あんよ流・考察の書き方


はじめに

 この文章は、くるぶしあんよが考察を書くときの基本的な態度や具体的な叙述方法などについて、一つの読み物としてまとめたものです。
 ぼくはすでに、アニメ版『シスター・プリンセス』考察『涼宮ハルヒの憂鬱』考察『魔法先生ネギま!』考察など、少なからぬ考察文を公開してきました。それらのテキストはウェブ上の各種ファンダムで一定度の評価を得ており、その書き方についての質問も以前いただいています。それゆえ、ぼくが考察対象作品をどのような観点からとらえ、どのような切り口で解釈しようとしがちなのかについて、一度おおまかなところを文章化しておくことは、関心をお持ちの方にとって何かのお役に立つかもしれないと考えました。なお、この文章の原型は、2005年2月25日以下の日記にあります。このテーマについて質問して下さったせいるさんによる「SSの書き方&考察の書き方」まとめも、ぜひご参照下さい。また、この文章を書いている間に公開された竹熊健太郎氏による「『サルまん』の作り方」も、ぼくの考察の書き方と相通じるところが少なくありません。


1.考察とは何か

 考察の書き方を考える前に、まず、なんで考察するのか? そもそも考察とは何なのか? について述べておく必要があります。目的意識が明確でないと、長い考察文章は書けません。別に長く書く必要もないですが。

 最初に一番分かりやすそうなたとえを示しておきますと、
あんよ流の考察とは、いわばプロレスです。なお、本論のタイトル同様ここで「あんよ流」と付しているのは、、一般論としての「考察」ではなく、ぼく個人にとっての「考察」について述べていく、ということですのであしからず。

 ぼくはなぜ考察するのか。世評というベルト所有者に、作品愛から戦いを挑む、それがぼくの考察です。ぼくの考察意欲は主に、自分の好きな作品が世間で不当に評価されていると感じたときに生じます。つまり、作品への愛(あるいは偏愛)と、一般的な作品評価への違和感とが両立しないとき、考察する気は起こりません。2002年当時のアニメ版シスプリの悪評たるや(序論参照)。そういった状況に対して、「いや違うんだ、ぼくの好きなこの作品はもっと素晴らしいものなんだ、みんな分かってくれ」という魂の叫びが、ぼくを考察作業に向かわせるのです。このエネルギーは、自分の作品愛と世評との差に比例して増大します。(より弱い源として、既存の解釈を補完したい、別の視点(楽しみ方)を提起したい、という欲求もあります。おそらく、一般的な意味での「考察」は、こちらの欲求によるものが多いでしょう。ぼくの考察も、もちろんこれを排除するものではありません。「赤松健論」の成果を発展させようとしたネギま考察。)
 では、その世評との戦いのために、なぜぼくは感想批評ではなく、考察という独特のスタイルを用いるのか。ぼくの考えるところ、感想では、論理性よりも感情や妄想ばかりがだだ漏れとなり、作品に否定的な意見を持つ人達を説得できません。その一方、いわゆる批評では、そういう人達の考えを批判できるかもしれませんが、叙述の論理性・客観性を重視するために、作品愛を盛り込むことは困難です(よい批評はそこまでできると思いますが)。感想はいわばルール無用の素人ケンカであり、批評はルールの厳しすぎるシュート格技です。それらは、次のような下位目的にとっては、ちょっと融通が利きません。つまり、

(1)ぼくの肯定的な作品解釈を他者に説得的に提示して受け入れてもらうために分相応な、客観的・論理的体裁を整える
(2)その文章自体を、一つのエンターティメントとして読者に楽しんでもらうことで、ぼくの作品愛をも伝達する
(3)書く作業そのものを、ぼく自身が馬鹿馬鹿しいまでに楽しめる


