『涼宮ハルヒの憂鬱』における少女の創造力

〜虚無性を超える乙女心〜



はじめに 〜視点と経緯〜

 本考察は谷川流著『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫、2003年)のネタバレ満載なので、未読者はご注意下さい。『消失』考察は前篇後篇へどうぞ。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』は刊行当時に賛否両論を招きました。ライトノベルとしてのよしあし、あるいは登場人物の造形や物語構成の是非、そして排他的二項対立的世界観からの否定的解釈とそれへの批判。とくに最後の問題については、kagami氏『好き好きおにいちゃん!』「書評『涼宮ハルヒ』『地球平面委員会』」が契機となって大きな反響を呼びました。そこで指摘されている最も重要な批判点は、本作品の「虚無性」についてです。もしも作品世界の唯一のルールが「結局は全てハルヒの意のままに」というものでしかないのであれば、この作品はまさに虚無性そのものを描いたものと批判されてしかるべきでしょう。ハルヒという全能者の前では、キョン達の行為もその存在も確かに無意味となるからです。
 この批判とそれをめぐるネット上での議論(当時の反応については夏葉薫氏『四季折々のかおるさん』7月7日以降を参照)を側聞して、ぼくは本作品を知り、実際に自分で読んでみようと思い立ちました。その結果ぼくは、本作品に虚無性を見出す批判とは逆に、むしろそのような虚無性を乗り越える内容なのではないか、という感想を抱きました。そして、その旨を簡単に示したぼくの日記に、kagami氏から反論を寄せていただき、さらに夏葉薫氏のご支援にもあずかって、ぼくは本作品についてさらに詳細に検討する機会を得たのです。両氏にはあらためて感謝申し上げます。
 それから3年の月日が経ち、ハルヒはシリーズ作品として広く受け入れられ、さらにはアニメ作品までもが製作・放映されています。本来ならばこの機会に、その後のシリーズ展開を踏まえて考察をまとめ直したいところですが、その余裕がありません。さしあたりここでは、ぼくが日記に連載した『涼宮ハルヒの憂鬱』考察文を微修正のみにてここに一括転載し、関心のある方々がぼくの日記をいちいち辿らずにすむようにしておきたいと思います。なお、末尾には、後のシリーズ展開をふまえた若干の補足と、参照リンク集を付しました。


1.最初の感想(2003年7月12日〜)

(1)あんよの読後感(2003年7月12日

 既に相当の事前情報や評価を頭に入れてしまってから読んでいるわけですが、それでも、素直に面白かったです。

 まず、「萌え」については、人物造形や微細な表現があちこちでくすぐりを与えてくれて、個人的には申し分なしでした。あと、「また図書館に」(p.278)で泣けました。あんな、一方が分厚い本を読むだけで、もう一方が居眠りをこいてるような時間でも、長門さんにとっては、任務から半分離れてのかけがえのないひとときだったわけです。そして、これは「虚無性」の問題と関わるけど、そんな彼女の言葉の重みを、主人公はちゃんと共感的に受け止めた(最終的にはp.295の「図書館の話はしないことにした。」という文で示される)うえで、ヒロインも手放しません。

 次に、作品の構成について。要するにこれは、えろげ・ぎゃるげにおけるメインヒロインとサブヒロインとを、各人の分岐・エンディングに向かうことなく一斉に並べて全員のエピソードをつなげてみました、という(全然要約してない)。ほらあれだ、『Kanon』のアニメ版みたいな感じで。で、それぞれの個別エピソードの中で、最大限の「キャラ萌え」を発揮させようとしており、それはおおよそ成功しているのでしょう。

 さて、問題の「虚無性」について。
 ぼくは、この作品に、そのようなものを発見できませんでした。
 読み始めた瞬間、これは恋愛もの、しかも初恋もの、乙女の純情ものでしかないと直観。乙女は世界を創造できるんですよ。そしてそれに気づかない。そしてそんな乙女のそばにいる少年には、そのことは本当には分からない。
 少年キョンは、世界に不思議などないという世間なみの認識にたって、どこまでも傍観者であろうとする。でも、出会ってしまうという不思議は否定できず、そこで傍観者でいることもできなくて、関わりを持たざるを得ない。ずりずり引っ張られている間に、彼はそんな状況を受け入れるのみならず、そんな状況の発信源にもなってしまっている。それはそういうもんです。
 で、少女ハルヒは、世界の中で唯一であることに絶望しかけながら、それでもその可能性を求めて戦う。戦いながら、というか戦うために、少年を巻き込んでいく。それはそもそも、ハルヒがキョンを求めていたということです。だって、まずもって不思議なのはこのキョンという存在が自分に対してもつ関係なのだから。「宇宙人、未来人、超能力者」でもなく、昔や前世にどこかで会ったこともなく、なのに興味のわかない「ただの人間」でもなかったら、それは期待した以上の不思議、意識さえされない不思議です。そして、最初の(つまり絶対唯一の)足場をキョンによって得られたならば、その次はもうやりたい放題できるわけで、仲間・部室がここに発生するわけですね。意識されざる不思議を獲得して、意識されうる不思議である「宇宙人、未来人、超能力者」が無意識的に集結していく。その空虚な中心にはいつだって少年がいる。
 で、キョンが別の少女と仲良くしているのを見て嫉妬するなんてのは、はっきりいって「虚無性」の反対側にいるのではないですか。そういう割り切れなさや屈託は、よく見ればどの登場人物にも確認できて、さめているようで全然さめてない。自分の存在規定が分かっちゃっているのだけど、そこに各人なりのためらいがある。まあ一番分かってないのがハルヒとキョンなのですが、ハルヒはこの状況を創造した張本人で、しかも自分で状況を作り出しときながら、その予想外の展開にいらだってしまう。キョンはこの状況に唯一普通の人間として参加(傍観ではなく)していて、しかもハルヒの片想いの相手であり、キョンはハルヒのことをどう思っているかといえば、p.286の「あるはずがない。」に全てが込められています。好きなんじゃん。だいたいそれ以前にだって、ハルヒの暴走を叱りつけたりしてるし、ハルヒも膨れっ面しながら聞いてるし。そら、周りの3人にも分かるわ。
 確かに、世界をいったん破壊して再創造しようとするハルヒは、現世否定という意味では虚無的かもしれない。あるいは、キョンとの関係と世界以外に視点がないということでは、いわゆる「セカイ系」なのかもしれない。「セカイ系」とはオナニーだ、というのは『しろはた』での指摘ですが、ハルヒがキョンを己の望むままの存在として新世界にとどめたのなら、この作品は間違いなく『最終兵器彼女』のような「セカイ系」になったでしょう。でも、キョンが自分でもどうにも止められなかったキスを不意にくらって、ハルヒ自身もどうしていいのか分からなくなってしまったとき、そのどうしょうもなさとかキョンに対する分からなさとか「分からないつもりでいるけど分かってしまった」こととか、そういう一切合財がオーバーフローしてこの世界に戻ってしまったというのは、じつに乙女の純情だし、キョンがハルヒも具体的世界も手放さない点で非「セカイ系」だし、お互い相手を選ぶべくして(選ぶ理由は分かっていたり分かりたくなかったりするけど)選んだという決意をもって非「虚無性」だと思うわけです。
 『地球平面委員会』という作品は未読なのですが、これがkagami氏が述べるように、絶対者「との戦いを決意し、自らの意志と誇りを守った。世界の人々の意志と誇りを認め、世界とともに生きることを望んだ。」という内容なのだとすれば、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、絶対者も世界もいっしょくたに認めようと(結果的に)戦ってしまった少年の物語なのではないのでしょうか。その場合の戦いの相手は、どう考えたってハルヒではなく、いうなれば二者択一の論理そのものです。
 なお、『地球平面委員会』については、例えば新井素子『いつか猫になる日まで』や、湖川友謙『Greed』を思い出します。前者では絶対者への抵抗を試みる有限存在の心意気が描かれ、後者では、絶対者を打ち破った英雄達がその絶対者になってしまうというどうしょうもない論理が描写されていました。だいたい、光瀬・萩尾『百億の昼と千億の夜』あたりをくぐってきた以上、大抵の「虚無性」には驚かないつもりです。あるいは、登場人物がたんにニヒリスティックでかつ超越的な能力者ということであれば、それは虚無的というよりは、絶対権能感にまで至った自我の肥大というだけのことか、何らかの神話的性格の表出によるものか、でしょう。

 以上とりとめなく書き綴ったことは、つまりは、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、虚無性の肯定ではなく、むしろ、虚無性というものがあり得ることを認めたうえで、いかにしてそうでないことが可能かを、心のもつれの中に含みこませて描いたものである、ということです。
 では、もしこの解釈が一定の正当性をもつとして。なぜkagami氏は、この作品をニヒリズムとして断罪したのでしょうか。そこには、キスによって生じてしまった、ハルヒにとってのキョンの新たな分からなさについての認識が欠落しているように思います。また、「世界のシステム」にどうしてもぴったりはまらないものとして表現されている二人の心の機微を、あえて見まいとしているかのように思えます。より正確にいえば、それらを「絶対者」vs「共存の世界」という二項対立図式に押し込めるために、割り切れない部分を「快楽」などの名によって単純化しています。
 つまり、作品を図式的に単純化し批判するそのような視点こそ、神とその対立者という二項対立を絶対化し、「共存の世界」そのものを唯一神の代わりに据えてしまうものなのではないでしょうか。それこそは、虚無性に一見立ち向かっているようでありながら、じつは虚無性を生み出す根源にある「他者を否定する唯一者」というものを、再生産してしまうのではないでしょうか。

 だからぼくは、この作品の続編において、キョンがハルヒの手をしっかり離さないことよりも、しっかり握ったりつい離してしまったり逆にぎゅっと握られたりしっぺ返しをくらったり、しかもお互い自分の心がよく分かってなかったり分かりたくなかったり、そういう展開を望みます。その何だかはっきりしないモヤモヤした過程の中でこそ、ニヒリズムを笑い飛ばす生の息吹が立ち現れてくるのではないのかな、とこれまたぼんやり思うからです。こんなこと言ったら、キョンは「お前は気楽でいいよなぁ」と溜息をつくかもしれませんけど、こちとら傍観者でいる寂しさを味わってばかりなのですから、まあ勝手な期待ぐらいはしてもいいじゃないですか。

(2)kagami氏の反論(2003年7月14日

 1.に示したぼくの要約的意見(以後の考察内容は、ほとんどこの基本線に沿った敷衍です)に対して、kagami氏から直接反論を転載・公開の許可とともにいただきました。しかしながら、kagami氏はその後ぼくに対して(別件が直接の原因で)絶縁状を送られてますので、当該反論をそのままここに転載することは差し控えたいと思います。全文は当該日記箇所をご参照下さい。重要な箇所のみ引用しつつ要約しますと、次のようになるでしょうか。

 「彼女にはなんらかのあるべき行動規範が感じられ」ず、「ただ、自己の優越性を得る為の刺激を求めて無茶苦茶をやっているだけ」であり、これが「彼女の空虚さ」であると考えられる。そのような「空虚さ」を身につけるに至ったのは、「ハルヒが『神』であり、『人生リセット能力』を持っているから」である。この能力を持つがゆえに、ハルヒは「苦痛を忘れてしまう」ために「『己の苦痛』を学習することができない」。そして、「苦痛、己が拒否されるというのは、『他者の存在』より齎され」るものである以上、ハルヒはそのような苦痛の経験を通じて他者との相互関係の中に自らを位置づけていくことができないままにあり、それゆえに「決して満たされないひどく孤独で虚無的な行動者になってしまった」のだ。

 行動規範の欠落、そして他者認識の欠落。これらは確かに、人間が人間らしく生きることを妨げるきわめて重大な問題と言えるでしょうし、そのような人間が「虚無的」と形容されてもおかしくありません。ここで提起された問題について、ぼくは作品の描写を手がかりに再検討を行いながら再反論を試みることになります。以下の章はその連載考察の転載です。


