『魔法先生ネギま!』にみる成長の相互性(前編)

〜ネギと生徒達の成長と問題〜

はじめに 〜問題の設定〜

 赤松健『魔法先生ネギま!』(以下『ネギま!』)については、その前作品『ラブひな』の印象もあって、今なお「萌え作品」としてのレッテルが貼られやすい。またファンの間でも、例えば2ちゃんねるでは、バトル派とラブコメ派に分かれての評価がなされているかに見える。作品の楽しみ方は全く各人の自由であるとはいえ、それらにおいて作品はきわめて一面的・部分的に享受されている。
 このような傾向に対して、いずみの氏は『リクィド・ファイア』内「赤松健論」において、先行作品・他作者作品との対比や作者の言説の引用などを基盤としながら、『ネギま!』を「少年漫画」として総体的に捉え直し再評価しようとする試みを続けている。通俗的な「萌え漫画」というイメージに「少年漫画」という新たな(しかし『週刊少年マガジン』という連載誌の性格を考えればきわめて正当な)カテゴリを突きつけるという氏の戦略によって、『ネギま!』の作品内容を先入観なく読み取るための基礎が、ようやく読者に与えられたとさえ言えるだろう。
 この『ネギま!』の読み方については、いずみの氏の論考を通じて本作品を知った論者の場合、当然のことながら氏の立論に依るところがきわめて大きく、「少年漫画」という捉え方についてもほぼ全面的に同意するものである。と同時に、その基本線に従いながら、論者は既に若干の補完されるべき箇所を指摘してもいる。例えば「ネギま!編その2」について、論者は日記にて、「ねぎま串方式」という作品構成の枠組みを応用して、少年ネギの成長に加えて少女達の成長にも注目すべきである、と主張した。この主張の背景には、もちろん論者が作品自体から素直に少女達の成長を読み取ったということもあるが、もう一つ重要な問題意識があった。それは、「少年漫画」という捉え方に潜む危険性についてである。「萌え漫画」というレッテルを批判するために「少年漫画」というカテゴリを適用することそのものは、論者も完全に正当と考える。しかし、その「少年漫画」というカテゴリの性質を、少年(この場合、ネギ)の成長のみに関わる物語と捉えてしまうとき、ネギの成長という主題のために、彼に関わる少女達をその成長のための媒体・手段と見なしてしまう、という陥穽が開く。批判対象のレッテルである「萌え漫画」とは、まさに少女達を表層的・記号的な萌え対象という「モノ」の次元に位置づけるものであるとすれば、これを乗り越えるための「少年漫画」という捉え方もまた、「萌え漫画」視点を批判しながら、これと同様の少女達の道具化を生み出してしまう可能性があるのだ。とくに本作品のあちこちに描かれるパンチラや裸体は、少年漫画誌らしいソフトエッチ路線に見事に合致しているだけに、これらの少女の扱いをもって「少年漫画」らしさと判断したくなる誘惑は非常に強いのである。
 これは、いずみの氏の立論に過失があるということではない。氏のねらいとする『ネギま!』再評価にとって、「少年漫画」という視点の提起は何よりも優先されるべきものであり、それにはまず少年ネギの成長が注目されねばならなかった。そして、その要点を実際に明確化したのが一連の「ネギま!編」論考であり、これによって「少年漫画」視点が読者に獲得されることになった。つまり、この急務の課題が果たされ骨格が構築された今だからこそ、「少年漫画」としての具体的内実や、それと関連しての少女達の成長は、ようやく論じうる段階にさしかかったのだと言える。
 本考察では、以上のような現状認識に立脚して、『ネギま!』第95時間目までにおける少年・少女それぞれの成長とその相互関係について概括し、「少年漫画」としての内実をより具体的に理解するための手がかりを得ることを目的とする。それゆえ本論は、「赤松健論」の否定にはつながらない。むしろこれは、いずみの氏の肯定的・発展的反応によってさらに人間関係の構造的理解へと高められた内容を、さらに詳細に検討しようとするものであり、氏とその協力者である『ネギま!で遊ぶ』のTaichiro氏に本作品へと導かれた論者からの、「宿敵(とも)」へのお礼代わりの援護射撃を目論むものである。(両氏には本考察執筆にあたり資料提供など格別のお世話をいただいたことに、重ねて感謝したい。)
 その検討の枠組みとして、「ねぎま串方式」すなわち「大イベント(=肉)を重ねた隙間にクッションとしての小エピソード(=葱)が挟まれ、それが一本の軸(=串)で貫かれている」(「ネギま!編その2」参照)という作品構成理解に依拠し、「肉」にあたるバトルパートと、「葱」にあたる学園コメディパートのそれぞれについて見ていくことにしよう。