というものです。この3つの下位目的を適度に満たすように書かれるのが、ぼくの考察です。そのためには、感想のレベルでは力が足りませんが、批評のレベルまで厳格にやる必要はありません。なぜなら、たとえ自分の解釈を読者に受け入れてもらえなくても、「そこまで語らせる作品なのか」と興味をもってもらえれば、考察を書いた目的の一つは達成されるのですから。プロレス同様、たとえ負けても、負け方に華があれば、それはファンを魅了するのです。考察を書くことそのものは手段にすぎません。読者がその作品を再発見するための足がかりになれれば、それで満足なのです。それはまた、自分に幸せを与えてくれた作品への恩返しでもあります。
 もちろん、大目的である世評の転換を達成しようとすれば、そのための理屈をどのように立てるかが非常に重要であることは間違いありません。ですが、その前にもっと大切な考察の気構えがあります。世評への挑戦者である考察者は、世評に屈服してもいけませんが、たんに世評を無視して、世評が突きつける都合の悪い事実から目を逸らしてもいけません。観客は、世評というベルト保持者の強さと、その技を知っています。であれば挑戦者は、その技に背を向けたりかわしたりしてはいけません。

(1)一番キツい、弱点狙いの技(否定的解釈、批判的指摘)をあえて真正面から受けとめたうえで、
(2)リングのルール(作品内の事実に基づく論理的連関)にしたがいながら、
(3)その弱点を起点にした自分独自の技(世評と全く逆の肯定的な解釈)で切り返す


 つまり、これが考察です。世評に従う人達の考えを変えるには「あっ」と驚かせるほどの衝撃が必要ですが、作品の一番の弱点・欠点にこそじつは素晴らしい何かが潜んでいたのだと示し得たとき、考察の衝撃と効果は最も大きくなります。そして、その反撃の技を(自分にとっても)予想外のかたちで決めたときの、読者と自分自身の心地よさもまた、考察の大切な要素です。さらに、その快楽を勝ち取るために、ひとたびは世評の辛辣さを馬鹿正直に受けて立つというプロレスラー的な気構えこそ、もともと馬鹿な作業に時間を費やしている考察者とその文章を、堂々たるものに見せてくれるのです。たぶん。
 ここまで述べたことを端的に証明してくれるのが、ぼくのアニメ版シスプリ考察に対して掲示板などに寄せられたいくつかの感想です。感謝を込めてここに転載します。

「『そんなワケあるか〜』と思いつつ一度頭に入ったら、どんなもっともらしい解釈よりも説得力を持って頭から離れなくなる」(栗本規司さん)
「視聴している時には気にかかったまま、ウッカリ忘れているようなディテールをひとつひとつ丁寧に拾い上げ納得がいく形で構成して新たな感動をみせてくれる」(アニマ・アニムスさん)
「絶対スタッフはそんなこと考えてねぇーって気がする」(美森勇気さん)

 もちろん、ご批判も多々いただいております。例えば、エンターティメント性を求めすぎて作品やキャラを道具にしてしまっている」とか「長すぎる」とか「電波すぎる」とか。このへんは、ぼくの考察スタイルの弱点ということになります。


2.考察の基礎づくり

 さて、こういう目的を掲げて考察に取り組むとしまして。いくら大技を決めたいと思っていても、その練習ばかりしていればリング上で勝てるというものでもありません。相手の攻撃をまず何とか受け止めて勝負に持ち込むための基礎づくりが、どうしても必要です。
 なお、ここからの説明に関しては、具体例として主にアニプリ第4話考察を取り上げます。この考察は比較的短い文章に各要素がほぼ出そろっており、サンプルとしてちょうどいいからです。ちなみに、この第4話考察が真正面から取り組んだ世評すなわち一般的問題とは、「雛子はどこへ何を求めて家出しようとしたのか」「最後にじいやがクマのぬいぐるみを置いていくのは、話をぶち壊すものではないか」「花穂の振る舞いはあまりにおバカさんすぎないか」などでした。それらの否定的な意見をすべて受けとめて、すべてに作品主題に関わる重要な意味(共同生活の問題、兄妹関係の適正な親密さの形成、相互支援原則など)があったのだ、と答えたわけです。
 では、考察の基礎体力づくりとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。それを大きく分けると、自分の得意分野を持つこと、作品鑑賞の視点を構築すること、書式を定めること、の3つです。

