日記
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2005年2月1日(火) べんきょっきょー
 つまりぼくは、「母性」と「幼女性」に萌えるのか。それって神話的女性像のうちの2つなのかな(幼女=娘、とすれば)。長森、雛子、未来、というのはそのまんまだし、可憐は両方を併せ持っている、というわけ。
 ろーぜんでは、「幼女性」は雛苺として、「母性」がのり。でも、まだこの姉キャラには転ばない模様。真紅はむしろ父性。たぶんちんちんついてる。

 それはともかく、あまのさんトップに翠星石。さすがの1枚です。

 『東部戦線』、楽しみですよねえ。と言いつつ、『装甲擲弾兵』もまだ買ってなかった罠。旧作は実家の押入の奥だし、手元に置いておきたい一作です。

 ONAさん日記より、この謎の動物は(笑)。ぼくは『凸凹大学校』の「エスチャー」を思い出しました。嗚呼、懐かしのずうとるび。
2005年2月2日(水) あれくさんだー滞納
 また日記を溜めました。でも聞いて下さい、今回のには深い理由があるのです。

 じつは、下宿の掃除をしたのです。
 設備の点検があるという通知を受けたので、あわてて翌日の早朝(すでに遅い)から片づけを始めたのです。ちょっといじればゴミが出るわ出るわ。風呂場やトイレはもはや手遅れなので、部屋と通路だけ重点的に整理。クローゼットは再びダンボール箱の向こうに姿を消し、考察本の残部もどの箱に詰めたのか不明となり、ゴミ袋を出すついでに開けた郵便受けの中からは、年賀状や請求書がごきげんよう。舞い上がる埃に喉は痛み目は霞み、顔を洗おうとして風呂場に入れば一面を覆うカビの斑点に意気阻喪し、床やスペースがやけに空いたために暖房は効かなくなり、とさんざんな結果となりました。
 おまけに点検に来ないし。ここで何かが切れたぼくは、分厚い封筒束を丹念に破り、中身の請求書を今月分まであわせてひっつかむとそのまま支払いに出かけたのでした。

 いま、ぼくは家賃も電話代も他の入金もいっさい溜めてません。この6年間、決して起こり得なかったことです。落ちつきません。何かあるんじゃないかと心配です。溜めていないと駄目なんです。せめてあちらの欲でも溜めとけばいいんでしょうが、最近は溜まるほど湧いてこないうえにすぐ消費してしまうんです。金も出るばかりで溜まりません。

 それで、日記を溜めることにしました。すでに滞納者としての自己規定が完成しているぼくには、何も溜めないということが不安でしかたがないのです。
 では、どうして日記更新を再開したかって? 別に新たな請求書が届いたからではありません。この日記以外にもずっと溜めているものがあることに、ようやく気づいたからです。

 それは、仕事。
2005年2月3日(木) ひとのみち
 馬鹿話。

らむだ「ぶるまを絶滅させないために、自衛隊で導入しないかな。」
美 森「サマワで隊員が履くのか。」
らむだ「つか、むしろ被る。ヘルメットの上に。」
美 森「それ、『武装した変態』と間違われて射殺されないか?」
らむだ「あー。でも迷彩ぶるまとかは邪道だし。
    でも紺色だと、けっこう平和的で人道的な雰囲気に見えない?」
美 森「あのな。そういう変態を射殺してやったほうが、よほど人道的だと思わんか?」
らむだ「ああー。」

 痛みを伴う人道的支援。
2005年2月4日(金) おにーおにー
 昨日の節分では、豆は年の数しか食べられないので、もうちょっとと欲しがる未来に分けてやりました。一方、雛子ちゃんに取り分けてもらった豆を20個だけ残して妹に返す瑞佳の姿に、いろいろと思うところはありましたがあえて言わず。
 そのあと、吉方をみんなで向いてもぐもぐ。うちでは太巻きではなく、バナナロールとかチョコロールとかを切って口にくわえてます。美森さんちの亞里亞ちゃん発案。
2005年2月5日(土) ゆるゆる
 新たな請求書が届きました。これでしばらく大丈夫です。

 いや、駄目なのですが。メールの返事も滞ってるし(既にそれが滞納だ)文章も書けなくなってるし。ちょっとリハビリしてます。
2005年2月6日(日) 新年度
 デカレンジャー。もう、ほんとに大傑作な最終回。主人公達が絶望することなく、仲間を信じて自分の役目をきちっと果たすことで、きちっと正義を実現する。その信頼と意志とが、「相棒」のやりとりに象徴されていて、パズルのピースが全て収まった感動に震えました。
 こういう正義の活動ってのは、誰かをやっつけて完全終了とういことはなく、アブレラの言葉通り次々と新たな悪が出現する。だけどバンが言うように、必ず正義も消えることなく、平和な日々を守っていく。その地道な戦いの姿を、この作品は毎回(サブタイトルに示されるように)「エピソード」を積み重ねることで描き、さらに最終話でそのメッセージを明確に示した。いわゆるキメ台詞はいろいろあれど、作品内での行動を踏まえて納得できる台詞がこうして幾つも心に届くというのは、本当に希なことです。あと、ウメコがマーフィーにあの骨(違)を投げる瞬間なんて、かつての両者の交流話を思い出して泣きましたよ。まあ、唐突な「こんなこともあろうかと」的ネタもありましたが、そこはそれとして。個人とチーム、日常の中での正義の輝き。これぞ戦隊ものという素晴らしい作品でした。ゴーゴーファイブと同じ、という印象はやはりその通り。
 なお、もっと端的な感想はいずみのさんのとこに。もう、お見事です。