2.ハルヒに「なんらかのあるべき行動規範が感じられない」ことについて(2003年7月14日

(1)行動規範の有無について

 「補記」でkagamiさんがニヒリズムの人物例として挙げられている『バトル・ロワイヤル』の桐山和雄は、確かに、殺人ゲームへの参加をランダムに決定するほどに、選択の理由を感情的にも道徳的にも功利的にも持たない存在でした。あるいはそこには生存の理由すらないのかもしれません。これを「虚無性」と呼ぶこと、そのような人間が自分も他者もモノとして扱うのを想像し恐怖すること、これらの点ではkagamiさんに同意します。
 しかし、ハルヒには行動規範があります。「そっちのほうが面白いじゃないの!」(p.35)これは、快楽原則によって行動していることを示します。ハルヒはただランダムに選んでいるわけではありません。この点で、彼女の意識(無意識もそうだと思いますが)は上述の意味での「虚無性」とは無縁です。たとえ「自己の優越性を得る為の刺激を求めて無茶苦茶をやっているだけ」(ぼくはそれだけではないと思いますが)だとしても、そこでの「空虚さ」は刹那的な快楽を求めこそすれ、選択における「虚無性」とは全く別ものです。つまり、ここに「虚無性」の中身の混乱があると考えます。

(2)「あるべき」行動規範という文言について

 上述の通りハルヒは「虚無的」ではないにせよ、「空虚」なり刹那的なりとは言えるかもしれません。しかし、「あるべき」行動規範や「反社会的な行動」というkagamiさんの言葉からは、その「空虚さ」の否定にとどまらない、何らかの望ましい方向性が既に予定されているかのように感じられます。その枠組みにしたがった行動でないために、ハルヒの行動を「反社会的」と批判することになるのではないか、と。ぼくのこの物言いが、たんなる価値相対主義なり思考停止なりに陥らないために、ここで「コンピュータ研究部に対して、ハルヒが行なった濡れ衣着せ&泥棒」についての「行動者の行為に対する納得いく意味付け」を試みてみます。
 それは単純明快、「パソコンが欲しかったから」。最も明確な意味づけです。「悪い行為」ですが、因果関係として「納得」はできます。kagamiさんの事例では、このような利己的な意味づけが一つも入ってません。これをぼくは問題視します。なぜかといえば、この物語の前半時点でハルヒがこんなしょうもない行動をする小娘であり、キョンがその一部始終を見ていたという場面が描かれたからこそ、「これではコンピュータ研の連中が泣く」(p.101)というキョンなりの(しかし見当違いの)反省や、さすがにハルヒの暴走を止めようとするキョンに「ふてくされたように」(p.137)従うハルヒの行動が、キョンとの関係を通じてのハルヒの行動変化として意味を与えられるからです。物語冒頭ではただの我侭な暴れん坊、でも人間関係の結ばれとともに次第に共感的存在に変わっていく、というのは物語の一つの常道です。(ちなみに、ハルヒが自分の胸を道具に使わなかったという点に、既にキョンに対する意識が見て取れます。)あと、このPCは最後の場面で重要な役割を果たしますが、これは作品展開上の問題なので話は別。ともかくも、「反社会的な行動」をとるハルヒは、キョンとのかかわり合いを通じて、最終的にはこの世界の存続を求めるという「あるべき」行動へと転じています。

 では、そのようなハルヒの身勝手さだけのために、あのコンピュータ部員は悲惨な目にあわねばならなかったのでしょうか。その通りだ、と言ってしまってもいいのですが(ルパンに宝を盗まれてクビになる守衛や警備員も陰に存在するはずです)、続編などでもし彼らが登場したならば、もう少しマシな扱いを期待できるでしょう。あるいは、奪われたPCに「ただでは済まぬ」とばかり何らかの細工を施しておくことで、このPCの中身を覗き見できるようにしており、その結果見事に朝比奈さんのお写真をげとーできたかもしれません。
(それ以前に、彼らには身を守るすべが全くなかったわけではないのです。朝比奈さんを部員全員で辱めたと吹聴する、と言われたときに、「やれるもんならやってみろ」と啖呵を切り返すこともできたのです。なぜなら、もしそんなデマを広めたならば、朝比奈さんこそ学校に来れなくなってしまうわけですから、それを避けるためにキョンあたりが敗北宣言するしかなかったはずなのです。その意味で部員は今回、いい社会勉強ができたのかもしれません。)


3.ハルヒの「人生リセット」の能力と「苦痛の学習」について・前編 育成歴(2003年7月15日〜)

 最後の場面を読めば、確かにハルヒには「人生リセットの能力」があるように思えます。それは世界を破壊し再創造する力です。ただしそれは、ハルヒの無意識によるものです。その力が行使されて世界が書き変わっていたとしても、ハルヒはそのことを自覚できません。そして、このときハルヒには「苦痛の学習」が不可能になっている、ということも認めます。
 ここまで意見を共有したうえで、しかしぼくは、ハルヒのこれまでの成長過程においては、「苦痛の学習」がそれなりになされていた、と判断します。

(1)乳幼児期−小学生期(2003年7月15日

 もちろん、ハルヒにも幼女時代がありました。幼女の輝きをご存知のkagamiさんならばお認め下さると思いますが、幼いハルヒが意識しようとしまいと、その望むところのものは、彼女を愛する周囲の大人ができるだけ与えてやろうとしたことでしょう。ただしこれはkagamiさんの指摘の通り、わがままを全部受容することではなく、叱ること、拒絶することも彼女のためになされます。もしここで、kagamiさんが恐れるように、ハルヒの欲求不満が爆発して全部リセットされたとしたら。でも、そのような事実は過去にほとんどなかったというのがぼくの予測です。そのようなリセットを習慣的に繰り返してきたのであれば、自分の欲求を満たさない状況に耐えることなど全く不可能になるでしょう。しかし彼女は、小学6年生のときに「野球なんか興味なかったけど」「家族みんなで」球場まで野球を見に行っています。ここには自分の趣味よりも家族の団欒を大切にする態度が暗示されているのであり、安易にすぎるリセット行為を否定しています。そして現在の年齢でも、彼女は苛立ちを受け入れていますし、少なくとも作品世界はハルヒにとって快楽のインフレに陥ってはいません。

 何だその程度のことで、と反論されるかもしれませんし、ぼくも先ほど「ほとんどなかった」と記しているように、遥かに重大な状況では、あるいはリセットされた可能性もあります。それは例えば、肉親の死などです。それにしても、肉親の死に「苦痛を感じる」とすれば、それは肉親への愛情をもっているからであり、そのような愛情は、肉親から与えられたはずのものです。その肉親の愛情までも、赤ん坊のハルヒがリセットして作り出したとまではぼくは考えませんし、そこまでしなければ愛情を注げない親だったのであれば、むしろリセットされてよかったと個人的には思います。
 ところで、ここで肉親の死という問題を掲げたのは、それが普通ならば不可逆で一回性のものだからです。kagamiさんご提示の「望むことが叶っていない」状態と「望むことが否定される・苦痛を感じる」状態という区別を用いると、肉親の死は、もはや「いつかは叶う(蘇生する)」という見込みのない事態です。つまり、「今は無理でもいつかは」というように、先送りすることができない事態なのであり、だから可能性の全否定という意味で絶望するしかありません。しかしハルヒは、この絶望という全否定以外の状況であれば、例えば「今日は興味のない野球観戦につきあってあげるけど、今度の連休は遊園地に行くんだからね」という、一般家庭にもみられるようなお互いの欲求の調停や相互支援を行えていたはずです。幼児期までに他者の存在を理解したうえで次に学ぶことになるのは、コミュニケーションによるそのような調整方法や、先送りなどによる上手な我慢の仕方であり、これはハルヒもそれなりに獲得していた、ということです。
 それにしても、肉親の死をリセットしてしまっては、死という問題についての理解はいつまでもなしえないのではないでしょうか。たとえそれによって幼女ハルヒの涙をぬぐうことができたとしても、あるいはその蘇生した人を「ハルヒのため」と言ってもう一度殺すわけにもいかないとしても、この喪失体験の欠落という可能性は問題として残り続けてはいます。

 しかしともかくも、この年齢期のハルヒは、意識と無意識の明確な区別を持ち合わせていません。言い方が曖昧で申し訳ないのですが、要するに、子供らしい全能感と、彼女自身の真に全能な力との両面で、親などによる愛情ゆえの制限を受け入れつつ、自分の身の回りにいる人々、友人、学校などの素晴らしさ、かけがえのなさを、子供らしい素朴さで信じることができていたと考えます。
 もちろん、このときの「人生が楽しい、学校には一番面白い奴らが〜」というくだりまでも、ハルヒがそう感じられるように学校や友達をその都度仕立て直したのだ、と解釈することもできそうです。しかし長門さんの言葉にしたがえば、「情報爆発」は今から3年前のあの瞬間より以前には発生しておらず(p.121-2)、その完全な消滅も観測されていないのです(p.277)。とくに後者については蓋然性の問題ですし、そもそも完全に消滅していたら観測者とは別の時空に今や存在しているわけですから、そんな記録も残りようがありません。ですが、もしハルヒが情報統合思念体までも含めた一切合財を再創造しているのだとすれば、その理由は何なのかぼくには分かりませんし、ぼくに説明する義務もありません。また、「爆発」ほどでないごく小さな改変、例えばケンカした友達の機嫌が急になおったりといったことも時にはあったかもしれませんが、わざわざそんなことしなくても、ぼくだったらハルヒみたいな可愛い子とすぐ仲直りしたくなります

 ええと。

 主観ついでにもう一言申し添えれば、ハルヒはこんな万能な力を自分から求めて身につけたわけではなくて、おそらく生まれつきそんなことになっていたわけです。しかも自覚なく。ですから、ぼくなどは、そんなハルヒに何かしてあげられたらな、と思うのであり、この文章もそんな気持ちの表れだったりします(非人間的とされたハルヒを人間化するための再解釈です)。ハルヒが結局は虚無性を内包しているとしても、です。kagamiさんは、彼女に何をなしうるのでしょうか。慈悲をもって存在をすみやかに消し去ってやるのでしょうか。

  (最後のこの問いかけを含むここまでの考察に対して、2003年7月16日掲載の通り、kagami氏から再び反論をいただきました。
   以下に続くぼくの考察は、その反論をも視野に入れてます。)

(2)小学6年生の転換点(2003年7月17日

 さて、無邪気な(「面白さ」の満足度において意識と無意識の差がない)幼少期は、小学6年生のある瞬間に終わりを迎えます(p.225-6)。家族全員で野球観戦に球場を訪れたとき、そこに見出した観客の群れ。それは彼女に圧倒的な量的印象を与え、さらに質的なものへの感覚もこれに引きずられていきます。「世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事」も、「日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない」。ここでは、自分の日常への懐疑的な意識が初めて芽生えています。
 そしてこれとともに示されているのは、統計的思考です。ハルヒは、「たとえ普通の出来事だとしても、自分にとって楽しければそれで充分」だとは思わない。その出来事と自分との関係性を問わない。あくまでも、世間一般からみて相対的にどのような水準にあるかのみを問題視しています。つまり、ここでハルヒは自分を相対化する視点を獲得したものの、そのさいの手がかりが群集という匿名の存在だったため、自分自身にとっての固有の価値という感覚を見失わせたのだと考えられます。
 また、このことは、ハルヒの生い立ちにも原因の一端を有しています。彼女がこの小6までの時期に世界の再創造を行った可能性について、既にぼくは「肉親の死」という契機事例を掲げました。それは、彼女が不可逆な事態による絶望に耐えられないからだとしましたが、まさにこれは、「だから生きている者は尊くかけがえのない存在である」という、そのかけがえなさ、固有の価値というものについて、喪失を通して学ぶ機会がおそらくほとんどなかったということです。だから群集的平準化に対向して自分との関係の中で固有の価値を見出すことができなかったのであり、「自分がどこか特別な人間」であるという漠然たる思いも、自分自身のかけがえなさを理解できないために、群衆の前に消失するほかありませんでした。「一人一人違う人間がこんなにいっぱい!」という喜ばしい驚きに結びつかなかったのは、そのためです。

 以上の叙述は、kagamiさんの主張する「虚無性」、すなわち自分の価値も他者の価値も認められず、ただ「選択のための選択」を行うのみという性質と同一のものにも見えます。ですが、ぼくが注意したいのは、ハルヒはそれでも「普通じゃなく面白い人生」というほとんど固有性に近い特殊性を求めることで、「虚無性」からの脱却を図ろうとしたということです。ここには彼女の意志が間違いなく存在しています。そして、この彼女の意識は、自分が特別な存在ではないという状態への疑問から発して、やがて、ならば「自分を変えてやろう」という積極的な姿勢さえも導き出します。

