日記
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2006年5月1日(月) 夏休みのおわり
 『よつばと!』第5巻。表紙カバーを外した瞬間、心臓がぎゅっとしましたが、これ夏休みの最終日で最終回ではないみたいですかね。

 この作品、ジャンボ・とーちゃんたち・風香たち・恵那・みうら・よつば、と身長の順があるわけですが、それをコマごとの視点移動によってちゃんとキャラ目線でも読者に伝えているのですね。当たり前の技術かもしれないけど、その移動具合が読んでて心地よいのです。とくによつばは、一番ちびっこなだけに上向きの顔で描かれがちですが、アニプリ第9話で航の部屋を窓から覗き込む雛子を思い出してこれまたしみじみ。で、そのよつばにコマをあわせるから、大きいひとたちの頭が画面からはみでまくりで、そのひとたちの感情を首から下だけで表現するわけで。

 さて、今回も恵那はダンボーに「ばこっ」て一発いれたり、工作の形跡をこっそり片づけてたり、葡萄の早食い競争に燃えてたり、宿題の決まり事にきっちりしてたり、いろいろたまりません。ダンボーを壁に叩き寄せるとこなんて、彼女の性格とともに、みうらとの体格の差が如実に現れてます。
 よつばは、やんだとの遭遇によって、ついに悪意・敵意を表出しました。この作品、これでほとんど完成。
 で、よつばに「しゃがんで!」とせがまれてかーちゃんが腰をかがめてそこによつばがよじ登る場面とか、うんこ連呼とか、水たまり吟味とか、カサへたとか、変な歌詞とか、一晩ずっとの期待が裏切られたときの爆発的なかなしみとか、電車のつりかわ届かないとか、「なかよし」座席とか、「流されない遊び」とか、あああああ。それらは自分自身が子供の頃に経験したことであり、また大人になってから子供達を相手に仕事をしてたとき経験したことでもあり。かがめた腰のどのへんに体重をかけて子供がよじ登ってくるか、多少の痛みとくすぐったさとともにまざまざと思い返せます。子供ってそうだよな、という感慨が、たんにイメージとしての子供に対するものではなくて、そうやって昔の自分という子供にも今の子供にもあてはまるというのがこの作品の普遍性。

 「いきてるってなに?」のとこだけは、逆に浮いているとも言えます。
2006年5月2日(火) しろがねのつばさ
 馬鹿話。

らむだ「なんかここんとこ、爆撃機が気になるんだよね。」
美 森「は?」
らむだ「とくに大戦中の米軍のやつ。B-17やB-29以外にも色々あるみたいでさ。」
美 森「はあ。なんでまた。」
らむだ「ほら、高校生の時分もツポレフがどうとか言ってたけど、
    あれはまあ、ソ連びいきが男のたしなみみたいな、そんな時代だったじゃない。」
美 森「そんな流行、知りません。」
らむだ「今まで米軍爆撃機なんて地味で不細工だとばかり思ってたのに、
    気がついたらなんだか、いつもそのことばかり考えてるみたいな。まるで恋みたい。」
美 森「爆撃機にときめいてるのか。」
らむだ「この想い、どうしたらいいのかな。」
美 森「所詮かなわぬと知れ。」
らむだ「それとも、これは『グロイザーX』再評価の機運ということでしょうか。」
美 森「それは絶対ない。」

 仕方がないので、グリーンアロー社の『アメリカ陸軍軍用機集1908〜1946』を買ってきました。「はじめに」でも、人気のない米軍機を扱って売れるのだろうか、という懸念が盛り込まれておりますが、あにはからんや4年前から売れ残り。あうー。
 爆撃機ファンサイトとかあったらどなたかお教えくださいませ。
2006年5月3日(水) 光を越えて
 グロイザーXで検索してたら、こちらのサイトを発見。有名な方みたいで、ゴーダムはトラウマアニメとか、メカンダーロボの歴史的意義とか、とても興味深いお話が。

 馬鹿話。マッドテープの話題などから。

美 森「昔のカセット、分解してテープを逆向きに替えたりしたなあ。」
らむだ「あ、そうすると逆回しになるのか?
    ……『パジャマでおじゃま』を逆回しにするというのはどうだ。」
美 森「なんだそれ(爆笑)いや、よく分かるが。」
らむだ「たどたどしくボタンを外すわけですよ。」
美 森「古賀亮一の漫画みたいなネタだなそれ。書いとけ。」
2006年5月4日(木) ぼむばー
 爆撃機サイトを探してて見つけました、『Warbird Alley』『世界の名機(爆撃機/攻撃機)』。砂が水を吸い込むように読みふける。そして、こちらの素晴らしいヒコーキ絵の数々。うはー。
2006年5月5日(金) ぺどのひ
 ONAさんの「しんこんメイデン」と、『オトウフマテリアル』さん(5/1)の「ばらんちおとめちゃん」で薔薇乙女分を補給。どちらも最初の勢いがまったくそのまま続いています。すごー。
 シスプリ分の補給は絶え間なく続けているつもりですが、自分の側からその成果を示せないところがつらいですね。
 旅人さん主催のプチ・パルティexなど、まだまだ終わらないシスプリの波。中途で止まってるものも含め、早く何とかしなければ。

