日記
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2007年3月1日(木) やっと3月
 いま8日。というわけで日付が前後しますが、文月さんから「痛傘というアイディア」。なるほど、柄の部分に。西洋でも杖の柄などは確かにファッションの一部だったのでしょうし、傘なら小粋にできそうですね。例えばコンビニ傘でも、こんな感じで(違)。
2007年3月2日(金) 本気で頭悪い自分
 薫さんからご指摘いただく、どもですー。

>「脚本の出来の悪さから駄作」というのを、「ある意味命懸け」の視聴態度をとれば誰もがたどり着ける普遍的な結論だと前提しているところ

 ええと、「ニュートラル」な見方というのはつまりそういうことですか。そうすれば客観的な事実として「これは脚本の出来が悪い」と言えるはずだし、だから「駄作」という評価を共有できるはずだと。
 でも、アニメ版シスプリの脚本は出来が悪いとさんざ叩かれてたはずですが、ぼくはその脚本が素晴らしいものだと考察してしまいましたよ。ってそうか、この場合だとぼくの考察は、「好き」と「想像力を働かせる」の対応で理解されてしまうのかな。でも、「好き」であるがゆえに「ある意味命懸け」の視聴態度をとれば、「脚本の出来が悪い」どころか意外な脚本の出来の良さを浮かび上がらせて「駄作」という評価も覆せる、ということにならないんでしょうか。あ、「好き」が最初にある段階で、すでに「ある意味命懸け」からずれてしまってるのか。いきなり価値判断が混入してるわけだから、いわば不純。ニュートラルではない。
 ということは、こういう「あばたもえくぼ」みたいな視聴態度じゃなくて、「脚本の出来がいい」「演出が巧み」「作画が美麗」「斬新な音楽」「会話の心地よさ」などは個別に評価可能であり、それらがうまいこと合わさった結果として完成度の高い作品となり、「普遍的に好かれる」ものとなるであろう、と。しかしその場合、何をもって脚本その他の「出来」や、その組み合わさり具合を「普遍的」なものとして判断するんでしょうかね。例えば、ぼくという個別的な存在にやたら強烈に働きかけた作品の何事かを、他の人間にも働きかけてしまえるように「普遍化」しようとする、というのであれば納得いく話なのですけど。もちろんこれも最初に「好き」ありきなので却下。しかもこないだの日記内容の繰り返し。
 うーん、でも「作品から引き出せる感動や面白さの全てをすくい上げようとすること」が「ある意味命懸け」の一面なのだとしたら、そこに感動や面白さがあるという前提で観てるわけだから、これも「好き」と同様の予断にならないんでしょうか。だいたいアニメが好きで観てるんだし。だけどそれでも「駄作」と言えるんだから予断ではないのか。

 あうー、薫さんによるご指摘の意味が(そしておそらく『のともえ』さんの意見についても)ぼくには分かってなさそうです。お暇があればどうかご指導ください。あと、「脚本の弱さ」については、その作品自体を観てないので判断を保留させていただきます。でも「野中藍」がキーワードだということは学習しました。ぼくにとっての「可憐」みたいな位置づけでしょうか。
2007年3月3日(土) まずは単行本だけでも買おうかな
 というわけで取り急ぎ、『まなびストレート!』のテレビ東京公式サイトを見てみたわけですが、いかんです。これまでのお話を読むだけで、なんか勝手に想像が走って目頭が熱くなってきました。もしかして、これは……よさげ……?
2007年3月4日(日) 2週間ぶりのぷりきゅあ
 かれん、変身失敗。かれんが独白し始めたあたりで、あれ何か変な展開だな、と思っていたら、なるほどこうきましたか。
 いつもそうだったように他人に任せるのではなく自分がしなければ、という孤独な義務感だけでは、プリキュアになることはできない。その鍵は義務感ではなく意志。抑圧された自発的な想い。こまちばっかりずるい、私だってあんな可愛いコスチュームに変身したいんだ、という素直な欲求。
 いや、かれんが本当にそう思ってるんだったらたまらんわけですけど、そんな個人的欲求だけでもやはり駄目でしょうね。誰かの想いを受け止めて、それに応えたいと願うとき、光の蝶が再びその手に訪れるのです。心がつながって変身するプリキュアたち。つまり、この作品はある意味で、『コンバトラーV』の正統後継者なのであります。とはいえ一緒に変身する必要はないわけですが、……いや待て、もしかしたらいつか「合体」なんてイベントが(却下)。
2007年3月5日(月) 萌えー、というだけでなく
 というわけで、『まなびストレート』漫画版単行本第1巻を買ってまいりました。こういうときだけ行動が早い自分。
 これ、漫画としてはあんまり上手くはない作品です。画力もそうですが、台詞まわしとか間のとりかたとか、いろいろともうちょっとな感じ。だけど、ここに登場する子たち、動きます。自分達の学校だから、自分達の手でいのちを吹き込む。そのことに頑張り抜くこの子たちの賑やかさが、わりと素直に聞こえてきます。
 結果、アニメ版も期待してよいんじゃないかな、と思えました。
2007年3月6日(火) すでにはまりつつある
 そして『まなびストレート!』第2巻。そうか君達、高校生だったんだよね……。絵だけ見てると中学生としか思えません。でも中学校は義務教育だから、物語が成立しなくなっちゃいますね。

「高校に行くことがあたりまえでなくなってしまった時代」

 学歴社会がどうこうと言うのはさておき、それは「高校生活」という大多数の大人にとっての共通項が終焉する未来。つまり、学園もののえろげも絶滅しかねない時代(がーん)。そんな時代に、少女達は学校をわくわくきらきらさせようって頑張って、自分達自身がわくわくきらきら成長していくのでした。
 いわゆる青春というものが、「気がつく前に過ぎ去っていった日々」という大人のほろ苦い回想の中に存在するのだとしたら、ここに描かれているのは、目の前で滅んでいくその青春発生空間を、自らの手で再生してしまおうとする自覚的な創造行為です。すなわち「高校 Re Pure」。かっこよくてやさしい女の子たち。いや真面目な話、未来と今が重なり合うとかいろいろな箇所でも、アニメ版シスプリを思い出すわけですよこれが。あとは個々人の「過去」がうまいこと結び付けられたら、もうしやわせ。
 こういう、滅びや衰退・モノ化といった否定的現実のさなかに踏みとどまって、否応のない移ろいをえいやっと投げ飛ばそうとする生の息吹というのは、ぼくが好む主題の一つですね。やがて彼女達も卒業せざるをえないわけだけど、だからこそ今このときが光り輝くわけだし、彼女達の残したリズムを感じ取って受け継ぎ、そこにどんどんアレンジを加えていくような新入生も、きっと入ってきてくれるはず。いつか廃校の日を迎えるとしても、その学校で生きた証は卒業生達からその子供達などへと受け継がれていくはず。
 主題にかかわる様々な問題は、みかんが専ら引き受けて悩んでくれていますが、やがて彼女もまなびに突っかかっていくべきときを得るのかもしれませんし、将来この学校の先生として赴任することになるのかもしれません。自分がかけがえのないときを勝ち得てきた場所を、その息吹とともに守り、次の少女達の手に委ねられるようにと。

 ところで、この作品が嫌いな人の中には、学校生活が苦痛だったという人もいるんじゃないかしら。だから、こんな高校生はたんに作り事に過ぎない、と言いたくなってしまうという。ぼく自身、この作品を読んでてそんなふうに拒絶したくなる瞬間があります。でも、少なくともこの作品の中で、まなび達はまっすぐGo!と走っている最中なんだから、そのゴールを迎えられるときまでは、黙って見守ってやりたいようにも思います。
2007年3月7日(水) はまった(早)
 アニメ版の方は現状どうにも観られないわけですけど、たとえ脚本や作画の出来が悪くても、まなび達ならなんだかんだ言いながら、そんなものをしれっと乗り越えて、自分達のわくわくきらきらを振りまいてしまうのではないかなあ。ねえ、園長先生。

 もしキャラの薄さというものが視聴者側にとっての問題になっているのだとしたら、それは例えば、彼女達の過去がほとんど明らかになっていないためでもあるでしょう。シスプリの妹達と同じ問題ですね。でも心配無用。「絶対大丈夫だよ」とさくらちゃんもかつて言ってました。それにですね、自分の過去を振り返るなんて暇は、いまの彼女達にはまだないのです。そして一方、高校での目下の未来を創っていくために、まなびはちゃんと高校の過去(の学園祭)を真摯に見つめ、学ぼうとしています(#12)。未来を向いていこうとすれば、その努力のなかで過去も必然的にいまの血肉になっていくという話。
2007年3月8日(木) ご指導ありがとです
 薫さん、詳しいご説明ありがとうございますー。お忙しいとこ、かたじけなく。
 はい、ぼくも「『命懸け』で見ることにより得られる評価は個々人によって異なりうる」と考えます。そこはもう解釈視点や価値基準の違いなのだから無理には一致できないわけで、あとはただお互いの「命懸け」具合に敬意を払うのみ、という。で、「因果関係」をそんなに強く認めていないのでは、というご指摘ですが、そこは確かにぼくの早とちりですね。しかし、するとますます、「普遍的に好かれる」なんてこと考えてもしゃーないと思うのですが……。
 でも、だからいわゆる「萌え」のあざとさを作品内に見て取ろうとする態度が、『のともえ』さんの場合あれほど強いのかな、とも感じました。それがつまり「普遍的に好かれる」原因の一つとして理解されているのでは。ここでぼくはまたも2種類の分析を混同してしまってるのかもしれませんが、もしそうでないのなら、これは赤松健作品に対する一般的な批判と似てますね。
 意識せずにたくさんのアニメを観られる生活というのは、なるほどぼくが言ったような予断がないと言えますね(「萌え」=あざとい、というのは別の予断だと思いますけど)。ここはぼく自身のアニメ生活の貧しさを勝手に相手側にもあてはめてしまっていたかもしれません、『のともえ』さんに対して失礼でした。しかし正直羨ましくもあります。ぼくが習慣化できている視聴作品ってプリキュア5ただ1本なので。

 そして具体例まで示していただき、感謝感激です。うわ、ほんとに「正反対」ですねこれ。薫さんの解釈を読んで、なんだかその話を実際に観たくなりました。で、観るとたぶん考察したくなりそうです……ただ、ぼくの書きそうなことなんて、とっくにどなたかがご指摘ずみだとも思いますけど。
 例えば、薫さんが引用されている『のともえ』さん

「ツンデレのはずの芽生が手紙で口では言えない思いを伝えるというような恥かしいことをいとも簡単に行ってしまうことに無理がある」

という箇所は、ぼくなら考察でこんなふうにひっくり返すことになるんでしょうか。すなわち、

 芽生はしばしば、いわゆる「ツンデレ」という一言をもってその人格を類型化され固定化されてしまいがちである。しかし、この場面で彼女が手紙を通じて自分の想いを伝えようとしている姿を見れば、そのような類型的かつ固定的な理解がきわめて安易なものであることが分かる。
 あるいは芽生は、手紙を書くか書くまいかに煩悶し、いざ書き始めてからも、途中で「こんなことは私らしくない、恥ずかしい」と何度も挫けそうになり、書きかけの手紙を引き裂いてしまっていたかもしれない。だが、そんないわゆる「ツンデレ」らしいかもしれない感情がこみ上げてきながら、それでもなお芽生は、この手紙を書き上げることを止めなかった。書き綴っていく一文字一文字は、まさに芽生が自らのかたくなな枠を越えて不安とともに成長していこうとする、そのたどたどしい歩みそのものである。あるいはむしろ、この手紙はほとんど一気にしたためられたものかもしれない。だとすればなおのこと、光香という大切な友人に対する芽生の想いは、意固地な自己像さえ振り捨てるほどにまで加速していたことになる。
 いずれにしても、このときまでの内心の障壁の厚さと、それをも突き破るにいたった「友達」への想いのつよさとは、同時にまた、物語を通じてなされていく少女固有の人格形成が、視聴者の類型化された人物理解の壁を乗り越えていくそのつよさと、重なり合うのである。
 そしていまや、「ツンデレ」という一般的な芽生像は、じつはたんに安易な類型化ではなく、このいわゆる属性の本質が彼女を通して掴み取られることにもなる。とら氏『だったらイケるぜ!』2005年9月21日分日記における「ツンデレは対人関係の未完成を意味している」という定義をふまえたとき、まさにこの場面は、「対人関係の未完成」状態に自らを置き続けてきた芽生が、学美達との交流を経てついに対人関係の完成に向かわんとする、そんな「ツンデレ」からの脱皮の瞬間を描いているからである。
 もっとも、長年にわたって培ってきた性格が、たった一晩で完全に変化できるわけではない。その後の場面でも、彼女はたびたび仲間達のために行動しながら、それが自分の善意や友情によるものではないのだ、と従来のように明言してしまう。しかし、それを聞かされる仲間達はといえば、もはやその言葉の背後にある彼女の想いを受け止めてしまっているのである。人間形成における過渡的な属性である「ツンデレ」は、芽生の場合はこのようにして、仲間達との日々のなかで徐々に発展的に解消されていくものなのだ。

 てなかんじで。観ないで書きました(問題外)。
2007年3月9日(金) 予想はずれ
 いま(11日)プリキュア5の第6話を観たのですが、その内容については後日として。第7話予告に残念(笑)。ここで異世界の紹介はしなかったか……いきなり第9話のような展開なのかな。などと勝手に楽しんでます。
2007年3月10日(土) 受けて、たつ
「純情可憐な乙女の力で、責めてみなさい!」

 そんなこと言う人、かなりコワイナー。
2007年3月11日(日) 決めたからこそ分かること
 かれん変身成功。嬉しそう。

 一度失敗したことがあまりに衝撃的すぎて、一切に集中できないかれん様。こまち達もほぼ諦めているのに、のぞみだけはそれでもかれんにまとわりつく。挫折者の自分になんでそこまで、と問うたかれんに、のぞみが答えたのは「決めたから」。

 それは、かれんにとって何の意味ある答えにもなっていないのだけど、子供ってそういう答えをするときがありますよね。だってそうきめたんだもん。決めた理由なんて自分でもよく分かってなくて、ただそこには、そう選んだ自分の気持ちへの力強い肯定感がある。それは「好きだから」と同じくらいに、嘘偽りもなければためらいもない断定。まっすぐ向かっていくまなざし。

 そんな自分の気持ちをうだうだ弄り回したりしないから、のぞみは自然にかれんの長所に気づいてしまえる。親と電話する姿や、じいやさんの話をもとに、かれんの心の奥底にある寂しさを受け止めて、しかもそれをただ突きつけるんじゃなくて、先輩が寂しさを胸に秘めながら親に心配かけまいと頑張って生きていることを、はっきりと賞賛できる。このひとと一緒にって決めたから、このひとが気に入ったからこそ、そのひとのいいところは当人さえ気づかないうちにズバリ発見できるようになるのでした。好きだから見えてくるものってありますよね。
 そして、そんな自分の意外な一面に気づかされたかれんも、のぞみのよさを素直に発見できる。のぞみが言っていることは実は後付けの理由でしかないのだけれど、でもそんなことはもはやどうでもいいくらい、かれんの気持ちにのぞみは心地よいほどまっすぐ入ってきてくれた。そうして学園での役職やプリキュアをめぐる立場を横において、素直な者同士で言葉を交わせたとき、二人の笑顔が自然にこぼれ出るのでした。

 ここまでくれば、のぞみと絆を結んだかれんが変身できるに決まっているわけで。そりゃみんなと一緒にポーズも決めたくなりますよ。あとで自室のベッドで悶絶してるかもしれませんが。
2007年3月12日(月) それは心のなかに
 図星とのこと。たしかに漫画版を読んでもぼく自身、ここまで気持ちのいい友人関係や先生と生徒の関係ってなかなかないよね、と思うわけですけれど。

