日記
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2004年8月1日(日) 台風直下
 デカレンジャー。「賛成の反対の反対」なんてバカボンネタとか古すぎると面白がっていましたが、そいえば平成版などもありましたね。
 ブレイド。イケメンもいいですね(何)。
 プリキュア。女王様、その「表裏」発現はいきなりすぎます。ジャアクキング編の結びとしてはまあ相応のもので、次回に登場する悪役はかなり怖そう&強そうです。「じつは光の園も世界を一元化してしまうやばさを有していて、これを阻むためには闇の力を回復しないと」な嫌展開を半ば予想。ところでプール話はまだですか。

 シュヴェスター第2クール分を鋭意作成中。物語設定の紹介中心だった第1クールに対して、今度は皆井や新たな登場人物を中心にぶんぶん展開していく、はずです。

 馬鹿話。

美 森「『はいからさんが通る』主題歌の2番って、
    『ガッカリするほどペチャパイなのに』とか歌ってるんだよな。」
らむだ「なにーっ。それってガッカリしないよ、むしろボッキage。」
美 森「書いとけ。」
2004年8月2日(月) 目線より立ち位置
 (福)氏の日記より(『仮藻録』さん経由)、「萌えオタ」と「腐女子」について。既に各所から批判もされてますが、ぼくは自分の立ち位置のみ確認してみる。引用されている森川嘉一郎氏の論によれば、

>仮に「アニメマニア」なる人がいるとして、その人はアニメのことを、ダメ「だけど」好き、なのだとすれば、おたくはむしろ、ダメ「だから」好き、なのである。

 ということらしい。するとぼくの場合、ダメ「なとこも」好きなのだけど、これはどうなるのかな。自分自身、読む本はわりと古典的・西洋教養主義的な傾向がある一方で、漫画やアニメも楽しんでいる。そのとき、例えばアニメ作品の中に高尚な何かを見出そうとか、アニメを高みに引き上げようとか、考えるわけではない。でも、駄目さ加減だけを楽しんでいるわけでもない。その駄目さ加減や、B級加減の中に、案外「人間らしさ」が感じられるとき、ぼくはその作品を好ましく思い、古典と並べて楽しんでしまうのだと思う。鶴見の言う「限界芸術」ということでもないのだろうけど、そういう感覚。
 アニプリはまさにこの感覚を刺激してくれる作品でした。自分の依拠する人間観や教養をかなりの部分動員して解釈し、しかも作品の中に入り込んで楽しめたというのは、一つの幸福です。

 いずみのさんから、「姫」呼称と文化圏などの話。私的集団の中だから、という結論はその通りで、ただその内輪の声があまりに外側への配慮なしに響くように感じるものだから困惑する。ということは、これはマナーの問題に近く、その点ではオタクもヤンキーも大差はない。オフ会で「あんよさん」と呼ばれれば、それは一面において恥ずかし気持ちいいわけですが、しかしその名前を選んだのはまさに自分なわけであり。この「自分で選んだ」という点で、学生時代のあだ名とはちょっと違いますけれど。

 ところで「姫」といえばシスプリなわけですが。妹達の一人称は、代名詞の場合もあるし、自分の名前そのままの場合もある。以下、列挙。カッコ内は幼少期のもの。記憶で書いてるのでチェックよろしく。

可 憐:可憐
花 穂:花穂
 衛 :ボク
咲 耶:私 (さくや)
雛 子:ヒナ
鞠 絵:わたくし
白 雪:姫
鈴 凛:アタシ (リン)
千 影:私 (ちか)
春 歌:ワタクシ
四 葉:四葉
亞里亞:亞里亞

 自分の名前を用いる妹はけっこう多いのですが、成長につれて自意識が定まり、また兄との関係を客観視できるようになる(つまり現実的な問題につきあたる)と、代名詞人称になっていきます。ここでは衛と春歌が例外的ですが、衛は男女の性差の問題が如実に「ボク」という呼び方に現れており、春歌はその「ずれ」こそが個性になってます。この話題、既出だったか。
 そういうわけで、ぼくは「お兄ちゃん」と呼ばれたいです(結論)。