 ところが、この姿勢には根本的な問題が潜んでいました。
 その一つは、既に各所で指摘されている、日常と非日常についてです。ハルヒは神のごとき能力を有していて、自らはそれに気づいていないまでも、無意識的にその力を行使します。この転換点にあっては、彼女が意識的に「自分を変えてやろう」と思った瞬間、つまり1999年(2000年かも)の春に、無意識的に「情報爆発」を発生させました。あの世紀末の年には、世界最終戦争の代わりに、こっそりこんな事態が起きていたわけです。それは古泉に超能力とその理解を唐突に付与し、長門さんと朝比奈さんを地球に招き寄せました。これらも含めておそらく膨大な変化が生じたのでしょうが、これは確かに人生を「普通じゃなく面白い」ものにすることへの手がかりになるはずでした。しかし、日常がそこまで非日常的な存在によって埋め尽くされた結果、それが今度は日常的になってしまったならば、それはもはや非日常の面白さを提供しえない。いくら世界を改変しても、すぐさま目新しさは薄れていくしかない。こうなると、より極端な面白さを求め続けて際限ない創造運動を繰り返すか、その無意味さに絶望してしまうかのどちらかに陥ることになります。それをハルヒが避けえたのは、無意識の狡知によるものかもしれませんが、意外に「まともな思考形態を持つ一般的な人種」(p.235)としてのハルヒの意識の抑制によるものとも考えられます。それにしても、ハルヒの無意識による非日常の創造がその非日常性の否定を生むというこのどうしょうもない袋小路は、出口のないままに残され続けます。

 そして、第二の問題。ハルヒの意識は「自分を変えてやろう」と思ったのに、大きく変わったのはむしろ世界の方でした。それは無意識によるものでしたが、ここでハルヒはなぜ彼女自身を変えられなかったのでしょうか。つまり、ハルヒが自分自身をかけがえないものとして認めなおし、その自分との関係のうえで世界の面白さを再獲得することはできなかったのでしょうか。あるいは、群集の記憶を自ら喪失して幼少期の無邪気さのうちに立ち返ることはできなかったのでしょうか。しかしハルヒは、前者のように行うには、自分の固有性を信じきれませんでした。そして後者のように行うには、いまの自分を捨て去れるほどの虚無性を持ち合わせていませんでした。
 自分を認めることも捨て去ることもできないまま、「自分を変えよう」と意識的に決意したハルヒは、では何を変えられたのか。「待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。」つまりは、待ちの姿勢を攻めに変えたにすぎないのです。自分そのものはさほど変えずに、世界の中に面白さを探り出そうとしているのです。隠された宝物を見つけ出そうとする彼女の意識の向こう側で、その宝物を埋めてまわる彼女の無意識。その虚しさは先に述べた通りですが、ここになお一つ、ハルヒの意識の限界を指摘しなければなりません。それは、彼女がその宝物を探すための手がかり、いわば地図についてです。中学時代での校庭巨大落書きなどの突飛な行動にせよ、高校での「基本的にね、何かおかしな事件が起こるような物語にはこういう萌えでロリっぽいキャラが一人はいるものなのよ!」(p.61)などの台詞にせよ、そこには、謎めいた面白さについての先行するテキストの存在を予感させます。おそらくハルヒはそういった物事に関する様々な文献を読み漁ったのでしょう。そうすれば尋常でない面白い何かが見つけ出せると思って。でも、それは彼女にその面白い対象についての定型的な思考を与えることにもなり、既存の物語のフォーマットを辿らせることにもなりました。「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者」。そうハルヒが並べたてるとき、彼女はもはや、市販品の「宝の地図」で宝探しに出かけているのです。そのことに気づかないハルヒの意識は、実は彼女自身が相当に固有の面白さを発揮してることにも同様に気づきません。外へ、外へと向かいつつ、その外側を侵食していく既存性のまなざしは、決して内側に向くことはないままで。

 その自分のまなざしとは別の視線を意識したとき、ハルヒは次の転機を迎えます。そしてそれは、なぜか裏表紙の紹介文では省略されている「異世界人」との出会いでした。


4.ハルヒの「人生リセット」の能力と「苦痛の学習」について・中編 SOS団結成(2003年7月19日〜)

(1)高校入学とSOS団結成(2003年7月19日

 さて、高校入学時点でのハルヒは、中学校での欲求不満を引きずりながら、高校に入れば何かが変わるはずという先送りの希望で自分をごまかしていました。最初の自己紹介でその態度を明示しているわけですが、その内容は、普通でなく面白い他者が出現することを望むという受動的なものでした。もちろんその他にも、彼女なりの努力のさまは描かれています。普通の事柄にさえ新しい面白さを見出そうと、様々な部活に参加するのは、常識的な範疇で納得してみてもいいという意外な一面を覗かせています。しかしやはりそれでは収まらず、ハルヒは積極的な「待ち」の姿勢をも示します。占星術的法則にしたがって髪型を曜日ごとに変え、これに引っかかってくる存在を待ち受けます。いわばアクティブソナーです。
 そして連休明けの水曜日、見事に釣果が得られました。今までハルヒに近寄ってきたのは、彼女の非常識的側面を無視して表面的な美麗さを求める「くだらない男」(p.35)ばかりでしたが、キョンは、普通の男子のように髪型が可愛いかどうかではなく、その髪型の法則性そのものについて関心を示し、しかも自分と異なる意見までも語ったのです。それはハルヒによって意外なことであり、彼を特殊な存在として認識し始めます。しかし、どうみてもキョンが「宇宙人、もしくはそれに準じる何か」(p.35)ではあり難いという印象から、ハルヒは残る可能性について問いただします。「あたし、あんたとどこかで会ったことがある? ずっと前に」(p.29)それは直接的には、過去、というより前世での縁を確認するものですが、間接的には、キョンへの関心を言葉にしてみたまでのことです(注:後のシリーズ展開で、これが本当に過去の縁にまつわるものだと判明しました)。だから、髪も切ったし、会話も可能になり、感情も吐露できるようになっていきます。この時点で既にキョンはハルヒにとってモノ(「路傍の石」)ではなくなっています。とはいえ、彼女が求める「普通でない面白さ」の対象でもありません。その対象について関心をもってくれるような存在なのであり、自分と同じように関心をもってほしい、つまり共感的であってほしい、と思うような存在になったのです。この意味でキョンは、ハルヒにとって「かけがえのない」人間になっています。いわば、普通のつまらない世界の中にはいない「異世界人」です。しかし、それは主に関心の共有という外在的な理由に基づくものであり、背後に好意を隠しながらもそれ以上の深まりのないまま、次の状況を導いていきます。

 ハルヒの苛立ちは日々募り、やがて生徒の失踪や教師の殺害などの事件まで期待します(p.41)。しかし、この事件はいずれも発生しません。ハルヒはここでも常識によって無意識を抑制しており、一応は他者の生命を尊重しています(たんにこの手の事件が本当は嫌いなだけかもしれませんが)。そして面白い部活についてのキョンの「ないもんはしょうがないだろ」という拒絶や、発明や発見つまり人類が求め作り出してきたことについての弁論に反発しつつも、そこに重大なヒントを見出します。「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」(p.44)それはやがて「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」として、また「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」(p.105)を目的として活動開始するはずですが、この時点ではともかく、キョンと一緒に面白いことを探すための場を「とりあえずまず作る」(p.48)ことが先決でした。
 その方法は無茶苦茶で強引なものでしたが、そこには先述したような、既存のテキストに従った行動原則が存在します。萌えキャラにコスプレ、謎の転校生、ウェブサイト、宣伝活動。あいにく眼鏡っ子については知識がなかったようですが。「もう勝ったも同然ね」(p.129)などという鳥坂先輩的発言にしても、物語のお約束という普通の文脈に依存しています。そして、「充分謎の資格があると思うでしょ、あんたも」(p.68)などと、キョンには自分と同じ感覚の共有を求めます。ところでこのキョンですが、彼は一体なぜハルヒに協力しているのでしょう。

 本作品の感想を各所で確認すると、キョンは一般にヘタレとして受け止められています。傍観者、中途半端な現実主義者、えろげ的主人公。どれもおそらく部分的に当たっているのでしょうが、ぼくが注意したいのは、キョンが現実に迎合するに至ったその過程です。キョンは少年時代の幻想から覚めていく「成長」の過程において、「地元の心霊スポットに行っ」たり、机の上の鉛筆を「二時間も必死こいて凝視」したり、「前の席の同級生の頭を授業中いっぱい睨んで」思考を読もうとしたりといったことを、彼自身が実際に試みてみたうえで、「世界の物理法則がよく出来ていることに感心しつつ自嘲しつつ」しているようです(p.7)。この、実際に試みてみるという行動性は、たとえ子供の頃のことだとしても、ハルヒに近似したものですし、やってもみずに無理だと決め付けるような普通さとは一線を画しています。
 だからキョンは、ハルヒの中学時代の逸話を聞いて、それを一笑に付すことができません。むしろ、そのときの彼女の姿を思い浮かべし、「どこか思い詰めた悲壮感」や「落胆」を想像するほどにまで共感的です(p.19)。その心のうちを内在的に理解できるからこそ、キョンはハルヒの髪型にあのように関わることができました。彼は面白さの志向を共有するだけでなく、この点でハルヒの理解者でした。そのことは、ハルヒが既存の部活に文句を言うのに対しても、「面白いこと」が何なのか「こいつの中でも定まってない気がする」と、これまた内面から批判しています。
 ここまで読み込んでしまうような人間が、傍観者であるはずがありません。何も同好会作りに巻き込まれずとも、ハルヒへのまなざしにおいてキョンは既に関係者、当事者なのです。もちろん同好会設立にあたってはハルヒにいいように使役されますが、その間中キョンはずっと振り回されているようで、それを自分から拒みません。「死刑はいやだったからな。」(p.54)とうそぶきながら、これに協力しています。「自分のやってることに疑問を覚えつつ、つい部室へと足を向けてしまうのは何故だろうと形而上学的な考察」(p.82)も抱きはしますが、それが彼自身のハルヒへの感情に由来すること、またこの試みを放っても置けずちょっとは面白そうにも思っていることなどは考えようとはしません。それは自分の常識を揺るがせる、というより自分が諦めてきたものに再び向き合わせることだったからです。全然素直でないキョンは、その行動においてはきわめて素直にハルヒに協力していきます。その協力は、「死力を決して」ハルヒの暴走を止めるということでも示されます(p.137)。
 そう、キョンはハルヒを止められるのです。不機嫌にすることが分かっていながら、いやむしろ共感的であるからこそ、あえて不機嫌にすることができるのです。そしてこのことが、長門さんたちにとっては「無視出来ないイレギュラー因子」(p.119)としてキョンの存在をきわめて重視することにつながっていきます。長門・朝比奈・古泉の各人(人でないのもいますが)は、それぞれ任務を与えられてこの世界に存在し、そしてハルヒの無意識の力でこの部室に集結してしまいます。彼らはハルヒの観察のためにここにおり、ハルヒ周辺の状況を維持するために尽力します。しかしそれは基本的には、ハルヒをそのままにしておく以上の積極的行動を排した傍観者的な態度です。彼らは、客観的状況について知ってはいますが、そこからさらに踏み込むことができません。なのにキョンは、何も知らないのに、ハルヒにどんどん踏み込んでいき、彼女の感情さえ損ないます。長門さんたちにしてみれば、このキョンの振る舞いは、どれだけ異常で危険なものであることでしょうか。
 そこで、本来は消極的な行動しかなしえない彼らが、微妙に一歩踏み出します。

 ところで、部室のPCについては強奪の経緯が描かれましたが、その他の多数の備品(一層の冷蔵庫まで)は一体どうやって集めたのでしょうか(p.69)。冷蔵庫も重たいのでおそらく同様に学内で奪ったのかもしれませんし、他の多くの物品もそうなのでしょう。それでも、必要とあらば自腹を切って「ネット通販」(p.89)までしたり、自分も率先してコスプレしたりという行動力は、面白さを求めるためとはいえ、非常に爽快です。絶対に傍観者ではないという意志の発露。これが最後の場面では、世界改変の傍観者に転じてしまうわけですが。