 そう思いながらもなぜかバーバラ・W・タックマン『八月の砲声』(ちくま学芸文庫)を読んだり。第一次世界大戦の幕開けを描くノンフィクションですが、長編であることに気づかない面白さ。いかに国際政治における各国の判断がわやだったか、つい噴き出してしまうほどですが、それは当時ぼくが生きていたらおそらくそれと分からなかった錯誤の連鎖だったのでしょうし、そういった愚かさの問題はまた現代にも当てはまるものなのでしょう。
2006年5月6日(土) ハルヒ考察まとめてみた
 日記が相変わらず埋まってませんが、とりあえずコンテンツ追加報告のみ。
 「『涼宮ハルヒの憂鬱』における少女の創造力 〜虚無性を超える乙女心〜」です。これは3年前の日記で述べた感想・考察をほぼそのまま並べ直したもので、ほんとならもっときちんとした考察に再構成できればよかったんですがすみません。とくに薫さんには約束しておきながら申し訳ありませんです。最近、REVさんからのリンクなどいただいたので、このさい一覧化だけでもしておこうかな、と。
2006年5月7日(日) 反応感謝
 『REVの日記』さん(5/6)、『カトゆー家断絶』さん(5/7)、『Engel Zimmer』さん(5/6)、『nekoyama01-blog』さん(5/3追記)、『萌え理論Headline』さん(5/3u)、考察の紹介いただきありがとうございます。今回のはてなブクマはこんな感じでした。

 夏葉薫さんからもご意見いただく。その節はお世話になりましたー。「古泉の役割は色々な方向へもう少し大きく見積もる事は可能だと思います」というご指摘は、シリーズ展開を見直すとたしかにその通りですね。本日やっと『憤慨』を読みましたが、古泉の比重がさらに増していってる感じです。
 しかし『憤慨』、口絵の朝比奈さんが巫女服じゃなくてメイド服のままですにゃ。

 そしてとてもどうでもいいことですが、かつてはハルヒの生理痛がひどくなるたびに、大変な事態がひき起こされていたりしたのでしょうか。「世界の全てを呪いたくなる」とよく言われるこの逃れられない痛み、これがハルヒに降りかかったのが小6の頃とすれば、このシリーズはその視点からの解釈も可能にするかもしれません(どんなだ)。

 追記。ハルヒって、性別を裏返すとランス(アリスソフトの)なのかしら。
2006年5月8日(月) 私はピアノ(の脚)
 『宇治市軍団 古今東西』さん(5/7)、『The☆二次元堂』さん(5/6)、『idolinglife』さん(5/8)、『がんつく。』さん(5/7)、『RORIholic』さん(5/8)、『儚雪の空』さん(5/7)、『かーずSP』さん(5/8)、考察の紹介ありがとうございました。

 昨日のハルヒ生理痛話ですが、それはあんまりです(笑)。つか、まさか敷衍されるとは。妄想が止まらなくなりました。

 で、ハルヒ考察の最後に、日記連載時に参照していた諸サイト感想(の一部)へのリンクを簡単ながら追加しました。シリーズ展開後のものや、アニメ放映後の最近のものなどは、とうてい調べきれないので含めてません。あくまでも当時のもの、しかもそのごく一部だけを取り上げさせていただきました。今でも非常に参考になるものばかりですので、皆様ぜひ。

 Zoroさんどもです、おかげさまでなんとか保ってますー。
 「表現の自由」については、せめてそれを過去に守り育ててきた人達の行いを振り返っておきたいところです。少なくとも、よく引き合いに出されるアメリカ独立戦争での匿名パンフレットなどの場合、そこには、そのような表現活動を行うことが、その市民社会なり人間社会なりの「公共の福祉」や「公正さ」「正義」を増進することだという信念があったはずです。しかし、今のぼく達が同じ言葉を叫ぶとき、そのような信念はどこにあるのでしょうか。もちろん、だから何でも検閲・禁止、というわけではありません。しかし、と。

 貴也さん(5/7)経由でシスプリ成分解析

> シスプリ解析。によるくるぶしあんよの解析結果

>  くるぶしあんよの83%は可憐のピアノで出来ています
>  くるぶしあんよの8%は12人の妹たちで出来ています
>  くるぶしあんよの5%は可憐で出来ています
>  くるぶしあんよの4%は妹への愛情で出来ています

 ひゃっほうぅぅぅぅ!

 いや、ピアノで喜んでいいのか。いいのだ。可憐、ぼくを弾いておくれ。
2006年5月9日(火) 呼称の変化とか
 「ネギ先生はいつから『のどかさん』と呼ぶようになったのか」
 修学旅行中なのは間違いないはずだけど、その原因が(結果的に仮契約を結んだ)キスだとはぼくは思わなかったような……。と気になって自分のネギま考察中編を読み返したところ、3(1)でこんなふうに書いてました。

−−−−−−−−−
ネギ 「だから僕 宮崎さんにちゃんとしたお返事はできないんですけど… その…」
    「−あの と 友達から… お友達から始めませんか?」

 のどかは、これににっこりと微笑んで「はいッ(はぁと)」とうなづく。確かにそれは、夕映が思うように「まだ10歳の子供」であるがゆえの限界である。だが、これが言葉の上辺だけのものでないことは、呼び方が「宮崎さん」から「のどかさん」にすぐさま替わったこと(38時間目)に加えて、フェイトによってのどか達が石化したときのネギの憤りに明示されている(46時間目)。

ネギ 「先生として…友達として…僕は…僕は…許さないぞ!!!」

 前編でも引用したこの台詞に、はっきりと「先生」と並んで「友達」という言葉が並んでいることを、あらためて確認したい。それはネギが本心からのどかのことを友達として、普通の「生徒」とは異なる特別な存在として、理解していることの現れである。のどかがネギに告白したときの誠実さは、こうしてネギからも、「友達」としての誠実さによって正しく応じられているのだ。ここに、のどかとネギの間で初めて実現した、恋愛感情を媒介とする教師ー生徒関係の相互超克の端緒が見いだされるのである。
−−−−−−−−−