 追記。詩帆ちゃん『Sisprist』内)のクリエイター東雲あきさんから暑中見舞い絵をいただきました。さっそくgiftページに掲載いたしました、どうもありがとうございます。夏ですね衛ですね。アイスも衛もおいしそうですね。
2004年8月3日(火) 暑いにょ
 『碇シンヂの第参新東京市日記』さん『The vain dream』さん、考察本の紹介ありがとうございます。

 先着ー。間に合ったかしら。ダメ兄スパイラルとはぼくの人生そのものです。

 夏コミ、MAS-Rさんの四葉同人誌。さらにじいやさん本も予定とのこと、すごい。頑張ってくださいませー。
 そしてこちらでは、アニプリRPG。以前から2chアニプリ板で好評だったこの作品、ぼくもぜひ購入したいものです。

 サッカー決勝は中国vs日本。ほんとにヒールになれました。10人でよく勝てた……。
2004年8月4日(水) 読書感想文
 氷室さんからいただいた暑中見舞い絵をgiftページに転載しました。どうもありがとうございますー。

 業屋大介『デビル17』第2巻。分裂した自我の統合を自己肯定感情から、というような話。それにしても、胸の大きい人しかでてきません。

 谷川流『涼宮ハルヒの消失』。以下ネタバレ注意。

 ようやく自覚的転換期。妹の絵もついに登場です。また、昨年の第1作の感想で、「これからの二人の関係の中で、ハルヒはキョンとともに、そのような悲しみに耐える力を、少しずつ身につけていくのではないでしょうか」(2003/8/1分)、また「この情報によって二人が帰還することはよいとしても、それが同時にキョンとハルヒの結ばれをも意味するということへの、長門さんの個人的なためらいがまとわりついてもいます」(2003/8/2分)などと書きましたが、そのことが今回の作品内で実現されています。キョンが昏睡状態にある3日間、ハルヒはその力をそのままに用いようとはせずにひたすらキョンのそばにい続けたのであり、また、長門さんの想いの揺れ(「感情」という言葉では広すぎるところの)こそは、今回のもう一つの主題でもあったからです。こうして、第1作の中ですでに登場人物達のありうべき姿と関係がきちんと描かれていた、ということを確認できたことは、読者として嬉しいですね。
2004年8月5日(木) ばてた
 こないだの「姫と呼ぶ文化圏」の話について、ゆっこさんより。「擦り寄り方」としてのいやらしさ、というのは腑に落ちるところです。
 しかし、「姫」という身分上位の名称はそのまま敬称として用いることができるけど、「妹」という年齢下位の名称は呼称としては使えない。このへんが悩みどころですね(何の)。アニプリ第2話での航の「やあ、妹よ」などという試行錯誤を思い出します。

 夏コミも近づいてきましたが、ふと思い出したので、豪屋大介『A君(17)の戦争』第5巻(富士見ファンタジア文庫、2003年、p.197-8)から引用。

「僕たちはいったいなんだ? 同人グループだ! ならば僕たちの目的は? 同人誌を完成させ、商業誌では不可能な……自分に正直な作品を読みたい人たちに読んで貰うことだ。そしてそれは、ほかのなんでもない! 喜び、喜びなんだ! 僕たちは楽しく遊ぶ。楽しく遊ぶ。修羅場ですら楽しむ! そのくだらなさを知りつつ楽しむ! なぜか? それは自分がまともな人間だと思いこんでいる連中には決して味わえないもの、自分がバカだと知っていて、そしてそのことを恥ずかしいとおもっている人間にだけ理解できる至高で究極の暇つぶしだからだ! だから、だから」
「僕たちが自分自身であるためには、絶対に完成させなければならないんだ!」

 他にも、「たとえ妄想でも張れるだけの見栄は張れ」(p.193)とか、「パースの狂った鉛筆ラフのカットや便所の落書きみたいないたずら書きメッセージのし、総ページ16ページ、でもなぜか値段は1500円という魂だけはいかなる巨匠も及ばないほど高貴な人々がでっちあげがちな本」(p.187)とか、素晴らしい言葉が満載です。
2004年8月6日(金) 判定基準
 「さそう」を変換して、
 「誘う」と出たらお兄様。
 「刺そう」と出たらお兄ちゃん。

