日記
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2003年7月1日(火) 待望の連続不通
 シスプリ雑誌連載終了の余韻もさめやらぬこの頃、みなさまいかがおすごしでしょうか。
 このサイトも昨日はその影響からか、サーバーダウンで繋がらなくなったり、復旧したかと思えばまたも電話代滞納で不通になったりと、惨憺たる有様でした。2週間で3回も電話を止められるとは…。

 終了については、『ちまわり』さん日記(6/30分)がそれはもう大爆発なのでぜひご参照を。

 しすぷりんくも8月末で終了とのこと。長らくお世話になりました。せっかくなので、ラスト企画に投稿してみようかな。ああそれにしても、どなたか引き継いで下さらないかしら。

 『マリみて』についてのくわねさん覚え書き。構造的な同一性というのは、アニプリの妹メイン話でも認められたものでした。すると、ぼくが『マリみて』にすんなり引き込まれたのも、このような構造への愛着によるものなのか。しかも、両作品とも「寸止め」をもって2者間コミュニケーションの特徴とするし。ただし、アニプリの場合はいったんは過剰に親密になりかけたのが切断されるのですが、『マリみて』の場合はそのような手続きを踏みません。

 その『マリみて』ですが、お姉さまのお屋敷にて、トイレにうっすらこだまする裕巳の「ちょろちょろ」を聞いたのはぼくだけでしょうか。あの場面で、ぼくは祐巳の腰で蓋された便器の内側の空間に、確かに存在しました。
 いや、そんな感慨を抱かせる構造はない。
2003年7月2日(水) 頭痛い
 リピュア考察5が進まない。鞠絵話は既に書き終わっているのですが、鈴凛・四葉話がほとんど手つかず。アニプリ鈴凛に馴染んでいるので、どうもあのウェットな彼女に違和感を覚えるようです。四葉との対照で理解できるので、さほど問題はないはずなのですが。うーん。

 『コメットさん☆』第9-15話を観る。このへんまでは当時も観せてもらった覚えがあるのですが、いや名作ですねぇ。温かさの中に厳しさを包み込んで子供に示せるような作品は、いま放映されているのでしょうか。しかし「コメットさんビリ」なんて、なかなか言えない台詞です。「3番」じゃなくて。

 ここのところ、目覚め間際に見る夢が、何気に『マリみて』風味らしい。自分の立場は祐巳で、祥子がいないのに上級生達と一緒にいるみたいな。かなりしんどいと思うのですが、微妙に職場の現状と重なっていて納得できます。

 考察が進まないのは、たんに専念する時間が足りないだけではないのか、と疑わせる記述。

 馬鹿話。

らむだ「シスプリ終わっちゃったねえ。アニメももうなさそうだし。」
美 森「そうか。」
らむだ「宝くじで数億円でも当たれば、シスプリアニメ作るのにつぎ込むんだけど。」
美 森「まあ、買わなけりゃ当たらないんだがな。」
らむだ「あうー。あ、別に宝くじでなくてもいいのか。
    例えば、シスプリ生命保険なんてどうだ。
    加入した12人の兄が一斉にとどめを差し合って、全員の保険金でアニメを作ってもらうの。」
美 森「うわ(笑)アイスピックとかでか。
    花穂の兄なら、転んだだけで頭打って自殺できそうだが。」
らむだ「そそ。アニプリの続編の場合、倒れる兄は13人。
    で、オープニングのテロップに名前を入れてもらえるの。」
美 森「本人は観られないけどな。」
らむだ「墓前で上映してもらえれば、まあ極楽往生できるかな。
    でも観るまではこの世に未練残しまくりでフラフラと。」
美 森「書いとけ。」
2003年7月3日(木) ちょっと回復
 「恋愛頭脳」によると、ぼくの恋愛観レベルは「達人」だそうで。いきなり怪しくなってまいりました。相性を知りたい奇特な方はデータご参照のこと。

 『仮藻録』さん(7/2分)より、ハリポタ禁止。魔術師を差別するのでキリスト教学校を禁止しましょう(滅)。いや、ハリポタはヘルミオーネたん(ハーマイオニーよりHermioneの綴り通りこう読んだ方がそそる)以外どうでもいいんですが。あと、「魔女っ子」という日本語は確か差別用語ということで「魔法少女」に置き換えられてますね。魔女=邪悪な存在、というわけですか。宮武外骨先生なら「魔○○女○○っ○○○子」とかやりそう。

 さて、シスプリ原作は終了しましたが。鞠絵の病気は結局治っていないのかな。
 最後の雑誌連載の中で、望ましい未来が暗示されていたのかもしれませんが、どうもそういう話を聞きません。鞠絵は病人という属性をもってはじめて鞠絵であるのだから、治ってしまってはいけない。そう考える人もいるでしょうけど、ぼくは、鞠絵に他の妹達と同じくらい兄の近くにいられるようになってほしい。「ほしかった」ではありません。「ほしい」んです。来月の特別企画でその可能性がわずかながらに残されてはいますが、もしそこでも鞠絵が治らずに留め置かれたならば。
 天広氏が記した「本来の完結」という言葉は、つまり、トゥルーエンドということではないのか。例えばえろげで言えば『雪色のカルテ』で示されたような、ハッピーエンドとは別に設準備された、悲劇的ながら美しい「真の結末」。でも、兄を慕う鞠絵の「いま」の継続を、はたしてどこまでただ美的なものとして受け止めていられるか、ぼくは自信がありません。その姿を第三者として見つめているだけでは、もはや十分ではないのです。
 だから、ぼくはぼくなりの方法で、鞠絵を治します。治った後の姿についてはにちょっと書きましたが、このさい治る過程をかたちにしましょう。『シュヴェスター』あたりで。
2003年7月4日(金) 変態頭脳
 Beeさんの「恋愛頭脳」の結果を確認。そして、つい出来心で「変態頭脳」に変換してみるの巻。

変態感レベル 達人(14段階中3番目)
★全世代から見た某さんの…
【変態観支持率】 89%
【変態スタイル】 短期熱受
【印象
とくにありません

某さんの変態観は、非常に好感の持てるものです。 某さんに変態相談をすれば、なかなかの満足を得られることでしょう。 某さんが特定の誰かと変態観で衝突するとすれば、それはおおよそ相手の変態観が歪んでいると思われます。ただその人が某さんにとって唯一無二の人ならば、その歪んだ変態観を某さんは受け入れざるを得ません。くれぐれもこの変態観こそすべてだと思わぬように注意。

ジャンル別コメント

人生における変態
なかなか良いバランスです。 某さんにとっては、百合関係にあまり没頭するのは好ましくないようです。ヒマな黄薔薇さまや寂しがりやな紅薔薇のつぼみさまと付き合うとトラブルも多そうですが、その気持ちも汲めればさらに某さんの変態観は磨かれることでしょう

社会における変態
ちょうど良いバランスを保っています。社会的な体裁も保ちつつ、その一方で彼氏彼女とは上手に夢のある世界をつくりあげていくことができます。人を好きになると社会的に壊れてしまう変態が多い中、某さんは全方面に上手にやっていける資質をもっていると言えるでしょう

嗜被虐牲の精神
充分に及第点となるバランス感覚です。少し嗜被虐牲の精神が強いものの、薔薇百合した世の中で某さんのような人の存在はほっとさせられます。 某さんには、容赦のない筋肉感のある人がお似合いです。あまりプライド高そうなお嬢には惚れぬよう注意

ルックス
多少外見重視に偏るところはあるものの巨乳範囲です。まず最初に胸の印象により異性を判断することは、それぞれの趣向として否定されるものではありません。噛み方や下着へのこだわりが相手のいじり方へのこだわりと直結する人も多いのではないでしょうか。総合的に、好漢にもてるバランス感覚と言えるでしょう

座位力
某さんは非常にバランスのとれた考え方をしていると言えるでしょう。お尻があることで得られる喜び、減らせる苦労の範囲をよくわきまえているのではないでしょうか。あとは某さんのパートナーにも伊集院健をもってもらえば、お尻に関する不満やトラブルなどはなさそうです

安定と尿瓶
安定と尿瓶をちょうどよいバランスで望んでいるようです。飲尿など派手に冒険することよりも、大切にひとりの人と愛を育みつつ何か刺激を見出すことを理想としているのでしょう。しかしいくら某さんの理想が皆を尿瓶に受けることでも、彼氏彼女の形如何によってはそのギャップが頭痛の種となりつづけることでしょう

拭き拭き
とても拭き拭き重視に偏っています。 某さんは相手に迸りをぶつけるよりも、タオルを握ることにいつのまにか終始して、いつのまにか行為を終えたりしていませんか?体でぶつかっていくことは疲れますが、相手を洗浄するだけの付き合いはただの調教です

放蕩と束縛
とてもバランスの良い価値観を保っています。放蕩と束縛、どちらに寄るわけでもなく、逸般的な感覚にマッチする線引きができていると言えます。 某さんは、ドンファンに無関心ではなく放蕩力があり、また束縛ではなく相手を焚きつけることで支配感を上手に保てるタイプでしょう

将来への意識
リタが大事。明日のナージャはなるようになる。ある意味豪快な生き方ですがフランシスにはついていけません。もし某さんと同じように、リタを楽しむ主義の人と付き合うならば、いつか「こんな幼女とやりたかったんだっけ…」と振り返ってしまいそうです。それでもいいと覚悟していたとしても…


精に関しては強粘の部類に入ります。精の重要性は言うまでもありませんが、どうやら一般平均は某さんよりはもっと薄めで淡白のようです。抜きとかおなにとか、そんなのはまやかしや余計なものだと思っていませんか?えろげーで鍵しか食べない人のようです

 えーと、ごめんなさい(逃走)。
2003年7月4日(金) 悪の嵐、卑劣な力
 アクセスログにこんなのが複数ありましたが、どこかの韓国サイトで紹介されたのでしょうか。

 リピュア考察5、相変わらず鈴凛・四葉話が停滞中。原作ポケスト七五三話での四葉を慰める鈴凛でもなく、アニプリでのあっけらかんコンビのままでもない二人の姿。前者の場合は、背後に「四葉だけが経験していない兄との過去」への欠乏感が描かれることが必要で、これはリピュアAパートには欠落してました。となると後者がAパートでも継承されつつ、ちょっと違う角度から鈴凛を眺めてみました、という解釈に落ちつきそうですが、ここでどうしても手が止まるのですね。
 もちろん、「あんなに気弱すぎるのは鈴凛ではない」と否定するつもりはありません。さっぱりした中に不安がよぎるのが彼女の持ち味なので、そのへんはまだ話の持ってきようがある。問題は、「メカ鈴凛」について言及されているにもかかわらず、これに託されたはずの「別れ」への決意と、Aパートでの彼女の「兄が離れていってしまう」という不安とが、うまく噛み合わないことです。知りたいけど知るのが怖い、という背反をめぐって、鈴凛と四葉を対照させることはできるのですが、鈴凛が原作・ゲーム・アニメのどの文脈の彼女からも外れてしまっているように思うのです。
 まあ、このあたりは結局ひねりようで、今のところではアニメ前作の第22話・第25話と結びつけて考えることができそうです。しかし、この第9話だけが下田屋脚本であることが頭の隅に引っかかってしまい、やや反省。
 こういう感情は日記で書いておかないと、考察に出ちゃうので。

 永井豪・石川賢『バトルホーク』を読む。こないだのオフ会で購入した謎の1冊ですが、いや凄い内容でした。何が凄いって、第1話以外はバトルホークが登場しないことです。主人公3人とも変身しないで殺人格闘技の嵐、そのまんま最終話に突入という潔さ。ケーブルテレビで観た特撮放映第1話のあまりのチャチさに涙した覚えがありますが、それを見事に払拭する素晴らしい無法漫画でした。
2003年7月5日(土) その5あぷ
 リピュア考察、書き始めたら突破口が見つかり何とかなりそうな塩梅。明日にはアップできるかしら。予定よりも1週間遅れとなりますが、この調子なら今月中にAパート分は完結できそうです。Bパート考察も、キャラコレとの対照で1本だけ書くつもりなので、そちらも頑張らねば。

 武田泰淳『十三妹』(シイサンメイ)を読む。アニプリ同人誌ではありません。オフ会であまのさんに「このタイトルはいかが」と薦められるままに買った中国武侠小説で、これ自体は60年代に書かれたものに鶴田謙二がイラストをあて直したという。新聞連載小説として素直に楽しめましたが、これで彼と彼女が兄妹だったらよかったのになぁ。亭主のだめっぷりも素晴らしいものがあります。

 『コメットさん☆』第23話まで観る。細かいところまで行き届いた名作であることを繰り返し感じる。もう心憎いばかりに。

 などと書いている間に、リピュア考察5完成しました。長かった…。更新日付は5日となってますが、ちょっと間に合わなかった模様。お許しくださいませ。
2003年7月6日(日) 秘技トラウマ返し
 リタたんよかった!鞠絵もきっと大丈夫!つか、第1話で孤児院の火事を見てませんでしたっけ。

 『カトゆー家断絶』さん(7/6分)、『Romantic connection』さん(7/5分)、『かーずSP』さん(7/6分)、『CCSF』さん7/6分、あと5日も)、考察へのリンクありがとうございます。たまたま、四葉と鈴凛の誕生日祝いがてらの内容になりました。

 『Sister Freedom』さん(7/4分)より。

>まさにトゥルーエンドは兄の数だけある筈だ。

 基本的にはその通りでして、その一つのかたちをぼく自身が示せたら、と思っています。ただまあ、トゥルーエンドとハッピーエンドを分けて考えたので、例えば鞠絵が「はかなくなって」しまっても、その崇高な輝きが描かれたなら、ハッピーではないがトゥルーエンドに相応しいと判断されるかもしれない。もしくはご指摘のように、雑誌のように「作品内で完結しないこと」が「終わり方」であるという意味でトゥルーエンドなのかもしれない。だとすれば、与えられたその終わりなき最後の地点から、いかにして見事にハッピーエンドへと邁進してみせるか、あるいはハッピーエンドへ向けて進みつつその実現を遅延するか、ということが、こちらの選択に委ねられているわけです。

 『赤の7号』さん(7/5分)、実妹にリピュアBパートを見せるの巻。これは(笑)。しかし、いつも仲のよろしいことで。

 ところで、しのぶさんが指摘されている、G's最新号シスプリでの「咲耶の胸のあれは下着なのかどうか」については、どこかで結論が出ているのでしょうか。

 『マリみて』第5巻以降まとめ買い。「ウァレンティーヌス」前後編を一気読み。ああもう、『グインサーガ』外伝よりも面白いよ!(微妙な表現)いや、グインは季節の一部なのでもはや読み方が違いますが。コバルトなんて新井素子以来20年近くご無沙汰でしたから、『大きな壁の内と外』と『いつか猫になる日まで』の中巻あたりの立ち位置で読んでます(再び微妙な表現)。ところで蓉子さまに江利子さま。ようこにえりこ。よっきゅんにえりりん。さすがに元ネタなわけはないですか。
 しかし、シスプリ終了後の空隙をみるみる満たしそうな勢いで、これはやばい。これはいいものだ。マリみて時空に引きずり込むのだ。可憐の手をしっかり握っていないと危ないです。以前IRCで
「お姉さま、尿跡が曲がっていてよ」
などと書き込んでいた人間とは思えない有様です。謹んで訂正します、祥子さまのは曲がりません。
2003年7月7日(月) 七夕曇り空
 『みさきニュース』さん(7/7分)、『兄弟船』さん7/6分)、『■ちぇき。■』さん(7/6分)、『L.L.L@online』さん(7/6分)、『Floating Mind』さん(Free zone)、『RF-404NF the 萌える妹魂』さん(7/6分)、考察へのリンクありがとうございました。

 『マリみて』、「レイニーブルー」まで一気読み。じつに中途半端に一息入れております。あんまり続きが気になるので、明け方夢に見ました。もう駄目だ。祐巳の背後にアイスピックが迫る。祐巳がすごいのは、時折つり目っぽい描かれ方をしているにもかかわらずドジっ子なとこです。ギャルゲー類型に厳しいマリみて。いや、コバルト類型なるものが存在するのかもしれませんけど。
 次はAパート考察の最終部だけど、なかなか筆をとる気にならず。その前にフィクションを補給しておかないと、乾く乾く。今日中に残りも読み終えそうです。

 おどりこさんから、こないだのt.A.T.uについての解説。やっと納得がいきました。
2003年7月8日(火) かべっかべっべが
 『Winter SNOW』さん(7/7分)、『Sister Freedom』さん(7/7分)、考察へのリンクありがとうございました。

 デンセンさん日記から灑涙雨。オフィシャルブックも「催涙雨」と間違えてるんですよねぇ。「洒涙雨」という表記は、リピュア放送時にWeb上を賑わせていたような。いや、いま思い出したんですが。

 『CCSF』さん日記より。お体どうか大切になさってくださいませ。

>春歌の場合, 確かめるまでもなく絆は確固たるものと思っているか, あるいは日常の全てが絆の確認だとか(おい)。

 なるほど。これって、まさに春歌の基本的な視点だと思えました。春歌はアニプリ第25話で、兄がいなくなることなど考えなかった、兄に甘えていた、と泣き崩れるのですけど、それはつまり、兄に会えた時以来、兄と別れる可能性など思いつきもしなかった、ということで。眼前の事実のみの明瞭な認識に基づいてじつに明確な行動をとるというあたり、彼女は単純なのではなく、いわば、叙事詩的なのだと思います。ドイツロマン文学じゃなくてゲルマン英雄詩。そうであるならば、リピュアBパート春歌話にて、兄の訪れにさいして描かれた「微塵の感傷もない」誠実さとは、この春歌自身の根本的性質をも指し示していたことになります。

 そうか、春歌がゲルマン英雄詩で、亞里亞がフランスサロン演劇で、四葉がイギリス…シェイクスピアじゃないですね、スターンかな。機知、感傷、そして延々と続く脱線。

 『マリみて』、「パラソルをさして」読了。そのまま残りを読破しようとしたところ、全巻購入したつもりが2冊欠けていたことに今頃気づいてショーック。可憐が隠した説濃厚。ああ、これからは何か嫌なことがあっても、全て「可憐のしわざ」と思えば、しやわせになれそうです。あるいは「人間万事亞里亞が馬」という故事成語はどうか。昼間は亞里亞の乗馬、夜はじいやさんの種馬(以下略)
2003年7月9日(水) 涼風爆殺
 鈴凛の誕生日。

 Zoroさん(日記7/8分)、考察へのリンクありがとうございます。
 そのZoroさんのサイトでは、あの手に汗握るSSの第5話公開。トップ絵の鈴凛とあわせて、どんどん過激になってます。

 漫画原稿流出問題(その前のコラムも)。漫画の主人公だったらあんなことするか、という問いですが、古川氏は『ナニワ金融道』や『くどき屋ジョー』あたりの主人公をきっちり踏まえているのかも。オリは、オリはよう。

 小説の感想について。正直、「こんなん読むやつの気が知れん」と自分が思うブツも世の中にはあるのですが、それでもそのような作品から誠実に何事かを見出す他者の姿勢そのものには、価値観の相違を越えて共感しうるわけです。大抵問題なのはそのような他者ではなく、無批判に消費するだけの他者(実在だろうが想像上だろうが)に対するこちらの嫌悪感です。
 例えば、『マリみて』を否定的に扱ったらどんな反応が得られるか。そのためだけに否定的に読むというのは非常に俗悪ですけど、あの作品世界に耐えられない人がいて、なのにWeb上では「萌え」だの「ハァハァ」だのばかりが目についたとしたら、逆の意見を言おうとするときに、防衛反応でつい過剰なまでに否定的なメッセージを連ねてしまうかもしれない。実際には表層的にとどまらない肯定的な受容のありかたが各所で示されているのでしょうけど、それはあまり目立たない。
 ぼくにしても、『マリみて』の世界があまりにも穏やかで、問題にさいしても「ここで危機に向けてもう一歩」という踏み込みがないままに解決が得られているように感じられてしまう。これは昔『姫ちゃんのリボン』を読んだときの感触に似ています。いいの?これで解決しちゃっていいの?みたいな。個々の場面では涙することもあるのですが、違和感そのものは消えないまま。でもそういう文句をつけずにいたのは、他の要素で十分満足できているということですかね。じつはアニプリにも近似した世界ですから、必要なら自分が気になる穴を自分で埋めてしまいかねませんし。こないだのトイレの話みたいに。

 そんなことを言っている間に、TV東京のアニプリ公式サイトリピュア公式サイトが消滅していました。タタカイは既に始まっています。備えあればということで、リンクページも若干更新。
2003年7月10日(木) 雪風爆沈
 「お兄ちゃんどいて!そいつ殺せない!」の歌(『BRAINSTORM』さんより)。「ダウンロード」から下りていったとこにあります。

 『四季折々のかおるさん』さん(7/9分)より。『涼宮ハルヒの憂鬱』問題ってこんなことになってたのか。つか、作者の名前も知らずにいたため、「谷川流」を「高速の寄せ」かと勘違いしていました。批判者は上座に座って羽生睨み。あるいは福崎流で思考破壊。ところで、うちの日記へのリンクに付された「こんなところにまで」という一言が絶妙でした。

