日記
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2005年4月1日(金) まだ続いた
 今日も頑張るぞ(四月馬鹿)。

 というわけで、「アニメ版『シスター・プリンセス』の主題歌映像 〜作品主題の徴として〜」を掲載しました。まだ考察するのか、という感じですが。こないだ書けたばかりなので本に載っけられなかったのは、ごめんなさい。
 なお、以前ここで示した考察の書き方の具体例になるかと考え、文章作成の途中経過をいくつか残してあります。

 その1では、とりあえず「主題歌映像と作品主題のつながりを見いだす」という目的を定め、これに基づいてタイトルを決めました。具体的材料を集める作業としては、アニプリの前半OP、後半OP、そしてEDの映像をチェックしました。細かいところでは、例えば春歌や白雪の表情にこだわり、ここに前後半の違いを見いだそうとしています。リピュア主題歌にはまだ手をつけていません。
 各章には暫定的な見出しがついてます。漠然と、アニプリは物語としての時間の流れ、リピュアは変わらぬ絆、という感じでとらえている按配です。

 その2では、リピュアの材料を集めました。鞠絵の登場場面について「こんな夜中なのになぜ、保護者を安心させるためか、そして愛の強さ、他の年長者だと意味深長になりすぎる」などと、気になる発見や笑いネタのメモが記されています。「アニプリ作中作」仮説と結びつけてみようという意識が既にここに現れています。
 しかしそれでも、各章はまだ文章化されてません。どういう方向で書いていくのかがいまひとつ明確になっていないのです。見出しも変更すべきか、と悩む状態でした。それでも「はじめに」だけはともかく書いてしまおうということで、ほぼ完成しています。

 で、既存の考察とつきあわせながら色々考えたあげく、ほぼ当初予定していた方向でいこうと決めました。それぞれの作品の主題(ぼくが以前の考察で見いだしたもの)を主題歌映像で語ることはまず間違いなくできそうでしたが、その説明文が面白くなるかどうかは不明なままでした。

 その3では、各章の見出しを確定し、一気に文章化した結果を示しています。形式は、材料である映像説明文(斜め文字)に、解釈をそのつど付け加えていくという単純なものです。各場面と関係ありそうな各話の内容を、考察で確認しながら書き進めていきました。
 アニプリ。前後半のそれぞれについて検討しつつ、両者での画面変更の意味を物語の内容から引っ張ってこようと頑張ります。ハーモニーボールが弾んでチョーカーに変わる場面については、ずいぶん前に2ちゃんねるアニプリ板で「どんな意味なのか」という疑問が提示され、ずっと気になってました。今回考察した所以でもあります。また、書いてるうちに、初期の声優登場バージョンが「時間の流れや成長を暗示していたんだ」(どーん)という電波を受信しましたので、第1章のオチとして使いました。
 リピュア。しょっぱなで「主題は早くも言い尽くされている」と一発かましたのは、この箇所を文章化するときになって思いついた解釈です。葡萄について調べたりしながら、既存考察で示した各話の内容や年齢ごとの特性、そしてこのさい原作考察などと映像を結びつけました。ある意味で、ぼくの考察の総まとめみたいな気分です。年少者・年中者・年長者というくくりが、OPでも有効なので助かりました。鈴凛のあたりは腕力で書いてます。
 「おわりに」はネタをうまく思いつかず、真面目にせざるをえませんでした。ともあれ、これで全体ができあがりました。

 こうして完成した文章を、まず少数の方々だけにお礼考察としてお届けしました。そこで、例えば秋ヶ瀬さんからいただいた「リピュアOPでウェイトレス姿がシルエットから途中変更されたことについては?」というご意見をいただき、これについて新たに解釈を加えたほか、全体に微修正を施しました。その結果が本公開分です。ご指摘感謝です。

 以上、何かの参考になるか分かりませんが、とりあえず一つの記録として掲げておきます。

 ところで、秋ヶ瀬さんのとこで「シスプリスト作品コンテスト」中です。イラスト・SSのテーマは「春と妹」、投票は2日までですので皆様どうぞ。

 追記。

 Zoroさん3/31)、『カトゆー家断絶』さん(4/1)、考察の紹介ありがとうございます。帰ってきたこのお礼挨拶。

 やや古い話ですが、『ちゆ12歳』が「ネットウヨ」化への扇動を企業的・計画的に行っていた、みたいなことが一部で叫ばれています。優しいオタクがちゆ達のせいで粗暴な反韓・反中・反朝日言説を唱えるに至った、と。春ですね、と言いたいところですが、わりと真面目で冷静な左派サイト『旗旗』あたりでも迂闊なかたちでとりあげられてしまい、ややこしくなってる模様。全体としては、こちらの最後に記された「理解できないものを理解しないまま犯人に仕立てている」という指摘に同感です。
 ここでの議論を拝読して、何がしんどいかといえば。事実について誠実に批判を行おうとすれば「『「僕のちゆちゃんをバカにしたな〜!』って地団駄ふんでる」と見下され嘲笑されてしまい、沈黙すれば自分が冷笑的な人間だと認めることになってしまい、他の言葉を探そうとしてもそれを受けいれてもらえる扉を開いてもらえそうにない(もはや草加さんはちゆそのものには関心がなさそう)と感じるところです。
 今回の論議の中で、ぼくのようなちゆファンは言葉を奪われています。語る主体たりえないこと、これは差別と呼んではいけませんか。考えすぎですか。「そんなに大事なんっすか?>ちゆ」というファンにも向けられた一文を読めば、「そんなに大事なんっすか?>差別被害者」という声が重なって聞こえます。差別的で冷笑的なファンには当然の報い、ということでしょうか。とネタにマジレス。

 で、右翼とか左翼とかの意味がよく分からないのですが。とりあえずここでの「ネットウヨ」を、日本国内の問題を解決しようと努力することなく外国を批判(あるいは蔑視)することで発散したり、問題解決に努力している人を冷笑的に否定するような態度のあらわれ、と捉えておきます。一方、「ネットサヨ」という言葉があるのかどうか知りませんが、対照のためにこれを、何らかの普遍的価値の立場から日本国家や政府を批判することで問題解決に努力しているつもりになっているような態度のあらわれ、と規定しておきます。
 さて。
 「ネットウヨ」は「ネットサヨ」を叩きます。それは「ネットウヨ」からすれば、「ネットサヨ」による批判や努力が言葉の上滑りした内容空疎のものであったり、その依拠する概念を誤用していたり、何らかの崇高な目的のためには手段(理論的一貫性や実証性など含む)がいい加減でもかまわないとなりふり構わなかったり、その努力が本当に有効なものなのかどうか自分で吟味してなかったりするからです。
 「ネットサヨ」は「ネットウヨ」を憎みます。それは「ネットサヨ」からすれば、「ネットウヨ」による批判が第三者的で当事者としての危機意識を感じにくかったり、批判を踏まえて社会をどう正したいのかが見えなかったり、何も積極的に行動しないくせに人の揚げ足をとってばかりでひたすら人間的な理念を否定しているように見えたりするからです。
 これをとりあえず一般論としておいた場合。「ネットウヨ」は虚無的な理屈屋、「ネットサヨ」は善意の馬鹿、とまとめることができるでしょうか。つまり、どっちもどっちです。「ネットサヨ」が「あんたたちみたいなのがいるから平和がこないんだ」と叫べば、「ネットウヨ」は「お前みたいなのがいるから崖に向かって爆走するんだ」と反撃。ただ、「ネットヨ」に見られがちな人の中にも、批判を通じた自覚的な行動を目指している人もいますし、「ネットサヨ」に見られがちな人の中にも、理念を守るためにこそ理念の検証もしている人がいます。