 書いた当人がこの文章忘れてましたが(滅)、ここでぼくはキスという思わぬ事件よりもネギの「お友達から」という意図的な言葉を重視してます。ネギが相手の呼び方を変えるのは、事故のようなキスによるよりも、のどかとの関係変化に対する彼自身の自覚的な決心によるものである、と考える方が、ネギの性格に合致するのではないか。生徒「宮崎さん」と「キスをしたから『のどかさん』」ではなく、「お友達になったから『のどかさん』」なのであると。たぶん、当時そんなふうに判断したのでしょう。このことでネギくん、4話もかけて真剣に悩んできてたわけなのですし。
 いずれにせよ、このへんは「原因はキスか否か」という話というより、解釈の重心をどこにおくかという問題ではあります。

 しかしこの呼称変更、考察執筆時に単行本できっちり確認作業したはずですが、考察文では太字になってませんね。うーん、あまりにあっさり風味。「考察の書き方」でいうところの「関節技」は、手間をかけてもこのように地味な扱いを受けることが多いのでした。

 こちらこそ素敵な文章をいつもありがとうございます。ハルヒでもシスプリでも、疏水太郎さんの感想や作品からは、自分にないものをたくさん頂戴しております。

 ぼくの考察でハルヒの魅力5割増とのことですが、はてブでも、かつてぼくの日記連載をきっかけに『憂鬱』を読まれた方が。わーい。考察を通じて作品に興味をもっていただけたり、もっと好きになっていただけたりというのは、毎度書いてますが考察者冥利に尽きますね。一方、考察自体をひとつの「創作」と見なしていただけるというのも、これまた嬉しいものであります。
 とはいえ、ぼくの最近の更新コンテンツって昔のやつを再利用してるのばかりですな……。もう枯れたのかしら。ううう。
2006年5月10日(水) 若書き考察発見
 『天涯の森』さん(5/8)、『わっほー』さん(5/8)、『発熱地帯』さん(5/9)、考察の紹介ありがとうございました。

 そのハルヒ考察ですが、アニメ版シスプリ第25-26話分考察に次ぐ長さとなってました。だいたい原稿用紙120枚。ひー。読んでいただく方々には申し訳ない分量なのですけれど、それでもハルヒ単行本でいうと70ページちょいですか。全体の1/4にも満たないわけで、なるほど小説を書くというのはたいへんなものですね。

 サイト各所の不備がしばらくそのままになってるので、なんとかせねばと思い作業しておりましたところ、アニメ版シスプリ第3話分考察の公開当初(2002年5月18日)のものが発掘されましたので、なんとなく再公開してみます。猿元さん達のご指摘をうけて全面修正を施した現在のものと比べてみると、いろいろ欠陥があって、
 ・文字が大きい(欠陥でもないか)
 ・閲覧者に不親切(2つの表が別ファイルのままなど)
 ・考察の問題意識や視点が不明瞭(「はじめに」「終わりに」の不備)
 ・内容が分析どまりで、作品主題へ向けての綜合・意味づけがなされていない
 ・その分析そのものも不十分(妹達の年齢などについての考察が欠落)
 ・総じて作品や人物への愛が足りず、ネタ化のための冷笑的悪意がそのぶん多め
てな感じです。一応は文章の最後の方で、物語の展開についての予測もすでに記されてはいますが、この時点では全話を考察しようなんて考えてもいなかったわけで。リライトして本当によかった。
 読み比べるのも面倒な長さではありますが、ご関心ある方には、ぼくが言うところの「考察」の悪い見本として参照していただければ。つまるところ、上述の諸欠陥というのは、作品中のある事実に注目することで作品解釈・評価を大きく肯定的なものへと導いて作品を読者に好きになってもらう、という考察目的をまだ確立していなかったために生起しているわけです。
2006年5月11日(木) ハルヒとあ〜るとか
 Whiteさんよりハルヒについて。妹についての考察というのは、まとめの方にも転載しましたがこの日記のことですね。文字通り予言的な内容でした(嘘)。
 しかし、『ハルヒ』と『あ〜る』を比較して、

>white: ああ、あれだ。鳥坂センパイは「満足している」んだ。

というのは確かになるほどですねー。疑いなく自分と世界を肯定して生きてる。あと、力の限界もはっきりしてるし。うさぎに負けるし(引き分け:本人談)。その点ではハルヒもだんだんに、自分と世界とをそのまま受け入れつつあるように思うのです。つまりやがては女鳥坂?
 ハルヒもいつか、生徒会と銀玉鉄砲で戦争しますかね。あるいは、飯田線に乗るSOS団。ああ、遊園地で戦隊ものの着ぐるみショーとか演じないかなあ。

古 泉「おや、まぬけ時空とやらに本当に吸い込まれてしまったようですね」
あ〜る「だいじゃうぶ、この埼玉県の地図さえあれば迷うことはありません」

 けったいなアンドロイドを入団させるべく、鳥坂と戦うハルヒでありました。

 秋ヶ瀬夜月さん作の「Sincerely Yoursデータベース」。うちのキャラコレ予備的調査に対応していただいてますが、さらにイラスト考察も加わっていっそう詳細に。兄の登場具体とか、イラストのコマ割りとか、キャラコレとの相違点も明らかにされています。それにしても、3点リーダ数ではやはり千影を恨みたくなりますよね(笑)。
 秋ヶ瀬さんが凄いのは、ネオシス秋那ちゃんの創作を原作シスプリの形式に沿って着々と続けられてるということで、今回の調査も次なるネオシス創作の材料になるのでしょう。またも待ち遠しいかぎりです。

