日記
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2005年3月1日(火) 春ららら(やや下品)
 H嬢さん(2/28)、『蓚酸鉄Direct Bariety』さん『りょっ家』さん2/28)、『たけのこの里?』さん(2/28)、考察の紹介ありがとうございます。

 『スローストロー』さん2/28)より。その両立は確かに難しいのです、だって自分の中にもその「一般的な批判」と近い感想も一度は生じるのだから。ぼくの場合は、この日記で初見時の否定的感想を書き記してすっきりしておき、考察を書く段階ではそれを踏まえたうえで肯定的な叙述ができるようにしてます。サイトの中で、コンテンツごとに立場の分担を図っているわけです。
 そしてまたも補足。いわゆる「キャラ萌え」作品の中に、何らかの(自分の好む)物語を見いだせたとき、「キャラ萌え」嫌いのぼくはようやくその作品を受けいれることができます。考察とはぼくにとって、物語を語り直すことを経由して、キャラに安心して萌えられるようにするという遠回しな過程なのかもしれません。

 昨日の「SS創作過程を教えてちょ」というお願いに応答いただきました、感謝感謝です。

 星倫吾さん2/28)の場合:
   1.「書きたいモノ(主題)を探す」
   2.「読み手に伝えたいコト(ストーリー)を作る」
   3.「キャラクタになりきる・言動を研究する(役作り)」
   4.「テキスト起こし(執筆)」
   5.「校正」

 『推定果名』さんこちら)の場合:
   第一工程・「発案」
   第二工程・「ガジェットの発案」
   第三工程・「世界の発案」
   第四工程・「キャラクターの発案」
   第五工程・「プロット制作」
   第六工程・「資料収集」
   第七工程・「実際に書いてみる」
   第八工程・「推敲」

 いずれも詳細はリンク先にてご確認下さい。内容をつきあわせるとほとんど同じ過程と思えます、なるほどー。これに照らして自分を振り返ると、とくに「役作り」に関わる段階がかなり弱いのかも、と思いました。弱いというより、自信がない。
 つまり、例えば可憐の作品中での台詞や行動を解釈する(ある物語の流れの中で意味づける)ことならば、考察を通じて自分の主たる技術にできていると思うのですが、例えば可憐の台詞や行動を「こんなふうにしそうだな」と新たに創り出すことは苦手です。「お前、それってキャラが分かってないんじゃん」と言われそうですが、まあその通り。妹誕生日SSが停止してるのもそのせいだし、前に「妄想の量」が足りない、と記したのもそういう理由からです。
 おそらく、構成の枠組みなどをしっかり学んだら、もう少し技術的には書けるようになると思いますが。そのへんは『推定果名』さんの2/28付リンク集からも情報収集できそう。それでも、キャラについての弱点は埋まらない罠。

 IRCで、「いんらんごさい」などといった会話で不適切に盛り上がる。その中でふと、「数え歌」が作れそうだなーと思いついて幾つか並べていたら、MK2さんから日記に書いとけとお勧めあったので全部作ってみるの巻。なお、最後の句はMK2さん作です。

   ひとつとせ ひとりでおふろにはいれない
   ふたつとせ ふにふにあんよがさそってる
   みっつとせ みだりにぱんつをかぶらない
   よっつとせ よめないひらがなよめるふり
   いつつとせ いまだにおまるがおともだち
   むっつとせ むこうをむいててきがえちゅう
   ななつとせ ななめにみあげてじらしがお
   やっつとせ やんちゃなにおいのひざこぞう
   ここのつとせ こんやのまくらはぱぱのうで
   とうととせ とうでとうとうおせきはん

 いかがでしょう>識者(何の)。

 そして馬鹿話。

らむだ「インストールしたえろげが上手く動かないんだけど。」
美 森「ノートンあたりが邪魔してるんじゃないか?」
らむだ「えー……あ、ほんとだ。ノートン切ったらだいぶよくなった。」
美 森「ノートンはえろげも防ぐのか。」
らむだ「なんでだー、あんなえろげやってそうな顔してるくせにっ。」
美 森「いや、顔は関係ないと思うが(笑)」

 生徒から没収したえろげでこっそり遊んでるのーとん先生の図。
2005年3月2日(水) まだ寒い
 そらもとさん(3/1)、考察の紹介ありがとうございます。
 
 考察の書き方について、とらさん3/1)から反応いただく。「六要素」ということで、ぼくの考察では(1)と(3)が突出してますね。で、日記の方に(2)などを書くという感じ。下の方に掲載されてる「メモ書き」も参考になりますし、具体的な適用例は「今週のバキ」にて存分に楽しめます。『バキ』はその作品自体をほとんど読んだことがないのですが、この感想を読むだけで楽しめるうえ、漫画も読みたくなってくるという。同じような誘惑は、いずみのさん「赤松健論」からも感じていて、こういうのが「良い感想・考察」なのだと思います。
 もちろん、駄目な作品の何がどう駄目なのかを示してくれるサイトも、その尺度と自分のそれとの相違点さえこちらが自覚できれば、ありがたいです。つまりその場合、そのサイトの管理人がどういった作品なら褒めるのかも知らないといけないわけで。

 ところで、この手の「書き方」ってわりと需要あるんですかね。とくに態度に関わる箇所へのコメントを多くいただきましたが、裏を返せば、フェアじゃない悪罵や、定型的な(あるいは長いものに巻かれた)批判などが目に付きやすい、ということなのかも。
 感想でも考察でも批評でも、それを書く目的をはっきりさせておくのは大事ですよね。例えば、自分の視聴時の感情を記したいだけなら、そのまんまの文章でかまわない。ただし、それが不特定な読者の共感を得たり、議論の手がかりになったりすることは諦めた方がいい。もしそういったことを望むのなら、少なくとも自分の感想の根拠や尺度だけは示さないといけない。さらに、読者に自分の考えを新たに受け入れてもらおうとすれば、相当に配慮した文章を最初から掲げないといけない。求める水準に応じて、必要な労力も変わります。
 このへんは、その作品に対する一般的評価の高低にもよるのかな。

 ONAさんから久しぶりの生シス(やや大人向け)、なんと全員分(笑)。山田あたりは見栄で買っていそうです。
2005年3月3日(木) おしなさま
 『鬱花穂雑記』さん2/28)、考察の紹介ありがとうございます。あと、そのGBA版メモは、たいへん貴重かと。

 デンセンさん千影えろSSを読んで、笑いすぎてお腹痛い。しかもすごい完成度。使っていただいてありがとうございます、つか、いつ出してもらえるかとハラハラしました(笑)。

 なお、このデンセンさんのアニプリ二次創作小説(千影・亞里亞もの)とMヲさんの表紙絵・挿絵が見事なハーモニーを奏でる『Familiar』や、つくねさんたち「妻恋坂乳業」さんの可憐本・咲耶&千影本、Zoroさんたちの千影本、そして本多由亨さん星倫吾さん、とこの日記でもお馴染みの面々をはじめ、今でも熱心な活動をされているファンの方々の作品が、今月6日のシスプリオンリーイベント「千夜一夜2」にて頒布される模様です。シスプリの灯はなお煌々と輝いています、どうぞ皆様、新大阪へ。