 「アニプリ好きな奴なんて人間じゃない!」などと言われたらどうしようか。人間である前にまず兄なので、別にいいかしら。

升田「アニプリなんてゴミみたいなものだ。」
木村「じゃあそのアニプリを非難して喜んでいる君は何だ。」
升田「…ゴミにたかるハエみたいなものだ。」

 史上名高いゴミハエ論争。

 チラシ『みるひーゆ』さん7/9分より)。可憐みたいなのばかり集まったらえらいことになりそうですが。風俗さつばつ。

 『マリみて』、抜けていたうちの1冊を確保し速攻で読む。ああ、といれの話は既に原作において描かれていたっ…。ぼくが甘すぎました。そして結末で祥子さまと同じ予測をたてていたことに歓喜。あと、第1作から見直してみれば、ちゃんとこの世界には悪意も不運も存在しますね。それが存在してしまう道筋も、それと勝負する心意気も。凛々しい物語であることよ。
 祥子さまと祐巳の関係って、ガラス瓶とぷちぷちマット(緩衝材)みたいなものか。マットは瓶の周りにぐるりと巻かれてそのかたちにさせられるけど、おかげで瓶は衝撃に耐えられるのでした。人目につくところでは瓶はむき出しで飾られ、マットは陰から眺めるしかない。それでも巻かれていたときのかたちでいようと頑張るものの、時間が経ちすぎるとだんだん輪郭が崩れていく。でもマット自体をぷちぷちするのは楽しい。あと、どちらかが膨張したり縮んだり濡れてたりすると、ぴったりはまらなかったり滑ったり。
2003年7月11日(金) シスみて
 『じゃんくハウス』さん7/10分)、考察を紹介いただきありがとうございます。こんなふうにしていま発見し読んでもらえるということに、喜びをおぼえます。

 せいるさんより。わざと(批判的ではなく)否定的に読む、という試みも既になされているのでしょうか。『マリみて』の場合は、「こんなの違う」みたいなイメージとのずれが、むしろ取り沙汰させそうですが。しーぽん的に。
 「絶対的にオカシイ」という論調がいけない、というのは、作品のみならずそのファンまでも一括りに、という場合にはその通りだと思います。作品が絶対的にオカシイ、という言い方は、その論拠さえ示せれば可能です。ただし、ファンである人間を否定する言い方というのは、それを言った途端に、言った本人の人間性が消滅してしまう性質のものです。『ベルガリアード』の禁断の呪文。

 『有限会社模擬出版』さんからリンクいただいてました。シミュレーションゲーム関係の方からは初めてです。『可憐のページ』も登録されてますね。よく探されたというか、どちらも最近のゲームの感想が一切ないのでなんともはや。こちらは佐藤大輔の北海道シリーズ(コマンドマガジンの『征途』ものも含めて)についてちょっと書き進めているので、早いとこ完成させましょう。

 『マリみて』ネタバレ風味。そんなたいそうなものでもないのですが。
 祥子さまの周辺の人物って、名前が読売ジャイアンツ由来なのでしょうか。松井、キヨ(清原)、源助(原のもじり)、沢村。「よっきゅんとえりりん」はともかく、こちらはどんなものでしょう。
2003年7月12日(土) ハルヒ読了
 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(スニーカー文庫)を読む。以下完全ネタバレです。

 既に相当の事前情報や評価を頭に入れてしまってから読んでいるわけですが、それでも、素直に面白かったです。

 まず、「萌え」については、人物造形や微細な表現があちこちでくすぐりを与えてくれて、申し分なしでしょう。最近の萌ええろげなどの知識が全くないので、世間の評価がどの水準をもって「萌え」となすのかよく分かりません。でも、自分自身の感覚では、萌えくすぐられていい意味でずいぶん笑えました。ほんとに「うひゃ」と。あと、p.278の「また図書館に」で泣けました。あんな、一方が分厚い本を読むだけで、もう一方が居眠りをこいてるような時間でも、長門さんにとっては、任務から半分離れてのかけがえのないひとときだったわけです。そして、これは「虚無性」の問題と関わるけど、そんな彼女の言葉の重みを、主人公はちゃんと共感的に受け止めた(最終的にはp.295の「図書館の話はしないことにした。」という文で示される)うえで、ヒロインも手放しません。

 次に、作品の構成について。要するにこれは、えろげ・ぎゃるげにおけるメインヒロインとサブヒロインとを、各人の分岐・エンディングに向かうことなく一斉に並べて全員のエピソードをつなげてみました、という(全然要約してない)。ほらあれだ、『Kanon』のアニメ版みたいな感じで。で、それぞれの個別エピソードの中で、最大限の「キャラ萌え」を発揮させようとしており、それはおおよそ成功しているのでしょう。

 さて、問題の「虚無性」について。
 ぼくは、この作品に、そのようなものを発見できませんでした。
 読み始めた瞬間、これは恋愛もの、しかも初恋もの、乙女の純情ものでしかないと直観。乙女は世界を創造できるんですよ。そしてそれに気づかない。そしてそんな乙女のそばにいる少年には、そのことは本当には分からない。
 少年キョンは、世界に不思議などないという世間なみの認識にたって、どこまでも傍観者であろうとする。でも、出会ってしまうという不思議は否定できず、そこで傍観者でいることもできなくて、関わりを持たざるを得ない。ずりずり引っ張られている間に、彼はそんな状況を受け入れるのみならず、そんな状況の発信源にもなってしまっている。それはそういうもんです。
 で、少女ハルヒは、世界の中で唯一であることに絶望しかけながら、それでもその可能性を求めて戦う。戦いながら、というか戦うために、少年を巻き込んでいく。それはそもそも、ハルヒがキョンを求めていたということです。だって、まずもって不思議なのはこのキョンという存在が自分に対してもつ関係なのだから。「宇宙人、未来人、超能力者」でもなく、昔や前世にどこかで会ったこともなく、なのに興味のわかない「ただの人間」でもなかったら、それは期待した以上の不思議、意識さえされない不思議です。そして、最初の(つまり絶対唯一の)足場をキョンによって得られたならば、その次はもうやりたい放題できるわけで、仲間・部室がここに発生するわけですね。意識されざる不思議を獲得して、意識されうる不思議である「宇宙人、未来人、超能力者」が無意識的に集結していく。その空虚な中心にはいつだって少年がいる。

 で、キョンが別の少女と仲良くしているのを見て嫉妬するなんてのは、はっきりいって「虚無性」の反対側にいるのではないですか。そういう割り切れなさや屈託は、よく見ればどの登場人物にも確認できて、さめているようで全然さめてない。自分の存在規定が分かっちゃっているのだけど、そこに各人なりのためらいがある。まあ一番分かってないのがハルヒとキョンなのですが、ハルヒはこの状況を創造した張本人で、しかも自分で状況を作り出しときながら、その予想外の展開にいらだってしまう。キョンはこの状況に唯一普通の人間として参加(傍観ではなく)していて、しかもハルヒの片想いの相手であり、キョンはハルヒのことをどう思っているかといえば、p.286の「あるはずがない。」に全てが込められています。好きなんじゃん。だいたいそれ以前にだって、ハルヒの暴走を叱りつけたりしてるし、ハルヒも膨れっ面しながら聞いてるし。そら、周りの3人にも分かるわ。

 確かに、世界をいったん破壊して再創造しようとするハルヒは、現世否定という意味では虚無的かもしれない。あるいは、キョンとの関係と世界以外に視点がないということでは、いわゆる「セカイ系」なのかもしれない。「セカイ系」とはオナニーだ、というのは『しろはた』での指摘ですが、ハルヒがキョンを己の望むままの存在として新世界にとどめたのなら、この作品は間違いなく『最終兵器彼女』のような「セカイ系」になったでしょう。でも、キョンが自分でもどうにも止められなかったキスを不意にくらって、ハルヒ自身もどうしていいのか分からなくなってしまったとき、そのどうしょうもなさとかキョンに対する分からなさとか「分からないつもりでいるけど分かってしまった」こととか、そういう一切合財がオーバーフローしてこの世界に戻ってしまったというのは、じつに乙女の純情だし、キョンがハルヒも具体的世界も手放さない点で非「セカイ系」だし、お互い相手を選ぶべくして(選ぶ理由は分かっていたり分かりたくなかったりするけど)選んだという決意をもって非「虚無性」だと思うわけです。

 『地球平面委員会』という作品は未読なのですが、これがkagami氏が述べるように、絶対者「との戦いを決意し、自らの意志と誇りを守った。世界の人々の意志と誇りを認め、世界とともに生きることを望んだ。」という内容なのだとすれば、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、絶対者も世界もいっしょくたに認めようと(結果的に)戦ってしまった少年の物語なのではないのでしょうか。その場合の戦いの相手は、どう考えたってハルヒではなく、いうなれば二者択一の論理そのものです。
 なお、『地球平面委員会』については、例えば新井素子『いつか猫になる日まで』や、湖川友謙『Greed』を思い出します。前者では絶対者への抵抗を試みる有限存在の心意気が描かれ、後者では、絶対者を打ち破った英雄達がその絶対者になってしまうというどうしょうもない論理が描写されていました。だいたい、光瀬・萩尾『百億の昼と千億の夜』あたりをくぐってきた以上、大抵の「虚無性」には驚かないつもりです。あるいは、登場人物がたんにニヒリスティックでかつ超越的な能力者ということであれば、それは虚無的というよりは、絶対権能感にまで至った自我の肥大というだけのことか、何らかの神話的性格の表出によるものか、でしょう。

 以上とりとめなく書き綴ったことは、つまりは、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、虚無性の肯定ではなく、むしろ、虚無性というものがあり得ることを認めたうえで、いかにしてそうでないことが可能かを、心のもつれの中に含みこませて描いたものである、ということです。こう解釈する背景には、ぼくがアニメ版シスプリをまさにそれに類似した視点から考察したという経緯があります。実際、読んでいてイメージが微妙に重なりましたし。

 では、もしこの解釈が一定の正当性をもつとして。なぜkagami氏は、この作品をニヒリズムとして断罪したのでしょうか。そこには、キスによって生じてしまった、ハルヒにとってのキョンの新たな分からなさについての認識が欠落しているように思います。また、「世界のシステム」にどうしてもぴったりはまらないものとして表現されている二人の心の機微を、あえて見まいとしているかのように思えます。より正確にいえば、それらを「絶対者」vs「共存の世界」という二項対立図式に押し込めるために、割り切れない部分を「快楽」などの名によって単純化しています。
 つまり、作品を図式的に単純化し批判するそのような視点こそ、神とその対立者という二項対立を絶対化し、「共存の世界」そのものを唯一神の代わりに据えてしまうものなのではないでしょうか。それこそは、虚無性に一見立ち向かっているようでありながら、じつは虚無性を生み出す根源にある「他者を否定する唯一者」というものを、再生産してしまうのではないでしょうか。

 だからぼくは、この作品の続編において、キョンがハルヒの手をしっかり離さないことよりも、しっかり握ったりつい離してしまったり逆にぎゅっと握られたりしっぺ返しをくらったり、しかもお互い自分の心がよく分かってなかったり分かりたくなかったり、そういう展開を望みます。その何だかはっきりしないモヤモヤした過程の中でこそ、ニヒリズムを笑い飛ばす生の息吹が立ち現れてくるのではないのかな、とこれまたぼんやり思うからです。こんなこと言ったら、キョンは「お前は気楽でいいよなぁ」と溜息をつくかもしれませんけど、こちとら傍観者でいる寂しさを味わってばかりなのですから、まあ勝手な期待ぐらいはしてもいいじゃないですか。
2003年7月13日(日) ぴぴるぴー
 昨日の『涼宮ハルヒの憂鬱』感想を紹介いただきありがとうございます。虚無性への言及がないという批判にいたく反省したもので、好意的な評価をいただいて正直ほっとしています。あの厳しい一言がなければ、ぼくはわざわざこの文庫本を探すために本屋をハシゴし古本屋をめぐり30分ばかり道に迷う(阿呆)なんて苦労をしてまで、自分の感想を記そうとは思わなかったでしょう。そんないらぬ苦労をしたから、読んでておいしかったのかもしれませんけど。

 kagami氏の文章でも、誹謗中傷の箇所についてはもちろん問題だとして、それでも批判点そのものまでは撤回しようとしないという姿勢には、ぼくも「その意気やよし」と思います。そして、もし世の中に虚無的な人間やそのような行動を無条件に肯定する作品があったとしたら、ぼくもやはり読めば批判すると思いますし、それを賛美する読者には一定の距離をおきたいと内心感じるでしょう。
 ただ、今回の問題となった作品には、そのような問題点はなかった、むしろその解決を模索するものだった、とするのがぼくの立場です。(この解釈が本作品のファンに共有されうるものかどうかは全く分かりません。)なので、kagami氏とぼくを比較すると、「虚無性」に対する問題意識はおそらく共通するにせよ、「虚無性」に対抗する構えが異なるために、作品解釈の水準で相違が生じた、ということになるでしょうか。また、『地球平面委員会』の絶対者が他者を完全に否定する存在だった(らしい)のに対して、ハルヒはそれほどでもなかった(とぼくは理解した)、というのが、相違の根底にあるようにも思います。
 ついでに言えば、ぼくはハルヒの一面を幼女性(とそれを自覚することによって生起する捻くれ方)において把握するのですが、この場合、kagami氏の幼女イメージとぼくのそれとのずれが、やがては問題となるでしょう。そしておそらく、この問題こそ、両者が歩み寄れない断絶のありかではないのかな。ぼくがハルヒと『ひまわり幼稚園』のあいこちゃんとの間に共通なものを見出しそれを愛する、と言えば、誰でも談判破裂を予想できると思いますが。

 そういうわけで、夏葉薫さんが(追記2)で記されている「たった一往復」がもし実現するのであれば、ぼくは上記のような予測をもちつつも、参加してみたいなと思います。kagami氏に「ロリペド」というレッテルを貼ってすますのは、『ハルヒ』に「萌えラノベ」というレッテルを(肯定的・否定的いずれにせよ)貼ってすますのと同じ事ですから、それは避けたい。さらにkagami氏のリビドーのはっちゃけ具合にも微妙に共感できるぼくのこと、「あれかこれか」ではない意見の交換ができればな、となおさら感じたり。氏の感想とぼくの考察の距離は、思ったほど遠くはないはずです。
 あるいは、両者の意見の吟味をどなたか第三者にしていただきたかったり。YU-SHOWさんは基本的に「萌え」という感情に基づいてのみ感想を記されていますから、批判への反論をいまさら理詰めで示す気もしないでしょう。なんか無粋だろうし。kagami氏も、既に次の戦いに移っているかもしれません。そうするとぼくだけぽつねんと取り残されていることになりそうなので、誰か頭の鋭い人に後はお任せしようかな、とか。ソガさんの文章を読み直すと、やっと分かることがいっぱいあって、もう書くことないかなとも思えるのですけど。「虚無性」については、それでももう少し考えてみたいところです。

 最後の方で腰が引けているのは、今回の関係者がどこも大手サイトの方々だからです。かと思えば、アニプリ制作側の人物にさえ反論するという野蛮さが自分にあるみたいなのですが。
2003年7月14日(月) kagamiさんからの手紙
 先日のぼくの意見について、ハルヒ問題のkagamiさんから、メールによるご回答とその転載許可をいただきました。早速、本文をここに転載いたします。(行替えを若干修正しました。)

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くるぶしあんよ様、初めまして。kagamiと申します。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の批評を読ませていただきました。

>(私kagamiが)なぜこの作品をニヒリズムとして断罪したのでしょうか。
ということについてご説明致します。

涼宮ハルヒの虚無性ということでは、私の目からでは、彼女には
なんらかのあるべき行動規範が感じられないと思いました。
コンピュータ研究部に対して、ハルヒが行なった濡れ衣着せ&泥棒とか、
ああいった反社会的な行動に対して、普通、読み手は反感を覚えます。

そういった反感を防ぐ為に、物語中において通常は行動に対してなんらかの意味付けをする。
例えば、泥棒という行為だったら、どうやって、その行為を読者に納得させるか。
例を挙げれば

・悪い奴からしか盗まない義賊(鼠小僧など)
・どうしても至急、金を入手する必要性があったので仕方なく金持ちの家から盗み出す等、なんらかの理由付け。
・泥棒という行為に対し行為者が読み手を納得させるなんらかの美意識を持っている(アルセーヌ・ルパンなど)

行動者の行為に対する納得いく意味付けが、行為の意味を齎します。
でも、ハルヒの行動にはこういった、意味付けが何にも感じられませんでした…。
ただ、自己の優越性を得る為の刺激を求めて無茶苦茶をやっているだけかと。
これは彼女の空虚さだと思います。

次に、ハルヒがなぜこういう空虚な人間になったのかを考えてみれば、
それはハルヒが「神」であり、「人生リセット能力」を持っているからだと考えられます。
すなわち、ハルヒ自身にとって嫌なことがあれば、「その人生は無かったこと」にされて、これまで育ってきたと考えられます。
例えば、どこかで、キョンに否定されるハルヒがあったとき、その時には、ハルヒの人生リセット能力が発動されて、
「キョンに否定された人生」はハルヒにとって無かったことにされていることが、物語ラストで示される。
EDを解釈すると、ハルヒが世界を創りなおした時、
ハルヒを『拒否したキョンの存在』は消去された世界とともに消滅すると考えられます。
世界が再構築されたとしても、そこにいるのは別のキョンです。
作中のハルヒは「望むことが叶っていない」状態にいますが、「望むことが否定される・苦痛を感じる」
という状態を神たるハルヒは「人生リセット」の能力により生まれてから一度も経験していないと判断できます。
「人生が楽しい、学校には一番面白い奴らが〜」あたりからも、このことは判断できると思います。
ゆえにハルヒは「己の苦痛」を学習することができない。
苦痛を覚えた時、無意識のキャンセラーが掛かって、世界をリセットして、「苦痛を忘れてしまうから」
そして、苦痛、己が拒否されるというのは、「他者の存在」より齎されます。
幼子たちは、自分の思い通りにならないことがあると泣き喚きます。
それでも、ゆっくり諭して、世の中には自分の思い通りにならないことがあるんだ、
それが他者の存在であり、世の中なんだということを、愛情を持って伝えていくことが、教育です。
それは自身の意のままにならぬ他者の存在を認識させる事。
これは、生まれた後、極めて初期の段階で学習することであり、幼児期の子供達は既にこのことが分かってますよ。
ラカンの精神医学理論を勉強されている転叫院さんなんかは、おそらく私よりこのことに詳しいと思います…(^^;
私の解釈では、ハルヒは生まれつきの「神」能力でこういった本当の意味での「他者」との交流が常に不可能な状態にあり、
その為、前述の決して満たされないひどく孤独で虚無的な行動者になってしまったと考えられます。

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 以上です。
 これに対する返答を記す前に、このようなお返事をいただけたことに感謝いたします。夏葉薫さん見てますか、「たった一往復」はこうしてkagamiさんのご厚意で実現したのでした。というわけで、ぼくのコメントを。本当なら全部書き上げてからあぷするべきですが、能力の問題で、失礼ながら取り急ぎ前半部分のみ先に出させていただきます。

1.ハルヒに「なんらかのあるべき行動規範が感じられない」ことについて

(1)行動規範の有無について。「補記」でニヒリズムの人物例として挙げられている『バトル・ロワイヤル』の桐山和雄は、確かに、殺人ゲームへの参加をランダムに決定するほどに、選択の理由を感情的にも道徳的にも功利的にも持たない存在でした。あるいはそこには生存の理由すらないのかもしれません。これを「虚無性」と呼ぶこと、そのような人間が自分も他者もモノとして扱うのを想像し恐怖すること、これらの点ではkagamiさんに同意します。
 しかし、ハルヒには行動規範があります。「そっちのほうが面白いじゃないの!」(p.35)これは、快楽原則によって行動していることを示します。ハルヒはただランダムに選んでいるわけではありません。この点で、彼女の意識(無意識もそうだと思いますが)は上述の意味での「虚無性」とは無縁です。たとえ「自己の優越性を得る為の刺激を求めて無茶苦茶をやっているだけ」(ぼくはそれだけではないと思いますが)だとしても、そこでの「空虚さ」は刹那的な快楽を求めこそすれ、選択における「虚無性」とは全く別ものです。つまり、ここに「虚無性」の中身の混乱があると考えます。

(2)「あるべき」行動規範という文言について。上述の通りハルヒは「虚無的」ではないにせよ、「空虚」なり刹那的なりとは言えるかもしれません。しかし、「あるべき」行動規範や「反社会的な行動」というkagamiさんの言葉からは、その「空虚さ」の否定にとどまらない、何らかの望ましい方向性が既に予定されているかのように感じられます。その枠組みにしたがった行動でないために、ハルヒの行動を「反社会的」と批判することになるのではないか、と。
 ぼくのこの物言いが、たんなる価値相対主義なり思考停止なりに陥らないために、ここで「コンピュータ研究部に対して、ハルヒが行なった濡れ衣着せ&泥棒」についての「行動者の行為に対する納得いく意味付け」を試みてみます。

 それは単純明快、「パソコンが欲しかったから」。最も明確な意味づけです。「悪い行為」ですが、因果関係として「納得」はできます。kagamiさんの事例では、このような利己的な意味づけが一つも入ってません。これをぼくは問題視します。なぜかといえば、この物語の前半時点でハルヒがこんなしょうもない行動をする小娘であり、キョンがその一部始終を見ていたという場面が描かれたからこそ、「これではコンピュータ研の連中が泣く」(p.101)というキョンなりの(明後日の方向の)反省や、さすがにハルヒの暴走を止めようとするキョンに「ふてくされたように」(p.137)従うハルヒの行動が、キョンとの関係を通じてのハルヒの行動変化として意味を与えられるからです。物語冒頭ではただの我侭な暴れん坊、でも人間関係の結ばれとともに次第に共感的存在に変わっていく、というのは物語の一つの常道です。(ちなみに、ハルヒが自分の胸を道具に使わなかったという点に、既にキョンに対する意識が見て取れます。)あと、このPCは最後の場面で重要な役割を果たしますが、これは作品展開上の問題なので話は別。ともかくも、「反社会的な行動」をとるハルヒは、キョンとのかかわり合いを通じて、最終的にはこの世界の存続を求めるという「あるべき」行動へと転じています。(これを「あるべき」と呼ぶことの是非は、ハルヒの能力の問題について論じるさいに言及する予定。)

