言葉によって心を溶かされたとき、彼女が「チョコの代わりに」と曲を紡がなかったのは、やはりそれだけチョコに一切を注ぎ込んでいたということでもあり、いまは彼女自身が、曲の源泉である兄への想いをいっそう深く強くしていく豊かさに安らいでいるからでもあり、そしてまた、この兄妹の安らぎこそが既に一つの温かな旋律に他ならないからでもある。やがてその育まれた想いは、新たな曲となって兄に届けられるのだろうが、この場面ではそれが静かな予感として沈黙のうちに響いているのだ。


2.梨愛(竜胆浅葱氏) 〜否定的性格と兄〜

 本編「おにぃたぁにあげるの!〜2にちまえのおはなし〜」では、梨愛(りう)が兄にチョコレートを作って届けようとするさいの事件とその結末が、キャラクターコレクション2話分強(33字換算で空行を除き226行、18ページ以上、イラスト4枚)の物語として提示される。キャラクターコレクション的な展開上のそれ(贈与努力と逆贈与による兄との絆の強化)を有していることは、秋那と同様である。ただし、秋那の場合とは異なり、本編ではチョコを兄に渡すことができた。そしてもう一つ異なるのは、兄が最終場面の前に登場しており、しかもこの兄をめぐる状況が、梨愛に大いなる悲しみを与えてしまっているという点である。この兄途中登場パターンでは、冒頭で示される妹の想いに兄がいったん応え損ね、これによる妹の否定的感情を最終的に兄自身が解消させるという展開が可能だが、本編はこの展開を、兄のそばにいる女子達という批判的第三者の無意図的干渉によって実現している。この構図は例えば咲耶の第3話に近いのだが、あの話では咲耶は自分から第三者の排除に邁進していった。本編では逆に、梨愛が後込みするのを兄が救い出している。この違いはもちろん個性の相違であり、また年長者と年少者の差としても理解できるだろう。
 だが、ここで気になることがある。キャラクターコレクションに比して、兄の直接的な台詞が多すぎるのだ。兄情報の限定とは読者参加企画ゆえの必要条件であり、これがキャラクターコレクションでも踏襲されているのだが、本編は、兄の直接的な台詞によって読者の兄像を刺激させやすく、そこに梨愛の兄に対する不満や違和感を覚えさせる危険性がある兄について丁寧に描写するほど、兄は読者から遠ざかってしまうのだ。この点についてのみ言えば、本編は「シスプリらしさ」をやや損なっていることになる。だが、この原因をたんに文章技法に見出すとすれば、それはあまりに一面的すぎる。それはむしろ、梨愛の独自性と分かち難く結びついているのだ。

 
先の説明で「年少者」という区分が登場したが、本編の梨愛は、感情の揺れ幅、直情径行ぶり、兄と自分の同一化など、間違いなく年少者らしい特徴を示しており、さらに彼女の明朗さや身長(129cm)をあわせると、読者に原作妹の雛子を連想させる。だが、梨愛が「ウソ」をつくお子様であるという基本設定に注目するとき、彼女は雛子よりも亞里亞に接近する。

兄の事が大好きで、いつも一緒に居たいあまり、すぐにウソをついてしまう、まだまだ子どもな女の子。ですが、自分では大人だと言い張ります♪ 夢は兄の『アイジン』を経てお嫁さんになること。そのために、日夜『ナイスバディー』になるための努力をおしみません。思った事は即実行で、いつも兄を驚かせます。」