 『ローゼンメイデン』漫画第1〜4巻届く。読む。くんくーん!
 アニメ版は話をずいぶん組み替えてるのですね。ジュンと巴の夕暮れの語らいは、原作にはなかったようですが、これはアニメ版の巧みな追加。一方、真紅の機微は原作の方がさすがによく描いてる。これには、アニメ版が短い話数に収めねばならなかったために雛苺たちも早めの登場となったことや、アニメの塗り方や線の描き方による制限など、幾つかの理由が考えられます。全体としては、「ジュン登りー」の分だけ原作有利(えー)。いや、アニメ版でもこれから出てくるのかもしれませんが。まだ第6話までしか観てないので。
 第3巻まで読んだところで「あー、手持ちは読み終えてしまった」と思い違いをし、もう1巻あることに気づいたとたんに幸運が舞い降りた気分になれました。こういう漫画は久々。
 ところで、雛苺って人気ないんですかね。原作も展開上だんだんに他の姉達に重心が置かれてきてるので、仕方ないところもあるのですが、ぼくは雛苺大好き。この子といい雛子といい、ジュンも言うように「子供子供した子供」が好きです。それは、「子供」という理想化されたイメージに萌えているだけなのかもしれませんけど、だけど。子供のかなしみを描いた作品は、大人がしっかりしなくちゃ、と思える作品なのです。

 『Comic新現実』vol.3。吾妻ひでお特集ということで、買うしかありません。そして買ってよかったです。みなもと太郎と大塚英志の対談も面白い。吾妻以外の掲載漫画はよく分からない。あと、『ガイバー』の作者はやはりちみもりお(『ゼオライマー』の原作者)と同一人物だと確認できたことが何よりの収穫でした。いま思えばぐぐって一発なのだけど。昔、『ガイバー』を初めて読んだときにそう感じ、友人に話したら笑われたので、十数年来の溜飲が下がりました。
 『ゼオライマー』、原作通りにアニメ化しないかなあ。懐かしき『レモンピープル』。ぼくは80年代のオタクです。
2005年3月4日(金) まだまだ書き方
 創作の完成過程についてさらに反応いただく。
 せいるさん(2/28)のお答えだと、物語の方向性を決めて、鍵となるオフィシャルな言葉を探して、プロットできたら一気呵成、という感じ。で、その前後の「ごろごろごろごろ」と「一晩置く」、他人の目を通す、というあたりに注目してみたり。ぱんつ消滅への過程(違)。
 猿元さん(3/2)のお答えだと、主題決定から時間制限や枚数制限などの形式へ。そこから典型的プロットの選択とその解釈、それにあわせたキャラの造形という流れ。わりと計算して入るパターンでしょうか。
 せいるさんは鍵系SS、猿元さんはオリジナル創作の例ということで、そのへんの違いも出てるみたいですね。あと、文字数などへの言及は猿元さんが最初か。この制限は鍵系コンペでもあったはずだけど、ぼくなどは文字数をあまり考えずに書こうとしがちです。

 考察の書き方については、いずみのさん(3/3)からご意見いただく。「信頼できる友達の意見を訊く」ことが重要、というご指摘に思わず声を上げる。なるほど、全くその通りだと思いました。
 つか、友人の意見を聞くことで自分の意見が変質するという経験は、それこそアニプリ考察でさんざん身に覚えのあることだったはずでは。「アニメ版シスプリ独立宣言」だの、ガルバンの解釈視点だの、「リピュア作中作」解釈だの、一連の考察でかなり要点となっている部分の多くは、美森氏に負っています(考察中で言及)。また、公開する直前には彼をはじめIRCの面々にチェックしていただいたこともしばしば。とくに、自分の感性・思考方法と違うものを持っている友人は、考察の独りよがりを正すさいに代え難い存在です。調子に乗ってるとこをけしょんとやられるのだけど、それがとてもありがたい。
 ただ、ぼくの場合、友人の意見を受容したにもかかわらず、その友人も呆れる未知の方向に進んでしまうことも少なからずありました。期待の斜め上に向けて驀進。あと、そういう恩義を記すことをすっかり忘れているあたりが、ぼくのぼくたる所以か(駄目)。
2005年3月5日(土) いつもの(下品)
 馬鹿話。

らむだ「魔法少女もので、『魔法の妊婦マタニティなんとか』ってのはどうか。」
美 森「またマニアックな……。」
らむだ「続編が作りやすいよね。『魔法の赤子』。
    で、最終回直前で突然つわりが襲うぴんち。」
美 森「それ、つわりじゃなくて陣痛だから。」
らむだ「あ、あうー。」
美 森「演出はキラキラ光るゲロか。監督は出崎統。」
らむだ「うわ。」
美 森「第1話で作る過程というのはどうだ。」
らむだ「うわ(笑)。」
美 森「第1話だけ成年指定。そのあとそういう描写がないというのもストイックかも。」

 圧倒されました。
2005年3月6日(日) むやむや
 千影の誕生日。今日の新大阪イベントは皆様いかがでしたでしょうか。ぼくは動けずじまい。

 ローゼンメイデン原作読み返す。のりにも転びそうです。つか、のり&雛苺というペアに転ぶのは、前にも書いたように、長森&雛子を脳内家族に含むぼくとしては必然的なのかもしれません。でもこのペアに惹かれるということは、ジュンが彼女たちとの絆に支えられながらやがて外へと開かれていくのに対して、真紅抜きのぼくはそのまんま家の中に閉じこもるという罠。せめて翠星石がいれば。ってそれ可憐なのでやはり問題解決せず。

 朝番組。マジレンジャー、姉ごころ。響鬼、早くも少年・大人の関わり合い方が確定。ガキっぽい大人が一人もいない、というのはすごいことです。プリキュア、格闘&魔法少女という、セラムン状態に。来年はきっとドジっ娘が追加されます。
2005年3月7日(月) 延々と
 繰り返される日記滞納の悲劇。

 ローゼンメイデンのアニメ公式HPを観る。ところで"Rozen"という綴りは、オランダ語かなんかですか。「父」の名であることは確かだとして。それはともかく、この作品に対する監督の愛と視聴者への訴えかけが各話コメントから伝わってきて、じーん。文字で直接伝えちゃうのは反則と言えば反則ですけど、それでも。