 何となく思い出した話。うちの実家は商売をしてたのですが、お客さんから要求されて、某球団経営新聞と某宗教団体新聞、そして某革命政党新聞を同時にとらされていました。でかい記事がそれぞれ全然違って(例えば、昨日の試合結果/宗教系学校卒業式/組合闘争など)、子供心にも世間のありかたを感じました。ちなみに景気が悪くなったとき、どの新聞側の客も離れていきました。お金の前に皆平等。親父が野球ファンなので、いまは球団経営新聞だけとってます。
2005年4月2日(土) 投票締め切りとか
 『到狂詩』さん(4/2)、考察の紹介ありがとうございます。

 秋ヶ瀬さん『Sisprist』にて開催されてます「春と妹」作品コンテスト、本日が投票締め切りです、皆様ふるってご参加ください。ぼくも今しがた投票してきました。いや、すごい作品に驚いた。

 たいへん遅ればせながら、ALINEさん成慕キャラコレ第4話を拝読。そして卒倒。なにが凄まじいって、シスプリメの中でのオーソドックス的立ち位置という点でオフィシャルの可憐と共通している(つまり、イメージがかぶりやすい)というのに、ここで可憐キャラコレ第2話と同じ「写真」話をもってくるという、その真っ向勝負ぶりですよ。漢です。いや、おにーちゃんです。心震えました。内容では、過去と「いま」のつながりにまで主題を広げたところが独自のポイント。ただし、結びの部分でその主題がもう少し詳しく語られると、もっとよかったかも。ただし、次の話でさらなる展開があるのかもしれません。

 昨日の「ネットウヨ」「ネットサヨ」の件について、猿元さんから反応いただく。ラベリングの中身がほんとにそれぞれの議論で不明ですが、ご指摘の図式は非常に分かりやすい。あと一般に、「国家」「政府」などの言葉もいい加減に使われてていっそう混乱します。
2005年4月3日(日) 読むときの足場とか
 金曜日あたりからメールがまた受信できなくなってます。あうー。すみませんが、お急ぎの方は掲示板かmixiにご連絡下さいませ。

 『永ノ空』さん(4/1)、『布達の橋』さん(4/2)、そらもとさん(4/2)、秋ヶ瀬さん(4/3)、考察の紹介ありがとうございます。

 その秋ヶ瀬さんの『Sisprist』にて開催されていたコンテスト、無事終了とのこと。企画運営者ならびに創作参加者の皆様、お疲れさまでした&ありがとうございました。
 一応、ぼくが投票した作品を挙げておきますと。イラスト部門はNo.2東雲あきさんの可憐、SS部門はNo.11貴也さんの「可憐の星とお兄ちゃんの星」とNo.14黒谷零次さんの「ヒナと桜の木」でした。
 評価の基準の一つははどちらの部門に関しても、シスプリ原作の絵・文章に見いだせるシスプリらしさ(原則)をどこまで表現しえているか、です。つまり、絵なら(挿絵相当として)例えば、妹の目線が「春」への喜びと兄への愛とを同時に表現していること。文章なら(キャラコレ相当として)例えば、妹の一人称でその妹の口調で叙述され、「春」を示す対象が兄への愛に結びついて絆の強化として機能し、兄が抑制的ながらも妹にとっての救いとして登場すること、などです。
 ここでぼくは自分が投票しなかった作品を否定しようというわけではなく。むしろ、ぼくがシスプリ二次創作を享受するときの姿勢というべきものを確認したいと思います。アニメ版や原作を考察してきた結果、ぼくは「原作準拠」という尺度をかなり重視するようになっています。ですから、原作に見いだせる原則や形式をあえて破ったり越えようとしたりする試みに対しては、ぼくは積極的な評価をしづらくなってしまっているのです。また、もともとぼくはアニメでも何でも原作で満足してSS作品(とくに叙情的なもの)をあまり求めないタチでしたから、読み方が最初からどうしても原作寄りになるのかもしれません。シスプリメについては、あれ自体が原作に準拠しつつ発展しようとする試みですから、原則と比べつつも独自の要素を前向きに捉えようとできたのですが、オフィシャル12人についてはそうもいきません。このへん、頭が固くなってるなあ、と危機感を覚えるところです。
 もちろんぼくが投票させていただいた作品は、形式的な要件だけじゃなくて、ぼくの心にまっすぐ届いたのですけれども。その面では今度は、可憐や雛子が強いということもありますが、やはりそれだけじゃない。

 馬鹿話。

らむだ「NHK受信料の支払い拒否って、まだけっこうあるのかな。」
美 森「原因そのものは有耶無耶になってるけどな。」
らむだ「受信料なんて名前だから支払いたくなくなるわけで、
    例えば『さくらちゃん基金』とか『ワンニャーお給金』とかにすれば、
    自発的な資金援助はそれなりに期待できるんじゃないのかしら。」
美 森「でもお前、『朝青龍基金』とか来られてもどうよ。」
らむだ「いや、それは相撲ファンがそれなりに……。」

 「加藤一二三のネクタイ代」でもよさげです。集まったお金に比例してびろーんと伸びるの。

美 森「裸エプロンって、よく考えると間抜けな格好だよな。」
らむだ「まあ確かに。後ろから見ると、紐だけだし。
    要するに、金太郎の腹掛けとかわんないよね。」
美 森「そう考えると萎えるなあ。」
らむだ「いや、これは逆にチャンスかも。つまり金太郎の腹掛けを見て、
    裸エプロンを想像できるように鍛えればいいんじゃないかな。」
美 森「書いとけ。」

 鍛えたりなきゃ、鍛えるだけです。それがぼくの響き。

 朝番は見逃しました。2週連続で……。
2005年4月4日(月) 鞠絵おめでとう
 鞠絵誕生日、Zoroさんのメンタム鞠絵をはじめ、お祝いリストは『BRAINSTORM』さんにて。ぼくは今回も不参加、ではなく、遅参しました(6日参照)。

 今回も記念ゲームでお祝いの氷室さんにて、『妹戦隊プリンセスファイブ』SS本の予告が。前に刊行されたイラスト設定本がやたら見事でしたので、今回のSSものも要チェキですね。