 まず、自分の得意分野を持つというのは、いわばプロレスラーとしてのスタイルを選ぶということです。このメリットは、そこから作品に切り込む(主題を発見するなども含む)ことが自分にとって最も容易で楽しく、しかも独自性が高いということです。知識や趣味、特技などに属する様々なものが、ここでは有用でしょう。ぼくの場合は、やや昔のアニメや漫画などについてのオタク系知識や、オカルト、岩波文庫的教養などをベースにしています。また、少年漫画的な成長物語が大好きなので、その要素を作品に適用することが多いです。つまり、「成長」「相互性」「正義」「友愛」「恋愛」などなど。これらの概念は世間でも肯定的な価値を持つものとされていますが、考察の目的は作品に対する世間の低評価をくつがえすことですから、こういった概念は考察と非常に相性がいいです(この点でも、普遍性のある知識やいわゆる教養はとても有用です)。ただし、ぼく自身がいわゆる大人への「成熟」に至っていないので、考察では「成熟」を語らずにおきながら、より年齢の低いキャラ達の「成長」に注目しようとする傾向があります。それから、比較的長い単純な文章を積み上げていくことを嫌いはしませんが、作品を論理的な一言で鋭くさばくことは苦手です。それゆえ、ぼくの考察スタイルは、キャラの人間的成長とその相互関係に注目しながら、その展開を丹念に追っていく、という地味なものとなっています。
 ぼくの考察第2弾である第4話考察では、この地味な考察スタイルがほぼ確立しました。また、ヒロインが雛子という幼児であるために「成長」という得意分野の概念を、兄妹や妹同士の「相互性」ともども主題として見出すことが容易でした。タロットの解釈なども、オカルトに嫌悪感がないのですぐに関心が向きました。なお、そこで引用されている『イメージ・シンボル事典』などの書物は、シスプリ考察を通じてとても便利に用いられていますが、その理由は次の鑑賞視点構築と密接にからんでいます。

 次に、作品鑑賞の視点を構築するというのは、いわばリングのルールやメタルールを熟知して自分のものにするということです。そのために鑑賞時に必要なのは、次の3つの視点です。

(1)自分の得意分野を切り口として作品を捉えてみる(技の練習)
(2)世評にしたがう一般的な視聴者の観点から作品を捉えてみる(受け身の練習)
(3)それらを全部離れて作品そのものを誠実に観る(基礎体力向上)

 (1)は上述の通り、自分が親しんでいる分野から作品を捉えて、世評が気づかないような解釈の手掛かりを得るためのものであり、自分のカウンター技をふるう大前提です。しかし、そのためには、一度は受け止めるべき相手の技とその理路を知らねばなりませんから、(2)のように世評に寄り添ってみることもある程度は必要です。そのためにはもちろん、他のサイトなどの先行意見を冷静に収集する必要があります。冷静に、というのは、悪評を読むとつい感情的になりがちだからですが、そういう意見を持つ人達をどうやったら自分の意見に近づけられるだろうか、と前向きに考えることが大事です。その人達は、未来の作品愛好者なのですから。そして当たり前のことですが、その先行意見を誤読しないことが大切です。他人の文章をまともに理解できないような者が書いた考察を、誰が真面目に読んでくれるでしょうか