 この作品のタイトルには、『まなびストレート!』という言葉の前に、『がくえんゆーとぴあ』と掲げられてます。ユートピア(utopia)、「どこにもない国」。それはトマス・モアの当時のままに、この現実世界に決して存在し得ず空想の中にしか望み得ないような、そんな場所です。まなび達が生きる学園もまた、そんな「どこにもない」学校の姿なのかもしれません。だから、この作品はたんなる夢物語であるとも言えます。
 でも、それは、『ユートピア』がありうべき国家の姿を描き出そうとしたように、学園のイデアを描き出そうとする作品なのであり、今のぼく達に必要なファンタジー、つまり理想像の提起によって経験的現実の諦念を乗り越えようとする努力のかたちなのかもしれません。

 だとすればこの作品は、夢物語であるとともに、夢の物語でもあるのです。だから、自分が経験しえなかった学校生活を恋焦がれるあまりに「悪しき虚構」と背を向けてしまうのではなく、もしもまなび達が目の前にいたならその想いをせめて傷つけずにいられるような、できればそっと支援してあげられるような、そんな大人でいることが自分にできたらな、と思わずにいられないのです。
2007年3月13日(火) びりびりと
 なんというか、声が届いた瞬間というのか、そういうのを自分の中に感じる機会を得ました。はっきり表現できないのですけれども。これで何かが変わるのかなあ。
2007年3月14日(水) きょろきょろと
 で、気がついたら仕事上の敵がたくさん出現してました。全員ぼくより強力です。どこかでレベルアップに励まないといけません、なんとしてもがんばらねば。
2007年3月15日(木) まなびたい
 『全てが台無し−雑記帳−』さん「まなびストレートの細かい演出の受け取り方」『イレギュラーエレクトロン』さん3/15分より)。
 ついさっき第1話のみ観たぼくの判断では、芽生についてここに書いてあることにまったく肯けます。そんな芽生に挨拶が返ってくるまでじゃれつくむつきのその強引な優しさにも感動しました。
 いや正直、この作品は……かなり、胸に迫るものが……。もしかしたら、学校生活を終えてある程度の年月を経ないと、このよさは感じられないのかもしれません。とか偉そうに言ってみるテスト。ええと、未来への郷愁と申しますか、そんな感慨に耽りました。

 まず演出(でいいのか)。すんごい細かい。指先に表情が宿ってるのはもちろん、あんなにアニメ的な顔面造形なのに、機微がきちんと描かれている。同級生の4人が、まなびとの出会いの瞬間に生き生きとしたいのちを改めて吹き込まれるそのさまが、とても分かりやすく表現されている。音楽もその前後で雰囲気が違ってるように感じたし。
 で、まなびに感情移入できないとか、まなびがどうしてここまでするのかが示されていないとか批判する人もいるみたいだけど、そんなもん後の話に決まってるやんか。『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒが自らの意図を語ったのはどんだけ終わりのほうでしたか。この段階ではまず、まなびというあまりに特異な少女と出会ってしまった衝撃を、同級生達とともに視聴者であるぼく達も分かち合うべきときですよ。そうしたとき、わけの分からないようで一本筋の通ったまなびの行動が、観ていてとても心地よく感じられ、思わず一緒に拍手してしまいたくなるのでした。
 プールで聴いた校歌を、翌日にはもう歌えるようになっている。まなびはその名前のとおり、すさまじく学習能力も学習意欲も高い子なのであって、それは勉強ができるかどうかとは関係ありません。ひとのわずかな言葉も振舞いも見逃さず聞き逃さない彼女のことを、今度は仲間になってしまった少女達が、いつも不思議に思いながら見つめ耳を向けていくのです。ぼく達と共に。

 ところでこの少女達、高校生にしてはずいぶんと幼い姿に描かれてますが、これはべつに「萌え」がどうとか言わずとも。この世界設定における一般的な同年代の少女達、つまり高校なんかにいかずに働いている少女達を「大人」として描き、高校生達と対比させようとしているのでしょう。そしてその幼さは、たんに幼稚さとか現実逃避とかいうものじゃなくて、この時期にしか、学校という場所の中でしか輝くことのできない何ものかを、その未熟さ=可能性として端的に表現しているのだと考えます。
2007年3月16日(金) まなびやの桜
 『日本のアニメは本当に世界一か?』さん「『まなびストレート!』で考える、「『演出』が細かければ素晴らしい作品といえるか?」という命題」。先日の『全てが台無し−雑記帳−』さんの意見に対する反論ということで、一部なるほど。
 いま、第2話のバザーの場面を観ましたが、あそこで学園生徒達が「50円だってー」とわらわら集まってくるのは、例えばご都合主義的な演出というふうにも考えることができますね。そういう箇所にそのままこだわっていけば、たしかにこの作品のドラマ性の弱さが浮かび上がってくるのでしょう。
 いやしかし、それは表層的な解釈だよね。というわけで、言及された場面とのつながりで具体的に解釈・批判してみるの巻。

>また、「深読み」というなら、生徒総会でまなびが校歌を歌うシーンは、私には「CDを売るためのプロモーションとして用意されたシーン」としか思えないのだが……。

 それは作品外論理にすぎないので。ぼくなりに作品内論理で「深読み」すると、この作品の主題のひとつは、終焉に立ち向かう再生への息吹、です。オープニング映像を初めて観たときぼくが感じたのは、「死」のイメージでした。焦点のぼやけた揺れる視界。色調の鈍い世界。死後の学園で遊ぶ子供達。
 現代と地続きのこの未来世界では、「学園」も「子供」もほとんど死んでいるんですよ。高校生が「子供」か、という批判に対しては昨日もちょっと触れましたが、この未来世界で高校に行くことを選ばなかった子供は、じつは「高校に行くことを選べなかった者」や、「子供として扱われなかった子供」だったりするんじゃないでしょうか。大人達が、子供の自由にしていいよ、早く働いて自己実現していいよ、と優しく語りかけているように見えながら、その実それは逆に、子供に早いうちから責任を負わせる世界です。未熟な若者に自分の尻を拭かせる世界。それは開かれているからこそとても厳しい場所です。そこには、自分の未熟さとゆっくり向き合っていくための余裕がない。余暇(スコレー)がない。スクールというのはそんな余暇を子供に与える場所だから、つまりそういう学園もない。
 そんな時代にあって、この聖桜学園も滅びを迎えようとしています。その灰色の未来を予感しながら、園長も教員も生徒もどうしようもない。ただ「いつもどおり」の毎日を繰り返すしかない。そして惰性の毎日こそが確実に精神的な死を早めます。『まなびストレート』は、学びの場がそんな未来を乗り越えるためには、そして子供が子供でありうるためには、何がなければならないのかを、視聴者である大人や子供に問いかけてくる作品です。だから、少女達は、灰色の学園にカラースプレーを吹き付けて、学園の中を駆け回って、いのちをこの場所に充満させ、互いに手をとりながらその息吹を心身に吸い込むのです。

 で、そこに登場したまなびが体育館の壇上で校歌を歌うと、背後に桜の花が咲き乱れるという象徴的な場面。
 これはもちろん「聖桜学園」という名に相応しい歌詞「桜色の未来達 空を舞う」をもとに連想されたものでしょうが、おそらくそれだけではない。これは学園の象徴であるとともに、たちまち散ってしまうもの、学園と子供時代という失われていくものの象徴でもあるわけです。
 そしてまた一方では、まなびの歌声と、そこに込められたこの学園への想いによって、聖桜学園のよさというものをあらためて発見した生徒達の、その清新な感情というものが、あたかも入学当時のそれと重なるようにして、ここに蘇っってもいます。いえ、もしも生徒達が入学時すでにたいしたやる気を持っていなかったとすれば、その清新な感情は「蘇った」どころか、いま初めて実感できたものだったかもしれません。だとすれば、まなびの歌声は、まさに真の入学式をこの生徒会長選挙の場に実現しえたのであり、だからこそここで桜の花が爛漫に咲き乱れるのは、その心象風景として当然のことなのでした。
 しかもこの日は、まなびにとっては転校日なのであり、いわばこの学園への入学式みたいなものだったわけでしょう。教員・生徒からの万雷の拍手は、生徒会長となるに相応しいまなびを新入生として迎え入れようとする、みんなの一体となった心のかたちです。そして、この一体性を一度快く経験してしまえばこそ、第2話のバザーでも生徒達は何気なく近寄ってこれるのです。文化祭などならまだしも、バザーならばまだ面倒くささが感じにくい程度には、心理的抵抗が薄らいだというわけ。

 こうしてみれば、この桜の場面は、「ごく単純なモンタージュ」と割り切ることはできないのであって、そこを見落としたまま「批判を行っている人は、そういった演出をきちんと読み、意味を踏まえた上で、論じていると思え」ないのです。少なくともこれらの場面に関しては、作品内での描写と主題とのつながりが明確に示されているのであって、そこを見過ごしたままで、「ごく単純な」なんて一般化されたフォーマットで理解したつもりになるのは、作品のどこを観ているのか分からないあまりにもったいない話です。
2007年3月17日(土) まなび補足
 昨日分の補足。

>まず、肝心の、主人公(まなびのことですよ!)の苦悩が描けていない点

 苦悩するのは基本的に、まなびではなく他の仲間達ではないのでしょうか。まなびはまず、作品における空白の中心点(=行動の中心点)なわけで。ピーターパンや『ONE PIECE』のルフィが苦悩してますかね。いつかはそういう場面があるとしても、今までまなびの主観からあまり描かれずみかんの目線などが多用されているのだとしたら、そういうことじゃないのかな。

 もちろん、作品内の描写からまなびの真情を察することはできます。
 例えば、第2話でめいがまなびの手を振り切って逃げ出すように生徒会室を去っていくとき、みかんとむつきは顔を見合わせて眉をひそめていますが、まなびは「ぽかーん」とした表情でめいの後姿を見ています。この場面でまなびは、めいに対する否定的な感情をおそらく抱いていません。部屋を片付ける手伝い(というより主力)として頑張ってくれためいと、一緒に買い食いがしたかった。けど、それができないのであれば、せめて感謝の気持ちだけでも伝えたい。今日という日を経たいまとなって、すでにまなびにとってめいは仲間であるから。ということで、窓から手を振って大声で、ということになるのは、むつきというよりまなびのアイディアだったのではないですかね。

 ところで、まなびの苦悩ということでいえば、第2話で兄との会話中にそのひとつが描かれています。兄に子供扱いされて腹を立てる場面。それは別段、まなびが「なんでわたしはこんなに子供なんだろう」と未熟さに苦悩するという態度をもたらしてはいないかもしれません。しかし、まなびは苦悩するなんて暇もないくらいに、目の前のことに一所懸命なわけです。それが彼女の子供っぽさであると同時に、彼女の素晴らしい個性でもあるという。

 兄 「子供には、大人に真似できないこともあるさ」
まなび「子供ってゆーなー!」

 ですからこのやりとりは、主題に密接にかかわってます。お兄ちゃん、妹のことをからかっていながら、ちゃんとその長所を受け止めてあげてるんですよね。すぐに大人にならなくても、社会に出ていない子供でも、子供のままで頑張ることが、大人にできない何かをかたちにすることもあるんです。そして、もしかしたら、そういう経験があればこそ、子供はちゃんと大人になれるのかもしれません。

>まず大前提として、このスローガンが、まなびのどんなバックグラウンドから発生した言葉なのか、曖昧なままなのは具合が悪い。

 これはご指摘のとおり、今後語られる可能性も。ハルヒだってその動機が本人の口から語られたのはずいぶん後半になってからでしたし。もし最終話まで説明しないままでも、そういう結末ながら大傑作となった例として、アニメ版シスプリがあります(どーん)。
 それはともかく、まなび自身が「どんなバックグラウンドから」言葉にできたのか分かっていない場合もあるよね、とか。その理由をあえて説明しなくても、まなびの振る舞いを見ているだけでそのスローガンを受け入れてしまえるというのが、彼女の素晴らしさであり、彼女の仲間の気持ちなんだろうな、とか。そんな気持ちになることは、はたして「大人に真似できないこと」なのでしょうか。

 まだ最初のほうの話しか観ていないので、後半はぼくも観ていて不備が気になるようになるのかもしれませんが、現段階ではやはり、きちんと解釈できるいい作品です。
2007年3月18日(日) のぞみストレート
 プリキュア。いかん、また泣けた。この作品、ほんと見事です。子供に伝えたいことが、台詞でも描写でもちゃんと分かりやすく示されているという。
 夢を一緒にかなえようとしてくれる仲間達。ナッツがかつて自分の優しさを利用されて大切な世界を破壊され、他人を信じられず自分自身を許せなくなっているときに、のぞみはココの親友であるナッツを信じられて、その優しさを認められて。善いものを善い、悪いものを悪いときっぱり言い切ることができるつよさがあるから、敵の攻撃に身を飛び込ませて、腕輪ひとつで受け止められる。
 ナッツだって、そんな仲間達を求めていたんですよね。だって本当にのぞみ達を最初からまったく信じられなかったのだとしたら、5人の前でココにその不信を告げようなんて思わないでしょうから。信じたいけど信じられない、そんな自分自身が一番信じられない。傷ついた者が、その痛みがあるからこそ、他人と自分とを傷つける言葉を繰り返し吐いてしまう。相手はその言葉に離れていってしまいがちだけど、のぞみはココの向こうに本当のナッツの姿を見透かそうとしていました。とはいっても、そういう態度を押しつけがましく示すんじゃなくて、そういう構えを自然にとれているということ。パッシヴソナー。ぼくが画面のこっちで「いい子だなぁ」と叫んだ瞬間、ココも「いい子だね」とつぶやいて、りんが「でしょ」と微笑みました。登場人物達との共感。
 一方では掃除中にりん達とはしゃいでしまう子供っぽさを持ちながら、というより子供っぽいからこそ、ありのままに相手を受け止めることができるのぞみ。のぞみさんがいたからみんなプリキュアになれた、というこまちの言葉は、たんにのぞみが最初の一人だったということじゃなくて、のぞみのそんなまっすぐさが4人を結びつけたということ。
 ところで最後のカット、のぞみ達が笑ってる横でりんがナッツ達の方を横目で見てますね。のぞみよりも先に来るか初恋っぽい話。

 一昨日と昨日の日記について、notomoeさんから反応いただく。

 んーと、あいにくぼくはあの桜の場面で「ドラマ的カタルシス」を得ています。つまりあの場面にかかわる「視聴者が『ドラマ的カタルシス』を得るための演出について語っている」わけです。なのにその感動を視聴時に感じられなかったので否定する人がいるから、ぼくはあえてああいう言葉に組み替えて説明しているのです。この言語化自体は視聴後に手間をかけてなされているとしても、このような表現によってしかぼくの感動は説得的に伝えられないのです。
 それとも、「ぼくはドラマ的カタルシスを得られた! 感動した!」とだけ言えば納得していただけましたか。「それは一つの意見だけど、一般的な視聴者の感覚ではなくオタク的な感覚だ」と一言で片付けられそうですが、そのときには「それは一般的な視聴者の感覚ではなく、あなたの学校嫌いに基づく一つの意見です」と反論したら駄目ですかね。
 そして、作品の感動が心に残ったからこそ、ぼくはその記憶を反芻してあれこれ気づくことにもなりました。あなたは視聴時に「あれはああいう意味だったのか」と後から気づくことは一切ないのでしょうか。それとも、そういうものは「二次創作的」だとしてすべて封じ込めているのでしょうか。あと、ぼくは「同人的」なオタクである前に、人間ですから! 同人活動のためにアニメを観てるんじゃなくて、好きな作品を観てあれこれ感じた結果がたまたま考察などになってるだけです。