 ぼくはもちろん後者でした。
2004年8月7日(土) あるふぇっとう
 サッカーアジア杯、ほんとに勝ってしまいました。悪役ここにきわまれり。

 グイン・サーガ第96巻。リンダだけは、なんというか、「萌え」でなく「燃え」の対象な女性です。ぐらちーは、萌え。

 あと、『金色のガッシュ』や『ベルセルク』の最新刊など。
2004年8月8日(日) はちはち
 ねろ画伯サイト開設さる。トップ絵で叫びました(笑)。イシャはどこだ。それは江口寿史のパロディ版です。

 と、ここまで3日間日記を溜めてたのは、作業に没頭していたからでもあり。いや、漫画や小説読んでるじゃないか、というツッコミは回避。
2004年8月9日(月) やっと半分
 というわけで、『精霊姫神シュヴェスター』第2クール(第14話から第26話)分を追加しました。今回、あの失われしキャラが登場です。内容などにつきましては、ご意見ご批判お願いします。また、今回もサブタイトルは全て元ネタありです。

 それから、26さんとALINEさんからいただいた暑中見舞い絵をgiftに掲載いたしました。どうもありがとうございますー。

 『四薔薇会』の本多由亨さんから、考察同人誌の委託販売をお引き受けくださるとのメールをいただきましたっ。本当にありがとうございます(平伏)。宣伝ページにもさっそく記しました、R-53bです。
 この『四薔薇会』発行のアニプリ眞深本は、キャラコレ・ポケスト準拠の装丁で、内容も非常に素晴らしいものです。2年前の購入以来、既刊3冊は全て揃えてますが、今回の新刊も楽しみ楽しみ。
2004年8月10日(火) 週末まだー
 よつばねぎさん、シュヴェスター更新紹介ありがとうございます。新メカはもちろん、あんなキャラやこんなキャラも登場して、さながらシスプリ黒歴史みたいになりつつあります。そして今回もサブタイトル一覧を迷彩にて。
(以下迷彩)

第14話:太陽の牙ダグラム
第15話:魔神英雄伝ワタル2
第16話:はいからさんが通る
第17話:ハーイ!ステップジュン
第18話:天空戦記シュラト
第19話:マーマレードボーイ
第20話:装甲騎兵ボトムズ
第21話:魔法のシスターマジカルヒナ
第22話:機甲戦記ドラグナー
第23話:赤ずきんチャチャ
第24話:戦闘メカザブングル
第25話:鉄人タイガーセブン、あとこっそりと「燃えよドラゴンズ」
第26話:恐竜冒険記ジュラトリッパー
(以上)
 残り2クール分、ちゃんと埋まるかしら。あと、妹達の力(技)の名称には、妖精の名前などが用いられています。
 ところで、玲香や昇といったオリジナルキャラの出番が多めなのは、この第2クールでは展開上やむを得ないことでした。この手の二次創作の場合、作者のオリキャラが原作キャラよりも目立ちすぎて失敗することが多いらしいので、そのへん注意しつつ進めます。
 また、第2クールでは、妹達を2人ずつペアにして幾つかの話のメインとしました。出番はなるべく浩平に。浩平無茶苦茶だよー。ふかーっ。
 で、次の第3クールでも、同様にペアを組ませて話を回していく所存。予定では、可憐−白雪、花穂−衛、咲耶−千影、雛子−亞里亞、鞠絵−春歌、鈴凛−四葉。眞深はあちこちにからみます。「まもかほ」「さくちか」「よつりん」といったメジャーなペアを一度書いておこうかと。第4クールでは、4人くらいまとめてポケスト仕様でいきますか。
 皮算用の前に、どんどん伸びていく文章をなんとかせねばいけないかも。映像が頭の中に浮かぶので、それをそのまま書きたくなるんですよね。

 考察本カバー絵師のあまのさんから、表紙絵制作ドキュメント。さすがの描写(笑)。いや、IRCでの会話などほとんどそのままですし、その他の箇所もまず実話をもとに記されてますが、どうしてこう面白い話になるかなあ。あと、「レイヤー150枚」に泡を吹きました。