 この「ウソ」は四葉の空想癖に近いとも言えるが、四葉の場合は、どんな空想や思いこみを語ったとしても、それはほぼ間違いなく兄を巻き込んでおり、兄と遠ざかる心配は(直接的には)ない。しかし、幼い梨愛の場合は、いま直面している問題をごまかそうとして、かえって兄から遠ざかってしまう可能性が少なくない。
 実際に本編では、梨愛は兄にチョコを届けに来たにもかかわらず、ただ学校に行く途中だったなどと兄に嘘をついている。これは、表面的には兄から自発的に遠ざかっているように見えるが、彼女の内面では決してそうではない。むしろ、自分のチョコを兄にいま渡したら、周囲の見知らぬ年長の女子達のチョコに負けていることが明白になって自分が兄の「イチバンになんてなれない
」ということを突きつけられるため、なんとか対決そのものを回避しようとしているのだ。もちろん、この嘘のまま兄にチョコを渡さずに帰ったならば、梨愛は自らの嘘によって、想像上の敗北を現実のものにしてしまいかねなかった。(なお、ここで年長者のチョコと自分のを比較してしまえたのは、梨愛の大人志向、つまり常に年長者を意識する姿勢に基づいている。
 このような、自分を兄から引き離しうる否定的性格特性は、兄妹関係にも影響を及ぼす。梨愛が嘘をついたとき、彼女が嘘をつくこと自体を諫めたり、その嘘によって梨愛自身が被ってしまう不利益を回避させてやるために、どうしても他者が介入して事態を収める必要がある。原作では、亞里亞の我が儘に対しては、じいやという第三者が介入することで、亞里亞を直接諫めて嫌われる役割が彼女に委ねられ、兄自身は幼い妹をそのままに受けとめることに専念できた。ところが、梨愛には、そのような第三者の準レギュラーがいない。だから、その叱り役をも担うべき梨愛の兄は、必要十分なだけ自分から妹に語りかけねばならない。これは、ネオシスにあえて否定的な性格特性を与えたことによる、一つの必然的な帰結なのだ。
 「ぱんだ高遠のやくそく。」では、兄は梨愛の嘘を兄なりに厳しく諫めている。この態度は、原作キャラクターコレクションの兄やゲーム版の兄よりも、アニプリ第22話などのに近い。そして、あのやや頼りなげな兄こそは、他領域の兄達よりもはるかに大きな自由度で、その意志を示していた。このことは、梨愛の兄が
制限緩和と抱き合わせで背負う「逸脱」の危険性と、「兄らしさ」拡大の可能性とを暗示するのである。
 このとき、「逸脱」の危険性をより大きく見積もるのであれば、叱り役の第三者を登場させて兄の負担を軽減させるのが最も簡便だろう。だが、あるいは第三者の介在なしで、妹が兄に受け入れてもらえる方法もないわけではない。その手がかりは、既に本編の最後に示されている。梨愛は、自分の素直な想いを手紙に託し、日々のウソのことを自覚し謝ることができているからだ。



3.いずみ(ふれでぃ氏) 〜傷病と時間〜

 本編「だから、まだ……」では、いずみが用意した既製のチョコレートに込めきれていない兄への想いを未来に託す独白が、キャラクターコレクション半話分(33字換算で52行、4ページ、イラスト1枚、カット1枚)に収められている。いずみは自分の喜びを一度は抑制させ、そのうえで兄に愛を伝える今後の機会を夢見て、冒頭よりも深い想いに至っている。この場合、兄にチョコレートを渡した描写の有無は問題にならない。チョコレートとはあくまでも、妹の兄愛をかたちにする媒体に他ならないからだ。それゆえ本編は、短編ながら、基本点をほぼ押さえていると言ってよい。
 
最後まで兄が登場しないという兄不在パターン
話としては、原作では花穂の第2話・第6話、衛の第4話、咲耶の第2話、亞里亞の第6話などが挙げられる。それらの話の多くでは、第三者や自分の懸念によって落ち込んだ心が、兄の姿を想像することでそれに支えられ癒される、という展開をとる。本編も一見これと同様の流れではあるのだが、しかし、いずみの独自性は、彼女が兄への想いを終始語りつつ、ほとんど自力で上の段階に至っているという点にある。そこには、自分の兄愛のありようを冷静にとらえ批判できる強さが見てとれるが、この性格特性こそは、彼女が事故で足を痛めて以来、入院し車椅子に座っているという設定と、密接な関連を有している。

「事故で足を怪我してずっとひとりで入院中で車椅子/でも、やりたいコトがいっぱいあるからちゃんと前向き/そして、好きな人にはちょっと子供っぽいわがままで/素直に、たくさん、大好きなコトをしてほしい/……そんながんばりやさんのあまえんぼ」