 「スーパーウルトラセクシーロボット妹祭りSP」開催中。あああ、カレンダイザーが(爆笑)。

 や、最近ハルヒばかりですが、シスプリを忘れたわけではないのです。春歌誕生日SSもなんとか書き上げる所存なのです。
2006年5月12日(金) キョン独白の改変とか
 こちら(5/5)に掲載されてたアニメ版ハルヒ第2話冒頭のキョン独白テンプレートを改変してみるテスト。

−−−−−−−−−−−
『Clannad』の発売予定日をいつまで信じていたかなんてことは他愛もない世間話にもならないくらいのどうでもいい話だが、それでもオレがいつまで脳内恋愛などという妄想による世界革命を信じていたかというと、これは確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。秋葉原の打ち水イベントに現れたメイドは偽メイドだと理解していたし、オフクロとオヤジが家族計画しているところを目撃したわけでもないのに弟しかこしらえない我が両親の存在意義を疑っていた哀しい俺なのだが、はてさて、妹や幼馴染みやメイドやロボや魔法少女やケモノ娘やそれらと暮らすアニメ的ギャルゲー的電撃G's的主人公たちがこの世に存在しないのだと気付いたのは相当後になってからだった。いや、本当は気付いていたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ。俺は心の底から妹や幼馴染みやメイドやロボや魔法少女やケモノ娘が目の前にふらりと出てきてくれることを望んでいたのだ。しかし、現実ってのは意外と厳しい。3次元世界の物理法則が良くできていることに感心しつつ、いつしか俺はテレビの萌え特番やアニソン特集をそう熱心に見なくなっていた。妹12人? 母親7人? どじっこメイドロボ? そんなのいる訳ねえ。でも、ちょっといて欲しいみたいな、最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。中学を卒業する頃には俺はもうそんな駄目な夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。俺は大した感慨もなく高校生になり、そいつと、出会った。
「東中出身、涼宮ハルヒ。ただの男性にしか興味ありません。この中に、お兄ちゃん、ご主人様、執事、思い出の幼馴染みがいても、べ、別にあたしのところに来なくてもいいんだからね! 以上!」
 これ、なんてエロゲ? えらいツンデレがそこにいた。誰もが冗談だと思っただろう。結果から言うと、それはギャグでもVIPネタでもなかった。ハルヒはいつも大マジなのだ。こうしてオレたちは出会っちまった。しみじみと思う。これで幼女だったらなぁ、と。
−−−−−−−−−−−

 最初は、『Clannad』じゃなくて『つぼみ』で作ってました。

 そのアニメ版ハルヒ、EDばかりが大人気みたいですが、OPも素晴らしいと思うのはほくだけなんでしょうか。EDはSOS団との、OPはキョンとのハルヒのメッセージ。その歌詞は原作で表だって語られない(そしておそらく本人にも自覚されていない)ハルヒの想いをそのまま伝えてくれて、胸がこう、きゅっと。画面を見るとなおさらだけど、曲だけでも泣きそうになります。

 ハルヒ考察の結びでの”recreate”云々がリピュア考察6の”Re Pure”解釈をそのまま応用してることは、すでに見破られてるかもしれません。開き直って書いてしまうならば、ハルヒシリーズとはリピュアAパートと同じく、「偽物の星」をなんとかして愛する少女の手の中に届けようとする、そんな少年の物語です。たとえそれがまがいものの星でしかなくても、それが少女の望む未来を真に約束するものでないとしても。そこに込められた少年の想いは、まがいものなんかじゃないのです。そして、そんな少年に向けられた少女の笑顔も、また。
2006年5月13日(土) 憤慨感想
 さて、『涼宮ハルヒの憤慨』。以下ネタバレです。

 参考本にポストイットを貼り付ける(p.72)朝比奈さん、ぼくも今この単行本をそうやって読んでます。なんて語りかける前に、あなた自分を人魚姫になぞらえてますけど、泡になって消えてしまうその日のことはしばらく考えないことにします。
 長門さんの作品は、ちょっと解釈できません。とりあえず、「幻想ホラー」という縛りで書かれたものだということについてのみ書いておきますと、彼女にとって「幻想ホラー」とは何ものなのか。それは、合理性で割り切れない自分自身の現状。そして、彼女のみる「夢」の記憶。長門さんが何かを暗示しようとして書いたというより、彼女が眠りの中でみた夢をそのままに記した、と考えてみることもできませんでしょうか。つか、キョンに恋愛小説勧めてるし(p.290)。
 その長門さん、ついに冗談を言うようになりましたが(p.265)、その事実自体に反応しなかったキョンを前にして、長門さんは残念に思ったか、それとも優しさを感じたか。
 で、長門さんもコンピ研に「ちょくちょく」訪問してたり(p.104)、ハルヒも同級生女子とそれなりにつきあってたり阪中さんと携帯番号を交換してたり(p.245)、周囲の人々とのつながりがSOS団を基点に広がっていくわけですが、それを眺めるキョンの満足げな独白がなんともはや。

 とくにハルヒについてはいよいよクールの皮が剥がれており、「ハルヒはハルヒでたいしたヤツなのだ。俺が言うのだから間違いはない」(p.136)だって。はいはい。ハルヒの方も、キョンに試験勉強をみてやろう、と提案するハルヒは窓の外を向きまくりでそれはもう初々しいのですが、キョンの成績が危ないと聞いた瞬間(「あんた、そんなに」p.20)からその段取りを考えてるんでしょうかね。で、キョンもキョンで「雲の観察に同調」(p.22)したりして、同級生が横で見てたら全くもってごちそうさま。
 さらにこのバカップル、過去の恋愛話云々でキョンはハルヒに読ませていいものか心配し(p.146-8)、ハルヒも「あんたとどういう関係?」なんて口走り(p.152)。ハルヒがキョンの顔を「下からのぞき込むように」(p.175)して見ているかと思えば、キョンは眼前のハルヒを「春の花のような笑顔」(p.98)と形容。あーあーあーあー。まあ、キョンも「仲間同士で共有しつつ、でもハルヒには隠しておくべきことが月単位で増えていく……」と感傷的かつ冷静に認識してはおりますが。