 そらもとさん、鍛えすぎ(笑)。紐ネクタイおんりーですか、さすがにそこまでは。
 ……あ、届いた!
2005年4月5日(火) 赤い靴
 隣のグループに新人女性が入ってきたのですが。
 自己紹介を聞いてたら、身長143cmだって。うわー。花穂と同じだー。しかも声質がぴょーん。これでコピーかかえてコケたりしたら、もう仕事が手につきません(いつも通りです)。
 何とかして「お兄ちゃま」と呼ばせるテスト。それはさすがに無理でも、「見捨てないでね」とは言ってもらえないものかしら。しかしそんな陰謀をめぐらせて接近したら、「それってシスプリでしょ」と見破られて冷たく嘲られる、という展開も捨てがたいです。ああ。
2005年4月6日(水) 鞠絵SSとか
 日記滞納分、すっとばしですみませんが……。
 今頃、鞠絵誕生日お祝いSS「バスの中」を掲載しました。アニメ版シスプリ考察でおなじみ、リピュアAパート=アニプリ兄妹による作中作品、という仮説を下敷きにしてます。ぼくにとっての、鞠絵ハッピーエンディングというか。久々に二次創作しました。
2005年4月7日(木) 右や左のお兄ちゃん
 まだ「ネットウヨク」「ネットサヨク」の議論を追いかけたりしてましたが。
 ネット上の右傾化や左傾化、つか実態としては反韓反朝反中反米傾向や反日傾向、というものも、もしそれがそれなりの力をもっているのなら問題ですけれど。韓国漁民や島根県議会議員や韓国国会議員の行動は、別にネットの影響でそうなったわけでもないでしょうに。2ちゃんねらーが本気だとすれば、竹島オフとか馬山オフとかを開くのでは。
 とりあえず、日本や韓国の相互憎悪に基づく右傾化には反対です。自己犠牲の身振りばかりの左傾化にも反対。

 世論形成の部分でネットが新聞をやがて凌駕する、というような意見もあるらしいけど、現状をみるにその将来は「かさぎり羽」事件にみられるような、適切な批判を越えた個人攻撃の濁流や、流言による集団ヒステリーの頻発でしょう。新聞という受け皿は、1日スパンで発行されてるからまだどこかで考える余地を与えるけど(それでも1日しかない)、ネットだったら時間刻み・分刻みで、さらに情報処理の暇はない。だから多くの人は、自分にとって好ましく感じる論調のネット論説サイトを頼ることになるし、それって結局は、現状の大新聞が役割分担してるのとさほど違わない。

 12セクトの妹達、とか思いついたけど、いかんせん知識がありません。
2005年4月8日(金) シスプリ二次創作の叙述視点
 こないだ書いた、原作寄りの立場からSSを読んでしまう姿勢について、黒鮫建武隊さんから反応(4/5-7)いただく。「SSを書くことによって、シスプリ世界にアプローチしたい」という根本目的の一つをあらためて確認させていただきました。
 ただし、「文体には、あまり固執しておりません。まず、書きたい題材、及び全体の内容を考案します。その上で、その題材にふさわしい文体をセレクトしています。」という記述について(「固執」でなくとも意識的選択されてるので、ぼくの意見とぶつかるわけではありませんが)、また『ETERNAL TIME』さん「各読者の感覚に委ねるしかない」という意見について、別の観点からぼくの考えを述べておきます。批判というより、自分の立場の確認のために。

 シスプリSSの文体について考えると、とりわけ叙述主体が誰なのかは、「本格的な文学作品の香り」とは、ぼくの考えではあまり関係がありません。もちろん、原作テキスト版(天広絵・公櫻文章による)が「児童文学」「少女小説」的手法で綴られている(Re Pureセレクション解説)ことをふまえれば、それが「本格的な文学作品」の手法と距離を置いていることは当然です。しかし、ここであらためて考えるべきは、なぜ原作テキスト版では妹視点を選ぶ必要があったのか、です。
 テキスト版の妹視点はその児童文学・少女小説的叙述法と、またゲーム版の兄視点はギャルゲー的構造と、というように、作品領域の性質と叙述視点とは不可分に結びついています。シスプリのテキスト版に限れば、妹視点以外のものは全く存在していません。なぜなら、もし物語を兄の視点で書いてしまうと、兄の内面なども一緒に具体的に描かれてしまうからです。
 原作テキスト版は、主に雑誌連載記事をベースにしています。もしもそこで兄が具体的に描かれてしまったなら、そのイメージに合わない読者=兄は、企画から排除されてしまいます。その妹の目線が、その読者に届かなくなります。兄の姿をあえて不明瞭にしておくことで、原作テキスト版は、誰にでもその愛らしい目線を向けられる妹を描き出し、これを受けて読者も、兄としての資格に不安なくその妹を愛することができたのです。(あるいは少なくとも、妹に愛されるに相応しい存在として兄を想像し受け入れることを、兄の漠然たる姿が容易にしています。)これが、兄視点を避けることによる妹愛の経路です。
 これに対して、ゲーム版やアニメ版では、物語が兄視点や客観的視点で描かれることで、そこに登場する具体的な兄の姿にプレイヤー・視聴者が注目し、「これは違う」「感情移入できない」といった批判や反発を一部で招きました。アニプリの航でも、リピュアAパートの兄でも、そのような反応は(好意の一方で)生じました。ここでは、ファンの兄意識が動揺させられていたわけです。

 これと同様に、とくに兄視点での二次創作の場合、そこで描かれる兄の具体的な内面は、読者に必ずしも受け入れやすいとはかぎりません。兄への評価が作品そのものの評価にもつながるとすれば、兄を明確化することは諸刃の剣です。もちろん、二次創作者が兄視点で叙述することはまったく自由ですが、それがもたらす若干の障壁は、以上に述べた通りです。とりわけ兄の独白が、二次創作者自身の独白と切り離されていないとき、一部の読者は、作品への作者の混入を嫌がるかもしれません。
 しかし逆に言えば、ゲーム版・アニメ版がそうであったように、この障壁をいかに乗り越えられるかを自覚的に追求するとき、今後の二次創作の可能性が開けるということでもあります。二次創作者が独自の主題に対応して新たな兄像を提示することもまた可能でしょうし、それが読者に(批判も伴いながら)受け入れられることも十分あり得ます。
 また逆に、読者=兄という大前提を否定しさえすれば、そもそも以上のような立論は不可能になります。もしも、兄としての姿勢をもたずに作品を楽しむ読者がいるとすれば、その読者と、やはり兄としての姿勢をもつぼくとの間には、読者としての「感覚」に大きな違いが出てくるでしょう。そして、これが「感覚という曖昧さ」を作品の論理で説明した一つの結果です。

 このあたり、雑誌連載をくぐらずにSSを読む人もいる(ぼくもだ)、ということでもありますね。なお上記の文章には、ゲーム版の兄に距離を感じるというぼくの主観がいくぶん反映されています。

 追記。
 ぼくはキャラコレを読み始めた当初、その内容にも文体にもそれなりの抵抗を感じたはずでした(2002年5月8日以降参照、これは考察を書く以前)。おそらくその当時にSSを読もうとしたなら、ぼくは客観視点のものを選んだかもしれません。一体いつの間に、こんなに原作に馴染んだのでしょう。それが当然の基準となるほどに受けいれたのでしょう。10日後には最初のアニプリ考察を書いてるわけですが、振り返るとけっこう怖い。うふふ。
2005年4月9日(土) 兄の姿
 昨日の続き。

1.原作ならびにリピュアBパートの兄は、妹視点を通した姿であり、かなり曖昧。
  そのぶん余裕があり、また想像力を働かせられる。

2.ゲーム版の兄は、言動が相当どえらいときもあるが、
  プレイヤーの行動選択という手続きを通して、兄視点にプレイヤーを引き寄せている。
  また、『GAME STORIES』でのフォローがある。

3.アニプリの兄(航)は、兄としての成長過程を通して、
  とくにシスプリ初心者の共感を得ながら妹愛に導こうとする。

4.リピュアAパートの兄は、原作の兄を具体化した感じで完璧ぶりがあやしいが、
  最終話で欠点を露呈して、好意的なスキをつくっている。
  また、GBA版や漫画版でのフォローがある。