1.父の影 〜バトルパートにおける少年の成長〜

 まず、「少年漫画」としての基本要素である少年の成長を、『ネギま!』がどのように描いているのか、バトルパートを中心に探っていく。

(1)ネギの大目的と父ナギへの憧憬

 ネギはなぜ学園にやってきたのか。言うまでもなく、「立派な魔法使い(マギステル・マギ)になるための」修行としてである。マギステル・マギとは「世のため人のために陰ながらその力を使う 魔法界でも最も尊敬される立派な仕事の一つ」であり、「表向きは国連NGOとして」活動する。この称号を得るための資格を得られるかどうかは、現段階では学園でのネギの評価いかんにかかっている。(1時間目)。しかし、幼馴染みで魔法学校を同時に卒業したアーニャの修行は「ロンドンで占い師」なのに、ネギがこのような修行を命じられていることはいかにも異常であり、アーニャもネカネ(65時間目に「お父さま」が登場しているように、ネギの実姉ではない)も驚いて校長に問いただしている。なぜ麻帆良学園なのか。その理由は未だ不明ながらひとまず、その学園長が魔法学校校長と旧知の仲であることや、学園内に世界樹やエヴァをはじめとする様々な魔法的・超常的存在がおり、魔法使いの修行の場として決して適切でないとはいえない、としておこう。ともかくネギの大目的は、このマギステル・マギになるための資質向上ということになる。ネギが「教師」として努力するとき、それはこの修行の一環としてであり、少なくとも当初のネギにとって教師稼業は魔法修行に従属する下位目的なのである。
 しかし、このマギステル・マギの称号を得ることは、じつはネギの究極の目的ではない。ネギはその称号に相応しい魔法使いになることで、サウザンド・マスターである父ナギに近づけると考えている。これがネギの最大の目的である。ネギにとって、父は(ネカネによれば)「英雄」であり、憧れの理想像であり、しかし何よりも、自分のそばにいてほしい相手にほかならない。姉でさえ学校・寮生活で一緒に暮らせなかった時期、ネギは自分にわざと危機を招くことで、既に亡くなったとされていた父が助けに現れないかと試みていた。それは、村の者達から評判の悪かった父が本当に英雄だったのだと証明し見返したいという父思いな心の、そしてそんな誇れる父と一緒に暮らして孤独を癒したいという切望の現れだった。これと同じ頃、アーニャが「生きてた頃のお父さんみたくなりたかったら ちょっとは練習しておきなさい」と子供用練習杖を渡したことによって、ネギの魔法使いとしての第一歩が始まったわけだが、ここにネギは、魔法使いという共通項を通じて自分と父の絆を確証しようとし、また(ネカネの懇願によって積極的に求めることはしなくなったが)父を呼び招けるような危機を内心で望んでいた。その幼いネギが育った村を本当に悪魔達に襲われてしまったとき、今まで死んだものと思われていた父ナギが突然現れ、その強大な魔力で魔物を撃退しネギを救って去っていった。それは確かに、ネギに「ピンチになったら現れる」父の真の英雄としての証明であり、またそもそも父が生きていることの証明だったが、しかし同時にそれは、ネギに、自分が危機を求めたから皆を巻き込んでしまったという「天罰」への罪悪感を深く刻み込むことにもなった(65-66時間目)。
 この父との初対面における両義性は、後に見るように、ネギの人格に大きな影響を残している。だが、それでもネギは、マギステル・マギを目指すことを止めない。村の大惨事にナギが到来したとき、幼いネギは、その父とはまだ知らぬ男の暴虐とも言える強さに怯えて逃げ出す。だが、逃げた先で悪魔に襲われたとき、スタンとネカネにかばわれ、二人を石化されてしまう。たった一人になってしまったとき、目の前にやってきたあの男に向かって、ネギは震えながらも小さな子供用練習杖を構えて姉たちを守ろうとする。そのネギの頭をナギが手で押し包み、「大きくなったな…」「元気に育て」と言い残し、杖を託して消えていったとき、ネギは初めて父を感じ、父を求めながら、その父に子として認められたのだ。だから、ネギはマギステル・マギを目指す。少年時代を費やして、ただひたすらに魔法を学び続ける。それは根本において決して「逃げ」ではない。それが父に認められた子としての、父との絆の証であり、いつか父と再会するための唯一の正しい手だてだからだ。失われたかに見える憧れの理想像に向かっての、少年の飽くなき努力。これを主題として描く本作品は、間違いなく「少年漫画」の名に相応しい。

ネギ 「だから僕はあの人のような立派な魔法使いになりたいんです そうすればこの広い世界のどこかであの人に会えるかも知れない」

 明日菜に語るネギの両手には、父から託された杖がしっかと握られている(4時間目)。その杖がかすかな絆を支えて、ネギの意志を導いていく。だがその成長への足取りは、いかにもおぼつかなげであった。