 まあ、あまのさんのご厚意と油断(笑)とにまんまとつけこんだのがそもそもの始まりでしたが、描くと決めたら手を抜かない頑固さや、その作品を貪欲に理解する、つまり自分の中に落とし込む姿勢と視線など、いい意味での職人気質を持っておられる方ですし、その腕前はぼくもよく知ってますので、そのへんへの心配は最初からなかったのです。むしろ気がかりだったのは、そういう気質の人だからこそ、ちゃんと作品鑑賞する余裕のない状態でお願いするのは失礼にあたる、ということ。
 ところが、そこから意地を張るのがまた、この人らしいのでしょう。手元にあるこのときのログを今読み返すと、考察者としてのぼくの意地と、絵師としてのあまのさんの意地、またお互い共通な作品鑑賞者としての意地や競争心などが暗黙のうちにせめぎあっていて、とても面白いです。要約すると、「無理でしょ」「いや描ける」「でも、ぼくの考察本の表紙ですよ?」「全然問題ない」みたいな。ただまあ、これはぼくの方の勝手な印象かもしれません。でも、少なくともぼくは、あまのさんの作品把握能力(というか、センス)を尊敬しつつも、にわか鑑賞者どころかちゃんと鑑賞する前に描くという至難の業は、さすがに難しかろう、と踏んでいたわけです。

 なのに、あの絵が出てきてもう参った。
 なんと言いますか、「分かられちゃった」という感じ。もちろん、この絵のためにぼくの考察を読んでいただいたわけだから、考察が果たした役割を云々することはできます。でも、これは、そういうものでは割り切れない悔しさまじりなのですよ。やられた。でも負けたくない。そんな感じで発憤もしたり。しかし、この「場」を表現することはぼくのような考察文章のみの人間にはかなり難しいわけでそのへんがさらに悔しい。きー。

 でも、このドキュメントの途中(「6.着色そして」)に並んだ制作過程の3枚を見て。
 ああ、あまのさんもそうなのか、と、何となく納得しました。
 この3枚は、完成までの様子を読者にただ示しているものではありません。そこには、ひとつの作品を、物語や世界を一歩ずつ完成させていく喜びが、うかがえるのです。ひとつの小物を描き、それを全体に重ねていく作業の繰り返し。なかなか埋まらない空隙を、丹念に塗り替えていく足取り。150枚のレイヤーを、実際に操作するときの「手触り」。
 そう、それは、ぼくが各話から台詞を抜き出していく作業や、それらをもとに考察を一編ずつ著していくときの、汗にまみれた喜びと同じものなのです。だから、あまのさんはこの絵を通して、アニプリをつかんだその手応えをかたちにされたのみならず、ぼくが考察してきたその道のりまでも、可憐の周囲に凝縮されたのです。だから、この絵は、ぼくの「アニメ版シスター・プリンセス考察」の内容と過程を全てひっくるめた象徴なのです。
 こうして執筆者の歩みまでもが、絵師によって把握され共有されたとき、あのアニプリオフ会で喫茶「マウンテン」に行ったことも、新たな意味を帯びてきます。つまりぼく達は、アニプリという「山」への長き歩みをともにしていたのですから。

 ちなみに、裏表紙の黄色い帽子の少女絵の背景に何もないのは、ぼくの仕事の象徴です。せっかくなので、ぜひこちらの歩みもともに。
2004年8月11日(水) 外まわりでしおしお
 のあらさん、シュヴェスターの紹介ありがとうございます。

 昨日のあまのさんの制作ドキュメントについて、よつばねぎさんのコメント(8/10分)に思わず笑いました。

 『四薔薇会』の本多由亨さんから、考察本ページへのリンクいただく。ありがとうございます。

 Zoroさんから残暑見舞い絵をいただきました、どもですー。giftページに転載させていただきました。
2004年8月12日(木) 沈黙のなかに
 『BlueManager』さん、シュヴェスターの紹介ありがとうございます。『超神機 G-Sister』も楽しみにしております。

 サンフェイスさんから再び考察本のご紹介いただく。どもですー。

 委託先の『MFRI』猿元さん(15日(日)東T01-b)では、こちらの通り、猿元さんの「萌える占星術(仮)」(シスプリ妹分析にもサイト上で応用されてます)と「あやしい統計学」 、そして「資料室の珈琲」(SS:利休さん・文月さん 表紙絵:天野さん、くらなど有紀寧本)もぜひお求めくださいませ。