 あと、全然関係ないですが吾妻ひでお公式HPも観る(『たけくまメモ』より)。

 ぽてち、ぴんち。でも、商品として売られてるポテトチップはそのへん既にあまり問題ないんじゃなかったっけ(食い過ぎは当然駄目として)。むしろ、家庭で作る方が油温などの関係で問題ありだとか。そういうわけで、気にせず適度に食べます。ぎょぴー。
2005年3月8日(火) 考察の避け方とか
 考察の書き方について、then-dさんから反応いただく(3/7)。ありがとうございます。
 「過程にそもそも愛が存在する」というのはその通りで、感情が漏れないストイックな文章というのも憧れます。とはいえ、ぼくのは漏れ方がたぶん味になってるので、これはもう個性ですかね。
 「名の売れた作品ばかりを相手に」するという言葉に対しては、こちらは逆にそういう作品を避けてきているという自省。then-dさんが取り上げられている作品(鍵系、D.C.、村上春樹など)は、ほとんど回避しております。メジャーどころにぶつかる気概がないというか、ええと。既に多くの方が論じている作品について、あえて自分が言うべきことってあるのかなー、と腰が引けるのですね。もちろん誰も言ってないことならば述べる価値があるわけですが、メジャー作品の場合その確認作業が膨大すぎて、なかなか取りかかりづらい、と。
 シスプリもメジャーな作品ではあるのですけど、アニメ版のマイナー気分がたまらなく心に響きましたし、何より先行言説を確認する作業がそんなに大変じゃなかったのでした。
2005年3月9日(水) 読まない弱さ
 SSの書き方について、文月さん3/8)から反応いただく。わーい、ついに身内から。どもです。
 これに沿って自分を振り返ると、1.の段階で「書きまくる、書き散らす」ことがあまりにも少ない(というかほとんどない)ことに気づく。思いついたネタをまず十分に練っていない、ということかしら。それと、4.の「書き上げる」段階で、「『面白さ』『魅力』として認識されるであろう、『何か』」をどう意識しているかが、どうも相当に弱い。ここがぼくにとってのブラックボックスですね。自分の創作における得意技を持っていない、ということでもありそう。
 で、このことは、「自分の中の『読み手』」像が曖昧なのと表裏一体。曖昧というより、幅が狭いのかな。考察とか、もっと論理的な文章などは、畑が違っても読めるのですが、小説は食わず嫌いが激しいのです。ということは、そういう自分の読まない小説の分野やセンスを知らないまま創作しようとしても、情景描写にせよ人物描写にせよどうしても狭いパターンに収まってしまう、と。だんだん弱点がはっきりしてきました。
2005年3月10日(木) 将棋とか
 将棋C1順位戦。山崎六段、残念でした……。でも中田宏樹七段が昇級されたのは嬉しく。C2の頃とあわせ、長らく「C級の番人」でしたが、ついにB2へ。おめでとうございます。
 将棋の世界では、元奨励会員の瀬川さんがプロ入りを希望している問題で揺れていますが、いくらプロ相手に勝ちまくっているとしても、現役奨励会員や棋士達からの反対は強くて当然。それでも、こういう経歴の人の存在がもたらす利益も捨てがたいと思います。フリークラス編入とか三段リーグに入れるとか色々言われてますけど、セミプロというような、プロとアマの橋渡し的位置づけは難しいですかね。
2005年3月11日(金) 真紅の台詞とか
 ローゼンメイデン原作。
 第3巻 Phase13で、真紅が「だって 闘うことって 生きるってことでしょう?」とジュンに問いかける。アニメ版では「だって生きることは戦うことでしょう?」と変更されているそうだけど(未視聴)、この台詞が引っかかって。

 原作版では、この段階でジュンと真紅はようやく互いの心を接近させる。この台詞の前には、ジュンは真紅との会話をひっそり渇望するし、この台詞の直後では、真紅はジュンに甘えて受けいれられる。「抱っこしてちょうだい」なんて甘え方は、それまでほとんど考えられなかった直球ぶり。次話の「階段」騒動を経て真紅の腕事件へと至る、真紅とジュンの絆が確定する過程において、このPhase13が描いた接近具合はとても重要だ。その流れをふまえて真紅のこの台詞をとらえれば、それは、自分の生き方から目を背け続けているジュンに対する真紅の箴言でもあるわけだが、それとともに、この段階での真紅の限界ともいうべきものを、示しているはず。
 それは彼女が、「闘うこと」によってしか「生きること」を実感できない、「闘うこと」によってしか己の固有の生を獲得しえないという、悲壮な決意をも物語る。その背後には、人形として、ローゼンメイデンとしての在り方を運命づけられた真紅が、その運命を越えようとしながら、しかし同時に呪縛されているさまをも浮き彫りにしている。ジュンにとって鋭く突き刺さる、そしてそれが確かに望ましいこの台詞は、だが真紅自身にとっては、彼女の突き当たる壁をも自ら指し示している。
 ここでジュンは、彼自身の受容の限界ゆえに、ただ「……できた」とボタンの付け終わった真紅のドレスを返す。それはもちろん、ジュンがまだ真紅のような真摯な生きる意志を獲得していないことのあらわれでもある。しかしその一方で、このジュンの振る舞いは、一つの未来をも暗示している。つまり、やがて真紅が腕を失い自らの存在意義をも喪失してしまったと絶望に陥るときに、ジュンの仕立て直したドレスが彼女を支え立ち直らせるよすがにもなり、そしてついにジュンの闘う意志が、ジュン達とともに生きるという真紅の新たな、より開かれた生への意志を導いていくという、そのことを密かに予感させている。
 真紅もまた、そのとき成長するのだ。そしてそれは、ジュンがいればこそのものだ。

 このような、ジュンと真紅の双方にとって異なる方向から意味を与えられる台詞が、アニメ版では全く逆の語順となっている。この場合、真紅自身にとっての意味はおそらく消え去ってしまうだろう。それがたんなる味消しにとどまらず、どういうアニメ版独自の展開を可能にしているかは、未視聴分をこれから確認するさいの大きな楽しみだったりする。どちらかというとジュンの成長に主眼がおかれているっぽいから、そのへんはまああれですが。
2005年3月12日(土) どんどん続く
 SSの書き方について、『空飛ぶ風見鶏』さん3/10)から反応いただく。3.で、やはり繰り返し書き直すことの重要性が分かります。「原作の魂に触れること」ってのは素敵な言葉だなあ。考察もそのつもりで書いてます。

 3/11)から。かなり構造化されてるように感じましたが、「分解」という段取りはなるほど、と。これも考察と同じかしら。文章の書き方についての注意事項も参考になります。あと、ブレイクは想像力の源ですね。

 これらSS・考察の書き方について、せいるさんまとめリンクページを作って下さいました。たいへん助かります、すごいこんなに多くの方が。エンジンの名称も分かりやすいですね。こうやって並べてみると、似ているようでけっこう違うものなんだなぁ。

 昨日書いた、真紅とジュンのことについて補足。ジュンはとある理由で(裁縫趣味が級友に笑われた?)現実から逃げているのだけど、その心は確かに強さが足りない一方で、間違いなくとても優しい。雛苺が食べたがるものの正体に気づき、それを買ってきてしまうほどに優しい。それが克服されるべき弱さなんじゃなくて、その弱々しくもなりえる優しさを捨てないままで、ジュンは真紅から強さを受け止め、真紅はジュンから彼独特の優しさを受け止める。いや、真紅も十分に優しくて弱いのだけど、それは生きる者みんながそうなのであるからこそ、そんな者同士の支え合いがかけがえのないものであり、「誰かはそれを…絆とも呼ぶ」。
 文月さんたちがぼくにこの作品を薦めた理由が、あらためてよく分かりました。これ、まさしくアニプリ的作品です。
2005年3月13日(日) 朝番
 マジレンジャー、長姉のおせっかい。でも末弟がきっちり三枚目してくれるので、嫌みになりません。これで次男以外は一応の紹介が終わったということで、来週は再び仇敵登場。ところでマジレンジャーは牛角には行かないのでしょうか。