(2)魔法使いとしての成長

 魔力そのものは非常に強大なネギだが、学園着任当時は魔法の失敗が続いている。初日から明日菜に魔法がばれ、その記憶を消そうとして(明日菜の魔力完全無効化能力の影響もあったが)たんに制服を吹き飛ばすだけに終わり、惚れ薬では大騒ぎをひきおこし、くしゃみによる魔力暴発はいつまでもコントロールできずにいる。ここには、第2章以降でみるように、ネギの学園生活の意味が隠されているのだが、ともかく魔法能力自体の使い方はきわめて拙いうえ、長期的な展望のない反射的な行動にあけくれている。有効利用できたのは、のどかを転落から救ったとき(時間目)と、明日菜を狙ったボールを片手で受けとめたとき(6時間目)、試験中の生徒達の意識をすっきりさせたとき(11時間目)くらいである。これらはそれぞれ、のどかとネギの縁を作る・明日菜を守る行動の端緒となるなど重要な意味をもつとはいえ、全般的に持てる資質を使いこなせていないのが当初のネギの姿であり、またその力を比べる相手もいないことから、ネギの魔法使いとしての凄さは全く感じられない。
 この状態が変化するのは、やはり最初のバトルパートである対エヴァンジェリン戦中である。ネギは学園を乱す吸血鬼エヴァを捕まえようと追いかけるが、それはエヴァの「さすがに奴の息子だけはある」「捕まえたら教えてやるよ」(16時間目)という台詞に引き寄せられて、父ナギについての手がかりを得ることを同時に目標としていく。しかし最初はエヴァとそのパートナー(ミニステル・マギ、従者)茶々丸に完敗し、その恐怖がネギを登校拒否にまで追いやろうとする。ここでネギは、魔法学校主席卒業者としての自尊心を突き崩され、自信喪失して戦うことから逃避するのである。それはまた、父との絆を動揺させることもであった(杖を感知できなくなる場面に象徴される)。これを乗り越えるには、楓との一日を通じての自己反省によって、「まずは逃げずに立ち向かう」勇気を取り戻すことが必要だった。これが功を奏して、ネギはエヴァの家を訪れ、偶然にエヴァが記憶する過去の父の姿を垣間見ることができた。だが、カモによるパートナー相手の斡旋をめぐるドタバタや、楓のもとで気づいた「パートナーと言っても結局戦いの道具として頼ってるだけ」「僕が原因のもめごとに僕の生徒をそんな形で巻き込んでいーの?」という自省から、ネギはここでは、「何とか一人でがんばって」みることを決意している(21時間目)。確かにエヴァの夢の中で、父はパートナーなしで(「パートナーもいない魔法使いに何ができる!?」)単身勝利を収めていた。だが、父とは違う自分の未熟さを痛感したはずのネギは、しかし生徒達を危険にさらすことを避けようとして、カモの忠告を拒み自分一人で戦いに赴いてしまう。それは、ネギの教師・魔法使いとしての使命感や責任感、一度はエヴァの更正をなしえたはずだという自信によるものであるとともに、父を追わんとする少年の子供っぽい「意地」の無謀な発露でもあった。結局ネギは、単独での戦いには敗れ、そのみっともなく泣きわめく態度をエヴァに罵られ「お前の親父ならばこの程度の苦境笑って乗り越えたものだぞ!!」と最も厳しい批判を受けてしまう。それでもネギは、カモと明日菜の援助によって、「僕 あの人に勝たなきゃ」と決意を新たにできた(23-25時間目)。このとき、ネギとエヴァとは、お互いを相手として戦いながら、その脳裏にはナギの姿が浮かんでいたはずだ。これに限らず常にネギの戦いは、父なる理想像に、戦いを通じて接近・一体化しようとする努力にほかならない。本来、邪悪な魔物以外に対してはさほどの闘争心を持っていなかったネギが、強敵への戦いを避けずに立ち向かえるようになったこのエヴァシリーズは、最終的に勝利することでネギに勇気と自信とを獲得させ、父との絆を再確認させたのだ。
 このような性質は、バトルパート全体に一貫して見いだされる。例えば、第2のバトルパートである修学旅行シリーズ(とくに後半)では、エヴァから教えられた父の手がかりに期待しつつ、学園長から委ねられた特使としての役目を果たすためにも、ネギは親書を狙う敵達と戦っていく。それは同時に、大切な生徒である木乃香を守ることでもあったわけだが。その中でネギは小太郎に苦戦しながらも、明日菜に、かつて戦い方を独学したのは「父さんを探すうちに必ず戦う力が必要になると思ったから」だと告白し、今は「未熟」だが「強くならなくちゃ父さんを探し続けることなんてできない」からこそ、「あいつに勝たなきゃ!!」と杖を強く握る(40時間目)。これは、エヴァとの戦いを経て自分の究極目的を見つめ直し、そのために必要な力と自分の現状との差を痛感する機会を得たからこそ発せられた言葉でもあり、また同時に、その直前で小太郎が「このぶんやとお前の親父のサウザンなんとかゆーのも大したことないんやろ」と嘲ったことにも起因している。負けることは、父を貶めることであり、父との絆を失うことである。だから、ネギは持てる力で可能だがぎりぎりの作戦を練り、(だけど父さん見ていて下さい)と独白し、自分の身を痛みにさらしながらついに勝利し、「どうだ! これが西洋魔術師の力だ」と言い放つ(41時間目)。ここにネギと父との絆は、全力を注いで強敵を下すことにより、再び確固たるものとなったのだ。
 そしてこの全力の注ぎ方が、少年ネギにとってのバトルパートでの個人的成長を、戦闘能力の飛躍的向上というかたちで明示している。既にエヴァとの戦いでも罠に誘導する戦術などを見せていたが、小太郎やフェイトとの戦いでは魔法の組み立て方などいっそうの伸長が確認できる。しかし、それらはネギ一人によってなしえたものだっただろうか。