 さて、今回の最重要人物がキョンの妹であることはすでに周知の通りです。この子が「電話片手に」現れるたびに「変なことが発生」するのであり(p.114)、兄の部屋の「ベッドに寝そべって」漫画を読んでしまうような妹なのであり(p.289)、まさにもう一つの情報爆発の爆心地。つか妄想爆発。どかーん。そしてキョンも、そんな妹の「行く末を案じ」たり(p.118)、妹のことを考えてシャミセンを連れて帰ることにしたり(p.282)と、相変わらずの兄っぷりです。田舎でよく「年下」の従兄弟たちの「世話をさせられていた」せいで子供あしらいが上手くなり「小さい子供にやたら懐かれる」(p.157)などというのは、まずはこの妹との日頃のかかわりがあってのこと。そういう点で、考察にも書いたキョンの妹の重要性は、あらためてここに確認されたと言えるでしょう。言えるんだってば。

 ところで、ハルヒが中学時代に試したという「魔術書」(p.207)とは、国書刊行会から出てたクロウリーのやつでしょうかね。『法の書』か。黄金の夜明け団のか。性魔術か(違)。

 追記。サンフェイスさんとこ、見た瞬間に吹きました。もう真美の性格がああとしか思えません。
2006年5月14日(日) 思い出のリンゴジュース
 久々にプリキュア。普通にいい母娘話でしたが、あのドロドロンという敵のいでたちに何かを思い出す……。あ、イサミに登場したクモ男かしら。

 古賀亮一『ニニンがシノブ伝』第4巻と、うさくん『しあわせももりんご』第1巻をあわせて読んだら、頭の中身が春本番に元通りです(変化なし)。シノブ伝は完結、最後までおなかかかえて笑わせてもらいました。うさくんの漫画はコミックとらのあなにて連載中のものです。こういう馬鹿(褒め言葉)な作品が好きな方は、ぜひ。それはもうぜひ。

 『裏向井』さん(5/11)より、典型的なハルヒ批判。正直申し上げて、そう感じるお気持ちは分かります。様々な作品解釈を抑圧するような信者活動も、たしかにどうかと思いますし。
 しかし、「洗脳が解けて正気に戻る」という言い方は、「信者」の「それはお前がオカシイ」という言い方と同じく、自分の意見の正当性を疑わないものであり、つまり両者とも、(ハルヒ考察でも批判したような)虚無性の根源にある絶対的観点・唯一者というものに依拠した思考です。しかもそれらは、ぼくの解釈では、原作におけるハルヒとキョンの、そしてSOS団の活動によって、乗り越えられていくものなのです。とすれば、ハルヒ信者はキョンに叱られるでしょうし、アンチハルヒ者は自らの嫌うハルヒ像と同じ行動を選んでいるという皮肉な状況なのかもしれません。
 いずれにせよ、「実際原作読んでない」とのことですので、ぜひ一度読んでいただければと。

 今木さんより、それはキョンこそツンデレですね。だいたい、犬と仲良く飛び跳ねる(『憤慨』p.218)ツンデレなんて想像つきません。ぼくもこないだハルヒをツンデレ扱いしましたが、キョンに妹がいないと設定してるあたり明らかに歪曲ネタなのでした。そんなのキョンじゃないやい。兄に妹は先行します。
2006年5月15日(月) 君だけにスマイル
 『魔っ犬伝』さんの、予告で「ハルヒが言うとおりに話を並べるとちゃんと繋がる」ことの証明(『カトゆー家断絶』さん5/15より)。ああー、なるほど! と膝を打つと同時に、やられた! と。素直な驚嘆半分、ファン・考察者としての悔しさ半分。こういう感情は、作品鑑賞のうえであまり良い影響を与えないものなのですが、ああ何故ぼくはハルヒの言葉をそのまま受け入れることができなかったのか。くうう。

 そうか、こないだは「ツンデレ」の定義も間違って使ってたのか自分。あと、ツンデレよりもツン・ツンツン(他人の前よりも二人っきりの方がもっとツン)、という話をどこかで読んだような。
 個人的にはツンデレよりも、ツンラブというか。その場合のツンというのは、裏付けあるプライドの高さによるもので、だから誰かを心から想うときには、(デレの段階もあるかもしれないけど)高邁な慈しみを素直に込める。例えば「いい思い出になさい」と微笑んだメテオさんには、かつてそんな気高さを感じたわけでした。そういう姫様理解でよろしいでしょうか>しゅんさま。

 「ハルヒ 考察」でぐぐるとこんな感じになります。おかげさまでうちの考察も上位に置いていただいてますが、しかし考察を掲載してからぐぐって引っかかるようになるまで、1週間ほどの間があったみたいです。それまでは、ページタイトルの「ハルヒの空」云々で検索しても、考察を紹介されてるはてなブックマークのページばかりが並んで、うちの考察ページそのものは出てきませんでした。googleにチェックされる頻度にはそれほどの差がある、ということを実感できた次第です。
2006年5月16日(火) 春歌の誕生日
 昨日のメテオさん話に反応いただく。期待してたとはいえ、その気負いのない真っ直ぐさは、さすがしゅんさまでした。心洗われます。