 2ちゃんねるのアニプリ板で、リピュアBパート鞠絵の歌について意見が交わされてます。この歌は、本来は春歌の主題歌として岡崎律子氏が作られたものを、監督が「ぜひ鞠絵に」ということで移したという経緯があるそうです。あの旋律があの映像と見事に一体化していることをぼくも手放しで認めますし、何よりあの歌は大好きです。でも、最初に聴いたときに「あれ?『あなたを守りたい』って?」と首を傾げたことも、やはり忘れられません。これが春歌の主題歌なら、まさになるほどなわけです。その一方で、「恋をして〜」のくだりは、これはもう鞠絵そのものといってもいい。でも、これもまた、あのキャラコレ第6巻第2話の内容と重ねると、「はかなくなって」の箇所と齟齬をきたしているとも言える(リピュア考察8参照)。いくらかのねじれを、ぼくはそれらに感じざるをえません。
 だから、駄目だとか。そういうことではなくて。ぼくは、いま享受している作品を愛していますし、そのことは皆さんもお分かりになってくださると信じています。でも、それでもなおそのうえで。
 岡崎律子氏が、では鞠絵のためにどんな歌を用意してくれたのだろう。その歌を、ぼくはどんな思いで聴いただろう。
 そう考えると、この変更の結果新たに生まれた春歌の実際の主題歌を楽しみながら、ありえたはずのその歌に、つい耳を澄ませたくもなるのです。
2004年8月13日(金) 夏がきました
 とうとう夏コミがやってまいりました。初日から出撃の方々、お気をつけていってらっさいませ。

 というわけで、ぼくはそろそろ帰省。次の更新はコミケ後になります。
2004年8月14日(土) 備えあれば
 ここから、25日以降に書いてます。いや、もうコミケ&帰省に続いて出張で、へろへろです。

 この日は実家。客が来ていたけれど、翌日の戦いに備えて早めに寝る。ごめんなさい、親戚よりも妹達の方が大事なんです。
2004年8月15日(日) この幸せを未来に
 そしてコミケ3日目。
 朝早く家を出て、美森氏と合流。会場に直接搬入される50部とは別に、手持ちで10部運ぶ。これだけでも相当重い(B5で3600ページ)わけですが、搬入分でさえ売り余っちゃうことも十分考えられるのでなおさらずっしり。売る側としては初めての参加(というか委託先で売り子)で、かなり緊張する。本多由亨さんのとこに20部運んで挨拶、さらに『豆満江開発機構』さんのブースにも置かせていただけることに。ありがたく机上に積ませてもらい、準備完了。なお、肝心の『MFRI』さんブースでは、考察本がさばけないことへの不安からいっぱい並べすぎて怒られる。あうー。

 10時からコミケ開場。どどどどど。
 考察本をお求めの方が、すぐに来られて驚く。その後もお客様がわりととぎれず、『豆満江開発機構』さんにお渡しした分も回収し(お手数おかけしました)たものの、それも含めて1時間ちょっとで完売。本多さんのとこもその前に売り切れてた模様。一部のファンサイトの方々には本をお渡しにうかがいもしたのですが、それにしてもあっという間。呆気にとられました。
 まず、正直に申し上げて、アニプリファンを舐めてたのだと思います。ごめんなさい。こんな値の張る(それでも出血してますが)同人誌、しかも既に公開済みの内容とくれば、買いたいと思う人はそんなにいないだろう、と。でも、そうではなかった。ぼくにとって記念碑であるこの本を、読んで楽しんで下さる方々がこんなにいた。とても嬉しく、そして反省を迫られる事実です。思えば、ぼくの考察は、公開するたびにリンクやご意見をいただいたり、アクセスして読んでいただけたりすることによって、アニプリを考察することへの自信と勇気をもらってようやく完結に至ることができました。ぼくを支えてきてくれたその力を、この日、ぼくは実際に相対した方々から、再びはっきりと与えてもらえました。それは、きっと、これからもぼくを支えて、次の考察などへと歩ませてくれるはずです。