(3)指導者と友人

 対エヴァ戦でも楓に世話されていたように、ネギは多くの者達の支援を受けて魔法使いとしての技量を伸ばしてきている。その支援者を、ここでは2つに分類してみよう。

 まず指導者。これは、ネギより優れた戦闘能力を持つ者に師事することで、ネギが直接的に戦闘能力を高めたり、より賢明な戦い方を修得したりする場合の、その教授役を指す。例えば楓は、その包容力によってネギが自信喪失から回復する契機を与える(21時間目)一方、小太郎の挑発に乗ったネギの「頑固と子供っぽさ」を「精進が足りぬでござるよ」と諫め、木乃香救出という本来の目標へと向け直す(48時間目)。刹那や龍宮”隊長”からはプロフェッショナリズムの精神や魔法以外の領域についての情報を、エヴァ”師匠”からは魔法を、古菲”老師”からは拳法を、ネギはそれぞれ学び取ってきている。ここでは具体的な戦闘方法はもちろん、そのさいの心構えなども伝授されているわけで、例えばエヴァは魔法の特訓とあわせて魔力のとらえ方についてのレクチャーも行っている。なお、とくに古菲はネギの肉体的戦闘能力の向上に最も大きくあずかっている。そして最近の学園祭まほら武道会では、古菲は「普段の修行では伝わらないコト」を自らの実戦を通じて弟子ネギに示そうとする(94時間目)。その中で見せた「布槍術」は、92時間目で小太郎から示唆されたサギタ・マギカの使用法と、今後結びついてネギの新たな戦法を生む可能性がある。そして、勝てない相手であると自覚している龍宮にそれでも全力で立ち向かった姿こそ、タカミチと戦うことになるネギに何よりも勇気を与えてくれている。
 そのタカミチもまた、ネギにとっては昔教わった師匠であり、しかもエヴァと同様、父を知っている存在である。ネギが新たな戦闘能力を修得しようとするさいにも、やはり父の影は色濃い。エヴァが魔法剣士と魔法使いのいずれかを選ばせたとき、ネギはやがて父と同じ魔法剣士を選び取る(60・71時間目)。また、魔法の組み立てにしても、エヴァが実例を示したナギの連携技を用いて、ヘルマンに勝利した(63・71時間目)。ネギの成長する先には、常に父の姿がある。正確に言えばネギは魔法「拳」士なのだが、ネギの記憶にある父は、武器も持たずに悪魔相手に殴る蹴るだったのでさほど大きな違いはない。

 次に友人。ここで扱うのは、カモと小太郎である。カモはかつて罠から助け出したことのある「舎弟」分であり、小太郎は拳を交わしたことのある敵だったが、いまや両者ともネギの対等な友人といっていいだろう。このうちカモは、ネギの善良さ・子供っぽさを補完する悪辣さ・賢明さを発揮して、バトルパートでもネギの戦い方を直接・間接に援助する。狡猾な小悪党に見えて、じつはネギの苦境を一度も見捨てたことのないこのオコジョ妖精は、たんに仮契約の報酬欲しさというだけでなく、ネギにとってかけがえのない賢者役である。これに対して、小太郎はまさに対等な少年の友人、「同い年の友達」(67・71時間目)として格別の地位を有する。修学旅行時にお互いの力を認め合えたうえ、男の子同士ということもあって、両者は現在、非常に心おきなくつきあえる間柄になっている。しかもそこに、紳士的で知性的なネギと野性的で感覚的な小太郎という性格の相違や、自らの力への自尊心をかけた対抗心があるために、好ましい適度な緊張関係も伴っているのだ。ただそのようなライバル意識は小太郎の側に強いのだが、これがネギを追い回す小太郎の劣位を意味しないところに注意すべきだろう。直接対決では一敗地にまみれた小太郎だが、対ヘルマン戦では、激情にかられて猪突猛進するネギを、小太郎は冷静に押しとどめている(71時間目)。まほら武道会でも小太郎はネギにあれこれ助言しているが、それは彼がネギを「ライバル」と認めているからである(92時間目)。つまり、戦闘に関して小太郎はネギに若干先んじている存在であり、バトルパートにおいてはあたかも兄弟のような気のあった共同戦線をとれる仲間なのだ。
 いや、バトルパートを離れても、この二人は非常にいいコンビとなっている。例えば91時間目では、嫌がる千雨を無理矢理コスプレさせるために、二人がかりで楽しそうに拉致している。また、二人を並べてみると、そこには少年としての共通性質が見いだせる。どちらも女の子に甘いのだ。ただしその甘さは、女の子を戦闘で傷つけないというたぐいのものであり、日常生活では、ネギは初対面で明日菜にいきなり「失恋の相が出てますよ」と言って激怒させ、小太郎はあやかをおばさん呼ばわりしてこれも激怒させている。少女に対するこの根本的なデリカシーのなさは、ネギはネカネという姉的存在に甘えられた経験から、小太郎は孤独な生育歴からとその根を違えるものの、現在の性格として共通している。もちろんこれは年齢相応ということでもあるのだが、この性格についてより詳細に論じるためには、もう一つ注意しなければならない点がある。