 響鬼。シナリオメインライターがきだつよし。
 きだつよし団長の演劇を観に行ったことが一度だけあるのだけど、そこでは特撮ヒーローものの悲哀と再生とが、どこまでも泥臭く訴えかけられていた。その泥臭い意志をテレビという映像の世界で描こうとすれば、主人公が若い俳優では駄目なのであり、またそのもはや若くない主人公だけでも駄目なので、つまりおっさんライダーと少年とが共に主人公になるしかないのでした。少年がヒーローなるものを大人から受け継ぐ物語。やっと仮面ライダーが、子どもの憧れの対象になります。作品中で。CMでも「君の力が必要だ」とか言ってるのは、視聴者も一緒に戦う仲間だということ。テレビの前で太鼓叩くわけですね。
 あのサブリミナルっぽい字幕も、舞台演出と似ているなーと思えたらたちまち慣れました。

 プリキュアマックスハート。やばい、なぎさがプリキュア中毒に(笑)。藤ピーはオープニングにも登場していませんか。そうですか。格闘アクションに期待できそうです。あと金髪娘。うなじに萌え。

 映画版『AIR』は各地であれこれ話題となってますが、こちらは観てないので。とりあえず、テレビ版に今後も期待。
2005年2月7日(月) 胃が痛い
 仕事上どうにもならない問題を下の者から言われ泣かれる。こっちも辛いけど、ひとまずやんわりつっぱねるしかない。直後、上司に相談してるうちに誰にとっても納得のいく落としどころが見つかる。でも下の者にはまだ伝えられないので、しばらく憎まれる予定。一緒に泣いてれば気は楽だけど、そうもいかない。

 イライラを持ち帰ると子供によくない、と以前は苦慮してましたが、最近は逆に堂々と持ち帰る。出迎えた未来を玄関先で抱え上げて、イライラしてますよーと素直に告白。つむじのあたりをぐりぐりされつつ、いらいら虫とんでけー。と何度か繰り返されれば、本当にすっきりした気分で娘にお礼が言えるもの。そのまま横に抱えれば、未来号は居間に向かってぴゅーっと発進であります。
2005年2月8日(火) 反抗期
 あまのさんより、ライターと絵描きの関係まとめ。「ともにつくる」とは全くその通りですが、その過程では、「タタカイ」という印象も強いです。つまりは切磋琢磨ということなのですが、例えば考察本の挿絵はぼくにとって絵描きからの痛烈な一撃であり、挿絵感想はぼくからのカウンター。だいたいその前に、本文と表紙絵ですでにお互い一発ずつ入れてましたからね。これで「あいこだな」「ああ、あいこだ」となれば、もう最高です。って前にも書いたか。

 雛子ちゃんの頭にイチゴのっけて「雛苺ー」と遊んだら、すごい剣幕で怒られました。仲裁に入った瑞佳も「それじゃ苺雛だよ」とのんきなことを呟いたがために余計に炎上。難しい年頃になってきたのかな、と思ったら、どうやら可憐が最近いないので寂しいらしく。そうか、ぼくだけじゃないんだ。と思った瞬間、風呂に向かう雛子ちゃんの後ろ姿に、お詫びのしるしに背中を流してあげる、などと言ってしまって愉快に壊滅。わはー。
2005年2月9日(水) におうがごとく
 映画版AIRの感想が、あちこちであがってますが。以下、まだ観てないくせにネタバレ。

 原作ファンからすれば厳しくなるのは仕方ない出来のようです。だけど一件気になります。

 なぜ「観鈴ちんのゲロ」に萌えないのですか。

 昔、妹キャラについても同じことを主張しましたけど、そういう汚いがしかし日常生活をともに送るなかで出くわしうるものをも受けいれることができて、はじめてお互いが家族の一員になれるのです。映画版内の往人は観鈴のゲロにおそらく真っ向から向き合った。ならば、それを批判するだけの視聴者は、往人にボディブローをくらわされて当然のへたれでしかありません。
 ただし、視聴者がそういう態度をとってしまった原因の一端が、作品のなかにあるようです。なにしろ、ゲロが透過光で隠れていたそうですから。その吐瀉物をきちんと描いたなら、この映画はそれだけで「萌え」の新たな真の試金石をぼくたちに突きつけることになったでしょうし、出崎監督は「ゲロ監督」の名をほしいままにできたはずです。
2005年2月10日(木) 溜めすぎ
 延々と吐瀉物話が先頭に置かれていたわけですが。やな日記だ。