 響鬼。どんどんこの世界が暮らしやすく感じられてきます。お姉さんたちが相変わらずいい雰囲気。クウガがあの後も日々の戦いにつとめていったら、こんな物語が待っていたのかもしれません。そして弟子の少女登場。勝ち気。一部で悲鳴があがっていたはず。ところで、ぼくはこの作品の雰囲気がたまらなく好きなのですが、本来の視聴者たる子供達としては、このへんで秘密基地とか敵本部とか、そういう具体的な怪しい場所も登場してほしいものなのかどうか。

 プリキュア。ひかりの表情があっというまに豊かになりました。前から見ても横から見ても、頼りなげに細いその体格。ポルンがひかりとのお遣いをあんなに喜んでいたのは、メップルとなぎさ、ミップルとほのかのそれぞれの関係が、ポルンなりに羨ましかったのでしょう。なぎさの家にいたとはいえ、なぎさがブラックである以上はあくまでメップルとの関係が第一。だから、自分だけがひかりのそばにいる、というこの一対一の関係が、ポルンにとってはとても嬉しかったに違いありません。
そして店の中で二人とはぐれてしまったひかりを励まし安心させられるのは、ポルンがそれだけ成長してきたということ、メップルたちの振る舞いをちゃんと真似しているということ。まあ実際のところ、買い物の役には立たないのですが、それはそれ。まずは、ひかりとポルンという「ふたり」の手と手が結ばれた、という感触を大事にしたいと思います。
2005年3月14日(月) ぐしゅぐしゅ
 ここのところの不摂生が祟って再びばったんしつつ、メーラがようやく直ったので各方面にご連絡。どうにもこうにもです、ごめんなさい。

 ローゼンメイデンDVD第4巻。
 第7話、目覚めない真紅に動揺するジュン。原作だと速やかに解決する段取りなのだけれど、アニメ版の展開はそこでふたひねり。しかし巴ちゃん、ドイツ語読めるのですか。そしてそんな重大な書物がひょいと存在するあたりも、うむむ。学校の図書室まで入れたのだから、次はいよいよ女子更衣室ですね(違)。くんくーん。
 第8話、蒼星石登場。ああっ、原作の財閥紳士が波平にっ。姉妹の立場もなんだか入れ替わって、翠星石の方が積極的・攻撃的。ただ、蒼星石のマスターが攻撃的ではなくなったので(別の固着的な問題を抱えてるけど)、その変更も筋は通ってます。話数の制限もあるし。だけど今のぼくは原作寄りなので、やや不満がないわけではなく。
 水銀燈が訪れるあの病院の少女が登場しないのも、その原因か。
2005年3月15日(火) 中日
 しずかちゃん新声優にかかずゆみさん。そ、そうきましたか。いよいよ、のび太にお灸をすえる姿が。のび犬は薙刀でまっぷたつ。

 こないだ考察の書き方についてリンクしたthen-dさんこちらから、アニメ作品鑑賞スタンス。自分がいつも留意してるのはどんな点かしら。
 まず、登場人物たちがお互いに影響し合っているかどうかが重要点。つまり、人々が生きてる、ということ。
 次に、主題が分かりやすいこと。これは、主題の表現方法や問題の割り切り方が安易でいい、ということではなく、制作側が何にこだわっているのかが分かりやすい、ということです。例えば「正義」についてごちゃごちゃ描いていてもいいんですよ、ただそのごちゃごちゃする中で、制作者の「でもこれだけは正否はともかく自分のことばで伝えたい」という意志さえ感じられれば。借り物のお説教はいらんです。
 最後に、話の内容が楽しいか悲しいかにかかわらず、次の話が待ち遠しいと思え、繰り返し観ても飽きないこと。こうならない作品には考察もできません。例えば、感動したけど再視聴するのは億劫な大作とか。
 ああ、完全に主観まみれです。やはりこのへんがぼくの限界というか。

 先日書いたコメント欄の工夫について、『ラブラブドキュンパックリコ』さんから、それは「1ch.tv」ではないかというご指摘。あ、ああーっ。じゃ駄目か(えー)。スラッシュドットの例は知っておりましたが、たしかにあれも大変そうです。
2005年3月16日(水) いんてぐら
 あまのさんのとこにて、アニプリ考察本の改訂新版挿絵解説ページ公開です。どうもありがとうございます。
 挿絵に付されているのは、ぼくの感想(コミケでは本に挟み込んだもの)と、あまのさんご自身のコメント。ラフの段階でもやりとりがあったわけですが、こうやって読むと「ああ、なるほど」とあらためて腑に落ちる箇所も少なくありません。あまのさんが年長者に寄り添いやすい、というのも、年少者寄りのぼくと対照的。このへんの違いが、挿絵による考察内容の補完具合にも影響してそうです。詳細はお読みいただくのが一番ですので、皆様どうぞ。

 あと、ぼくの心にとまったのはURLにある"integra"の文字。これ、考察本のラテン語名(でってあげ)の最後に、「改訂新版」の意で新たにつけられた語なのです。この言葉をぼくが選んだのがあまりに遅すぎて表紙には入っていませんが、中表紙の裏にこっそり記されているはず。これ、本当は「改訂新版」とは訳せないはずなのですけど、「完全」のほかにも「形成途上」っぽい意味とかいろいろな含意があって、挿絵をいただいてほぼ完璧、これで一段落ついたけどでもまだこれからも、という自分の気持ちと合致したのでした。だから、この挿絵解説ページで同じ語が掲げられているのに気づいて、また感慨もひとしおだったし、また(あまのさんとおそらく同じく)すとんと収まった感じがします。
2005年3月17日(木) 暗礁乗り上げ
 複合原因により日記滞納。いま(24日19時)から順次埋めていきます。

 移動時間を利用して、福井晴敏『終戦のローレライ』やっと読み終わる。映画の方はまあ色々みたいですが、原作の小説には圧倒されました。宮崎駿が『雑想ノート』か何かにネタとして書いてた、巨砲潜水艦の大活劇がここにほんまに存在してました。うひ。残るは多砲塔戦車ものですね。それはそれとして、ヤマトが好きな人もエヴァが好きな人も佐藤大輔が好きな人も楽しめる一大戦争小説です。って範囲狭い。ええと、あと感じたのは。既に漫画版が登場してるそうですが、もしも長谷川裕一の手で漫画化されたら、非常にそれらしいものが生まれそうです。少年の純情、少女の覚醒、大人達の意気地。戦闘シーンなんてダイソードやリプミラのごとく。海洋戦争ロマン。
2005年3月18日(金) 個人的発見
 いまリピュアのDVDいじってて今頃気づきましたが、Aパートのパッケージって、3話分ずつのBパート妹が順番に描かれてるんですね。例えば第1巻は可憐、衛、亞里亞(Bパートの最初3人)という具合に。