 とはいえ、この2つの視点だけでは、満足な考察はできません。(1)の最初の状態で世評をくつがえすことは通常かなり難しいですし、また仮にそれで考察が書けたとしても、世評をやっつける気持ちだけが前に出すぎて非常にギスギスした文章になりやすいからです。そして、(1)でも自分の都合の悪いことは最初見逃しがちですが、(1)と(2)を重ねても、両者が見逃している描写は作品内にたくさんあるはずなのです。そこで大切なのが、(3)です。それは、誠実に観るということ。そして、作品に描かれた事柄の全てには意味がある、と信じることです。それはいわば、リングのルールを全て活かそうとする態度です。じつはこの態度こそ、(1)や(2)よりも先に身につけておくべきものなのかもしれません。
 ぼくはこの信念に基づいて、考察作業のはじめに、作品内のほとんどの台詞や物語展開、情景描写などを文字にして入力していきます。気になったことやこの段階での解釈、ネタなども、どんどん書き込んでいきます。このため作品を何度も見返すこととなり、時間も手間もかかるのですが、ここでの映像から文字への転換作業過程において、最初は見逃していたことに否応なく気づかされ、これはいったい何なのだろう? どういう意味があるのだろう? という問いかけを、ごく自然に反復していくことになります。この反復練習が、後の文章化にあたって相手の隙を巧みにつき、技の切れ味を高めるのです。
 第4話考察では、この作業の結果、例えば、航と雛子が休憩するパーラーの店名「CAFE PHANTASIA」に気づけました。これは、一見して適当っぽい背景作画のほんの一部にすぎないのですが、やがて本話の主題と結びつけられることで、自分でもお気に入りの一節を生み出しました。また、花穂の「あの、」と言うときのためらいや、航が雛子に話しかけるときのしゃがむ仕草などは、場面を文字化するさいに確認したことです。千影のタロットも、たんなる雰囲気づくりではなく、わざわざ入れた意味があるはずだと考え、それらのカードの意味を調べることにつながりました。そして、熊のぬいぐるみも同様に調査の対象となったわけですが、ここで先述の『イメージ・シンボル大辞典』などが登場します。これらの書物は、様々な事物にどんな象徴的な意味が付与されてきたかを網羅したものです。そう、「作品内の一切の事象には意味がある」と前提するぼくの鑑賞視点にとって、これらの書物はまさにうってつけの情報源であり、客観的な基盤を与えてくれる貴重な手掛かりなのでした。

 最後に、書式を定めるというのは、自分には書きやすく、読者には「これはこいつの考察だ」と覚えてもらえるような、一定のフォーマットを作り上げるということです。これはつまり、試合はこびの仕方を決めておく、ということでしょうかね。ぼくの場合、

    ・タイトルとサブタイトル
    ・はじめに:考察視点の提示。先行意見の総括と、その問題点や発展可能性の指摘。
    ・各 章 :作品の具体的な解釈。各章の構成としては、例えば次のようなものがあり、それぞれを組み合わせることも多い。
          a) 物語の展開(起承転結)にしたがって、場面ごとに各章を振り分けていく。
          b) 登場人物ごとに各章を振り分けていく。
          c) トピックごとに各章を振り分けていく。
    ・終わりに:考察成果の確認とまとめ、提言や課題提起など。

とまあ、こんな感じです。
 この中で、とくに「はじめに」の部分はフォーマット化が進んでいます。つまり、
     「作品A(のB話)については、描写Cが問題視されやすく、これについてはDのように解釈する先行意見が多い。(その根拠についての確認。)
      しかし、Eという要素からすると、CをDと言い切るには問題がある。(あるいは、Dというよりも、むしろFとして理解できるかもしれない。)
      本考察では、このような観点からB話を再検討する。」
といった具合です。この「はじめに」の書き方を定めておくことで、考察の目的を明確化しつつ、考察作業に「いつものかたち」で抵抗なく入っていくことができます。
 第4話考察は、やはりこのフォーマットに則して書かれてますし、各章の区分では、上述のa)とb)を組み合わせています(タロットをc)のトピックとすると、3つを全部組み合わせたことになります)。