 『まるたぁ小屋』さん(2/8)、考察本ご購入いただきありがとうございますー。もちろんアニプリもおすすめですので(笑)。それにしても、どんな箱で届くんですかね、通販では。自分で注文してみようかしら(やめれ)。
2005年2月11日(金) にいさま失格
 白雪の誕生日。今回も何もお祝い事用意してません、あうー。

 文月さん紹介されてた「track feed」、ぼくもサイトのトップ等に入れてみました。以前受けられたアクセス解析サービスが、サーバの移行で使用不能になったので(今月しばらく反応できなかったのはそのためです。失礼)。今のところ、のーとん先生に邪魔されたり何だりと慣れるまでが大変ですが、それでもけっこう便利そうです。
2005年2月12日(土) 照準セット(下品)
 馬鹿話。

らむだ「最近のスパムタイトルは色々考えてるねえ。
    『どんな年齢のがお好き』とか『コスプレ少女が』とか。」
美 森「対象者向けにだんだん絞ってきてるんじゃないのか。お前狙われてるぞ、やばいぞ。」
らむだ「そんなわけあるか。でも、確かにねらいを絞ってきてるような。
    一時期あった『巨乳』もののタイトルは全くこなくなったし。」
美 森「まあ、巨乳を絞っても貧乳にはならないわけだが。」

 過ぎたるはなお、だっけ(違います)。
2005年2月13日(日) 朝番
 マジレンジャー。きょうだいもの、かつ三男がレッドというのは初めてでしょうか。エレメント(四大+雷)の属性と各人の性格をこうやって合わせるのか、と納得。映像のあちこちでハリポタや『少林サッカー』の影響という名のまんまさ加減ですが、それはそれとして意外に(失礼)面白そうです。あの呪文もあまり気になりませんでしたし。
 ところで、あの携帯は555の玩具の流用?

 響鬼。映像効果に慣れました。言動の端々に細かい各人っぽさが表現されていて、わりと丁寧なつくりに思えます。こないだまでの山中という異界への境界域から、東京の下町というこちら側の世界に場所を移すことで、少年の目を通して異形の者が身近なものになっていく。だけど、そのこちら側はあくまで下町っぽさを残した東京という描かれ方をするのだとしたら、そこに郷愁を感じてしまう世代としてはやはり昭和を呼び込んでしまう。何を言ってるのかわやですが、都会と田舎のよく分からんあいだっこに、響鬼はどんどこどこどこ存在すると。

 プリキュア。今回もうなじ。作画の注意事項にしっかり記されてるそうですね、神の生え際について。やはり。藤ぴーが登場したのには安心。つか、ひゃーと叫びました。何だこの乙女回路は。そしてあえて二人の間に入らずにおくほのか。万歳。
2005年2月14日(月) ぶらっくまんでー
 若人集団から恵んでもらうなど、職場にて3個獲得。ほぼ例年通りの結果で、つまり本命はなし。

 それより何より昨日、可憐本を買いにとうとう行けなかったことが……(涙)。休日出勤なんて大嫌いです。しかも尻ぬぐい。
2005年2月15日(火) やっと一息
 昨晩の飲み会から帰宅したあたりの記憶がとんでるのに、IRCによく分からない痕跡を残しているところを見ると、どうやら巡回だけはきっちりしていた模様。業深め。
 そして今日も飲む。脳細胞がりゅんりゅん減っていきます。

 こないだ記した案件、ほぼ解決。歯切れの悪さ無限大だけど、少なくともよそからの干渉を回避できたっぽいし、これ以上はぼくの責任の及ぶところでもない。こっちに愚痴をこぼす人が多いのは、わりと避難所として機能しまたそう認識されてるということらしいけど、さて問題はぼく自身が、その避難所を守れるだけの頑丈さに欠けているということ。

 日記で愚痴が増えてきたのを自分でも感じます。やばいー。
2005年2月16日(水) のにのに
 「あんよがのにのにする」。素晴らしい幼児語の世界。のにのに。

 考察本委託通販、再び売り切れた模様です。最初はあっという間でしたが、今回は捌けるまでかなり時間がかかりましたから、再度の追加発注はかからないかな。手元にあるのは、あと30部ちょっと。お届けすべき方に、しかしまず送らねば(遅すぎ)。
 あと、改訂新版で追加したリピュア新規補論は、サイトでも公開しますのでもうちょっとだけお待ち下さい。

 あまのさんより。「挿絵に関して言えば、それは二次創作文章に対する三次創作」というのは、なるほどもっともな話で。そうすると、ぼくの挿絵感想は四次創作になるのかな(「創作」と呼べるほど独立してませんが)。潤いとしての挿絵というのもその通りですね。