 真面目な話、そもそもぼくが書いたことは「二次創作的な解釈」ではなく、あなたが読み取らない原作描写の機微や通奏低音を読み取っただけのことです。たぶん。文章は視聴直後のメモにほとんど依拠しており、今回第1話の視聴は1度だけです。ただ、まとめる前にもう少し観直して確認しようかと思っていましたが、タイミングがよかったのでこの段階で掲載しました。
 もちろん、あなたが読み取らないことはあなたの自由ですし、ぼくの深読みしすぎの可能性も十二分にあるでしょう。その場合は、ぼくの解釈内容における具体的な問題点を指摘していただければいいだけのことです。少なくともぼくは、この作品についての肯定的意見と批判的意見の両方を確認したうえで、自分の感動に基づく具体的解釈を行いました。(その結果、ぼくが視聴時にかちえた感動を言葉にできて、とても嬉しく思っています。とはいえ、DVD購入後に第2話以降を視聴してぼくの判断が変わることもありえますから、そのときは正直にここに記すことにします。)

>これは視聴者が作品を見たときに受ける印象と必ずしも一致しません。

 ぼくもその視聴者の一人なのですし、あなたもその一人です。奇妙な「一般人」化をしないで、まっすぐストレートに「私にはそう感じられない」「これこれの具体的理由でその解釈は微妙」と言ってくださいませんか。
 うちの掲示板のやりとり(1805-1836)でもぼくはあなたの立ち位置がその「一般人」なのかどうか知りたかったのですが、結局よく分かりませんでした。当面ぼくが考える「一般人」とは、アニメ視聴者の中ではむしろ『日日ノ日キ』さんのような方々です。そういう方々のほうが、あなたが大衆的娯楽作品として挙げるシェイクスピアの舞台を当時心から楽しんだ人々と、よほど近しいという可能性もありませんか。もちろんシェイクスピア作品のように古典として後世に残る萌えアニメは、シスプリ第1作に決まっているのですが(白目剥いて断言)。
 それはともかくも、『まなびストレート』と『プリキュア5』を比べれば、やはり後者のほうがしっかり出来ているし好ましいのですけど、前者に見出した感動がそれ固有のものであることも、ぼくは否定しません。

 ところで「寅さん」映画は1本も観たことがないので判断できないのですが、映画館の中でグッズ販売してなかったんでしょうか。どなたかお教えくださいませ。
2007年3月19日(月) まなび第2話
 『まなびストレート!』についてあれこれ書いておりますが、主題歌を聴きなおしたら、そこに全部表現されてました! 頑張って観てるうちに、あとで分かるんですよ、きっと。そしてエンディングも素晴らしい。
 そういうわけで、1ヶ月遅れの日記の日付がやっと現実に追いついたと思ったら、勢いがつきすぎて追い越すことになりました。もはや日記でも何でもありませんねこれ。まあいいや、斜め前にまっすぐ Go !

 というわけで第2話。泣けました。昨日、プリキュアのほうがこの作品よりもつくりがいいと書きましたが、訂正します。こっちも素晴らしいです。子供向けでないから、適度な省略や、情景による間接的な説明がうまく機能しています。薫さんの「省略のテクニックはまさに制作者のセンスの現れるところ」というご指摘は、まさにその通りだと感じました。

 第1話の生徒会長選挙から1週間後。そうか、時間経過をきちんと確認していくのか。これって、まなびが転校してからの学園の変化を掴みやすくしていると同時に、ヤマトの「地球滅亡まであと何日」というのと実は同じで、閉園までの残り時間が短くなっていることを背後に感じさせています。

 夜の生徒会室。めいが一人で立ち去るさい、盛り上がってるみんなに背を向けていくのですけど、その右手がちょっぴり後ろに下がってるんですね。あたかも本人の語られざる気持ちを代弁しているかのように。そこをわっしと掴んでしまうのがまなびであり、たとえその手を振り切られたとしても、窓辺から大声で呼びかけるまなびの姿に、分かってもらえてる、という安心感がめいに生まれています。だからこそ、そんなんじゃないんだから、とわざわざ言い返さなければならないわけで。

 そして片付けの基本は「無駄なものの排除、消去」。でもなかなか捨てられないんだよね、何が「無駄」なのか分からないし、手に持ってみると何となく大切なものに思えてしまうから。今までの生徒達が残してきた物品には、学園の魂が宿っていると言ってもいいのです。まあそこまで極端に考えずとも、整理整頓のできない子供達。
 だから、「無駄なものバザー」を開催する。たんに「無駄」なものとして捨ててしまうのではなく、それを材料に使ってもらえそうなものをこしらえて、同じ学園の生徒達からのお金に換えて、そのお金をまた生徒会室のために、つまり学園のみんなのために使おうとする。とても立派な経済感覚ですよ。
 ここでの教師達の態度は、しもじーと他の教師達とで対照的なんだけど、園長はその両方の立場を分かったうえで、自分の立場からの判断を行おうとしています。でもそれってなかなか楽しくもしんどいことで、やれやれ。

 買い物中、店内で仲間達とはぐれてうろうろするみかんの姿は、まさに日頃のぼくそのものでありました。そのあと必ず怒られるんです。

 めいがサングラスまんざらでもなかったり、あっちこっちで何事かしたり、5人の姿は台詞がなくても何を話しているのかよく分かります。校歌が流れるこの店内の場面で、台詞がないのに5人の関係が分かるというのは、校歌がその雰囲気をそのまま示しているからでもあります。そして校歌は第1話以来、まなびが中心となって息吹いた学園の清新な空気を象徴するものです。

 まなびが創ろうとしたのは、「学園みんなの溜まり場」。マイクを向けられても考えが言葉にまで至っていなくて、どう答えたものかと一瞬躊躇するけど、困ったまなびが見回せば、そこにもう仲間達がいるから。その姿を見て嬉しく思ったその気持ちを言葉にすれば、自然に口をついて出てきます。
 これはまた、学園のコアとして公共空間を創造しようとする試みでもあり、校歌に感じた息吹を空間化しようとするものです。まなびの想いと努力は、ちゃんと意味をもってつながっています。

「リフォームだよ!」

 それはやはり、生徒会室刷新を端緒とした学園の再生なのであり、原点回帰という本来の意味での革命(Reformation)なのでした。
2007年3月20日(火) まなび第3話
 暴走する感想衝動のままに第3話。

 「学園」の対照的な姿。「格式」と子供っぽい活力。でも、伝統に立脚した学園の生徒会長は、その格式こそがたんなる形式となり、生徒達による学園祭の混沌たるいのちを失わせていることに、何となく気づいています。

 で、一方の聖桜のこの生徒会室、マリみての蓉子さまがご覧になったら感激しそう。第2話から2週間後には、もうこんなふうに誰でも歓迎される雰囲気になってるんですね。もちろんそこには気づかないうちに排除されている生徒達もいるかもしれなくて、そのへんは漫画版では旧図書館話として描かれていました。

 まなび、たかこさんとの初対面。年上っぽい人には弱い模様。もちろんそれだけじゃなくて、こないだ来訪時に眠りこけていたことをすまなく思っているわけです。その直後に手紙か電話で詫びたにせよ、直接お会いして謝るのはこれが初めて。でもすぐに「たかちゃん」。ドッヂボール大会も、まなびが汚名返上も期して開催したものかもしれません。
 ところが大会自体は盛り上がったものの、後の役員懇親会では外してるはずしてる。たかこさんの助け舟には助かったものの、一言も発言できないまなび。あれ、めいもラーメン屋に来てるし。しかも猫舌でしょうか。それはともかく、学園祭などについて今までまったく考えてなかった、あるいは言葉にできるほどの段階に至っていなかったことを、ここでまなびが気づかされたわけですね。
 そして、愛光学園に本気で学びに来たまなび。この飽くなき学習意欲ってすごい。何かが大切だと思ったら、分かるまでまっすぐごー。しかし愛光学園のレベルの高さに「自信なくなっちゃったかも」とは、この作品で初めて描かれたまなびの挫折感です。何かできる、と思って頑張ってはいるけれど、すでに存在している高みを見せ付けられると、自分がそこにたどり着けるとは思えないし、それ以外のことに頭が向かなくなってしまう。
 だけど、たかこさんは、そんな自分達の学園祭が本当に素晴らしい唯一のものだなんて信じられない。だから、まなび達が圧倒されたまま帰ろうとしたとき、つい呼び止めはしたものの、生徒会長として自分達の学園祭を批判することはできない。もし「あなたたちらしい学園祭をすればいいと思うわ」なんて言ったとしても、それは優秀校ゆえの余裕に基づく世辞として受け止められてしまうかもしれない。たかちゃん、孤独なのです。「またね、たかちゃん」に対して「さよなら」と返すのは、そんな癒されない孤独感の現れです。

 ところが、これで終わらないのがまなびです。その瞳のまっすぐさ、偽りのなさ。まあいいやしかたないと適当に片付けない真面目さ。兄が心配するほどに一度は落ち込みもするけれど、行動することからすべてをはじめるのがいつものやり方。愛光学園というモデルじゃなくて、自分自身のスタイルに戻ったとき、視線がだんだん自分達のまわりに戻っていきます。

 机の引き出しの中からあふれ出るガラクタ。これを観たとたん、第2話で生徒会室のゴミを捨てられない彼女の姿がそこに重なって、なんか泣けました。なんだこの思い出箱。しかも思い出にならないまま生きている物品達。

 そうしてノートの表紙にタイトルをつけ、言葉を付け加え、仲間達の姿を描いて飾ったら、やっと分かることがありました。

「分かったよ、たかちゃんが言おうとしたこと!」

 みかんの問いかけを、ずっと考え抜いていたまなび。もうすごすぎる。
 誰かがこしらえた正解をそのまま真似するんじゃなくて、「世界にいっこしかない」学園祭を、自分達の手で創りあげる。それが、たかちゃんにも見せてあげたい私達だけの学園祭。「だって真っ白なんだもん!」「てことは、何だってできるってことでしょ!?」そんなふうに飛翔する気持ち、キャンパスという真っ白なキャンバスに思いのままに描こうとするわくわくきらきらした気持ちは、たしかに電話じゃなくって、この学園の中に一緒にいればこそ伝わるものなのでしょう。そりゃ月曜日まで待てません。ほんとなら、たかちゃんにだって伝えたい。でもそれはいま言葉で伝えることじゃなくて、やがて学園祭そのものによって丸ごと伝えたいのでしょう、きっと。

 うわー、わくわくしてきた。全13話だとすると、この学園祭の帰趨がメインになるのでしょうか。
2007年3月21日(水) まなび第4話(追記、第5話)
 第4話。もうDVD買う。

 いきなり、めいの回想。学校のどうにもならない無気力な現実。終わらない掃除。ひとりぼっちの夕暮れの教室。むつき。もうだめですアバンタイトルで号泣。安っぽい涙と言わば言え。
 第2話でまなび達が生徒会室をまったく片付けられず、それでも頑張って掃除しようとしてたとき、めいはずいぶん嬉しかったんだろなあ。以下、あまりにもたまらなかったので、ほぼ視聴メモのまんま記します。

 第3話から数週間後。学園祭のコンセプト決まらず。
 走っていないと考えられない。
 みんなの学園祭だからみんなで考えよう。
 でもみんな学園行事やる気なさそう。
 「うん」めいの目は横を向いてるけど、嬉しそうな返事。
 めいを引きずるまなび、強引にすぎる気持ち。
 言葉がまったく逆の意味で伝わってしまうということ。めいを頼りにしてる、めいの力を評価してるということが、逆にめいにすべてを任せてしまおうという身勝手な同級生達の記憶と重なってしまう。生徒会室で「一緒に」と仲間達が繰り返しているのに、そのことを忘れ去るほどに強烈な、不条理と孤独のフラッシュバック。
 まなび、理由が分かってすぐ反省。
 やるべきことをやりながら、そのことに対する誠実な作業と結果をもって、めいに分かってもらおうとする。言葉じゃ分からないかもしれないから、行動で分かってもらう。まなびの筋の通し方。

 めいと友達になりたい、って語るまなびの言葉はずいぶんと長いけど、いつか交わせるようになるお互いの気持ちと比べれば、とてもとてもわずかでしかない。そんなほんのわずかな言葉が、こんどはちゃんとそのままめいに届いて、その手を自分から伸ばせるようになりました。

「もう、見つかってたんだ。」

 ただ気づこうとしなかっただけ。見つかっていたのにそっぽ向いてただけ。そんな自分を、仲間達はとっくに受け入れてくれていたということへの感謝。

 あの日の飛行機雲、やっと届いたから、今度は一緒に空を飛べる。友達は、相手の能力を利用しあうものじゃなくて、ただそのひとが好きだから、一緒にいて一緒に何かをすることが楽しいから、そのひとと言葉を交わしたいから、だから私も4人と一緒にここにいる。

 大傑作。めいの胸が意外に大きいことを除けば。

 追記。notomoeさんから再度反応いただく。どもですー。
 「ニヒリズム」とのこと、了解しました。うう、それでは仕方がないですね。逆にぼくは、とりわけ好きな作品を語るときには非常な楽観主義と押しつけがましい態度に陥りますので、そのへんは今回も含めて、自分でもどうかと思います。あと、批判は(批判対象がないと存在できないという意味で)限定的な創造的行為なのではないか、とか。

>徹底的な特殊性が、誰もが持っているけれど気付かない一般性の発見に繋がるのではないか

 これはまったくその通りだと考えます。そして作品の中でいえば、まなびはあまりに特殊だけど、彼女の姿に一般的な人間性(それが現実にあるのなら)というものが重なるとぼくには感じられたのでした。これは第4話までの感想なので、今後まだ分かりませんけど。なんか、後半アジ演説が出てくるとか……ちょっと不安です。
 何はともあれ、あなたのおかげでぼくは『まなびストレート!』という未知の作品に出会うことができました。そして、あなたの他のアニメ作品に対する感想のなかに、ぼくもその作品を観てみたい、と思わされるものがありました(『すもももももも』とか)。これらのことに、あらためて感謝します。そして、そういうあなたの楽しそうな感想を読むと、それをブログでぼく達に伝えようとしてくれるあなたの心意気も決してニヒリズムなんかじゃないのでは、と思いたくなるのですが、このあたり最後まで身勝手なことですみません。

 というわけで第5話。もう止まらない。

 手紙。うん、手紙ですね。ぎゃー。くすぐったいー(ごろごろ)。

 めいと二人っきりで話の糸口すらつかめないみかん。でも、それはめいも同じことで。みかんが手紙という媒体を思いついたとき、めいは前日むつきに相談して教わったとおり、手紙を書こうとしていたのでした。
 みかんの視点で話が進むから、めいの気持ちは分からないままだったけど、ちゃんと一人ひとりが想いをもって、悩みをもって生きていて、それがここに描かれてます。
 このへん、できれば前半部でめいの逡巡などが見られればなあ、と思う気持ちもあります。ただ、みかんがめいのことを今までの印象で見ていたときには、めいの表情もしぐさもその印象どおりの遠さでしか描かれない。それは、みかんが何を見ていなかったかを、視聴者にも伝えています。だから、後半ではめいの表情などがみかんとのごく近しい距離をもって具体的に丹念に描かれるという。この段階では、みかんのまなざしでも、めいがそのように細かく映るようになったのでしょう。

 で、まなび不在のいま、しもじーの配慮を(めいの説明を通じて)知ったみかんが、ついに立ち上がりました。まなびを待つのではなく、いま二人で何とかできるところまで進めよう。いつまでも頼りっきりではなく、自分も対等の仲間なのだから。そこに差し込んだみかんの自負心は、まなび達という素敵な仲間がいるから、自分もその素晴らしさにたどり着きたいという、相乗効果の現れでもありました。