(2)危機の徴候(2003年7月20日

 最終局面に至る過程でのキョンの姿を見てみましょう。

 キョンは、長門さんたちから立て続けに、各人とハルヒの正体について情報を与えられます(そのさいの3人の意図については後述します)。当初キョンはその内容を、そして自分がハルヒにとって、つまりこの世界にとっての「鍵」であり「選ばれた人」であり「一番の謎」であることを、一笑に付していました。その一方で、同好会活動そのものや教室でのハルヒとの会話という日常的愉悦に馴染んでもいき、例えば反省会に来なかった理由をハルヒに尋ねてさえいます(p.174)。いえ、日常的というよりは、平凡な日常に刺激を添えてくれる場所が同好会だったといえましょうか。
 しかし、その直後に朝倉によって殺害されかけ、長門の超常的能力によって危うく救われるに至り、キョンはもはやこの笑い飛ばしていた「現実」を受け入れざるをえなくなります。「巻き込まれ型の傍観者」でいたいという願いも虚しく、彼は必死に抵抗しようとしながらも「これは……いったいどうしたものだろう?俺は何を思えばいいんだ?」と途方にくれます(p.199-200)。これまで意識的にはハルヒに対する「巻き込まれ型の傍観者」のつもりだったキョンは、実際にはハルヒの無自覚な協力者、サポート役でした。しかし、ここで自分が当事者であるということに直面したとき、自分のこれまでの行動をも一緒に意識化することはなく、ただ事態の展開に当惑するばかり。だからハルヒが長倉事件の捜査に乗り出したときも、全く受動的なまま、引きずられていくことになります。積極的に協力もせず、「死力を決して」制止するわけでもなく、どこまでも「巻き込まれ型の傍観者」として。しかし、調査の帰り道でハルヒが心のうちを告白したとき、キョンは「そうか」とだけ応えます。彼自身が自らを憂鬱に思わざるをえないこの一言は、ですが、ツッコむことも哲学的引用でのごまかしもせず、かといって何かを返すには自分の思考が全然まとまらず、ただハルヒの言葉をそのままに受け止めるしかないという、彼のぎりぎりの誠実さ(あるいは鈍さ)をも示しています。

 とはいえ、古泉によって凄まじい状況を見せつけられ、しかも「すべてのゲタを預けてしまってもいい」とまで言われたことで、キョンの精神はとうとう飽和します。なぜ自分なのか。自分は何をしようとするのか。平凡な人間にすぎないという自己認識を固持し、ハルヒと自分との関係の意味をあえて意識にのぼらせまいとして、キョンはとうとう思考停止します。「なぜ俺が悩まなくてはならんのだ。」自分が困惑を引き受ける理由は何もないと「俺がそう決めた。」(p.251)問題解決をハルヒと3人の直接交渉に委ねて、キョンはなおも自分を傍観者の立場に置こうとあがきます。それは、明らかに欺瞞です。恐るべき現実をカッコにくくり、同好会のひとときを「平凡な日常」と思い込むという偽り。ここで読者は、キョンのヘタレっぷりに愛想をつかしたかもしれません。ぼくはむしろ、自分なら恐怖に駆られて錯乱するか、せめて学校を休むかもしれないと思いましたけど。
 ですが、キョンはここでも懲りずに登校し、暑がるハルヒの機嫌をとろうともせず逆に苛立たせ、部室では怒鳴らせまでします。古泉の言葉を信じれば、それがただちに世界の終わりをもたらすかもしれないというのに。ある意味で肝の据わった自己欺瞞と評価すべきでしょうか。キョンは自分にできることなどないと断定した以上、徹底して一切を「眺め」ることで「妙に満足感を与えてくれる学校生活」を楽しもうとしますが(p.264)、観照者というには不徹底です。ハルヒをからかうこと、ハルヒに怒鳴られること、その過激な行動に傍観者的(自分の意識では)につきあうこと、ハルヒを中心とする同好会に自分の居場所を見出すこと。それらは全てこの「平凡な日常」の中に吸収されます。しかし、この「平凡な日常」が延々と続く「繰り返し」として受容されるとき、これを生み出すに至った
自分とハルヒによる最初の創造的行為を、思い返すことはありません。「終わり」の意識を消し去ったとき、「はじまり」もまた忘却されました。「なぜ俺だけなのかという疑問はこの際脇に置いておく。」そしてなぜ自分がハルヒのそばにいようとするのかも、なぜハルヒが自分を巻き込んだのかも、一緒に脇に置かれてしまいます。なので、着替えようとしたハルヒが怒鳴った理由も、全く思い当たらずに終わります。傍観者であるということは、観察対象に意味のある影響を与え得ない存在だと自分を位置づけることであるからです。あれだけの目に遭ってもハルヒを拒絶しないくせに、好意はここでますます隠蔽されていきます。
 こうしてキョンは、傍観者であることを無遠慮に死守しようとします。しかしその立場は、キョンが見まいとするハルヒとの関係において初めて可能になっていたものである以上、キョンは傍観者であろうとして逆説的に当事者性を強めていきます。彼女への影響を考えずに朝比奈さんや古泉と遊ぶという、本当の傍観者から見ればあまりにハルヒの気持ちを思いやらない行動の結果、キョンはハルヒを無自覚に追いつめてしまうのです。

 そんな自分の惹き起こした問題に気づくことなく、キョンは帰宅後もいつもの生活行動を繰り返し、ただし今晩は珍しく「たまには読書もいいかな」と思って、寝る前に長門さんがしおりを挟んで無理矢理貸してくれた本を開きます。それは、長門さんを同好会の読書好き少女として平凡さの中に組み込もうとすることであり、この海外SF本の中に描かれた非日常を読者という安全な立場から楽しむという、彼の傍観者的態度に重なるものでもありました。しかし、彼の読書に対する態度の変化を再確認するとき、これはさらに新たな意味を獲得します。
 母親が与えてくれた本すべてが面白かった幼少期。なのに、いつからか本を読まなくなり、面白さも感じなくなった(p.157)。そんなキョンが、長門さんの無理矢理貸した本を読んでみようと思い立ち、そして意外にも面白さを感じる。「やっぱり本なんてものは読むまで面白さが解らないもんだ。」(p.265)ここでは、彼の読書行為そのものが、彼の非日常への姿勢と重なり合っています。つまり、非日常の夢に満ちた幼少期から、日常に埋没しゆく成長過程。そして、無理矢理に押しつけられた非日常。やがて直面させられる決断の瞬間に、キョンがその強制された行為を、やっぱりやってみたいと解らないものだ、と自らのものとして受け止められるのかどうか、その予感がここに示されているのです。

(3)ハルヒの葛藤(2003年7月23日

 先述したように、キョンは傍観者でいられなくなったことに対して最大限の欺瞞努力を払い、ハルヒからも他の3人からも等距離に自分を置こうとします。しかしそれは、もとより同好会設立にあたってキョンがハルヒのそばにいたという事実を、自ら忘却してのことでした。観察者でいるということが、既に「ハルヒから遠ざかる」という一つの行動として、周囲に影響を与えてしまったわけです。もちろんそれは、ハルヒがそのように変化として受け止めることで、影響として現れることになります。

 さて、それではここまでのハルヒの様子を確認してみましょう。
 2(2)で述べましたが、同好会設立にさいして、ハルヒは面白さを外部へと求めていきますが、その意外にも常識的な意識は、既存の情報や手段にどこまでも依拠しようとしています。一方で彼女の無意識は、面白いはずの対象である様々な存在を身の回りに呼び込んでいきますが、「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」(p.105)という彼女の願いは、現実化しているにもかかわらず、本人に自覚されません。
 この矛盾を、もう少し検討してみます。まず、ハルヒの無意識にしてみれば既に同好会の目的が達成されているのに、意識がそれを認めていない。このすれ違いは、ハルヒの無意識にしてみれば非日常を日常化しない機制の作用なのでしょうし、彼女の意識にしてみれば既存の典型的キャラがそんな非日常であるはずもないわけです。また3人から見れば、与えられた任務ゆえに傍観者であらねばならない(少なくともハルヒへの積極的干渉をしてはならない)わけであり、本人に白状したくてもできないというどうにもならなさでもあります。
 しかし、この「一緒に遊ぶこと」とは、本当に同好会の目的なのでしょうか。むしろ、「探し出して」の方にこそ、ハルヒの望む重点があるのではないでしょうか。彼女が今まで読んできた本では、そのような過程の面白さが存分に描かれており、彼女をわくわくさせてきたことでしょう。そう考えれば、この目的達成の引き伸ばしは、探し出す過程を楽しむというこのもう一つの目的に適うことになります。ただしそれは、最終目的達成への希望をつちかうものでなければならず、少しずつでも手がかりとなる情報が得られることが理想的な探索過程だったでしょう。
 実際にハルヒは、この探索のための土曜日活動を、「第1回SOS団全体ミーティング」にて独断決定します。この決定場面(p.134-6)でのハルヒの嬉しそうな表情ったら。このテンションの高さは、キョンに始まり次々と同好会メンバーを無理矢理集結させ、部室を整え情報を発信し、という準備過程を存分に楽しみ、さあいよいよ実践あるのみ、といういわば「遠足の前の夜」のような興奮そのものです。そして、このときのハルヒは、全編を通じても、同好会長としての最高の喜びに包まれていました。同好会活動の最初の眼目は、謎を探し出す市内探索。ここで何やら飛び出せば。
 なのに、半日がかりの探索の結果、ハルヒたちは何も見つけることができませんでした。なぜ何も出現しないのか。なぜハルヒの無意識は、ここで手がかりを用意しておかなかったのか

 それは、
ハルヒにとって、キョンこそが謎だからです。より正確に言えば、自分とキョンの関係が、キョンに対する自分の意識が謎なのです。そのことこそが謎であるため、それ以外の、本来探し求めるべき謎は、手がかりさえも与えられることなく、どこかへ忘れ去られるほかありませんでした。
 土曜日活動を決定したこのミーティングの最後で、ハルヒは、朝比奈さんのきわどいデジカメ写真をサイトに貼り付けようとしてキョンに「死力を決して」制止されますが、彼のこの珍しい積極的阻止行動に対して、ハルヒは、不満たらたらではありますが、「解ったわよ」と同意します。それは、ネット上に個人情報を置くことの危険性を理解したからだけでなく、キョンの言葉を聞き入れてしまうような心持ちにあったからです。既にここでは、ハルヒがキョンにどのような感情を抱いているのかが、こっそりと示されています。真剣に怒られたことに驚き、嫌われたくないと(漠然とにせよ)感じたのです。

 土曜日の探索行では、ハルヒは「晴れやかな表情」(p.139)で遅刻者罰則(おごり)を唐突に定めますが、これはデート時の男側の作法でもあります。つまり、同好会としての目的(探索活動)と、キョンと楽しい休日を過ごすという個人的目的とが、ここで早くもごっちゃになりつつあるわけです。しかし、喫茶店でグループ分けのくじ引きをした結果、ハルヒはキョンと別行動になってしまいます。なぜ一緒にならないか(無意識がそのように力を行使しないか)といえば、キョンと二人きりになることにハルヒ自身の乙女心が未だ抵抗を感じているからであり、また「恋愛なんて」と普段言っているゆえの当然の結果でもあるでしょう。ところがその結果として、キョンは朝比奈さんとペアを組むことになりました。鼻の下を伸ばすキョンを見て、ハルヒは何度もしつこく釘を刺します。そこまで嫉妬するのであれば、と思いたくもなりますが、これはまた、ハルヒの無意識が「謎」に対して年中行っている彼女の目的達成の先送りであり、そしてキョンへの感情を明確化させるための迂回路でもありました。
 昼食休憩を挟んで2回目でのくじ引きでは、ハルヒは最終的に1/2の確率に失敗し(長門さんの選択によるものですが)、ここではその不満を思い切り表情に出します(「親の仇敵」「ペリカンみたいな口」p.154)。探索行でも「ものすごい早足でどんどん歩いていく」(p.159)ばかりで、要するにいらいらしっぱなしだったわけです。おまけにキョンたちは集合時間に遅れるわで、怒り心頭なハルヒでしたが、いきおい怒鳴りつけたキョンから逆に今日の成果を聞き返されて、まんまとやりこめられてしまいます。ハルヒにしてみれば、ここでは二重の欲求不満が溜まっています。同好会の目的である「謎の探索」が不首尾に終わり、小さな手がかりさえ得られなかったこと。そして、キョンと仲良く出来なかったこと。男に興味ないと抵抗すればするほど、キョンと離れることでの嫉妬はうずき、その感情を認めまいがために行動はいよいよ苛立っていきます。それは確かにハルヒの想いを明確化するのに役立ちましたが、キョンを知る機会を先送りすることで、結局はハルヒ自身にとっても、同好会にとっても、全く納得のいかないことになってしまいました。楽しいはずの活動が、いきなり全く楽しくない。面白い対象(「異世界人」)は目の前にいるのに、手を伸ばせない。しかも当の対象は、他の女の子といちゃいちゃしている。ますます分からない分かりたくない。こうしてハルヒは自ら謎を遠くへ遠くへと追いやっていき、そしてもう一つの真の謎である彼女の矛盾した心のうちをも、真正面から意識化すまいとあがいていきます。(その前にキョンの自転車が消滅していますが、これはあるいはハルヒの欲求不満の犠牲かもしれません。)