 では、そのようなハルヒの身勝手さだけのために、あのコンピュータ部員は悲惨な目にあわねばならなかったのでしょうか。その通りだ、と言ってしまってもいいのですが(ルパンに宝を盗まれてクビになる守衛や警備員も陰に存在するはずです)、続編などでもし彼らが登場したならば、もう少しマシな扱いを期待できるでしょう。あるいは、奪われたPCに「ただでは済まぬ」とばかり何らかの細工を施しておくことで、このPCの中身を覗き見できるようにしており、その結果見事に朝比奈さんのお写真をげとーできたかもしれません。
(それ以前に、彼らには身を守るすべが全くなかったわけではないのです。朝比奈さんを部員全員で辱めたと吹聴する、と言われたときに、「やれるもんならやってみろ」と啖呵を切り返すこともできたのです。なぜなら、もしそんなデマを広めたならば、朝比奈さんこそ学校に来れなくなってしまうわけですから、それを避けるためにキョンあたりが敗北宣言するしかなかったはずなのです。その意味で部員は今回、いい社会勉強ができたのかもしれません。)

 後半は明日分で。すみません。
2003年7月15日(火) 一休み
 昨日の続きを書くはずですが、気力を充填するためにちょっと休憩。夜に追記する予定です。

 おかげさまで、ご要望にお応えできそうです。問題は、ぼくがきちんと返答できるかどうかですが、請け負ったからにはもう少し頑張ってみます。こちらの頭は悪くとも、せめて誠実さに愚直さで応えることはできましょう。
 ところで、勝手なお願いなのですが。両者の意見が出揃ったあたりで、薫さんから一言コメントしていただけませんでしょうか。感想を読ませていただくと、どうもkagamiさんともぼくとも異なる視点から書かれておられるようですし、その上kagamiさんの多数の批評もぼくのシスプリ考察もお読みになられているみたいなので、両者にとっては理解ある中立の立場から、忌憚なくツッコミを入れていただけると思うのです。

 kagamiさんの掲示板でも既に建設的な意見交換が始まっているようで、この内容はぼくもハルヒの能力を考えるうえで理解しておかないといけないですね。あと、ハルヒについてはソガさんが相当に。『死刑台のエロゲーマー』さん(7/2,5)のも(こちらにも)。ここで「あろひろし」という名前が登場していて、ああ!と今頃叫びました。ハルヒを読む間中、「プロミストアイランドの光画部」というイメージがずっと漂っていたのですが、そうか原野否学園に矢荷成荘。でも、あろ世界の世間の描かれ方はむしろ『撲殺天使』的だし、ハルヒ=鳥坂という連想も捨てがたいのです。で、ハルヒの無意識は成原博士。

 で、今のやりとりは、西園寺まりいと対話する椎子の気分というか。このような状況も、ハルヒの夢だったら面白いなあ、とふと思ったり。あと、ここで「飽きた」とか呟いて議論から逃亡したら最悪/最高だろうなあ、とか。

 長門さんたちの、あのキョンに向けるまなざしや、ハルヒへの愛憎ないまぜの感情って、なんというかこう、祈りのような。

 追記。日が変わってしまいました。

2.ハルヒの「人生リセット」の能力と「苦痛の学習」について

 さて、ラカンにせよ誰にせよ現代思想についてはさっぱりなので、「意識と無意識」という単純な枠組みを用いてみます。(象徴的去勢は教育的・発達心理学的な問題というより認識論的問題なのかな。どなたかご教授ください。)何が「意識」で何が「無意識」かについては、要するにハルヒがその気でやってると文章から判断できることは意識的で、そうでないのに勝手に成就させてしまうことは無意識的、という程度のことです。
 最後の場面を読めば、確かにハルヒには「人生リセットの能力」があるように思えます。それは世界を破壊し再創造する力です。ただしそれは、ハルヒの無意識によるものです。その力が行使されて世界が書き変わっていたとしても、ハルヒはそのことを自覚できません。そして、このときハルヒには「苦痛の学習」が不可能になっている、ということも認めます。
 ここまで意見を共有したうえで、しかしぼくは、ハルヒのこれまでの成長過程においては、「苦痛の学習」がそれなりになされていた、と判断します。

(1)乳幼児期−小学生期

 もちろん、ハルヒにも幼女時代がありました。幼女の輝きをご存知のkagamiさんならばお認め下さると思いますが、幼いハルヒが意識しようとしまいと、その望むところのものは、彼女を愛する周囲の大人ができるだけ与えてやろうとしたことでしょう。ただしこれはkagamiさんの指摘の通り、わがままを全部受容することではなく、叱ること、拒絶することも彼女のためになされます。もしここで、kagamiさんが恐れるように、ハルヒの欲求不満が爆発して全部リセットされたとしたら。でも、そのような事実は過去にほとんどなかったというのがぼくの予測です。そのようなリセットを習慣的に繰り返してきたのであれば、自分の欲求を満たさない状況に耐えることなど全く不可能になるでしょう。しかし彼女は、小学6年生のときに「野球なんか興味なかったけど」「家族みんなで」球場まで野球を見に行っています。ここには自分の趣味よりも家族の団欒を大切にする態度が暗示されているのであり、安易にすぎるリセット行為を否定しています。そして現在の年齢でも、彼女は苛立ちを受け入れていますし、少なくとも作品世界はハルヒにとって快楽のインフレに陥ってはいません。

 何だその程度のことで、と反論されるかもしれませんし、ぼくも先ほど「ほとんどなかった」と記しているように、遥かに重大な状況では、あるいはリセットされた可能性もあります。それは例えば、肉親の死などです。それにしても、肉親の死に「苦痛を感じる」とすれば、それは肉親への愛情をもっているからであり、そのような愛情は、肉親から与えられたはずのものです。その肉親の愛情までも、赤ん坊のハルヒがリセットして作り出したとまではぼくは考えませんし、そこまでしなければ愛情を注げない親だったのであれば、むしろリセットされてよかったと個人的には思います。
 ところで、ここで肉親の死という問題を掲げたのは、それが普通ならば不可逆で一回性のものだからです。kagamiさんご提示の「望むことが叶っていない」状態と「望むことが否定される・苦痛を感じる」状態という区別を用いると、肉親の死は、もはや「いつかは叶う(蘇生する)」という見込みのない事態です。つまり、「今は無理でもいつかは」というように、先送りすることができない事態なのであり、だから可能性の全否定という意味で絶望するしかありません。しかしハルヒは、この絶望という全否定以外の状況であれば、例えば「今日は興味のない野球観戦につきあってあげるけど、今度の連休は遊園地に行くんだからね」という、一般家庭にもみられるようなお互いの欲求の調停や相互支援を行えていたはずです。幼児期までに他者の存在を理解したうえで次に学ぶことになるのは、コミュニケーションによるそのような調整方法や、先送りなどによる上手な我慢の仕方であり、これはハルヒもそれなりに獲得していた、ということです。
 それにしても、肉親の死をリセットしてしまっては、死という問題についての理解はいつまでもなしえないのではないでしょうか。たとえそれによって幼女ハルヒの涙をぬぐうことができたとしても、あるいはその蘇生した人を「ハルヒのため」と言ってもう一度殺すわけにもいかないとしても、問題として残り続けてはいます。

 しかしともかくも、この年齢期のハルヒは、意識と無意識の明確な区別を持ち合わせていません。言い方が曖昧で申し訳ないのですが、要するに、子供らしい全能感と、彼女自身の真に全能な力との両面で、親などによる愛情ゆえの制限を受け入れつつ、自分の身の回りにいる人々、友人、学校などの素晴らしさ、かけがえのなさを、子供らしい素朴さで信じることができていたと考えます。
 もちろん、このときの「人生が楽しい、学校には一番面白い奴らが〜」というくだりまでも、ハルヒがそう感じられるように学校や友達をその都度仕立て直したのだ、と解釈することもできそうです。しかし長門さんの言葉にしたがえば、「情報爆発」は今から3年前のあの瞬間より以前には発生しておらず(p.121-2)、その完全な消滅も観測されていないのです(p.277)。とくに後者については蓋然性の問題ですし、そもそも完全に消滅していたら観測者とは別の時空に今や存在しているわけですから、そんな記録も残りようがありません。ですが、もしハルヒが情報統合思念体までも含めた一切合財を再創造しているのだとすれば、その理由は何なのかぼくには分かりませんし、ぼくに説明する義務もありません。また、「爆発」ほどでないごく小さな改変、例えばケンカした友達の機嫌が急になおったりといったことも時にはあったかもしれませんが、わざわざそんなことしなくても、ぼくだったらハルヒみたいな可愛い子とすぐ仲直りしたくなります。

 ええと。

 主観ついでにもう一言申し添えれば、ハルヒはこんな万能な力を自分から求めて身につけたわけではなくて、おそらく生まれつきそんなことになっていたわけです。しかも自覚なく。ですから、ぼくなどは、そんなハルヒに何かしてあげられたらな、と思うのであり、この文章もそんな気持ちの表れだったりします(非人間的とされたハルヒを人間化するための再解釈です)。ハルヒが結局は虚無性を内包しているとしても、です。kagamiさんは、彼女に何をなしうるのでしょうか。慈悲をもって存在をすみやかに消し去ってやるのでしょうか。

 話がだいぶ逸れました、小学6年生の転換点については明日ということで。ああ、予定通りに進まずごめんなさい。お詫びついでに思いつきを書いておきます。

 キョンは「一縷の期待をかけていた1999年」(p.7)に何も起きなかった、と言うが、この作品が執筆されたのが2002年とすれば、3年前の1999年に、じつは小学校卒業時(p.226)のハルヒによる情報爆発が発生していた。この作品は、遅れてきたハルマゲドン(世界最終戦争)と再創造の物語でもある。

 涼宮ハルヒは『君が望む永遠』の涼宮遥が元ネタという説があるが、あるいは「ハルヒコ」、つまり麻薬事件で捕まった元角川書店社長角川春彦のことではないか。と妄言してみるテスト。
2003年7月16日(水) ぴるぴる
 お引き受けいただきありがとうございます。お忙しいご様子ですが、こちらも頭を冷やし冷やし進めていきますので、もうしばらく時間がかかりそうです。
 ところで、この件に対してどうしてぼくがこんな対応をとっているのか。それは直接的には、自分がkagamiさんを揶揄してしまったことに少々後ろめたさを覚えたので、その払拭を図りたかったということ。次に、『ステルヴィア』をめぐっての場合と同様、面白そうな問題提起がなされているのに現物を知らないので主体的に参加できず、傍観者としてしか意見できないことへの不満。あと、実際に読んでみたら面白かったしハルヒが可愛く思えたので、シスプリ考察と同じく「好き」をかたちにしたかったということ。どこまでも個人的な理由です。
 でも、今回の展開は結構感動的だったのですが、やはり当事者でなくてもそう感じられた方がいらっしゃったみたいで、ちょっと嬉しいです。

 kagamiさんの最初の文章を批判した方々は、問題提起そのものに対して応える義務はないと思います。文章表現だけが気になったのでしょうから。でも、その後でkagamiさんが反省を込めて文章修正なさっているわけですから、「修正されたみたいです。よかった」などとその行為自体を肯定的に評価するか、文章表現に言及したことの責任をもって「ここをもう少し直してみたら」などと助言するかしていただければ、批判された人も読む側もほっとしますよね。たぶん。

 kagamiさんのテキストを再読しておこうと思い、『はじるす』評に行き当たる。まさかエックハルトが出てくるとは思いませんでした。
 ぼくことあんよは、故あって先代らむだ氏の衣鉢も継いでいるわけですが、その先代は『はじるす』についてこんな雑感を書いていました。両者を比べると、kagamiさんが社会的抑圧に対する突破口としてろりげを位置づけられているみたいなのに対して、先代はその抑圧に由来する背徳感をこそ楽しむという屈折を求めており、正反対の立場にあるようです。あと、前者が思弁的だとすれば後者は歴史的。例えば、『くるみちゃんあそぼ』『Baby face』『ゆかちゃんあそぼ』『はじるす』といった流れ。

らむだ「まあ、そういう視点の違いを確認しておけば、
    ハルヒについても意見の相違の出所が分かってくるわけだ。」
美 森「そうか。いろいろ考えてるな。」
らむだ「まあね。」
美 森「どのみち、どっちも変態だがな。」
らむだ「あうー。」

 ひどいや。夜に追記予定。

 追記。再びkagamiさんからメールいただきました、昨日のぼくの問いにもお答え下さってます。ぼく自身の意見の続きを記すのは明日にします、と延び延びの巻。

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くるぶしあんよ様

ご丁寧なメールを頂き、とても嬉しく思っております。
ご感想、読ませて頂きました。う〜ん…私はハルヒの外に視点が向いているので、
ハルヒの中に視点を向けている場合とはやはり温度差があるなと感じました。
ハルヒについてですが、ハルヒに描かれるハルヒの外の世界のことを簡単に纏めてみましたので、
よろしければお付き合いいただければ幸いです。
皆様、ハルヒの外については、書かれていないなと思いましたので…。

私がハルヒに反感を覚えるのは、
ハルヒの持つ神性による外部世界に対する破壊が許せないと思うのです。
ハルヒ以外の外部世界の人間からしてみれば、ハルヒの存在はたまったものではないと思うからです。
まず、全ての世界はハルヒの中にあるのだから、外部世界は無いという意見は置いておき、
ハルヒが世界を創造したときに、「その世界は外部として実在」するとします。
そうすると、彼等はハルヒが「嫌になる」たんびに、彼等は存在を消去される訳です。
コンピュータ部員達がハルヒに反撃した世界もあったと思います。
そして、その世界はハルヒに「消去」された…。
ハルヒの生きる現実は常にハルヒにとって完璧なものです。
逆に周りの人間にとっては自由意志がありません。

彼女はノアの箱舟の神話にでてくる唯一神みたいなことをやっている訳ですよね。
「自分はこの世界嫌になっちゃったから、破壊して作り直そう」みたいな。
でも、これはその世界で生きている人間にとっては、破滅以外のなにものでもない。

私はこのような残酷な絶対者の存在を到底認めることはできません。
子殺しする親のようなものじゃないですか…。

もう一言添えておきますと、この話で一番可哀想なのは、
「ハルヒの能力を知っているハルヒ以外の人間」かと思います。
自分の意思はハルヒの能力によって産み出されたものかも知れないと分かっていながら、
それでもハルヒに好感を持つ(逆らえない)状態ほど、残酷なものはないと思いますよ。

>普通ならば不可逆で一回性のものだからです
ハルヒは死だけではなく、全ての不可逆性を超越しています。
それが神の神たるゆえんかと思います。
不可逆性を超越することは、無限の価値を選択できる為、全ての価値が無効化されることです。

>「今日は興味のない野球観戦につきあってあげるけど、今度の連休は遊園地に行くんだからね」
>という、一般家庭にもみられるようなお互いの欲求の調停や相互支援を行えていたはずです。
>幼児期までに他者の存在を理解したうえで次に学ぶことになるのは、
>コミュニケーションによるそのような調整方法や、先送りなどによる上手な我慢の仕方であり、
>これはハルヒもそれなりに獲得していた、ということです。

同意します。「最低限の社会生活が送れる」レベルの心的反応は身につけている筈です。
生まれつき「嫌な事をリセットする」能力が全開で働いていたら、
おそらく人間の心として育たないでしょう。
不快が完全に無い状態では快も感じられません。それはたんなるフラットな感覚です。
そうなれば、ハルヒにしても、それは「願いがかなうゆえに不愉快な世界」となってしまいます。
当然のことながら、そんな世界はリセットされるでしょう。
ゆえに、生命の根本たる「快・不快原則」に基づき、
あのような普通に我侭し放題なお嬢様として暮らすハルヒの世界が誕生したのでしょう。
もうひとつの考えとしては、ハルヒが行なう世界の創造にハルヒ以上の力による恣意的意志、
または蓄積する奇跡的偶然が絡んでおり、
あまりにもハルヒに都合の良過ぎる世界の創造を妨げているのかも知れません。
創造する世界と創造前の世界の違いを最小限にするメカニズムがあるのかも知れません。
しかし作者がそこまで考えて書いているかは疑問です(^^;

あと、以下の問いについて、お答えします。

>「主観ついでにもう一言申し添えれば、ハルヒはこんな万能な力を自分から求めて身に
>つけたわけではなくて、おそらく生まれつきそんなことになっていたわけです。
>しかも自覚なく。ですから、ぼくなどは、そんなハルヒに何かしてあげられたらな、
>と思うのであり、この文章もそんな気持ちの表れだったりします
>(非人間的とされたハルヒを人間化するための再解釈です)。
>ハルヒが結局は虚無性を内包しているとしても、です。
>kagamiさんは、彼女に何をなしうるのでしょうか。
>慈悲をもって存在をすみやかに消し去ってやるのでしょうか。」

私がハルヒの世界の登場人物でしたら、ハルヒに能力のことを話しますね。
ハルヒが能力を制御して、世界を消さなければ、なんら問題は無いんですから。
ハルヒに能力のことを話して、制御してもらうよう頼みますよ。
彼女自身も自分が嫌な気持ちになったことくらいで世界を虐殺するのは、
とても寝覚めが悪いでしょうから。
逆に云えば、ハルヒが能力を知らない状態では、世界は常に脅されている訳で、
しかも世界を脅迫している奴は、自分が脅迫者だということに気がついていない、
極めて最悪のどうしようもない状況であると思います。
ハルヒが能力を悪用しだしたり、もしくは制御する気が無かったら…
朝倉涼子のような一派と組んで、ハルヒの絶対性を倒す為に戦いを挑むでしょうね。

真に絶望的な戦いでも、自由が奪わている状況に抗わないよりはいい。
傀儡のアダムより、叛逆せるルシフェルの方が、自身に希望がもてますから。

もしハルヒが、真に超越的・絶対的な唯我論的神であるならば、ハルヒ以外の
全ての人々の全ての努力は無駄です。世界はハルヒの意のままです。
けれど、もし、外部世界が存在するならば、そこには救いがあるでしょう。
ハルヒが絶対的神としても、ならば、彼女が「外部の実在」を望みさえすれば、
救いはあります。その鍵となるのは、「他者への共感」だと思います。
ハルヒが人に思いやりをもてるようになるかどうかが鍵かと。
少なくとも、1巻目を見る限り、私にはかなり絶望的な感じがしましたが…(^^;
彼女の無意識に発動する能力が、彼女に他者への共感を抱かせることを拒否していま
すからね…。
…けれど、人への思いやりがもてないとこうなっちゃうと思いますよ…↓

「(この連続殺人犯は)直観像素質者であって、
この顕著な特性は本件非行の成立に寄与した一因子を構成している。
また、低い自己価値感情と乏しい共感能力の合理化・知性化としての「他我の否定」

すなわち虚無的独我論も本件非行の遂行を容易にする一因子を構成している。」
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/koube.htm

上記は有名な神戸の連続殺人犯の精神分析鑑定書の抜粋です。
これはハルヒに対する例としてではなく、最近流行りの西尾維新さんの小説とか、
18禁ゲームで凄く人気を博した「朱」って作品があるんですけど、それとか、
他にも色々、全般的に最近のオタク系作品の兆候として…
なんだか、こういうキャラクターが多くでてきていると、私は思うんですよね…。
「なんでこいつら、こんなに簡単に人が殺せるんだ?」みたいなタイプのキャラクターが多くて。
例えばハルヒが神であるように、能力的には普通の人間よりずば抜けているけど、
(上記殺人犯も類稀な能力「直感像素質」の持ち主でした。絶対音感以上に稀な先天的才能です)
人間として一番肝心な部分、「他者への共感(人のことを思いやる気持ち)」
がすっぽりと抜け落ちている。別にこういうキャラが悪人としてでること自体はいいのですが…。
(私も悪役キャラクター好みだったりしますし(^^;)

…悪人としてではなく、悪の美学としてでもなく、
こういったキャラクターが読者に平然と自然な共感をもって受け入れられていることは…。
これは…私は、とても、とても怖いなと思いますよ…。

下記は私の書いた「朱」という作品の感想です。ご参考までに。
http://www4.ocn.ne.jp/%7Etemp/aka.html

では、長々と失礼致しました。上記全文、転載等は全然構いません。
駄文にお付き合い頂き、ありがとうございました。
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(以上、改行箇所のみ修正)
2003年7月17日(木) 自分の意見滞納中
 この1週間というもの、ハルヒ話ばかりでシスプリ話が全くありません。自分でもびっくり。弓の名人はもはや弓を意識しないとすれば、真の兄は妹を意識しないのでしょうか。つまり、一切即妹。これもハルヒ的世界観。ハルヒが妹だったら、彼女の世界で生きる兄はそのような存在なのかしら。はじめに妹ありき。シスプリング創世記。
 あるいは、ハルヒじゃなくて可憐だったら。刺殺妹可憐ちゃん。ぴぴるぴるぴるおにいちゃんだいすき。ところでどなたか、キョンの妹の絵を描いて下さいませんか。

 そういいながら、マリみてネタに転げたり。マリみても結局全巻読んでしまいました。真美が可愛いです。祐巳が成長著しいですが、半年後の祥子お姉さまとの別れに向かってごろごろ転がっていくでしょうから、その過程で瞳子ちゃんとどんなふうになるのか期待してます。
 この作品、スールという制度によって連綿と続くリリアン空間が保証されている(OBの逸話もあって)一方で、蔦子さんが姉妹をもたない独立人であることによって、彼女の写真の中に大切に切り取られるこの時間はどんなに頑張っても3年間でしかないという「かけがえのなさ」をも、きっちり暗示しています。光画部はこのへんややルーズでしたが、笠原弘子の「くちびるにメモリー」で補完されてましたね。

 各所から反応いただく。こちら(7/16分)、こちらこちら(7/14分)。どもです。

 転叫院さん(7/17分)より、「この手紙のやり取りを、教室の片隅から見つめているハルヒちゃんの心境」。…ああ!たまらん!(落ち着け)象徴界に関連してのお話も。
 ぼくの身近な方々による論考だと、猿元さんこれとかこれとか。