 そして煮詰まる二人。そこで走る! 運動オンチな二人が走る! まなびの誠実さと凄さを知っている二人が、行き詰ったときにその凄い仲間の真似をしようと同時に思いつくという、この二人の生真面目さたるや。

 「私達は、私達のやり方でいきましょ。」

 そう割り切るめいの態度は、諦めの速さということではなく。学園祭に正面から向き合って、たかちゃんのやり方と違う自分のやり方を貫こうとするまなびと、まったく同じ態度です。方法や中身は違っても、構えは一緒。仲間だから同じ方向を見つめつつ、いろんな個性に応じて自然な距離感。
 で、そんな試行錯誤のさなかに、みかんはもちろん自発性を発揮して成長し、めいをもっとよく知っていくわけですけど。めいもまた、すぐ傍らまで警戒心もなく寄ってくるみかんのことを、とんでもない密度で吸収していくのでありました。ときどき横目で見つめるとき、みかんのいいとこを感じまくりなはず。調理室で笑いあう二人なんて、いつの間にそんな関係ができていたのか。もちろん台詞のない時間のなかでです。

 みかんの勧めに素直にしたがって、寝転がって夜空を見上げれば、そこに輝くお月様のかたちは、気がつけば満月になっていました。こないだ窓辺から見上げたときは、まだ欠けていた月が。それは、自分の中に欠けていたものがいまや満たされたという感覚を、めいがあらためて自分の中に確認した瞬間でした。しかも第4話のときとずいぶん違うのは、めいが勇気を出して手紙を書いたという自分からの一歩踏み出しが、いまこのみかんとの温かなひとときを与えてくれたということ。そして、めいの気持ちをみかんがちゃんと受け止めてくれたということ。言葉なく手をつないで、そんな喜びと感謝の気持ちを相手の手のひらに伝えられるのかどうか、ともかくも相手の温かさは自分にいま伝わってきています。二人が不安を乗り越えて自信を得た、二人で一緒に頑張った大切なこの日々を思い出しながら。

 おまけにまなびも大喜びですよ。みかんとめいが一緒に頑張ってお互いに近づこうとし、共通の目標のために力をあわせようとしたとき、もはやこの学園祭テーマは当然出るべくして出るものでした。過程が結果と重なる驚き。しもじーも、徹夜で二人の様子を見守ってたのか。あの落っことした手紙の行方が気になるとか、細かいことはいろいろあるのですが、ああもう満足です。
2007年3月22日(木) まなび第6話(追記、第7話)
 岡崎律子の歌を、林原めぐみが歌っている。亡き仲間への想いをのせた声。そしてその歌詞は、はっきりと作品の主題を歌い上げている。
 主題歌の一つは、元はウェディングピーチのキャラクターソングだったらしいけど、ウェピーという作品は、ヒロインと恋人の相愛が敵への憎悪を超克することで、敵もまた根深い憎悪から解放されるという「愛」の物語だった。
 そんな歌に彩られた『まなびストレート』、歌詞の解釈はどこかの団体さんに叱られそうだからしないけど、黙って聴けば勝手に伝わってきます。製作者達の作品愛が。

 そういうわけで第6話。なんですかこの、どうでもいいはずの時間のみっしりとした楽しさは。
 期末試験にしくじっているみかん。でも、むつきが助っ人参加の試合で大失敗を犯したことを、つい知らずに不用意な言葉をかけてしまって。この大いなるしくじりに、部屋の中で煩悶する姿。むつきのことを大切に思っていればこそ、自分の粗忽さが許せません。
 でも、むつきがいつも自分のことを、それこそ入学式の日から手を伸ばして引き上げてくれたから、今度は自分からむつきに手を伸ばそうとできます。いや、そうできるようになったのは、まなび達と一緒に頑張る中で、自分にも何かできるねって分かってきたから。こないだ(第5話)もそうやって頑張ってみたら、同じ気持ちだっためいとすっかり仲間になれたから。めいと考案した学園祭テーマだって、まなびに認めてもらえたから。
 だから、後ろ向きの反省をしてばかりではいられないのです。行動あるのみ。むつきの家に上がりこむと、喧しい弟達の群れにじつは前から溶け込めてたみたいで、これもみかんのいいところですかね。彼女の子供っぽさや素直さが、子供達との距離を短くしてて。
 そして脱走。書を捨てよ町へ出よう。みかんはむつきを励まそうというかとにかく彼女のそばにいたいのだけど、そうであるなら別段むつきの家の中でなくてもいい。話題も合わないし性格も対照的なことにお互い気づいてるから、一緒にいること自体が面白くってたまらない。結局、ほとんど徹夜で楽しい時間をすごしてしまい、当初の予定のテスト勉強もどこかに忘れ去られたけれど、そもそもそれは方便にすぎないのだからもういいのです。
 いや、よくないわけで。今日も教室で撃沈。ヤマは外れるし眠いし人事を尽くさずに天命を待つしかないという運命悲劇(違)。
 むつきはといえば、今日も普段どおりの頼りになるむつき。2年前と同じように、涙目のみかんをほっとけなくて、つい手を差し出してしまいます。でもこれって、みかんが一方的にむつきに助けられてるんじゃなくて、むつきもまた、自分から手を伸ばしながら、ためらいなくその手を握ってくれるみかんのことを、大切に思っているのでしょう。

 ただ、むつきっていつも「助っ人」なんですよね。生徒会でも役員じゃなくて(めいはちゃんと「会計」なのに)、これだけ仲良く仕事を分かち合ってても、助っ人のままという。それは彼女の八方美人な性格だとか深入りしたがらない性格だとかを示すものなのか、それとも、困っている人が目の前にいればどうしても見過ごすことができないから、一つ所に留まることができないという、彼女の義侠心の裏返しなのであります。
 でもやっぱり、そこがいいとこなんだけど、同時にまた、ちょっと不安を抱かせるとこですか。しっかりしてるように見えて、じつは足元危ういのがむつきです。そんな時にみかんの側からむつきを引っ張ることが、今後あるのかしら。
 そう考えるのは、アニメ版シスプリ第16話で、どじで転びがちな花穂を支え起こす航が、じつはこの依存的な妹によってつよく支えられていたということに気づくという姿を、ぼくが見ているからです。べつに共依存とかそんなんじゃなくて、そういう相互関係ってあるよね、と。

 第7話、これから観るので追記予定。

 んで第7話。ああ、みんなてんぱってる(笑)。そして泣く子には勝てません。
 といいますか、みかんがこの仲間集団のなかでどういう位置にあるのかがはっきり分かる場面でしたね、これ。締め切りを明日に控えて疲労と焦燥から暴走するまなび達を前にして、今までどおりあわわとうろたえるみかんでしたが、そんなみんなの壊れていく姿にも何もできない自分にもとうとう悲しくなってしまってうわーん。それは、仲間達から見れば、みかんが精一杯に自分達を叱りつけている姿でもあります。だから、はっとしたまなび達は、速やかに元の作業に戻るのでした。この子がどれだけ誠実に頑張っているかは、誰もが分かっていることですし。ぼくも笑っちゃいけないよね。画面の前で思わず居住まいを正しました。

 そこに訪問するたかちゃん。まなび達が学園祭にここまでのめりこんでる理由を尋ねたら、出てきた答えがこれ。

「楽しいからかなー、あと、嬉しいからかな?」

 それは、自分達が楽しいことはもちろんとして。自分達が学園祭のために、そして学園のみんなのためにあれこれ楽しく取り組むことで、他の生徒達もまたその楽しさを分かち合ってくれて、分かち合うということはじつは楽しさがそのぶん倍増していくということだから、つまりそういうみんなからの反応をすごい嬉しさで受け止めていくうちに、みんなために楽しく頑張る意欲が嬉しさをともなって自然に拡大していくのでした。生徒会と生徒達の相互関係による楽しさ&嬉しさの双発エンジン。ぎゅんぎゅん。
 ただ、生徒達はたしか、後で申請撤回できるという見込みをもってとりあえず活動参加してるという者も少なくないはずであり、そのへんやや心配なところです。そういう生徒達と生徒会員との間に、何かずれがないものかどうか。
 それはともかく、まなびの答えを聞いたたかちゃんの心中やいかに。愛光学園の方では、格式にのっとった形式的な学園祭を運営しようとしてるわけで、その担い手である生徒会長として、まなびの姿は身につまされるものがあることでしょう。それでも第3話でドッヂボール大会が楽しそうだと感じられたたかちゃんのことだから、同じ感受性を持ってるのですよ。ところが、まなびには感じられる学園祭の賑やかさが、たかちゃんには分からない。そりゃまあ、聖桜学園のは自分が関わってないんだから当然ではあるんですが、もしかしたら愛光学園のそれさえも皮膚で感じられないのかもしれない。
 まなびの瞳に映っているはずなのに見えない自分の至らなさをたかちゃんは痛感しながら、だからこそ学園祭中止というどうにもならない流れに対するもどかしさを越えて、せめて自分にできることを、と学園長に訴えようとします。このとき、たかちゃんはまなびの仲間になれないという距離感に胸を痛めたんだろうけど、でも、そこまでしようとしてくれる彼女は、もう仲間の一人ですよね。まなび達が気づかないうちに。いや、まなびはとっくにそのつもりなのかもしれないけど。だって、こんな学園祭へのヒントを与えてくれたのは、他ならぬたかちゃんなんだから。たかちゃんが喜んでくれることだって、まなびの「嬉しい」気持ちの源なのです。
 そんな感じで、物語は危機に向かって急降下なのに、みかんはこの楽しい日々がいつまでも続く、続けばいいのに、と望んでます。けれどそれは線香花火の輝きのように、ポトリと寂しく落ちるときをあっけないほど早く迎えてしまう。この情景はマジカルエミの『蝉時雨』を思い出しますね。さすがにみかんが落ちる火玉を手で受け止めたりはしないのは、その終焉に対する予感がないからですが。

 ところで、今回ほとんどどうでもいいことばかりやっていたようなのが、もも。なんかお部屋の賑やかしというか、ハワイの土産話をしたがったり、誰にも反応してもらえなかったりと、共通の作業に一意専心取り組んできた仲間達とのギャップを感じてしまう状況なわけですが(これは『バンド・オブ・ブラザーズ』第5巻での久々に部隊復帰した兵士とずっと前線にいた兵士達とのギャップと似ている)、なぜかずれているようで生徒会室の雰囲気に相変わらず馴染んだままではあります。
 振り返れば、ももは第1話でまなびという面白そうな転校生に興味を抱いてのち、彼女達にまとわりつくようにしてチェキしまくっていたわけですが、それはたんに野次馬根性ということではなく、学園の報道員としての役割認識とプライドとをもって、何を生徒達に伝えるべきかをきちんと判断して行動してきています。生徒会室のリフォームのときもそうだったし。
 まなびの想いが、みかんやむつきやめいに伝わる。それは、ボディランゲージや場所の雰囲気、そしてとりわけ言葉というメディアを通じてなされてきたものです。そこには、第4話のめいのように、まったく逆の意味が受け取られてしまうこともありました。でも、それを正せるのも、あるいは微妙にすれ違いながら互いを結び付けあうのも、やはり言葉をはじめとする媒体を通じてです。そういう気持ちが「伝わる」ってことはとてもすごいことだから、ももがやってるような「伝える」ってことも、じつはとんでもなくすごいことなのではないでしょうか。
 今回はほとんど狂言回しに終わっていたけど、この子、ずっとカメラ回してるんですよね。これがあるいはオープニング映像の元にもなってるんだろうし、第1話冒頭の写真などの下にもなってる。仲間達の想いをちゃんと大切なものとして残していこうとする彼女のたゆまぬ積み重ねを、まなび達が実感してくれるときがくるといいなあ。今のところ、みかんとむつきとめいはメイン話がありましたから(むつきはみかんの「助っ人」ぽかったけど)、ももにもそういう話がありますよ……ね?
2007年3月23日(金) まなび第8話(追加、第9話)
 うや、『日日ノ日キ』の吉田アミさんにブクマいただいてました。いろいろすみません&感謝です。そちらのプロフィールにある「理解できないという諦めのもと、歩み寄る…その努力が人と人を近づける唯一の手段である」という言葉に激しく同意です。ぼくの場合、そういうつもりでしてる努力の背後に悪意が見え隠れして嫌われることも多いのですが(それストーキング的)。それはさておき、手に汗握っていただけるのはこちらも嬉しいです。

 ところでここのコメント欄で、こんなコメントがあって面白かったです。

>逆に、分析系サイトや「昔はよかった」「今の業界は」「シェイクスピアが」と口にする人がまなびを評価していないのを見るに、本作を評価していないのは主に「古参アニメファン」なのではないかと。物語的だった昔のアニメで育ち、現在のアニメは「通常から外れてしまっている」と感じている層。

 ぼくはマジンガーZをリアルタイムで視聴した(おそらく)「古参」アニメファンです。あははー。その年齢でそれかとか言わないで。昔もよかったし今の業界は知らないしシェイクスピアは翻訳で読みました。そして、今のアニメにだって「物語」がちゃんとあることを、ぼくは感想や考察で語り続けます。もしかしたら、このコメントで想定されている「古参」を越えてぼくの世代くらいまでさかのぼると、一回転して何かしらの「物語」を『まなびストレート!』に発見できるんだったりして。あるいは、たんにストレートな物語を恥ずかしがらずに楽しめるようにだってるだけだったりして。
 怪しい世代論はさておき、IRCでWhiteさんが「ノスタルジー」という言葉で説明してくださいましたが、たしかにその感慨は観ていて抱きますね。そういう年齢だという自覚もあり。作品中だと園長に近い立場ですよぼく(吐血)。

 そして、『国内亡命者日乗』さんから反応いただく。ひょうたん島の話はなるほどですね。ただ、ちょうど「概念(Begriff)」という語を使われていますが、まさにまなび達がいま生きている学園はまなび達が「掴(begreifen)」もうとしているのであり、やはり夢物語に終わらない、夢の実現に向けた物語なのだと考えます。あと、「まっすぐGo!」の間接的な影響については、ぼくも第5話のとこで記した「方法や中身は違っても、構えは一緒」というのが、そういう影響の結果だと考えてます。

 あと、文月さんの「『普通』という幻想」がお腹にしっくりきました。文月さんらしい調和的な言葉。そうですよね、好きと嫌いだけで普通がないんですよね(くりぃみーまみ)。真面目な話、最後に指摘された「自分の意見を貶めること」は、ぼくも往々にしてやってるなので気をつけたいです。それは自分の意見だけでなく、自分が好きなものまで貶めることになりかねないし。

