日記
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2007年12月1日(土) ベビプリまじ語り11
 ベビプリ日記に対応できる日記枠が1月分にありませんでしたので、時空を越えてここに掲載します(2008/1/26)。

 というわけでベビプリ十七女・虹子(1/7)。おしゃまなレイディ。

 2歳児です。ええ。これだけでも意識が飛びそうですが、さらにその下に二人いるんですよね。ちなみに、ぼくは若かりし頃、これくらいの女児の仲良しさん1号だったことがあります。なんかね、思い出すと涙でてきますよ。犯罪じゃないですよ。

 プロフィールにもある「ぞうさん」の謎ですが、この日記にて細かい描写が。一番仲良しのフレディをさっそく「お兄ちゃん」に紹介するのは、もちろん分かち合いであり、虹子にとっての固有の絆です。
 しかしこのフレディ、けっきょく何者なのか、本物のゾウという可能性もあります。動物園で飼育しているとか、そういう感じで。しかし、普通(この企画に「普通」という言葉はそぐわないとしても)いくら子ゾウだといっても、その背中に2歳児を乗せることは危険ではないか。となると、ゾウのぬいぐるみという想定はどうでしょうか。しかし、「フレディはいつも虹子が行くととってもよろこんで、」という1行にある「行く」という表現がネックになります。家にあるぬいぐるみならば、「行く」というのはどうもおかしい(ただし、大家族・巨大家屋ゆえに幼児向けの「ぬいぐるみ部屋」が存在するのかもしれません)。で、3番目の説としては、公園などにあるゾウ型の遊具というもの。遊具や玩具に名前を付けて会話するというのは幼児期にあり得る話ですが、ただしこの場合は、虹子しか背中に乗せないという表現が、独り占めしている(あるいは他の子は別の遊具をお気に入り)ということなのかとか、これまた疑問が残ります。
 とりあえず、フレディは『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』登場のパオちゃんの弟ということでいかがでしょう。これなら、夕凪がマホウ志向である理由も分かります。

 プロフィールでは「お兄ちゃま」だったので、これは花穂呼称と雛子(or幼女咲耶)性格の合わせ技か、と思いましたが、この日記では「お兄ちゃん」ですね。初対面では目一杯「おしゃれ」した「早熟気味」のこの幼女、兄呼称もそのつもりで最大限におしゃまさんを気取ったのかもしれません。
 兄との結婚願望というのは、シスプリではとくに咲耶のキャラコレとリピュアBパート第12話で、その過程と過酷な結果を総括されていますが、虹子は幼児として当然のことながら、白雪キャラコレのような不可能性の予感さえいまだ手にしていません。それゆえ、今はただあどけなく可愛らしく受け止めることができるのでした。

 ところで、たった2歳の虹子がこういう文章を書けるはずありませんから、ママか誰かが代筆してるんですかね。虹子がしゃべってるのを聞きながら春風あたりが筆を走らせて、「こういうのでいい?」と読んで確認。絵もあわせてかしら(2歳児に描けるものではない)。で、それに虹子がまた思いつくままにあれこれ注文を、とかいう光景が脳裏に浮かびました。となると、「お兄ちゃん」という表記も書き間違えただけの可能性がありますか。今後に注目。
2007年12月2日(日) ベビプリまじ語り12
 ベビプリ十二女・吹雪。ぶっとびCPU少女。

 知的に高性能だけどすぐダウンするという、どこかのノートパソコンか何かみたいな小1です。実際、冷気中では「回転がよくなる気がする」という。麗に揶揄されている描写がありますが、吹雪の敏感びんかんメカニックぶりは、鉄な麗にも何か触れるものがあるのかもしれません。「変温動物」にたとえられて自分でも納得しつつ、「いえ、そんなことは生物学的に言ってありえませんが」とすぐに打ち消す知的冷静さというか、生真面目ゆえのおかしみ。
 そんなメカメカしい吹雪は、つまりホメオスタシーが弱いのみならず情操を過剰に抑制しているから、下の妹たちの衝動そのまんまは振る舞いには巻き込まれると暴走&フリーズ。「頭に靄がかかった」り「倒れ」たりという、自動的に青色画面モード突入。左足首のリングでは放熱しきれませんか。

 そういう吹雪をそのままに受け入れてきてくれたのが家族であり、妹たちの大騒ぎからも守ってくれるやさしさに甘んじていたけれど、その日々の優しさには、感謝しつつも同時に障壁と寂しさを感じてもしまうという矛盾。
そんなデータは誤差の範囲だと割り切ろうとしてきたのに、新参者の登場で重大なエラーが発見されました。19人なら素数なのに、20人は素数ではない。1しか違わないのに割り切れないとは割り切れない(タンサー5)。
この問題に取り組んだ当初は、エラーの原因を排除することで処理しようと考えたけど(「あなたは私たちとかかわるべきではないのかもしれない」)、そのとたんに自分の情操と衝突して「あ、めまいが」。そうこうするうちに2週間が過ぎて、「不安定」なのは「不安」ではなく期待を生むものなんだ、と気がついて、その予測不可能性を探求したいからこそ、「もう少し、人と触れ合うこと」を望んでしまうのでした。というわけで、「あなた」呼ばわりから「キミ」へのヴァージョンアップ。

 アニメ化されたら、話が進むごとに主人公との距離が微妙に接近していくとか妄想。一度すぐそばまで到達するんだけど、また室温などに応じて離れたり。萌え。
 シスプリにはこういうタイプの妹はいませんでしたかね。メカ鈴凛が意識をもつと、こんな感じだったのかなぁ。
2007年12月3日(月) ベビプリまじ語り13
 ベビプリ次女・霙(1/9)。アットホーム・ニヒリズム。

 終末論者です。虚無的です。「オマエも私もいつかは滅びる−−」この決め台詞や黒を基調としたいでたちは、当然のこととして千影を思い出させます。占いが得意なんていうあたりもそのまんま。日記の順番も13番目ってすごいやね。
 ただし千影が前世の因縁によって最初から兄くんと二人だけの永遠の契りを心中のごとく希求していたのに対して、霙はすでに自分が最後の日まで守り抜こうと決意している家族の安息を前提として、そこに「オマエ」を導きいれようとしています。つまり、今後の展開しだいでは、霙は「オマエ」への独占欲求と、家族愛との間で引き裂かれる可能性もあるということです。アニメ版の千影が独占欲求との葛藤の果てに共同生活を選ぶこととなったのと比べれば、流れが逆立ちするわけですね。