 う、だめだ誕生日SSまったく間に合いそうにない。話が真ん中でどうにも繋がらない。くわー、週末までになんとか……(弱気)。

 馬鹿話。

らむだ「『私は子供が嫌いだ』というのは、『饅頭怖い』みたいな意味なのかな。」
美 森「知るか。書いとけ。」

 あっさり放置。これ前にも書いたっけ。
2006年5月17日(水) ちかれたびぃ
 お仕事でおでかけ。よっこら一山越えようかという時に、たまたま開いた雑誌の占いが最悪の内容。いただきもののアクセサリが有効、とのことだったので、せめてものおまじないにと、仕事着のポケットに可憐キーホルダーを忍ばせてみる。その甲斐あってか、とりあえずは次につながる結果となりました。

 ついでに実家の本棚整理してみたり。隙間をあさってたら、『涼宮ハルヒの暴走』がこんなとこにっ。帰りの車中で付箋をはさみながら読み直し。ああ、至福のひとときです。
2006年5月18日(木) 熱湯浴
 車中、ハルヒに続いて朝日新聞を読んでたら、「連続インタビュー 歴史認識」という記事がありました。その5/16付記事の本文はこちらに全文転載されてますが、ここで登場している韓国人教授の批判的態度はとても参考になります。
 ところで、この『murmurブログ』では、同様の評価を教授に向けつつも、結局は朝日新聞に「サヨクのオピニオンリーダーとして、しっかりとケジメをつけてほしい」といつものパターン。それはその通りとしても、この教授が指摘した問題はもう一つあって。
 それは、「韓国で民族主義の枠を超えた研究をすると、日本のナショナリストたちが利用」して「結果として残るのは強化されたナショナリズムと対立だけだ」ということ。つまり、当人達が中立的な価値判断を行っていると信じているこのようなブログが、まさに韓国の「民族主義を越えた」研究者の言葉を引き合いにしながら、コメント欄に多く見出されるような粗野なナショナリストを発情させていく(あるいはそれを黙認する)という状況が、記事中でやはり批判されているわけです。それはもう、またとないサンプル。そのことを看過しているという意味では、『murmurブログ』は(そこで批判されている)朝日新聞と同じく自己の責任にあまりにも無自覚なのです。
 似たようなことは以前も述べました。
2006年5月19日(金) 日記追いつかないよう
 then-dさんの『CLANNAD』論。読みながら思い浮かべるのは、神話的世界観。母−妻−娘のこととか。だけど、忘却というのは神話的というよりも小説的なものなのでしょうか。考えが全くまとまりませんが。

 疏水太郎さんより。ぼくが飲んだのは確かムーベンでした、名前をみて吹いた覚えが。しかし検査のお供に電撃G'sとは、その手がありましたか(膝を打ちつつ)。そして洗浄剤がやがてとりもつ妹達との出会い。その子達と出会ったときからゴロリと音を立てて(腹痛)。
 ぼくの場合、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を手元に置いてたのですけど、登場人物と軌を一にして消耗していく自分がいっそう頼りなく思えただけでした。次は萌え雑誌でぜひ雪辱。
2006年5月20日(土) あつー(下品)
 『小さな刺客の大きな野望』さん(5/20)、考察の紹介ありがとうございました。

 SSも書かずに馬鹿話。

らむだ「天気も快晴で、絶好の失禁びよりだね。」
美 森「どんな日だ。そしてどこで漏らすんだ。」
らむだ「そりゃもう戸外の至る所で、と言いたいところですが。」
美 森「違うのか。」
らむだ「やはり失禁にもマナーが大切ですよね。
    駅の喫煙コーナーのそばに、失禁コーナーが設けてあるとか。」
美 森「馬鹿か(笑)じゃあ、喫煙車の隣に失禁車があるのか。」
らむだ「あるいは2両目ごとに失禁席が。」
美 森「イエローシートなのか。」
らむだ「車内アナウンスで『失禁席の近くでは、携帯カメラのご使用はご遠慮下さい。』」
美 森「書いとけ。」
2006年5月21日(日) 作業中
 こんとんのんどよ、こんのの♪(ハレ晴レエナリ)

 くわねさんとこの、『アドルフ・ヒトラーの憂鬱』ここここも)。ワイマールの共産主義者をキョンにして、とかこっそり考えてたのですが、やはりこのインパクトは(笑)。
2006年5月22日(月) 中断
 ハルヒの背景世界は西宮周辺だそうですが。

ハルヒ:大阪
キョン:和歌山
長 門:奈良
みくる:京都
古 泉:兵庫

 こんな感じ?(何が)
2006年5月23日(火) 二次創作>考察
 SS完結おつかれさまでした。シリーズ「ばたばた」に描かれた妹達の喧噪のさまとその帰結というのは、ぼくが表現したくてもうまくかたちにできない、というかそもそも光景自体をうまく思いつけない、そういう苦手な分野なのです。これはたぶん、ぼくが妹同士の関係について想像を巡らすことが、兄妹の関係に対するよりも浅いからだと思います。考察ならば作品そのものが数多の手がかりを与えてくれるのですけど、創作となると、ぼくの頭の中で彼女達が動いてくれるという段階にまで至っていません。ので、デンセンさんの創作が「SSの形を借りた考察」つまり妹達が自由に動いていくような思考実験の結実であるということに、ぼくはむしろ羨望を抱くわけなのでした。
 いやほんと、今書いてるSSがうまく続かないのです……。愛が足りないのかやはり。
2006年5月24日(水) 溜めた
 ラノベ主人公の問題REVさんの日記より)。殺される身近な美少女(つまり手段として始末される「かけがえのない(はずの)ひと」)については、すでにShunさんがずばり指摘してました。女の子は物語の道具じゃないという、まっとうで誠実な異議申し立て。