 てなかんじで第8話。ついに学園統合(聖桜の閉鎖)と、学園祭中止のお達しが。ぐわー(画面のこっちで悲鳴)。でも、不安ながら「決まったことだし」が生徒達の素直な感想のひとつ。もちろんまなび達が青天の霹靂を黙って喰らってはいられず、まっすぐ闘争に入ります。で、まなび達をめぐる他の者達との関わり方が、ここから三者三様に描かれるという。
 しもじーは信頼されていたからこそ全力で蹴っ飛ばされるの巻。「裏切り者」って言葉は、最初から身内じゃない相手には使えないよね。すごく間接的な関わり方ばかりしてきたけど、頼りになる(というより自分達のすることを黙って見守ってくれる)大人として、しもじーはまなび達の近くにいてくれたはずなのに。でも、今日のお昼もカップラーメンなしもじーは、たぶんつい先日だって資金援助してくれてたわけですよ。だからなおさら、なんで教えてくれなかったんだ、と5人の憤りもいや増します。ラーメン食べてる場合じゃないよ。なんですぐ生徒会室に来て話をしてくれないのよ。そこがつまり、裏切られたという感覚です。
 そのしもじーよりも距離感のあった園長は、まなびに自らの無力を自嘲気味に謝ります。もっと前にやっておくべきだった経営努力、それは他校のような「有名企業への就職」斡旋や「資格取得」など。これ、今の日本の学校と同じなんですけど。そんなのもはや「まなびや」じゃないですよね。いまここでぼく達の目の前で、学園は死につつあるのです。その流れに立ち向かおうとしながら、しかし園長のしてきたことは、かつて自分が感じた学園のよさを、そのまま維持しようということ。変化を否定して過去のかたちにとらわれすぎた結果、かつての学園に生きていたいのちのダイナミズムを失ってしまっていたことに、彼女もようやく気づいたのでしょうか。その変化するいのちの表れようこそが、変わらない学園の魂だったのに。そして、まなび達こそが、その硬直した魂に再び息吹を吹き込んでくれたのに。ところで52期卒業って、ええと30年前? 2005年? 園長いま16歳、わお。
 そしてたかちゃんは、第7話で思い切って愛光学園長に掛け合ってはみたものの、相手にされずにうつむくしかなく。電話でまなびと話すとき、その胸に去来するのは無力感と罪悪感。自分には見えなかった学園祭を、自分にも見えるように実現してくれるはずのまなび。その彼女に対して、何もしてあげられないという申し訳なさ。そんなたかちゃんの声を聞きながら、まなびは頼みの綱がまた一本なくなったことを痛感するのだけど、自分達の学園祭のためにそこまでしてくれたたかちゃんは、もうわたしたちの仲間だから。しかも、辛いのに自分から力不足を告白し、知っていたのに話せなかったと自分の罪を詫びてまで。そんなたかちゃんを、まなびがしもじーと同等に扱えますかっての。

「間に立ってくれてたんでしょ。だから、ありがと。」

 大人に対して怒ったり泣きついたり喚いたりするのとは違って、別々の学園だけど同じ「学園」って場所に生き、同じ想いを分かち合える子供同士、仲間同士だから。結果は届かなくたって、声も気持ちもお互いにそっと届かせたいのです。まあ、しもじーは大人だから手荒く甘えてみることもできるけど、たかちゃんとは一緒に支えあいたいよね。

 そしてまなび達の闘争が本格的に始まる。ゲバ棒ですか。シュプレヒコールですか。しかもアムロですか(笑)。めいまでが熱い。つか、めいだからこそ熱いというか。だって小学生のとき、みんなが協力する学級を委員長として目指したくらいですからね。、そりゃ運動の率先もします。みんなの声を一つに。みんなを信じてる。の、だ、けれども。うーん。観ててとても辛いです。
 まなびの大演説というか長広舌は、ここまでアジるほど憤っているというのは分かるだけど、たぶんこの冗長さが、第7話のあのバッティングシーンなどとともに、脚本・演出の問題として指摘されやすい箇所なんでしょうね。ぼくもちょっと長すぎないかと思いました。だけど、ここにはたぶん2つの意味が重なっていて。
 まず、これはまなび達における隠された危機。まなび達がここまで言葉を費やしながら、第4話で不在のめいのことを熱く語っていたまなびとは違って、熱い言葉がどんどん滑っていくのですね。演説が長いから、その滑り方がすごくよく感じられて辛い。最後には一気飲みにまで滑落するんだけど、その前の段階ですでに、この生徒会室の中でしか通じない言葉になっちゃっているんですよこれ。まなびのストレートな物言いとともに学園に開かれていたはずの生徒会室が、闘争による言語の変質にともなって、ここでは他の生徒達に対してまったく閉じてしまってるのです。届かない言葉の過剰という、作品の主題を揺るがす大事件が、学園祭中止という顕在化された危機の背後に、こっそりと出来しているわけです。しかもまなび達がまったく気づいていないというのも大問題。
 次に、これはまなびの過去にかかわる話。まなびの兄(どうにもヘタレっぽいけどそうでもないのか)が、鏡子に語るところでは、まなびは生育暦において諸外国を転々としていたみたいで、しかも親がPKOかなんかのスタッフなのかと考えてしまうような国々ばかりが並んでいたり。すると、そういう外国で自分の考えや気持ちを伝えようとすると、どうしても言葉できちんと伝えるということが大切になってくるのですね。だから、まなびは大切な場面だと感じたら、何としても言葉できっちり表現しようとします。第4話でめいへの想いをあれだけしっかり語ったのは、べつに脚本が語らせすぎとか勘ぐらなくとも、こういうまなび自身の生い立ちから想像することができます。

「あいつは、ああいう性格だから友達もできるし、うまくやっているけど、すぐ転校しちゃうからそれがリセットされちゃう。だから、あいつにとって学校ってところはすごく大切な場所なんだと思うよ。ま、あいつ本人は自覚はしてないと思うけどね。」

 このすんごい重要な兄の一言で、まなびにまとわりついていた謎とか内面の見えにくさとかは、ずいぶん払拭されたのではないでしょうか。少なくともぼくにとっては、まなびの今までの行動がさらにすっきり繋がりました。
 ところで、この愛光学園理事長の鏡子ですが、「時代」という曖昧なものじゃなくて、具体的な「悪役」出さないといけないのかなー、とまず感じました。でも、兄を自分から奪い、家の中に侵入してくるこの女性を「敵」と感じ嫉妬することで、まなびは、愛光学園長の決定に対する生徒会長としての戦いと、兄の恋人の振る舞いに対する妹としての戦いを、混同させてしまうのでした。展開としてはうまい。そしてこの幼い敵意が、さっき述べたような言葉のすべり具合と重なって、何となく今後の展開に対する不安をぼくに抱かせます。……うーん、次の話あまり観たくない……。辛そう……。
 で、そんなまなびの公私混同な憤りに対して、鏡子にも立場ってものが、それとこれとは話が別だし、とみかんが諭すのがまた凄い。冷静に穏やかに怒りの矛先を収めさせようとするこの大人っぽさ。いつの間にそんなつよさを身につけましたかみかんさん。ぼくは嬉しいような寂しいような。しかも、私は私にできることをやるしかないよね、という前向きの割り切りまでも。だけど、それが今までの「できること」と同じことなのかどうか、どこかで5人して道を踏み誤っていないか、そのへんがどうにも心配でなりません。ううう。
 鏡子との直接対決。「学生の本分」の意味内容を勝手に決めるな、というまなびの異議申し立ては、理屈ではまったく正しいことです。しかし、

「多くの若者がより楽しいことを求めて学校を去る中、あえて学生という立場を選択しているあなた達が今、楽しいだけのお祭りをする意味はなんですか?」

 鏡子のこの問いかけに、まなびはすぐに答えることができませんでした。この問いかけを聞いたとき、ぼくは、働く若者の多くがおそらく自分だけにとっての「楽しい」ことを求めて社会に出ているのに対して、まなび達が自分のみならず仲間達にとっても「楽しい」ことを一緒に創りだそうとしているということを、あえてごっちゃにしてるよね、とか感じました。だけどよく考えれば、働く若者だってその職業集団の中で一緒に楽しさを分かち合ってる可能性があるから、この批判は的外れですね。それでも、そこに何らかの違いがあるはず。まなびと一緒にそう信じたいのだけど、それを例えばぼくはいまの子供達に面と向かって言い切れるだろうか。言い切りたい。
でも、そう考えているのはぼくだけかもしれない。私達だけ、という孤独感の不安は、たった今まなびが突きつけられたばかりであり、「まるで子供ね」とあしらわれても、「子供には、大人に真似できないこともある」はずだから、そんな子供としての自己認識なんかどうでもよくて、おおお5人とも燃えているのでした。その燃えるベクトルが観ててとても心配なんですけど、ああでも一緒に燃えるしかないよね!(大人の義務を果たせ自分)

 第9話分追記予定。ってごめんなさい無理かも。

 追記。考えたらこの日記の日付が現実に先行してる以上、20日に追記しようと21日に追記しようとたいした違いはありません(開き直り)。というわけで第9話。
 あのですね、最初に書いておくと、今までの話で埋まっていなかった、でもそこにありそうだったピースの幾つかが、嬉しい驚きとともにぴたっとはまったというたまらん感動に、今回打ち震えたのですよ(号泣)。

 2005年3月の回想。やっぱり園長この年にご卒業。自分達の代で学生寮を閉鎖された経験。そのとき一緒に戦いながら、しかし抵抗し切れなかったという苦い記憶に、園長はとらわれ続けている。それが、止まった時計という象徴で描かれている。「やっぱり、流れを変えることはできなかった……。」「そして、今回もまた、駄目なリーダーです。」そう呟く園長は、失われてしまいそうな過去のかたちを今度こそそのまま維持しようとして、再びその喪失を繰り返してしまっていた。表向きの結果からすれば、それはたしかに失敗であり挫折でしかない。
 だけど、しもじーは問いかける。「全てが無駄だったってことでしょうか。」意識化された目的については失敗したけれど、でもその根底にある真の目的、つまり学園・寮とそこに生きる自分達のいのちを確かなものとして再確認し再生するという目標は、じつはその失敗していく過程の中で、ちゃんと到達されていたのではないか。目的(end)達成の是非は、終焉(end)のときに、隠された目的も露にしながら判明するというものなのかもしれません。オープニングでも歌ってますよね、後で分かるよって。

 さて、まなび達。ぐわー行き詰まってる行き詰まってる(苦)。めいに至ってはネズミ講まで持ち出して、目的のためなら手段を選ばないほどの煮詰まり具合。その閉塞感は、一方では彼女達による署名協力依頼が横暴とまでいきそうな闘争激化・先鋭化として、また一方ではむつきの「とくに……」と漏れた一言に示されるような息切れ・諦念の萌芽として、現れてきています。
 みかんが「明日になれば」とかすかな望みを抱いても、それはしかし未来というより終焉へ向かう時の流れでもあり。5人がずっと楽しんできた、いま、ここで、はどこに消えてしまったのか。ここが自分達の学園であることを放棄することは絶対にできないし、愛光学園長に屈服することも(まなびにとっては二重の意味で)許せないんだけど、それで焦れば焦るほど、視野狭窄に陥っていくという悪循環。うう。ううう。
 そしてめいとむつきが生徒会室に来なくなり、ついにまなびまでもが「なんだか前に戻ったみたいだねっ」と後ろを振り返ってしもうたー。ああー(絶叫)。最後まで気張ってたみかんも、独りで「学園祭、終わっちゃったのかな……。」と涙ぐむまでに。ぐああああああー(断末魔)。だめだ何とかしてやりたい。でも、どうすればいいんだろ。画面のこちら側で本気で悩みます。だって、視聴者としてはあれこれ勝手に言えるけど、まなび達としたら、どうしたって署名運動に頑張る以外にないんだから。
 しかもこのタイミングで、新しい校歌! なんだこの今風な歌は(笑)。これ今から30年後の時代でも最新なのか。テーマは「未来」。それは、学園の過去を切り離すための浄化の炎。再生じゃなくて断絶。その映像に登場する桜の花は、いかに美しくてもCGにすぎなくて、第1話でまなびが歌うときにみんなの閉じた目の前に浮かんだあの桜のリアルさとは、雲泥の差のはずなのに。あのときみんなが掴みなおしたこの学園のいのちを歌った象徴である校歌を、こうしてピンポイントで攻めてくるとは、鏡子さんもなかなかの策士でありまする。すんごい急所攻撃。ついにとどめに入った、ああああああ。

 そこでいきなり放送ジャック。

 ぼく万歳。

 こないだ、ももが果たしている・果たしそうな大切な役割について、どうなのかなーという感じで書きましたが、ほんとに報道員として、メディア班としての責任感と自負心にかけて、伝えるべきことを伝えようとしましたよ!! しかもこんな素晴らしいやり方で。これまで背後に退いていたももが、じつはちゃんと見ていたということ。ぼくはね、諦めそうになった4人に過去の映像集を送って直接励ますんじゃないかとか、そう思ってたんですよ。ところが。ああこの作品、期待を裏切らず予想を裏切る。感動。そうだよね、伝える相手は学園のみんなだし、学園そのものだよね。だからサブタイトルは「わたしたちのうた」。署名してくれていない生徒達だって、あのときからずっと「わたしたち」に入ってるはずだから。
 学園中に流れる、まなび達が忘れかけていた楽しそうな自分達の姿、大切な過去、未来を一緒に夢見て積み重ねてきたたくさんの「いま」。混沌として生き生きとした彼女達に校歌が寄り添って、過去と未来といまが再び一緒になりましたよ。
 ももからのそんな「私がちゃんと見ていたよ」というメッセージを、教室で受け取っためいとむつき。

「私達、ここにいていいのかな!?」

 諦めたらそこで終了だよ(安西先生)。いや実際、この二人はもうおおよそ諦めてたわけですよ。だけど、そんな自分が後ろめたくて、まなびやみかんに「もう諦めようよ」と面と向かって言うことはできないままだった。だから生徒会室に足を運べずにいた。その二人が、自分達の居場所を、もう一度取り戻そうとする。もう一度そこにいることを、あの二人に、いや三人に、許してもらおうとする。
 階段を全力で駆け上がる二人の姿を見て、教師達に捕縛されながら微笑むもも。二人から何も言われなくても、ちゃんと届いてるって分かったから、ももだって嬉しいよね。生徒会室では、感極まったみかんがまなびに抱きついて、そこにめいとむつきが転がり込む。
 めいとむつきの姿、それは、先日のみかんとむつきの姿と重なって。
 まなびとみかんの姿、それも、昔のむつきとみかんの姿と重なって。
 どんな二人の支えあいも、違う二人のペアのときだって通用しちゃう。想いを一つにした仲間同士だから。
 だけど、むつきとめいの不安と後ろめたさは大きすぎて、ほとばしる感情のままに走ってきたはいいけれど、顔向けできないことには変わりなく、伝えたい言葉が喉元を通らない。そんな沈黙を破ったのは、みかんの言葉でした。

「大切なみんなと、何かしたいよ。」

 いましかできないことを、大切なみんなと。まだ大切な仲間だって思ってくれてるみかんのこの気持ちをまっすぐ渡されて、むつきもめいも救われました。

「みかんに言われちゃ、しょうがないよな!」

 むつきも精一杯に強がって笑ってみたけど、それは今までとは明らかに逆に、みかんからむつきに手を差し伸べてくれているわけだから、ちょっと嬉し涙をみせたっていいよね。それに、むつき達が駆けつけてくれたから、みかんももう一度頑張る勇気がもてたわけだし。まなびだけじゃなくて、みんなでまっすぐごー。とはいえ五人目の仲間はまだとっつかまったままだし、新たな知恵が出たわけでもない、のだけれど。園長が「無駄ではなかった、と思います。」と、記憶と分かちがたく結びついたあの日の想いをかけがえのない喜びとともに思い出したように。まなび達もこの学園の日々を取り戻して、いつもの笑顔に戻ったから。だから、仲間と一緒に頑張ることが楽しくて嬉しいという、そういう姿に惹きつけられていた生徒達も集まってきます。ごくわずかだけど。まだまだ署名は足りなすぎるのだろうけど。