 さて、この終末思想をもつに至った原因ですが、「高校2年生」ということですので、(留年によるショックという説も有力ながら)ぼくは単純に「将来の独立による別離への意識」と捕らえておきます。これはすなわち鈴凛の未来への予感と同じ。今までのこの家族生活があまりに幸せであるからこそ、その喪失を招く未来への流れをあまりにも絶望的なものと受け止めてしまい、それゆえに「いつかは滅びる」という普遍的原理へと抽象化して、ストア派的な諦念をもって耐え抜こうとしているのです。
 だから、サウザーのように「愛ゆえに苦しまねばならぬ ならば愛などいらぬ」とたんに虚無的に人間関係を捨て去るのではなく、「オマエ」の要求に対しても手を差し伸べるのは、自らの寂しさを痛感するがゆえの優しさです。日常生活の騒々しさと多幸感にあふれる平安をそっと守りながら、自らの内面ではこれを終末論の静寂な世界を観想する平安に置き換えてしまおうとするのが、この霙の健気なタタカイということになります。このかなしい優しさも、千影的と言えるかも。

 しかしその後ろ向きな闘争心をなにげなく突き崩してしまいそうなのが、おそらくこれから結ばれる「オマエ」との絆なのでしょう。新たな家族のなかで皆のために精一杯がんばる「オマエ」の姿を見て、霙はその愚かさを批判しながら愛し「応援」するでしょう。なぜなら、未来の闇を知る前も知った後も、そんな愚行を霙自身もやはり止められずにいるからです。そして、その「オマエ」が真実に目覚めて「迷っ」たとき、最後にそっと手を差し伸べるのが霙の役目であり、そのときにその手をつかんで引っ張り出してしまうのが、「オマエ」の役目なのかもしれません。
2007年12月4日(火) ベビプリまじ語り14
 ベビプリ八女・小雨。それにつけてもとりえの欲しさよ。

 気弱ですね。自信ありませんね。「長女に憧れ」つつ「あんな風にはなれないと諦めてい」たり、「お医者さん」を夢見てもたぶん実現困難を予感してたり。優しいだけでは力にならない、この世界。日記でも気弱ゆえの役立たなさぶりを遺憾なく発揮。まさしく花穂っぽいです。とくにアニメ版では、花穂は衛という明朗・有能なすぐ上の姉と、亜里亜・雛子という妹たちとの間に挟まれて、上に比べては役に立たず、下に対してはうまく面倒見られずと、当初さんざんな有様でした。お兄ちゃまの応援にしても、それ「しか」できることがない、という後ろ向きな発想だったのが、ようやく自信へと転換していく過程が必要でした。ただしあのときは、まだ自信がもてない花穂のことを、その練習熱心さに感服し賞賛し模倣しようとするきょうだいがいました。
 では、小雨の場合はどうなんでしょうか。長女は届かない憧れの対象、すぐ上の姉たちは優秀だったり明朗快活だったり。すぐ下の妹たちは、これまた優秀で美人だったり屈託がなかったり、ともかく自分というものに疑いをもっていない様子。うえーん。しかも小雨は順位だけなら真ん中だから、それなりの責任を持たないといけないのですよね。小雨の立ち位置は、花穂以上に厳しいものかもしれません。お使いのやり直しに行ってくれるのが、氷柱のみならずいっこ下の麗ですぜ。失敗の原因をお店の人にも求めようとしながら、でも最後には「みんな、小雨が悪いんです……」と全面謝罪。泣ける。

 そこでミミちゃんです。学校でも内気ゆえに友達が作れない小雨は、泣きそうになったとき、この犬のマスコットを心の支えにしてきました。「大丈夫だよ」って声が聞こえるのでした。これは鞠絵にとってのミカエルですね。ミカエルは本物の犬で、鞠絵の感情を察するにほんと長けていましたが、小雨の場合はそれが小さなマスコット。ところでこの人形、いつどうやって手に入れたのでしょう。ママや姉の誰か(とりわけ海晴)が作ってくれたのか、幼稚園時代の先生などによるものか、それともパパからの贈り物なのか。道端に捨てられていたこの人形を、べそかいた小雨がふと気づいて拾ってそれ以来ずっと大切にしている、というのも考えました。うわーん。みそっかすの気持ちを一番よく分かるのが、小雨なのです。どこかで綿雪との関係も描かれないかしら。

 しかし、なんといってもミミちゃんの「匂い」です。くんくんぺろぺろです。それ違う。いや、花穂というからにはそれも連想されますが、むしろここでは花穂とお花(お兄ちゃまとの固有の絆)の匂いの関係や、あるいはむしろ鞠絵がリピュアAパート第8話で療養所を訪れた兄上様の上着のにおいを嗅いでいる場面を思い起こすべきでしょう。もっとも原初的な感覚である嗅覚によって、妹は兄との絆のなかで孤独ならぬこの身を再確認するのです。
 小雨はまだそういう「お兄ちゃん」の匂いを発見していませんが、「ミミちゃんに少し似てる」とのことですので、すでに敏感な嗅覚は察知しているということなのでしょう。すなわち、「お兄ちゃんは嫌わないでくれるかなぁ……」という不安、花穂の「見捨てないでね」と同じその否定的自己像を、「お兄ちゃん」が小雨のよいところを見出して微笑んでくれるその瞬間に、部分的にでもひっくり返してくれることをおずおずと待ち望んでいるのです。

そいえば、ぼくはかつて書き始めた「におい」をテーマにした魔法少女もの企画を10話までで中断しておりますが、こうなればあと3話作って完成させねばなりますまい。小雨のためにも(迷惑)。
2007年12月5日(水) ベビプリまじ語り15
 ベビプリ十四女・真璃(1/11)。なんちゃって女王様。

 何がすごいって、頭のてっぺんに小冠をのっけてるあたり。色のイメージは雛子ですが、その支配者然とした気品は亞里亞……なのかどうか。(マリー・アントワネットの誕生日って11/2、亞里亞の誕生日と同じだったのか。今更気づきました。)
 たしかに趣味としてはお姫様ですし、飴を舐めているあたりも亞里亞に近いことは間違いないのですが、しかし亞里亞が真に孤高のお姫様育ちなのに対して、真璃は大家族の一人ですからね。その分すぐには泣かないたくましさ・計算高いしたたかさも備わっていますが、反面それだけ生まれと育ちのよさが足りません。「ださいけど。」には卒倒しましたけど、本物のお嬢様はそんな言い回しを使いませんからね。いいとこ九鬼麗とかそのへんです。
 「でも、ドレスは高いでしょう?」という一言は、幼稚園での臣民たる男子たちが十分な「みつぎもの」を献納できるようにという配慮のみならず、妹たちの前であまり贅沢を言わないようにするという、真璃なりの気遣いもまたひそかに感じられるのです。お優しゅうございます。マリー・アントワネットは家庭的な面ももっていたそうですね。
 そして、自分が本物の「女王様」「お姫様」ではないことを自覚しているからこそ、「お姫様みたいなものが好き」なのであり、「女王様って感じがする」ことを好むのです。そこには子供らしい憧れの対象との同一化願望がありますし、また届かない対象へのかすかな諦念も感じ取れます。さらにいえば、周囲の男児からお姫様扱いされて当然と思えるくらいに、自分の可愛らしさの自覚もあるのです。素晴らしい自尊心です。その白タイツのおみあしで踏まれとうございます。