 そのあがきは、翌週の月曜日(朝方にはキョンに扇いでもらおう=優しくしてもらおうとして失敗しています)、「反省会」を開くはずのハルヒが、放課後に皆をおいて一人で「見落としがあったんじゃないかと思って」(p.174)土曜日のコースを廻っていた、という行動に現れます。なぜわざわざ一人でもう一度まわったのか。それは、一方では、あのときの自分の苛立った早歩きの行動を反省したからでもありましょう。これで手がかりの一つも得られれば、同好会としての目的は再び楽しげに追求することができるからです。しかし同時にそこには、外部に謎があるはずだからそれを必死に探そうとする、つまり自分の心の中にそれが「青い鳥」(p.161)のごとく潜んでいることに気づかずに(あるいはあえて気づこうとせずに)外に延々追い求めるという、ハルヒの健気な自己欺瞞が示されてもいます。そして当然彼女は、同好会としての希望も、個人としての納得も、ついぞ見出せずに帰宅するしかありませんでした。
 なぜでしょう、楽しい同好会となるための準備を万端整えたのに、こんな不首尾な活動結果に終わるとは。なぜでしょう、準備はあんなに楽しかったのに。なぜでしょう、キョンがいるのが当たり前だったのに、その存在に問題を感じてしまうのは。自分で必要と思って集めたはずの人材が、キョンと一緒になって自分の心を逆撫でするのは。自分のために、イコール同好会のためにしてきたことが、なぜ全て裏返ってしまうのか。
 それでもハルヒは意地で突っぱねます。「ふんだ。男なんかどうでもいいわ。恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ。」確かに自分も「そんな気分になったりする」が、「あたしが男漁りに精出すようになったらSOS団はどうなるの。」(p.175-6)団長としての責任感によって、自らを律しようというこの態度は、果たして本物の責任感によるものなのでしょうか。彼女のこの責任感とは、恋愛感情を抑制するために搾り出されたものです。だから、ハルヒの視線は「窓の外へぼんやり」固定されており、「弱気になっている顔」はまさしく乙女心全開の可愛らしさでした。男一般なんてどうでもいいのです、問題はキョンなのです。もちろんそのことを素直に認めないハルヒは、ただひたすらに外部に面白さを求めて「事件の一つでも」と期待します。
 そしてその期待していた事件は起きました。ですが、ああ、それはハルヒの期待に本当に適うことだったのでしょうか。


5.ハルヒの「人生リセット」の能力と「苦痛の学習」について・後編 破局と収束(2003年7月27日〜)

(1)崩壊への道(2003年7月27日

 事件は、朝倉さんの(消滅を隠蔽するための)「突然の転校」というかたちで生起しました。事件の原因は、直接的には情報統合思念体の相反する意識による朝倉vs長門の対立でしたが、間接的にはハルヒの無意識が関与していた可能性もあります。ここでキョンを失う危険性が大きすぎることから、ぼくはこの見方には否定的ですけれども。何はともかく、ハルヒはすっかり元気を取り戻してこの事件に注目します。それは、一方では同好会の目的に適う初めての「謎」を探求するための手がかりであり、他方では、先日得られなかったキョンと一緒の時間をようやく獲得するチャンスでした。
 だからハルヒは、職員室で情報を入手するとすぐさま「ご飯食べないで」キョンを待ちわび、放課後の探索行に彼だけを強引に誘います(「あんたも行くのよ」「あんたそれでもSOS団の一員なの!」p.217)。団としての活動であれば、ちょっと部室に立ち寄って他の3人を(いれば)連れ出すくらいの余裕があっていいはずですが、今回はとことんキョンだけが問題なのですから、逆に「本日自主休日」と伝言させてしまい、3人を排除します。

 こうして無理矢理ながら一応は団らしい探索行に出発したハルヒ達ですが、朝倉さんが住んでいたはずのマンションを訪れて何をするかといえば、常識を積み上げていくという完全に探偵まがいの調査。それはそれでわくわくしてもいいのですが、ハルヒは途中から当初の勢いを失ってしまいます。この種の「謎」は、よくある失踪事件や夜逃げなどのそれではあっても、彼女が求めるような非常識なそれとは明らかに異なるものではないか。そう考えて興味を失ったこともあるかもしれませんし、また管理人のじいさんが言った余計な一言(p.222)や、偶然出くわした長門さんとキョンの微妙なやりとり(p.223)によって、自分の今日の行動の意味を揺さぶられたからでもありましょう。
 とはいえキョンと二人の状況でこの後どうしたらいいものか分からないハルヒは、帰路につくのではなく、また既存の情報に基づいて次なる目標地点を探すでもなく、闇雲に歩き回ります。果たしてこれは、先日の土曜日に自分が期待していたような時間なのでしょうか。ここでもまた彼女は、同好会としての行動についても、個人的な意味での行動についても、どうも目的と噛みあわずにいます。この閉塞状況を破ったのはキョンの「もう帰っていいか?」という声であり、これをきっかけにして、ハルヒは唐突に自分語りを始めます(p.224-6)。小6の頃に直面した衝撃的認識、その後見出した意志、中学校での失望、そしていま。「少しは何かが変わると思ってた」と呟くハルヒは、そう思っていたにもかかわらず、再びいま「面白さ」が見つからない失望を味わおうとしています。自分を変えてやろうと思って頑張ってきたのに、結局あの頃と何も変わっていないこの世界。
 しかし、そんなハルヒを横から眺めれば、自分を変えてやろうと思いながら自分自身を根本的には何も変えようとはしなかった彼女が、いまやこんなふうにキョンに心情を吐露するに至ってしまうほど、変化していました。自分の一番弱いところを曝け出してしまうほどにまで、彼女は同好会においてもキョンとの関係においても追いつめられています(イラストも切なげです)。ここでハルヒがキョンにどんな反応を期待していたのか、例えばそれは、キョンが第三者的な意見ではない「自分のちっぽけさ」についての自分語りを返すことで、彼女と思いを共有している、少なくとも同じ事柄をめぐって何かを感じている、ということを、伝えて欲しかったのかもしれません。それこそが、ハルヒにとっては、初めての「かけがえのないもの」になるかもしれなかったからです。その場合の展開がどうなったかはぼくには分かりません。ともかく物語は、キョンがなけなしの誠実さで「そうか」とだけ答えたことで、かえってそこにキョンの無関心を感じ取ったハルヒが、割り切れないものを抱えたまま逃げ帰ることとなりました(p.228、態度としては「ついてくんな!」となっています)。
 この苛立ちはただちに閉鎖空間の「神人」として具現し、古泉とキョンはこれを目の当たりにします。今回もこの程度で片付いたものの、これを放置すれば世界が変わってしまうという恐ろしい事象も、ハルヒ本人には意識化されることはありません。世界を思うように変えてしまいたいという欲求を、その不満部分のみ閉鎖空間で暴れさせ、その対処法も準備しておくことで、ハルヒの無意識は世界の再創造などという大事業を12歳以降(おそらく)行わずにこれました。
 これによって、ハルヒは今回の朝倉事件とその探求における不満をそこそこ解消し、同好会としてはもはやこれを問題にせず、キョンに対しては今までどおりの間柄を維持するという方針をとりました。しかし、新たな謎を追い求めるには手がかりもなく、また街に出ても前回と同じ苛立ちを得る可能性が高く、ハルヒはやむを得ず同好会設立時のドタバタに立ち戻ります。少なくともあの頃はひたすら楽しかった。これを取り戻すために、ハルヒはひとまず朝比奈さんのコスプレを更新しようかと考えます(またもや、好ましい先行テキストへの回帰です)が、キョンが妄想駄々漏れな表情をしたことで、ハルヒは反発を覚えます(p.255-7)。キョンが他の異性に好意的であることに、あからさまに拒絶反応を示しているわけで、「マヌケ面」「エロいことしちゃダメ」など、直截的な物言いが目立ちます。
 それでも自分がそこにいれば、設立時と同じように賑やかに楽しめるはずではないか。せめてこれを日常的愉悦として再確認しようと思いきや、部室では彼女の到着を待たずして、キョンと朝比奈さんが何故かベタベタしていたのです。「何やってんの、あんたら」とあまりに冷たい声を投げかけて、ハルヒはその内面ではマグマのごとく滾っていました。着替えるから「出てけ!」と叫ぶとき、彼女は意図せずともキョンを異性として見出しており、またこれは朝比奈さんのごとく「見ないで」と言えないハルヒなりの、自分を異性として見て欲しいという気持ちの屈折した表れでもありました。「あんた、メイド萌えだったの?」と見下したとしても、キョンがバニーガールよりメイドに萌えるのか、それとも自分より朝比奈さんが好きなのか、区別はできません。というか、ハルヒからすればどう考えても後者です。
 全然すっきりしないまま、ハルヒは朝比奈さんの髪の毛をいじり始めます。三つ編み、ツインテール、団子。それは、朝比奈さんをいじって遊ぶという以前の楽しみの繰り返しでもありましたが、同時に、キョンが発見してくれた髪形の意味について、回顧する瞬間でもありました。自分のその長い髪は(自分で切ってしまったがゆえに)今はなく、朝比奈さんの髪だけがこうしてその意味を確認しうるという皮肉。
 自分が楽しみたくて努力して作り上げた同好会が、いつの間にか楽しくなくなっている。いや正しくは、自分だけ楽しくなくなっている(キョンと朝比奈さんはちちくりあい、長門と古泉は普段通り)。
 キョンと一緒にいる時間と場所を獲得したはずなのに、その自分を置いてキョンが別の女の子とばかり仲良くなっている。
 なんなのよ。
 面白い世界を求める努力は徒労に帰し、それどころか自分が無理矢理連れてきた他者にいつの間にかいいように利用され、肝心のキョンはハルヒと共にあるどころかその他者の方だけを向いている。まさに、文字通りの自己疎外。このような逆転状況を我慢できるほど、もはやハルヒには余裕がないのです。それは、最後の希望だった「自分で作ればいい」という試みの失敗を意味し、自分を共感的に受け入れてくれるはずの(=受け入れて欲しい)キョンをも失うことでした。今の彼女が意識下すれすれで「かけがえのないもの」と思い込んでいるものを手放さないために、ハルヒの無意識はついに、今まで越えなかったであろう一線を越えてしまいます。とうとうそこまでハルヒは変わってしまったのです。「自分を変えずに世界を変える」というその根本においては、何ら変わってないままでなお。