(4)内面の闇と心身の不均衡

 小太郎というライバルは、常にバトルパートに居続ける者であり、勝ち負けにこだわるその視野狭窄を夕映に非難されてもいる(87時間目)。しかしネギは、小太郎ほどには戦いにこだわらない。そこには、たんに戦いを好まないというだけでなく、こだわってはならない理由がある。ネギの心の最奥には、目覚めさせてはならない闇が潜んでいるのだ。それは村を壊滅させた魔物達への決して許すことのない憎悪であり、復讐心であり、破壊衝動である。ヘルマンとの戦いで、彼の正体が村人の仇であると気づいたネギは、ヘルマンの思惑通り、復讐心にかられて抑制を失い、魔力を暴走させる。それは、文明児と野生児というネギと小太郎の関係が入れ替わる瞬間でもあった。ここでネギは、自分の心の奥に抑えつけていた暗い衝動を解放させられた。思えばその復讐心は、幼いネギに「高位の魔物を完全に打ち滅ぼし消滅させる超高等呪文」を「血のにじむ思いで覚え」さえていた。仇敵の魔物を滅ぼすことは、たとえ父を探すために遭遇する危険への対処だったとしても、未だ無事とも分からぬ村人への罪悪感を抱き続けたネギにとって、不可避の未来だった。そして、ここでネギに殴り飛ばされたヘルマンは、「それでこそサウザンドマスターの息子だ!!!」と狂喜する。圧倒的な暴力の美しさに惹かれる悪魔にとって、ナギはその体現者だったのであり、その子ネギもまた、後継者たるに相応しい者と見なされた。それはしかし、幼いネギを恐怖させた父の魔法の凄まじい暴力と、いまのネギの破壊的な魔法暴走とを対比するという最悪のかたちで、ネギと父の絆を証明するものでしかない。ネギが「自分のために戦いたくなった」とき、そこには自分は存在せず、自分のかけがえのない想いも消え去っていた(70時間目)。
 わずか10歳という年齢でありながら、ネギは父譲りらしき強大にすぎる魔力と、父に近づくために必要な「気力と才気」(41時間目)を既に身につけている。だが、それは彼の未だ幼い心身に大きな負担をかけている。ある意味で、ネギが大人びているというのは、彼の目的が子供の基準を超えすぎていているうえ、その秘められた力と意志を制御するのにそれほどまでの知性が必要だということでもある。それにもかかわらず、全体として未熟な人格である現状で、ネギの感情・衝動は理性の抑制を容易に乗り越えてしまい、敵に倒されないまでも、彼自身を内部から滅ぼしかねない。対ヘルマン戦でこの危機を阻んだのは、小太郎の身を挺した行動だったが、それでも翌朝のネギは、暴走によるものらしき胸の痛みに苦しんでいる(71時間目)。心身の器は、ネギの無限に伸びゆく意志と資質を容れるにはあまりに脆いのである。
 ところで、このような衝動は、フェイトとの対決のさいに石化された生徒達を目撃したときにも、ネギの中に駆り立てられていたはずである。石化とは、村の惨劇をそのまま思い起こさせるものだからだ。フェイトと最初に対峙したとき、ネギは怒りの声をつきつける(46時間目)。

ネギ 「先生として…友達として…僕は…僕は…許さないぞ!!!」

 だが、ここでネギは、ヘルマンに向けたような衝動の爆発を引き起こすには至っていない。それは、相手が仇敵そのものではないからでもある。と同時に、ネギがあくまでも「先生」「友達」の立場からフェイトに立ち向かおうとしているということに、彼の抑制のありかが確認できる。ヘルマンにも「君が戦うのは? 仲間のためかね?」と揶揄されていたように、ネギは必ず生徒達を守るために敵と戦う姿勢を示す。それは一方で、彼を無制限の魔力解放や復讐心の暴走から踏みとどまらせる役割を果たす。敵を倒すことよりも、生徒達を巻き込まないことが優先されるからだ。しかし他方、この「先生」としての自己規定は、ネギにバトルパートとは異なる負担を強いることにもなる。彼の別面での成長とも不可分なそれを確認するために、次に学園コメディパートに目を移すことにしよう。


2.女の平和 〜学園コメディパートにおける少女達〜

 学園コメディパートの主役は一見して生徒の少女達であり、彼女達の言動はネギとの様々な関わり方の中で、彼の日常生活を支え、その問題を明確化する役割を果たす。これを検討する手だてとして、生徒達の性質を幾つかに分類してみよう。