 こういうのって前にも気づいてたのかもしれないのですが(それどころか、この日記にも記してたのかもしれないのですが)、最近そのへんの記憶がますます曖昧になりつつあります。認知症ですか。それともとくにシスプリ関連は酷いので、もしやシスプリ愛が燃え尽きたのか。そう思って試しに火を入れてみたら、それはもうボウボウに燃えさかるので全く問題なしでした。やはり脳全体の問題か。
2005年3月19日(土) 準備万端
 明日、MK2さん達と会うことに急遽決定したので、慌てて部屋を片付けようとしましたが、部屋の片付け方という砂文字は遠い昔に波が消してくれてました。トイレなんて既に便所の名すら生ぬるいし。「べんどころ」と読んでも未だ至らず。というわけで、外でお会いするのがお互いにとって健康的だということになりました。
2005年3月20日(日) いつも通りというか
 朝番。
 マジレンジャー、途中から。台詞を常に三男に遮られる次男の話(えー)。
 響鬼。ツンデレ女子登場の巻。デレと決まったわけではないですが。つか、仮面ライダーの弟子が女の子ってことは、将来女性ライダー誕生ってことですよね。いや、既にいま活動中のメンバーの中にいてもおかしくないのか。時代だ。しかし、ヒビキもイブキもいい大人です。
 プリキュア。しょっぱい煮物は、薄すぎる味噌汁の中に入れてしまえば、立派なけんちん汁のできあがりです。普通にいいお話。

 というわけで、MK2さんとまゆみさんとのオフ会、というかお茶話の顛末。

 午前中に雑務があったので職場へ。相手のあることなのでやや時間がかかり、慌てて移動。高速だっしゅで5駅分。「あ、あんよです。いまそちらご宿泊近辺の某駅に着きましたー」「あ、MK2です。いまそちらのお住まい近辺の尿駅近辺にいます」ぎゃふん。たちまち5駅戻る。しかも地震で遅れる。貧血で倒れそうになる。うどんすする。相手に事前確認の連絡を入れないという、自分のいつもの技が炸裂した格好に。

 3時間ばかり無駄にさせてしまったあげく、やっとご対面(ぺこぺこ)。そうそう、こんなお顔の方だった。MK2さんとまゆみさんとは3年前のオフで一度だけお会いする機会がありながら、その場では全く直接お話できなかったという人見知りのぼく(小動物系)。だけど何か黒いネタを美森氏経由でMK2さんめがけて1発投擲しましたが(翠星石系)。ともかく、直接お会いするのはこれがほぼ初めて。
 さて、MK2さんといえば、ぼくがサイトを始めるに至ったのも、いやそれ以前にネット掲示板に書き込むためにハンドルネームを持とうと思ったのも、この方と箭沢さんのおかげでありまして、それはもう多大な影響を受けまくってきたわけなのですよ。実存的な変態トークとか(なんだそれ)。そういう5年以上も前からの大先達と初対面、ってときに待ち合わせに失敗する、と。あうー。もはや下がりようがない評価段階ので、あとは自分というネタでいかにして満足していただけるかが唯一勝負です。つか、MK2さんもまゆみさんも、対話の中身を求めて来訪されたわけだろうし。(続く)
2005年3月21日(月) それは幻ではない
 ファミレスに入ってあらためて挨拶。そしてお二人vsあんよ。というか、まゆみさんvsあんよなのか。

 まず、MK2さんが話題を振って下さり、まゆみさんから「物語の書き方」についてお話ししていただく。何か鍵系で情景例を、と求められたぼくが咄嗟に出したのは、「みちるがトイレに」という身も蓋もないものでした(完)。そのあといただいたご説明では、かなり構造的な思考の枠組みが重要であることが分かりました。でもそれは、自分が読む物語作品をほとんど突き放して捉えられない人間にはけっこう辛い視点なんですよ、と意見が一致するMK2さんとぼく(「どこが書かなくていいことなのかが分からない」とかにも頷く)。まゆみさんは作品の統一性に常に意識が向く(というか、向けずにすむような完全な「おはなし」を求める)方なのだけど、ぼくの場合はわりといい加減に読んでいるということでもあり。それは同時に、物語を書くということに向き合う構えの問題でもありました。
 あと、MK2さんが書いた物語をまゆみさんがばっさり切り刻むことがあるそうなのだけど、その削除部分を別の言葉に置き換えることで活かすことはできないか、など提案してみたり。これはずっと後で出てきた話ですが。「幸福の極点にあるはずの結末から、さらに先にある物語を描くことは困難だ」という話なども。いつか猫になるしか。

 まゆみさんは物語を作ることのできる方であるとともにとても論理的な方で、MK2さんでも太刀打ちできないのが眼前で証明されました。うわー。で、まゆみさんの問いかけに対して、こちらが概念的説明や若干の分析を必死の姿勢で示すと、まゆみさんが「それってつまり」と綜合する、という展開に。いつも目的や意味から離れずに議論できるのは、空中戦がさほど好きでないこともあり、心地よい緊張でした。問答法をそのままやられている、という感じ。
 しかしそれは一方で、ぼくに「マニア」としての自己分析を迫られることでもあり。以前、利休さんのご友人からも「オタク」について求められた説明とほぼ同じ趣旨なのですが、今回はあのときよりもう少し自分の考えが深まってたかどうか。

 例えば、自分の脳内家族を事例にしてみる。普通、フィクションとして一つの世界を構築するとき、そこには日常の繰り返しを除く「時間の流れ」はない(脳内恋人は若く美しいまま)。この「えいえんはあるよ」状態に対して、一般人は「それはおかしい、現実世界と違う」と批判し、現実優位・現実帰還の根拠とする。
 それでもフィクションの世界に踏みとどまろうとするとき、たんに現実世界の要請を拒絶することなく、あえてそこに「時間の流れ」を導入する。ぼくの場合、瑞佳達は毎年1つずつ加齢してる。雛子は幼さを徐々に失い、未来はぐんぐん育っている。可憐に至っては6月に嫁ぐ。既に4年前からそのような「時間の流れ」を、つまり不可逆な変化や成長を取り込んでおくことで、確かにぼくの脳内家族は最初の状態のままではいられない。しかし、そのような変化をも包摂することで、先に述べた一般人の批判は受け流せる。いや、現実世界のこともちゃんと知っている。その要素もちゃんと入れてある、と。このときぼくは、現実世界の法則を尊重しているように見せながら、じつは、脳内家族の永続性をさらに強固に支えている。「いつかこの幸福は終わる」「皆、それぞれに成長していく」とあらかじめ語っておくことで、そのような未来を見越す現在は永遠化されるからだ。
 なお、考察本もこれと同じ論理で綴られている。

 この、「有限な時間を取り込むことで永遠を獲得する」みたいな説明を、当日はもう少しうまく伝えられたように思うのですが、「マニアの心理を分かりやすく述べてくれた」と評価いただけて安堵。自分を分解してるみたいなもんなので、安心しちゃいけないのですけど。つか、捨てられないものもあるんですよ。闇の中に。

 他にもたくさんお話しましたが、お二人の知性を満足させるには、こういう「知識はあるが知性はない」人間はそれなりに有益だったのかどうか。ぼくと同じように、楽しんでいただけたのなら幸いです。