(2)大?団円(2003年8月1日

 意識では「自分を変える」努力に邁進してきたつもりのハルヒは、無意識では「自分を変えずに世界を変える」ことに努めてきました。それは、一方では長門さんや朝比奈さんという異質な存在を招きよせ、一方では自分の欲求不満を発散しつつ世界破壊を回避するための機能を古泉たちに付与するというかたちで具現化されていきました。しかしそのいずれもが、ハルヒに認識されうる「面白い謎」にはなりえませんでした。そして、高校生になっての同好会設立という試みは、ハルヒにとり全く新たな行動の局面を与えてくれるものでしたが、これがキョンをめぐる葛藤を通じて破綻してしまうと、意識における「自分を変える」「自分で作る」のいずれの方向も袋小路に陥り、ハルヒは何もなしえなくなります。だからといって平凡な日常に回帰しようとしても、もはやそこにはキョンはいません。いるとしても、おそらくは朝比奈さんの横。
 こうして唯一の共感的理解者としての(そしてそれ以上の存在であるはずの)キョンを失うという事態に直面したハルヒは、無意識において、ついに世界の再創造を決心してしまいます。この手始めにハルヒは閉鎖空間内部の学校にキョンとともに出現しますが、ハルヒの意識は、なぜキョンと二人きりなのか、なぜ学校なのかを理解できませんし、この「気味が悪い」状況を不安に思います(p.267-272)。探索行ではキョンの裾をつまみながら(p.270)。この時点では不安の現れであるこの態度は、その後の場面でキョンが身を挺して自分を庇ってくれたり手を引いてくれたり(p.280)といった彼の積極的行動とあいまって、キョンにリードされることの漠然たる喜びを彼女に与えます(「なぜだか少し嬉しがっている」p.280-1)。これこそ、彼女が求めていたキョンとの時間、キョンとの関係ではないのでしょうか。ハルヒはこの「気味の悪い」世界に、一つの肯定的な意味を見出します。
 そして、より決定的な肯定は、ハルヒが巨大な神人と遭遇した瞬間に生起します。それは、彼女の意識と無意識の遭遇であり、彼女が自分の無意識的な欲求に直面することを指し示していました。神人は学校を破壊していきます。学校はハルヒがキョンと出会うためにのみ必要な場所であり、それが果たされたのみならずキョンが自分だけを見てくれている今は、ここを通じての他者(朝比奈さんなど)の介入を拒絶するためにも破壊されねばなりません。その神人の振る舞いを、ハルヒは「邪悪なもんだとは思えない」と受け入れようとします(p.281)。自分の無意識を受け入れること、それは、キョンと二人きりになりたかったという、そしてそれを妨害する一切(世界総体)を都合よく再創造するという、自分の意識せざる欲求を、それと自覚せずに認めてしまうことでした。このままいけば、ハルヒは世界を無制限の欲求に基づいて再構成しつつ、キョンをそこに閉じ込めるという、最悪の展開が待っていたことでしょう。

 ではここで、キョンは何をなしえたのか。
 同好会員の3人からは、必要な情報やヒントが嫌というほど与えられました。古泉からは既に、ハルヒが消滅した後の世界について尋ねたことがあります(p.170)。ハルヒを殺すという選択肢がここで否定されます、もしキョンがそんなことを思いついていたらとしてですが。また、長門さんや朝比奈さんのヒントは、キョンの意識(「理性」)が受け入れられるものではありませんでした。「他人の思考を読める」かどうかが問題なのではなく、ハルヒが自分をどう思っているか、そしてキョン自身がハルヒをどう思っているのかが問題なのですが、「アダムとイヴ」という比喩にすら「そんなベタな展開を俺は認めない。認めてたまるか」と強弁するように、キョンはどこまでもその感情に向き合おうとしません(p.282)。この場面でハルヒが自分の無意識の欲求と自覚なく一体化しつつあるとすれば、キョンは自分の感情に直面させられつつも必死に抵抗している状態です。
 そこで、キョンは自分の内面の整合性を脇に押しやったまま、ハルヒの説得を始めます。「元の世界に戻りたいと思わないか?」と訊く声が「棒読み口調」なのは(p.283)、そこに感情が込められないからです。感情を込めようとすると、別のものが鎌首をもたげてしまうから。食物がない、という理屈には、ハルヒは「なんとかなるような気がする」。SOS団設立の責任については、「もう不思議なことを探す必要はない」。とりあえずつけてみた理屈は、こうしてハルヒに弾かれます(p.283)。続いてキョンは「俺は戻りたい」と自分の意志を明らかにし、「連中ともう一度会いたい」と語りますが、これは前の理屈と異なり、ハルヒに嫌な印象を与えます。キョンがこの世界を、この関係を拒絶するものと理解されるからです。それでもハルヒはさしあたりの妥協として、不本意ながら(「うつむき加減に」)、「会えるわよきっと」と、この世界に彼らも都合のいいかたちで再創造されることを、漠然とした予感のもとに約束します。ここで「あたしには解るの」と彼女が語るとき、それはいよいよ無意識の欲求が意識を併呑しゆくことの現われなのですが、キョンはさらに「元の世界のあいつらに」会いたいのだと告げ、ハルヒに対する決定的な拒絶を行ってしまいます。だいたい彼は、ハルヒと一緒に戻らねば意味がないということを、決して認めようとはしませんから。
 それゆえハルヒは「怒りと悲哀が混じった微妙な表情」で、キョンを共感的理解者として、唯一の他者として、繋ぎとめようとします。しかしその言葉は、自分の内面を観ようとせず変えようとしないハルヒの視線を、キョンにも共有してもらおうとするものにしかなりません。「あたしと二人きりじゃ嫌なの?」などと直截的な詰問など意識に未だ昇りませんから、つまりは非常に迂遠なものになるわけです。

「あんたは、つまんない世界にうんざりしていたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」
「思ってたとも」(p.284)

 これを肯定と理解したことで、ハルヒの無意識は神人の破壊活動を再開します。部室も粉砕します。ハルヒにとって、キョンはもう自分の側の人間のはずです。しかし、キョン自身はここで最後の賭けに出ようとします。その賭けとは、キスのことではありません(あれは賭けではなく解です)。キョンがハルヒに彼女の正体について、あるいは元の世界の真実について、明かそうとしたこと。これが最後の賭けです。「ヒントならすでにいくつも貰ってある」からと決意したのは、「世界はお前を中心に動いていた」「お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいた」という言葉を紡ぐことだったのです(p.285-6)。ですが、これが全く無意味であることは明らかです。まず、キョンからの情報をハルヒは重視しない可能性が高い(p.125)。次に、ハルヒがそれを理解したら、そのおかげで結局は世界が根本的に変わってしまう可能性が高い(p.234)。最後に、今のハルヒにとって問題なのは、元の世界がいかにキョンにとって面白かったとしても、そんなキョンの姿を見ていること自体が彼女にとっては苦痛だったのであり、そんな「面白い方向」は願い下げだった。つまり、kagamiさんが述べていた理性的な説得という方法は、(少なくともこの時点では)世界を元のままにおくという目的にとっては完全に無効であり、おそらくはまた、逆効果なのです。もちろん、キョンがいる世界においては、なおさらに。(キョン以外の人間による理性的な説明や忠告は、つまりは愚行あるいはその行為者の自己満足です。)
 そしてハルヒ自身も、キョンのこの言葉に拒否反応を示します。それはあまりにも致命的な深さをもっていました。キョンによる度重なる拒絶に、ついにハルヒは、キョンをも再創造の対象に含めてしまおうとするのです。視線は自然に神人に向けられ、神人はそれに応えるかのように、キョン目指して向かってきます(p.286-7)。それは、唯一の(たったひとりの、そしてかけがえのない)他者からもハルヒが切り離され、絶望に陥りかけていることを意味していました。

 この破滅の直前に至って、キョンは、自分とハルヒとにまともに向き合うぎりぎりの機会を得ます。先ほどの逆効果な言葉を語りつつ、ハルヒの肩を掴もうとしたとき、キョンはハルヒの「手を握りしめたままだった」ことにきづきます。手を離したくないという、意識されざる自分の想い。いくら理屈をこねまわしても、合理的な説得を試みようとしても、だからこそそこから零れ落ちてしまうもの。神人に目を向けたハルヒの横顔の「年相応の線の柔らかさ」。そんなハルヒを見つめる自分の心そのものを、キョンはようやく真っ直ぐに見つめようとあがきます。「涼宮ハルヒの存在を、俺はどう認識しているのか?」(p.286)そこでもキョンは、自分の感情を素直に認めなかった今までの癖でごまかそうとしますが、ついに「これもごまかしだな」と自省します。

「俺にとって、ハルヒはただのクラスメイトじゃない。もちろん『進化の可能性』でも『時間の歪み』でもましてや『神様』でもない。あるはずがない。」(p.286)

 あるはずがない。こうしてキョンは自分の想いを認めました。それをハルヒに伝えなければなりません。ハルヒに伝えて、そして彼女と一緒に生きるための元の世界を取り戻さなければなりません。でも、この想いを言葉で伝えるには、ずいぶんと言葉を浪費してしまっています。というより、もはや言葉では感情にも状況にも追いつかない。そこで思い出す(ここに至らないと思いだす気にもならなかった)ヒントは、「白雪姫」に「スリーピング・ビューティ」であり、これを受け入れることにはやはり理性の抵抗があり、でもいまや自分の感情を認めたキョンは、その感情のままに素直に行動への意志をもてるのです(p.287)。「俺、実はポニーテール萌えなんだ」とは、「あんた、メイド萌えだったの?」(p.260)への遠い返答でもありますが、「いつだったかのお前のポニーテールはそりゃもう反則なまでに似合ってたぞ」とは、そのままキョンとハルヒの馴れ初めです。こんなひねくれた告白によって、ようやくキョンはハルヒに口づけることができ、彼が意識では傍観者のつもりながらハルヒのために無意識にしていた行動が、この意識的行動のもとで収束しました。
 そしてハルヒは、キョンさえも再創造の対象として切り離しつあった自分の絶望感を一瞬にして払拭され、驚き、喜び、そして、反発します。ここにおいてもなおハルヒの意識はキョンへの感情を充分に明確化していなかったのであり、また恋愛を遠ざけていた癖もあり、手を繋ぐだけならともかくも、こうしてあっという間に踏み込まれては、展開の急に対応できません。意識はこの状況を受け入れられずに抵抗しますが、無意識はこの状況を受け入れて、世界再創造の根拠となる欲求不満を解消します。こうして危うく一体化しつつあったハルヒの意識と無意識は再び分離し、そしてさらに、キスを事実として喜びたい気持ちとなかったことにしたい気持ちの葛藤や、キョンを受け入れたい気持ちと恋愛なんてという反発、キョンと二人きりでいたいけど二人きりはちょっと怖い等々、ハルヒの中で相対立する思いがせめぎあい混乱し、彼女の意識ではどうにもならなくなります。そのどうにもならなさの宙ぶらりんな状態で、自分がいったいどうしたいのか分からなくなってしまったとき、ハルヒは、この顛末を「夢」にしてしまいます。つまり、他にどうしょうもないので、宙ぶらりんなままにしておいたのです。
 さて、目覚めて戻った世界が本当に元の世界のままなのか、それともそうと気づかないうちにやはり再創造されてしまっているのか、それは誰にも(ハルヒにも)分かりません。しかし少なくとも、ハルヒはキョンと同好会員がいる世界を望みました。もしハルヒがキョンとのキスによって完全に満足してしまっていたなら、キョンと二人だけの世界でよかったはずですし、あるいはもう少し都合のいい世界に作り替えてもよかったでしょう。ですが、ハルヒ自身の戸惑いが、そして意識と無意識、理性と感情のずれともつれが、世界をこのままにすることを勢い選ばせてしまいました。