 正直やられました。でも署名どうするんだろ。
2007年3月24日(土) まなび批判に反論してみる
 西岡勇志さんの「まなびストレートの細かい演出の受け取り方」が、本作品の細かい演出を指摘し評価したところ、skripkaさんの「『まなびストレート!』で考える、「『演出』が細かければ素晴らしい作品といえるか?」という命題」が、それは別段たいした「演出」じゃなくてもっと大きな問題がある、と批判した。
 すると、西岡勇志さんの「冷や水をぶっ掛けられたくないという空気は読んでもらえないのだろうか」が、怪しい態度のskripkaさんとそんな議論をする気はないよ、と返し、吉田アミさんがはてブへの同意っぽいコメントとあわせて「ぼくらはなぜまなびストレート!を語るのか」を記した。
 この流れに対して匿名はてなの「もしもそうならやな時代だなあ、と。 」が、吉田アミさん達の態度は気に食わない批判を弾圧することでしかないのでは、と突っ込みをいれたところ、吉田アミさんの「誤解されてて嫌だなぁ」が、それは誤読もいいところと猛反発し、さらに「要するに現在、流行している言説に自分がその一味として当てはめられたのだろう」にて敷衍した。
 という理解でよろしいでしょうか。

 ええと、現状では、作品に対する解釈の相違という論点と、批判とは何かという論点、そして作品を語る者同士がどういう関係にあるべきかという論点などが、ごっちゃになってしまっております。そもそもskripkaさんの指摘は、『まなびストレート!』の演出が(西岡勇志さんの主張とは逆に)不十分であるということがメインだったわけだから、そこに話を戻すのがいいんじゃないんでしょうか。匿名はてなさん達から見たとき、とくに西岡勇志さんの対応というのは、skripkaさんの指摘に正面から答えずにメタ的な(あるいは相手が気に食わないという対人関係的な)論点ずらしを行ったように感じられて、そこに作品肯定解釈者の「逃げ」なり「アーアー聞こえない」的態度なり「違う意見に対する抑圧的攻撃」なりを看取してしまったんだと思うのですよ。
 だから、あらためて論じるべきは、skripkaさんの態度(これはもう主観同士の戦いになるしかない)とか「演出とは」云々という抽象的記述箇所とかについてではなく、そこで具体的に指摘された演出上の問題についてです。だってskripkaさんは、いくつかの場面でこれこれという演出ミスがあるから、作品全体としてちょっと残念だ、という論じ方をちゃんとしているのだから。例えば第8話でのまなびと角沢の電話の場面について、あるいはまなびの成長の見えなさや共感不可能性、「まっすぐGo!」という決め台詞の弱さなどについてのskripkaさんの否定的解釈を、具体的な場面描写をもとに肯定的にひっくり返せれば、あのエントリーに対する反論としてはそれで済むはずの話でしょう。

 思えばこれと同じような状況を、『涼宮ハルヒの憂鬱』原作をめぐる争いで経験しましたねえ。あのときはkagamiさんが作品を全否定したとき作品ファンの人格をも否定してしまい、その人格否定の部分にのみファンからの批判が集中しました。その趨勢に薫さんが、なんでみんなそこばかり批判して、kagamiさんの作品批判の部分を真面目に取り上げる者が誰もいないのか、と堂々と立ち向かいました。その指摘をうけて反省したぼくはこの小説を実際に読んでみて好きになったうえで、kagamiさんの「虚無的」という作品解釈をひっくり返すために、作品の内容に基づいた肯定的解釈を具体的に示すこととなったのでした(詳細はうちのハルヒ考察から辿ってください)。ぼく達みんな、頭を冷まそうよ。
 というわけで、今回もやってみましょう。

>文化祭が中止になると知って角沢に電話をして理事長に掛け合うように要請したとき、文化祭が中止になることを角沢が既に知っていたと知らされても、怒ることなく、角沢の立場をすぐに理解してしまう。下嶋には、ハルヒばりにドロップキックをお見舞いしたのとは、どえらい対応の違いである。ここは、信じていた角沢に裏切られた格好になるわけだから、もっと重大に抗議してもよさそうなものだ。恐らく、角沢は、そのつもりでいたらしい。角沢は、学園祭を中止にすると理事長に知らされると、そのことを公言しないように口止めされたにも関わらず、文化祭に向けて徹夜で頑張っているまなびたちが心配になって会いに行ってしまう。きっと、聖桜学園では、ずっと文化祭の件をまなびに言おうか言うまいか、迷っていたんだと思う。

>もし、まなびが角沢に抗議しなかったのが、電話口でまなびがそのことを察知したのだとしても、「そうっか。昨日は、それを言いに来てくれたんだね?」くらいの台詞は欲しい。映像や台詞で視聴者に伝えないことが「演出」なのではない。場面と場面を有機的に結合するのも、「演出」の役目だ。演出で見せるべき場面を、モンタージュでしか視聴者に提示しなければ、それは「分かってくれよ!」という「期待の目配せ」でしかない。

 skripkaさんによるこの批判は、第8話の実際の場面描写を正しくなぞっている。そして、下嶋との対応の違いの指摘や、角沢の内面についての想像などは、ぼくも視聴時に抱いたものとまったく同じである。つまり、これらの部分について、skripkaさんとぼくの間に解釈の相違はなく、作品描写そのものがこの両者に対しては十分な判断材料を与えていたということになる。
 しかし、skripkaさんとぼくの解釈が分かれるのは、まなびが電話の向こうの角沢に対してどのような感情をこのとき抱いていたのか、またそこにどのような変化があったのか、についてである。この文章を読むかぎりでは、skripkaさんは、まなびの内面について「電話口でまなびがそのことを察知したのだとしても」という程度の理解しか示していない。つまり、角沢が「文化祭の件をまなびに言おうか言うまいか、迷っていた」という以上のことを、まなびがここで読み取っていなかったのだ、とskripkaさんが解釈しているものと判断する(もしそうでないとしても、本エントリーにも他のまなび関連エントリーにもその判断材料となる記述がない)。
 これに対して、ぼくは第8話視聴時(念のために断っておくが、ぼくは本作品の「考察」ではなく「感想」を毎回気楽に書くつもりだったで、どの話もただの1回しか観ていない)に、まなびと角沢の間にある生徒会長同士・自分のまなびやを愛する者同士の紐帯について指摘した。振り返れば、まなびが自分達だけの学園祭をつくりあげようという強い意志を獲得するにいたったきっかけが、ほかならぬ角沢との出会いだった(第3話)のである。そんな大切な「仲間」、あるいはたとえ5人の内側ではないにせよ、ほとんどそのすぐそばの存在、いわば「好敵手(とも)」である角沢に、どうしてまなびが抗議するというのか。職員室で座ってラーメン食べようとしていた下嶋と同列に扱えるはずがあるだろうか。それは作品内の人物のつながりとその構築過程を、完全に見落とした解釈というほかない。

 もちろん、ぼくのこの解釈が、いわば深読みすぎるオタク的解釈として拒絶される可能性もあるだろう。この場面では、まなびがただ角沢を詰問しない理由のみがきちんと描かれるべきなのかもしれない。しかしそうであるならば、ぼくは自分の解釈を引き下げて、第8話のまさにこの電話の場面でまなびの口から角沢に伝えられた言葉を、再び掲げるにとどめたい。

「間に立ってくれてたんでしょ。だから、ありがと。」

 この一言は、まさに角沢(たかちゃん)がまなびに痛罵されることさえ覚悟していたときに、まなびの口から漏れ出た言葉だった。この台詞の前後を『うたかたの雪』さんを参照して確認すると、次のようになっていた。

  まなび「ありがとう」

  たかこ「え…?」

  ままび「間に立ってくれてたんでしょう? だから、ありがとう」

  たかこ「……ありがとう」

 ここでの「間に立ってくれてたんでしょう?」という言葉と、skripkaさんが希望する「そうっか。昨日は、それを言いに来てくれたんだね?」という台詞との間に、視聴者が受け止める意味内容の差が果たしてあるのだろうか。少なくとも、skripkaさんがここに読み取った程度の「まなびの角沢理解」については、まったく差がないとぼくは考える。つまり、skripkaさんはこの実際の台詞を無視したか見落としたかしながら、これと意味内容が重複する(追加不要な)台詞を批判的エントリーに記したのだ、とぼくは現時点で結論する。もし故意に無視したのならそれは作為的な作品評価の切り下げであり、たんに看過しただけなら不注意というだけのことだが、どのみちこの具体例による批判が間違っているとすれば、その具体例に基づいた作品全体に対する彼の批判総体が、あらためて吟味されるべきものとなるだろう。

 そしてまた、この電話の場面でぼくが読み取ったまなびとたかちゃんの関係は、skripkaさんの理解した内容にとどまるものではなかった。もしも製作者がぼくの読み取った内容をも伝えようとしていたのであれば(あるいはskripkaさんも同様の何かを看取していたとすれば)、その場合、「間に立ってくれてたんでしょう?」というこの実際の台詞のほうが、まなびの想い(そしてそれを受け止めたたかちゃんの想い)をはるかに強く訴えかけてくれるというのが、ぼく個人の感性である。
 よけいな言葉をそぎ落とされたこの台詞と、まなびの表情を含む場面情景とをあわせて観たとき、そこにたかちゃんの立場の完全な受容(「間に立つ」という言葉は、たんに学園長とまなびとの間を行きかうメッセンジャーという意味や、間を仲裁しようとしたという意味ではなく、愛光学園生として責務を果たしながらまなびの側に立つという、身を引き裂かれる立場を選び取ったということであり、まなびのそのようなたかちゃん理解を示す非常に重い言葉である)と彼女への申し訳なさ、そして救済手段の喪失への焦燥感までもが描かれているがために、skripkaさんが主張する

>登場人物が(主人公に限らず)、その状況をピンチだと感じたり、苦悩し、真剣に考える姿を明確に視聴者に伝える

という目的を、この場面がたしかに満たしえていたと受け止めているからである。

 以上です。なお、この反論に対してどこからか「解釈は多様であっていい」という相対主義の決め台詞が返ってくるかもしれませんが、建前としてはその通りと認めつつ、個人的には本作品を誠実に観た人とだけその言葉を分かち合いたいと思います。本気の解釈同士が向き合わないと、何が相違なのかさえお互いに伝わらないからです。

 追記。Whiteさん、ぜひ転載してくださいませー。お話の内容はどれもよく分かります。それらの批判点にさえ意味を見出したくなったとき、ぼくは考察し始めてしまうことでしょう。

 そして疏水太郎さんの第5・6話感想。たまたまあの二人、ということのかけがえなさ。

 再追記。けっきょくのところ、あれらの批判は「演出過剰な冗長箇所を縮めてもっと必要なとこに説明を入れなさい」ということなんでしょうかね。ぼくは、あの冗長さにこそ、コミュニケーションの問題(言葉を尽くすことがかえって空疎をもたらす可能性など)という作品主題を製作者が意図的に描きこんでいるものだと理解してるわけです。

 さらに追記(3/26)。反論はすでにここでも一部行ってました。第1話でまなびが校歌を歌う場面をCD販売戦略の手法とのみ解釈することに対抗する作品内解釈。
2007年3月25日(日) まなび第10話
 というわけで第10話。広がってる。でも足りない。あと34時間しかない。
 そんな苦境のさなかに、大時計の改修工事。いまは、もう、動かない。刻まれてきた時間が壊されていく。ってまんまその曲だ! 当然ももが再びゲリラ活動を行っているのですね。82年前の創立当初にこの大時計も置かれたとすれば、生まれはなんと1955年、でしょうか。まさか55年体制のほころびをこんなところで暗示してはおりますまい。(追記:作中時間は2035年なので、正しくはたぶん1953年ですね。)なんてこと考えてる間にまなびの涙。
 今あるかぎりのみんなの(それこそ5人以外の生徒達も含めて)力をあわせても、ぜんぜん足りない状況に変化はなく、でも精一杯がんばったよね、なんて後の慰め文句を準備する余裕もなく。そんな絶体絶命の大ピンチに突如降りかかったのは、なんと大時計からの出火騒ぎでした。
 妖精のしわざだの祟りだのとあれこれパニクるけど、さすがに誰かの暗躍ということはないですね。というか、ここで生徒会室もボヤに巻き込まれてしまって、青天の霹靂どころか泣きっ面に蜂。ぐわー。焼け落ちたカフェ、生徒会室。みんなで創ったみんなの場所だったはずなのに。学園もやがてこうして消えていくということを、まなび達もあらためて実感せざるを得ません。
 そんなふうに生徒達が落ち込みきってしまったとき、ようやく立ち上がるしもじーの教師っぷり。ずっと陰から見守ってきたわけですが、ここでついに表に出てきましたよ。こないだの汚名返上とばかりに、すっかり忘れ去られていた旧学生寮を、生徒会室用に勧めてみるテスト。そして失敗。そりゃ怖いっすよ。
 でもこれ、園長がかつて守ろうとして戦った学生寮が、ボヤを奇禍として再びいのちを吹き込まれようとしているわけで。行き詰ったまなび達と学園祭の復活の萌しが、ここに過去といまの交錯として立ち現れました。うわー(喜)。またもやルネサンスという言葉のまんまですよ。しもじーは、みかんとめいの泊り込みなどを陰で見守ったり、学園祭の運営をサポートしたりしているうちに、すっかりまなび達に中てられてしまっています。つか、第1話でまなびに厳しく問いかけたその答えを受け止めたときから、すでにそうだったのかもしれません。けど、カップラーメンをすすってる余裕はしばらくの間あったよね。いまはもう、そんな段階じゃないのです。そして、園長も、焼けぼっくいに火かつきました。時計台のボヤがこんなところに延焼です。
 そんな頃、まなび達が消えた玄関前の広場では、地面に佇むチラシを拾い上げる生徒の姿。ね。なくなってから、いなくなってから、初めて気がつくことってあるよね。学園が吸収されるのは仕方がない。学園祭が中止になるのも仕方がない。そんなふうに考えてしまうことで、本当に取り返しがつかなくなることがある。生徒会役員選挙説明会のときの、あの校歌が、あの桜の花が、耳の奥に響く、まぶたの裏に浮かぶ。まなび達の賑やかな声が聞こえないいまだから、沈黙のうちに、その風の音に混じって、自分の素直な声が聞こえてくる。本当に、それでいいの、って。
 だから、もう一度。
 そのときまなび達は、らしからぬ遠慮だの爆発だのをしてますが。めいの反論は、彼女の変化の自己証明でもあり、他の生徒達についての理解&誤解でもあります。そんなふうに、自分達の姿を見つめなおして立ち止まったとき、ふと振り返ると誰もいないという恐怖。でも、その怖さは、ふと前を見たらまなび達や友達がいなくなっているという他の生徒達の抱いた怖さと、表裏一体のものなのですよ。
 いなくなって気づくこと。それを認められたら、一緒にいるために何ができるか考える。やってみる。そうしてみんなが勝手に学生寮に集まったら、そこはもう掃除しなくったって生徒会室の復活です。ここでもまたもや再生。5人でごー。みんなでごー。まっすぐごー。
「先生が言ってた、新しい生徒会室!」チラシへの小さな書き込みに気づく生徒達。それはつまり、気にしてたってことですね。こないだのむつきとめいのように、生徒会室から離れていても、心のどこかで何か引っかかっていた。だから、ちょっと様子を見に来ただけの子の手をつかまえて、楽しいことへ無理矢理に引き込んでしまう気持ちよい強引さ。ほんのちょっとの書き込みやしもじーの一言につられて、だんだん人が集まってきます。
 そこに現れた園長は、校歌のことをまなびに語りかけます。第1話からの象徴、まなびが最初に好きになった学園のかたち。

「この聖桜学園を、好きになってもらえたかしら?」

「……はい!」

 そして園長も、もっと好きになれたという。そしてしもじー。もはや教師と生徒の楽しい共犯関係が成立しております。園長もなんか若返ってるような。彼女まで再生しましたか。それは、滅びゆく学園に生きる者達が、学園に息吹(spirit)を吹き込むことで、学園の精神(spirit)を共に分かち合うことにほかなりません。
 めいもまた、見知らぬ生徒と言葉を差し出しあい、伝え合います。ほんのちょっとした言葉が、大切な想いをみんなのものにできるから。生徒会室の看板を掲げたのはめいだったけど、今度の新しい看板を掲げるのは普通の生徒。いや、普通とか無名とかじゃなくて、かけがえのない一人の誰かさん。ここにすでに始まってる学園祭、またも過程と結果が重なりましたよ!