(1)「先生」と「生徒」

 ネギと少女達との関係は、基本的に教師と生徒達のそれである。この「生徒」という規定は、ネギにとって重層的な意味を持つ。バトルパートにおいて少女達は、ネギが守るべき客体となる。しかし学園コメディパートでは、教師としてのネギが指導すべき対象であると同時に、ネギをからかいつつ保護する年上の女性でもある。10歳の中学教師という特異な設定が、ネギと生徒達の関係を、学園生活の中のみでも複雑なものにしているのだ。例えばチアの3人組や鳴滝姉妹などの普通の生徒達は、新米子供教師としてのネギをしばしば大いに困らせる。知性はともかく指導力に欠けるネギは、タカミチと比較もされれば、どうしても生徒達から一段低く見られてしまう。しかもこのA組がとりわけ「ノーテンキ」でやかましい学級であるらしいことから、ネギの教師としての苦悩はいっそう深刻さを増す。学園生活のあらゆる場面で、このネギの教師能力不足は露呈し続けてきたのだ。
 しかし、それは反面、ネギを父の影から切り離す作用も持っている。普通の生徒達は、ネギがサウザンド・マスターの子であることを知らず、それどころか魔法の存在さえ知らない。ネギが魔法使いとして、ナギの子としての自己規定に囚われすぎてしまうとき、普通の生徒達のネギへの振る舞いは、ネギを見たままのお子様教師としてのみ扱ってくれるがゆえに、ネギの自己認識を魔法使いの枠から広げ、日常生活の中での未熟さを突きつける役割も果たすのである。登場する魔法使いが大抵ネギを「サウザンド・マスターの子」として認識することと対照させれば、このことの重要性が理解できるだろう。
 とはいえ、そのような役割も、ネギが「僕ってダメ先生…」と落ち込むばかりの繰り返しをもたらすようでは、ネギに否定的な影響しか与えない。もちろん日々の賑やかな潤いも与えてくれてはいるはずだが、彼を教師としての役割期待に応えるよう自己強制しながら、同時に目下の存在として位置づけるこの生徒達は、ネギが過度に自信喪失した場合に、集団としてはさしたる援助をしにくい。ネギを励ましているはずなのにいつの間にかネギをダシに悪のりしているという転倒は、エヴァシリーズ中の風呂場での「ネギ先生を元気づける会」に典型的に見られる(18時間目)。もちろん、学年末試験で学級がネギのために一致団結したことも確かにありはした(9・11時間目)。だが全体的にみれば、ネギの「10歳の少年」「魔法使い」という本質的規定と、「教師」という一時的規定のずれを大きくしていく方向で、学級の生徒達は機能しているといってよい。そして、このずれがほどほどに確保されていることによって、ネギの変化・成長は生徒達に認識されやすくなり、その変化をどう受けとめるかに応じた少女各人の個性や成長も、表現しやすくなっているのである。

(2)指導的支援者

 バトルパートでも言及した、生徒の中にいる指導者だが、学園コメディパートでもそのような存在はいる。バトルパートの指導者がそのまま学級にいるのは言うまでもないが、その場合、エヴァにせよ古菲や楓にせよ、ネギの教師としての役割についてはほとんど何も支援しない。ここで取り上げるのはそれと全く逆に、バトルパートに関わらない生徒が、子供教師としてのネギにとり指導的・支援的役割を果たす場合である。その最も優れた例は、エヴァからも「唯一私が認める」と評価されている五月だろう。対ヘルマン戦で心に突きつけられた指摘に、ネギは学園生活に戻ってからも苦しみ続けていた。そんなある朝、立ち寄った屋台「超包子」で、ネギは五月から特製スープとともに慰労と励ましの言葉をもらう。これに心を軽くしたネギは、(いつまでも自分の問題で悩んでいても仕方ない)(先生としてもっとシャキッとしなきゃ)と思い直し、仕事への熱意を燃やす。だがそれは、ネギが自分にとって最も厳しい批判から目をそらすことでしかない。それゆえ、教師としてのやる気が生徒達の大騒ぎによって消沈し、教師としても自分は駄目だと落ち込んだとき、魔法使いと教師の両面で壁につきあたり、ネギは悪酔いして泣きわめく。その翌朝、屋台の中で目覚めたネギは、外掃除に余念のない五月の自立ぶりを見て自分のふがいなさを再び痛感し、その苦悩を告白する。修行も教師としての努力も一切が自分の嫌な記憶から逃げるための「嘘のがんばり」だった、そんないい加減な気持ちでいたことが皆に対して恥ずかしい、と涙するネギに、五月は力強く告げる(73時間目)。

五月 「誰かを恨んだり何かから逃げたりして手に入れた力でも…それは立派なあなたの力です ネギ先生!!
     恥ずかしいなんて思わないで! 元気出して(はぁと)」