 ついでに、愚痴っぽいことを。
 絵を描ける人や文章のうまい人には憧れるけど、絵も文章も巧みな人をみると、ずるい!と思ってしまう。「かえせー」みたいな。描く努力もせずに「絵が描けない」とのたくるのは明らかに自分が馬鹿なのですが、それでも正直、両方できる人はずるい。きー。と感じることが多い。絵だけなら「でも自分には文章があるし」と言い訳できるけど、両方やられちゃうとそれも不可能なんですね。
 とくにあまのさんの場合、文章が論理的な書き方なうえにそこに情感や諧謔をうまくのっけてこられるのだけど、これは自分の考察文で注意しているつもりのことなので、よけいに切迫感を覚えたりして。比べると、とくに自分の文章にいかにリズムがないかを痛感させられます。美しくないんですよね、どうも。

 ただまあ、そういう欠点を直そうと頑張りすぎると長所も失いやすいので、逆にぎこちなさを味にできないかと足掻いてみたりしたことも。例えば考察文では、作中固有名詞以外のカタカナ言葉をできるだけ排除しました。狙った効果は、文章を全体的に硬質にすることと、カタカナ表記箇所をいっそう軽くすることでした。とは言っても、普段の文章でもあまりカタカナ使わないんですけどね。あと、冗談を冗談として文章でうまく盛り上げられないので、とことん真面目な顔して冗談を記すようにした、とか。表現や展開を愚直なまでに定型化することでそこから読者が考察世界に順応していくようにした、とか。
 名前が付されていなくても、ああこの書き方は良くも悪くもあんよだ、と分かってもらえる文体を、求めていたのかもしれません。絵を見るとたちまち絵師が分かりますが、文章だとなかなかそうはならないから。そう、そこにも絵師への憧れがあるのかな。
2005年2月17日(木) 立て直し中
 りなもさん、考察本お買いあげいただきありがとうございます。本て形態はやはりしっくりきますね。

 『月の夢達』さんから、妹達の距離について(2/2、2/17など)。「比較のベクトル」については、リピュア考察3とか、キャラコレ設定分析とかでもぽちぽち記したように思います。あとこれはキャラ立ての対称軸の話にも。
2005年2月18日(金) 横から
 各所でネット上の保守・リベラルについて論じられてますが。間をとった報道の顔役てのは誰かいないのか、どこの局の顔も今ひとつあれだし、と考えているうちに、「筑紫哲也と木村太郎のあしゅら男爵」というのをふと思いつきました。下半身があしゅら的じゃないのが欠点ですが。あと、木村よりももろ小泉純一郎の方が似合いそう。

 で、このへんで弁護士1名が炎上中。「コメントスクラム」「ネット右翼」など様々な言葉について議論するきっかけを作ってくれた一方で、こんな弁護士にIT法関係を任せておいていいのだろうかという不安もかきたててくれました。つか、弁護士って一方の立場をとことん擁護するのが商売だから、自分の非を一切認めちゃいかんのでしょうね。というわけで、ネット上の裁判官役(陪審員はすでにいるけど)の登場を希望するとともに、「ネット小倉秀夫」という新しい用語を提案してみます。さしあたりの意味は、「存在しないものを否定的に意味づけ、それが見つからないことをその対象のせいにする」です。
2005年2月19日(土) 記号とか
 わー、東部戦線決まりですかっ。やたー。政治将校ー。しかし、ASL2ndはさすがに出せますかね……。アップフロントあたりをまず希望してみたり。

 望月さんのとこで「オタク文化は記号操作で進化した」ことについての議論。望月さんが求めている具体例が相手からさっぱり示されない(ただし療養中)ので話が進まないのですが、薫さんの指摘するように、東浩紀氏には実証を避ける意義があるのだとしても。誰か代わりにその作業を自発的にやっていないものなのですかね。「あえてやらない」のと「そもそもできない」のは全く別ものだと思うのですが、どうなんでしょ。
 これは当該議論の参加者だけの問題ではなくて。記号論にせよ他の理論にせよ、「ほら、こういうふうに当てはめるとそう説明できるでしょ」と具体化してもらいないと、納得はできないし、頭がついていかない。そして、これが一番大事なことだと思うのだけど、その見方をすることが楽しいとは感じられない。解釈や批評がある新たな楽しさを読者に提供するものでもあるとすれば、その楽しさを読者に分かってもらえない、そしてその対象作品をもう一度見てみようと意気込んでもらえない理屈は、もったいなさすぎる。