 病気といえば、言うまでもなく鞠絵が参照される。彼女のキャラクターコレクションには、厳密な意味での兄不在パターン話は存在しない。第3話は過去話であり、また第1話では兄は確かに不在だが、最後に鞠絵に兄の手紙が届くので、むしろ間接的な兄最後登場パターンと言える。他の話も、兄と日常的に接する機会が少ないために、その距離感と不安とを途中で示す兄最後登場パターンが多い。そしてそれゆえに、兄と1日デートの第7話が、きわだって輝いている。
 このことが意味するものは、鞠絵は、現在の孤独と未来の不安とに、独りでは耐えられないということである。そして、ミカエルの世話さえもが、それ以外に他者のためにできることがない(p.19)という鞠絵の認識を読者に突きつけるとき、キャラクターコレクションにおける鞠絵の弱さは、「兄のために」という心に体が全く応じられないという「ずれ」において、決定的なものとなっている。こうして鞠絵の兄愛は、「ずれ」に起因する自己嫌悪を媒介として、独特の色合いを与えられた。だが、この副作用として、鞠絵の病気は不治の病となった。妹の設定に関わる傷病は、傷病中と治癒後の兄妹関係が変化してしまう場合、治癒できない。とくに鞠絵は病気が性格特性ならびに兄妹関係と密接に絡んでいるために、キャラクターコレクションでは、この基本的設定を逸脱しないように、当初のままにひたすら弱い存在であり続けるしかなかった。その変化の兆しは、アニプリを仲立ちとしてリピュアAパートや雑誌最終連載で鞠絵の前向きな意志を確定させるまで、つまりシスター・プリンセスの世界に「終わり」に向かう時間の流れが導入されるまで、与えられずにいたのである。
 このことを踏まえて、いずみの設定に立ち戻れば、果たして足の怪我は完治するのかという問いが、たちまちこみ上げてくる。例えば一つの想像として、いずみの姿は、鞠絵の発病直後のそれを想起させる。つまり、いずみの現在の強さは、かつて鞠絵も有していたものだったが、それが長い療養所生活を経る中で次第に弱まり、鞠絵の現在に至るという想像である。ここでは、いずみの現在は鞠絵の過去と、いずみの未来は鞠絵の現在と重なり合う。このような、いずみを鞠絵の前史としてとらえる視点は、しかしあまりにも救いがない。兄と共にいる未来は、永遠に先送りされてしまうからである。

 しかし、いずみの性格特性に注目するとき、これと全く対立するもう一つの視点が提起される。それは、いずみが鞠絵の未来を指し示していると捉えるものである。
 いずみは、足の怪我のために兄に頼ることに、自己嫌悪を抱かない。怪我は、兄に甘えられる契機として肯定的に受け止められることで、心身の「ずれ」をさほど生じない。つまり、怪我という否定的身体特性は、「子供っぽいわがまま」という否定的性格特性によってうち消され、しかも本来批判的第三者を必要とするこの性格特性は、怪我への当然の配慮というかたちで、叱り役の第三者を介在させずに兄妹関係を強化している。もちろんここで、いずみが怪我をいいことにわがまま放題となったならば、それは読者を遠ざけることとなるだろう。だが、ここでいずみのもう一つの性格特性である「ちゃんと前向き」という強さが登場する。本編で市販品のチョコレートに不満を覚えるいずみは、「今は、まだ」「つたわると、困っちゃう」のであえて兄に「ふつうのだいすきしかあげない」ことにする。ここで彼女は、足の完治による心身の「ずれ」の消滅を近い未来に具体的に想像することで、兄に本当の想いを伝える希望を確かなものにしている。心身の「ずれ」を自己嫌悪に結びつけないいずみが、「わがまま」も含めて兄に対して常に積極的な「前向き」さを示すことによって、彼女はリハビリなどにも立ち向かい、兄の支えを素直に受けとめつつ、その未来を自ら実現しようと努力する。この強さがあればこそ、いずみは、本編での「今は、まだ」という独白に、未来に開かれた積極的な自己抑制を込めることができた。あたかも、春の芽吹きを待つ植物が、冬の雪の下で密かに力を蓄えるかのように。