3.考察のテクニック

 さて、いよいよ具体的な技の説明です。

(1)反則技・制限技

 最初に、ぼくが考察で使わない技を挙げておきます。例えば誹謗中傷などは言うまでもないですが、考察対象の作品評価を高めるために他の作品を貶す(比較ではなくただ一方的に)、というのもぼくは禁じています。これらは、他の人達も共有できる原則でしょうから、ここでは反則技と呼んでおきます。この一方、一般的に用いられているけどぼくが個人的に用いずにいる、という技があります。例えば、制作者側の事情とか周辺事実など、作品外の要素(ぼくは作品外論理と名付けています)をもとに、作品を解釈するというものです。これについては、ぼくは基本的に避けることとしていますが、例えばリピュアBパート考察のように、制作者達による独自の原作解釈が主題となる場合には、そのインタビューなどを参考にすることもあります。これは反則技ではなく制限技です。
 これらの制約に基づいて、ぼくは「作品内論理」によって解釈する、ということを考察スタイルとして掲げています。作家論を重視するいずみのさんのスタイルとは対極に位置するものと言えるでしょうか(ただし、いずみのさんの「赤松健論」は作家論と作品論が両立しています)。ぼくの考察は作品だけ観ていればいいので楽だとも言えますし、技の範囲を自分で狭めているとも言えます。

(2)打撃技(原則抽出)

 これは、キャラの個性や人間関係、物語展開などから、個人と物語の基本原則や独自性を導き出すものです。だいたい世評では、キャラを表面的に捉えて類型化してしまったり、物語の主題を「よくある話」として軽視したりしていますから、キャラや展開を丹念に追いながらこれらをきちんと抽出してやるだけで、世評の見かけだけの技を跳ね返し、その甘いディフェンスをぶち破れることがあります。考察中の太字箇所の多くはこの原則を述べた部分であり、それらは作品全体を見通すための主力技となっています。つまり、その原則を抽出した段階で最初の打撃が決まりますが、その衝撃が去った後も、いくつもの場面でこの原則が適用できることを繰り返し指摘していくことで、打撃の蓄積が読者の判断にじわじわと効いていくのです。
 第4話考察では、第3話考察の成果をうけて、共同生活原則や妹達の相互支援原則などを解釈の前提としています。そのうえで第4話を、それら諸原則が実際に適用される最初の機会と捉え、その具体的展開を辿っていきました。また、雛子や花穂といった妹達の行動特性や、その妹達に対する航の兄としての態度を、各人の基本性格として確認しました。ただし、このときに、可憐のダークな側面をかなり強調しているのは、ぼくの趣味の反映でもあります。このように、とくにキャラを解釈するときには、考察者の人間観が多大な影響を及ぼしますので、その偏りには注意が必要です。もっとも、この偏りを自覚してネタ的に用いることもできます。

(3)投げ技(論理連関についての推論)

 これは、一見して無関係な事象同士を結び合わせたり、一見して異常な描写に正当な根拠を与えたりするものです。作品から抽出された原則を媒介にして各事象をつなげることが多いため、打撃技に続けて放つことで大きな効果を得る技です。また、キャラの個性と物語の原則とを関連づけるというのも大事な手法です。これは、独特の個性を持つ人間が物語世界でどのように他者と関わり合いながら生きているか(人物の個性とその相互関係を通して、普遍的な価値を持つ作品主題がどのように表現されているか)を理解するための、重要な作業です。これによって、キャラ理解における偏りは、普遍的価値との関連づけによって修正されます。なお、その推論のさいには、作品内から抽出された原則だけでなく、常識的判断もとても役立ちます。
 第4話考察の第1章では、「なぜ最初のヒロイン話が雛子のものだったのか」という疑問を読者に投げかけています。そしてここから、雛子の幼児としての特性や、共同生活の残存問題などを指摘しえています。なんで雛子が最初なのかなんて誰も考えなかったでしょうから、いきなり不意打ちの大技が炸裂しているわけですが、しかし、この文章を書く前のぼくの推論は、きわめて常識的な理屈で成り立っています。つまり、「共同生活の最初の危機(第3話)を何とか乗り越えたとしても、やはりしばらくは問題がすべて解決したわけではなく、苦労も多いだろう。一方、実際の作品では、雛子が朝起きられず、家出をしてしまっているという事態が生じている。この個人的な事態は、先の共同生活全体の問題への推測と、関連づけられるのではないか。共同生活の制約に我慢ができなかったから、雛子は兄と同様に家を飛び出そうとした。そして、雛子は一番幼い子供だから、我慢も最もしにくかったのだろう」といった具合です。ここには、第3話をふまえての共同生活に対する推論と、雛子という幼児に対する推論が働いていますが、どちらもごく普通の内容です。普通でないとすれば、それは、このような常識的判断をわざわざ「イロモノ作品」に適用してみるという、考察スタンスそれ自体かもしれません。それが、2.で述べた「誠実に観る」ということの結果です。