 例えば、萌えキャラ作品はあるオタク的記号の操作で発展してきた、とする。では、萌えげーのキャラ紹介で並べられる順番には、どのような操作の発展が見いだせるのか。昔から大衆向け作品にあるその紹介時でのキャラ立てテクニックと、萌ええげーでのそれとにどのようなオタク的相違があるのか。
 これは、ぼくがシスプリのオフィシャルキャラクターズブックを初めて見たとき、水着姿の咲耶
の胸に引いた直後、雛子の幼稚園通園姿を見てすごく和んだことが背景にあります。ここではおそらく、「年長・幼女」「巨乳・貧乳」といった対称が、「金髪」という強めの性格要素を暗示する同一点を軸として、ぼくに看取されたはずなのです。だからあの12人の並び順を考えるだけでも、色々でてくるように思えます。
2005年2月20日(日) 朝番
 マジレンジャー。ゴ、ゴレンジャーストームですか。しかもピンクが球に。初代戦隊の1歩斜め上をいきました。

 響鬼。伝奇ものであり、また少年期の終わりの物語でもある。アウトサイダーである響鬼たちと出会い、異質な世界の片鱗に触れるとき、受験期という現実世界の壁に直面している少年は、その異世界へと逃げようとする。でも、そこには少年の生きるべき世界は、おそらくない。『ベルセルク』のジルのように、やがてはそのことを諭されるとしても、しかし少年は響鬼から、大人とか人間とか、何かを背負って生きることそのものとか、そこにこそ何かを追い求めることとか、そういう諸々をきっと学びとる。そのとき、この平凡で閉塞感に満ちた現実世界は、そんな異世界を包摂しつつ、新たな生きるべき場として再確認される。だとすると、最後にはどれみと同じか。
 それにしても、あの友達の少女の肌のにほひたつようなおとめぶりたるや。映像技術はさっぱりですが、カメラや光の当て方などがかなり好ましいです。

 プリキュア。顔が。怯える顔が。あああ。
 何ももたない、記憶も過去もない少女が、なぎさとほのかに手を引かれて、ひとのいのちを獲得する物語。という雰囲気です。こちらもだんだん2つの世界の接点が増えてきました。
2005年2月21日(月) ローゼンとか
 日記、ここのところ連続で溜めすぎ。ごめんなさい。少しずつ追いつきます。

 ローゼンメイデン第5話。ば、馬鹿話。そしてくんくんは天才。くんくんぺろぺろ(違)。この話のためだけに崩れたキャラ絵の設定をこしらえた、というあたりが本気の馬鹿さ加減で素晴らしいです。そんなヨタ話の中で「のり最強」を決定づけてるわけで、これは第4話でもほのめかされていましたが、ジュンのこれまでと今後を想像するさいに非常に重要な点です。そんなポイントをしれっとオチに使ってしまうあたりが凄い。良くも悪くも。
 あと、雛苺の泣き顔に萌え。ぼくは泣き顔フェチで、ある漫画のヒロインの泣き顔だけを一生懸命トレスしたこともあります。変態です。

 ローゼンメイデン第6話。前半は第5話の続きのような、真紅の密やかな恐がり姿に萌え転げつつ、中盤から一転して真紅の甘い説教経由で大ピンチへ。真紅の想い(と言えるほどまだ明確には示されていない諸々のものも含め)をジュンがこの段階で自分にとってかけがえのないものとして受けいれているあたり、ジュンって全然普通の子なのだな、と思いました。最終話で眼鏡を外しそう。それじゃあまりにアニプリと重なってしまうのですが、どうなのか。
 真紅をはじめとするあの人形達は、みんな寂しい。その寂しさを埋める絆が必要なのだけど、その絆はジュンとの血の絆によってさしあたり代替されている。それが代替物でなく、本当の、掛け値なしのものになるためには、何が必要なのか。人形達の業でもある絆の呪縛を断ち切るための、真に他者を欲するという決意を、ジュンが自ら胸に抱くときがくるのか。
 ともあれ、縛られた真紅ハァハァ(台無し)。
2005年2月22日(火) がーぶらー
 ニニンがシノブ伝第1巻。ってここのところアニメDVD買ってばかりですが。IRCで勧められるままに、新たな作品に手を出しております。主体性ないですが当たりばかりなので懐具合以外は問題なし。
 で、原作ファンのぼくとしては期待通りの完成度。第2話あたりは原作にない場面のシノブを非常にそれっぽく描いています。一方、音速丸はまだ微妙。ああ若本、と言ってしまえばそれまでですが、音速丸というキャラが脚本なり演出なりの段階でうまくこなれていないのか、サスケ達との掛け合いがまだかみ合っていない感じ。こういうのはだんだん仕上がっていくものでしょうから、今後が楽しみです。そして雅ちゃん萌え。
2005年2月23日(水) ぱやぱや
 馬鹿話。

らむだ「最近の自衛隊の糧食は、普通のレトルトなんかとほぼ同じみたいね。
    牛肉の大和煮や、ご飯ものの缶詰なんかもあるようだし。」
美 森「そのご飯の缶詰開けたら、上にふりかけでハートマークが描いてあったり。」
らむだ「あー(笑)。慰問袋の中身にそんな缶詰。全国の女子学生が作ってくれるの。
    あるいは、部隊付メイドさんというのもありだ。
    隊員のご飯の上にハートマーク描いてくれるとか。」
美 森「それ、メイド喫茶。」