 そんな感情(踏まれたいとかじゃなくて)もないまぜにしつつ、幼稚園で堂々君臨してきたわけですが、しかし今度の新参者は「年上のかっこいいイケメン」。もー、このめんくいさんめっ。「そなた」呼ばわりの初対面時は、まだ家臣として見下していましたが、そのときすでに「フェルゼンにしてあげる」と決意してこのかた、今ではすっかり対等な関係です。「マリーの幼稚園にいってね?」という1行は、あからさまな命令というよりむしろお・ね・が・い。命令できる相手ではもう満足できないのです。しかし、きょういだから結婚相手にはできないけど愛人なら可能、というのは、真璃の現実感覚を再認識させられる以上に、とてつもなく新しい発想でした。ご深慮に感服つかまつりました。
 で、ここで問題となるのは、「新しい」フェルゼンというのがたんに新参者という意味なのか、それとも「古い」フェルゼンが存在するのかということ。「ケンちゃん」や「リュウくん」がそうなのか分かりませんけど、いずれにしてもこの男児たちからやっかまれることは必至でしょう。白雪キャラコレに登場したカズくんを思い出しますね。向こう脛を蹴られそうです。激痛に悶えるフェルゼンを哀れに思し召された真璃さまは、お口のロリポップを下賜されるのありました。スイーツ(駄目)
2007年12月6日(木) ベビプリまじ語り16
 ベビプリ九女・麗(1/15)。テツ子の部屋。

 これ読んだときには、諸兄姉と同じく卒倒しました。さすが公野先生というか。
 さて、この短い日記と写真から、何が判断できるものでしょうか。まず、プロフィールでは「オトコ」という生き物を断固拒絶しながら、「あなた」が「家族」であればやむなく存在を認めるし、さらに唐突に「何線が好き」か尋ねて「300系が好きなら見どころがあるわ(はぁと)」と怒涛の展開。存在否定から一気にハートマークですよ親分。つまり、消極的受容と積極的受容の間のギャップがきわめて大きいのです。これはやはり、趣味人というよりオタクです。ほどほどの人間関係を持つことができない。「正統派美少女」ゆえに、今までさんざん男子たちからつまらぬちょっかいをかけられてきたという、嫌な記憶もあるのでしょうが。
 で、そういうオタク的期待をかけてみたものの、「あなた」の反応はどうもはかばかしくなかった、と。それゆえ評価も急降下。吹雪の言う「不安定」さも麗にとってはたんなる不調和でしかない。そこで、初対面時以上に拒絶しているという、そんな段階なのかな。
 にもかかわらず、自分に近寄ってもらわないための理由を「これから田園都市線に乗りに行くんだから」としっかり具体的に明記。写真は本人が添付したものか不明ながら、無意識のうちに、この「オトコ」に再挑戦のきっかけを与えているんでしょうか。
2007年12月7日(金) ベビプリまじ語り17
 ベビプリ九女・麗(1/16)。驚愕の反転攻勢。

 いやー、やってくれますよね。もう右へ左へ転がされっぱなしです公野先生。鉄道車両関係のネタについては、美森氏から教えてもらいました。ちゃんとあってるらしい、すごい(笑)。
 「海晴姉さまからおこられ」て「……。」と忸怩たる沈黙。ここで海晴は叱るとともに、どんな助言をしたんでしょうかね。麗の男嫌いは知ってるから、そんな妹をたしなめつつも、彼女がいま受け入れられる程度での、主人公への向き合い方を教えたのかな。
 さて、「あなた」がテツであろうとなかろうと、自分の趣味話のみを徹底するという姿勢は一貫している模様。会話を拒絶することはもうしませんが、ならば会話の内容は自由にさせていただく所存。ご立派です。ただ、そこには2つの手がかりが、「あなた」に向けてちゃんと与えられていて。

 1つは、読めばすぐに分かるところの「頑張りやさん」に対する敬意と思慕。それが物言わぬ鉄道車両というところがミソなんだけど、己の義務を果たすことに無言で身を尽くすという態度や、自らの存在意義を実現することに美を見出すという、なんというか古代ギリシャ哲学的な真・善・美の一致を希う麗の傾向が、如実に表れているように感じました。それは人工物だろうと人間だろうと同じことなのだとすれば、しかし人間の場合はどうしても自分のあるがままを生きることが難しいとすれば、そんな生き方・ありかたを求める麗の姿には、テツという特殊な形態をとったイデアリストの真摯な祈りが映し出されています。
 これは、麗自身が家の外の者たちから「可愛い女の子なんだから、テツなんかやめて女の子らしくすればいいのに」と言われ続けてきたことへの苦悩の反映でもあるでしょう。姉たちはさすがに理解を示してくれているにせよ、それでも「休日」の過ごし方などは合わないわけで。美少女だのなんだのという他者による規定と、テツとしての自己規定とがいつでもどこでも食い違う。その衝突が麗の生きづらさとなって彼女の表情を険しくしてきたのだとすると、装飾と無縁に所与の目的を遂行する無骨な鉄道車両は、麗がまさにそうなりたい自己像なのです。
 だから、そんな麗をあるがままに受け入れられるかどうかが、「あなた」には問われています。プロフィールにある、「なのに実はテツ。」という一文の「なのに」の部分は、つまり、罠です。こう感じた者は麗を「美少女」と「テツ」で対立的に理解してしまってるわけですから、そんな視線に麗はもううんざりしてるんですよ。なにも無理やり趣味をテツにしろ、というわけではない。麗と同じように、「あなた」も自分なりのまなざしで、もののあるがままを誠実にとらえる姿勢をもて、ということです。