 追記予定。

 というわけで追記。

2(2)小学6年生の転換点

 さて、無邪気な(「面白さ」の満足度において意識と無意識の差がない)幼少期は、小学6年生のある瞬間に終わりを迎えます(p.225-6)。家族全員で野球観戦に球場を訪れたとき、そこに見出した観客の群れ。それは彼女に圧倒的な量的印象を与え、さらに質的なものへの感覚もこれに引きずられていきます。「世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事」も、「日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない」。ここでは、自分の日常への懐疑的な意識が初めて芽生えています。
 そしてこれとともに示されているのは、統計的思考です。ハルヒは、「たとえ普通の出来事だとしても、自分にとって楽しければそれで充分」だとは思わない。その出来事と自分との関係性を問わない。あくまでも、世間一般からみて相対的にどのような水準にあるかのみを問題視しています。つまり、ここでハルヒは自分を相対化する視点を獲得したものの、そのさいの手がかりが群集という匿名の存在だったため、自分自身にとっての固有の価値という感覚を見失わせたのだと考えられます。
 また、このことは、ハルヒの生い立ちにも原因の一端を有しています。彼女がこの小6までの時期に世界の再創造を行った可能性について、既にぼくは「肉親の死」という契機事例を掲げました。それは、彼女が不可逆な事態による絶望に耐えられないからだとしましたが、まさにこれは、「だから生きている者は尊くかけがえのない存在である」という、そのかけがえなさ、固有の価値というものについて、喪失を通して学ぶ機会がおそらくほとんどなかったということです。だから群集的平準化に対向して自分との関係の中で固有の価値を見出すことができなかったのであり、「自分がどこか特別な人間」であるという漠然たる思いも、自分自身のかけがえなさを理解できないために、群衆の前に消失するほかありませんでした。「一人一人違う人間がこんなにいっぱい!」という喜ばしい驚きに結びつかなかったのは、そのためです。

 以上の叙述は、kagamiさんの主張する「虚無性」、すなわち自分の価値も他者の価値も認められず、ただ「選択のための選択」を行うのみという性質と同一のものにも見えます。ですが、ぼくが注意したいのは、ハルヒはそれでも「普通じゃなく面白い人生」というほとんど固有性に近い特殊性を求めることで、「虚無性」からの脱却を図ろうとしたということです。ここには彼女の意志が間違いなく存在しています。そして、この彼女の意識は、自分が特別な存在ではないという状態への疑問から発して、やがて、ならば「自分を変えてやろう」という積極的な姿勢さえも導き出します。

 ところが、この姿勢には根本的な問題が潜んでいました。
 その一つは、既に各所で指摘されている、日常と非日常についてです。ハルヒは神のごとき能力を有していて、自らはそれに気づいていないまでも、無意識的にその力を行使します。この転換点にあっては、彼女が意識的に「自分を変えてやろう」と思った瞬間、つまり1999年(2000年かも)の春に、無意識的に「情報爆発」を発生させました。世界最終戦争の代わりに、こっそりこんな事態が起きていたわけです。それは古泉に超能力とその理解を唐突に付与し、長門さんと朝比奈さんを地球に招き寄せました。これらも含めておそらく膨大な変化が生じたのでしょうが、これは確かに人生を「普通じゃなく面白い」ものにすることへの手がかりになるはずでした。しかし、日常がそこまで非日常的な存在によって埋め尽くされた結果、それが今度は日常的になってしまったならば、それはもはや非日常の面白さを提供しえない。いくら世界を改変しても、すぐさま目新しさは薄れていくしかない。こうなると、より極端な面白さを求め続けて際限ない創造運動を繰り返すか、その無意味さに絶望してしまうかのどちらかに陥ることになります。それをハルヒが避けえたのは、無意識の狡知によるものかもしれませんが、意外に「まともな思考形態を持つ一般的な人種」(p.235)としてのハルヒの意識の抑制によるものとも考えられます。それにしても、ハルヒの無意識による非日常の創造がその非日常性の否定を生むというこのどうしょうもない袋小路は、出口のないままに残され続けます。

 そして、第二の問題。ハルヒの意識は「自分を変えてやろう」と思ったのに、大きく変わったのはむしろ世界の方でした。それは無意識によるものでしたが、ここでハルヒはなぜ彼女自身を変えられなかったのでしょうか。つまり、ハルヒが自分自身をかけがえないものとして認めなおし、その自分との関係のうえで世界の面白さを再獲得することはできなかったのでしょうか。あるいは、群集の記憶を自ら喪失して幼少期の無邪気さのうちに立ち返ることはできなかったのでしょうか。しかしハルヒは、前者のように行うには、自分の固有性を信じきれませんでした。そして後者のように行うには、いまの自分を捨て去れるほどの虚無性を持ち合わせていませんでした。
 自分を認めることも捨て去ることもできないまま、「自分を変えよう」と意識的に決意したハルヒは、では何を変えられたのか。「待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。」つまりは、待ちの姿勢を攻めに変えたにすぎないのです。自分そのものはさほど変えずに、世界の中に面白さを探り出そうとしているのです。隠された宝物を見つけ出そうとする彼女の意識の向こう側で、その宝物を埋めてまわる彼女の無意識。その虚しさは先に述べた通りですが、ここになお一つ、ハルヒの意識の限界を指摘しなければなりません。それは、彼女がその宝物を探すための手がかり、いわば地図についてです。中学時代での校庭巨大落書きなどの突飛な行動にせよ、高校での「基本的にね、何かおかしな事件が起こるような物語にはこういう萌えでロリっぽいキャラが一人はいるものなのよ!」(p.61)などの台詞にせよ、そこには、謎めいた面白さについての先行するテキストの存在を予感させます。おそらくハルヒはそういった物事に関する様々な文献を読み漁ったのでしょう。そうすれば尋常でない面白い何かが見つけ出せると思って。でも、それは彼女にその面白い対象についての定型的な思考を与えることにもなり、既存の物語のフォーマットを辿らせることにもなりました。「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者」。そうハルヒが並べたてるとき、彼女はもはや、市販品の「宝の地図」で宝探しに出かけているのです。そのことに気づかないハルヒの意識は、実は彼女自身が相当に固有の面白さを発揮してることにも同様に気づきません。外へ、外へと向かいつつ、その外側を侵食していく既存性のまなざしは、決して内側に向くことはないままで。

 その自分のまなざしとは別の視線を意識したとき、ハルヒは次の転機を迎えます。そしてそれは、なぜか裏表紙の紹介文では省略されている「異世界人」との出会いでした。

 続く。まだ先は長いですね…。
 ところで、長門さんが図書館で食い入るように読んでいた「百科事典みたいな本」らしき「何だか難しい名前の外国人が著者の哲学書」ですが、エルンスト・ブロッホの『希望の原理』ではないかと言ってみるテスト。ショーペンハウエルの『意志と表彰としての世界』かもしれませんけど。
2003年7月18日(金) 二休み
 kagamiさんとのメールにて、今回やりとりの最終目的が『ハルヒ』についての共通見解を導くことではなく、「両者の解釈およびその基本前提の共通点・相違点の確認」にあるということで合意いただきました。今しばらくは、ぼくが自分の意見の残りをともかく書き連ねて、kagamiさんが必要とあれば反応される、出揃ったらそれらを夏葉薫さんに対比していただく、という流れで進んでいきそうです。最終的に、これを踏まえて議論に移行するかもしれませんが、それはそのときということで。あと、一連のやりとりは後日コンテンツとしてまとめます。
 で、ご了承下さったときのkagamiさんのメールと、これに返信したぼくの文面とを転載しておきます(改行箇所など修正)。両者の少女観などが如実に示されているような。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(kagamiさんからあんよへ)

>このやりとりを後日まとめて1コンテンツとして残したいのですが、
>これも「転載」のうちとお認めいただければ幸いです。

全然OKです。どうぞどうぞ〜(^^)以後メールは常に全文転載OKです。

あと…。くるぶしあんよさんも、また素敵にロリなお方だったのですね…。
ロリはイイですよね…。まさに人類の創り出した歓びの極みかと…。
くるぶしあんよさんが、大いなるロリの同朋と知って、とても嬉しく想っております。
この私も、ゆかちゃんもくるみちゃんも、ベビーフェイスもプレイしております。
ベビーフェイスはあまりロリという感じはしなかったですね…仰る通り、似非ロリゲかと。
ベビーフェイスはロリよりも、アイドルEDが中々良かったかなと、その点で評価しましたね。
18禁アニメの「アイドル堕天使リナ」が参考になっているのでしょう。
ゆかちゃん&くるみちゃんは両方とも大好きな作品です。私にとっては甲乙つけがたいですね…。
一番始めの馴れ初めのエッチ(非SEX)のシーンとか、凄く良かったですね…。

ちなみに私は「ロリの背徳感」はあまり重視していないんですね。
以下にざっと私なりの背徳感についてご説明を申しあげます。

「背徳感」…。バタイユの唱えた「エロティシズム」理論によれば、
最高の快楽は背徳感から齎される訳ですが…。背徳感は反社会性を必ず孕む為、
背徳感の強調は、幼女との愛自体が、極めて背徳的であるということの強調になってしまう…。
私は、この現実世界で、世代間恋愛、より自由な恋愛が発展して欲しいと想っているので、
意図的に単純な背徳感についてはあまり取り上げないようにしています。
背徳が反転して美徳となる、最高の歓びについては、取り上げていますが、それは後述します。

背徳感なしに、小学生と普通にプラトニックにデートするくらいのことは、
世間的に認められる社会になればいいなあと私はいつも願ってます。見果てぬ夢ですが…。
…ただ、このままの状況だと、それこそ
「小学生と肉体的接触は手を繋ぐくらいの、極めて真摯なプラトニックデート」
すら相手が大人だと「変態」呼ばわりで、社会から指弾されてしまいますからね…。

…哀し過ぎます…。

それこそ現代は、「子供は家族以外の大人を警戒せよ」みたいな社会で…。
私は哀しく想っております。
日本国は昔から子供をとても大切にする社会であり、
海外からみても、子供を地域・周囲の大人がとても大切に可愛がることについては、
多くの人が指摘しています。(著名な日本論「菊と刀」や小泉八雲の日本についての随筆等)

そこでは、子供を大人が可愛がることは、それが、家族でなくても当然のことであったし、
子供(10才〜)との親交を深めて、その子が成長した暁にいずれ(15才〜)は結ばれるということも、
普通にあったんですよね…。

それが…いまは…(TT)

明かに、今は、ロリな人々にとって不幸な時代です。
ロリな人々は、過去から現代、常に社会に一定の割合で存在しています。
日本にも、ロリな人専門の子供遊女などがいました。
勿論、凌辱や強制的な売春のような、相手の意志を無視した犯罪行為は、
成人女性との合意無き行為が犯罪であるのと同じく、子供に対してその
ような犯罪行為があった場合は、成人女性以上に厳しく罰するべきです。
子供は、大人に比べ弱く、守られるべき存在なのですから。
しかし、だからといって、子供から大切な人間としての権利を剥奪してもいいことにはなりません。
相手との合意の上での付き合い、自由な恋愛の権利は決して誰にも侵害できぬ人間の生まれ持った権利だと思うのです。
愛し合っている2人を年齢で線引きし、無理やり引き離してしまう
現在の社会慣習・法制度は明らかにおかしいと強く断言せざるを得ません。
合意の上で恋愛関係を築いているならば、大人と子供のカップルであっても、
大人と大人のカップルや、子供と子供のカップルと同じように、
自由恋愛の権利として恋愛関係を普通に認めるべきだと思うのです。
本当に子供達のことを想うならば、我々は子供達の自己決定権を認めるべきではないでしょうか?

子供達を一人、一人の独立した人格として認め、彼等の権利を認めること、
このことこそが、なによりも一番大切なことなのです…。
それこそ「愛があれば、年齢なんて関係ない」という言葉は真実の言葉、
恋愛という自由な意志の朗らかな結びつきにおける完全なる真実だと思います。

あと、ロリータとの背徳感を語るならば

「子供と恋愛することは悪いことだ。だが俺は快楽の為にそれを破る」

という背徳を味わう為の背徳の歓びではなく、

「『世間的には』子供との恋愛は批判されることだが、
俺は、それでも、この幼い娘を愛している。
世間がなんといおうとこの娘を愛している。
そして娘も俺を信頼し、俺を愛してくれている。
俺は愛する娘を、全身全霊を持って世間から守りぬき、2人の愛を育てよう」

という、大きな抑圧を慈しみと愛の為に打破する、その背徳、
神に叛逆して愛を貫く善なる背徳、それこそが、真の歓びを齎し、
その時、背徳は反転し、愛の美徳となる。その歓びを、私は愛します。
それは全ての抑圧が真の愛の前に消滅し、世界全体が至福に包まれる歓びの永遠。
私はこう考えるので、はじるすこそ、まさに理想のロリゲだと思うのです。
バタイユの「エロティシズム」は、最高の歓びとして、このメカニズムについて理論的に説明しています。
もし、未読でしたら、一読をお勧めしますよ〜。澁澤龍彦さんが名訳しています。
私も、この「反転する究極の背徳=真の美徳」については
世間的には悪徳である『卑語』と絡めて簡単に書いていますので、
拙い文章ですが、ご参考になれば幸いです。(こちら

ちなみにハルヒの話より、どちらかというと、
ロリのお話がしたいななんて、私は思っちゃっているのですが…(^^;
くるぶしあんよさんが感じるロリの魅力についてとか、
ロリのこれからの展望とか、ぜひお聞きしたいと心より思っているのです。
幼女に神聖を感じたり、致しませんか…?私は感じてしまうものなので…(^^;

あと、私はもうハルヒについては語り尽くしたという感覚で、
人々の解釈がみな違うのは当然のことかなと思います。
その中で、私の解釈を覆すような、ハッと目が覚める
ような優れた解釈を知ることができれば、とても嬉しいです。

では、今回も長々と失礼致しました。
明日のあんよさんに良いロリゲがありますように(^^;

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(あんよからkagamiさんへ)

こちらのわがままをお聞き届けくださり、ありがとうございます。
コンテンツ化は、このメールのやりとりだけでも先に行っておこうかと思います。
ハルヒについては、ぼくの方が未だ途中段階ですが、
解釈の違いは既にほぼ明らかなので、一つの読み方として楽しんでいただければと。

ろりげに限らず最近あまりえろげをプレイしていないのですが、
『先生だ〜いすき』では葵ちゃんのにぱーという笑顔に瞬殺された経験があります。
しかしそれにもかかわらず、さほど興奮しなかったというのは、
やはり背徳感にやや欠けるところがあったからでしょうか。
あるいは、背徳感を上回る安心感を得てしまったからでしょうか。
むしろ『おしえてお兄ちゃん先生』の方が強く欲求喚起さられましたし、
『Fifth Twin』や『リトルモニカ物語』、『ドーターメーカー』も相当な破壊力でした。
kagamiさまは背徳感をあまり重視されていないとのことですが、
ぼくは既存社会の「美徳」や抑圧を前提としてものを考えがちですし、
さらに言えば、少女によって拒絶されることに一片の真実と快楽を見出します
(ナボコフの名作もこの点で峻厳な絶望を描き出していると思います)
ので、そのへんが立場の違いなのかな、と。
それから、幼女の神聖さについてはぼくも認めることにやぶさかでありませんが、
幼女もやがて成長してしまうこと、逆にいかなる成人女性にも幼女時代があったこと、
こういう変化の諸相にも、ぼくは何らかの意味を求めています。
また、少女愛については、どうしても肉体のみへの関心に陥りがちであるという点は、
世間で一般化し得ない限界と言いますか、一般化しない方が望ましいことの根拠であります。
つまり、現在の社会で少女愛が認められるようになったとき、それは他のモノと同様に、
少女を消費することにしか繋がらないのではないか、と危惧するわけです。
既に少女買春などで、そのことは現実のものとなっているのですが、
自由恋愛のための自己決定権を認めることが、少女市場の形成に帰結するのだとしたら、
ごく少数の求道者達によって少女愛の精神性が理解され継承されている現状の方が、
まだしも幸福な状況なのかもしれない、とさえ思います。
もちろん、「保護」の美名のもとに子供を過剰に抑圧することや、
子供を単一の枠に無理矢理はめこんでしまうことは、批判されねばならないということ、
子供達に真の自己決定権を認めること、それらのことには強く共感します。
そのためにも、そのような子供達を受け入れることのできる大人として、
責任ある態度で社会を維持・改善していかなければならない、と思います。
眼前の少女を守り抜こうとすることも必要でしょうし、
その行為の精神性を確認する批判的第三者なり内在化された他者なりが、
また要求されることになるでしょう。
このあたりのことは、もっと言葉を尽くして説明すべきものですけど、
ただいまぼくは妹に操を捧げていますので、
なかなか充分な余裕をとれず、申し訳なく思います。
ぼくの幼女観は、例えばシスプリパロディ『魔法のシスター マジカル☆ヒナ』にて、
その大部分が示されていますので、よろしければご覧下さいませ。

それではまた。少女に光あれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(以上)
2003年7月19日(土) 普通っぽい日記
 あまのさんがこないだのオフ会レポをここから数回にわたり書き上げて下さってます。さすがの筆致。こちらからの補足を少々しておきます。

 スク水カラテで「体操服で見学」の場合(何の補足なのか)。1キャラとは3回戦って勝敗を決するわけですが、もし最終戦で自キャラがこの見学不戦敗状態に陥ってしまい、自動的に通算の敗北が決定してしまうようなときには、自キャラはランダムに、(1)涙をこぼし肩を震わせながらプレイヤーに目線を向けて「ごめんなさい…あたしのせいで…」と謝るか、(2)ふらふらしながら、パラメータペナルティ状態で無理にでも戦おうとするか、となります。これに対して敵キャラもある一定の確率で、後日再戦を申し出てくれます。とくに普段は高飛車なお嬢様キャラはこの確率が高めになります。ハンデを負う者を倒すことは自分のプライドが許さないからです。

 海岸にて。駐車場からこの砂浜に下りていこうとしていたぼくたちは、海岸沿いの狭い道路の上に黄色いペイントで書かれている文字に気づきました。
  「ゴール」
 観鈴ちんの最終到達地点が、そこにありました。

 まとめ。美森氏に読んだ感想を尋ねたところ。

美 森「いやー、ずいぶんうまく表現するもんだわ。」
らむだ「ねえ。」
美 森「この文章だと、利休さんどうみても黒くないし。」
らむだ「あー(笑)。」
美 森「お前も若干真面目っぽいし。」
らむだ「ああー(笑)。でも、真面目な話題は一つも出てないじょ。」
美 森「だいたいお前の月当たり実質労働時間なんて、利休さんのとあわせてちょうど720時間だろ。」
らむだ「いや、足りないかも。」

 エピソード。勝手に鞄を開けたのは大変失礼なことでしたが、まあ、その、「友情です」(by瞳子)ということで。

 ハルヒ追記予定。

 で、追記。
 こばもすさんへ。苛立ちの原因はさりながら、ぼくはアニプリの航をもあのように肯定する人間ですので、キョンも結局受け入れてしまうのです。『悪魔のミカタ』も『sense off』も、というかその文脈で引用される他作品のほとんどを知りませんので、なおさら安易にそうしてしまっているのかもしれませんが。ぼくはわりと、キョンもハルヒも愛しいです。長門さんたちにも、「萌え」よりはそういう感情を抱きます。

2(3)高校入学と同好会設立

 さて、高校入学時点でのハルヒは、中学校での欲求不満を引きずりながら、高校に入れば何かが変わるはずという先送りの希望で自分をごまかしていました。最初の自己紹介でその態度を明示しているわけですが、その内容は、普通でなく面白い他者が出現することを望むという受動的なものでした。もちろんその他にも、彼女なりの努力のさまは描かれています。普通の事柄にさえ新しい面白さを見出そうと、様々な部活に参加するのは、常識的な範疇で納得してみてもいいという意外な一面を覗かせています。しかしやはりそれでは収まらず、ハルヒは積極的な「待ち」の姿勢をも示します。占星術的法則にしたがって髪型を曜日ごとに変え、これに引っかかってくる存在を待ち受けます。いわばアクティブソナーです。
 そして連休明けの水曜日、見事に釣果が得られました。今までハルヒに近寄ってきたのは、彼女の非常識的側面を無視して表面的な美麗さを求める「くだらない男」(p.35)ばかりでしたが、キョンは、普通の男子のように髪型が可愛いかどうかではなく、その髪型の法則性そのものについて関心を示し、しかも自分と異なる意見までも語ったのです。それはハルヒによって意外なことであり、彼を特殊な存在として認識し始めます。しかし、どうみてもキョンが「宇宙人、もしくはそれに準じる何か」(p.35)ではあり難いという印象から、ハルヒは残る可能性について問いただします。「あたし、あんたとどこかで会ったことがある?ずっと前に」(p.29)それは直接的には、過去、というより前世での縁を確認するものですが、間接的には、キョンへの関心を言葉にしてみたまでのことです。だから、髪も切ったし、会話も可能になり、感情も吐露できるようになっていきます。この時点で既にキョンはハルヒにとってモノ(「路傍の石」)ではなくなっています。とはいえ、彼女が求める「普通でない面白さ」の対象でもありません。その対象について関心をもってくれるような存在なのであり、自分と同じように関心をもってほしい、つまり共感的であってほしい、と思うような存在になったのです。この意味でキョンは、ハルヒにとって「かけがえのない」人間になっています。いわば、普通のつまらない世界の中にはいない「異世界人」です。しかし、それは主に関心の共有という外在的な理由に基づくものであり、背後に好意を隠しながらもそれ以上の深まりのないまま、次の状況を導いていきます。