 慰問袋の中身にぶるまー、というのも昔考えました。
2005年2月24日(木) 文字のひと
 とある提言にこちらもひっそり反応。とても助かったので。
 「無責任さ」が重要、というのは、先日またも避難所にされたときに思い出して「あー」と実感しました。自分の立ち位置を相対化できてかなり気が楽になりました、どもです。で、気がつくと、「せめて話を聞くくらいは」と最も誠実な振る舞いを示しつつ、こっそり情報収集に励むという最悪なパターン。わお。つか、自分のとこが避難所になっているという事実の伝聞が自分にとって不利に働くこともある以上、そのへんはもうどうしょうもないです(小心者)。あと、グチについてのご指摘は、自分にも剛速球で突き刺さってぐはあ。こちらもありがたく。

 その下の方での、文章について。「物語を表現するために自分にとって最適の手段」として「文章」を自覚的に選んだかどうかっていうのは、確かに根本的な問題です。「花穂、文章くらいしか表現できるものがなくて……」みたいな。「文章でしか表現できないもの」がある、と主張できないのであれば、文章は代替可能な、簡便な表現手段の一つにすぎない。
 でもまあ、ぼくの場合は何かを見て「うわあ」と思った次の瞬間に、「書かねば」という衝動が自分の中にわき起こることが多いので、その衝動だけは自分にとって文章という表現方法が絶対的なものであることを確信させてくれます。ならば、力のこもった文章を書きたいもの。
2005年2月25日(金) 考察の書き方とか
 せいるさんから、文章書きと絵描きの話についてさらに幾つか。その中で、「あんよさんの物語解釈の文章はどうやって生まれているのか少し想像できないけれど」とあったので、考えてみるの巻。なお「ナニカの物語を自分の中で解釈して、そのもやもやを感性によって加工する段階」については、『マジカル☆ヒナ』『WAKE UP!!』では 自分も同様だったと思います。……いや、「妄想の量」はさほどでもないか。考察の場合はなおさらですか。特定の作品を鑑賞して、その内容をどうやって解釈するかのみに専念するのですから、イメージを広げる範囲は意外に狭そうです。うーん。もちろん、背景にある「はず」の設定や物語を妄想するときには、ほとんど創作のための妄想を広げるばかりなのですけど。
 で、考察文がどうやって生まれているのか。これを一連の手続きとして示そうとあれこれ試し書きしてみたのですが、どうもうまくまとまりません。

 基本的な態度としては。
 まず、一般的な批判にきちんと目を向けながら、作品のよさを疑わないこと。前者だけだと冷たい分析的考察になっちゃうし、後者だけだとたんなる信仰告白的電波になっちゃう。また、一般的な悪評の根拠は、「実はそこでこそ主題がきちんと描かれていたのだ」などとうまいことひっくり返せるととても気持ちいい。そして、そこが考察のオリジナリティにもなる。
 次に、読者がその作品を好きになってくれるような、少なくとももう一度見てみたくなるような、文章を心がけること。これがないと愛に欠けた第三者的な考察や「ためにする」考察になっちゃう。
 最後に、自分の努力がどれだけ馬鹿馬鹿しいものかに漠然と思いをはせつつ、でも楽しいよねー、と感じること。自分が楽しめないと書けません。

 作品を観るときには。
 まず、「萌えアニメ」という先入観にとらわれずに、作品の主題、各話の主題をつかむこと。主題までいかずとも、鍵となる言葉だけでも可。それがつかめたらすぐ考察タイトルに掲げる。そういったものが上手くつかめないときは、とりあえず放置。
 次に、「萌えキャラ」という先入観にとらわれずに、登場人物の言動を見て取り、その背景を想像すること。「なんでこの子はこんなことするんだろう」と思ったら、その原因をその子の中に見つける覚悟を決める。
 最後に、「それでもやっぱりこれおかしいよ」と思える点も把握すること。
 要するに、誠実に見ろ、と。馬鹿正直に見ろ、と。いや、素直に「くだらねー」と思える作品もあるわけですけど。
 で、台詞や気になる描写は、何度も見返して全部書き写す。主題に関わろうと関わるまいと、ともかく全部。必要に応じて原作や資料にもあたる。すると、見逃していた・聞き逃していた細部が意識化され、そのうちの幾つかに引っかかりを覚えるようになる。解釈でもネタでも何か思いついたらそこにメモる。慣れてくると、「花穂ちゃんと兄チャマの大事件です!」という四葉の台詞を聴いて「花穂『と』兄の? 花穂の、じゃなくて?」と引っかかるようになる。