 もう1つは、焦燥感。求める車両のすべてに乗るためには、お金もない時間もない年齢も足りない。「グズグズしている」うちに、それらは廃車となっていく。焦って急いで成長しようとしても、「間に合わないことばかり」。この、間に合わない、絶対的に遅れてしまっている、という感覚が、さっき述べた理想と現実のずれを示すもう1つの端的な例なのです。「私が大人になるまで待っていてほしいの。」どんなに強くそう願っても、世界はそんなに優しくはないことも知っている。自分がすぐに大きくなれるわけでもないことも。そんな切ない思いのたけを書いているうちに、麗の気持ちが高ぶってきてしまってるわけですけど、だからといってその勢いだけで「しょうがないから」「あなた」を次の休日のテツ行動に誘ったわけでもなさそうです。
 というのは、この遅れと間に合わなさという感覚は、麗の家族に遅れてやってきた「あなた」にも共通するはずのものだからです。いきなり溶け込めと言われても無理。家族らしく振る舞えと言われても無茶。かつてこの家族の中で経験されたこと、共有されていることを、「あなた」はまだほとんど何も知りません。シスプリならば、四葉がポケストの中で泣いた、兄との七五三を自分だけが経験していないという欠落感。きょうだいの思い出から取り残され、排除されてしまっているという孤独感と寂しさ。遅れて存在しているというこのどうしょうもなさを、いくぶんでも埋め合わせられるのは、兄妹たちの絆をおいて他にありませんでした。一方、麗の場合は、自分の欠乏感を「あなた」にも投影できるのです。したがって、麗が今回の日記を綴るうちに、そんな「あなた」の心中を意識のうえで慮ったかどうかはさておき、何か近しいものを感じてしまい、「しょうがないから」乗車に誘ったんじゃないでしょうか。

 いやまあ、海晴姉にこき使われる「あなた」の様子を見て、車両のイメージを重ねてしまったのかもしれませんけど。
2007年12月8日(土) ベビプリまじ語り18
 ベビプリ十八女・青空(1/17)。おちんちんきぼんぬ。

 さて、乳幼児期に女児がちんちんを欲しがるというのはよくある話です。ぼくも5歳の女児に寝室で「おちんちんみせて」と小声でせがまれたことがあります。急いで付け加えておきますが、もちろんいそいそと見せたり等価交換を求めたりしませんでした。しませんでしたってば。
 青空の話に戻りますと、さて、この子はどこから「おちんちん」の存在を知ったのでしょう。「お兄ちゃん」と一緒にお風呂に入ったとき、自分にはない謎物体を初めて発見したのか。それとも、プロフィールに「お兄ちゃんは男の子。/男の子にはおちんちんがあるの。」とあるのを見ると、「男の子」にはおちんちんがある、ということをそれ以前から知っていたのか。後者だとすると、いったいどこでそんな知識を身につけたのか。気になりますね。幼児向け性教育絵本もありますけど、普通に近所のお友達がおしっこするところを目撃したり、「河原が好き」とあるので水遊びのときに裸体を見たりしたのか。あ、そもそもパパがいるか。
 ぼくは何でこんな必死に検討しているんでしょう。

 ええと、日記のほうですが。姉妹仲の好さが今回ももろに描かれてますね。綿雪が「キラキラのはこ」をくれた。その箱の中にどんぐりをしまっておいたら、「ぴかぴか」になった。キラキラとぴかぴかには当然、マホウ的な因果関係があるのですよ、ねえ夕凪。ちなみに「1こあげる」ということは、どんぐりは複数あるわけですね。青空の立絵でもぽっけにぎっしりビー玉だか何だかが詰め込まれているみたいです。姉妹の絆によって増幅された宝物のこのどんぐりを、「なかよしのしるし」に分けてあげる。「おにいちゃんのことすきだから。」読んでて泣けました。そして、もらったどんぐりをどうやって保管しようかと悩む日々。いやね、青空―綿雪ラインに対応するためには、「おにいちゃん」―氷柱ラインとなるんだろうから、ここはやはり氷柱から容器を譲り受けてですね。あるいは写真フィルムのケースを流用して、ついでに一眼レフそのものも購入して、ついでのついでに麗にくっついて電車の写真撮影をですね。

 どんどん話がずれていきます。こういうずれ方流れ方を、青空の日記も一見してやってますね。最初はどんぐりの話、次に「おにいちゃん」が好きだという話、さらに「ぱんつ」に「おにいちゃんのおかおのえ」を蛍に描いてもらおうという話、最後に一人でトイレに行けるという話。
 でもこれ、青空にしてみれば話はすべて首尾一貫してますね。どんぐりを「おにいちゃん」にあげることが「おにいちゃん」への好意の証であるならば、今度は「おにいちゃん」から青空のことを好きだという証を立てるのが当然の相互性。ただしそれは直接お返しを求めるということのではなく、「ぱんつ」という最近接のおともだちに「おにいちゃん」の顔を描く、つまり自分と一体化し保護してもらおうとしているわけです。んで、一人でトイレに行けるというのは、そのこと自体を褒めてもらおうということでもあるけど(「えらい?」)、「おにいちゃんの顔の「ぱんつ」におもらししないという宣言でもあり、また、その「ぱんつ」をはいてトイレに行くのは「おにいちゃん」と一緒にトイレに行くということなので、ここでの「ひとりで」というのはそういう好きな人と一体化した自分のことなのです。おちんちんが「おにいちゃんといたらできるかな」というのも同じ雰囲気。
 こういう自他の一体化は、シスプリでは四葉などにも見いだされてましたが、幼児性としてのそれは雛子のキャラコレでもさほど描かれてなかったかもしれません。そりゃ1歳児というのはいなかったんだけども。

 ところで、このイラストは1歳児にしては上手すぎるのですが、ママか蛍……あるいは幼稚園児の姉たちの手が入っているのかしら。
2007年12月9日(日) ベビプリまじ語り19
 ベビプリ十女・立夏(1/18)。ヒカルと思いきや。

 公野先生にまたも一杯食わされたわけですが、いやいやテキストライターの存在を意識してはなりますまい。これは姉妹の日記。姉妹が一人ひとり綴った(あるいは代筆した)日記。

 今回はヒカル担当分を立夏がやむなく肩代わりしており、その文中でヒカルのことを妹視点から間接的に描き出しています。こういうことができるのもベビプリが最初から姉妹・家族であるからですね。シスプリだとポケスト以降のことではないでしょうか、この姉妹視点による間接描写って。

 で、まず立夏自身について。「おやすみのキッス」ですよ旦那。これは額にであって「本番はまたこーんーどー(はぁと)」ですよご主人。ああああああ。ただし、これは日記の文字上でのことですから、実際にオデコにキスしてもらえているわけではありません。「本番」というのも、つまりそういうこと。こういう、ちょっとおませなゴッコ遊びができるのも、立夏の特徴ですか。さすがチャオ娘。もちろん、こういうやりとりを好まない姉妹もいるので、そういうひとにこんな日記を読まれた日にはもう。たまりませんね。一方、こういうやりとりが大好物な姉妹がいたら、今後どんどん相乗効果でエスカレートしていく可能性もわすかながら残されています。どうするどうなる家族の平和。