 ハルヒの苛立ちは日々募り、やがて生徒の失踪や教師の殺害などの事件まで期待します(p.41)。しかし、この事件はいずれも発生しません。ハルヒはここでも常識によって無意識を抑制しており、一応は他者の生命を尊重しています(たんにこの手の事件が本当は嫌いなだけかもしれませんが)。そして面白い部活についてのキョンの「ないもんはしょうがないだろ」という拒絶や、発明や発見つまり人類が求め作り出してきたことについての弁論に反発しつつも、そこに重大なヒントを見出します。「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」(p.44)それはやがて「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」として、また「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」(p.105)を目的として活動開始するはずですが、この時点ではともかく、キョンと一緒に面白いことを探すための場を「とりあえずまず作る」(p.48)ことが先決でした。
 その方法は無茶苦茶で強引なものでしたが、そこには先述したような、既存のテキストに従った行動原則が存在します。萌えキャラにコスプレ、謎の転校生、ウェブサイト、宣伝活動。あいにく眼鏡っ子については知識がなかったようですが。「もう勝ったも同然ね」(p.129)などという鳥坂先輩的発言にしても、物語のお約束という普通の文脈に依存しています。そして、「充分謎の資格があると思うでしょ、あんたも」(p.68)などと、キョンには自分と同じ感覚の共有を求めます。ところでこのキョンですが、彼は一体なぜハルヒに協力しているのでしょう。

 本作品の感想を各所で確認すると、キョンは一般にヘタレとして受け止められています。傍観者、中途半端な現実主義者、えろげ的主人公。どれもおそらく部分的に当たっているのでしょうが、ぼくが注意したいのは、彼が現実に迎合するに至ったその過程です。キョンは少年時代の幻想から覚めていく「成長」の過程において、「地元の心霊スポットに行っ」たり、机の上の鉛筆を「二時間も必死こいて凝視」したり、「前の席の同級生の頭を授業中いっぱい睨んで」思考を読もうとしたりといったことを、彼自身が実際に試みてみたうえで、「世界の物理法則がよく出来ていることに感心しつつ自嘲しつつ」しているようです(p.7)。この、実際に試みてみるという行動性は、たとえ子供の頃のことだとしても、ハルヒに近似したものですし、やってもみずに無理だと決め付けるような普通さとは一線を画しています。
 だからキョンは、ハルヒの中学時代の逸話を聞いて、それを一笑に付すことができません。むしろ、そのときの彼女の姿を思い浮かべし、「どこか思い詰めた悲壮感」や「落胆」を想像するほどにまで共感的です(p.19)。その心のうちを内在的に理解できるからこそ、キョンはハルヒの髪型にあのように関わることができました。彼は面白さの志向を共有するだけでなく、この点でハルヒの理解者でした。そのことは、ハルヒが既存の部活に文句を言うのに対しても、「面白いこと」が何なのか「こいつの中でも定まってない気がする」と、これまた内面から批判しています。
 ここまで読み込んでしまうような人間が、傍観者であるはずがありません。何も同好会作りに巻き込まれずとも、ハルヒへのまなざしにおいてキョンは既に関係者、当事者なのです。もちろん同好会設立にあたってはハルヒにいいように使役されますが、その間中キョンはずっと振り回されているようで、それを自分から拒みません。「死刑はいやだったからな。」(p.54)とうそぶきながら、これに協力しています。「自分のやってることに疑問を覚えつつ、つい部室へと足を向けてしまうのは何故だろうと形而上学的な考察」(p.82)も抱きはしますが、それが彼自身のハルヒへの感情に由来すること、またこの試みを放っても置けずちょっとは面白そうにも思っていることなどは考えようとはしません。それは自分の常識を揺るがせる、というより自分が諦めてきたものに再び向き合わせることだったからです。全然素直でないキョンは、その行動においてはきわめて素直にハルヒに協力していきます。その協力は、「死力を決して」ハルヒの暴走を止めるということでも示されます(p.137)。
 そう、キョンはハルヒを止められるのです。不機嫌にすることが分かっていながら、いやむしろ共感的であるからこそ、あえて不機嫌にすることができるのです。そしてこのことが、長門さんたちにとっては「無視出来ないイレギュラー因子」(p.119)としてキョンの存在をきわめて重視することにつながっていきます。長門・朝比奈・古泉の各人(人でないのもいますが)は、それぞれ任務を与えられてこの世界に存在し、そしてハルヒの無意識の力でこの部室に集結してしまいます。彼らはハルヒの観察のためにここにおり、ハルヒ周辺の状況を維持するために尽力します。しかしそれは基本的には、ハルヒをそのままにしておく以上の積極的行動を排した傍観者的な態度です。彼らは、客観的状況について知ってはいますが、そこからさらに踏み込むことができません。なのにキョンは、何も知らないのに、ハルヒにどんどん踏み込んでいき、彼女の感情さえ損ないます。長門さんたちにしてみれば、このキョンの振る舞いは、どれだけ異常で危険なものであることでしょうか。
 そこで、彼らは微妙に一歩踏み出します。(続く)

 まだ続くのか。もう少し手短にまとめたいものですが、どうにもなりません。最後に考察みたいな形式に一括しようかな。
 ところで、部室のPCについては強奪の経緯が描かれましたが、その他の多数の備品(一層の冷蔵庫まで)は一体どうやって集めたのでしょうか(p.69)。冷蔵庫も重たいのでおそらく同様に学内で奪ったのかもしれませんし、他の多くの物品もそうなのでしょう。それでも、必要とあらば自腹を切って「ネット通販」(p.89)までしたり、自分も率先してコスプレしたりという行動力は、面白さを求めるためとはいえ、非常に爽快です。絶対に傍観者ではないという意志の発露。これが最後の場面では、世界改変の傍観者に転じてしまうわけですが。

 あとで文章読み直して、キョンの箇所を若干修正。彼については色々誤解が多いように思います。誤解、と言って強すぎるのであれば、彼への視線が冷たすぎるように、ぼくには思えます。それは、ぼくの視線のぬるさと表裏一体なのでしょうけれども。読むごとに、キョンが「ばかだなぁ、しょうがねえなあ」と内心つぶやく声が、優しく響くのです。
2003年7月20日(日) 継続は力なり
 今度のクリスマスの祐巳たちを思う。

 どもです。航はとくに後半、意識的に妹のために行動しようとしてそれに失敗する(自己評価としては)わけですが、キョンはハルヒのために行動しつつ、それを意識では認めようとしないのかな、とか。読む側というか横で見ている人間としては、山田と谷口の視線の違い。

 いや、一連のハルヒ文章を書き綴っていて、アニプリ考察の中盤あたりの雰囲気をつらつらと思い出すわけですよ。書いているときの感情も、文章の組み立て方への意識も、例えば第14話分あたりに似てきてるかなー、と。そういうものをあらかじめ自分のうちに持っていたからこそ、『ハルヒ』にも好意的な感触を得たわけですし、下手をすれば既存のアニプリ解釈フォーマットにこの作品をはめ込む作業に陥ってしまうかもしれない。そのへんは自分でも注意できないので、せめて引用箇所をその都度明示することで抑制しています。これにしても、逆にごまかしの隠蔽になりかねませんけど。
 あと、ここまでうだうだ語る必要あるのか?という疑問をお持ちの方はごもっとも。これには、約束を果たすのに必要であり、しかも自分では結構楽しい、と答えるしかありません。こちらの文章を読んで「ああハルヒもそう読めるのか」と感じていただければ嬉しいですし、「こいつ馬鹿か。こんなん無駄」と思ってくださってもまたよし。こんな文章読まずに作品を楽しめるなら、もちろん何よりです。要はこの作品好きなので。
 そして今日もハルヒ。話が全体の考察へとどんどんずれてきてますが、もう修正きかないので最後まで書いてしまうしかありません。「かけがえなさ」についてだけ確認したかったはずなのに。

2(4)危機への過程

 最終局面に至る過程でのキョンの姿を見てみましょう。

 キョンは、長門さんたちから立て続けに、各人とハルヒの正体について情報を与えられます(そのさいの3人の意図については別に書きます)。当初はその内容を、そして自分がハルヒにとって、つまりこの世界にとっての「鍵」であり「選ばれた人」であり「一番の謎」であることを、キョンは一笑に付していました。その一方で、同好会活動そのものや教室でのハルヒとの会話という日常的愉悦に馴染んでもいき、例えば反省会に来なかった理由をハルヒに尋ねてさえいます(p.174)。いえ、日常的というよりは、平凡な日常に刺激を添えてくれる場所が同好会だったといえましょうか。
 しかし、その直後に朝倉によって殺害されかけ、長門の超常的能力によって危うく救われるに至り、キョンはもはやこの笑い飛ばしていた「現実」を受け入れざるをえなくなります。「巻き込まれ型の傍観者」でいたいという願いも虚しく、彼は必死に抵抗しようとしながらも「これは……いったいどうしたものだろう?俺は何を思えばいいんだ?」と途方にくれます(p.199-200)。これまで意識的にはハルヒに対する「巻き込まれ型の傍観者」のつもりだったキョンは、実際にはハルヒの無自覚な協力者、サポート役でした。しかし、ここで自分が当事者であるということに直面したとき、自分のこれまでの行動をも一緒に意識化することはなく、ただ事態の展開に当惑するばかり。だからハルヒが長倉事件の捜査に乗り出したときも、全く受動的なまま、引きずられていくことになります。積極的に協力もせず、「死力を決して」制止するわけでもなく、どこまでも「巻き込まれ型の傍観者」として。しかし、調査の帰り道でハルヒが心のうちを告白したとき、キョンは「そうか」とだけ応えます。彼自身が自分を憂鬱に思わざるをえないこの一言は、ですが、ツッコムことも哲学的引用でのごまかしもせず、かといって何かを返すには自分の思考が全然まとまらず、ただハルヒの言葉をそのままに受け止めるしかないという、彼のぎりぎりの誠実さ(あるいは鈍さ)をも示しています。

 とはいえ、古泉によって凄まじい状況を見せつけられ、しかも「すべてのゲタを預けてしまってもいい」とまで言われたことで、キョンの精神はとうとう飽和します。なぜ自分なのか。自分は何をしようとするのか。平凡な人間にすぎないという自己認識を固持し、ハルヒと自分との関係の意味をあえて意識にのぼらせまいとして、キョンはとうとう思考停止します。「なぜ俺が悩まなくてはならんのだ。」自分が困惑を引き受ける理由は何もないと「俺がそう決めた。」(p.251)問題解決をハルヒと3人の直接交渉に委ねて、キョンはなおも自分を傍観者の立場に置こうとあがきます。それは、明らかに欺瞞です。恐るべき現実をカッコにくくり、同好会のひとときを「平凡な日常」と思い込むという偽り。ここで読者は、キョンのヘタレっぷりに愛想をつかしたかもしれません。ぼくはむしろ、自分なら恐怖に駆られて錯乱するか、せめて学校を休むかもしれないと思いましたけど。
 ですが、キョンはここでも懲りずに登校し、暑がるハルヒの機嫌をとろうともせず逆に苛立たせ、部室では怒鳴らせまでします。古泉の言葉を信じれば、それがただちに世界の終わりをもたらすかもしれないというのに。ある意味で肝の据わった自己欺瞞と評価すべきでしょうか。キョンは自分にできることなどないと断定した以上、徹底して一切を「眺め」ることで「妙に満足感を与えてくれる学校生活」を楽しもうとしますが(p.264)、観照者というには不徹底です。ハルヒをからかうこと、ハルヒに怒鳴られること、その過激な行動に傍観者的(自分の意識では)につきあうこと、ハルヒを中心とする同好会に自分の居場所を見出すこと。それらは全てこの「平凡な日常」の中に吸収されます。しかし、この「平凡な日常」が延々と続く「繰り返し」として受容されるとき、これを生み出すに至った自分とハルヒの最初の創造的行為を、思い返すことはありません。「終わり」の意識を消し去ったとき、「はじまり」もまた忘却されました。「なぜ俺だけなのかという疑問はこの際脇に置いておく。」そしてなぜ自分がハルヒのそばにいようとするのかも、一緒に脇に置かれてしまいます。ハルヒがなぜ自分を巻き込んだのかも。なので、着替えようとしたハルヒが怒鳴った理由も、全く思い当たらずに終わります。傍観者であるということは、観察対象に意味のある影響を与え得ない存在だと自分を位置づけることであるからです。あれだけの目に遭ってもハルヒを拒絶しないくせに、好意はここでますます隠蔽されていきます。
 こうしてキョンは、傍観者であることを無遠慮に死守しようとします。しかしその立場は、キョンが見まいとするハルヒとの関係において初めて可能になっていたものである以上、キョンは傍観者であるために逆説的に当事者性を強めていきます。彼女への影響を考えずに朝比奈さんや古泉と遊ぶという、本当の傍観者から見ればあまりにハルヒの気持ちを思いやらない行動の結果、キョンはハルヒを無自覚に追いつめてしまうのです。

 そんな自分の惹き起こした問題に気づくことなく、キョンは帰宅後もいつもの生活行動を繰り返し、ただし今晩は珍しく「たまには読書もいいかな」と思って、寝る前に長門さんがしおりを挟んで無理矢理貸してくれた本を開きます。それは、長門さんを同好会の読書好き少女として平凡さの中に組み込もうとすることであり、この海外SF本の中に描かれた非日常を読者という安全な立場から楽しむという、彼の傍観者的態度に重なるものでもありました。しかし、彼の読書に対する態度の変化を再確認するとき、これはさらに新たな意味を獲得します。
 母親が与えてくれた本すべてが面白かった幼少期。なのに、いつからか本を読まなくなり、面白さも感じなくなった(p.157)。そんなキョンが、長門さんの無理矢理貸した本を読んでみようと思い立ち、そして意外にも面白さを感じる。「やっぱり本なんてものは読むまで面白さが解らないもんだ。」(p.265)ここでは、彼の読書行為そのものが、彼の非日常への姿勢と重なり合っています。つまり、非日常の夢に満ちた幼少期から、日常に埋没しゆく成長過程。そして、無理矢理に押しつけられた非日常。やがて直面させられる決断の瞬間に、キョンがその強制された行為を、やっぱりやってみたいと解らないものだ、と自らのものとして受け止められるのかどうか、その予感がここに示されているのです。(続く)
2003年7月21日(月) やりとりによる三休み
 kagamiさんから、ろりげ・少女の自由恋愛についてメールをいただきました。こちらの返信とあわせて転載します。(改行・リンクを若干修正)

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くるぶしあんよさんへ

お返事どうもありがとうございます。
ロリっ娘について真面目に対話できることは、私にとって望外の喜びです。
もしよろしければ、お付き合いのほどをどうかお願いします(ぺこり)

>ルーンソフトの「Fifth Twin」や「リトルモニカ物語」について
ルーンのロリソフトは、背徳性を薄める形でロリに特化しつつあると、私は思うんですよ。
「初恋」に至っては、そこで描かれるのは、ボーイミーツガール、中学生同士の
甘酸っぱい初恋の味な訳で、そこにおいてついに背徳性は、恋愛の前に敗北する。
これは、義妹である杏のシナリオで最も顕示的です。杏シナリオでは、主人公×妹
と主人公&妹の父母の恋愛の機微を同時に描いて、主人公と杏の気持ち、
「大人も子供も人を好きになる気持ち、恋愛する気持ちは変わらないんだ」
ということを、両親の建前(=プレイヤーの世間体)に訴えかけます。
その結果、条件付きながらも、2人は兄妹&子供同士の恋愛を認められる。
私は、感動しました。ついに真正面からぶつかって悲劇を乗り越える作劇が生まれたと。
ちなみにドーターメーカーはまだプレイしてないんです(^^;

>つまり、現在の社会で少女愛が認められるようになったとき、
>それは他のモノと同様に、少女を消費することにしか繋がらないのではないか、
>と危惧するわけです。
>既に少女買春などで、そのことは現実のものとなっているのですが、
>自由恋愛のための自己決定権を認めることが、少女市場の形成に帰結する

私は、これは完全に逆だと思うんですよ。今、少女の価値は完全にオカルト、秘されたもの、
隠されたものになってしまっている訳です。それが、昨今の少女売春などに見られる、
「少女概念=隠秘なるもの=希少価値=ゆえに交換価値が高い=ゆえに欲望する」
といった少女の本来的存在を無視する忌わしき欲望に繋がっていることは、間違いありません。
私は「少女」を「隠秘なる抑圧の少女性」から解放するべきだと思うのです。
大人と大人が恋愛するのが自由なように、子供と子供が恋愛するのが自由であり、
大人と子供が恋愛するのも自由な社会。
そこでは、交換価値による「少女の価値」というものは崩壊し、
本当の人間同士の関係性、本来的な自由恋愛が始まるでしょう。
そうすれば、少女売春のような馬鹿げた行為は減少する筈です。
そこでの交換価値は「少女概念=大人の女性概念=人間全ての概念」になるのだから。
それこそが、本来的な人間の営みと云えるのではないでしょうか?
少女に対する有形無形、内外からの抑圧は聖母マリアの処女性から連綿と続く、
キリスト教の強烈な抑圧の一つであり、我々は、
少女をその鎖から解き放つべきだと思うのです。
私は、本来的な少女を愛していますから(^^)
それこそ、近代が始まる前の日本の少女は、私にとっては理想です…。
私は、活き活きと生きる少女が好きなのです。
はじるすや仙台の娘達は、まさに我が愛する娘、伸びやかなる自然の申し子です。
もちろん、教兄も大好きです。やっぱり好きな娘は幸せにしてやりたいのです。
とらいあんぐるハートのように、仲間みんなが祝福してくれる中で、愛するろりっ娘と
暖かい、ラヴラヴな生活…。互いに好意を交し合う暖かい慈しみあう関係、
そしてそれが年齢差などに惑わされることなく祝福される社会こそ、
本当の、人が住みやすい、素晴らしい社会ではないでしょうか?
弾圧されながら暮らすのは、例え愛するろりっ娘がいても、いや、愛する娘が
いるからこそ、その娘に辛い想いをさせるのが、苦しいのです…。
相手を幸せにしたいということを、おにいちゃんも、先生も、娘達も、
みな第一に考えているからこそ、はじるすは、仙台は、貴い作品だと思うのです。

>マジカル☆ヒナ
魔法少女ヒナちゃん可愛いですね〜。はにゃ〜んです(^^)
幼稚園児だと…もっと嬉しかったり…(^^;
マジカル☆ヒナちゃんとラヴラヴしたいです〜。

まだまだ語りたいことはあるのですが、あまり長くなるのも申し訳なく(^^;
今週はここで筆を置かせて頂きます。
駄文に長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。

あんよさんに、妹との善き週末を。
                     kagami

P.S
私は「さま」なんてつけられるほどの者じゃないんで(^^;
よければ、「〜さん」とか呼んで下さい〜。
もちろん、「〜ちゃま」でも「〜ぃ」でも「〜たま」でも「〜くん」でも
「〜君さま」でも「〜チャマ」でも「〜や」でもいいです。
あっでも、「さま」は、かの無敵淫…じゃなくて、とても愛情表現が
直接的な女の子(By迂遠な表現)である、『偉大なる』咲耶様がお使いになっていました…
と云う訳で、全然使って結構です、なんでもどうぞです〜(^^;

そして…「おにいorあに」がつくと嬉しい(違ッ

更なる余談ですが、咲耶様は素晴らしいですね…。私は下記のアンケートを見た時など、
咲耶様の偉大さに感動で涙がちょちょぎれました(TOT)…嗚呼… 咲 耶 さ ま …

 ここ

上記アンケート先は「風車に花」さんより

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kagamiさん

お許しいただきました通り、今後は「さん」付けでお呼びします。

希少性の問題についてはなるほどと思いましたが、むしろ
「少女概念=大人の女性概念=人間全ての概念」=交換可能なモノ
になってしまうのではないか、というのがそもそものぼくの疑念です。
そして、えろげに描かれた「理想的」な状況を、ぼくは思考の前提にしません。
というよりも、「そうなればいいな」と思いつつ、
そうなるための条件設定がkagamiさんとは異なる、と言うべきでしょうか。

例えば『はじるす』は、理想的な少女愛世界を現出しているかもしれません。
ですが、ぼくはここで、男女の構成を変更してみたくなります。
つまり、少女1人に青年男性2人。少女は両方の男性と愛し合います。
ハッピーエンドでは、少女が2人の花婿を迎えます。
これを想像して、ぼくは「そんなえろげはプレイしたくない」と思いながら、
でもそれも「活き活きと生きる少女」による「本来的な自由恋愛」だろうとも考えます。
えろげの多くは、いわゆるハーレム状態、つまり1男性と複数少女の関係を描きます。
それは「自由恋愛」のあくまで「一」形態を示すものであるとしても、
例示したような逆関係を拒絶させる男性向け「えろげ」である以上、
ハーレムか一対一以外の形態を受容させにくくします。
また、ナボコフがいきなり突きつけたような、
少女の心変わり、つまり男性から離れていく経緯を、
充分に描いたえろげ作品もぼくはまだ知りません。
そのへんに、ぼくは「自由」「恋愛」なる言葉の都合の良さを感じます。

もう一つ問題に思うのは、その愛する少女・幼女が大人になったとき、
kagamiさんはどうするのか、ということです。
以前に、ハルヒにも幼女時代があったと述べたのは、つまりこのことです。
kagamiさんは中高生や成人女性のヒロインに対して抑圧的ですが、
少女や幼女もやがてはそのような女性たちと同じく成熟します。
自由恋愛は大人にも許されているのだから、そのときは彼女と別れてもかまわない、
そうおっしゃるのでしょうか。
もしそうなら、ぼくはこう応えるでしょう、「そんな男にうちの幼い娘は任せられない」と。
いや一生を誓い合う、とおっしゃるのであれば、娘の年齢によっては
「清い交際をお願いします」と応えるでしょう。
なぜここで父親的な物言いが出てくるかといえば、
えろげには父親が欠落しているからです。(システムが父性を担うという説もあります。)
ルーンの『初恋』についてご提示いただいた情報をもとにして考えてみます。
世間的には、自分の幼い娘に青年男性が接近すれば、
「まとも」な父親はその男性を遠ざけようとします。
えろげでは、そのような父親の存在は邪魔ですので、端的に排除されるか、
あるいは「父親不在」や「虐待」や「仇」などの否定的設定を担うことで、
逆説的に少女と主人公の接近を促進するかします。
『初恋』の杏シナリオでは、このへんの面倒を回避するために、
義妹という設定を彼女に与えていることになります。
少女の父親は同時に主人公の父親でもあるので、
主人公という他者に娘を任せることへの抵抗をぐんと弱めているのです。
だから、これは「真正面からぶつかって悲劇を乗り越える作劇」ではなく、
背徳性を薄めロリに特化することの欺瞞の一例であると思います。