 この言葉こそ、教師としてのネギを立ち直らせ、さらにネギが魔法使いとは知らないままに、ネギの苦悩を魔法使いと教師の両面で完全に解きほぐすものだった。たとえ逃げの結果だとしても、その力を獲得するために流した血と汗は嘘ではない。その中で成長してきたことそのものは、決して恥じることではない。そして、その陰に逃避があったことに気づいたいま、ネギはその力をより正しく向け直すことができる。今まで頑張ってきたことは、全て無駄ではない。自分の誇るべきかけがえのない一部にほかならない。このような自己肯定感を再獲得させた五月の力は、確かに中3とは思えぬ素晴らしいものであり、エヴァが認めるのも当然といえる。そして、ここでネギは、子供に自己肯定感を与える母性を、外見からして「おっかさん」な五月の中に見いだしたはずだ(頭をなでられてさえいる)。にもかかわらず、母親に関する言葉がネギから出てこないのは、彼の母親について口をくぐむ本作品の密かな隠蔽部分でもある。それは措くとしても、五月が示すこのネギの両面への総体的な指導は、学園コメディパートという非戦闘的空間に、ネギのバトルパートにおける問題を解決する迂回路が存在していることを意味している。そしてその成果は、教壇に立つネギが学園祭の出し物を主導的に決定し、生徒達がこれに積極的に賛同するというかたちで、学園生活内部でひとまず確認されている。こうしてネギにとっての学園生活は、人格全体の成長の場となっていることを、ここでは確認しておこう。

(3)恋する乙女

 以上の2種類の生徒は、否定的・中立的に、あるいは肯定的に、ネギの教師としての自己規定を強化する役割を果たしている。だが、生徒達の中には、教師と生徒の関係を越えて、より親密な関係に踏み入ろうとする者も少なからず存在している。つまり、ネギへの恋愛感情を抱いた生徒達のことだ。

 あやかは当初からネギへの好感度が高いが、彼女の場合は、幼少期に出会えなかった弟への愛慕が投影されている影響が大きい(14・90時間目)。この、弟のような存在としてネギを慈しむ態度は、木乃香などにも基本的に共通している(15時間目)。
 そのような背景設定なしにネギへの恋心が明確に描かれた者の一人として、まき絵が挙げられる。既に19時間目の段階でクラス第3位のネギ好き度を示している彼女だが、「恋人にしたいってゆう好きじゃない」(55時間目)その感情がはっきりと恋愛感情にまで高まったのは、ネギの弟子入りテストとまき絵の新体操大会選抜テストが重なった56-58時間目のことになる。ここで重要なのはもちろん、修学旅行を経たネギ本人の成長の反映であり、またネギの「カワイイ」だけでない「カッコイイ」面や、目的をもって懸命に努力する「大人」らしさに、まき絵が気づいたということではある。だが、その前提として注目しておくべきことは、その冒頭部の授業中、朝練に疲れたまき絵の居眠りをネギがやんわり優しく注意し、むしろ励ましとさえ思えるその言葉にまき絵がひたすら照れて「い いいえ」と恐縮している場面である。ここでまき絵は、今まで通りネギをからかう態度こそ完全にはなくしていないものの(翌朝の世界樹の場面)、ネギを教師として認め、その指導を受けた生徒として振る舞っているのだ。これはネギの教師としての指導力が向上した結果であるとともに、まき絵がネギの子供−教師という規定のうち教師の側面、つまり自分の目上の存在であるという面を、重視しつつあることを意味する。ドッジボール対決の頃は好意的ながらも「10歳だし」という目下に向けた同情的な態度(5時間目)であり、期末テスト対策にてネギの堂々たる勇姿を見た直後でも「こんな子供なのに厳しすぎるよ」と同様だったのに比べ、ここでのまき絵は明らかにネギを対等の、教師という面ではそれ以上の、相手として既に認識していたのだ。それゆえ、エヴァのテストに備えて修行するネギのためにまき絵が何かしてあげようとして失敗し、逆にネギに強く励まされるとき、まき絵はネギの指導者としての態度をすんなりと受けいれ、そのネギを前へ押し進めている意志のありかを知り、敬意と共に深い愛情を抱くのである。
 ここでもう一つ気がつくのは、そのような恋愛感情に至るまき絵が、もともと非常に子供っぽいことである。学力もバカピンクたる劣悪さだが、クラスでも「バカが出た」と呆れられたり、化粧などについても亜子に直してもらわねばならないなど、少女としては未成熟な方といえる。そんな子供っぽいまき絵だからこそ、ネギを見かけの子供教師としてのみ判断しようとせず、彼の成長しようとする意志やその努力する姿を素直に、対等な目線で見つめることができたのかもしれない。それゆえ、茶々丸に殴られ続けるネギを明日菜や古菲が「ワガママ」で「意地っ張り」な子供の保護者として助けようとしたとき、まき絵だけが、ネギの立つ場所に寄り添って介入を阻むことができた。

まき絵「ここで止めるほうが ネギ君にはひどいと思う 
…多分っ だってネギ君 どんなことでもがんばるって言ってたもん」

 この精一杯の叫びの中で、「…多分っ」という小さなためらいに、まき絵が抱くネギへのやや見上げるような愛慕が、彼を一個の独立した人格として相対し、彼に負けない女性になろうという決意とともに、覗いている。最初は目下の子供、次には目上の教師、そして今やネギはまき絵にとって、対等の恋愛対象なのである。