 あとはどんな兄類型がありますかね。ええと。

5.一部の成人向け同人誌の兄は、鬼畜。

6.自己投影型の二次創作では、作者。

7.むしろ、姉。

8.いやいや、父。

9.おうまさん。
2005年4月10日(日) とりいそぎ
 『BRAINSTOM』さん4/4に追加)、Zoroさん4/8)、ONAさん4/9)、H嬢さん(メモ)、鞠絵SSの紹介ありがとうございます。わりとすっきり書けました。ONAさんご指摘の、「つぼみ」から開花する状態というのはまさしく。鞠絵と兄妹たちのさらに幸せな日々がこれから開けていく、という予感が、描けていたら幸いです。

 というわけで朝番。マジレンジャー、馬を乗っ取り。レッド中心の物語なのはいいのですが、次男坊がもう少しいいとこ見せてくれませんかね。しかし来週は長男コメディ。エンディングでもおうまさんパカパカ。
 響鬼、高校1年生らぶらぶもーど発動、失敗。それにしても、あの茶屋の女性陣はどうしてあんなにきれいな人ばかりなのだろう。各世代の協力者が、それぞれの年齢に応じた大人ぶりを示していて、なんてレトロな、しかし好ましい世界なんだ、としみじみ。
 プリキュア。きましたよハーモニー。黄色い帽子の少女ではありませんでしたが。ひかりの成長物語として、相変わらず正統派です。アクションも今回は良好。敵側も適度にギャグ。でもこのパターンだと勝てませんよ、3人様……。料理に心を込めて、というのはこないだのなぎさ話と同じかも。

 『グインサーガ』劇場アニメ化ですかっ(『日刊リウイチ』4/8より)。とうとう100巻到達しましたし(まだ読んでない)、記念作品となるのかな。希望を申せば、グインが主役で登場しますように。パロ奪還篇でなければ、グイン・イシュトヴァーン・マリウスの3人組が揃った外伝『氷雪の女王』あたりで。
2005年4月11日(月) 誤記ごき
 昨日の日記でマジレンジャーを「デカレンジャー」と誤記してました、あうー。文月さんご指摘ありがとう。

 SSについて黒鮫建武隊さん4/9)から反応いただく。黒鮫さんの要約を読むと、ぼくの元の文章がいかに冗長か分かります。「30代の妹達」というのも、これからは二次創作の新規開拓地となりえますか。
 猿元さんからも。こういう話も待ってました。最後に示唆されてる「別の原理」の中身も考えどころです。どちらかというと物語ではなくキャラクターそのものを媒介とする、SS創作への欲望という感じでとらえてますが。物語とキャラを切り分けることが可能かどうかも問題。
2005年4月12日(火) 立ち向かう小さな姿
 雛子ちゃんが塾に行きたいと言い出した。

 お金のことは何とかなるけど、しかし何故いまごろに。本人の話をちゃんと聞くつもりだったのに、つい「でも女の子なんだし」と大失言をかまして口論に突入。雛子ちゃんが足音高く去った後、あきれ顔の瑞佳から事情を確認する。なんでも、美森さんちの亞里亞ちゃんが私立中学に来年進学するつもりらしい。もうそんな話を決めてるんだ、と悠長に驚きながら、そうか一緒の中学校に通いたいのか、と納得。ヒナも絶対行くよ、などと口約束してしまったのかもしれない。

 しかし、あの私立に受かるわけがない。雛子ちゃんの成績で。本人もそれが分かっているから塾に、ということなんだろうけど、その水準を入学後も維持しないと授業についていけないはず。そんな3年間を過ごすのは、はたして望ましいことなのか。でも、親友と別れたくない、というのもよく分かる。

 いや、亞里亞ちゃんの成績と性格からして、あのお嬢様学校が一番向いていることは明らかだ。小学校からそこでもよかったくらい。今まで雛子ちゃんは亞里亞ちゃんを友達として守ってきた。それはすごいことだ。だけど、公立中学では雛子ちゃんは亞里亞ちゃんを守りきれないし、私立では亞里亞ちゃんは守りをおそらく必要とせず、雛子ちゃんも自分の世話だけで精一杯になる。

 だから、別々に進学するのは仕方ないし、たぶん本人達のためでもある。たとえ別の学校に通おうとも、親友であり続けることはできる。

 だけど、雛子ちゃんにチャンスをあげたい。苦しみあがいてでも、一緒にいたいと求めるのであれば、その想いをかなえる手立てを捨てさせたくはない。

 塾に行かせてあげよう、と告げたら、瑞佳も困った顔をしたけれど、じきに家計のやりくりを考え始めてくれた。お小遣いお覚悟あれ、と笑っている。

 可憐も、きっと昔と同じように、微笑んでくれるだろう。

 翌日、私立中の過去問題集を本屋で見つけて買ってきた。いかにもな問題が前ならえ。ひとしきり笑ったあとで、解いてみる。口をつくのは罵声ばかり。未来が真似をするので、後半はひたすら沈黙。支援準備、よし。
2005年4月13日(水) 予定とか
 というわけで、Zoroさんとこのサークル「Purple Sights」にて、シスプリ二次創作についてコラム執筆させていただくことになりました。恩返しできるようがんばります。

 馬鹿話。

らむだ「『空からお菓子が降ってきたら』って、どんなお菓子なんだろ。」
美 森「さあ。」
らむだ「うまい棒あたりか。」
美 森「うわ(笑)。もうすこし女の子らしいやつじゃないのか? 例えばブルボンの。」
らむだ「じゃ、チョコ味のうまい棒。」
美 森「そうじゃなくてな。」
らむだ「いやいや、むしろ麩菓子や酢昆布かも。」
美 森「また地味なのを。」
らむだ「チロルチョコだと、当たると痛いよね。」

 ボンタン飴というのも考えました。実際どんなんでしょう>識者。
2005年4月14日(木) ほっしゅほっしゅ
 人権擁護法案について、最近ネット上でも反対運動がさかんなようですが。その反対運動の一部の暴走に対する冷静な批判(反対の批判だから法案賛成、ということではない)が『BI@K』(とくにここ)、『世界の中心で左右をヲチするケモノ』『若隠居の徒然日記』『カレーとご飯の神隠し』などで展開中。むしろ民主党が提出しようとしている人権侵害救済法案の方が、はるかに限定がなくてあむない模様とか。
 批判に関連して、この人権擁護法が、暴力的な糾弾や脅迫などに対する異議申し立ての機会を与える可能性もある、という指摘も。うちの実家の近所でも最近、器物破損者が自分の所属する団体の名を笠に着て集団で脅迫し、被害者を泣き寝入りさせた、という事件が発生しています。そういう個人・集団の非道な振る舞いを正す場が与えられるとすれば、それはとても望ましいことだと考えます。「それは国家による弾圧につながる、むしろ市民の協力で何とか」という反論もあるとは思うのですが、先の事件では、協力してくれる市民など(ぼくも含めて)どこにもいなかったのでした。