 考察の枠組みをつくるときには。
 まず、主題と想定したものと、具体的材料とをつきあわせてあれこれいじりまくる。とくに、引っかかった台詞などは集中的にいじる。必要に応じて、他の考察で得られた原則などを差し挟んでやる。いじる中で今回の話に相応しいキーワードをこしらえる。うまくいきそうかどうかに関わらず、とりあえずこのへんで「はじめに」を書いてみる。書いているうちに何かひらめくときもある。適当な図表も作ってみる。当たるときもあれば外れるときもある。
 で、そんな作業をしながら真剣に見つめ見返しているうちに、ほんとに突然ひらめく。それまで誰も気づかなかった(少なくとも明言されていなかった)ことや、自分が無意識に感じていたものに、いきなり気づいて震える。それは主題レベルでの発見だったり、あるいはどうでもよさそうな細かい箇所の解釈だったり。たぶん、この視線がぼくの最大の武器ですね。例えばアニプリ第4話で「そういえば、なぜ最初のヒロイン話が雛子なのだろう」とか、リピュア第4話で「『みんなに選んでもらった』って、普通お泊まりの日には出てこない台詞だよなー」とか。そんなこと普通考えないだろうし、ぼくも初見では考えなかったけど、材料を並べて眺めているうちに、あっと気づく。それを急いで記録し、概念化してやる。
 こうして新たに生み出された概念などを他のケースにも適用してみて、原則同士を結びつけていく。いじり倒したあげく、枠組みがだいたいできあがる。でも重要な言葉のメモや簡単な文章程度にとどめ、まだあんまりまとめない。もちろん、勢いがついてるときは話が別。

 文章を書くときには。
 各章のテキストを書く。論理的な枠組みだけで書くと、必ず勢いも面白みもない文章が生まれるので、なるべく作品内の材料を時系列に沿って並べながら記す。ネタも組み込みながら、できるだけ勢いを落とさない(でも淡々としている)。場面ごとに登場人物の内面に寄り添うつもりで書く。自分が感動した場面については、その感動を読者に共有してもらえるように、でも過度の感情を込めないように、と文章を打ち込みながら、その場面を思い出して泣く。書いてるうちに新たなキーワードを思いつくことも多いので、慌ててさかのぼって書き直す。
 だいたい書き終えたら「はじめに」を修正し、「終わりに」でオチをつけ、最後に全体を読み返して説明不足や愛情不足の箇所に手を入れる。

 振り返ると、かなり行き当たりばったりで進めていることが分かります。主題(アニプリ考察のサブタイトルに掲げているような)を発見しさえすれば、あとは「台詞などの書き出し」「その組み合わせとネタふり」「鍵となる概念や原則の確定」を適宜行っていくという。この繰り返しで、シスプリらしさ(原則とのつながり)を見て取る能力が発達し、作品を観るときの視線がさらにとぎすまされていきます。ただし、この時点では最初の頃の素直な視線はずいぶんと弱まっていますから、ぼくは既に考察的視線でしかシスプリを見られなくなっているわけです。そのへんはまあ仕方のないことで、他のサイトの方々から全く違う視点を突きつけられるなどして刺激を得ています。

 (追記2006年5月5日:この内容については、後に「あんよ流・考察の書き方」としてまとめ直されました。)
2005年2月26日(土) 得手不得手
 昨日分に記した考察の作り方について、もともとのせいるさんのお話からえらいずれてしまったかと反省してるのですが。「そのもやもやを感性によって加工する段階での想像」というのは、ぼくの場合、材料を集めていじっているあたりの段階なのかな。その材料集めの最中に、登場人物がこちらの手持ちの心地よい言葉とぱっと結びつく瞬間があって、そこさえ上手くいけば最後まで解釈できる。でも、その結び付け方は実はあまり幅広くないので、与えられた作品に対する自分なりの解釈はできても、より自由度の高い創作ができない理由は、たぶんそのへんにあります。この意味で、やはり「妄想の量」は限られています。ほら、何でも○○にしちゃう評論家とかいるじゃないですか。あれです。

 ふと思い出して、「エロゲカウントダウンの作り方」(リンク先は大人向け)を再読してうんうん頷く。レビューも考察も同じだと思うのは、「自分しか気づかないこと」を1つでも見つけられて、それを説得的に楽しく書ければ大満足、ということ。