 そのへんを年長者として厳しく律してくれそうなのが、ヒカルなのですが。間接的に描かれるポイントは以下の2つ。
 まず、日記とかが苦手。しかも開いたノートに「ヨダレ垂らして寝ていたヨ!」。うわー。垂れた個所どこどこ。ぺかぺかのページの隣がごわごわになっちゃいます(最低)。それはともかくこのヒカル、どうやらシスプリの衛以上に乙女っぽさ欠落のご様子。もちろん衛はその少年的側面と乙女的側面の微妙なあわいがキモでしたので、ヒカルにもそういう緊張感を今後の変化のうちに求めたいところではあります。
 次に、それでも交代制で綴るとみんなで決めたのだから、いくら「困った」としても自分の責務から逃げない。でも「困った困った」と「うんうんうな」る態度は隠さない。なんというか、あけっぴろげですね。困っても投げ出さないから、「おとといくらいから」ずっと困り続けていたという、この愚直な律儀さ誠実さ。信頼できます。

 さて、この描写から、『non title』さん(1/20)のような想像を膨らませるのはそれはもう素敵なことなのですが、これに半分賛意を示しつつも、ぼくは別の解釈をとることにします。というのも、「ヨダレ垂らして」寝ているというのは、これが立夏による比喩的表現でないとしたら、おそらく素で寝ているんじゃないでしょうか。それについてはまた明日。
2007年12月16日(日) 反応その1
 有村悠氏の文中でうちのハルヒ考察が言及されてることに気づいたのですが。この文章全体とshirokuma氏の関連テキスト(ここも)やguri_2氏の最初のテキストも読ませていただいて、思うところなどを。

1.「三行でまとめろ」について

 有村氏のご指摘のとおり、それなりの分量を費やさないと説明できないものってありまして、それを各章3行でまとめろと言われてもなかなか難しいですね。
 ただまあ、自分でも「ぼくの考察って長すぎるよね」と感じるわけですので、あれだけの分量を読むのには、ハルヒという作品なりぼくの考察なりに相当の愛憎がないとやはり厳しいのでは。正直、一度最後まで読んでさえもらえれば、作品に対するぼくの狂ったような愛情というものを理解していただけるはず、という思いでどの考察も書いてます。でも、できれば分かりやすい「ツカミ」や要約が考察冒頭に掲げられてるほうが親切では、とか、もすこし文章減らせないかな、とか、反省もあるのでした。だって、まずは読んでもらうことが必要なのだから。
 ちなみに、ぼくの考察は重要点&ネタを太字で記してありますので、その前後だけ読めばだいたい内容が分かるようになってる、はずです。ついでにハルヒ考察全体を3行でまとめると、以下のようになりますか。

   『憂鬱』はハルヒの恋物語
   乙女心による世界の再創造
   キョンの妹に全員注目

 あるいは、2ch的な「今北産業」に対しては、同じ水準で返すのが礼儀かも。

   やっぱり
   キョン妹は
   えろい
   な

 行あまり。
2007年12月17日(月) 反応その2
2.「作品にガチで向き合」うことについて

 ハルヒで人生がでんぐりがえった人の話を、ぼくも寡聞にして知りません。ぼく自身は、エヴァではなくシスプリで人生転倒したわけですが。
 それではハルヒという作品にガチに向き合った人がいないのかと言えば。例えば「ハレ晴れユカイ」を踊る人達の映像を観て、みんなと同じことやってるなぁ、と感じることもありますが、でもあれって元の映像を観ながら繰り返し練習しないと簡単には踊れないものですよね。少なくともぼくには、練習したってできません。また、「ちゅるやさん」などの絵にしても、それを描くのにどれだけ「ガチで向き合」ったかは分かりませんが、少なくともぼくにはああいうアイディアを出せないし、たとえ出せても絵を描けません。MADも同様。だから、ぼくからすれば、それらの二次創作などは、やはりガチなものというか、ぼくとは違った独特なガチの表出なのではないか、と思うのです。
 この立場からすると、ぼくの考察というのは、あくまでも「絵や映像やダンスなどに関わる能力がなく、詩やSSなどの文章創作もできないぼくが、唯一可能な表現方法」であるにすぎません。や、シスプリSSやパロディコンテンツは実際に書いてますけれども。やはり全体的には、不器用なので考察「しか」できない人間なのです。

 その一方で、考察という独特の表現方法について、ぼくはそれなりの自負心をもってます。考察しかできないけど、そのかわり考察なら任せておけ、というような。ここでの「考察」とは、ある作品の総体を詳細に再解釈することで、その作品に対する否定的世評の一部を反駁する作業、という意味です。自分が好きな作品を誰かが先入観によって誤解していたり嘲笑憎悪していたりするのを見かねて、そうじゃないんだよほら作品世界はこんなにも綺麗、と言葉を尽くして説得する次第。
 そのためのガチ具合は、そりゃ相当なものだと自分でも思います。好きな作品のためなら、ハルヒで原稿用紙約100枚、シスプリなら約3000枚も文章を連ねられるというのは、よほどガチで愚直な馬鹿でしょう。こういう馬鹿にとって、「何こんなことにマジになってんのこいつ?」という周囲の批判は、届かないというよりも、「うん、そうだよねえ。でもやめられないの、好きだから」という自嘲まじりの自己肯定を引き出すばかりなのでした。マジになるのは好きだから。好きだという自分の気持ちに嘘はつけない。それは女の子に対しても作品に対しても同じことだと思ってます。

 んで、「あいつって不細工だよな」などと気楽に駄弁ってた人が、いきなり後ろから「そんなことない! なぜならあの子は、」と勢い込んで長々とまくしたてられるわけだから、ぼくの好きな作品を否定的に評価した人はほんとに災難です。そいえば、skripka氏からの返球はまだかしら。
2007年12月18日(火) 反応その3
3.承認欲求について

 これこそ、ぼくが考察執筆の原動力の一つにしてきたものです。ただ、その中身はどういうものなんじゃろ。

 「絵描き」やプロの「物書き」という一次創作者の立場からすれば、自分より優れた能力をもつ他者に対して嫉妬心や憎悪を抱いたり、それと同じくらい自分自身の不甲斐無さに悶え苦しんだり、というのはあり得ると思います。ぼくもその立場だったら間違いなくそうなります。
 だけど、幸いというか、ぼくはアマチュアの「考察者」。どこまでも対象作品によりかかった解釈者にすぎません。なので、「自分の能力やテキストを、もっと評価してくれ」という欲求もあるんですけど、考察読者から「この考察を読んで、原作がもっと好きになった」「観てみる気になった」という反応を贈られることがえらく嬉しかったりするのです。ガチなのは自分自身についての承認欲求じゃなくて、自分が愛する作品についての承認欲求ということ(これもまた結局は「そんな作品が好きな自分」についての承認欲求だとも言えるけど)。その作品が好きだから、みんなにその作品のよさに気づいてほしくて、考察してるわけですよ。それは、ぼくに幸せをくれた作品への、ぼくなりの身勝手な恩返しの仕方なのです。
 ハルヒ考察のときは、はてなブックマークで例えばkusigahama氏が「当時、これ読んで買ったんだったなー。」とコメントされてますが、これを読んだときは嬉しかったですね。ぼくの好きな作品の読者が、ぼくの考察によって増えたということ。ちょっぴり恩返しができた気分。もちろん、そこには自分の文章への誇らしさも混じっています。だけど、その考察文章を生み出してくれたのは他ならぬ対象作品ですから。
 「考察の書き方」のブクマでは、このことをmeltylove氏が「愛と愉しみをもって謳うことが、幸せを与えてくれた作品への恩返し。という理由は素敵だ。みんなそんな風に書けばいいのになあ、とか思ってしまう。」と端的に要約してくださってて、この一文には感激しました。