 ぼくのこの考えは、オタクが保守的である一つの事例なのかしら。戦後左翼もサブカルも自分に都合のいい秩序破壊でしかなかったとき、オタクは「純愛」「聖なる女性」「家族」「幸福な日常」「くに」などのかつて存在していた(はずの)「心地よい」理念に、身を寄せるしかないのかもしれません。その点『電波男』は、二次元から三次元を革命しようという情熱とそれに対するツッコミに満ちあふれていて、じつは非常に健全なのかも。
 ただ、インタビューの中でもでてたこの循環図。「オタク・オンブズマン」は本当に機能してるんでしょうか。ゲーム業界についても、「面白いゲームより知名度の高いゲームが結局は売れる」という話がどこかにありましたが、萌えコンテンツについてもそのへん当てはまりませんか。「オタクの搾取」も心配ですけど、まさに『カムイ伝』のごとくオタクに裏切られるというオチは……ああっ、「由井正雪」とはその覚悟も含めてかっ。あらためて敬服。

 そんな流れでくわねさんのネタ。サブヒロインとして、「大学の若手女性教官」や「気弱で泣き虫の女性事務員」、「学長の孫娘お嬢様」や「うっかり者の女性公安潜入分子」などはいかがでしょう。
2005年4月15日(金) ろーぜんとか
 ローゼンメイデンDVD第5巻到着。同じ荷物にえろまんががてんこもりだったのは内緒。

 ここに収録された第10話で、「生きることは闘うことでしょう?」という真紅の台詞が登場する。これについては既に先月にも記したのだけど、原作の「闘うことって生きるってことでしょう?」という台詞をひっくりかえすことで、原作での真紅とジュンの暗黙の相互補完関係(やがて真紅の腕の件で明らかとなる)を、ジュンが劣位のかたちで変更している。原作の台詞に示される真紅の悲壮な決意は、アニメでは戦いに向かう孤独感として描かれ、また原作のジュンの弱さとともにある優しさとその強さへ結びつく機微は、真紅以外のドール達にこそ示される。例えば翠星石をかばってレンピカの輝きを受けとめる場面。あれ結局受けとめきれず、スイドリームを手放させてしまうわけだけど、そのことについてジュンがどう思ったのかが第9話の末尾でも第10話でも語られない。そのへんが、ちょっと気になるところ。
 でも白雪姫劇は萌え。のりの寝言も大爆発。
2005年4月16日(土) お菓子の回答とか
 アニプリ第6話の劇が名演に思えるような、凄まじい劇を見る機会に恵まれました。自己満足と分かっててやってるのならまだ許せるけど、観客のためにやってると思い込んでるあたりが罪深い。

 先日書いた「空からお菓子が降ってきたら」のお菓子ってどんなだ、という問いについて、萌え文集界で美汐さんといえばこの方、の文月さんからIRCでコメントいただく。「ものみの丘に季節外れのあたたかい雪が降る」イメージで「わたがし」。ああ、さすがの情景です。「あと危なくない」。なるほど。重い菓子だと怪我しそうだし、串ものだと刺さるかもしれない。「美汐さんの頭の中ではクリスマスのあの飴とかああいうファンシーなものが頭上30cmくらいから降ってくるイメージなんだろうと思いますが」とも。乙女です。ぼくは真琴&美汐シナリオがあの作品の白眉だと思ってるので、このイメージにすんなり納得しました。
 で、たしかに実現してました美汐フェスティバルにて。ファン魂ここに。

 やはりシスプリイベントでも、これに対抗して作品中の情景を何か実現すべきでしょうか。

・会場付近の砂浜を散歩
・運営者に資金援助
・会場で迷子
・おやつが泥だんご
・お昼がすっぱいカレー
・コスプレ衣装で異性のトイレに潜入
・コスプレはじいやさんかじいやに限定
・樹上の蜂の巣に特攻
・和弓でウィリアムテルごっこ
・発送用宅配便の箱が棺桶
・パアァァーン
・くんくんぺろぺろ
・ブブブ
・はいてない

 入場ゲートで「ばいばーい」と追い返される、というのもなかなか。
2005年4月17日(日) つながり
 朝番。今日はどれも素晴らしい内容でした。今年はほんと例年になく水準が高いです。

 マジレンジャー、長男の恋。もう長男も直球ならば、お話も直球。そしてそれが心地よい。最後にずっこけると、こないだの三男話と同じになってしまうわけですが、この熱さがあればこそ弟妹もついてくるのだと納得しました。愚直で不器用な、愛すべき善人。一度ふられる場面で、次女が殴り込みにいこうとする姿にしびれました。いいきょうだいです。しかし、やはり次男の影が薄い。

 響鬼。これ、このままいけば古典的傑作になるんじゃないか。ヒビキの過去を重ねて、明日夢も明日へと踏み出すことができる。受け継がれていく生き方。それにしても、みどりさん素敵です。大人が男女問わず色気があるというのはどういうことですか。よくこれだけの俳優集めたなあ。演技指導も相当なわけですけど。
 いつか、大人達が大人の責任を果たそうとするがゆえに袋小路に陥ったとき、明日夢たち若者の響きが、壁をつらぬいて大人達を自縛から解き放つこともあるのでしょうか。
 台詞の一つひとつが挙動と結びついて正しくおかれている、という印象。「ことば」の「響き」。それは、コミュニケーションという贈与のなかで、お互いの心が響き合うということ。作品を観るぼく達にも、この作品を生み出す者達の想いが響き、そして共鳴していく。

 プリキュア。ひかりがなぎさ達のために独り戦う。ポルンもそれを止めさせようとしながら、それでもひかりの意を汲んで変身させる。たったひとりの戦いはとても怖くて、シャイニールミナスの表情はその恐怖と、それにもかかわらず逃げようとしない彼女の懸命の勇気を、存分に描き出す。そして、彼女は一人じゃない。ポルンもそばにいるし、プリキュアもきちんと間に合う。思いやりは時には水くささになってしまうけど、その気持ちはちゃんと伝わっている。なぎさがほのかやひかりからもらった温もりは、なぎさ達からひかりに、感謝とともにいっそうの温もりとして還元される。これもまた、ひとの贈与。
 しかし、アバンタイトルでほのかがなぎさの手を押し包む場面で、全国が激震。あとザケンナーがエレキング風味。そこでカプセル怪獣のポルンを(投げません)。

 あとで追記予定。
2005年4月18日(月) 『電波男』とか
 昨日追記しようとしてたこと。本田透氏の『電波男』をようやく読み終える。入手したのがついこないだなので、読むのはほとんど一気でしたが。