 そしてお別れの後、おみやげの本を渡し忘れていたことに気づく。
 そしてふと携帯電話に目をやり、利休さんからの不在着信に気づく。
 そしてさっきまで座ってた席の2つ横に、利休さんがいたことが判明する。あちらは「あんよさんの仕事の関係者か」と気遣って携帯電話への発信に留め置かれていたらしく、ぼくはぼくで上着のポケットに入れた携帯の着信音に気づかず。こんな貴重な機会(利休さんとMK2さんはまだ対面してない)を逸したあんまりなニアミスに、電話の両側で「えーっ」と叫ぶ。
 最後までぼくらしい、しまりのない展開でした。
2005年3月22日(火) 慣れないことをするから
 そして知恵熱を出して寝ていたわけです。あうー。

 追記。書き並べで。
 あと思い出したのが、「闇の部分と知性のバランス」みたいな話。闇を何とか抑えるために、知性が磨かれ伸びまくるという。「でも知性が伸びた分、闇もわーっと伸びるんですよねー」と言ったら、MK2さんに苦笑されました。あははー。
 萌え文集界隈でのボケ・ツッコミ役割分担とか。ぼくはボケ役で満場一致。
 人形を目の前にしても、独り言しかでてこないぼくには、おはなしづくりは難しいと帰宅後に思いました。
 趣味と人格をきっちり切り分けるまゆみさんに賛嘆したとか。
 MK2さんとの萌え馬鹿爆裂会話を期待してた方もいらっしゃるかもしれませんが、えと、そういう話はほとんどなかったです。「存在の目的は何か」みたいな凄まじい話題はありましたが。で、こちらがあれこれ知識かきあつめてしゃべった結果をまゆみさんがさらっと綜合して終わり。うは。
 お二人のアニプリの感想、ほんとに訊きたいものです。

 まゆみさんMK2さん、どうもありがとうございました。こんどはコーヒーのおいしいお店を探しておきます。
2005年3月23日(水) おめめぐるぐる
 高熱にうなされながら見た夢は、『終戦のローレライ』小説版を一幕ずつ進めていくものでした。「なぜ」と叫びつつ頭蓋ぐるり。

 その後、しばらく病床に。頭痛の切れ目を利用して『ローゼンメイデン』原作読み返しまくる(寝なさい)。涙と鼻水で病状悪化(馬鹿)。
 ジュンの成長と、人形達の成長をそれぞれ再確認する。物語は、新たな人形が登場したりジュンが大きく変化したりする活動フェイズ(数話連続)と、つなぎ・息抜きのような再編成フェイズ(1話完結)によって構成されている。後者は、新キャラを含む相互関係をほぐし整理する場でもあり、そこでの微妙な変化はとても重大な意味をもっている。
 ぼくがこだわって読むのは前にも書いたPhase13で、これはジュンと真紅の関係にかかわる再編成フェイズ。そして、このシリアスな話に続いて描かれるPhase14(例の階段話)では、とことんギャグの息抜きで片付けられそうな内容ながら、前話での変化をちゃんと引き受けている。つまり、ジュンが真紅と肩を並べて『くんくん』を視聴するのは、このPhase14が初めてなのだ。「……意外に本格的だよなこの人形劇…」と呟くとき、ジュンの目線は真紅に相当近い。
 もちろんこれら2話での変化は、その直前にあった活動フェイズでの翠星石によるジュンの木の世話が影響しているはずだけど。
2005年3月24日(木) おくすり
 『ぐるぐるメダマン』て作品もありましたね。

 発熱すると便秘するたちなのですが、今回もやはりお腹が苦しくなりました。これが解消しないと熱も完全には下がらないので、動けるタイミングでふらふら薬屋へ。コーラックを求めると、店員さんから「一番強いのでいいんですか」と確認される。「ハーブ」とかいう名のだとお腹に優しいのだそうですが、効かないのが何より怖いので、普通の(つまり最強の)を購入。
 帰宅後、説明書を読んで、食事直後に飲むと効き目が悪いことを知る。ひとつ利口になった気分で食事をとり、風邪薬とともにコーラック服用する。あうー。ひとつ程度の進歩では全く意味がない自分に嫌になりつつ、これで明朝だめだったらもう一度服用しよう、と覚悟して寝る。
 そして明朝どころか夜中のうちに決壊。便座でほっと安堵の溜息をついたのは一瞬の幸せにすぎず、そのまま足腰たたなくなる罠。もはや普通のコーラックでは耐えられないほど老いたか、と涙しましたが、よく考えたら固形食とってないので効果抜群なのでした。
 おかげで熱も下がりました、ありがとうピンクの小粒。でももう少し少量のパッケージがあると懐も助かります。あんなにいらんて。

 最近これだけ効き目のあった薬といえば、もう一つ思い出すのが。
 前に飲み会でつぶれた翌朝、天井が回転してて起きられず。でも朝方に打ち合わせがあるので、否が応でも動かねばなりません。水もコーヒーも胃が受け付けず、こういうときにポカリがあれば、と苦しんでいた刹那。ぼくの目に飛び込んできたそれは、「オレを飲め」と力強く笑いかけていました。
 ガッツ缶。
 だいぶ前にいただいて、大事にしているうちに賞味期限が切れていたというのは相変わらずの自分の間抜け加減ですが、これぞ天佑。音を立てて飲み干したとたん、二日酔いが嘘のように消え去りました。ありがとうタカさんこと美奈子さん、でも耳に遠く響くのは「お礼にお前のを飲ませろ」の太い声。
2005年3月25日(金) 薔薇とか
 『駄目人間道』さん3/21)、考察ページの紹介ありがとうございます。新たに読んで下さる方もなおおられるわけで。

 シスター・プリンセス・メーカーにタイトルロゴが。おおお。これからの展開にも注目です。

 『ローゼンメイデン』の人形達にとって魂ともなる謎の存在、ローザ・ミスティカ。綴りは Rosa mystica でしょうか。そのままならば聖母マリアの象徴。例えば「くすしきバラの聖母」として最近顕現があったり、モーツァルトの宗教音楽の中にも出てきてたり。ここでの祈りの言葉「聖マリアの連祷」の Rosa mystica に「神秘の薔薇」という訳語もあてられていますが、もしこれを the Secret Rose と英訳できるなら、W.B.イェイツの同名作品にも結びつくかも。
 で、イェイツの『神秘の薔薇』といえば、ぼくにとってはあれですよ。千影ですよ(アニプリ第18話分考察参照)。電波考察の扉がここに開きそうなのですが、いやいやそこまでは。むしろSSネタっぽい。水銀燈を仲立ちにして、真紅と千影がnのフィールドで出会う話。ジュンと航がほんの一瞬触れ合う話。雛苺と雛子が。翠星石と可憐が(それはどうか)。
2005年3月26日(土) おさなごころ
 センバツ。如水館高校の校歌って、作詞:大林宣彦 作曲:久石譲なのですね。驚きました。