 文月さんもハルヒ読破。賛否両論の節はどうもすみませんでした(笑)。しかし、やはりというか長門さんですか。天野さんも読破中とのことですが、だんだん内輪でも広がりつつありますことは素直に喜ぶとして。

 長門さんに鶴屋さんが人気高めなんだけど、なぜ誰もこの子がお気に入り、と言わないのでしょう。
 すなわち、みくるちゃん。
 胸のサイズさえ気にしなければ(そこが難題とはいえ)、この子の健気さや葛藤というのもまたじんわり染み込んでくるのですが。萌えキャラすぎるだの存在感薄いだのと一部で言われてますが、そんなみくる像は読者の記号的理解の貧困さをさらけ出すだけですよ。
2006年5月25日(木) お手々繋いで
 アニメ版ハルヒ第8話やっと観ましたが、以下若干ネタバレ。

 アニメ版独自の展開について。あれこれ修正する意味がよく分かるとはいえ、しかしあそこでキョンとハルヒがお互いの手を握ってしまうのかー。
 原作ではハルヒは必ずキョンの「手首」を握りますし、キョンもたいていはそのまま握らせるだけです。そして、あの第8話該当場面では、キョンは原作でも確かに握り返すのですが、それはハルヒの「手首」なのです。手を握り合う、という行為にやたら意識過剰なのが原作の二人なわけで、なぜならばもしそんなことをしてしまったら二人はプリキュアだから。はっきり握り合ってたのは『憂鬱』の閉鎖空間くらいじゃなかったかしら。そして、そのときの「夢」の記憶がうっすらあればこそ、手を握り合うことに対してはよけいに過剰な抵抗をしてしまうわけです。しかも二人の「そんなつもりのなさ」が周囲の者達にとってはかえって微笑ましいというボディランゲージでもあるのですから、ここはできれば原作通りにしてほしかったところなのでした。

 第1・2話については今木さんのご指摘。「地上的な男の子と女の子の色恋方面へシフト」というのは、しかもかなり一足飛びで、という感じがします。
2006年5月26日(金) ぶるぶる絶好調
 みくるちゃんのよさがどうとか書いた直後、ハルヒOPのみくるちゃんを繰り返し観ているうちに、胸酔いしました(揺れすぎ)。ううう、久々……。
 長門さんの呪いかも。ぺたぺた。

 ハルヒ考察にリンクいただいた各所より。どうもありがとうございます。
 朝倉涼子について、『雫』との対比。ぼくは相変わらず考察対象作品のみで(そして作品内論理のみで)語りますので、こういう視点も刺激になります。
 妹と猫について、谷川作品全般。キョン妹については、もう少し妄想全開で続けてみようかと思ってます。
 最近のハルヒ語り事情についてはこちらなど。少なくとも、こうしてあれこれ語れるだけの包容力を持った作品ではある、ということで。
 2ちゃんねるでの状況について。ラノベ板からのリンクに気づいて覗いてみましたが、ちょうどアンチの書き込みでした(笑)。いや、そんな書き込みを読めばやはり辛いわけですけど。

 こないだのラノベ主人公問題について、Shunさんいやさしゅんたんからさらにコメント。シャナは未読なのですが、こういう事柄については、しゅんたん感性の信頼度はとても高いのです。基本的に『萌え文集』界隈の方々はみんな信頼度高いけど、それぞれ得意分野があって面白いですよね。

 馬鹿話。

らむだ「ハルヒのSOS団ってメンバー5名だから、戦隊ものとかできるよね。」
美 森「特撮だったらむしろ、『タンサー5』だろう。」
らむだ「あ、あー!(笑)」
美 森「今日も世界の謎をなんとかするわけだ。」
らむだ「しかも毎回なんとかなってない(笑)。するとあれか、
    どっかの遺跡でハルヒとキョンが他の3人とはぐれたとき、
    二人だけで脱出しちゃったりするわけか。」
美 森「バミューダだったっけ。あれは酷い話だったなあ。」

 かなり割り切れません。
2006年5月27日(土) そして溜めすぎ
 こないだのラノベ主人公話の続き、しゅんたんより。今頃ですみませんが転載おけです。

>完全に第三者的な批評とか、複数の作品を交えた比較研究的なものとか、あるいは完全に入り込んで妄想とか、その世界の情景を思い浮かべて言葉をすくい取る

 ぼくもできないので安心してください(材料になりません)。前の2つをするには能力足りないし、後の2つだと死天王という最強クラスがいらっさいます。まあそもそも桁が違うので比べちゃいけないんですけど。前にも書きましたが、『萌え文集』界隈の方々は得意技がはっきりしてますよね。というか、直球で勝負できる人が多い。ぼくはそこで勝負できないので考察だの変態SSだのといった変化球でなんとか頑張ってますが、やはりコンプレックスが。こないだの文月さんのハルヒ感想コメント欄に、文月さんの「まあ、僕には絶対書けないけど。」という一言があって、ああこういうことをそもそもぼくは考えないんだよなあ、と構えの差を痛感しました。
2006年5月28日(日) 古泉とか
 活動停止中に書いたメモより一部抜粋。(B14)てのは『涼宮ハルヒの退屈』参照ページです。