 『成城トランスカレッジ!』のような「保守宣言の書」としてのとらえ方よりも、アーシュラ・K・ル=グィンが『夜の言葉』で語ったようなファンタジー論として理解する方がぼくにはしっくりくる。ル=グィンは70年代アメリカの男達を、新聞の株式欄しか「現実」と見なせない脆弱で貧相な想像力の持ち主と切り捨て、本物のファンタジーは「事実」ではないが「真実」だと告げた。大人が「子どもだまし」としてしか見なせない虚構から、子どもは現実と非現実をちゃんとより分けたうえで、虚構から何かを汲み出してこれる、と語った。
 ここでの男達を「恋愛資本主義」に操作される女性に、子どもをオタクに置き換えれば、『電波男』の論になる。その営みは、「保守」なのではない。オタクであることに誇りを抱いた瞬間に、世界の見え方や他者からの視線の受け止め方が激変し、同時に自らも生まれ変わる。これはオタクの「新生」なのだ。二次元をくぐることで三次元での生を新たにする過程なのだ。そして、この「見立て」によって全てが変わるというからくりこそ、オタク(あえて言えばその第一世代)の面目躍如でもある。
 『成城〜』での「差別的に振舞われたことに傷ついたにもかかわらず、なぜ新たに差別的に振舞おうとするのでしょか。」という問いかけには、差別的な言説を裏返すことで言説そのものに潜む問題を暴露しているのだ、と答える。そして、その差別的言説という暴力をあえてこのようにかたちにした本田氏に、罪を背負ってもらったオタクとして感謝する。
 この感謝は、いずみのさんが注意を促しているところの「ブルース・リーとブルース・リー信者の関係」に向かうものであってはならない。『電波男』にこう書いてあるからオタクは恋愛資本主義やそれに従う者達を嘲笑していい、ということにはならない。本田氏が屋台骨を支えてくれている間に、一人のオタクとして、萌えの鍛錬を続けていくことが大切なのだ。自分の中に住まう可憐な姿をさらに磨き上げ、オタクの本懐を遂げるべく邁進するのだ。その過程と行方をサイトなどで知らしめることで、ぼくたちは自らのオタクとしてのありようを世界に刻む。そのときの言葉の重さは、ぼくたちが既に感じ取ってきているはずだ。
 ところで、『成城〜』での「家族によって傷ついたがために完璧な家族を求めるというAC的な自己分析」という『電波男』あとがきについての要約は、要約として正しいが、読者の言葉としてはきわめて外在的だ。この本を、あとがきも含めて本当に理解し、かつ本当に批判できる読み手は、ぼくの知る限りMK2さんしかいない。勝手ながらぜひ読んでほしいと思う。
2005年4月19日(火) 世の家庭
 帰宅すると、居間で雛子ちゃんがぐったり伏している。塾に通い始めてやっと3回目のはずだが、早くも壁に突き当たっているようだ。顔を二の腕におしつけたまま「おかえりー」とくぐもった声。土産のケーキを瑞佳に渡して、こちらも椅子に座る。うつぶせた義妹の肩は、横に置かれた塾のプリントから身を守るようにすくめられている。
 ぼくの遅い夕飯を仕度しながら、瑞佳は妹の前にケーキの皿を置いて声をかける。フルーツ山盛りのそれに気を惹かれて、雛子ちゃんがやっと体を起こす。目が赤い。もそもそ食べているところへ紅茶が運ばれる。姉妹揃って猫舌なので、ぼくのカップ以外はぬるくて甘い。飯を速攻でかっこみ、一息入れながらプリントを手にする。目よりもはるかに赤いバツの嵐。全部解けるまで帰れなかったのだろう。あるいは自分から居残りをしたのかもしれない。
 見ないでよ、と怒られても知らんぷり。本気で見せたくないならこんなところに出しておかないだろう。いくつか具体的に褒めてやる。何よりも、過去の試験に出ていた問題パターンが1つ解けるようになった、ということ。たった1つ。しかし、その1つは今はかけがえのない意味をもつ。

「あたし、受かるかなぁ?」

 すがるような目をして雛子ちゃんは尋ねる。もう自分のことを「ヒナ」とは呼ばない。その言い方はもともと可憐の真似だった。その可憐は今日はあちらの実家にお泊まりだ。未来はテレビの前でひとり飛び跳ねている。何もかもが変わっていく鈍い響きを感じながら、まだ先は遠いけど、この調子ならあるいはね、と中途半端に答えておく。んに、と笑った義妹の表情は、それでも幼い日の笑顔と素直に重なった。

 子供達が寝た後で、瑞佳から相談。来年以降に必要になるかもしれない学費を貯めておくべく、パートを始めたいと言う。時間のことなど確認して許諾。そもそもが稼ぎの少ない自分の責任でもある。可憐が家に入れてくれていた分もなくなるわけだし。晩酌も趣味もしばらく我慢。コレクションも売り払おうか。
2005年4月20日(水) 天気予報は知りません
「空から、おむつが降ってきたりすれば、素敵だと思いませんか?」

「おまるの間違いじゃないのか」

「いえ、パンパースとかの『おむつ』です」

「……やっぱりしょんべんくさいな、おまえ」

「祐一さんはうんこくさいです」

 えーと、ごめんなさいごめんなさい

 氷室さんのとこで『妹戦隊プリンセスファイブ』予習ページ。ああ懐かしいー。

 黒鮫さんのとこに、一人称&三人称の雛子SS。こういう視点を変える試みは、例えばシスプリメだとPCYCHICERさんのとこで「妹・妹・兄」という3視点作品がありました。しかし、主観視点・客観視点というのは初めてかも。
2005年4月21日(木) 萌え科学白書
 文部科学省グッジョブ。しばらく沈滞していた絵が一挙に萌え絵ー。

美 森「どうだこれ。」
らむだ「『神秘の海』はいいから、この子の神秘を見せてくれ。」
美 森「だめじゃん。」
らむだ「『遊んで学べるCD-ROM』もかなり気になる。」
美 森「安心しろ、お前の考えてるのとは絶対違う。」
らむだ「でもこのタイトルもいいよね。『子ども科学技術白書』。
    『子ども向けの・科学技術白書』なのか、
    『子どもをあれこれする科学技術についての・白書』なのか、迷うよね。」
美 森「書いとけ。」
らむだ「この絵で『せまろう!生命のひみつ』でも大変だよね。」
美 森「むしろ『生命の誕生の』」

 比較参考例:農林水産省

美 森「じつはこの三つ編み娘、赤ん坊だいてるんだけどね。」
らむだ「な、なにー。人妻ー?」

 そっち趣味の方はどうぞ。ぼくは文科省。

 追記。

 ゆっこさんより、『東部戦線』復活。前に書いた感想はここ。政治将校の恐怖が蘇ります。
 つか、ゆっこさんてば最近えらいシミュレーションゲームづいてますね……。ロシアみたいなだだっぴろい場所よりも、地形がややこいマップの方が、動かしやすいエリアや重要ヘクスの見当がついて遊びやすいかもしれませんよ。
 「ミライ・ヴャジマ」とか。ふと。

 あと、全く無関係に。とあるえろげの宣伝を見ていて、「ギギのぶるま」と「ガガのぶるま」とか思いつく。『ぶるまー2000』の続編みたいなの。Amazonの野生児が偶然にギギのぶるまを購入したところ、超人的な力を獲得。敵の幹部である「十便器」は、奪取した「ギギのぶるま」をどの頭がかぶるかでもめて自滅。最高幹部である「えろ大帝」は、両方のぶるまを揃えてかぶったところ対消滅であぼーん。主演声優はのちに失踪。その気持ちは分かる。
 「二重反転ぶるま」とかも思いついたけど、どうやって話を膨らませたものやら。
2005年4月22日(金) 懐寒い(下品)
 「この五千円札を使い切ったら、今月はもう……。」(『最後の一葉』)

 馬鹿話。

らむだ「今日は金曜ロードショーですか。」
美 森「なに放送するんだったか。」
らむだ「『糞尿ロードショー』というのはどう?」
美 森「いや、『どう?』と訊かれても。何を流すんだ。」
らむだ「大きいのとか小さいのとか。」
美 森「映画じゃないのか。」
らむだ「ごめん、やっぱ『貧乳ロードショー』に変更。」
美 森「そっちも放送禁止。
    つかお前、そんなに尿にょう言うならもう尿の中に浸ってろ。」
らむだ「いや、ぼくは尿の場に既に立っているから。」
美 森「なんだそれ。」