ところで、少女と自由恋愛できるのであれば、幼女とはどうなのか。乳児とは。
わずかでも自分の意志を示せるのであればそれは当人の「自由」なのか。
理性や責任能力を条件とするのなら、それは既存の判断基準と何が異なるのか。
(もちろん、世間による誹謗中傷は、ここではまったく問題にしません。)
まあ、これは一般化できる問題でもないかもしれません。あるいは、
少女が成人女性と同様に、例えば恋人を取り替えること、男性を食い物にすること、
男性に食い物にされること、一般的に成人よりも繊細な心に失恋などで傷を負うこと、
自由に伴って現れる責任を担うこと、
もし青年男性とそれを分かち合うのだとすれば、相手の責任の半分も同様に負担すること、
こういったことをkagamiさんが認めるのであれば、その首尾一貫した姿勢を尊敬します。
ですが、ぼくは少女と別れたときには自分自身さえ律することができないでしょうし、
そもそも子供との「恋愛」なるものがよく分かってませんので、
その姿勢を共有することはできないのです。

ついでに言えば、そちらのメールで示されたシスプリアンケートを確認し、
さらに「マジカル☆ヒナちゃんとラヴラヴしたいです〜。」というご発言を見て、
ぼくは絶対にkagamiさんにヒナ(雛子)を任せられない、と思いました。
(ちなみに雛子は成長します。)
あのアンケートは、ぼくのシスプリ考察における態度とは全く異質な
「シスプリキャラを性的消費材として笑う」という態度に貫かれており、
ぼくにそのようなものを参照させるというkagamiさんの行動は、たとえ冗談にせよ、
雛子に対するモノ的なまなざしを、ぼくに予感させるものであるからです。
もちろんkagamiさんにしてみれば、こちらの『はじるす』への姿勢こそが、
あの双子をモノとして扱っているではないか、と思われるでしょう。
だとすれば、お互いにとって、お互いがそのような問題を抱えていることになります。
(ついでに言えば、近代以前の日本の少女は、とくに貧困階層では、
 しばしば親の手でモノとして売られていました。)
そしてぼくは、少女へのそのようなモノ的まなざしを自分の中に確認するからこそ、
少女との「自由恋愛」など自分に認めてはならないと考えるのです。
この態度は、例えばkagamiさんの可愛い娘さんがぼくに接近したとしても、
何ら変わるものではない、と、思います。たぶん。
                     くるぶしあんよ
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 補足しておきますと、リンク先のようなアンケートを否定するわけではないですよ。ぼくの趣味には合わないというだけのことです。
2003年7月22日(火) ふいふい
 「毛嫌い」って、もともとどこの毛が嫌いなんでしょうね(挨拶)。

 シスプリ分が足りないということで各所を巡回。
 『POS』さん「自プリ」でのご紹介ありがとうございます。「テキスト量」という評価基準があればなーと思いましたが、考察ではぼくは妹全員に愛を注いでいますので、あまり関係ないかも。
 今更ながら、『赤の7号』さん(7/17分)。嗚呼もう。ぼくも9歳の少女に将来を誓われたことがありますが、彼女の結婚適齢期でこちらが何歳になっているか教えたら、黙ってしまいました。
 Zoroさん(7/21分)のとこに可憐が遊びに行っていたようです。
 可憐のことですから、客を見て値段を変えてます。つか、なので仕方ないというか。

 こちらで有名なサンフェイスさんが会長をおつとめの、由乃さんに「ばかばかばかばかばかばか、ばっかじゃないの」と言われる会に、このたび入会させていただきました。会員1号です、うわっはー。今後ともよろしくお願いいたします。しかしさすがは会長、見事な就任挨拶です。会員としてはこれに続かなければなりませんが。ええと。

     鞍を使ったのなら、馬をいたわってやれます。

 だめだ、ハードルにとどかない。

 こちらの『地球平面委員会』感想。

>この小説の結末は、「現実の虚構に対する勝利」、という解釈だけでなく、「虚構に打ち勝とうとして、虚構に絡めとられてしまった主人公」をアイロニカルに表現している、という解釈も成り立たないでもない。

 もしそうだとすれば、ぼくがこの作品から連想する別作品として以前挙げた湖川の『Greed』とほぼ重なります。そこでは、世界の多様性を守ろうとする英雄達が、協力して絶対者を倒すのですが、そのときに英雄達は個々人のままでの闘いに限界を感じて互いを融合させた一者となっており、絶対者を滅した直後に、その絶対者の姿を獲得してしまい絶望します。
 これと『地球平面委員会』では、個々人が絶対者に向き合うさいの姿勢におそらく重大な相違があるのだと予想しますが、にもかかわらず似ています。主人公達は「戦って戦って戦って、知力を振り絞って」、たとえ宮里によってあらかじめ与えられたものでなくとも「栄光を自分で勝ち取」ったのでしょうから。
 そのような隘路を回避するために、『ダイの大冒険』ではダイは行方をくらませ、『うしおととら』や『マップス』では主人公が少年(成熟しない男性、成熟し続ける男性、そして女性に敷かれる男性)の心のままでいます。

 追記予定。
2003年7月23日(水) にはは
 観鈴ちんの誕生日。

 某掲示板で、うちの考察について議論されてます。フォローして下さっている方々、本当にありがとう。で、作者として一言。こないだは直接乗り込んでしまったので、今度は1回だけここに書いてみます。これも問題行為なのかもしれませんが。
 ぼくの考察が一つの解釈としてではなく、唯一の解釈なり作品の「本質」であるかのようにとらえられるのは、ちょっと気がかりです。このことは、以前から日記でもたびたび言及し、また考察の序論でも、考察が一つの解釈にすぎないとあらかじめ注意しています。しかし、例えば最終2話の美駆鳥居高校前での眞深と燦緒について他者の意見が示されていると、自分が既に当該話分考察2(3)で説明したことなのになー、などと感じてしまう。あたかも自分がその意見の最初の主張者であるように錯覚するという、権威者的な傲慢。これは「本質」や「唯一の解釈」を自ら呼び込んでしまう非常にまずい態度であり、繰り返し反省するしかありません(「真の」などという表現も同様)。
 ところで、そもそも考察を書き始めたのは、序論で示したように、アニプリ肯定派・否定派・部分的肯定派のいずれにも、アニプリの物語としてのよさや表現の繊細さ、そしてシスプリらしさを具体的に説明したものがほとんどなかったからです。だからぼくは、その一例として「兄妹の成長物語」であると仮説をたて(序論2(3))、これに基づいて全話の検討を行っていきました。
 そのさい、作品鑑賞時の感情を中心に記したのでは、「兄妹の成長物語」であることの説明がしにくくなるため、そのような書き方を自覚的に抑制しました。それでも情緒的にすぎる叙述が多かったのではと危惧していましたが、「論理的すぎる」という評価をいただいて、自分の予想以上に成功していたのだな、と安心しました。
 なお、『マジカル☆ヒナ』は作成当初から、ぼくが考察で必要上排除した感情的部分を最大限込めるために、魔法少女パロディ的な「兄妹の成長物語」として別に編んだものですので、考察と相互補完的な関係にあります(『Wake Up !!』ではさらにアニプリ設定準拠で妹視点からの「アニプリ的兄妹物語」を試みました)。考察の理屈っぽさを批判された方には、こちらで満足していただけたみたいですので、これも目的に適ってよかったです。
 でも、この作品についてもっと上手に面白く表現できる方はきっとたくさんおられるのでしょう。自分でもこのまま妙に権威化したくないので、ぜひこちらの考察を打破してやって下さい。書いたものをお送りいただけるのなら、うちのサイト内でよろしければ掲載させていただきます。

 アニプリが非難された時期は過ぎて、気がついたらぼくの考察が叩かれるなんて事態が訪れました。アニプリを守り通した方々の努力があればこそ、こうして作品そのものを素直に享受しうる状況が到来したのでしょうし、その先駆者たちの後塵を拝するぼくも、わずかながらでも力添えできたのであれば、嬉しく思います。「どうでもいいから早く考察書け」という声には、あうー。ごめんなさい。リピュアAパート考察6では、監督設定をめぐって久々に暴走するつもりです。
 ああそれから、ぼくはアニプリを観ても、リピュア両パートを観ても、最初の頃と同じように、感動して泣けます。自分の考察などあっちにおいといて。

 で、ハルヒの続き。昨日は追記できずに申し訳ない。

2(5)ハルヒの葛藤

 前回述べたように、キョンは傍観者でいられなくなったことに対して最大限の欺瞞努力を払い、ハルヒにも他の3人にも等距離に自分を置こうとします。しかしそれは、もとより同好会設立にあたってキョンがハルヒのそばにいたという事実を、自ら忘却してのことでした。観察者でいるということが、既に「ハルヒから遠ざかる」という一つの行動として、周囲に影響を与えてしまったわけです。もちろんそれは、ハルヒがそのように変化として受け止めることで、影響として現れることになります。
 さて、それではここまでのハルヒの様子を確認してみましょう。
 2(2)で述べましたが、同好会設立にさいして、ハルヒは面白さを外部へと求めていきますが、その意外にも常識的な意識は、既存の情報や手段にどこまでも依拠しようとしています。一方で彼女の無意識は、面白いはずの対象である様々な存在を身の回りに呼び込んでいきますが、「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」(p.105)という彼女の願いは、現実化しているにもかかわらず、本人に自覚されません。
 この矛盾を、もう少し検討してみます。まず、ハルヒの無意識にしてみれば既に同好会の目的が達成されているのに、意識がそれを認めていない。このすれ違いは、ハルヒの無意識にしてみれば非日常を日常化しない機制の作用なのでしょうし、彼女の意識にしてみれば既存の典型的キャラがそんな非日常であるはずもないわけです。また3人から見れば、与えられた任務ゆえに傍観者であらねばならない(少なくともハルヒへの積極的干渉をしてはならない)わけであり、本人に白状したくてもできないというどうにもならなさでもあります。
 しかし、この「一緒に遊ぶこと」とは、本当に同好会の目的なのでしょうか。むしろ、「探し出して」の方にこそ、ハルヒの望む重点があるのではないでしょうか。彼女が今まで読んできた本では、そのような過程の面白さが存分に描かれており、彼女をわくわくさせてきたことでしょう。そう考えれば、この目的達成の引き伸ばしは、探し出す過程を楽しむというこのもう一つの目的に適うことになります。ただしそれは、最終目的達成への希望をつちかうものでなければならず、少しずつでも手がかりとなる情報が得られることが理想的な探索過程だったでしょう。
 実際にハルヒは、この探索のための土曜日活動を、「第1回SOS団全体ミーティング」にて独断決定します。この決定場面(p.134-6)でのハルヒの嬉しそうな表情ったら。このテンションの高さは、キョンに始まり次々と同好会メンバーを無理矢理集結させ、部室を整え情報を発信し、という準備過程を存分に楽しみ、さあいよいよ実践あるのみ、といういわば「遠足の前の夜」のような興奮そのものです。そして、このときのハルヒは、全編を通じても、同好会長としての最高の喜びに包まれていました。同好会活動の最初の眼目は、謎を探し出す市内探索。ここで何やら飛び出せば。
 なのに、半日がかりの探索の結果、ハルヒたちは何も見つけることができませんでした。なぜ何も出現しないのか。なぜハルヒの無意識は、ここで手がかりを用意しておかなかったのか。

 それは、ハルヒにとって、キョンこそが謎だからです。より正確に言えば、自分とキョンの関係が、キョンに対する自分の意識が謎なのです。そのことこそが謎であるため、それ以外の、本来探し求めるべき謎は、手がかりさえも与えられることなく、どこかへ忘れ去られるほかありませんでした。
 土曜日活動を決定したこのミーティングの最後で、ハルヒは、朝比奈さんのきわどいデジカメ写真をサイトに貼り付けようとしてキョンに「死力を決して」制止されますが、彼のこの珍しい積極的阻止行動に対して、ハルヒは、不満たらたらではありますが、「解ったわよ」と同意します。それは、ネット上に個人情報を置くことの危険性を理解したからだけでなく、キョンの言葉を聞き入れてしまうような心持ちにあったからです。既にここでは、ハルヒがキョンにどのような感情を抱いているのかが、こっそりと示されています。真剣に怒られたことに驚き、嫌われたくないと(漠然とにせよ)感じたのです。

 土曜日の探索行では、ハルヒは「晴れやかな表情」(p.139)で遅刻者罰則(おごり)を唐突に定めますが、これはデート時の男側の作法でもあります。つまり、同好会としての目的(探索活動)と、キョンと楽しい休日を過ごすという個人的目的とが、ここで早くもごっちゃになりつつあるわけです。しかし、喫茶店でグループ分けのくじ引きをした結果、ハルヒはキョンと別行動になってしまいます。なぜ一緒にならないか(無意識がそのように力を行使しないか)といえば、キョンと二人きりになることにハルヒ自身の乙女心が未だ抵抗を感じているからであり、また「恋愛なんて」と普段言っているゆえの当然の結果でもあるでしょう。ところがその結果として、キョンは朝比奈さんとペアを組むことになりました。鼻の下を伸ばすキョンを見て、ハルヒは何度もしつこく釘を刺します。そこまで嫉妬するのであれば、と思いたくもなりますが、これはまた、ハルヒの無意識が「謎」に対して年中行っている彼女の目的達成の先送りであり、そしてキョンへの感情を明確化させるための迂回路でもありました。
 昼食休憩を挟んで2回目でのくじ引きでは、ハルヒは最終的に1/2の確率に失敗し(長門さんの選択によるものですが)、ここではその不満を思い切り表情に出します(「親の仇敵」「ペリカンみたいな口」p.154)。探索行でも「ものすごい早足でどんどん歩いていく」(p.159)ばかりで、要するにいらいらしっぱなしだったわけです。おまけにキョンたちは集合時間に遅れるわで、怒り心頭なハルヒでしたが、怒鳴りつけたキョンに今日の成果を聞き返されて、まんまとやりこめられてしまいます。ハルヒにしてみれば、ここでは二重の欲求不満が溜まっています。同好会の目的である「謎の探索」が不首尾に終わり、小さな手がかりさえ得られなかったこと。そして、キョンと仲良く出来なかったこと。男に興味ないと抵抗すればするほど、キョンと離れることでの嫉妬はうずき、その感情を認めまいがために行動はいよいよ苛立っていきます。それは確かにハルヒの想いを明確化するのに役立ちましたが、キョンを知る機会を先送りすることで、結局はハルヒ自身にとっても、同好会にとっても、全く納得のいかないことになってしまいました。楽しいはずの活動が、いきなり全く楽しくない。面白い対象(「異世界人」)は目の前にいるのに、手を伸ばせない。しかも当の対象は、他の女の子といちゃいちゃしている。ますます分からない分かりたくない。こうしてハルヒは自ら謎を遠くへ遠くへと追いやっていき、そしてもう一つの真の謎である彼女の矛盾した心のうちをも、真正面から意識化すまいとあがいていきます。(その前にキョンの自転車が消滅していますが、これはあるいはハルヒの欲求不満の犠牲かもしれません。)

 そのあがきは、翌週の月曜日(朝方にはキョンに扇いでもらおう=優しくしてもらおうとして失敗しています)、「反省会」を開くはずのハルヒが、放課後に皆をおいて一人で「見落としがあったんじゃないかと思って」(p.174)土曜日のコースを廻っていた、という行動に現れます。なぜわざわざ一人でもう一度まわったのか。それは、一方では、あのときの自分の苛立った早歩きの行動を反省したからでもありましょう。これで手がかりの一つも得られれば、同好会としての目的は再び楽しげに追求することができるからです。しかし同時にそこには、外部に謎があるはずだからそれを必死に探そうとする、つまり自分の心の中にそれが「青い鳥」(p.161)のごとく潜んでいることに気づかずに(あるいはあえて気づこうとせずに)外に延々追い求めるという、ハルヒの健気な自己欺瞞が示されてもいます。そして当然彼女は、同好会としての希望も、個人としての納得も、ついぞ見出せずに帰宅するしかありませんでした。
 なぜでしょう、楽しい同好会となるための準備を万端整えたのに、こんな不首尾な活動結果に終わるとは。なぜでしょう、準備はあんなに楽しかったのに。なぜでしょう、キョンがいるのが当たり前だったのに、その存在に問題を感じてしまうのは。自分で必要と思って集めたはずの人材が、キョンと一緒になって自分の心を逆撫でするのは。自分のために、イコール同好会のためにしてきたことが、なぜ全て裏返ってしまうのか。
 それでもハルヒは意地で突っぱねます。「ふんだ。男なんかどうでもいいわ。恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ。」確かに自分も「そんな気分になったりする」が、「あたしが男漁りに精出すようになったらSOS団はどうなるの。」(p.175-6)団長としての責任感によって、自らを律しようというこの態度は、果たして本物の責任感によるものなのでしょうか。彼女のこの責任感とは、恋愛感情を抑制するために搾り出されたものです。だから、ハルヒの視線は「窓の外へぼんやり」固定されており、「弱気になっている顔」はまさしく乙女心全開の可愛らしさでした。男一般なんてどうでもいいのです、問題はキョンなのです。もちろんそのことを素直に認めないハルヒは、ただひたすらに外部に面白さを求めて「事件の一つでも」と期待します。
 そしてその期待していた事件は起きました。ですが、ああ、それはハルヒの期待に本当に適うことだったのでしょうか。(続く)
2003年7月24日(木) くつしたのまにまに
 せいるさんに褒められたー。わーい。
 などとはしゃいでいる場合ではないのです。いや、ハルヒ文章が進まないということではなく。それも問題ですが。あまのさん日記にて、せいるさんがこんなことをおっしゃっているではないですか。

 「くつしたなんて、別に無くても日常生活のなかでそれほど困るものでもないでしょう! 」

 そんな日常生活はもはや「日常」でも「生活」でもありまっしぇん!(神参謀的に)人間的な生を獲得するために、今までどれだけ苦難の道のりを先人達が切り開いてきたというのか。これについてのぼくの主張はこのへんをご参照のこと。こっとんぱんつの増長を阻止すべく、ここはくつしたの真理を広く伝えて聞かねばなりません。
 しかしさすがは「こっとんぱんつ」第一人者、検索結果は見事に1位。こちらは「くつした」では引っかかりもせず、あんよですら11位という体たらく。戦いは未だ闇の中。

 なお、『まこみし文庫 秋』は、今夏コミケ8/17(日)「西1ホール の-16a」にて発売予定です。

 転叫院さん(7/17分)のコメントを読んで、猿元氏の論考の価値を知る。美森氏ともども「論考の筋は追っていけるが、これがラカンに即してどうなのか判断できない」という有様だったため、「ほら、思想に詳しい方から評価されてるよ」「え、じゃ合ってるんだ」と無知蒙昧全開な会話をしてしまいました。

 既出っぽい無謀マリみてパロデイ『プロジェクト聖子』。ヒロインは、パワー全開娘の魔神聖子。仲良しこよしの寿志摩子(ハムさんエビさんギンナンさん)。それを奪おうとする大財閥お嬢様の小笠原祥子(まんま)。「小笠原ミサーイルッ!」ああっ祥子さま、何て格好を。「真美の背中にー祐巳をのーせてー、祐巳の背中にー由乃をのーせーてー。令をのせたらー、つぶさーれーたー。」
 誰のファンが一番怒るでしょう。『ようこそ蓉子』や『アイドル伝説江利子』の方がまだいいかしら。
2003年7月25日(金) 脳内攪拌
 頭痛が酷くて、居眠りもできません。

 谷川流『学校を出よう!』読了。以下ネタバレ。

 少年の止まっていた時間が動き出す、というか本人がどう思おうと動き出しちゃうという物語。ジュヴナイルのような喪失はあれど、その先行きには「大人」という出口はなく、とりあえずは大切な者の不在を確認することで、物語を維持していくしかない。このあと続編が予定されているらしいけれど、ともかくこの第1巻は、「やる気ない浩平の周りが勝手に動いてくれた『ONE』」みたいな感じ。
 『ハルヒ』とセットで考えることもできそうですが、そしてその方が色々でてきそうですが、まずは『ハルヒ』のみについて語り終えてから。でも、体調不良ゆえ明日にさせてください。

 あと、ライトノベルにおいて政治的なもの(単純に、現実世界における生臭いそれのこと)がどのように語られ、また省略・隠蔽されているかがちょっと気になりました。そんなものを気にする時点で、既にライトノベルの読者としては辺境に位置してしまうのでしょうけど。
2003年7月26日(土) 左のあんよ失格
 ONEテストやってみました。
 そしたら。

  「あんよさんは『演劇部期待の新人!?』です。

   あんよさんはONE〜輝く季節へ〜を47% 理解しています。

   長森瑞佳を15% 知っています。

   七瀬留美を25% 知っています。

   里村茜を85% 知っています。

   椎名繭を75% 知っています。

   川名みさきを85% 知っています。

   上月澪を100% 知っています。」

 じ、自分の主のことも知らないのかぼくは。そして澪ってば。
2003年7月27日(日) あとちょっと
 ハルヒです。完結まであと2回くらいか。

2(6)崩壊への道

 事件は、朝倉さんの(消滅を隠蔽するための)「突然の転校」というかたちで生起しました。事件の原因は、直接的には情報統合思念体の相反する意識による朝倉vs長門の対立でしたが、間接的にはハルヒの無意識が関与していた可能性もあります。ここでキョンを失う危険性が大きすぎることから、ぼくはこの見方には否定的ですけれども。何はともかく、ハルヒはすっかり元気を取り戻してこの事件に注目します。それは、一方では同好会の目的に適う初めての「謎」を探求するための手がかりであり、他方では、先日得られなかったキョンと一緒の時間をようやく獲得するチャンスでした。
 だからハルヒは、職員室で情報を入手するとすぐさま「ご飯食べないで」キョンを待ちわび、放課後の探索行に彼だけを強引に誘います(「あんたも行くのよ」「あんたそれでもSOS団の一員なの!」p.217)。団としての活動であれば、ちょっと部室に立ち寄って他の3人を(いれば)連れ出すくらいの余裕があっていいはずですが、今回はとことんキョンだけが問題なのですから、逆に「本日自主休日」と伝言させてしまい、3人を排除します。