 あまのさんから、「絵が描ける能力」は「魔法の力」だというお話。絵を描けないぼくにとってまさにそうなのだけど、その一方でWhiteさんがご指摘のとおり、「魔法のような文章というのは存在する」。たった一言で世界の現れ方を変えてしまうような言葉は確かにあります。それはたった一人に届くこともあるし、詩人としてわりと広く受けいれられる場合もあるし。ただ、言葉は絵よりもその魔法の力が判然としづらい、ということはあるかも。逆に言えば、絵は魔法として誰にも受け止められやすい。
 ところで、その魔法としての特性・限界は、言葉と比べて絵の方が分かりやすいのかどうか。魔法もその広大さの中で、幻術とか錬金術とか精霊術とか、各人が得意とする特定の領域とその限界が細かく定められているわけですが。言葉なら、例えばぼくの考察は明らかに詩ではない。膨大な言葉を積み重ねていく説明の手法は、一言で世界を変えるものではない。それはまた小説でもないし批評でもない。方法も目的もすごく限定されたものとして「考察」と呼ぶしかない。こういうジャンル名を通じて、言葉(文章)の特性は了解されやすい。たぶん。
 一方、絵についてはそういう限定はしにくく感じたり。ちゃんとそのための用語があるのかもしれないけど、ええと(無知)。絵のタッチなどももちろんなのですが、例えばあまのさんが雛子(子供)を描きづらかった(そして一方で年長者が得意)というあたりに、何かそういうあまのさんの絵魔法の特性が表れてませんか。おんぶされた雛子は兄に全ての骨を委ねるのだけど、そういう子供の依存性というか、自分と他者が未分化であるがゆえにこちらの中にずかずか踏み込んでもくる我が儘さと、こちらの隠した気持ちを引き出してくれる純粋さ、そしてその気持ちに小さな体がついてこないもどかしさとを、あまのさんがこれからさらに描かれたらどんな感じになるだろう、と勝手に想像してみたりもします。
 ただしこのへんは、「子供」像の相違でもありますね。ちっちゃいこちっちゃいこ。ぼくはわりと属性的に還元しちゃうので、そのへんがアレ。
2005年3月27日(日) 溜めたー
 朝番。響鬼が終わるあたりまで寝過ごしました、がーん。
 気を取り直してプリキュア。ポルンの成長に沿って出てくる問題。ひかりと自分が本当にパートナーになっているのかどうかを、確かめないと不安でしょうがない。メップル達の真似をしてみるんだけど、その感触がどうも腑に落ちない。なぎさにわーわー怒鳴られてるから、ひかりの穏やかさが余計に寂しい。つか、ひかりが抱えている不安を直に伝えてくれないと、腹を割った関係にはおそらく行き着かないのですが、でもそれはポルンが受け止められることではあり得ず、なぎさやほのかもメップルミップルとそこまでの関係に至ってはいないのかもしれない。
 次回ほのかの誕生日を迎えて、ひかりはたぶん再び、自分が何者なのか、自分をこのように受け入れてくれる他者・世界は存在するのか、と戸惑い悩むことになるのでは。そこでポルンが「今日はひかりとポルンの記念日」とか言って勝手に大騒ぎしてくれたら、ぼくは泣くでしょう。
2005年3月28日(月) 馬鹿考察(下品)
 ネタがないときはお蔵出し。昔書こうとして失敗した考察の前書きを転載しておきます。

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『シスター・プリンセス』における妹達の胸サイズ 〜ゲーム版2を手がかりに〜

 はじめに 〜考察の視点〜

 『シスター・プリンセス』の妹達について論じるさい、各人の胸サイズ(いわゆるバストサイズ)に言及されることがある。これは、男性ファンが共有する女性に対する一般的な注目点というだけでなく、妹達の設定の不明瞭さに由来するものでもある。妹達は、その出自である雑誌企画連載において、読者の多様な年齢に適応できるようにと、あえてその年齢を曖昧なままにされている。これについてはまた、一般誌という媒体の性格が女性の3サイズ表記に対するある種の制限を与えている、あるいは読者の想像力に委ねられるべき余地としてあえて設定されないままに残されている、などという理由も考えられる。そしてその結果、妹達の身体的設定のうち、身長以外に明確な数値が与えられていないという状況が生み出されているのである。原作、ゲーム版、アニメ版などといったオフィシャルな作品相互においても、この曖昧さは確認できる。妹達の年齢は、例えばアニメ版ではそれなりの設定がなされているが(第3話分考察参照)、これは他の領域どころか同じアニメ版のリピュアにすら共有されていない。これと同様に、妹達の胸サイズもまたほとんど確定されないまま、制作者の裁量で相当の幅をもって描かれているのだ。

 このような曖昧さに対して、多くのファンは、各自の基準や作品解釈によって妹達の胸サイズを判断することで対応している。その成果は、例えば各所のイラストなどに明確に示されており、そこにはファンの自由な想像を許す作品のゆとりが確かに具現されている。また、ファンの個人的判断が作品ならびに妹萌え解釈と結びついた例としては、YU-SHOW氏『好き好き大好きっ』の2002年10月2日分日記が挙げられる。とくに千影の胸サイズを小さめに見積もる氏の姿勢は、リピュア放送時の歓喜にも一貫している。これに対して、上海亭氏『12人いる!』では、千影の胸サイズが大きいとする立場を、例えばイラストコメントにて表明している。また、霧島キリ氏『桐箪笥』の2002年10月12日分日記では、たんなる大きさの比較ではなく、年齢・身長との比率という観点から、妹各人の発達の度合いを検討している。

 このような多様性を前にして、論者は、妹達の胸サイズを確定しようとは思わない。ただ、それらの解釈のうち、もしもある程度客観的なものとして共有しうるものがあるとすれば、それを明らかにしたいと望むに過ぎない。つまり、ある作品における妹達の胸サイズが、その絶対的な数値の確定は不可能としても、せめて相互比較による順位付けとして把握できるかどうかを、検討したい。本考察は、このような限定的な目的にたって、妹達の胸サイズ計測・比較を試みるものである。

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 測定用になぜかノギスとか買ってました。馬鹿です。
2005年3月29日(火) 続編とか
 AIR特別編とローゼンメイデン続編。わーい。薔薇乙女は「アニメオリジナルストーリー」で原作者も製作に参加、という望ましい展開に。第1期で原作の流れからかなり外れてきているわけですから、完全にオリジナルというのは正しい方向だと思います。

 『コマンドいちねんせい』より、ドイツ戦車等の見分け方。ヘッツァーが「みんな大好きな駆逐戦車」というあたりが(笑)。ぼくは昔、ティーガーとIV号H型の区別がつきにくい子でした。米英軍兵士みたい。

 ゆっこさんの呟きも凄まじい。ウクライナたんぴんち。風邪、どうかお大事に。
2005年3月30日(水) 三次元への未練
 任務のデリート許可を得ました(駄目)。

 NHK連ドラ、『ファイト』が始まりましたが。ヒロイン役の本仮屋ユイカさんがやたら可愛いです。映画『スウィングガールズ』でも正調眼鏡っ娘役として大人気でしたが、なんか気品があります。ドラマ第1話でソフトボールのユニフォーム姿などを披露、胸のあたりの寂しさに心の琴線がふれまくっていたのですが。バスト78。なるほど。剛速球で萌え。神岸あかりや美坂栞的な3サイズです。
 第2話では四万温泉が登場。うああ懐かしい。幼い頃、祖母に連れられてよく行きました。自分の過去を振り返っているうちに、スマートボールで遊ぶ姿が画面に描かれて悶絶。あのゲーム、まだ存在するのか。