 なので、他の優れた考察者・解釈者のテキストや絵に悶絶したり嫉妬したりしても、それらの影響で作品ファンが増えるならいいし、みんなで「俺こそがこの作品への愛情を最大級に表現できるのだ!」とお互い張り合って高めあえれば、何よりなんじゃないかな、と思います。
 シスプリのときは、ぼくの考察内容を受けて先行ファンの方々が独自の凄い球を投げ返してくる、そしてぼくも悶えながら返球する、んでみんながシスプリをもっと好きになるという、その協奏的競争がとても心地よかったのでした。ネギまも同じで、いずみのさん達のアプローチを受けてぼくなりに考察し、その内容にまた反応していただけたわけですし。ハルヒの場合も、ぼくの考察を褒めてもらえるのはとても嬉しいけど、作品そのものをもっと好きになってくれたり、読んでみようかと思いなおしてくれたり、妹ちゃんへのぼくの独占欲を容認してもらえたりするなら、それが最高なのでした。とどさくさまぎれ。

 や、もう、考察者は気楽ですよ。「ひいきの引き倒し」になってしまう危険性はあるけど。承認願望が自分自身や自分の能力ではなく、まず対象作品に向けられているうちは、ぼくは作品を自己顕示の道具にしてしまうことなく、作品のよさの語り部として自己制約し続けられます。そして、そうであればこそ、一部読者の方々に(たとえ解釈が違えども)ぼくの作品愛を感じ取っていただき、その作品への愛情を深めていただけたのだと、感謝とともに自負しています。
 つまるところ、そのような偏愛を注げる作品が存在するこの世界に生き、その作品に出会えた自分というものを、ぼくは「幸せな自分」として承認したいのでしょうかね。そしてぼくの考察は、作品をもっと好きになれることの喜びを獲得することで、この自己像についての承認欲求を満たすものなのだと思います。
2007年12月19日(水) 世界の合言葉は、歌
 初音ミクって、自分自身の歌声を聴くことができるんですかね。あるいは、歌詞や旋律を感じ、理解することができるのか、とか。純粋に「ただ歌うだけ」の存在としてのミク。ってMK2さんがすでに書いてましたっけか。
 ミクは「歌」であって、「歌手」ではない。「存在」と「存在者」が異なるように。ミクの髪の長さも瞳の色も、腕の細さも膝裏の薄しょっぱさも、ミクにとっては意味はない。あの姿はつまりソワカちゃん。ミクは何ものも認識しないで、ただ歌う。というか、歌そのものが、ミク。はじめにミクありき。歌が世界を紡ぎだした。
2007年12月20日(木) 綴る文字の色は赤
 子供の頃から、大人の男性が苦手です。幼児期に何かあったのかもしれませんが、思い当たるのは親戚の従兄たちの足元で泣いている場面。あれはたぶん、ぼくが我儘をして勝手に泣きべそをかいてただけと思うんですが。どうもその記憶のあるあたりから、大人っぽい男性全般に恐怖心があるのです。自分に暴力をふるう敵。今ではかなり打ち解けられる年長者も知人にいるんですけど、それでも心のどこかにこう、壁があることはいつも感じています。
 そのためなのかほかの原因によるものか、こちらを不審がりつつ見下すような視線をふとそのような大人の相手から感じることがあって。そのとき、ぼくは心の中に、蔑まれたことへの憎悪を抱きます。「死ねばいいのに」って思うときさえあります。

 でも、たとえその相手が死んでも、そのことによって情けない自分が変わるわけではありません。ぼくを蔑視する(とぼくが想像している)他者が何人いなくなったところで、自分をそのようなものとして眺めるぼく自身の視線を消すわけにはいかないから。こういうのを「内面化された他者」というのかどうか知りませんが、一番がんばるべきときにケツをまくったり、好きな人を裏切ったり、場当たりに嘘をついたりしてきた自分のみっともなさは、たとえ目の前の他者からの眼差しが間違っていて耐えられなくて消し去られるべきだったとしても、それにもかかわらず残り続けるから。
 ぼく以外の全人類が滅んでも、ぼくは情けない人間として不動です。不動の挙動不審者。そうでなくなるためには、ぼく自身が克己するしかありません。努力の結果、必ず立派になれるとは限りませんが、自分でやらないと絶対に駄目なままです。それはぼくの人生が証明してきております(まさに駄目)。で、そこがまた一番みっともないという。

 でも、どんなに情けない自分でも、せめて好きなものへの気持ちだけは、なるべく純粋でありたいじゃないですか。
 「死ねばいいのに」だとか、なぜ自分の苦しみを受け止めてくれないんだとか、そう言いたくなる気持ちはぼくなりに分かるんだけど。他人に対してそれしか言わない人間の言葉を受け止められるのは神様だけですよ。だったら、世界には憎悪の対象だけじゃなくて、自分にとってかけがえのない対象も存在してるんだってことを、せめて自分なりに示したいのです。そうすることで、自分が生きていることを自分なりに納得したいのであります。っておおげさですね。
 だから、憎悪をふりまいた足跡よりも、好きなものへの妄想をふりまいた足跡をたくさん残したほうが、その足跡を喜んで辿ってくれる人たちのことを期待できるように思うのです。そして今日この日は、ぼくが好きな作品の妹の一人が生まれた祝福の日なのでした。