 それがぼくなりのATフィールド。
2005年4月23日(土) 進まない
 空き時間をみつけて原稿を書く。なかなかまとまらず、断片ばかりが積み上げられていく状況。ううう。

 稲葉振一郎『オタクの遺伝子』読む。長谷川裕一作品論なのでひたすら楽しい。長谷川の特異性について稲葉は「オタクの原点たる古典的SFへの素朴なまでの信頼」であり、その創作姿勢は、「虚構世界とは、現実世界の一部なのであり、そのようなものとしてまさしく現実世界を変えていく力」であるという未来への希望にひとまず結びつけられる、と。
 ところで、長谷川のその「信頼」が、作品中でSF的問題に真摯に取り組む者達の人間的ななにかへの信頼でもあるとすれば、後者はぼくのアニプリ考察での基本的姿勢と重なるのでした。「12人の妹」というSF的問題(?)にはぼくは真正面から取り組みませんでしたし、人間的ななにかを非常に伝統的な方向でとらえたわけですけど。第25-26話分考察で「いま」と過去と未来を結びつけたのは、長谷川漫画に対する自分なりの解釈をふまえてるだろうし、また稲葉の虚構世界についてのくだりは、ル=グィンのファンタジー論を思い出しながらガルバン考察で記しました。「オタクの楽園は不毛の荒野か?」と問われれば、「否」という答えは、まさにその「オタクの楽園」の極北たるシスプリの世界に、ちゃんと存在していたということです。と手前みそ。
2005年4月24日(日) ネギまとか
 朝番。
 マジレンジャー、ようやく次男がいいとこ見せました。意外と熱血漢、つか親思いでした。ちゃんと以前の話をふまえていてよいです。あと長女に噛まれたい。
 響鬼、虫垂炎は痛いよね。高校入学してただちにあまり出席できない、というのは今後高校生活であれこれありそうな予感。友達を作れない・友達いらない、とか。明日夢くんがんばれ。そして三角関係に苦しめ。
 プリキュア、ひらめいたひかりはたこ焼きに子ヤギの肉を(入れません)。この世界に生きることに喜びを見いだすにつれて、戦いに前向きになってきました。どこかでストップがかかるかも。あと、ハーティエルが集まるたびにひかりの胸が女王のサイズに近づいていく、とか考えました。もうでてこなくていいです、ハーティエル(えー)。

 いずみのさん赤松健論に触発されて、『ネギま!』9巻まで読む。ああ、ついにぼくも赤松読者ですよ(笑顔で敗北)。素直に萌えました。そしてちゃんと楽しめる漫画でした。確かに立派な少年漫画ですよ、これ。再びいずみのさんの論考を読み返してうなずくことしきり。
 で、「学園コメディ」と「バトル」についてなんですが。魔法のことをあまり知られてはいけないにも関わらず、ネギは教え子達の間にどんどん仲間を増やしていく。魔法の世界(異世界)と学園生活(日常世界)とがあんまり厳しく分け隔てられていない。これはネギという存在がそうさせているのももちろんだけど、ネギが卒業した「魔法学校」と、現在勤務している麻帆良学園とが、どちらも日常世界からはみ出しているからだ。「魔法学校」は異世界の側に秩序づけられているので、かえって日常世界の感覚に近いかもしれない。しかし麻帆良学園は、『とっても少年探検隊』や『コータローまかりとおる!』などに登場する学園のように、巨大で広大で混沌とした一つの異世界を構成している。この小世界にいるかぎり、ネギも教え子達も「学園コメディ」と「バトル」をそれほど区別する必要がなくなり、相互にスライドさせやすい。
 『うしおととら』『ウィングマン』『おジャ魔女どれみ』では、主人公の特殊能力はできるだけ他人に知られないよう規制されていたし、それを知ってしまった者は語らずにいる理由を与えられることが多かった(「惚れる」というのもそれ)。だが『ネギま!』では、その規制がきわめて緩やかでありながら、この学園の異世界ぶりに包み込まれて、それほどの緊張感がなくてすんでいる。例えば第1話の序盤、始業時間ぎりぎりに生徒達が駆けていくコマでは、読者はネギの魔法的世界との出会いから、たちまちこの学園との出会いに没入させられる。何でもありっぽいこの世界だからこそ、『ネギま!』の魔法をめぐる作品上の制限は、わりと微妙な位置づけにある、と。
 ところで、ネギの父親はあれですか。ネギ自身でしょうか。
2005年4月25日(月) ゆんゆん
 や、ほんとすごいです赤りんごさんの鞠絵絵(各所より)。間違いなくこの鞠絵は兄上様を見てる。シスプリファンダムには、イラストでもテキストでも恐ろしい力量の方がおられます。

 響鬼のことを考えてて、ヒビキさんが泣く姿を見せる瞬間こそ一つのクライマックスかも、と思いつく。大人が泣くとはどういうことかを、きっとその背中が教えてくれる。

 「君が代」に替わる国歌を宗左近先生に作詞していただく、というネタがどこかにありましたが、試しにその風味で作ってみるテスト。保守派と革新派の意見を平等に採り入れてみました。参考にしたのはす。

 国歌「日本の本の日本まで」

1.
君が代は 続くんだから わたしたち 生きている この大地の上
日は昇り 緑は萌え(萌え) きみ 苦悩の夜がどんなに辛くとも
少女の乳首の連なりに富士そびえ
愛のきざはしに立ち眩む若者のつむじに
希望の歌が流れるよ 聞こえるよ ほほえんで 振り上げる
旗だ ともだち太陽のいのちの光がまたたいて
掲揚! 掲揚!
ジャーン ジャーン ジャーン ジャーン ジャンジャンジャンジャンジャーン
亜細亜などなくったって過ちだけは咲かせるために
世界などなくったって憎しみだけは咲かせるために
発進しよう すめらぎの道を
わだつみのむこう 地球の果ての地球まで
日本 ぽんぽん 日本 ぽんぽん 日本 ぽんぽん 心と心

2.
さざれいし 育つんだから わたしたち 見つめてる はるか空の下
薫る風 夕陽は燃え(燃え) きみ 時の傷跡どんなに痛むとも
若者の恋文綴る手に峰震え
せせらぐ川がなめまわす少女のくるぶし
未来のしみが広がるよ 感じるよ 肩くんで 広げよう
旗だ ともだち国連に黄金の光がかがやいて
掲揚! 掲揚!
ビャーン ビャーン ビャーン ビャーン ビャンビャンビャンビャンビャーン
安保などなくったってためらいだけは咲かせるために
歴史などなくったってあきらめだけは咲かせるために
発進しよう すめらぎの道を
星々のむこう 宇宙の果ての宇宙まで
日本 ぷんぷん 日本 ぷんぷん 日本 ぷんぷん 願いと願い

平和などなくったってさもしさだけは咲かせるために
正義などなくったってやましさだけは咲かせるために
発進しよう すめらぎの道を
善悪のむこう 日本の本の日本まで
日本 ぱんぱん 日本 ぱんぱん 日本 ぱんぱん 誇りと誇り
2005年4月26日(火) あーるぴーじー
 あの報道ヘリ群を撃墜するテロなら、世論の同情をかえそうだなあ。
2005年4月27日(水) 読んだり観たり
 『A君(17)の戦争』第8巻読む。ひたぶるにものがなし。次巻で新キャラがでそうな塩梅ですが、とりあえず始まりました首都攻防戦。しかしイラスト変更にはまだ慣れません。どうせならいっそ小林源文あたりで(無理)。