 こないだ『けろけろチャイム』全30話を観倒しました。さんくす美森氏。途中で話数を縮められたとか、関連商品がほとんどなかったとか、色々逸話のある作品ですが。当時もはまったノリはいま見返しても相変わらず楽しくて、原作の雰囲気はおそらく地の果てに消えているけど、それでもいいアニメでした。物語がちゃんと終わってる(続いてる)ところも良し。そして分かりやすくリープ萌え。あとスー様の脇腹。

 追記。
 黒鮫建武隊さん『どっかり鯨』にて、アニプリ使用BGM一覧などが公開されてます。サントラ収録曲のどれをどこで使っているか、全部網羅したという労作です。ぼくもあのBGM大好きなのですが、いかんせん曲を覚えられないという罠。でも今回、このリストを参照しながら再視聴する楽しみが新たに生まれました。ほかのアニメ版シスプリ関連コンテンツも資料的価値にくわえて面白いです。「そんなバカな!」一覧とか。これ、ぼくも作ろうと思って果たせなかったので、悔しくもあり嬉しくもあり。
2005年3月31日(木) 萌えについて
 「萌え」とは何か、というお題を昨晩まゆみさんからいただいて、チャット的にいろいろ説明を試みた末、この日記にまとめ文章を掲載するという約束をしました。これまでも既に各所で論じられ、そして錯綜したまんまな話題であるわけですが、ぼくもやはり十分に答えられるとは思えません。ここでは、まゆみさんが求めているであろう問題に切り分けつつ、自分に即して答えてみます。

1.「萌え」とは何に対するどのような感情か

 ぼくの場合、「萌え」という感情はある幅をもっています。
 一方では、例えば「猫耳幼女の靴下あんよがぷらぷら」という光景に対して萌える。ここでの「萌え」は、おそらく一般には「可愛い」「心をくすぐられる」「フェチ」「欲情」という言葉で表現されそうな感情です。
 他方では、例えばあるキャラの歪んだ性格面や、正負どちらにでも突き抜けた個性・行動などの現れように対して萌える。ここでの「萌え」は、おそらく一般には「魅入られる」「崇拝」「畏怖」という言葉で表現されそうな感情です。
 いずれの方向にしても、そこに共通の性質があるとすれば、それは「駄目」なものへの子供っぽい愛着です。ここでの「駄目」なものとは、たんに低劣なものだったり、未熟なもの・不完全なものだったり、世間の大人なら呆れる・引くものだったり、あまりに純粋すぎてこの現実世界に存在しがたいものだったり、もはや手に入らないと分かっているはずのものだったりします。
 そして、そこではぼくの場合たぶん、そんな「駄目」なものに心惹かれる自分自身の「駄目」さ加減に対して、自己憐憫的・自慰的な愛情を持っています。対象が「駄目」と知り、そんな対象に惹かれる自分も「駄目」だと分かっていながら、そこに引き寄せられていくという自分の姿を、どこかで冷静に「これやばげ」と眺めながら、「このままでなんとかならんかなー」と思いこんでいます。

2.「萌え」の機能は何か

 ぼくの場合、「萌え」は否応なく出てきてしまう感情であり、何かの手段として意図的に「萌え」ているわけではありません。それでも「萌え」によって以下のような効果を得られている、とは言えそうです。
 まず、自分の「駄目」さ加減を自分で確認できる。そして上述のとおり、そんな自分を愛しく思える。自虐的な自己愛というか。
 次に、自分の「萌え」語りをなかだちとして、他の「駄目」な人達と交流できる。同じキャラを可愛く思う、というレベルでの共感もあれば、似たような屈折を互いの中に見出す、というレベルでの共感もあります。世間で受け入れてもらいがたい感情について語り合う仲間を得られるというのは、とてもありがたいことです。
 つまりここでの「萌え」とは、自分自身の中で、また他者との関係の中で、自分という存在を(屈折したかたちで)肯定することを、可能にしているわけです。その意味で「萌え」とはコミュニケーションツールであり、他者に自分の興味関心を説明するさいの名札でもあります。
 そしてこういったことは、自分の生き方について客観視したり考えたりするよすがにもなるはずです。そのへんは次の項目で。

3.「萌え」は現実逃避の手段にすぎないのではないか

 たぶん、ここがまゆみさんの最も気になる点じゃないかと思うのですが。
 例えば、世に言う芸術家や作家などの中には、様々な屈折や自分でどうにもならない闇をかかえて、それを昇華するかたちで作品を生み出す人達がいます。でもそういう人達でも、多くは、最後まで自分の問題を解決できずに終わります。(解決できたらその人固有の作品を生み出すことはもはやできなくなります。)自らの闇と向き合う彼らの作品創作を通じて、例えばダンテのベアトリーチェやゲーテのミニヨンといった魅力的な・しかし実在しない「萌え」少女像が生み出されていきました。その点では、聖母マリアや観音様だって、宗教的な理想的女性像といえそうです。それらのキャラには、この世に存在しないがどこかに存在していてほしいイメージが込められています。
 さて、ぼくには宗教的彼岸を感じることができませんが、2次元世界なら馴染みあるものです。芸術家達のように天才をもって創造し洗練させることはできませんが、シスプリを考察することならできます。ぼくが「萌え」た作品の中に、ぼくの問題解決の手がかりを見出そうとすることはできます。実際に、ぼくはアニメ版シスプリに傾倒し考察を著すことで、ある個人的苦悩を相当程度解消できました。自分が「萌え」た根拠を突き詰め、その感情を作品解釈というかたちでいくぶん冷静な文章にすることで、ぼくは自分というものを見つめ直すことができたのです。
 しかしその一方で、ぼくは仕事などで直面している問題から逃避するためにも、「萌え」を利用してきています。考察書くのに忙しくて仕事が手につかないとか。こういう社会人失格な態度については、確かに「現実逃避」と呼ばれて当然です。このへんのバランスがもしうまくとれるのだとすれば、そのとき「萌え」は他の趣味などと何ら変わらなくなります。ですが、この現実世界でうまくやっていくということは、自分の行動をそれなりに世間並みにあわせるということであり、自己愛の強い人間や自己肯定感の薄い人間にとってそれはわりと辛いことだったりします。「弱い」と言われればそれまでですが。「萌え」のおかげで生きられてるけど、「萌え」のためにそれ以上進めないというか。「萌え」そのものが唯一の目的になっちゃうというか。
 ぶっちゃけぼくが「可憐のためなら歯を食いしばって」と実際に行動できるかどうかが問われているわけです。それができなければ、「だって存在しないのに」という問いかけに応じることは無理。そして、聖母マリアのイメージに力づけられて行動してる人は実際にいるわけで。

 うーん、まとまりません。本当は「鑑賞者としての立ち位置」とか「モノへの引き下ろし」とか色々あるっぽいのですが、とりあえずここまでで。

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