 最近、新聞記者blogなどが炎上していることについて。
 例えば朝日新聞の関係者が叩かれる、というとき、それは「反朝日」というだけでなく、記者なり弁護士なりの能力や社会的責任感への期待が裏切られたという失望にもよるのだろう(その期待がどれだけ身勝手かはおいといて)。そして、今までさんざん大きい顔をしてきたマスコミが、いよいよ自分達のやってきたこと(メディアリンチなど)をやり返される番になった、ということへの「ざまあみろ」的喝采も、そこにはあると思う(別にマスコミによる実際の犠牲者が反撃しているのではない、ということもおいといて)。
 これは思想の左右に関係なく、例えばいま大騒ぎのライブドアvsフジサンケイにも当てはまるわけで。今のところは直接利害のない庶民としては、フジ社長が他社の騒ぎっぷりに苦言を呈したのを見て、「これが他社の事件ならフジが真っ先に騒ぐでしょ、自業自得じゃないの」と笑って酒のつまみにするのがせいぜいです。まあ、ざまーみさらせと喝采している間に、巨大な腕が自分達をも連れ去ってしまうというのが怖いわけですけど。
 あと、コメントがいっぱいつけられるblogって、何かあれば炎上させてね、と言わんばかりですよね。コメントが一列に並ぶからいけないのであって、ええと例えば。ある既に書き込まれたコメントに賛成する、そしてそれに付け加える意見はとくにない、でも何か行動は示したい、という野次馬な人のために、web拍手のような方法で「賛成」票を入れられるようにする、というのはどうでしょう。そんなの既にあるかもしれないけど。投票という行為で読者の参加欲はある程度満たされ、管理者が冷静に反応できる程度にコメント数は落ち着く、というのが理想。
2005年2月27日(日) 久々に
 委託通販も終了したところで、リピュア考察補論2を掲載しました。改訂新版に新規収録したもののウェブ版です、そろそろ公開ということでご了解下さいませ。
 アニメ版考察もサイトでの追加は1年半ぶりですか、なんかしみじみと。これでほんとに完了なのかな。

 マジレンジャー。兄弟対決。全員やたら明るいので、勢いで楽しめるのがいいですね。ワームも気色悪くてよし。あと、敵陣営の場面に入るときカメラがにゅいーんと穴の中を進むのですが、あれは指輪物語風なのか。

 響鬼。入試の壁にもろに直面。頑張ろう、と思っても志気をくじかれ、壁にぶちあたる少年。一方で、「シフト」などについて淡々と話し合いながら、じつに厳しい戦いのローテーションを維持していく大人たち。来週予告の「鍛え足りなければ、鍛えるだけだ」という響鬼の言葉が、心に響きます。
 しっかりした大人を描こうとしている作品に、悪いものはないです。前の時間のマジレンジャーは明るいきょうだいの姿を描いていて、これもなかなか。この2作品の組み合わせは、特撮番組として近年最高かもしれません。

 プリキュア。ヒカルがいよいよ発動か、というところで来週に続く。彼女が帰る家って、たこやき屋のあのひとと同じ家なのかしら。それとも……切り株か(えー)。プリキュアに対する一般人の視点をここまで代表してきた彼女が、もうじき内部の存在になっちゃうわけで、それはそれでもったいなくもあり、ようやくの変身に期待大でもあり。
2005年2月28日(月) 今いちど
 よつばねぎさん(2/27)、『カトゆー家断絶』さん(2/28)、『かーずSP』さん(2/28)、考察の紹介ありがとうございます。ってあああ懐かしい。

 『お助けアニキ事務所』さん(2/27)、考察本お買いあげいただきありがとうございます。こんなふうに届くのですか、確かにプチプチみたいなのいっぱい入ってます。

 デンセンさんのクォータービュー妹が先日ついに全員分完成(一覧はこちら)。お疲れさまでしたー。アニプリ仕様の彼女たち、えらい可愛いです。

 こないだの「考察の書き方」について、『カトゆー家断絶』さんの「戯れ言」経由で各所に紹介された模様。そのうちコメントいただいたとこに反応してみる。
 『推定果名』さん2/28)から。あらかじめ「自分の立場を明確に」というのはその通りですね。ただしぼくの場合、考察を書くと決めた段階で既に肯定的なのです。嫌いな作品についてはわざわざ考察する気にならないからです。もう少し限定すると、世間でわりあい不評なのに自分の心に触れた作品、というのが考察対象になりがちです。と言っても、今のところアニメ版シスプリ2作とハルヒだけですが。
 Su-37さん2/27)から。「行き当たりばったり」の仕方がそこそこ定まっている、のがぼくの方法なのかも。それだと逆に計画的な気もしてしますけど。

 あと、ちょっと補足してみたり。最後のチェックで全体を見返すときにとくに気をつけるのは、論理の矛盾や説明不足の箇所がないかというのはもちろんですが、もう一つ。適度にネタが散らばっているかを確認すること。ぼくの考察で太字になっているのは、「ここは主題や人物の説明にとって重要」という箇所と、「ここは笑いや半分電波」という箇所です。この両方を同じ形式で強調することにより、考察の堅苦しさや押しつけがましさを緩和し、ぼく自身にも余裕を与え、本来の目的である「この作品を好きになってもらいたい」というその気持ちを忘れずにおくことができます。自分の意見を他人に気持ちよく読んでもらうのに、愛のあるユーモアは大事だな、と(自分のセンスはさておき)。その結果、ぼくの考察はどこまでも主観的な要素を捨てられないわけですが、まあそれも持ち味ということで。

 ところで、どなたか「SSの書き方」というか「SS完成までの過程」を教えていただけませんでしょうか。

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