 そして、愛光学園長との約束の日。
 70%を越えて、なんと76%。直前までのぴーぴーぶりが嘘のようです。これをもってご都合主義だと批判する人もきっといることでしょう。でもね、でも、ということは24%の生徒は署名してないってことだよね。例えば受験を控えた3年生だったり、学園祭にいやな思い出がある人だったり、まなび達が気づかないうちに傷つけていた人だったり、たんに面倒くさがりな人だったり、天邪鬼な人だったり、長期療養中の人だったり、いろいろなんでしょう。だから、そんな人達の無言の「否」が、ちゃんとここにしっかり示されているのです。これはご都合主義じゃなくて、むしろかなーりギリギリの数字だったという厳しい評価のほうがいいのではないでしょうか。

>『まなびストレート』って、他人とまともにコミュニケーションできない奴が勢いと主人公補正で世界を革命する話だよね。作品内の異物も全部乗り越えられるためのマッチポンプ的存在で、本当にどうしようもないことは作品内に存在してない。

 これは昨日もひいたはてな匿名のエントリーからの引用だけど、本当にどうしょうもないことって、まさにこの24%なんじゃないのかな。伝わらないこともこれだけあるってこと。
 そして、大時計のボヤもまた、機械仕掛けの神様なんかじゃありません。それは作品中に語られているとおり、偶然がもたらした奇跡なんですよ。あのまま5人が生徒会室を失うだけの結果にだってなったかもしれなかった。なのに、他の生徒達は、聞こえない声を自分から聞いて、集まってきたのですから。まなび達の眼前の行動に反応したのではなく、まなび達が何もできなくなった瞬間に自ら行動したのですから。だから、そもそもこの学園のことが好きだったまなびが、園長の問いかけにあらためて「はい!」と、つまりみんなから自分達へ勝手に投げかけられた気持ちがこんなにも嬉しいのだと初めて知ったということを、きっぱりはっきり答えているのです。

 第11話追記予定。
2007年3月26日(月) 作品への入り方(追加、第11話)
 例えば、第7話でたかちゃんがまなびを延々と見つめ続ける。第8話でまなびが大演説を行う。これらの場面に対して、視聴者はどう感じるのでしょうか。演出の問題を指摘する人は、これらの場面で「なんだこのだらけた演出は」と腹を立てたり、「また自分達の技術を見せつけようとしてるよ、このスタッフ」と呆れたりしてたんでしょうか。
 ぼくは、「なんでたかちゃん、ここまで異様に時間の止まった感覚になっちゃったんだろう」「なんでまなびは、ここまで長広舌をふるってしまうんだろう」と考えます。だって、演出がどうのと言う前に、まず何よりぼくの目の前で彼女達がそうしているんだから。
 そして、そうやって考えているうちに、「ああ、だからそんなにもこの子は!」と閃いて、その人物の心情がぱっと開示される瞬間があって、その登場人物や周囲の者達との関係などの奥行きがずずっと増す感覚を得られるのです。そんな快楽を一度味わうと、作品や人物やそれらへの自分の好意を、簡単に見捨てることができなくなるんですよね。早く最終話も観たいものです。

 吉田アミさん、ご賛同いただけて嬉しいです。あとせっかくなので疏水太郎さんの第4話についても紹介させていただきます。自分の好きな誰かの文章を、共感してくれそうな別の誰かに届けられる(そして受け取ってもらえる)というのは、こういうサイトの醍醐味ですよ。

 水野さんより。『ネギま!?』はやはり、うちのパロディコンテンツのパクリでしたか!(虚妄)というか、2本目のアニメともなればパロディ仕立てにならざるを得ず、そうすると原作から引っ張れるネタもだいたい同じとこになる、という事情なんですかね。あるいは、アニプリが普遍的なフォーマットであるという証なのかも(迷妄)。
 その一方で、こないだ想像してたプリキュア5の展開は、すっかり外れてしまっております。じつは、りんとかれんの対立話は3クール目に予定していたのですが、このおいしいネタがすでに本編で登場ですよ。ぼくの案だと、このペアも含めた2人話をすべて3クール目に集めようとしていたのですが、そういう硬直した発想が物語展開をつまらなくするんでしょうね。クラスメート話なんてぼくのように1クール目に入れずとも、5人の関係がそこそこできあがってからの方が面白いはずですし。
 で、なんでこんな話ばかりで実際の内容について感想を書かないのかというと、はい今回も録画に失敗しました(滅)。うがー。録画時間を登録せずに録画予約ボタンだけ押していた。毎度まいどに馬鹿を上塗り。

 追記。というわけで、やっと第11話。世の中ではすでに最終話が流れているというのに……。しかし気にせずGo!

 9月の攻防から、運営委員会発足、準備開始、そして10月20日ついに学園祭開催。第2話からずっと、その前の話からの時間経過が説明されてきましたが、時の流れが、時を失うことであるとともに時を創っていくことでもあるという実感を、みかんのこの淡々とした報告からぼくは受け止めました。そしてもちろんその報告の中には、たかちゃんのことが特筆されているわけですよ。絶大なる支援者であり、想いを同じうする好敵手(とも)なのですよ。
「夢じゃ、ないよな。」と呟くむつき。視聴前にぼくは、この『がくえんゆーとぴあ』という表題を持つ作品が「夢物語であるとともに、夢の物語でもある」のではないかと記しました。そしたら本当にこんな台詞が聞けるなんて。夢をかたちにしたのは君達の力ですよ。もちろん、他の多くの人々の力添えも大きいのだけれど。
「まなびが世界をどう見ているのか」、前から考えていたみかん。それはたかちゃんも繰り返していた問いのはず。みんなで手をつないで空を見上げたその姿は、今までずっとしてきたことの象徴。だから「いまなら見えるよ。私にも、見える。」「絶対に、忘れない。」「みんな、大好きだよ。」その言葉に込めた想いは、仲間達すべてのもの。
 その仲間のなかに、実行委員の腕章を巻いた他の生徒達も含まれるんでしょうかどうなんでしょうか。いや、最も親密な仲間としてはやはりあの5人という内輪なんでしょうけど、でも他の子達にもそういう仲間がきっといるよね。あと、第5話でめいのことをあれこれ詮索してみかんを困らせた同級生達も、えらい外側にいるにせよ、めいのことを気にしてたというのは是非はともかく芽があったということ。芽生って名前、ほんとそのままですね。

 しかし、そんな親密圏にも不純物が混入しかねないのが学園祭という外部に開かれたハレの日の有様。って兄つえー! こいつ嫌いだ!(えー)アニプリの航とつい比べてしまうのが悪い癖です。まあ、この武文(という名前なのか)もそこそこヘタレではあるのですが。
 そして兄をめぐって、まなびも愛光学園長の鏡子も両者ともに公私混同。女のタタカイですか。第10話に鏡子と兄のイチャイチャ場面が登場して、それを見せ付けられてたとしたら、まなびの暴走は取り返しのつかないことになってたかもしれませんね。そのへんを一応抑制したのかもしれないとか、第10話のラストでたかちゃんに「76%」と微笑んだ表情とかを見ると、この人って武文からまなびの話を聞いた直後から、まなびときちんと向き合っていたみたいですね。それは、彼氏とその妹の関係に対するやっかみというよりは、同じ男性のことが好きな者同士の正々堂々たる勝負のつもりだったのかもしれません。だとすると、この人なかなか立派です。性格かなり駄目だけど。
 そして桜。やはり桜。やがて散るにせよ、だから目一杯に咲き誇る桜。
 答えを確認に来たのでは、と問いかける武文(やっぱこいつ出来過ぎ。だからまなびもあれだけ安心できるんだろうし、そういう妹のためにこいつもこれだけ精進したのだろう)に、「私は少し、先を見すぎていたのかもしれない」と告白する鏡子。彼女なりに、学園のために一所懸命だったということ。学校の価値、楽しいことをすることの意味、無意味に思えることの意味。スコレー。
 そのまなび達はといえば、あれだけ準備がんばったのに参加できない罠。でもそれで満足できる? とめいからの問いかけに、いいから目を閉じて、とたかちゃん。あ、自然にこの仲間達の間にいるよこの人。傍から眺めているんじゃなくて、まさに間に。
 そして、今度は、聞こえる。見える。たかちゃんにも。そして、たかちゃんが最初にそのことに気づいていた。それは夏の終わりに、まなびが見える・聞こえるものが自分には見えない・聞こえないってことを、知ることができたから。まなびから伝えられなかったことは、たんなる挫折じゃない。たかちゃんは、その「伝わらない」ということがまなびからちゃんと伝わったから、学園祭に対するまなびの真摯な想いをちゃんと受け止められたから、今こうして最初にみんなに教えてあげられる。たかちゃんの中でも、学園祭は再生を果たしていました。

「ありがとう。あなたが教えてくれたのよ、イメージすること。それをかたちにすること。」

 これってカントの構想力(Einbildungskraft)かしら。像(Bild)をイメージ(想像)し、さらにそれを組み立てるという意味での想像力。だったっけ。第8話での電話ごしの「ありがとう」を経て、今ここにあらためての感謝を届けます。それはもう、まっすぐに。
 で、舞台上ではバンド大活躍。ももの凄まじい裏方ぶり。この子もいい子だなあ。

 って、まさか校歌か!

 ああああ! みんなからの感謝か! 届いた、返ってきた! ぎゃー!(絶叫)一体化するみんなの心身。さあ合唱だ!
 ……あれ? 合唱じゃないの?
 あ、そうか。それだと、ここにいないかもしれない24%の生徒達を排除しちゃうからか。そこまで考えずとも、集まってるみんながまなびとのあの出会いを、あの桜の情景を、そしてあのとき約束されたわくわくきらきらを実現しえた時の流れを、静かに分かち合いたいからか。そしてその輝きはいま目の前に、いまみんなのもとにあるから、誰もがもう目を閉じなくても、自分がそこにいるって確信できる。
 ももの計らいで準備していたバンドメンバーが、ずっと速いテンポで校歌伴奏開始。新しいリズムと、伝統の歌詞とが、まなびの声に結びついて、いまの、いまだけの、わたしたちの校歌になりました。それは、過去を積み重ねた学園で、未来に向かって進むみんなの、いま分かち合えた想いのかたち。その爆発のままに舞い上がる花火。
 しかし鏡子も園長も親切すぎる語りですね。そこまで説明不要ではないか、とも思いましたが、毎年と変わらない学園祭だという園長の指摘はなるほどな、と。でも、園長自身が語るように、これはかけがえのない学園祭であり、その一回性と唯一性によって、皆は「ただ夢中に」、まさに学園生活という夢の中へ没入し、夢を現実のものにしたのです。

 ぼくのこの感想だって、他の人のとおそらくあまり変わらない、でもぼくにとってかけがえのないものです。そして、この作品を通じて、他の見知らぬ方々と初めて分かち合えるものがありました。そこにはやはり、24%の、あるいは逆に大多数の、言葉の届かない人達がいるのかもしれません。けれども、たとえそうだとしても、その人達にもいつか届くかもしれない、その人達の声がいつか自分にも聞こえるようになるかもしれないとお節介なことを考えながら、ぼくは感想や考察を書くのです。そのとき、「みんな、大好き!」と心から叫ぶことができるかどうか自信はありませんが、でもまなびが失敗も含めて教えてくれるように、戦うんじゃなくて楽しんでみようとしたときに、お互いの想いはぐぐっと伝わるものなのかもしれない、って思えるのです。
 そしてそれは、エンディングテーマの由来である『ウェディングピーチ』と同じ「勝ち方」、みんなが幸せになるための生き方なのかもしれません。

 で、いまになってみると。オープニングのあの「死の世界」を最初思わせた情景から、いつの間にかぼくは、夜明けのさわやかな息吹を感じるようになっていたのでした。
2007年3月27日(火) まなび第12話
 『カトゆー家断絶』さん(3/26)、『かーずSP』さん(3/26)、『ぬるオタが斬る』さん(3/26)、『もけけ・がる〜だ』さん(3/26)、24日分日記の紹介ありがとうございます。

 当該反論のお相手であるskripkaさんからも反応いただきました。ご意見を頂戴できるのならとても嬉しいですが、たいへんお忙しいとのことですので、どうぞごゆるりと。ぼくとしては、そちらのまなび批判と自分の反論の両方を、読者の方々に吟味してもらえるだけでも十分なのです。
 なお、本格的なまなび「考察」のために「台詞起こし」などもされる予定みたいですが、ぼくの考察の書き方とその部分については同じですね。ぼくもDVD購入後に考察するかもしれません。

 というわけで、いよいよ第12話。最終回です。そうか、たった12話だったのか……。短すぎます、せめてもう1クール。
 冒頭、列車の中。みか旅立ち。
 場面が転じて、第1話の反復。あ、みかん「先輩」だ。みかんが唯一の生徒会役員だった頃、上級生はそこにすでにいなかったわけですが、今ではちゃんと後輩がいるのですね。2037年3月10日、本物の桜の花びらが舞う卒業式。学園は併合されたけど、鏡子の計らいでそのまま存続。みかんは「何にも変わっていません」とは言うけど、そうでもないように見えますけどね。
 めいとももの近さに、ちょっと衝撃を覚えたり。あの学園祭から今までの間に、もっといろいろと親密になった5人。あれかな、漫画版にある恋の疑いエピソードとかも経てきたのかな。めいの「意外に素直な反応」もなんですが、もっと意外なのは、まなびフリーター!? 「学生さんは全力で経験」したから、今度は全力で働きたいという論理。あー。なんか納得。で、そこでまた何かが必要となり全力で学びたくなったら、たぶんまた学べる場所に入るんでしょうねこの子は。でも、全力で学んだことをどう活かすのかは、言葉としては伝わってきません。わくわくきらきらした社会をつくるということなのかな。
 って、みかんアメリカ留学!!??
 さすがの4人も驚愕。まなびまでもが寂しがる。3年間、遠い、ってまなびさんあなた昔はどこにいたの。しかも「やっぱり止めない? 留学」って、まなびさんあなた……やはりそこまで……。でも、それでも決意を曲げないみかんのことを、まなびは素直に賞賛するのでした。

(でも、私は少しだけ、変わろうと思います。)

 みかんの克己への決心。仲間に頼りっぱなしの自分を、仲間達に負けないように変えてみたい。ごくごく普通の卒業式を終えて、生徒会反省会はあの最初の生徒会室前の屋根上で開催。「聞けよ!」ってめいさんあなた……。
 まなびの反省は、「みんなにいっぱい迷惑かけちゃったこと。ごめんね。まっすぐGo!で一人で突っ走って、そのせいで大変なこと、たくさんあったよね。」ちゃんと自分を振り返ってますね。これが彼女の成長ということ。その経緯は省かれてるけど、そのきっかけなら例えば第10話でめいが一般生徒達と自分達とのずれを指摘したときに、まなびの脳裏に刻まれた自己省察にあったのでしょう。もちろんこの反省に、むつきもめいも「ま、いいんじゃねーの?」「楽しかったしね。」とやんわり受け止めて、まなび自身もきっぱり言い結ぶ満足感。