(4)関節技(事実確認)

 これは、作品内の事実の有無などを詳細に確認し、その裏付けとなる関連情報を提示するものです。打撃技や投げ技に比べるとなおさら地味な技ですが、世評における先入観がいきなりひっくり返ることもありますし、そうでなくても、これを手抜きせずに用いることで考察が引き締まります。また、ここで明らかとなった意外な事実をもとにして、打撃や投げに移行することもできます。ただし、あんまり関節技ばかりを並べてしまうと流れが悪くなり、盛り上がりが得られにくいという欠点があります。
 第4話考察では、「熊のぬいぐるみにはどんな意味があったのか」という問題を大きく取り上げています。これは、雛子と航が探すアイテムであるとともに、最後にマラソンじいやがでかいぬいぐるみを置いていくという場面での脱力感が世評で否定的に扱われていたからです。これをひっくり返すために、ぼくは、幼児にとっての熊のぬいぐるみの意味を簡単に調べました。この関節技によって、最後のじいやの行動から「兄と特定の妹の関係を親密なものにしすぎない」という新たな原則を浮かび上がらせるという打撃技へとつながりました。また、雛子が最初のヒロインである理由を検討するさい、アニプリ全話のヒロイン表をまず提示しました。これも投げ技を決めるのに一役買っています。

(5)カウンター技

 そもそも考察全体が世評へのカウンター攻撃なのですが、ここではもっと戦術的なレベルで。例えば第4話の家事分担について、ぼくは次のように述べています。
第3話で示された当番表には、今回の状況に明確に当てはまる曜日は存在しない。しかし、これは既に、各人がおおよその当番を守りつつ、お互いが自分からすすんで助け合ったり、当番を入れ替えたりするようになってきた、という証拠でもある。この点をみても、以前までの形式的な共同生活原則が、徐々に親密な感情を基礎とするものへと置き換えられつつある状態が、看取できるだろう。」
 このように、自分の考察結果にとって都合の悪い事実を誰よりも先に自分であえて指摘しながら、すぐさま主題にそって肯定的に位置づけてしまうというのが、ぼくのカウンター技です。上の例ですと、普通は「作品がいい加減に作られた証拠だ」として、第3話考察まで否定されかねないのですが、そういう作品外論理を排除して作品内論理に徹することで、このカウンターが成功しています。

(6)飛び技(電波)

 以上の技は、作品を丹念に検討していくことで充分に修得し使用することができます。しかし、それらだけで考察を組み立てようとすると、文章がガチガチになりすぎたり、世評に対する批判的態度が鼻についたり、書う過程が面白くなかったり、といった問題を生じてしまいます。せっかく頑張っていろんな技を発揮したのに、考察の目的を阻害してしまうなんて悲しいこと。また、そこまで重大な問題ではなくても、考察本体の構想がほぼ完成しているのに、何か派手さが足りないな、と感じることは決して稀ではありません。せっかくプロレスをするからには、たまには自爆覚悟でロープ最上段から飛びたいものです。というか、最初から飛んでみたくて書いている部分もあるわけで。
 この衝動を満たすのが考察の飛び技なのですが、この技の成り立ちを論理的に説明することはできません。電波を受信できるかどうかです。それは、作品鑑賞の時点ですでに閃いているかもしれませんし、上述の真面目な技を全部つぎ込んだあげく壁の向こうから突然やってくるかもしれませんし、他者から送信されるかもしれません。
 第4話考察では、「終わりに」の箇所で、千影の特殊能力についての示唆を行っています。じつはこのとき、千影のオカルト的な力の作品内での位置づけについて、何かの予感を受信していました。その明確な具体化ができたのはずっと後になってからでしたが、この予感を得た時点での暴走ぐあいは、続く第5話考察の第3章でご覧いただけます。公開当時、この千影能力の解釈はあまり評判がよくありませんでしたが、それはやはり、相当の説明を重ねないと説得力をもたないような電波によるものだったからでしょう。この説得力のなさ、根拠のなさは、飛び技の大きな欠点です。外れれば本当に自爆するほかなく、その結果、今まで着実な技で積み重ねてきた一切が台無しになりかねません。その代わり、うまく決まれば効果絶大ですが。