 この自己抑制に基づく「今は、まだ」と、
鞠絵の「今は、まだそれが不可能だ」というような消極的な自省は、明らかな対照をなす。
ある意味、いずみは体のみが病んでいるが、鞠絵は心身ともに病んでしまっているのだ(この点では鞠絵の心身の「ずれ」はない)。だが、その鞠絵も、雑誌最終連載では未来への意志を独白していた。そして鞠絵もいずみも、その前向きな意志の根源は、兄への想いに他ならない。だとすれば、いずみの未来への意志が現在を絶えず変革していくように、鞠絵もまた望む未来を「いま」に引き寄せていこうとするだろう。こうして、いずみの現在は鞠絵の未来と重なり合い、いずみの未来は、鞠絵の完治の日を期待させる。そのとき、足の完治したいずみがやはり「わがまま」で「前向き」という彼女らしさのままであるように、鞠絵もまた、やがて彼女の生来の明朗さや強さを引き出し、幼い頃のような兄への積極性を取り戻させていくだろう。しかも療養所の「現在」はここで否定されることなく、鞠絵の健全化した心に、より深い兄への想いを培ったかけがえのない季節として受けとめ直されるのである。
 もちろん、いずみにしても、いつまた不安に襲われないとも限らない。しかし、兄と一緒にいられないことへの不安が、むしろ
「まってるよ……」では「もっともっといっしょがいいけど……むずかしいのかなぁ」という妹共通の不満と重なり合っているのを見れば、読者は希望をもって彼女の未来を追いかけていくことができるだろう。


4.成慕(ALINE氏) 〜標準としての自負〜

 本編「なる頑張るね!」では、成慕(なるも)が兄への想いにいったん不安を覚えながらも、友人とチョコレートを作る中でその想いをより確固たるものにしていく顛末が、キャラクターコレクション1話分(33字換算で行、ページ、イラスト1枚、カット1枚)の内容量と、キャラクターコレクションにほぼ準拠する形式によって綴られている。縦書きやページ組、表現技法や文体など、これぞ「原作準拠」と言うに相応しい。そして、その準拠度の高さと、この成慕というネオシスターの性格設定を併せて捉えるとき、シスプリメにおいて現時点での核となる存在が、彼女であることも明らかとなる。

「成慕ちゃんはまだまだ子供気分が抜けない甘えん坊な妹。何かあるとすぐに大好きなおにーちゃんに頼ってしまいます。」

 このように紹介される成慕は、明確な特技を持っていない。年齢的にも極端な位置におらず、特定のガジェットも持たず、性格も甘えん坊で気弱という以外に目立ったところがない。ネオシスターのほとんどが特技などの設定でできるだけ独自性を表そうとしているという現状を見るに、この成慕の設定は、あまりにも普通すぎて特徴がない。新しい妹を創造しようとするとき、この平凡さは、書き手にとっての手がかりを与えにくいために忌避されて当然に思われるのだが、その平凡さに真正面から挑んでいるのが、この妹なのだ。

 原作妹の中で特徴がないとされるのは、可憐である。紹介文にも「お兄ちゃんが大好き」ということのみが記されることもあるほど、可憐という妹は、他の妹達に比べて平凡であり、ピアノという特技も決定的ではなく、また内面と外面がほとんど一致しているために、その性格はなおさら平板に受けとめられやすい。リピュアBパートでも製作者がその特徴のなさに困惑していたが、そうであればこそ、可憐の平手打ちなどの極端な行動が、必要以上に注目されやすかったと言うこともできる。「純粋さ」の多様な表れを彼女の二面性に単純化した「黒可憐」「闇可憐」などのいびつな像は、あまりに内面と外面のずれがないかに見える可憐の個性に対して、ファンなりに何とか深みを与えようとする解釈の試みでもあったのだ。
 しかし、いかに歪んだ解釈を施そうとも、原作に描かれた可憐の姿は、ひたすらにその純真な兄愛を吐露し続ける。この一途な独白が、じつは他の妹達よりもはるかに高い兄呼値(文章中の兄呼称登場率)を示していることは、既に統計的に指摘した。妹が「お兄ちゃん」という言葉を常に語ること、兄を絶えず意識し、兄との関係の中に自分を位置づけていること。この兄妹関係の絶対性を、最も明確に示しているのが可憐であり、この意味で彼女は、シスタープリンセスの根幹を、平凡さの中に具現しているのである。しばしば可憐は「王道」的な妹と呼ばれるが、それはたんにありがちな「妹属性」の典型ということではなく、作品の枢要を一身に体現するからこそなのだ。そして、他の妹達は、可憐を中心におくことで、各人の独自性を安心して主張できる。可憐は妹の標準であり、座標の原点であり、それゆえ1位になれない。そこにはスタンダードとしての自負とともに、普通であることの難しさが存在している。