 とはいえ、世界が概ね無事そのままだったとしても、何もかもが変わらずにいられたわけではありません。ハルヒはキスに至る顛末を「夢」にしてしまいましたが、それは確かに彼女の記憶に残ってもいます。「全然寝れやしなかった」ほどの衝撃と煩悶を与えたそれは、キョンに対する感情を彼女自身に突きつけています。まず、この意識化という点で、ハルヒは否応なく変化しています。それから、彼女はあの顛末を素直に認めず「悪夢」と言いつつも、「ポニーテール萌え」というキョンの「夢」の中での言葉に応じるかのように、ひっつめでポニテにしてきます。これまでのハルヒにはなかった、キョンの言葉を受け止め応えようとする彼女なりの誠意、彼の趣味に合わせようとする可愛らしさ、そしてもちろんその前に、あの「夢」の中でキョンが語ったことが真実か確かめたいという乙女心とが、ここに示されています(p.292)。しかもキョンの方を見るに見られず横を向き目を隠し、しかもキョンに「似合ってるぞ」(p.293)と言われて嬉しいやら恥ずかしいやら、そして「夢」の言葉がどうやら真実なのかと思いつつだったらキスはどうなのよとかキョンは自分をどう思ってるのよとか自分こそキョンのことどうなのよとか色々噴出してしまい、それでもお昼までは頑張ってはみたもののやはり耐えきれずに元に戻す(p.294)という揺れっぷり。これはまた、かつてキョンに髪型の変化を指摘されたときにばっさり切ってしまった時と同様に、キョンとの固有の関係を再確認できたがゆえの安堵に基づく、そしてそのことを認めようとしないひねくれに基づく、行為でもあります。
 このようにまだまだねじれているハルヒですが、しかしそこには、彼女が本来求めてやまなかった「かけがえのないもの」が存在しています。キョンがそうですし、彼との関わりがそうですし、そして何より、彼のことを想う自分自身の心。確かに世界はほぼ変わりませんでした。ですが、その代わりに、彼女の意識が求めながら果たせずにいたこと、つまりハルヒ自身の変化が生起しているのです。あの「夢」を思い起こすとき、そこにキョンへの、そして自分への問いかけが生まれる。その問いにすぐさま答えが得られず、答えを得ることを恐れるとき、彼女のうちに、大いなる謎が生まれます。今まで外へと向かっていた彼女の「面白い謎」を探す旅は、キョンと自分との関係において、自分自身の中をも探る内的探求へと組み替えられていきます。別に自分の超越的な力について認識せずとも、ハルヒにとってはこの想いとその行方こそが、不安と期待に満ちた「面白い謎」なのであり、その探索行の方法も目的すらも未知なのであり、その探索の対象であり相棒もあるキョンとの手探りの関わり合いそれ自体が、何にもましてかけがえのないものなのです。こうして探索の目的と過程は一致し、主体と客体も一致し、ハルヒ自身が変化することで、ハルヒにとっての世界もまた一変しました。そうです、
少女なら誰でも恋した瞬間に、世界を再創造しているのです。「白雪姫」「スリーピング・ビューティ」とは、現実世界への回帰というだけでなく、まさにハルヒの乙女としての目覚めを指し示していました。そしてまた、「キョン=日常のかけがえのなさ」なのではなく、キョンとの関わりの中で日常全体が非日常に、つまり謎の探索行に変換されたのであり、かけがえのないのはキョンだけでなく、ハルヒ自身もそうなったのです。ここには、自己の存在の意味さえも否定する虚無性も、自分だけを唯一者とする全能性も、およそ存在していません。

 しかし、虚無性の可能性が消滅したわけでも、もちろんありません。端的に言って、キョンが死んだらその瞬間に、ハルヒは世界を再創造しようとするかもしれないからです。ですが、これからの二人の関係の中で、ハルヒはキョンとともに、そのような悲しみに耐える力を、少しずつ身につけていくのではないでしょうか。既に嫉妬心については、朝比奈さんとキョンがじゃれあっていても、先日のように絶望的になることはありません(p.297)。第2回目の「不思議探索パトロール」では他の3人の足止めを無意識に行っていたかもしれませんが(p.299)、これは放っておいても3人が自発的にしていたはずのものです。そしてキョンは、ハルヒの世話を今後もやくつもりですし、同好会員以外の人間とも関わりを持たせようとしていますし、さらに彼の方から「宇宙人と未来人と超能力者」についてハルヒに話してやるつもりでいます(p.300)。その話をハルヒがどう受け取るにせよ(あるいは長門さんが言うように無視されるにせよ)、キョンはハルヒにとにかく話してやりたいのですし、そんなキョンの振る舞いこそが、ハルヒにとっては初めて目にするもの、わくわくどきどきするもの、そしてかけがえのないものなのです。


6.補足(2003年8月2日〜)

(1)3人の行動の推移(2003年8月2日)

 最後に、同好会員3人について振り返ります。

 長門さんは、早々にキョンに自分とハルヒについての情報を伝えようとします(「貸すから」p.80)。それは、キョンがハルヒに選ばれた者であるという判断に基づく行為であり、キョンにその自覚と危機意識の喚起を促すものでしたが(p.124-5)、果たしてこの内容が、ハードカバーをキョンに手渡した当初の予定そのままかどうかは分かりません。そう留保する理由は、長門さんが貸した本を読むようにキョンに言う場面の直前でハルヒがSOS団の目的(「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」p.105)を明言していることから、これが長門さんの言うべき内容に影響を与えた可能性があるというのが一つ。もう一つは、キョンと朝比奈さんが遊んでいたオセロに長門さんが異様に興味を示したことです(p.103-4)。ここでは、長門さんが初めてその感情といえそうなものを示しており、ハルヒの監視役という道具としての自己規定を逸脱して、(たとえロジカルなゲームではあれ)遊ぶことに個人的な欲求を喚起させられています。このきっかけを与え、そして情報の集積である自分に遊び方を教えたのはキョンであり、このような逸脱や非論理的行為を通じてのキョンとの関係構築こそが、その後キョンの訪問のさいに、お茶で形式的にもてなす彼女の形式からの揺らぎ(「おいしい?」p.116)やためらい(p.118)、「信じて」と語る「真摯な顔」(p.123)などを生じさせていると考えられます。
 このような個人としての振る舞いは、第1回パトロールで喫茶店にて「アプリコット」と注文するときの真剣さ、キョンが歩き出すとついてくる(p.155)ように受動的かと思いきや、図書館で発見した哲学書(以前ぼくはブロッホの『希望の原理』かショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』ではないかと憶測しました)を読み耽って動こうとしない(p.158)など、ごくかすかながら繰り返し示されていきます。そしてそれらのほとんどはキョンとの関わりの中でのものであり、キョンも彼なりにそれらを受け止めます(貸し出しカードを作ってやったり)。やがて長門さんは「奇妙なほど人間くさい仕草」(p.173)さえ見せますが、そのとき既に彼女は、キョンに迫る危険について察知していたのかもしれません。翌日の夕方に朝倉涼子によって殺害されかけたキョンを救ったのは長門さんでしたが、それはたしかに、統合思念体の「相反する意識」の代理闘争を長門・朝倉という道具が「操り主」の命令に従って演じたにすぎないとも考えられます(p.195)。しかし、キョンが伸ばした手に素直にすがりつき、眼鏡の再構成を忘れ、自分とキョンが身を寄せ合っていた姿を他人(「面白い人」)に見られてもその記憶を操作して消そうとせず、さらにキョンの「…してないほうが可愛いと思うぞ」という言葉のままに眼鏡をかけなくなり、不手際を詫び(p.197,p.214-5)と、明らかにキョンの安全を確保する以上の意志を、彼に対して見せています。また、ハルヒに眼鏡のことを尋ねられたときの長門さんの振る舞いは、彼女の困惑をも示しています(p.223)。キョンに一言「気をつけて」と告げるとき、それはハルヒの危機状態を認識してのことだったのでしょうか、それとも自分とキョンとの関係に思いを巡らしてのことだったのでしょうか。
 ハルヒによる再創造の場面で、長門さんはパソコンを通じて最後の重要な助言をキョンに伝えます。そこでの内容は「操り主」由来のものではあるのでしょうが、ただ長門さんは、「わたしという個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている」と付け加えます(p.278)。ハルヒが「重要な観察対象」であるのとは実に対照的です。「また図書館に」との文字列には、情報の集積であり道具である長門さんが、キョンと一緒に過ごした土曜日のひとときのかけがえのなさに込める想いが潜んでいますし、「sleeping beauty」という最重要の文字列をぎりぎり最後に叩いたということには、この情報によって二人が帰還することはよいとしても、それが同時にキョンとハルヒの結ばれをも意味するということへの、長門さんの個人的なためらいがまとわりついてもいます。
 二人が無事帰還した後、長門さんは二人が消えていた時間を告げ、その間の自分の感情については一切語りません。しかしキョンは彼女から借りていた本をちゃんと読みつつあり、関係はなお結ばれているのであり、キョンを守るために決意を示します(「あたしがさせない」)。しかし、ハルヒが大切な存在となった今では、キョンは長門さんに図書館の話はあえてしません。長門さんからの好意をおそらく受け止めたうえでの、男のけじめではあります。

 朝比奈さんは、いきなりハルヒに拉致されて以来、マスコットというかおもちゃとしてもてあそばれます。その中で彼女は、ハルヒの暴走をある程度抑えられる(自分の写真をウェブサイトに載せないようにした)キョンに驚き、その存在理由そのものに関心を抱き、そして長門さんと同様に自分とハルヒの情報をキョンに伝えます。それにしても朝比奈さんの行動は、ほとんど受動的、いやむしろひたすらハルヒのなすがまま。これは一つには、ハルヒの重要性を知っている未来人の朝比奈さんが、「この時代で歴史を改変しようとしても、未来にそれは反映されません」(p.146)と言いながら、ハルヒにできるだけ反発すまい、悪影響を与えまいとするがゆえです。もう一つには、キョンに好意を寄せる彼女が、彼に同じ感情を抱くハルヒの暴力性に怯えてもいるからですが。
 ところが、そのように細心の注意と臆病さで頑張っていたはずの彼女が、わざわざさらに未来から大人の姿でキョンのもとを訪れ、「白雪姫」という重大な助言をしたはいいものの、胸元のホクロを見せることで、かえって「わたしとはあまり仲良くしないで」というもう一つの助言を台無しにしてしまいます(p.208-211,p.258-260)。このことがハルヒの欲求不満を爆発させ、朝比奈さんが回避させようとしていたはずの再創造が開始されるという事態を前に、彼女はただ「ごめんなさい、わたしのせいです」と詫びるほかなく(p.276)、それでもキョンたちが戻ってきたときには、朝比奈さんはキョンに泣いて抱きつき、そしてキョンに胸元のホクロのことを指摘されて驚愕します(p.296-7)。つまりここでは、いわゆるタイムパラドックスが描かれており、ホクロの言いだしっぺは一体いつ誰がというのは、この循環の中で不明となります。こうして未来人として本来不干渉のはずが、どうにもならないほど問題とその解決に関与してしまっているわけであり、ここに長門さんと同様の、そもそもの自己規定から逸脱してしまう朝比奈さんの姿が見てとれます。しかもそれは、彼女の監視者としての役目を逸脱した、キョンへの個人的感情に由来するものでした。

 古泉は、男なので説明はもういいやと思います。一点だけ指摘しておくと、長門さんや朝比奈さんと異なり、彼はキョンと同じ現代の地球人であり、ただし何の変哲もなかったはずなのに唐突に超能力とその意味認識を与えられて、否応なくそれを受け入れ、そのままに行動しています。同好会員の中では、最初から最も絶望的な意識状態にあったといえましょう。そのような自己規定をもってはいながら、しかし同好会活動を通じて、ハルヒを怒らすまいとしつつも、キョンというごく普通の、そしてそうであるがゆえに不可思議な存在に前向きに賭ける気になり、最終的には賭に勝ちます。
 確かにそれは問題の解決からはほど遠く、何もかも元通りというだけにすぎません。古泉の苦労は世界がこのままである以上は休まることもないわけですが、以前と違うのは、そのような能力を与えられ、そのように行動することに、もはやそれほど絶望していないということです。こうするしかない、仕方ない、というのではなく、「また、放課後に」と、キョンやハルヒと会えるこの場所、この時間に彼なりの楽しみを見出しています。古泉もまた、上述の2人と同じく、与えられた自己規定から逸脱し、自分の感情をそこに獲得しているのです。

 以上のように、3人はそれぞれに、自分自身の所与の規定に従おうとしながらも、ハルヒとキョンとの関わりの中でこれを逸脱し、自分自身というものを形作りさらけ出していきます。虚無性は、ここではモノや道具としての存在が自分自身の意味を見出す過程においてという、ハルヒの場合とは違ったやりかたではありますが、やはり乗り越えられているのです。
 だから3人は、たとえハルヒの無意識の力が働いてなくとも、第2回パトロールに自発的に欠席したことでしょう。今まではハルヒとその環境の監視役としてどこまでも傍観者であり受動的な状況受容者でなければならなかった3人は、ついにここに至って、あえて活動を休む、あえてハルヒたちを放置するという、自発的な不活発的・否定的行為を、選択することができるようになったのです。そして、万が一彼らが本当に何らかの事件発生によって不参加を余儀なくされたとしても、もう3人はその背後にあるハルヒの力に今まで同様に絶望したり恐怖したりすることなく(全くないわけではありませんが)、そのようにせざるをえないハルヒの心持ちを慮ったり困惑したりくすくす笑ったり嫉妬したりできるはずなのです。
 もちろん3人は、キョンの存在の重要性と、彼が消滅した場合の問題について自覚しています。それゆえ、長門さんは「あたしがさせない」と断言しましたし、他の2人もまた、それぞれの新たな役目を自らそこに見出していることでしょう。そしてそのための行動がハルヒへの干渉になったとしても、ハルヒとキョンがそこにいれば、まあややこしくも面白い事態になるだろうとは期待できるのでした。これが結局は、3人が同好会員として発見したハラハラドキドキの「面白い謎」であるとすれば、ようやく5人はそれぞれの仕方で本当の意味でのSOS団員になれたということなのかもしれません。