 まき絵が示すような目線の移動は、例えば武闘派の生徒達にも見いだされる。茶々丸、刹那、古菲といった生徒達にさらに共通して言えるのは、彼女達自身の中に心身の成熟のずれ(心がより未熟)が存在しているということである。ネギは彼女達にとって心身両面で未熟な子供だが、どこかの段階で、彼女達の心の未熟さや、そこに抱える問題にとって、ネギの振る舞い(彼女達をある役割規定ではなく、一個の人格として受けとめようとする行動)が非常に大きな転機や成長への契機を与えることとなる。茶々丸はロボットの限界を超えた自由意志への手がかりを、刹那は否定的な自己規定を破って木乃香との関係を取り戻すきっかけを、そして古菲は龍宮という敵わぬ相手と最後まで戦う力を、それぞれ獲得する。
 とくに古菲の場合、彼女がまほら武道会に参加した理由の一端が、ネギという弟子に師匠の実戦から学んでもらおうという教育的配慮があった。確かに彼女はネギの入門時に「十分に強くなったらワタシのムコになるアル」と一応の冗談めかして笑っており、修学旅行のキス争奪戦でも偽ネギの告白に照れてみせている。だが、基本的に古菲は「でも だって くーちゃんバカだよ?」と言われるほど恋愛に疎く(55時間目)、入門以来のネギに対しても拳法の教え子としてのみ扱う姿勢を崩してこなかったのであり、ネギも彼女を「老師」と呼ぶのも、その関係を指し示す。ところが龍宮との戦いについに負けるかと諦めかけた瞬間で、ネギが「古老師」というそれまでの呼び声ではなく、思わず「くーふぇさん しっかり−ッ!」と叫んでしまう。このとき、ネギは師弟関係から一時的に抜け出して、学園教師としてのネギに、そして素のままのネギに立ち返っていた。だからこそ古菲は、ネギの応援を弟子のそれとしてではなく、ネギという自分に配慮してくれる教師の、そして一人の少年からの想いとして受けとめた。龍宮には勝てないだろうが師匠としてこの程度見せておきたい、という言い訳を捨てて、少年の期待に一人の少女として応えたい、と感じてしまった。それゆえ古菲は、口では師匠としての面目をうたいながら、唯一の勝機に全力で挑むことができた(94-95時間目)。

古菲 「普段の修行では伝えられぬコトも 本気の試合を見ればつかめるかも知れないネ」

 振り返れば試合直前のこの言葉は、あえて「格上の相手に、得意な形意拳を封印」してまで「真剣勝負の戦い方」を見せようという、師匠から弟子への指導という意味に加えて、もう一つの予言的内容を結果的に含んでしまったことになる。すなわちそこには、「普段の修行では伝えられぬ」ネギの誠実な想いや古菲自身の恋心を「本気の試合」の中で自らのうちにつかんでしまうという、古菲にとっての予想外の意味も込められていたのだ。武道会は学園祭の中でもバトルパート的な部分だが、それにもかかわらず本作品ではこのように、恋愛という学園コメディパート的要素が、戦いの機微の中に重ね合わせて表現されているのである。


中間まとめ 〜中編へ続く〜

 以上のような恋愛感情は、少女達を確かに変化させていく。それは、『ネギま!』に登場する少女達が、決して表層的「萌え」のための記号的存在にとどまらないことを示している。確かに本作品は「少年漫画」であるがゆえに、そのような生徒達の変化全体をネギと同水準で描くことを目指してはいない。ネギの生い立ちに潜む問題の超克や人格形成などが作品の主題である以上、それらを中心とした物語構成の中で、少女達の生育背景を丹念に描くことは難しい(それでもあやかや木乃香、刹那についてはそれなりに描写されている)。
 しかしその結果というべきか、上述の少女達の恋愛感情はネギの再発見によるものであるわけだが、これは結局のところネギから少女達への一方的な影響であって、双方向的な影響関係を結ぶものではない。古菲の場合は拳法を通じてネギに影響していないわけではないが、それがネギの心を、古菲がネギから与えられた衝撃と同程度に揺り動かしたかと問えば、おそらくそうではないだろう。いったん子供教師や弟子というイメージが与えられていたからこそ、恋愛感情によってそのイメージが再構成されるときの衝撃は大きい。だがそれは、比較の上でネギ側の変化を感じさせなくなるという制限にもつながっているのだ。
 バトルパート・学園コメディパートを問わず、指導者的な少女は不動のままネギにほぼ一方的に感化を与え、恋愛感情獲得者はネギからほぼ一方的にその感情による変化を享受する。もし本作品がこのような関係構造によって成り立っているのだとしたら、やはりそれは少女達をネギの成長を描く手段としてのみ位置づけていることになる。そして、ネギ自身の心身に潜む危うさも、少女達が間接的にしか手の届かないところでこのまま推移していくことになってしまうとすれば、たとえ(恋愛感情も含めて)好意的な生徒達に囲まれた学園生活がネギに何よりの潤いを与えるとしても、それはいわゆる「戦士の休息」以上のものにはならないのではないだろうか。この予見を反駁するため、肝心のヒロイン2名についての検討に取りかかることにしよう。

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