「うん、だからあたし、反省はするけど、後悔はしてない。第82期生徒会はこれでおしまいです。だけど、これからも、まっすぐGo!」

 ああすればよかった、って思うくらいなら、今からでもそうするはずだし。そして最後にみかん。最後なんだ。最後にまなびじゃなくて、最初から生徒会役員だったみかんを最後の締めにもってくる仲間達の心遣い。みかんの反省は「自分から動くことができなかったこと」。でも、みんなはそんなことないって分かってます。それよりも変わっていないのは、とても泣き虫だということ。最後も笑って楽しく終わりたかったけど、みかんだけがとうとう湿っぽくなってしまいました。「でもやだよ、これでおしまいなんていや」「もっとみんなといたい」。ももでさえうつむいてしまうのは、別れの寂しさ悲しさを、心の中にみんな抱いていたから。
 しまいにアメリカ行きをやめようとまで言いかけたみかんを、まなびが遮ります。こないだは留学やめない?と訊ねていたまなびが、逆にみかんを叱咤します。遠く離れていても、どこにいても、ずっと一緒だから。背中を押すのも仲間の役目。

「終わりじゃないよ。終わりじゃない。始まりなんだ。だから、行かなくちゃ! ……ね?」

 まなびの胸に飛び込んで泣きじゃくるみかん。その後姿も小ささも、昔どおりの彼女のままだけど、積み重ねてきた時間の中で、その温もりもみなが分かち合ってきたものでした。怖いけど、ずっと一緒だって信じてみれば、きらきらとわくわくをいっぱい見つけて帰ってこようって思うこともできる。持ち帰ったそれらを再び仲間達と分かち合えれば、それは莫大な楽しさと嬉しさになると知っているから。
 そして渡航当日、免許取立てでマニュアル車を転がすめい。しかも渋滞。うあー。ママ4とか思い出しますね。4人がなんとか駆けつけたちょうどそのとき、みかんはちっちゃい後姿のまま、ゲートの手前で足を止めていました。そこに自分の名前を呼ぶみんなの声。別れの瞬間の出会い。
 無言で拳を突き出して見詰め合う。5人の心の中ででまっすぐGo!
 ここから始まる物語、それは今までの物語をこれからも受け継いでいくということ。過去を大切に抱きながら、未来に向かって歩き出すということ。だから、「さよなら」も「またね」も不要なのです。言葉がなくても伝わる間柄。背中を向け合って、分かち合う想いと笑顔。機内で隣の外国人に頑張って反応してみるみかん。伝えてみようとすること、応えてみようとすること。作品内で何度もかたちを変えて描かれた、コミュニケーションのありかた。滑走路のまっすぐな白線。
 白球とむつき。学園に赴任する兄(えー)。大学に通うたかちゃんとめい。後輩達のまっすぐGo!、受け継がれる新たな伝統とその精神。ももの作品、『まなびストレート』ってええー。メタ作品ですか。やはりシスプリRe Pureのようなメタフィクショナルな構成が(違います)。そして働くまなび。

 で、時間が飛んで1年5ヵ月後の夏。風は流れる時の象徴。ああー、これでオープニングにつながるのか! 新開発カラースプレーで学園中に大好きな想いを描きまくり。「まっすぐ、」「ごー!!!!!」と声を合わせれば、卒業後に初めてみんなで訪れたこの学園を、もう振り返らずに進んでいける。それはいつまでも心の中にあるはずだから。
 そうして、視聴者も彼女達に背を向けて、自分の道を歩むのです。この作品と、この作品から何かを受け止めた自分自身への誇りを胸に抱いて。

 とりあえず全体の感想として、とても分かりやすくてまっすぐな物語でした。こんなにストレートでいいのかというほどに。でも幾つか思いついたことがあるので、後日あらためて記します。
2007年3月28日(水) 感服しました
 『まなびストレート!』をめぐる意見交換のなかで、匿名はてなのこちらにほぼ同感です。

 『さて次の企画は』さんの「『抑圧的な生徒会』というメタファーの消滅とともに、『生徒会と闘う学園モノ』というジャンルは終わった」。そりゃだって、少子化で学校が潰れてますからね。現状はもはや学校の内部で対立する段階ではなく、学校そのものが成立しなくなっちゃってるので、否応なく大同団結せざるを得ない、というのがまなびの物語の一面でした。学校という居場所が壊れないという確証を再獲得してから、あらためて内部でのケンカも可能になるはずです。
 例えば、第12話で登場した生徒会の後輩達の時代に。そして「先輩達はあんなにうまくやってたのに、自分達は……」と悩む彼女達。それは問題構造自体が変化してしまってるのだから、先輩達のやりかたをそのまま模倣するのではなく、その行動に込められた想いや理念、根本的な思考基盤などを継承することが必要になるのですね。つまり学園の息吹としての精神を。そこに気づいて自分のものにしてから眼前の問題に取り組めば、先輩達と同じ精神をもって、今度は自分達だけの学園づくりができるはず。精神の絶えざる更新と継承。

 そして、この作品を受容できない「一般人」という言い方の怪しさにぼくはこだわっていたわけですが、『現象』さんの「ufotableにケンカを挑まれている、という感覚」にてそのことがずばりと。で、その文章を読んでいくと、notomoeさんへのリンクが。
 うわ。
 読ませていただいて、これは凄い、と。「一般人」とは何者なのか、自己投影の虚像にすぎないのではないのか、とぼくが直接問いかけていた相手とは、ほかならぬこのnotomoeさんでした。作品に対する彼の批判や、「ニュートラル」な鑑賞態度についての彼の主張が、ぼくにそのような違和感を与えていたからです。
 ところが、今回拝読した文章は、ご自身の鑑賞態度そのものに対するみっしりとした自己批判。「直球。やっぱダメ。まぶしすぎる。」という素直な感情表現から始まるこの文章は、「感じたこと」とその理由付けとの間にある意識せざる断絶を浮かび上がらせようとしています。こういうことができるというのは、自分の場合よほど腰をすえたときだけです。つまり滅多にない。notomoeさんは、ご自身が気に入らない作品を手がかりとして自分自身を疑うという、誰もやりたがらないことを敢えて実行されました。notomoeさんのこの理性的な態度と勇気に対して、ぼくは敬意を抱きます。
 それは、彼がこっち側(まなび肯定派)に一歩譲ったとかそういう論争や勝ち負けの問題ではなく、たとえ意見が異なろうとも公正な態度をとる相手に対する純粋な敬意です。だいたい、notomoeさんはご自身の批判的感想を撤回されていません。一歩譲るどころか、それを最後まで貫くためにその根拠の正しさを探られているわけで。これは誠実な「批判」というものの条件です。
 さらに言えば、ここでnotomoeさんが語られた内容や、そこに至る過程そのものが、じつは『まなびストレート!』という作品の見事な批評になっているという罠。だって、この作品の主題のひとつは、他者同士がコミュニケーションすることによってお互いをいかに変化させるか、そこにどんな問題と可能性があるか、ですから。ぼくも末席に連なる多くの人達とのコミュニケーションを通じて、notomoeさんはまさしくその主題を自ら実行されたのです。ぼくの感想は、現時点ではあくまで感想にすぎず、ぼく自身の思考や行動を大きく変えるに至っていません。それに対して、notomoeさんは間違いなく自己洞察を深化させ、おそらく今後の鑑賞態度を変化させ、しかもその文章を読んだぼく達に影響まで与えています。このようにnotomoeさんの今回の文章は、複層的な意味において見事なものなのです。正直、お見それしました。
2007年3月29日(木) ストレートにまなんでみる態度
「anyo様へ多佳子様の件で」というspamメールのタイトルを見て、「たかちゃんに一体何が!?」と慌てて開きそうになりました。

 さて、『まなびストレート!』についてぼくは何度も「主題のひとつはコミュニケーション」と述べてきましたが。作品を鑑賞された方々には、以下のようなコミュニケーションのかたちが様々に描かれていたことが容易に思い出されることでしょう。

・対面的、非対面的  ・直接的、間接的  ・双方向的、一方向的
・言語的、非言語的  ・一対一、一対多、多対多
・否定的・肯定的な齟齬や誤解  ・過剰ゆえの空虚、過少ゆえの充実

 マスメディア的なものまで含んだこれらの多様なコミュニケーションのありようを、5人とその周囲の人々との関係のなかに描き出し、最終的にはかけがえのない絆を構築するさまを示すというのが、この作品の物語です。(考察するとしたら、このへんを具体的に検討する予定です。)
 ところで、そんな多様性などはどんな作品にだって描かれているものではないか、という指摘もここで出てくるかもしれません。しかし、その多様性がほかならぬ学園という場所で、そして学園とそこに生きる者達の精神とが再生しゆく過程として描き出されたということが、何より重要なことなのです。なぜならば、コミュニケーションとは一説に「まなび」の根本概念だからです。
 少子化や若年労働などといった現代的な社会変化の結果を未来に投影した本作品の内容について考えるにあたり、そこで再生を求められている学園とは何なのかをまず捉えようとしました。そこでぼくが手がかりとしたのは、作品タイトルにも掲げられ、主役のあだ名にもなっている「まなび」つまり学習について論じた古典です。アメリカのプラグマティズム哲学者であり学習論の祖の一人でもあったジョン・デューイの『民主主義と教育』をダンボール箱から探し出せば、例えばこんな叙述がありました(以下、松野訳、岩波文庫上巻、1975年 より引用)。

「社会は伝達(トランスミッション)によって、通信(コミュニケイション)によって存在し続けるばかりでなく、伝達の中に通信の中に存在するといってよいだろう。」(p.15)
「命令を下したり受けたりすることは行動や結果に変化を及ぼすけれども、そのことはひとりでに目的の共有(シェアリング)や関心の共有(コミュニケイション)をもたらしはしないのである。」(p.17)
「社会が通信と同じことを意味するばかりでなく、あらゆる通信(したがって、あらゆる真正の社会生活)は教育的である。通信を受けることは、拡大され変化させられた経験を得ることである。人は他人が考えたり感じたりしたことを共に考えたり感じたりする。そしてその限りにおいて、多かれ少なかれ、その人自身の態度は修正される。そして通信を送る側の人もまたもとのままでいはしない。」(p.17)
「現存する環境に含まれている価値のない諸特徴を、それらが心的習性に影響を及ぼすものの中に入り込まないように、そこから、できるだけ、取り除くことが、学校環境の任務である。それは純化された行動の環境を設立するのである。」(p.41)
「自分自身の関心事にあまりに熱中しすぎて、子どもたちの関心事に興味をもつことができない大人には、子どもたちは、確かに、子どもたち自身の関心事に過度に没頭しているように見えるのである。」(p.78)
「社会的観点から見れば、依存性は弱さよりむしろ力を意味するのであり、それは相互依存を伴うのである。」(p.78)

 最後の2つは、学園祭に没頭する5人の姿や、みかんの成長過程などを思い起こさせます。さて、まなび達が多様なコミュニケーションを通じて仲間という絆を、そしてそこからさらに生徒達、教師達、学園それ自体の精神を再生させたということを、ぼくは感想の中で重ねて述べてきました。それは、お互いに経験や想いを分かち合いながら成長しあっていくという意味での教育=学びとその場所創出の具体像を、彼女達の姿に読み取っていったからです。この本を読み進めながらだったので、最初の頃の感想ではそういう指摘をしてませんけれども。
 ですから、ぼくの感想は、この点ですでに素直な感想ではなかったとも言えます。しかし、ぼくが作品と登場人物達に最初に感じた好意は、観た瞬間に素直に湧き上がったものでしたから、無理矢理に既存の枠組みにはめ込んだつもりはまったくありません。台詞や情景をつなげるだけで完全に一致する場合もありましたし、全然あてはまらない場合もありましたし、シスプリ考察の成果を転用しただけの場合もありましたし。ともかくも、そういった読書による知識と、作品という生ものとが、それらを捉える自分自身にしっかり結びついた、という楽しさは間違いなくありましたが。

 そして、こういうぼくの愚直さ、つまり、タイトル表記や主題歌や第1話内の舞台説明でちゃんと「まなび」「全て背負うのは自分」「高校へ行くことが当たり前でなくなった時代」と示してあるのだから、まずストレートにそれについて述べているものを探してみよう、というふうに作品に向き合う態度は、いわゆる否定的な意味でのオタク的なものではないと我ながら考えています。もちろん、哲学だの何だのでアニメ作品を外から権威付けしようなんてことは目的じゃありませんよ。哲学者が「みかんちゃん萌えー」と叫んでる姿なら想像しますが(えー)。アニメだろうと哲学だろうと、いいものはどこかで(それぞれの間で、そしてぼくの中で)結びつくだろうと信じてるんです。
 むしろ、主題歌を歌う声優などをめぐる商業意図だとか製作者の技術自慢だとかに対する勘ぐりだけで満足する方が、よほど否定的な意味でオタク的であり、制度化され硬直化された視線なのではありませんかね。そうやってしたり顔で分かったつもりにならずに、(例えば第3話でたかちゃんの言葉やみかんの疑問から意識を逸らさなかったまなびのように)まっすぐストレートに観てまなぼうとすれば、そこで獲得されるのはオタク的教養というより教養そのものに、つまり作品をより深く楽しむ足場にならないでしょうか。なりませんか。でも、ぼくはシスプリのおかげでアレントやイェイツを読みなおす気になりましたし、今回もこんな感じだったのです。デューイの文庫本なんて学生時代に古本屋で購入して以来ずっとしまい込んでましたから、いい勉強になりました。そして飽きてくると、まなびの演説調朗読を想像してみるの巻。

 追記。日本赤十字社の「平成19年能登半島地震義援金の受付について」、一応張っておきますね。本日ぼくも小額を納めてきました。
2007年3月30日(金) また溜めた
 はい、でも書いて伝わることはありますし、言葉が過剰かどうかは受けとめてもらえたかどうか(とその中身)で判断せざるをえないと考えますので。

 『tukinohaの絶対ブログ領域』さんの「『この作品が好きだ』と胸を張って言えるのか」とか『現象』さん3月分記述とかを読んで、基本的に同意しつつ。やはり、それに基づく具体的な批評なり何なりを示してもらわないと、その意見を広めるのはなかなか難しいのでは、と。
 ところで、「なんちゃってオタクエリート」なる存在について論じられてますけど、もしもそういう人がいるのだとして。その起源についての叙述を読んで、『第二次惑星開発委員会』の「善良な市民」さんに対する転叫院さんの批判を思い出しました。提示した問いに相手がいかなる回答を選んでも勝利を得られるという戦略をとる「善良な市民」さんの論争的・冷笑的態度は、「なんちゃってオタクエリート」のいわゆる優越感ゲームにおいて再生産されているんじゃないかしら。それが、ここで転叫院さんが危惧する通り「『いじけ』や『ひねくれ』の供給源」であり、その帰結が同じ態度の習得による自己防衛であるとしたら、本当にもったいないことです。
 で、転叫院さんは「特に善良な市民(宇野)さん本人はどうだろうか?」などと相手自身への問いかけを行っておられてますが、論争的態度というのは自分の弱点を出さないように概念や理論で身を守っているわけなので、こういうまっすぐ自分に向かってくる言葉には論争者は答えられないのかもしれません。語った瞬間に弱点が出ちゃうから。勝ち負けを第一にしていれば、作品もそれを享受する自分もどこかに消えてしまうのだろうし、もし論争的態度が啓蒙のための方便にすぎないのだとしても、手段と目的は容易に入れ替わってしまうものだろうし。それは寂しい。
2007年3月31日(土) アスリート達の供宴
 馬鹿話。

らむだ「肛門括約筋の『筋肉番付』ってできないかなぁ。」
美 森「何をどうやるんだ(笑)。」
らむだ「いや、こう、きゅっと。ね。」
美 森「『ね。』じゃない。」
らむだ「『十五段』と重々しいナレーションにあわせて、それが公衆便所の横に。」
美 森「だから、それって何だ。
    つうか、人工肛門の人は最初から失格か。」
らむだ「あー(笑)。」

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