「誰かを恨んだり何かから逃げたりして手に入れた力でも…それは立派なあなたの力です」

 これは『ネギま』の五月の台詞ですが、そうして励まされたネギはといえば、その力を大切なものたちのために使おうとしてるのですよね。誕生は災厄だったとしても、関係は祝福であっていい。結ばれることのない兄と妹のように。
2007年12月21日(金) 娘姉妹のこと(えろげ話)
 RUNEの『娘姉妹』がいきなり回収騒ぎでスタッフの餅代を勝手に心配。1枚だけ消し忘れって、どれほどチェックしてもそういうことあるんですね。
 作品そのものは、すでに「見事な変態親父。久々に好感のもてる能動的えろげ主人公」という称賛と、「実の娘に手を出すなどと、こんなのが売れるようでは若者の未来は」という非難があちこちに。ぼくの感想はその間っこ。「ダウト」の声が聞こえてきそうですが。
 や、もちろんこういう変態主人公は好きですよ。他人とは思えません。というか、前半部での変態行為はまだ手ぬるいとさえ思いました。娘の下着でこしこしするのに、なぜ裏地でこすらないのか、という2chでの指摘はまさにその通りでありまして、隔靴搔痒とはこのことか。つまり、そんなふうに希望してしまうほどに、明朗快活な変態ぶりなのです。こういう主人公はGut'sの『な・い・しょ』などで昔はお馴染みだったのですが、最近はあまり見かけませんでした。あ、『すぱっちゅ!』があったか。
 でも、妊娠はちょっと。ぼく駄目なんです。倫理的なことは最初から問題にせずとも(むしろ禁忌を破る意味あいがえろげ的に強まるとしても)、少女曲線が絵的に崩壊してしまうではないですか。ジュピターインターノベルズでもそうですが、なんか最近、この手のフォーマットが普及しつつあるような。『ら〜じPONPON』でみんな啓蒙されていたということなのか。むしろ剃(以下略)
 というわけで、若者の未来なんて別段どうでもいいのですが、あくまでも自分の好みという基準からすれば、ろりげの未来が気がかりです。これが形式的に流行して、どこもかしこもおなかおっきいエンドなんてことにならないことを祈ります。
2007年12月22日(土) たいむりみっとは近い
 「非モテ」をめぐる最近の議論というかぐちゃぐちゃを各所で再読。うーん。心が痛い。

 まあ、若い頃は、モテないことよりも、周囲から「そういう目」で見られることの方がつらかったですから、非モテの方々も周囲からの攻撃的・嘲笑的な反応さえ回避できれば、だいぶ楽になるんだと思うのですが。でもあれか、青年期で恋人がいなけりゃ笑い者だけど、壮年期で独身だと世間では異常者扱いか。そんときゃ、独身でも問題視されない労働環境に身を置くのが一番ですね。そこで既婚者に敵意を燃やしてたら目も当てられないことになりますけど。ちなみに、今のぼくは、独身者が問題視されない環境にいながら、異常者扱いされてます(最悪)。
 世界中のはじっこを集めたら、またそこにはじっこができてしまうなんて、とかいうのは永野のりこの言葉でしたっけ。

 で、ぼくの年になると、「モテるかどうかはいい。とにかく結婚するんだ」というあんよパパのお告げがあったりするわけで。どなたか、こういうのでもいいという方はおられませんか。ちなみに、正常な意味でも異常な意味でも子供好きです(却下)。
 真面目な話、本屋や美術館で足の疲れが気にならないひとがいいなあ。
2007年12月23日(日) 「非なんとか」テンプレ
 というわけで、「非兄」というのを考えてみた。

 「非兄」とは、妹から兄と看做されないこと。また、その人を指す。(「刺す」場合、刺された人は可憐のお兄ちゃんになるか、nice boat.となる。)
 もともと「兄」という言葉から生まれてはいるため、誤解されやすいが、現在の用法としては「非兄」の対義語として「兄」が配置されている訳ではないことに注意。「兄」は弟妹に共通するが、「非兄」は妹との関係のみに適用される。
 「非兄」における「兄」とは複数の妹達から複数の呼称で愛されることではなく、もっと基本的な、妹(実妹だけではなく)から求められるという意味である。妹による承認が得られないという悩みなのだ。
 その一方で、「兄としての努力を回避する」という家族規範への批判的態度およびその人のことを指す場合もある。
 後者の非兄はさらに挫折型←→非挫折型、家族内序列からの退却←→近親禁忌からの退却と大きく4つの型に分類できると思われる。

 ぼくは戸籍上は兄ですが、精神的には「非兄」です。
2007年12月24日(月) のぞみの聖夜
 昨日のプリキュア5。こまちに続いて、のぞみも別れの予感。
 雪が舞う夜空の下、輝く大きなツリー、大好きなひとと一緒に見つめる神様からの贈り物。もうすぐつかみ取るはずの真のプレゼントは希望の未来。でも、そのことを楽しく語り合っているはずなのに、目から涙がこぼれてしまう。
 そりゃ、言葉と体がずれちゃいますよね。
 ココとここだ先生がぴったりとは重ならないように、のぞみの2つの望みも重なって、だけどお互いがずれていて。そんなどうしょうもないずれを何とか埋め合わせていこうとするのが、ふたりの今までの絆のつよさ。新雪の小道に、一緒にぴょんととびこむように、並んで印してした足跡。
 それでもずれの全てをまかなうなんてことは無理な話で、のぞみもココも最後までためらいに揺れることでしょう。それを打ち消すには、役目や義務をちょっと離れて思いっきりジャンプしてみることも必要だったりするのです。だから、子供向けアニメの制約を離れてキスのひとつもしてみてはどうかとお二人さん。

 なんて画面のこっちでやっかんでいたら、放送延長が決定したそうで。最終回という制約を越えるとは、さすがに思いつきませんでした。はっぴーくりすます。
2007年12月25日(火) もちろんえろげもとどいた
 若い方々にちょっとしたプレゼント。大人を逃げるな、サンタになれ! ということで、島本和彦先生に倣ってみました。喜んでくれた人達が若干名いましたので、今度は彼らがそのぶんだけ他の人に喜びを与えてくれたなら、全体で合計すれば何倍もの喜びが世に出現するわけで。こういうネズミ講ならいいんじゃないでしょうか。

 自分自身の喜びはといえば、この時期とくにお出かけの予定もなかったわけですが、まあ喜んでもらえたのが嬉しかったということで。それと、D&Dサプリメントの『竜の書』もようやく届いたことだし読む読むの巻。
2007年12月26日(水) どらごんず
 というわけで『竜の書』。
 D&Dとはそのタイトルどおり、何よりドラゴンが欠かせないTRPGですが、赤箱時代ではAC10(未訳)という巨人と一緒のサプリメントでやや詳しく紹介されたほかは、突っ込んだ設定がなされていなかったと記憶しています。もちろんあちらの雑誌記事での展開を除く。ともかく日本語での情報発信はほんと少なかったのでした。
 今回発売された3.5版のサプリメントは、この長年募らせた欲求不満をぱぱっと解消してくれる密度の濃さ。多種多様なドラゴンの設定や生態、さらにドラゴンの骨格や内臓器官までよく分かる。「なんといっても素晴らしいのは、ブレスをはじめとする各種ドラゴンの能力を与える特殊器官ドラゴン袋」。袋(笑)。怪獣図鑑世代にも訴求力抜群です。
 ほかにもドラゴン専用の上級クラスがやばすぎるとか色々ありますが、大満足のこの1冊。しかし、ドラゴンのために7800円を手放せるようになった今だから、この本をこうして楽しめるわけで。D&Dを遊び倒していたあの頃だったら、軽い財布を懐に、本屋の棚の前で指をくわえて眺めていたことでしょう。つくづく子供向けではないお値段です。
2007年12月27日(木) ヒーロー緑色
 『おおきく振りかぶって』第9巻。イン殺さんが指摘した必須スキルとしての3要件が今回そのまま問題化してましたね。「行動制御」は、5番への敬遠策が今後も維持可能かという点で。「ステータス異常防止」は、応援団の不在と相手側からのヤジの増大として。「氷のような状況判断」は、監督の指示が「コールド勝ち」という目標に束縛される危険性として。そして、それらすべてに関わって、花井のキャプテンとして・4番としての不安定さ。次に控える強力な敵チームとの対戦前に、これらの問題をどうやって自力で乗り越えるかが、ぴったりのタイミングでの課題となっているという。
2007年12月28日(金) えろまんがのページ構成について(下品)
 えろまんがで「左ページで絶頂シーン」が増えたような気がするんですが、いかがでしょうか。