 成慕もまた、この標準としての責務を、シスプリメの世界で担おうとしつつある。穏やかで極端さのない性格設定に基づいて、彼女は自らのキャラクターコレクション第1話「男の子は好きじゃないの」で兄への想いをそのままに物語り、結果として第1話の水準を満たす兄呼値(2.75-3.03)を達成した。そして、そこでは本編と同様に、原作キャラクターコレクションとほぼ同様の形態が用いられており、物語の内容でも形式でも原作の枠組みを最大限に踏襲している。「原作準拠」を掲げるシスプリメにおいて主導的な存在の一人がこの成慕であるとするのは、つまり可憐と同じく標準的・王道的妹として自らを確立しているからである。本企画のイラストに描かれたネオシスター達のまさに前段中心に、成慕の姿があることの理由も、ここから明らかとなる。
 だが、ここで若干の不安がなくもない。王道的な妹像を描くことには、やはり大きな制約があるのではないだろうか。例えば、特技派妹や帰国子女妹のようには物語の好材料が本人に備わっていないため、創作が比較的困難であることは容易に想像できる。あるいは、確かに可憐というお手本が既に存在するとはいえ、むしろそれゆえに、成慕の描かれ方があまりに可憐に接近しすぎてしまう危険性はないだろうか。両者の性格設定や形姿を見るかぎり、それは決して杞憂ではない。
 この不安に対して、しかし本編は既に一つの明確な回答を与えてくれている。朋美という友人が、成慕の兄愛を共感的に理解し、自分自身の従兄への想いをも成慕にうち明けているのだ。可憐の場合は、そのような理解者は祖母という肉親として登場していたが、これは理解のない友人達と対照されることで、外(一般社会)と内(家族)の決定的な隔絶を読者に暗示していた。そして、この隔絶があればこそ、可憐の純真さはそのままに守られるしかなかった。しかし、成慕の場合には、友人の中に理解者が登場し、しかも成慕の言葉を契機に自らの想いも告白している。このような展開によって、成慕は、第三者に勇気を与え、その第三者と想いを分かち合いながら「いっしょに」努力していくことが可能となった。この、共闘者としての支援的第三者は、原作にない独自の存在であり、彼女によって成慕は、可憐と同じ孤独な純真さを維持せずにすみ、第三者に開かれた関係の中で兄愛を積極的にかたちにしていくことができるのである。


5.忍(タカ氏) 〜女のタタカイ〜


 本編「其の三日間」では、忍(しのぶ)が兄にチョコレートを作ろうとするさいの事件とその前後日が、キャラクターコレクション2話分33字換算で260行、18ページ、イラスト1枚)の物語として提示される。物語構成は、全体の分量のおかげもあって、2月12日・13日の前半部分と14日の後半部分との両方で兄途中登場パターンをとるという、独特の形式になっている。前半部分では、忍の秘めた想いを伝え損ねたものの、兄の大胆な行為によって忍自身は満足する。後半部分では、兄のからかいに対して忍ぶが反撃し、兄以上に大胆な行為に及んでしまう顛末が語られる。その文章量の通り、キャラクターコレクション2話分にそれぞれ独立させてもいいだけの内容が込められているが、原作の中で前後編として構成された話といえば、例えば咲耶の第2話・第3話などが挙げられる。そして、本編に描かれた忍の「シスプリらしさ」を見るとき、原作妹の中でこの咲耶は真っ先に参照されるべき存在である。
 その理由は、忍が兄に対して抱く愛情の表れ方にある。兄は、妹が「恥ずかしさに耐えきれずに逃げ出してしまうのを確信」して、「意地悪そうな」顔で忍ををからかう。これに対して、普段ならからかわれるがままの忍は、「原因不明の腹立たしさ」を感じて逆襲に転じ、兄を見事に撃破する。それは確かに彼女らしからぬ暴走ではあったが、そこには、兄という異性に一方的にやりこめられまいとする女の「タタカイ」の様が描かれてもいるのだ。
 「タタカイ」とは、咲耶がバザーで感じた「女はどこにいっても生きている限りタタカイの連続」という、第2話の、さらには咲耶自身の主題ともなっている言葉に由来する。それは、兄を奪い去ろうとする他の女性に対する「タタカイ」であるとともに、血縁の桎梏に折れてしまいそうな自分の弱さに対する「タタカイ」でもあり、そしてまた、そんな自分の想いを誠実に受けとめてくれない兄に対する「タタカイ」でもある。咲耶の場合は、兄は妹をからかうというより、妹の気持ちに気づかない鈍さの持ち主であり、咲耶にとってはこれが当面の壁となっている。一方、本編の忍の場合は、兄のからかいに込められた不誠実さが、妹にとっての敵である。これに対して彼女が完全と挑む姿は、たとえ一時的な開き直りにすぎないとしても、女の意地と矜持を見せつけてくれている。兄が唖然とするさまに喝采したのは論者だけではあるまい。