 次に古泉の場合、彼の当初の態度は、世界を失う恐怖感に裏付けられた柔和な従順さそのものでした。現状維持を最優先とする組織の意志決定にしたがい、古泉はハルヒの感情を損ねない(つまり「神人」を出現させない)ことを絶対条件として行動します。それは具体的には、「野球でしたら我々の恐れている非現実的な現象とは無関係でしょう」(B14)というような、受動的妥協として表れます。様々な場面で登場する古泉の微笑は、その丁寧な口調とともに、彼の本心の知れなさを読者に感じさせてきました。
 しかし、そのとき注意しなければならないのは、古泉のこの3年間についてです。彼はほぼ間違いなくキョン達と同じ世界に生まれ育ち、おそらくごく普通の子供時代を送りました。その平凡な日常が3年前の中1の頃に突如断ち切られて以来、古泉は組織の命令に服従する超能力者として、時には「神人」を封じ込め、時には敵対組織などとの闘争に身を晒すこととなりました。互いの人命が奪われていく凄惨な状況に、彼は中学生にして巻き込まれたわけです。なぜ自分にこんな力が与えられたのか、なぜこんな目にあわねばならないのか。そんな疑問に答えられる者はなく、ただ生き残るために、そしてこの世界を崩壊させないために、彼は闘ってきました。そんな日々の中で、古泉は自分の役割を受けいれる術を否応なく習得し、今日に至ったのです。その如才ない微笑の陰に隠されたものは、まさしく虚無感すれすれの道具としての自己認識なのであり、まずはこの空虚に読者は想いをいたす必要があります。彼の理屈っぽさも、自らの感情を押し殺すための防衛機制が習慣化したものであるとも言えるでしょう。
 この道具としての自己像が少しずつゆるみ出すのは、しかし当のハルヒの活動に巻き込まれてからのことです。例えば野球のノックをさばきながら「いやあ、久しぶりですよ。懐かしいな、この感触」(B21)と微笑むとき、その微笑は普段の仮面のそれとはやや異なっています。古泉がかつて経験した子供時代の、あの何も知らずにいられた平凡な日々の自分を、ここで回想しているわけです。それは、一方では失われた過去への追憶ではありますが、同時にまた、その平凡な記憶がハルヒの暴走を通じて部分的にでも回復されたことへの、素直な喜びをも示しています。古泉は、ハルヒのSOS団という非日常的な場のただ中で、日常的な感覚を取り戻していくのです。
 このことは、「涼宮さんをあまりヒマにさせておいてはダメのようですね」(B66)という反省に基づいて、受動的妥協から積極的イベント準備へと転換したことにも共通して言えます。夏合宿での殺人事件演出をきっかけにして、古泉はハルヒの命令によってそのような合宿イベント運営を担わされることになりました。このとき古泉は「しまった」という表情を浮かべてキョンに助けを求め、やがて冬合宿の仕込みに苦労することとなります。そこで垣間見える彼の動揺や焦燥感は、この3年間に慣れ親しんでしまったような人命に関わるそれとは異なり、ごく普通の取るに足りない、しかし高1の少年らしい感情の機微でした。もちろんハルヒの消極的な幇間という基本的立場を崩していないとはいえ、古泉はこうして人間性を回復していくのです。仮に古泉がこの3年間を通じてハルヒへの憎悪を抱いていたとしても、そのハルヒやキョン達とのSOS団活動こそが、その憎悪を溶かしていきます。じつにSOS団とは、古泉が人間たり得るためのかけがえのない居場所となっているのです。
2006年5月29日(月) 商うなら本気で
 2chVIPスレまとめサイト群が炎上してましたが、何というか、ネット一揆か打ち壊しか。すでに言われていることですけど、商売をするなら商人らしく、世間様に対してきちんと腰を低くしておくのは当然かと思いました。

 ぼくも昔、考察更新が盛んだった頃に一度アフィリエイトなどの導入を検討したことがあったのですが(通るかどうかは別として)、結局あきらめました。ページ閲覧が重くなりそうだとか、手間暇が利益に見あわないだろうとか、いろいろ理由はありましたが、何より問題だったのは、考察内容に商品宣伝のバイアスがかかることでした。アクセス数に一喜一憂するぼくのことですから、アフィリエイトの結果に気もそぞろという事態になるのは我ながら容易に想像できるわけで。そしたら絶対に文章に影響したはず。
2006年5月30日(火) ハイペリオンとか
 掲示板でおすすめいただき、ダン・シモンズ『ハイペリオン』上下巻を読む。長門さんが読んでいたハードSFです。こういう本格的なSFはほとんど読まず嫌いだったので、おっかなびっくりページを繰ってみましたが。冒頭の非常に印象的な映像が脳裏に飛び込むと、いつの間にか最後の場面にまで到達していました。うわ、読み耽った。
 解説にもありましたが、あれやこれやを目一杯に詰め込んで全体を見事にまとめあげた傑作。ぼくのようなSF初心者が、物語自体も様々なガジェットも楽しめたのですから、翻訳もさることながらじつに素晴らしい作品です。長谷川裕一好きな人なんかにもおすすめ。
 物語の背景にある英国詩人ジョン・キーツについても気になり始め、本棚に眠っていた詩集と書簡集を初めて開きました。何でも買っておくものですな。
 そして続編の『ハイペリオンの没落』上下巻へと読み進めるほかない罠。そのあとさらに4冊あるんですか、うひゃあ。

 ところで「ハイペリオン」といえば、『すくらっぷ・ブック』で晴ボン達が製作してた文化祭映画に登場した、あの宇宙船の名前だったような記憶が。カッシーニの間隙。
2006年5月31日(水) 没落とか
 で、いまや『ハイペリオンの没落』も読み終えました。ネタバレはしませんが、ここまでの4冊でひとまとまりなんですね。クライマックスはやや急ぎ足に思いましたが、心地よいカタルシスを得られました。テクノコアという存在は、ハルヒさんちの長門さんについて考えるさいの手がかりになりそうですが、それをやり出すとSF初心者の能力をはるかに超えるので断念。しかし作品世界をしばらく想像して楽しめるという作品に出会えたのは嬉しいことでした。

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