 この危険な技が成功した例といえば、初考察でありぼくの代表作でもある第3話考察などは、全編を通じて電波が溢れているとも言えます。大枠では、他の堅実な技をたくさん使ってはいるものの、スタートダッシュの無闇な勢いと、そもそもアニプリを真面目に考察すること自体への意味不明な高揚感とが、電波的雰囲気をいっそう強めているのです。
 また、特定の箇所で効果的に飛べたものとしては、例えばリピュアAパート補論1の第4章(2)「山田太郎の溜息」が挙げられます。この補論では、第3章までほとんど関節技だけで話を進めています。これ、読む方もしんどいでしょうが、書いている方もかなり辛いんです。こういう地味な部分も重要なんですが、これだけだと「先行意見を批判しました」という印象だけが強く残ってしまい、考察としての爽快感が全く得られません。しかし、これをどうやって解きほぐしたらいいのかさっぱり思いつかない……。そんな袋小路に陥ったとき、美森氏との雑談中にふと相談してみたところ、「山田がガルバンを観てるみたいに、マック大和がリピュアをテレビで観てるんじゃないの」という思いつきをポンと返してくれました。このアイディアは直接、第4章(1)ガルバンSEEDの元ネタになっていますが、ぼくがこの返事を聞いた瞬間、まさに種が割れたかのように、「だったら、航達がリピュアを製作しているというのはどうだ」と閃き、一気に突破口が開けたのです。この飛び技は、リピュアをアニプリ側に重ねるように結びつけるという最大級の技でありましたが、幸いにも各所で好評を得ることができました。なお、この飛び技がただの電波で終わらないようにするために、その叙述には堅実な技がいくつか補強的に用いられています。例えば、Aパートで咲耶の家の形状が場面ごとに違うといった事実を「自主製作ゆえのご愛敬」とカウンター技で簡単に切り返していますが、このあっさりした叙述の背後には、全話に登場する兄妹の家屋をいちいちスケッチして比較するという、じつに関節技向けな骨折り作業があったのです。この作業の直後は、「妹の家の設定が勘違いされている」という作品外論理をどうしても適用せざるを得ない状況に追い込まれていただけに、これを肯定的にひっくり返せるカウンター技の手がかりにできたのは、ひとえに飛び技のおかげでした。

(7)パフォーマンス(叙情とユーモア)

 こういった技を巧みに披露することで、読者の心を確実に掴むことができるでしょうか。いえいえ、それだけではまだちょっぴり足りません。プロレスの隠し味は、選手がストイックな態度と鍛え抜かれた技の合間に激情や涙もろさ、お茶目な一面などを覗かせたときの、選手と観客のグルーヴ感です。お互いの感情が一体となって盛り上がることです。考察の場合、様々な技の叙述に、執筆者の感動をそれとなく埋め込むことによって、この感情共有を試みています。これが押しつけがましくなると考察全体の論理的雰囲気が壊れてしまうので、あくまでも作品中の情景やキャラの内面を説明し解釈するさいに、つい抑制を越えて考察者の想いが出てしまいました、という程度にとどめておきます。
 第4話考察ですと、第2章(3)「花穂の混乱」や、第4章(1)「航と雛子のつながる心」あたりが、この叙情的な雰囲気を精一杯に文章に込めています。また、どの考察でも、「終わりに」の直前では、余韻を残すような書き方をしていることが多いです。
 また、とくに考察全体の堅苦しい印象を和らげるために、ユーモア(しばしばブラックユーモア)を各所に散りばめるようにしています。太字の箇所は、原則の抽出やキャラの個性発露などの重要項目でなければ、だいたいこのユーモアに該当しています。第4話考察では、専ら可憐の闇がこれを引き受けてくれているようです。