 このような「女らしさ」は、また一方で、忍の個性と特技とを結びついている。

「無口な中忍の忍ちゃんは、兄者の身辺警護のためにやってきました。戦闘術は得意なのですが、隠れ身の術が苦手で。いつも兄者に見つけられてはションボリしています。」

 そう、忍は忍者大学を卒業した立派なくのいちである。(忍術を含む非現実的設定の問題については、別の箇所で述べる。)この特技派妹としての設定は、本編では、「拙者」という一人称や「上忍試験」などの言葉に暗示されているが、忍術そのものは、直接的には物語に全く反映されていない。これは、同じ忍者設定をもつ楓と話が被らないようにするための措置かもしれないが、それでも「身辺警護」ということならば、兄を他の女性のチョコから守るという行動も可能ではないか、などという批判も可能かもしれない。
 しかしこれは、「隠れ身の術が苦手」なために兄に2度も発見されているということで否定的に表現されているとも言えるし、また、本来は警護対象からも身を隠していなければならない忍者がそうできないという問題は、兄への想いを隠しているつもりなのに全然隠せていないという状況と重なっている。特技派妹における特技と個性の乖離は、ここでは衛の球技という弱点が彼女の不安と結びついているように、、特技の問題を兄妹関係における性格特性の問題に一致させることで、解消されているのである。それゆえ、忍が最後に兄に対して開き直ったその瞬間、彼女の長所としての特技は確かに披露されていた。あの一瞬の切り返しこそは、彼女が得意とする忍者ならではの戦闘術そのものの暗喩だったのだ。
 そして、この切り返しの輝きは、忍の日頃の寡黙さを背景にしていっそうの映えを見せる。忍者としての滅私・禁欲ぶりは、忍を全般としては受動的な存在にしている。この「受け身」という否定的性格特性をもつ妹が能動的になるためには、既に梨愛の箇所で指摘したように、兄による積極的な働きかけか、第三者の介在が必要になる。忍の場合には、兄については上述の通りであり(やや「兄らしさ」を逸脱)、また第三者については、本編にも登場した沙耶という同級生が、忍の背中を押す役割を果たしている。「忍の文化祭」によれば、忍の兄への想いを唯一知らされている友人であり、その肯定的第三者としての重要性は、忍の受動性ゆえにきわめて大きい。この友人に励まされ、あるいは罠にはめられて、忍は兄に否応なく接近せざるをえなくなり、その兄には自分の純真をからかわれ、ときには兄から逃げだし、ときには突然豹変する。名前の通り「しのぶれど」だが、思いつめたら恐いという忍のこの個性は、その暴発に自ら焦るという収束まで含めて、「嬉しさ」と「悔しさ」の間に揺れる彼女の多様な表情を、読者に示してくれるのである。


終わりに 〜まだ5人分〜

 企画応募全22名中の5名ということで、この考察は未だ端緒についたばかりと言わざるを得ない。だが、既にこの序盤部分においても、ネオシス達の設定や物語に、シスター・プリンセスらしさという「原作準拠」の具体像や、その枠組みを拡大するような独自性追求の方向性が、それぞれ確認できた。もちろんそこには各人なりの問題も同様に存在してはいるが、これについては、本企画とネオシス達が成長途上にあることを踏まえれば、今後の解決や予想外の発展を期待していいだろう。
 また、ネオシスの独自性を検討することは、彼女達と対照される原作の妹達についても再検討を行うことに結びついた。原作キャラクターコレクションの考察は未だ仮説的な視点の提示に留まっているが、本考察でその一端を示しているように、ネオシス理解を基盤に原作を逆照射することもやがて可能となっていくだろう。ここにはシスター・プリンセスをさらに深く理解していく可能性が潜んでいるのであり、それはネオシス達自身の豊かな可能性によって初めて開かれたものなのである。この可能性をさらに探求するために、論者は次の5名の検討に移ることにしよう。


(2004年3月14日公開 くるぶしあんよ著)

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