 実証的に確認できないのが残念なのですが、一頃は、「右ページで絶頂シーン」という話がそれなりにあったと感じるのです。びったんびったんすぱんすぱんなページがしばらく続いたのち、ページをめくるとそこに絶頂シーン、という構成ですね。この場合、見開きで絶頂シーンということも可能です(そういう話も少なからずありました)。その一方で、たいていの話は右ページ(偶数ページ)で終わるようになってますから、この構成では絶頂シーンの後をまともに描こうとすると、さらに2ページ(絶頂ページの左側と、その裏側)が必要になってしまいます。そこでよくあるケースでは、絶頂シーンを大きいコマでどかんと描き、その下に狭いコマでオチをつけて、なんとか絶頂シーンのページで話を結んでいました。
 つまり、右ページ絶頂では、そのシーンを見開きなどで強調して描けるというメリットがあるものの、話をまとめるのに余分のページを設けるか1コマで手早く済ませるかとなり、前者では全ページあたりのえろ分が低下しますし後者では結び方が杜撰なものになってしまいます。そして何よりの問題は、ページをめくっていきなり絶頂シーンを見るという点でそのえろ衝撃は大きいものの、連続するえろ場面で気分を盛り上げてそのままフィニッシュという具合に使用するには、そこに「ページをめくる」という不可欠の1動作で行為を切断されるため、とても使いづらいのです。(「自動読みすすめ」機能のないえろげ作品を想起させますね、最後のマウスクリックが気を散らせるという。それはそれでえろげプレイヤーの能動的暴力性を回復させるものではありますが。)

 これに対して、絶頂シーンを左ページに置く場合はどうなるか。この構成では、ページをめくって絶頂という衝撃はもちろん得られなくなります。しかし、直前の右ページからのえろ行為の連続性は見開きで保たれていますので、その繋がりを読み進めながら気分を高める方法での使用には最適です。そして、裏側の右ページを丸ごと用いて話を結ぶことができますので、ピロートークその他による緩やかなまとめを可能にしています。もっとも、叙情的な作風を好む漫画家にすれば、結びに十分な余裕が欲しいところかもしれませんから、その場合はやはり右ページで絶頂してさらに2ページ続ける方がいいのかもしれません。

 さらに言えば、最近は1つの話で複数回の絶頂シーンという構成も多々見受けられるわけでして。この場合は、右ページ絶頂による衝撃力と、左ページ絶頂による連続性とを兼ね備えることとなります。

そんなわけで、皆様もお手元のえろまんがでチェックしてみてくださいませ。
2007年12月29日(土) おたく的公共性とか
 こないだ、「ぼくの好きな作品を否定的に評価した人はほんとに災難」と書きましたが。自分の嫌いな作品が何らかの具体的な指摘によって褒められているとき、ぼくはどうするでしょうか。「ふーん」と無視するか、「その指摘は誤っている」と相手の指摘に沿って具体的に批判するか、「そういう見方もあるかなぁ」と自分の視点・印象を反省するか。
 このうち、無視するのは一番楽ですが、自分にも相手にも何ら得るところはありません。
 これに対して、具体的な批判をするのが最も「生産的」ではあるのですが、しかしそのためには、一度は嫌いと感じた作品をもう一度、あるいは何度も見返さなければならず、それだけでなかなかの抵抗感があります。そんなことに時間を費やすよりも、好きな作品を繰り返し観たいじゃないですか。そして、その手間を惜しんで返すような批判には、説得力を支える誠実さが往々にして欠けているものです。
 最後の、自分の解釈視点を再検討するという場合も、実際にその新たな視点で作品を観る機会があればよし、なければ無視した場合と結果的に同じことになりますね。

 というか、ぼくが何らかの攻撃的な反応を行おうと決心するときというのは、ぼくの主観では理不尽な称賛・非難をしているテキストなどを自分で直接読んだそのときではなく、そのようなテキストなどが馴染みあるニュースサイトで取り上げられたり、各所で肯定的・中立的に言及されていたりしているのを目にしたときかもしれません。
 つまり、ある作品について他人がぼくと異なる感想を抱くのはまことに自由であり勝手なことであり、たとえ完全に対立する意見がそこにあったとしても、それはそれとして許容できます。しかし、そのような意見が広められて一定の地歩を確立してしまうことには我慢がならない、という。
 ぼくにとっての私的言論と公的言論との境目が、たぶんこのあたりにあるのでしょう。個人の日記などで記されたテキストは、その時点ではプライベートなものであり、仲間うちでのおしゃべりにすぎません。それが「外部」によって言及・引用・紹介されたとき、ぼくはそのテキストをパブリックなものとして、つまり公に発信され世論を形成しようとする力を与えられたものとして認識するのです。個人としての他人がぼくの好きな作品を嫌うことはかまわないけど、その否定的評価が世論や既成事実となって強制力をもってしまうことに対しては断固戦わねばならない。それは、おたくによる文芸的公共性の発露なのです。
 だから、ぼくの場合、この日記に綴った感想は私的なもので、考察は公的なものですかね。
2007年12月30日(日) 朝はまだか
 こういう日にかぎって朝番ないのでした。
2007年12月31日(月) 応報
 大好きだったひとから、久しぶりに電話がありました。用件は、年賀状の宛先を教えて、と別段なんてことないものでしたが、ついでに近況を伝えあったり。お互い変化しつつも根本がそのまんまであることを確認して、電話のむこうとこっちで笑ってみたり。自分がしてあげたことも無駄ではなかったと分かる、小さな幸せ。
 こないだのクリスマスで若い方々に贈った気持ちが、予想もしなかったかたちで返ってきたという感触。神様、ありがとう。

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