 以上、各種のテクニックについて述べてきましたが、これらの区別は考察執筆時にほとんど意識されておりません。ただ、書いている文章がどうも固すぎるとか、逆に情感に溺れすぎているとか、つながりが見えにくいとか、そういった感触を得たときに何を削り何を増やすかを考えるさい、暗黙のうちにこれらの技のバランスを求めているような気がします。


終わりに

 簡潔明瞭に書こうと思っていたのに、結局こんな長々とした文章になってしまいました。でも、最初の草稿では、半分ほど書いた段階ですでにこの3倍くらいあったんです。時間無制限の試合ばかりしている弊害でしょうか。
 ここで述べてきたのは、ぼくが考察を書くときの基本的な構えです。これから考察を書いてみよう、とお考えの方にとって、どこか一箇所でも参考になれば幸いです。もちろん、これはあくまでもぼく個人の「考察」観に基づいた書き方ですから、目的を同じうしない方にとっては、ご自身の書き方との比較材料として役立つ程度かもしれません。

 最後に、本文の補足を一つだけしておきます。ある作品を考察する前に、その作品を鑑賞した直後の素直な感想を、ともかくどこかに記録しておくことをお勧めします。ぼくの場合は、他者の意見や感想を探しに行く前に、自分の感想をサイト日記に書いてしまいます。この感想記録の利点はいくつかあります。
 まず、鑑賞時にあれこれ考えたけどまとまらない断片的内容を、本格的な考察の素材として残しておけるということ。要するに考察メモですから、体裁は適当でいいのです。ただ、鑑賞中の自分が何に引っかかったのか、どんな場面や台詞や描写、展開などにこだわったのかを、後で分かるようにはしておきます。
 次に、書いているうちに、自分の意見がそこそこ明確化されるということ。メモ程度でも、入力しながら「ああ、自分はこんなことを感じたのか」と発見することが多々あります。
 そして、鑑賞時に不本意な感情を抱いてしまった場合、それをあらかじめ感想のレベルで発散できるということ。考察は本来、自分の作品愛に基づくものですが、しかし、もしもその作品に対して何らかの不満などを部分的にでも感じていたならば、そういう負の感情を考察文に表してしまったり、あるいはそれを未然に防ごうとして問題の箇所から目を背けることになったりしがちです。これらを避けるためにも、感想をはけ口にして「これこれが気に入らない」と一度ともかく表現してしまい、心の中に無理に貯め込まないことが有効です。ぼくの場合も、例えばリピュア初鑑賞時にはそれなりに不満を覚えましたので、当時の日記ではけっこう厳しいことを綴っています。そして、いざ考察を書くときには、先に記しておいた自分自身の感想も、ひとつの先行意見として読み直すといいです。そこで綴られている否定的な感想もまた、考察によって前向きに乗り越えられるべき問題点であるからです。つまり、考察を書くことは、初見時の自分の意見をも超克していく作業なのです。一方、肯定的な感想の部分も、自分の意見を再確認するために重要です。というのは、先行意見を読むときには受容的に読むことが必要なのですが、たくさん読んでいるうちにそこに呑みこまれると、自分の最初の気持ちを忘れてしまうことがあるからです。最初の感動を考察に包んで、未来の作品ファンである誰かに届けたいものですね。


(2006年2月15日公開・2006年3月4日最終修正 くるぶしあんよ著)

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