 『AIR』DVD第2巻。「青空」の旋律は卑怯ですっ(泣きながら)。元ゲームやってないとついていけない急転直下。人と人とを結びつけ、そして縛りつける、肉親という縁の物語。
2005年4月28日(木) カップリングとか
 ONAさんより、シスプリカップリングについての明快な要約。だいぶ前に数えたことがありましたが、今も傾向は変わってないのかな。千影−亞里亞は大躍進か。
 『マジカル☆ヒナ』では、可憐・雛子、咲耶・花穂、鞠絵・衛、千影・亞里亞をそれぞれ(実・義)姉妹に。『シュヴェスター』では、可憐・鈴凛、咲耶・鞠絵、白雪・四葉、春歌・花穂あたりをペアの話。てな感じで、定番はもちろんあまり馴染みのない組み合わせも描くよう心がけました。
 そいえば、衛と亞里亞のペアって皆無でしょうか。

 いずみのさんのとこから、ネギまあれこれ。最近はまりつつあるので面白いったら。でも最新回は未読なのであわてて目をふさぐ罠。
2005年4月29日(金) へんたーいとまれ
 住友林業のCM、やたら幼女のあんよばかりを写しててどうしたものか。ぼくを誘惑してるのか。

追いかけて行き着く先は牢獄。豚足とかもう食べられない。
 幼女の足指をなめながら日本酒を飲むとか想像。ますます捕まりそう。「つまみはあんよの あかでいい。」こんな舟歌では紅白では出られません。

 淑女を汚れずに渡すために、泥水たまりの上に身を投げる紳士、という話がありますが。ぼくだと仰向けに寝そべりそう。
2005年4月30日(土) ローゼン第1巻をちらっと考察
 『ローゼンメイデン』原作第1巻p.72、両親の物置に初めて入った場面でのジュンの台詞。

「あいつら世界中飛び回って石拾ったりガラクタ買い漁ってやがるんだ」

「年代物っつったって明らかに価値の無いもんばっかだし……ドブに金捨ててるっつーの」

 アニメ版のこの場面では省略されている(というより、この物置に真紅を連れてくる役目はのりに替えられている)この言葉と、ジュン自身の「インチキ商売」品を「手元に置いてひと通り笑ったら期限ギリギリに返品してクーリングオフ」(p.9)する楽しみ方とは密接な関係をもっている。
 ジュンにとって両親は「側に居ないんだったら死んでるのと一緒」の「ろくでなしの親」(p.48)であり、自分を放置している存在だが、しかし同時に恐怖にさいしては「どうしよう…パパ…ママ…」(p.27)と頼ってしまう保護者でもある。のりも含めたこの家族にジュンは依存し甘えているわけだが、それはまたこの年頃(中2か)の男の子らしい自我の変成期(「パ…親父とおふくろ」p.72)をも示している。思春期の不安定さが学校での事件をきっかけに引きこもりとして具現しているのがこの時点でのジュンの姿であり、親への態度の両面にもそれが如実に現れている。
 この一見相反する態度は、「明らかに価値の無い」物品に対しても同様に見られる。ジュンは両親が収集した物品について無駄なものと断定している。その一方でジュン自身は、無価値と分かっている(つもり)の物品を買い集め、その無価値さを笑っている。それは両親の行為を否定しながら、しかし両親の行為を模倣することで、不在の両親を引き寄せようとする努力なのだ。アニメ版では第1話についての監督の言葉にあるように、「手軽に居心地を良くするための飾り」として原作にないミニカーのコレクションを導入しているのだが、これは上述のような通販行為に見いだせるジュンの欲求を、かえって見づらくしてしまっているかもしれない。

 ここでのジュンの屈折は、彼が自分の通販行為そのものの無意味さを自覚して笑っていることに現れている。そしてその無意味であるがゆえに意味のある行為は、たんに面倒だからというだけの理由でなく姉を返送作業に巻き込むことで、唯一そばにいてくれる姉との絆を確かめるためのものでもあった。登校を含む日常生活に戻れないのに姉がそれを望んでいる以上、姉との関係を失わない方法はジュンにとってそれしかなかったのだ。にも関わらずラクロスなどというプレイヤーの相互関係を前提とする球技にジュンを誘うのりは、ジュンによる暴力的な防衛機制に直面することになる。
 だから、謎のカバンの中に眠る真紅を見て、のりが真紅を「ダッチワイフ」と誤解してジュンの健全な欲求のあらわれを喜び両親に連絡までしようとしたとき(p.15)、ジュンはその恥ずかしさと誤解への憤りを感じるとともに、家族と自分とを結びつけるために無意味でなければならない物品に、何らかの価値を見いだされてしまったことに対する反発を覚えた。「すぐ送り返して」(p.16)しまおうとするのはそのためであり、だがジュンは動かぬ真紅に魅入られて、ついゼンマイを巻いてしまう(じつにこの人形は、ジュンがあらかじめ無意味だと思わずに手元に届けられた初めての贈り物だった。)その結果、受動的なくせに主体的に生きていると錯覚していたジュンは、自分が完全に従属的立場に置かれたことを突きつけられ、両親に頼ろうとするなど本来の弱さを露呈する。また、大きな鏡について真紅が「お前の両親は確かな目をお持ちね」(p.75)と評価するときジュンが照れながら不本意な表情を浮かべるのも、両親への相反する感情そのものである。

 ところが、真紅の「下僕」としての関係は、ジュンに(被虐的というのとは別の)積極的意味をもたらしていく。「何でぼくが」と繰り返しながら、真紅の命令に従っていく中で、やがてジュンは自分が必要とされていることを無自覚に体験していく。ドアノブに手も届かない真紅にかわって扉を開いてやり、抱っこして運んでやるとき、ジュンは文句をいいながら他者のために行為している。そして、のりの紅茶への感謝を言葉にするという相互贈与の大きな一歩を真紅の指導でなしえたのち、利他的な行為がジュンの自発的意志のものとして初めて実現するのが、動きを止めた真紅への真剣なアプローチであり、そして何より真紅の前での行為としては、水銀燈に引きちぎられたぬいぐるみを縫い直す作業だった。真紅の悲しむ姿に驚き、たまらない気持ちになったジュンは、ここで真紅のために、「僕も気分悪いというか」と言いながら見事な腕前で補修する。その結果得られた予想外の事態に、真紅から「あなたの指はまるで 美しい旋律を綴るよう」という真正面からの賛辞を初めて贈られて、ジュンは巨大な転換点を迎えようとする。
 確かにその転機は、真紅の憎まれ口と、続いて生じたnのフィールドでの出来事によって、ひとたび封じられてしまいはする。しかし、ここに至る過程で獲得した、今まで両親や姉だけが置かれていたような他者のために尽くす側の視点と、他者のためになしたことへの他者からの感謝とは、これからのジュンの行動を大きく後押ししていく。この経験がなければ、雛苺のために苺大福を買いに自ら出かけるという行為は決して実現できなかっただろう(のりに任せてもいいくらいだ)。この買い物でのジュンのためらいや恐怖心は原作に欠落しており、アニメ版で補完されている。だが一方で、その恐怖を乗り越えようとするための支えは、ぬいぐるみ補修の話を苺大福話の後ろに移したアニメ版では、ジュンの雛苺への共感のみに委ねられることとなったのである。

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