 こうして無理矢理ながら一応は団らしい探索行に出発したハルヒ達ですが、朝倉さんが住んでいたはずのマンションを訪れて何をするかといえば、常識を積み上げていくという完全に探偵まがいの調査。それはそれでわくわくしてもいいのですが、ハルヒは途中から当初の勢いを失ってしまいます。この種の「謎」は、よくある失踪事件や夜逃げなどのそれではあっても、彼女が求めるような非常識なそれとは明らかに異なるものではないか。そう考えて興味を失ったこともあるかもしれませんし、また管理人のじいさんが言った余計な一言(p.222)や、偶然出くわした長門さんとキョンの微妙なやりとり(p.223)によって、自分の今日の行動の意味を揺さぶられたからでもありましょう。
 とはいえキョンと二人の状況でこの後どうしたらいいものか分からないハルヒは、帰路につくのではなく、また既存の情報に基づいて次なる目標地点を探すでもなく、闇雲に歩き回ります。果たしてこれは、先日の土曜日に自分が期待していたような時間なのでしょうか。ここでもまた彼女は、同好会としての行動についても、個人的な意味での行動についても、どうも目的と噛みあわずにいます。この閉塞状況を破ったのはキョンの「もう帰っていいか?」という声であり、これをきっかけにして、ハルヒは唐突に自分語りを始めます(p.224-6)。小6の頃に直面した衝撃的認識、その後見出した意志、中学校での失望、そしていま。「少しは何かが変わると思ってた」と呟くハルヒは、そう思っていたにもかかわらず、再びいま「面白さ」が見つからない失望を味わおうとしています。自分を変えてやろうと思って頑張ってきたのに、結局あの頃と何も変わっていないこの世界。
 しかし、そんなハルヒを横から眺めれば、自分を変えてやろうと思いながら自分自身を根本的には何も変えようとはしなかった彼女が、いまやこんなふうにキョンに心情を吐露するに至ってしまいました。自分の一番弱いところを曝け出してしまうほどにまで、彼女は同好会においてもキョンとの関係においても追いつめられています(イラストも切なげです)。ここでハルヒがキョンにどんな反応を期待していたのか、例えばそれは、キョンが第三者的な意見ではない「自分のちっぽけさ」についての自分語りを返すことで、彼女と思いを共有している、少なくとも同じ事柄をめぐって何かを感じている、ということを、伝えて欲しかったのかもしれません。それこそが、ハルヒにとっては、初めての「かけがえのないもの」になるかもしれなかったからです。その場合の展開がどうなったかはぼくには分かりません。ともかく物語は、キョンがなけなしの誠実さで「そうか」とだけ答えたことで、ハルヒも割り切れないものを抱えたまま逃げ帰ることとなりました(p.228、態度としては「ついてくんな!」となっています)。
 この苛立ちはただちに閉鎖空間の「神人」として具現し、古泉とキョンはこれを目の当たりにします。今回もこの程度で片付いたものの、これを放置すれば世界が変わってしまうという恐ろしい事象も、ハルヒ本人には意識化されることはありません。世界を思うように変えてしまいたいという欲求を、その不満部分のみ閉鎖空間で暴れさせ、その対処法も準備しておくことで、ハルヒの無意識は世界の再創造などという大事業を12歳以降(おそらく)行わずにこれました。
 これによって、ハルヒは今回の朝倉事件とその探求における不満をそこそこ解消し、同好会としてはもはやこれを問題にせず、キョンに対しては今までどおりの間柄を維持するという方針をとりました。しかし、新たな謎を追い求めるには手がかりもなく、また街に出ても前回と同じ苛立ちを得る可能性が高く、ハルヒはやむを得ず同好会設立時のドタバタに立ち戻ります。少なくともあの頃はひたすら楽しかった。これを取り戻すために、ハルヒはひとまず朝比奈さんのコスプレを更新しようかと考えますが、キョンが妄想駄々漏れな表情をしたことで、ハルヒは反発を覚えます(p.255-7)。キョンが他の異性に好意的であることに、あからさまに拒絶反応を示しているわけで、「マヌケ面」「エロいことしちゃダメ」など、直截的な物言いが目立ちます。
 それでも自分がそこにいれば、設立時と同じように賑やかに楽しめるはずではないか。せめてこれを日常的愉悦として再確認しようと思いきや、部室では彼女の到着を待たずして、キョンと朝比奈さんが何故かベタベタしていたのです。「何やってんの、あんたら」とあまりに冷たい声を投げかけて、ハルヒはその内面ではマグマのごとく滾っていました。着替えるから「出てけ!」と叫ぶとき、彼女は意図せずともキョンを異性として見出しており、またこれは朝比奈さんのごとく「見ないで」と言えないハルヒなりの、自分を異性として見て欲しいという気持ちの屈折した表れでもありました。「あんた、メイド萌えだったの?」と見下したとしても、キョンがバニーガールよりメイドに萌えるのか、それとも自分より朝比奈さんが好きなのか、区別はできません。というか、どう考えても後者です。
 全然すっきりしないまま、ハルヒは朝比奈さんの髪の毛をいじり始めます。三つ編み、ツインテール、団子。それは、朝比奈さんをいじって遊ぶという以前の楽しみの繰り返しでもありましたが、同時に、キョンが発見してくれた髪形の意味について、回想する瞬間でもありました。自分のその長い髪は(自分で切ってしまったがゆえに)今はなく、朝比奈さんの髪だけがこうしてその意味を確認しうる。
 自分が楽しみたくて努力して作り上げた同好会が、いつの間にか楽しくなくなっている。いや正しくは、自分だけ楽しくなくなっている(キョンと朝比奈さんはちちくりあい、長門と古泉は普段通り)。
 キョンと一緒にいる時間と場所を獲得したはずなのに、その自分を置いてキョンが別の女の子とばかり仲良くなっている。
 なんなのよ。
 面白い世界を求める努力は徒労に帰し、それどころか自分が無理矢理連れてきた他者にいつの間にかいいように利用され、肝心のキョンはハルヒと共にあるどころかその他者の方だけを向いている。このような逆転状況を我慢できるほど、もはやハルヒには余裕がないのです。それは、最後の希望だった「自分で作ればいい」という試みの失敗を意味し、自分を共感的に受け入れてくれるはずの(=受け入れて欲しい)キョンをも失うことでした。今の彼女が意識下すれすれで「かけがえのないもの」と思い込んでいるものを手放さないために、ハルヒの無意識はついに、今まで越えなかったであろう一線を越えてしまいます。とうとうそこまでハルヒは変わってしまったのです。「自分を変えずに世界を変える」というその根本においては、何ら変わってないままでなお。(続く)
2003年7月28日(月) ご注意あれ
 先日、詐欺メールが届いてました。あちこちでも同じものが出回っているみたいなので、以下に晒します。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

                       平成15年7月30日
          <  ご入金のお願い  >
※これが最後のお願いです。

 あなたがご利用の、インターネット・コンテンツ利用料が未だに確認で
きません。
 現在までに何度かお願いの連絡をしましたが、入金の確認が取れません。
これ以上入金をお待ちする訳にはいきませんので、来る
平成15年7月30日(水)午後2時までにお支払い下さい。

 尚、上記期限までに入金が確認できない場合、断固たる処分で臨む所存
です。
 当社では貴殿の接続ログをデータベースに保存しています。ログから貴
殿が接続に利用したプロバイダ・ISP業者を特定できます。プロバイダ
を突き止めれば、当社提携の調査会社を通じて貴殿の住所、氏名、勤務先
を入手。
 その上で、改めてご自宅・お勤め先へ料金回収に直接担当者が行くこと
になりますので、宜しくお願い致します。

 その際には利用代金・延滞利息・督促費用、更に交通費・宿泊費を追加
請求させていただきます。(一人1泊1万5千円。交通費はグリーン車・
ビジネスクラス使用)

 また、裁判訴訟・強制執行による差押さえ(給与差押え等)を含めた、あ
らゆる回収手段を講じます。
 それでも回収できない場合には、所謂、「回収専門業者」に債権を譲渡
します。
 このような事態にならぬよう、くれぐれも期限までに入金してください。

 尚、これは最終的な通知であり、また、個々のお客様に対応する事は物
理的に不可能であるため、メール・お電話でのお問い合わせは受け付けて
おりません。

 下記要領にてお支払い頂ければ、迅速に延滞リストから削除しますので、
重ねてご入金お願い致します。

【振込先】 三井住友銀行 渋谷駅前支店 普通2064648
      ※(渋谷支店ではなく『渋谷駅前』支店です!)
【入金額】 ¥30,500円
【入金期限】
 平成15年7月30日(水) 午後2時までに電信扱いでお願いします。


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通知人:青龍会(有)料金収納課
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 以上。日頃から滞納し慣れているぼくが、こんな文面でだまされるものですか。本物の督促は文章がもっと冷徹です。そもそもここに振り込むくらいなら、溜めている家賃や電話代や通販料金を支払います(大問題です)。
 それはさておき、わーい
2003年7月29日(火) 失礼いたしました
 kagamiさんとのやりとり(改行のみ若干修正)。kagamiさんからは2週間も前にメールをいただいておりましたが、ぼくの返信をお送りするのにえらい時間がかかってしまったため、(あわせて日記にと思っているうちに)転載がこのように遅れてしまいました。kagamiさん、申し訳ありません。この後に続くメールを既に頂戴しておりますので、そちらは早急に掲載させていただきます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(kagamiさんからあんよへ)
メールありがとうございます。
まず前回のメールでシスプリについて不愉快だったらごめんなさい。
もっと砕けた感じでお話したいな〜と思ってて、でも言い訳にならないですね。ごめんなさい。
仲良くしたいひとと、他人行儀で話すのは苦手でして(^^;
さん付けは嬉しいです〜。

では、本文の返事を拙いながらも書かせていただきたく。
私は制度による規制の強化、人間を禁忌化、交換価値化する制度の欲望こそが
人間を商品化する悪しき行為だと思います。
一方的な、独断的な他者への強制行為は悪です。これは強制的な性行為(レイプ・意志に反した売春)
などに見られる、人間の尊厳と自由を侵略する行為であり、これらはすべてにおいて悪です。

しかし、相互に了解した意志による自由な恋愛行為を年齢で罰するという法行為はどういうことでしょうか?
それは人間の尊厳を侵害する行為ではありません。それなのに規制されることは、どういう意味を持つのか。
これは、身体行為への介入による支配なのです。現代のシステム、キリスト教、
プロティスタンティズムが産み出したほとんどすべてのシステムは、
性的なシステムを禁欲的に抑圧することで、我々の意志を操作しているのですよ。
欲望を喚起することと禁じることは、表裏一体として我々に作用します。
例えば、現在の男尊女卑的な家庭システムは、女性の人生の選択権に対して、常に男性が
ヘゲモニーを持つように強要している訳です。
先に挙げた権力(これは国家に限らず、あらゆるすべての支配力)の行なう「禁止と喚起の支配」
こそが、我々男性を性的な奴隷の位置に貶めているのですよ。
そして女性は奴隷の奴隷的構造に置かれもっと悲惨です。
本来的な恋愛の慈しみあいというものは、まず先に相手への好感があって、
相互の理解があって、2人だけが共有するプライベートなる幻想として存在する訳です。
しかし、権力は性に対し「禁止と喚起の支配」によって「性のヒエラルキー」を産み出した。

正当な男女(国家が定める適性年齢で敬虔なキリスト教徒で清く正しく生きてきた輩)
の異性愛のみが唯一正しき「恋愛」であり、それ以外は「異常」であり排斥すべきものというシステム。

この思想から「国家に奉仕する共同体としての家族」の形成が始まり、
プロティスタンティズムによる経済が誕生し、西洋近代国家が成立したのです。

しかし、これは実は本来的な自由人権思想から何億光年も離れた考え方なのですよね。
ファシズムに近い人間性を国家管理する思想です。
なぜならば、それは権力の意にそぐわぬ人々を排斥する思想だから。
疎外される人々、正当な男女との異性愛以外の愛を求める人々はどうなるのでしょうか?
両性具有者に対してはつい最近まで強制的に単性への転換手術
(主に女性にしてしまうことが多かった)が行なわれていました。自殺などに追い込まれるケースも数多く。
同性愛者や両性愛者、ホモセクシュアル、レズビアン、バイセクシュアルに対しても、
世間の蔑視と偏見が酷いことはいわずとも日本の現状を見ればお分かりですね。
独身者にたいしても、世はたいへんに非寛容です。男性の場合、既婚が一人前の
印とされるし、女性の独身者に対しても、
「早く結婚しろ」「その年になっても結婚しないなんてどこかおかしいんじゃないの」
などの有形無形の圧力が掛けられます。
子供達にたいしてもです。子供の場合、日本においては、やや特殊な例でして、
「学校教育・学歴競争」が諸外国に比べ非常に子供に対し束縛的な大きな位置を
占めていますので、あまり子供の恋愛は話題になりませんが、子供が恋愛した場合、

それは、くるぶしあんよさんが仰る通り、強権的なシステムによって阻まれるでしょう。
しかし、その強権的なシステムを産み出している根源にいるものは、
くるぶしあんよさんが挙げた父親では無く、先に挙げた「禁止と喚起の支配」なのですよ。
これは当然、少女愛者、いわゆるロリコンの人々にとっても抑圧的機構として働きます。
ミシェル・フーコーの著書は、それまで、普通に少年少女が森や川で戯れており(性的にも)、
別に誰もそんなことを気に留めなかった素朴な田舎の村に「教会」と「国家司法」が入ってくることで、
戯れが「罪」とされ、誰も気に留めなかった少女と戯れる無害な男が
「少女愛者」というカテゴリに分類され、ゆえに「異常者・犯罪者」とされ、
「精神病院」に送られるまでの「史実」を、性の支配のドキュメントとして分析しています。
これは、供物なのです。太陽神に生贄を捧げるのと何ら代らぬシステムの暴力。

わが国日本は元々、性にたいして現代のような異常な抑圧と商品化は行なわれていませんでした。
フランシスコ・ザビエルは、カトリックの観点から日本を見て「まるでソドムとゴモラのように性が乱れている」
と書き残しましたが、寧ろ、性を制御することで人間支配の確立を目指したパラノイアックなキリスト教
のほうが強迫神経症患者のように性に対して異常に抑圧的であり、日本の方がはるかに
性に対して大らかで健康的だったと云えましょう。いまよりずっと性は日常であり、

オープンにされていた。ゆえに、そこには、自然の性があった訳です。
ではどうして、今のようになったのでしょうか?その判断の基準は互いの理性や責任能力ではありません。

>ところで、少女と自由恋愛できるのであれば、幼女とはどうなのか。乳児とは。
>わずかでも自分の意志を示せるのであればそれは当人の「自由」なのか。
>理性や責任能力を条件とするのなら、それは既存の判断基準と何が異なるのか。

既存の性的行為における判断基準は相互の意志の交換における理性や責任能力では無いからです。
理性や尊厳、責任能力を判断基準とするのならば、それは素晴らしいことだと思いますよ。でも現実は違います。
では、何を基準にしているか。それは先に挙げた、支配の為の「正常」に与える価値と、「異常」の排斥です。
これが、性的支配のすべてです。
もし、子供達が恋愛したら、「理性や責任能力」で行為を判断する社会であれば、
その恋愛を子供達自身が負える「理性や責任能力」の範囲内において自由に保護してやる筈ですね。
当然ながら「理性や自己の意思が表明できる責任能力」による判断で、幼女や乳児との性行為は否定されます。
でも、現実は、子供と恋愛なんて、性行為に限らずすべて否定される。
この否定は先に挙げた相互の了解がありながらも「異常」とされる性倒錯すべてに当て嵌まります。
なぜ否定されるのか、それはすべて権力によるシステムの為です。「正常な恋愛・正常な性行為」
はシステムに奉仕するように定められており、その為に「正常という範疇に収まろう」と
無意識的に頑張っている輩が大勢います。私はそんな奴隷根性の奴らにはもはや悲しみしか覚えませんが。
性行為には正統な基盤、正常性となる中心は存在しません。そこは中心の無い幽明の世界です。
私は性行為において「異常」とされるべきは「相手の了解の無い行為(レイプ)」のみだと思います。

けれど、現代においては性に権力が定めたカテゴリとしての異常性を付加することで、
現代のシステム、性の牢獄、性の第三項排除システムが誕生したのです。

では、先に挙げた命題に戻って欲しいのです。
本来的な恋愛の慈しみあいというものは、まず先に相手への好感があって、
相互の理解があって、2人だけが共有するプライベートなる幻想として存在することを。
けれど、現代ではそれが枠組として定められており、そこからはみ出すものを弾圧する。
なぜ、相互に愛情を抱く恋愛が「相手が子供であるから」という一点で、
一律的な規制や弾圧によって否定されなければならないのか。
それが本当の道理が通ることなのか、考えてみて欲しいのです。
子供は「判断能力・理性・責任能力」が大人より未発達です。
だからこそ、子供と付き合うときは、大人側がより気遣い、より大きな責任を追うのは当たり前です。
けれど、子供との付き合いをすべて否定するのはどうなのか。
小学生くらいの子と付き合うときは、当然ですが小学生くらいの子に相応しい付き合いをしますよ。
普通にデートしたり、2人でいちゃつくとか、せいぜいキスとか、
そんな「相手に見合った付き合い」です。
でも、そういった付き合いすら否定される世の中は、本当に道理が通っているのでしょうか?
それは人間を捨ててシステムに何も考えずに奉仕しているだけではないでしょうか?

私が求める自由恋愛とは、そういう意味です。

>つまり、少女1人に青年男性2人。少女は両方の男性と愛し合います。
>ハッピーエンドでは、少女が2人の花婿を迎えます。
>これを想像して、ぼくは「そんなえろげはプレイしたくない」と思いながら、
>でもそれも「活き活きと生きる少女」による「本来的な自由恋愛」だろうとも考えます。

ううむ、このようなシチュエーションで取る対応はケースバイケースですね。
ゲームとしては凄く面白そうでぜひやりたいです。アラン・ドロンの「冒険者たち」とか大好きですから。
とても面白そうじゃありませんか(^^)
現実でしたら、ケースバイケース、その少女をどれだけ愛しているか、
その青年とどれだけ友人として仲が良いかとか、などの個々の状況により
総合的判断がされるのでなんとも云えません。
私が少女のことをもうめためたに愛していて、なおかつ青年と仲が良ければ、
そのときはOKすると思いますよ。
はじるすはこのパターンです。ドラマCDを聞いてもらえると分かると思うんですが、
最初の頃(まだエッチする前)、しおりちゃんもさおりちゃんも互いを出しぬいてお兄ちゃんを
自分一人のものにしようとするのですが、しおりちゃんもさおりちゃんも互いのことが大好きなので、
相手を出しぬこうとすることが物凄く苦しいのですね。そしてお兄ちゃんことも、とても大好きなのです。
で、三人が、三人ともみんな好きなら、三人で愛し合えば良いじゃないかということで、
はじるすのゲームの内容となる訳です。私はとても好感のもてる解決策だと思いますよ(^^)
「はじめてのおるすばん ドラマCD」
http://c63.product.co.jp/zero.html

>少女が成人女性と同様に、例えば恋人を取り替えること、男性を食い物にすること、
>男性に食い物にされること、一般的に成人よりも繊細な心に失恋などで傷を負うこ
と、
>自由に伴って現れる責任を担うこと、
もちろん、認めますよ。

>もし青年男性とそれを分かち合うのだとすれば、相手の責任の半分も同様に負担すること、
この場合、相手の青年の責任は相手の青年が責任を負うべきなので、どうするかはケースバイケースですね。
私が好きな少女が傷つかない形で、最善と自身が判断したやり方を取るでしょう。

>モノ的なまなざし
すべての存在に対してモノ的な眼差しは存在します。性的な眼差し=モノ的なまなざし=悪しきもの
とすることは、二元的なシステムへの奉仕、つまり、家族(旦那・妻)への契約的恋愛行為(結婚)に比べ、
同じ契約的行為でありながら、売春の方を侮蔑する眼差しに、セックスワーカーを侮蔑する眼差しに、
「異常」とされる性行為を侮蔑する「正常」という位置に安楽する人間の眼差しに表出しているのです。
売春問題でいえば、例えば子供の売春は悪いことですが、それは、理性と責任能力の未発達の問題です。
簡単に云えば、それは子供達を子供達自身が傷つけることになるから「悪」なのです。自傷行為です。
それは決して社会治安を乱すから悪なのではありません。
kagami36@hotmail.com
わたしは子供達個々の人間よりも社会を上に置くそのような考え方を憎みます。
私は判断能力があるとみなされる人間が自分の意志で誇りを持って、
セックスワークを仕事にすることは否定しません。私が一番むかつくのはそういった職業に
差別意識を持っているやつらです。自身の「正常」を疑わず、システムの奴隷として人を抑圧する奴ら。
モノ的な眼差しと人間的な眼差しは二元論で割りきれないものなのです。それは分かてない欲望なのです。
それを無理やりふたつに分つ行為こそ近代最大の欺瞞であり、抑圧であり、弱点でもあるのです。
あとたいして知らない存在に対して、まず始めにあるのは「モノ的眼差し」です。
人間的眼差しは「相手への共感」が無いと持ちえません。
ゆえに、私が雛子をモノ的眼差しで見、双子を人間的眼差しで見、くるぶしあんよさんが逆に
見るのは、どちらをより識り、愛しているかということから推考して、至極当然の事です。
あんよさんも何も気に病むことではありませんよ。
あと雛たんは本当に可愛いですね…。そうですね、私がシスプリの世界にいて、あんよさんが
雛たんの父親でどうしても許してくれないようだったら…。
「一緒に駆け落ちしよう」みたいな感じになるかも知れませんね(^^;