(2)キョンと妹(2003年8月3日

 本作品のおおよその解釈は以上ですでに終えていますが、ここでもう一点だけ、キョンについて述べておくことがあります。前述したような最終場面における虚無性の不在は、キョン以外の4人について検討されたものでした。では、キョンについてはどう考えるべきでしょう。
 彼の性格を、ぼくは非常に肯定的に理解していましたが、その根拠についてはさしあたり、ハルヒに対するいくつかの態度と、彼自身が過去に抱いていた非日常への関心から、導きだしていました。他者に関心を寄せられる人間は、その時点で既に虚無的ではありませんから、問題はこの時点で解決しているともいえます。しかし、ぼくとしては、ここでもう一つ重要な事実について指摘しておかなければなりません。
 それは、キョンがであるということです。ぼくが言う「兄」とは、もちろん「妹の兄」ということです。彼は、たとえそれが親戚間の年中行事ではあるにせよ、ゴールデンウィークに「小学の妹を連れて」田舎に行っています(p.26-7)。また、長門さんの伝言に気づいて慌てて家を飛び出すとき、「台所からアイスくわえて出てきた妹」の「キョンくんどこ行くのー」という声に、無視することなくちゃんと「駅前」と答えています(p.111)。キョンが妹に対して日頃どのように振舞っているのかが、これらから漠然とですが読み取れます。妹は小学生となれば、6年生としても高1のキョンとは4歳離れています。また兄を「お兄ちゃん」ではなく「キョンくん」と(叔母の真似をして)呼び始めたのが「数年前」ですから、少なくとも当時3歳以上、これが3年前とすれば現在小学1年生、キョンとほぼ10歳差という可能性もあります。いずれにしても、それなりに年の離れた妹に対して、キョンは比較的寛大です。自分のことを「面白がって」キョンくんと呼ぶようになった妹に、怒ることもせず無理矢理にでもやめさせることもせず、とうとう友人にもそのあだ名で呼ばせることすら許容したのですから(p.27)。このような兄は妹の世話をすることが根本的に嫌いなはずはなく、うざったいふりをしながらも結局はちゃんと面倒をみてしまうものです。
 いえ、そもそもこの作品では、キョンの本名が明かされることがついにありませんでした。妹が喜んで繰り返すことで定着したこの「キョン」というあだ名が、主人公の唯一の呼び方として用いられているということ。ここには、この全く目立たない脇役である妹こそが、じつは物語の背後に隠された存在として、重要な働きを担っているということを看取すべきでしょう。キョンの自己規定は、名前においては妹による呼称から、行動特性においては妹に対する振る舞いから、それぞれその根幹を導き出されるのです。極言すれば、
キョンは、妹との関係において虚無性を脱却していました。

 考察前にこのことを予感していたぼくは、キョンの妹の絵を誰か描いてくれないものか、と以前の日記に記していましたが、それはこの隠されたヒロインの役割を明確化しようと考えたためでした(牽強付会)。そして、いったんこのような認識を獲得したならば、この作品はハルヒやキョンたちの物語であるだけではなくなり、その背後に存在するキョンの妹の物語を、いまや読者に想像させずにはおれません。
 例えば、キョンと一緒に田舎へ行くときの妹はどのように浮かれていたのか。キョンが「駅前」と答えて家を駆け出た後、妹は母親にどのように言いつけたのか(母親は帰宅後のキョンに「どこへ行っていたのか」と誰何しています。p.125)。キョンが帰宅したときにはおそらく就寝していたとしても、翌日どのように兄を問い詰めたのか。「夢」の場面では、隣の部屋で寝ていた妹も兄が自分から離れていってしまう夢を見て夜中に目覚め、夢だと分かっても不安が消えずに兄の部屋を覗こうとしたら部屋の中から何やら足音だの椅子に座る音だのが聞こえてきて、ああキョンくんいるんだよかったと安心しつつも、場合によってはこっそり兄の布団にもぐりこんでしまおうと思って持ってきた枕を何となくぎゅっと抱きしめて自分の部屋にとぼとぼ戻ったのではないか。土曜日のパトロールでは、何か怪しい雰囲気の兄をこっそり尾行しようとして、第1回は兄が自転車出動だったため失敗したとしても、第2回はきっちりマークに成功して、しかもハルヒと二人きりという状況を目の当たりにして大変なことになったのではないか。そこまでせずとも、最近どうも兄が自分をかまってくれないことに敏感に気づいて不満を抱き、そのうえやたらに暑い日が続いてなおさら機嫌が悪くなり、教室でむすーっとしながら下敷きでパタパタ仰ぐ姿はじつはハルヒにそっくりだったりして、しかも汗で張り付いたシャツが微妙な曲線を浮かび上がらせていたのではないか、等々。
 そんな病的な妄想はともかくも、キョンと妹の関係に目を向けるとき、著者のもう一つの作品『学校を出よう!』第1巻が兄妹の喪失をめぐる物語であることの意味が、そこから新たに浮かび上がってくるように思われるのです。


終わりに 〜その後の展開をふまえて〜

 以上、ぼくの日記掲載分『涼宮ハルヒの憂鬱』考察を並べ直してみました。この日記公開当時、すでにkagamiさんから再反論を(本文中でリンクしたように)いただき、また夏葉薫さんからも、例えば3(2)における「統計的思考」という理解に対する批判や、「神人」についての考察の欠落に対する指摘などを頂戴しました。夏葉さんは議論当時、中立的な判定者として、ぼくの考察に積極的な評価を与えて下さいましたが、しかしぼくの結論にやはり多くの未解決点が残されていたことは、これらの批判からも明らかでしょう。
 そのような限界を自ら設けるに至った原因の一つとして考えられるのは、ぼくがSFや推理小説を苦手とする人間である、ということです。後の『ハルヒ』シリーズでも、SF的な説明や犯罪トリックなどが多々用いられていますが、ぼくはそれらをきちんと理解できないのです。このような論理的思考力やセンス・オブ・ワンダーとしての感受性などの欠落ゆえに、ぼくは本作品を登場人物達の恋物語・成長物語としてのみ解釈することとなりました。これはまた、アニメ版シスプリ考察などでもお馴染みなぼくの解釈視点や嗜好によるものでもありますし、ついでに言い訳しておくならば、それらの未解決点の一部は今後のシリーズ展開でこそ明らかになるべきものでありましょう。とはいえ、それでもぼくはどうしても登場人物達のあれこれにばかり心を惹かれるのでしょうけれども。

 さて、実際に『憂鬱』以後の展開をみて、ぼくは上述の未解決点にいっそう注意しつつ、考察内容の根幹についてはあまり修正する必要を感じずにいます。最後に妄想だだ漏れで述べたキョンの妹についての叙述なども、キョンの性格形成にかかわる部分についてはある程度の妥当性を獲得しえたかも、というのはさすがに言い過ぎですが。しかしそれはともかくとしても、長門さんの背景をめぐる一連の事件を通じて、「二項対立」を乗り越える物語という当初の解釈は、長門さんを含む側の統合思念体の派閥とそれに対立する派閥との闘争というあからさまな二項対立図式の登場によって、覆されてしまったかに見えます。そして、これは本考察の枢要にかかわることですから、あるいは考察内容の全面否定を意味するものとも捉えられるのです。これは重大な問題と言えるでしょう。
 このことを十分に検討することは今はできませんが、ひとまず留意しておきたいのは、次のような点です。すなわち、そのような対外的関係における二項対立へのキョンの決意がハルヒと彼女のSOS団を守るために形作られたものであるにもかかわらず、その決意のもとでハルヒを守るための行動が、キョンと長門さんや朝比奈さんをいっそう緊密に結びつけ、かえってハルヒの機嫌を損ないSOS団に危機をもたらしかねない、という矛盾です。『憂鬱』ではキョンはその自覚的な無関心によってハルヒと世界の危機に拍車をかけていましたが、今度はキョンの自覚的な関心が危機を招くのです。この危機は当面、ハルヒの行動にキョンがちゃんとつきあうことで(つまり、いちいち批判しながらも最後まで面倒をみることで)回避されていますが、世界の終わりがいつでもそこに待ちかまえていることに変わりはありません。つまり、統合思念体に具体化されている二項対立にキョンがかまけすぎると、その対立関係の焦点にいるハルヒによって対立の前提ごと世界がひっくり返されてしまうというわけです。統合思念体そのものはハルヒの影響力の外部にありうるとしても、キョンにとって敵対派閥への対抗はあくまでハルヒとSOS団を守る手段にすぎず、この手段を目的化したり対立を絶対視したりしてしまうわけにはいきません。さらに言えば、そのような敵対派閥の存在さえもがハルヒ達とのかけがえのない日々の一部であるとすれば、その存在をも日常世界に包摂してしまうことがキョンの目的に適うことなのです。それゆえ、本シリーズは『憂鬱』以後も、二項対立を表面的な枠組みとしながらも、やはりその向こうにあるものを暗示させていると考えてよいのではないでしょうか。そうなるとまた、次に再び巨大な危機を迎えたそのときには、『憂鬱』の時と同じようなキョンからの意思表示では、もはや間に合わなくなりそうです。いや、キスのその次を期待しているわけではないですが

 そんなふうにあれこれ思いを巡らすぼくのことなど知るよしもなく、ハルヒは今日もキョン達を巻き込んで、そしてキョン達も自ら飛び込んで、様々な騒動を繰り広げていきます。それは他人の目からすれば、たしかに、ただの気晴らし=レクリエーションにしか見えないかもしれません。そして、一面において事実その通りです。ハルヒは『溜息』の出るような『退屈』を紛らすために『陰謀』を企て『暴走』し、時には思わぬ事態に『憤慨』したり『動揺』したり『消失』したりします。その振る舞いはキョンと出会った頃とさほど変わらず、衝動的で快楽追求的で我が儘です。しかし、少なくともそこでハルヒはSOS団員達のことを思いやり、キョンの反応を想像し、団員以外の他者達との関わりをも築いてきました。ハルヒはやはり、自分の内面に生まれた「謎」を乙女心の中心としつつ、自分と世界とを生き生きと変えつつあるのです。そして、それはまさにそのような騒々しい気晴らしの中でこそ、初めてなしえるものなのでしょう。
気晴らしする(recreate)毎日が、ハルヒにとっては、キョンと一緒にいる自分とこの世界とを、SOS団という仲間のなかでのずれやもつれを媒介に、絶え間なく生き生きと再創造していく(recreate)という歩みそのものなのですから。


追記(20060508):
 本考察を日記連載するにあたって、当時ぼくが主に参照した諸サイトの『涼宮ハルヒの憂鬱』先行感想のうち、現時点でも参照可能なものを以下にいくつか挙げます。いずれもぼくの考察と異なる視点から作品解釈を行ったものであり、作品評価が肯定的か否定的かにかかわらず、現在の議論にさいしても重要であると考えます。

 YU-SHOW氏『好き好き大好きっ』2003年6月12日 (萌え作品ファンとしての肯定的な態度と読み方を示す代表的感想)
 kagami氏『好き好きおにいちゃん!』「書評『涼宮ハルヒ』『地球平面委員会』」 (「虚無性」への着眼に基づく本作品の全面的否定)
 夏葉薫氏『四季折々のかおるさん』書評、日記7/7以降 (SFと恋愛ものという本作品の両面への批判的言及、当時の議論についての包括的リンク)
 flurry氏『In a flurry』7/117/12 (仲間集団における疎外感や自己・他者認識のずれの問題、センス・オブ・ワンダーに対するハルヒの欲求への着目)
 こばもす氏『Kobamos Junction』7/17/6-15(ほぼ7月上旬全体) (典型的な萌えガジェットとしての本作品への批判、論理的説明の軽視などへの指摘)
 疏水太郎氏『storybook.jp』6/28キョンsideハルヒside6/297/57/7 (SOS団という場と各団員の内面に引き寄せた繊細な受容的・追体験的理解)


『消失』考察前篇後篇に続く
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