いかに挙げる文献は今回のテキストの参考文献の中で、出来が良いと判断したものです。
よろしければぜひ一読をお勧めしたく。

ミシェル・フーコー著「知への歴史(3巻)」「異常者達」「セクシュアリテ・真理」
アン・スニトウ、パット・カリフィア他著「ポルノと検閲」
ジョン・コピラント著「ブレンダと呼ばれた少年」
今村 仁司著「排除の構造」「暴力のオントロギー」
岸田秀著「性的唯幻論序説」

P.S
少女について思索的に語れることは、とても嬉しいです。
中々、このような思索的な対話のかたちで少女を語る機会はあんまりなくて…。
どこか、掲示板作って、討論とかできると嬉しいなと思ったりするのですが…。
サイト運営者かあるいはそれに準ずる人で、
思索的、論述的な文章を書ける人を募ってもしくはスカウトして、パスワードを発行し、
パスワード管理型の掲示板で、「少女討論」やったら面白いかな〜と思うのですが、
どうでしょうか?
(掲示板における文脈のレベルを維持する為に、自由書きこみはまずいと判断します。
討論は喧嘩になりやすいので、互いに敬意を抱いた書きこみでないと文脈の維持が不可能です)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(あんよからkagamiさんへ)
kagamiさん

お返事遅くなり、失礼いたしました。
また、前回は強硬な書き方をしてしまい、申し訳ありません。
以前のメールで、ぼくは「妹に操を捧げている」と記しましたが、
それはシスプリという作品世界と・そこに登場する妹達に、
第三者的・および(ぼくが示すところの)父親的・兄的な愛情を注いでいる、
ということを意味していました。
ですから、あのご返信には防衛機制が働いたわけです。
しかし、「操を捧げる」という表現の曖昧さもさりながら、
この言葉に見出す意味が、セクシュアリティに対する意識の違いゆえに、
kagamiさんとぼくとではかなり異なるのではないか、という気もしてきます。

「人間を商品化する悪しき行為」については同意しています。
しかし、「相互に了解した意志による自由な恋愛行為」については、
その「意志」「自由」の中身を既に問題視してきました。
それゆえ、kagamiさんの主張によれば人間を解放するはずの少女愛が、
ぼくからすれば、少女の性的搾取に転化しやすい「現状」があるだろう、
と述べたわけです。
つまり、理念化された「少女」(ルソー的「自然」のように思えましたが)に対して、
その現実化に当たって生じるかもしれない「モノ」への転倒を、
ぼくはいつも不安に思ってきているのです。
ですから、現実批判や「少女」への憧憬という点で立場を共有できるとしても、
この「ではいかに」というところで、決定的な溝を感じます。

さて、「でも、現実は、子供と恋愛なんて、性行為に限らずすべて否定される」かどうか、
じつはぼくはよく分かりません。
もう一つ言えば、「相手の了解の無い行為(レイプ)」も、
ぼくは欲求において正常(というか存在可能)だと思っています。
だから、「性に権力が定めたカテゴリとしての異常性を付加すること」による禁止が、
必要だと考えています。
この根源には、ぼくが「少女」よりも「妹」に意識の大半を向けているがゆえの、
近親相姦についての欲動と葛藤が、そこに横たわっています。
そのへんで、自分の理性をあまり信頼してません。

「少女が成人女性と同様に、例えば恋人を取り替えること」(以下略)をお認めになるとのこと、
敬服いたします。ぼくには十全にはできません。
ですから、kagamiさんが雛子を連れて駆け落ちしたなら、
ぼくは父なり兄なりとして、阻止に踏み切るでしょう。
(あるいは、ぼくが出なくとも雛子の兄である航が行動を起こすでしょうし、
 その前に可憐のアイスピックが役立つのかもしれませんが。あうー。)

ところで、こちらの質問に詳細にお答えいただきながら恐縮ですが、
ぼくが『ハルヒ』についても、また前回のメールでもこだわっている
「その愛する少女・幼女が大人になったとき、kagamiさんはどうするのか」
という問題について、ぼくの理解の及ぶ限りでは、ほとんどお答えになってません。
これがこちらの勘違いならば、ご指摘をお願いいたしますが、
もしそうでないなら、この沈黙にこそ立脚点が暗示されているのかと愚考します。
つまり、現実世界における抑圧に少女愛をもって対抗しようとしつつ、
結果的には今日「正常」とされている性のあり方を排除するのではないか、と。
それが個人の趣向や性癖としての主張であるというのならぼくも同じですが。
(巨乳とか同性愛とか嫌いだし。でも嫌いなのはたぶんお互い様なので存在は認めます。)
それともあくまで現実に対する戦闘的表現にすぎないのでしょうか。
観念としての「少女」はぼくも(最近は「妹」が優越とはいえ)抱くところですが、
それを現実化しようとしたり歴史に適用しようとしたりするさいに、
ぼくはむしろ過剰に慎重にならざるをえません。

その腰の引けた姿勢は、kagamiさんが挙げられた文献一覧を見ていっそう強まりました。
薦められたリストの中では、まったく不勉強にも、
今村の1冊しか読み切ったことがありません。
となれば、これらを踏まえているはずのkagamiさんの主張に対して「討論」するつもりであれば、
前提についての噛み合わないやりとりを回避するためにも、
1.これらの文献を読んで、なぜkagamiさんが「出来が良いと判断」したのか、
2.それを現代日本に適用することは妥当か、
3.その解釈以外の自分なりの解釈は可能か、
4.そもそもそれらの文献の内容は今でも妥当か(その後の批判状況などの確認)、
などを検討しないことには、有意な発言が全くできません。
(3以外の説明責任はkagamiさんにあるかもしれませんが、あくまで自分の問題として。
 例えば、過去の日本が「性にたいして現代のような異常な抑圧と商品化」を行ってなかったにせよ、
 別のかたちでの「抑圧と商品化」を行っていたかもしれない、などの歴史的証明。)
そうでない発言は、「それはフーコーの〜」といった外部引用で批判されて終わりますから、
そんなやりとりは「啓蒙」ではあっても「討論」ではありません。
(対話的理性とかの問題もよく分かりません。)
ぼくは可能なかぎり、Web上にあるkagamiさんのテキストとぼくのそれ、
そして両者が問題にしていると分かるえろげやラノベなどの作品からの引用だけで、
自分の意見を示そうとしてきましたが(シスプリはこの点で失敗でした)、
そのような素朴な方法はもはや通用しないのだと理解しました。
ですから、ぼくが今後も討論に参加するとすれば、まず読まねばなりません。
それまでは沈黙するしかないということになります。
掲示板を立てて「少女討論」を行うにしても、
ぼくはほとんど傍観者にしかなりえないのが現状です。
また、そのような自分の限界をあらかじめ感じていたからこそ、
『ハルヒ』については第三者に判断をお願いしたということでもあります。

うちの掲示板でもお気遣いいただき、申し訳なく思います。
以上の拙い文章を書くだけでも、実際に毎日頭を悩ましておりました。
そのことをお含み置きいただければ、こちらも幸いです。
なお、このやりとりについては、確かにぼくの限界を感じてますので、
今回のメールへのご返信がもしいただけるのでしたら、
そこで終了させていただければと思います。
重ね重ねの非礼をお詫びしつつ、よろしくお願いいたします。
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2003年7月30日(水) 連続で
 昨日書きましたように、kagamiさんからの最新メールを転載いたします(改行のみ若干修正)。

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くるぶしあんよさん、こんばんは。
お返事ありがとうございます。
これで終りなのですか…。ちょっと寂しいですが、このような
機会が持てて幸いでした。ありがとうございます。

>参考文献を読む必要があるので討論できない

えっと、まず、参考文献は、あくまで参考文献に過ぎませんが、
あんよさんがお気になされるようでしたら、
「誰々の説では〜」という云い方はなるべく避けて、それでも
もし分からない部分があれば、私に出来る限りのご説明は致します。
(ただ、説明するのが、ちょっと大変で、つい使っちゃうことが多くて…(^^;)
あと、自分がどうしてこのように考えたかの準拠枠として、そのひとつの
根拠とした文献等を挙げておくのは、論する時の相手への敬意のひとつなのです。
それは論を建てた先人と論する相手に敬意を払うフェアプレイ精神。
当然のことですが、討論において相手の挙げた参考文献をわざわざ読む必要は無いですよ。
今回のメールのように、自分で判断できる論拠において、論を建てれば良いのですから。
参考文献を挙げたのは、私が貴方に好意を持っているので、
ぜひ教養として読んで欲しいなと思ったからであり、敵対する相手との
討論なら自分の手の内(参考文献)なんて、絶対に明かしませんよ。

>つまり、理念化された「少女」(ルソー的「自然」のように思えましたが)に対し
>て、その現実化に当たって生じるかもしれない「モノ」への転倒を、
>ぼくはいつも不安に思ってきているのです。

現代の少女は「禁止」によって既に「モノ」に転倒されているのですよ。
その「モノ」性から少女達を解き放ち、本当の人間性と自由を回復するには、
社会の禁止によるモノ的価値の喚起を喪失させる、つまり、少女愛を
自由化し、少女達を抑圧から解放することこそが、最大の要因となるでしょう。

>もう一つ言えば、「相手の了解の無い行為(レイプ)」も、
>ぼくは欲求において正常(というか存在可能)だと思っています。
>だから、「性に権力が定めたカテゴリとしての異常性を付加すること」による禁止
>が、必要だと考えています。
>この根源には、ぼくが「少女」よりも「妹」に意識の大半を向けているがゆえの、
>近親相姦についての欲動と葛藤が、そこに横たわっています。
>そのへんで、自分の理性をあまり信頼してません。

相手の了解の無い行為は、個人のみの幻想の外部への強制ゆえ、他者との関係性を破壊します。
それは他者との関係性が基盤となる社会・共同体において必ず排他されるでしょう。

しかし、自分一人で幻想し、己の内部だけに幻想を止めることは、社会・共同体になんら影響を
与えません。それは寧ろ、共同体の安定の為、積極的に保護されるべき権利です(内面の自由)
恋愛とは、愛する人と、幻想を共有することです。それは、まさしく先に挙げた内面の自由なのです。
そして内面の自由を強制的に侵害する行為は、相手の了解の無い行為と同一なのです。
互いに愛し合っている恋愛を弾圧することは、恋人同士に対する社会のレイプ行為なのです。

近親相姦は…極めて難しい問題です。遺伝学・優生学よりも、レヴィ・ストロースの唱えた社会構造論から
論拠するべきかと推考します。社会・共同体を衰退させる為に、禁じられるとしか、云い様がないですね。

>ですから、kagamiさんが雛子を連れて駆け落ちしたなら、
>ぼくは父なり兄なりとして、阻止に踏み切るでしょう。
>(あるいは、ぼくが出なくとも雛子の兄である航が行動を起こすでしょうし、
> その前に可憐のアイスピックが役立つのかもしれませんが。あうー。)

私は暴力は大嫌いだし、苦手です。身体弱いし(^^;
「アイスピックで刺すぞ」みたいなことは、冗談でも決して云ってはいけませんよ。
それは脅迫という暴力です。
あんよさんの文章が意味する
「秩序の側は暴力的な言動(もしくは実際の暴力)で脅迫的に振舞って良い」
という思想こそ、社会が捧げる暴力の供義であり、
最も警戒すべき社会の闇であることを知って欲しいのです。
今村氏の著書を読まれたのならば、ここらへんのメカニズムは分かる筈なのですが…
(^^;

>「その愛する少女・幼女が大人になったとき、kagamiさんはどうするのか」

ケースバイケースとしか云い様がありません。
少女が大人になっても、愛情が持続していたら、そのまま付き合うでしょうし、
愛情が失われたら、そのことを正直に話して、善後策をパートナーと練ると思います。
ただ、愛情が喪われても、精神的・知性的な交流や、愛着というものは
相手を嫌いにならない限り残るでしょうし、付き合い続ける可能性は結構あると思っています。
まあ、男女のことは、その場になってみないと、何も分からないです。

>結果的には今日「正常」とされている性のあり方を排除するのではないか、と。

そんな気はさらさらありません。それは私が唱える自由恋愛に完全に反した行いですよ。

>巨乳とか同性愛とか嫌いだし。

なぜ嫌いなのか、ということを、一度とことん突き詰めて考える事をお勧めします。

では、これからも、頑張って下さいね。
より視野を広げて世界を見られるようになることを期待しております。
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 kagamiさん、どうもありがとうございました。また、非礼を重ねてしまい、お詫びいたします。
 今回いただいたメールの内容については、ここで返事をしてしまうと「自分の意見を書き逃げ」になってしまいます。前回の自分のメールでも述べましたように、このkagamiさんからのお返事をもって、今回の少女愛についてのやりとりは終了させていただきます。なお、暴力的な表現についてはとくに陳謝いたします。「駆け落ち」という暴力行為に対する(こちらが想定する家族に対する。そして、この近代的な家族および社会システムそのものの暴力性は問わず)言説だったとしても、その暴力性が容認されるわけではありません。

 ぼくとしては啓蒙されたことは間違いないので、フーコーを注文してみる。届く間にと、さしあたり柳内隆『フーコーの思想』(ナカニシヤ出版)を読みはじめたら、すぐに面白くなってきた罠。いかに読まず嫌いだったかよく分かります。そしてkagamiさんと柳内氏との解釈の相違も見出したように思うので、これはやはりフーコーの著作にあたらねばなりません。

 今回のやりとりを通じて、ぼくは自分の問題として、シスプリ考察における自分のスタンスを確認してもいました。アニプリを「兄妹の成長物語」として解釈したり、背景に近代市民家族的な人間関係を想定したりと、ぼくの基本的な人間観は明らかに保守的あるいは近代主義的なものです。ですから、考察批判を行うのであれば、「近代的家族・社会システムに準拠する人間の再生産という解釈枠組みによって、12人の妹という設定のもつ意味を隠蔽しようとするもの」という一文をもって、ばっさり終わらせることもできるくらいです。
 その場合ぼくは、「半分そのつもりです」と応えるしかないのですが。残りの半分は、そのような近代性はむしろ山神家の兄妹にこそ示されており、海神家の兄妹は、全員で絆を結ぶどころか眞深までも包容しうることを実際に示すことで、そのような枠組みを乗り越えたのである、とひねくれるものです。つまり、近代的家族として過剰な人数で過剰に緊密な関係を構築していった結果、かえってその近代性そのものを逸脱してしまうという、トマソン的というかなんというか、「やりすぎ」による脱化がここに描かれているのではないか、とか。
 もしそう言えるのだとしたら、これを述べたはずのぼくの考察はまさに「やりすぎ」とも思える文章量ですが、その「やりすぎ」のために読む気をそがれたり主旨が伝わらなくなっていたりするかもしれず、つまり内容と同じことを形式でしてしまっていることになりますか。全然違いますか。
2003年7月31日(木) 久々にシスプリとか
 せいるさんから『モンスール』について。片方が兄というのは、あらかじめ喪失が約束されているように思うのです。兄と別れるにせよ、兄とくっつくにせよ、自明の兄妹関係というものの喪失が。

 『学校を出よう!』について反応いただく。ハルヒ文章もまだ書き終えていない段階であれなのですが、その後考えたことをちょっと記しておくと(以下ネタバレ)。
 あれはつまり、妹の即死という事件にさいして、最期の言葉を全く交わす余裕もなく突然に妹との関係を断ち切られた兄が、いかにして愛する者の死を受け入れる過程を歩んでいくかという、受容の物語ではないか。その中で見知らぬ人間の犠牲者が出ていることなど、全然解決されていない問題がぎょうさん残っているのですが、ともかく今回描かれるべきは、この受容でした。だから、兄の臨死体験の場面で、妹と「本当の」最期の言葉のやりとりをする。かげろうのようなキスをする。それらは、この受容のために不可欠な儀式であり、兄が妹に言いたかったこと、妹から聞きたかったことの一切が、真空の一言に凝縮されていました。
 その受容が可能であって、さらなる否定による世界の崩壊につながらないというのは、妹がもう一人いるからです。みさおが双子だったら、浩平はえいえんの世界を求めたでしょうか。でも、こういう問題回避の方法は、ちょっとずるくも感じます。
 そもそもこの作品は、出来の悪いTRPGプレイを想起させます。綿密な設定が、唐突かつ立て続けにプレイヤーに突きつけられる。シナリオの主題は、二律背反的状況における主体的な意志決定。あたかも、決定することが目的であるかのような。マスターの期待は、しかしプレイヤーには否定的にのみ受け止められて、PCはむしろ、その絶望的世界からの脱却(=死)を願い、その実現に向けて動きます。そしてそれが唯一の意志決定となったとき、マスターは肉親NPCの悲劇的死によって、プレイヤーの選択を賞賛しつつ抹消し(つまり止揚し)、プレイそのもののどうにもならなさを、「これはこれで美しい物語」としたり顔でうなづきつつ隠蔽するのです。もちろん、過剰に個性的なNPCは、PCの周りをぐるぐると暴れ回りつつ、問題解決には一向に寄与しないのでした。
 だからいけないとか、嫌いだとか言いたいわけではなく、むしろぼくにとってはそれゆえにこそ感情移入してしまう作品なのであります。
 TRPGで死の受容といえば、先代はこんなことをしたみたい。

 さて。どうも自分は、証拠を挙げながら話をしないと、真面目には討論できない性格のようです。アニプリ考察で一定の理解を得られてきた一つの要因は、既に存在する評価や先入観を覆すために、作品内のセリフや状況などを過剰なまでに引用し、そこに新たな解釈を与えてきたことにあると考えます。それは非常に素朴な方法ですが、少なくとも引用された作品内容については、最低限の共通理解を得られます。(もちろん、引用するしないの判断の時点でこちらの先入観が入り込みますし、引用元と引用内容が違っている場合もあるでしょう。)

 そういうわけで、久々にシスプリ。考察6のためにリピュアAパート第1話「ハートデイズ」を見直しているわけですが、そこで気づいたこと。
 この話の冒頭で、可憐は兄との結婚式の夢から目覚め、もう少し続きを見たかった、と言いながら、兄と砂浜で戯れる場面を思い描きます。この間の時間経過について、例えばこちらでは、起床7時、妄想終了8時半、つまり妄想1時間半、という指摘がなされていました。この記事は当時、各所でリンクされ、可憐の妄想ぶりを端的に示すものとして受け止められてきました。
 しかし、DVDを確認したところ、どうもそのような理解には問題があるようです。実際の画像では、以下の3場面で時計が登場しているからです。

1.可憐が起床したとき、目覚まし時計は7時。
2.可憐が砂浜の光景を想像し始めるとき、背後に写っている掛時計は8時半。
3.可憐がこの想像から現実に戻ったとき、背後に写っている掛時計は8時40-50分。

 先の映像では、砂浜の想像が始まってから終わるまでが7時から8時半であるかのように書かれていますが、これは2.の映像を3.の映像と取り違えることによって生じた誤りだと考えられます。つまり、実際の想像時間は10-20分。これでも長いととるかどうかは解釈によりますが、少なくとも「妄想1時間半」というのは誇張です。

 では1.と2.の間の1時間半は何をしていたのかが問題になりますが、これについては既にどなたか(しのぶさんだと思って探したのですが不明、情報求む)が、掃除や朝食・身仕舞いなどをしていたのではないか、と述べられていたように思います。とくに、可憐が今日着ていくつもりのワンピースに微笑んでいるのを見れば、朝食などのさいに汚さないようワンピースに着替えるのを外出直前まで我慢していたこと、しかしわざわざ普段着に着替えるのも二度手間なので避けて寝間着のままでいたこと、が予想できます。例えば『オリジナルストーリーズ』では可憐が寝間着に近い格好で台所仕事をしていたように思います。また実際に、ぼくの妹は休日にそういう行動をとっていました。それなりに蓋然性の高い予想ではないでしょうか。
 となれば、可憐の母親に「あらあら、お行儀の悪いこと」と苦笑されながらも、今日の希望に満ちて朝食をとっている姿や、細心の注意を払いながらワンピースに着替えたこと、そして、だからこそこの服を汚してしまったことがどれだけ悔しく悲しく辛かったのか、そういう情景が、この朝の時間推移から読みとれるはずです。こうしてみれば、この話で描かれる可憐の兄への想いは、ここにおいて既に暗示されていました。

 なお、この時計の場面は全て、DVD版ととテレビ放映版とをつきあわせても、何ら変更されていません。ですから、テレビ放映時に可憐のこの想いは画面に描かれていたわけです。それなのに、なぜ可憐は1時間半の妄想をしていたものとされてしまったのでしょうか。そこには、「可憐は妄想者」という、あまりに分かりやすい人物把握が横たわっています。その立場から映像を観たとき、じっくり確認すれば分かるはずのことを、先入観から気づかずに終わったのかもしれません。あるいは、事実を知っていながら、ネタとしてあえてそのように楽しんだのかもしれません。いずれにせよ、リピュアを観るときの視聴者の態度は、ここで既に局限されていました。
 このことで、ぼくは糾弾しようとか訂正を求めようとか、そう言いたいわけではないです。むしろ、視聴時点でその可能性に気づいていたらしいにも関わらず、やはり一般的理解の水準で軽く流してしまった自分自身の愛のなさにこそ反省を促すものです。まことにもってお兄ちゃん失格。そして、もっと早くにこのような指摘をされていた方には、深く感謝いたします。また、このことについて既に世間的に訂正がなされているのでしたら、それにすら気づかない自分を再度恥じます。

 以上は考察6にて、必要箇所のみ整理して再叙述予定。

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