 ご購入下さいました皆様、本当にありがとうございます。ご笑覧の後、アニプリを、そしてシスプリを、さらに愛していただければ、と心から願います。
 売り切れ後に来られた薫さんならびに皆様方、足をお運びいただきありがとうございます、そしてたいへん申し訳ありませんでした。会場でお伝えしました通り、若干残部がございますので、今週末の27日(金)に、郵送頒布につきまして広告ページにお知らせを出す予定です。なお、重版については、ただいま絵師のあまのさんと検討中ですが、できるだけ多くの方々に読んでほしいという気持ちは揺るぎません。
 コミケに参加されたファンサイト管理人の皆様、お世話になりました。あんな重い本を押しつけられてお困りだったかもしれませんが、なにぶんハイになってたものですみません。また、お渡しすべき方にそうできなかったりもして、これも失礼いたしました。
 それにしても、『EIGI』さんのとこで拝見した鈴凛ちゃんと、『逃げ羊』さんのとこで拝見した可憐ちゃんは、絶品でした。まさにあの一帯は、「約束の島」でした。
 コミケに参加されなかったファンの皆様、シスプリはまだまだ大丈夫です。これからも共に兄姉として頑張っていきましょう。
 委託を快くお引き受けくださった本多さん、『豆満江開発機構』さん、そして猿元さんと美森氏には、ご厚意にあらためて深く感謝いたします。やはり多くの人目に触れてこその成果だと思います。
 そして、考察そのものにも本当に多くの方々のお力添えがあるのだけれど。今回の本につきましては、利休さんとあまのさんには最後にもう一度お礼を申し上げたいと思います。それと、この方々を含む『萌え文集』のみんなにも。そこに居場所があるから、ぼくはやってこれたのです。
2004年8月16日(月) 考察本訂正表
 ところで、コミケ当日は考察本に訂正表を入れておりましたが、コピー数を間違えていたため、ご購入いただいた分の一部には、これが挟まれていません。お詫びと共に、その訂正内容を以下に転載いたします。


 このたびは、『アニメ版シスター・プリンセス考察大全』をご購入いただきありがとうございます。
 本書印刷後に判明しました主な校正漏れにつきまして、下記の通り訂正させていただきます。たいへん申し訳ありませんが、ご確認くださいますようお願い申し上げます。

p.132 <食事席順表>
 「素麺」を「そうめん」にしたら、1行開いてしまいました。ごめんなさい。

p.334 註*1
 『キャラクターズDVD』は、『キャラクターズDVD BOX』の誤りです。

p.351 作品関連参照文献・サイト等 1.作品関連引用・参照文献等
 以下の項目が記載漏れです。

 ソフトウェア:
  『シスター・プリンセス 〜デスクトップアクセサリー〜』マーベラスエンターテ
     イメント(2001年)
  『シスター・プリンセス デスクトップアクセサリー2 マテリアルコレクション』
     M3エンターテイメント(2002年)
  『シスター・プリンセス 〜Re Pure〜 デスクトップアクセサリー』マーベラス
     エンターテイメント(2003年)

p.352-3 作品関連参照文献・サイト等 2.引用・参照サイト
 次のサイトを追加させていただきます。
 猿元氏『MFRI web site』(http://www.puni.net/~aniki/)
    シスプリ妹達の占星術による性格分析など。

p.357 奥付
 「表紙・挿絵」とありますが、本書に挿絵はありません。この誤記につきましては、天野拓美さんにも謹んでお詫び申し上げます。

 以上です、失礼いたしました。他にもお気づきの点がございましたら、お手数ながらご連絡いただければ幸いです。くるぶしあんよ
2004年8月17日(火) おふかい
 コミケ後にはオフ会。
 午後3時前には、『萌え文集』のみんなが三々五々集まりだしたので、売り物もほぼなくなったことだし早めに撤収。この方々の取り置き分まで考察本を売りさばいてしまったわけですが、サンフェイスさんにだけ特別に愛を込めて捧げるという差別主義者ぶりを発揮。いや、あの紹介いただいた文章読んでうれし泣きしたわけですので。
 片付けの最中、文月さんに手伝ってもらい、畳んだダンボールを抱えて捨てに行く。でもゴミ出し場所を知らない罠。前方に同じくダンボール抱えた男性をチェキした文月さんの発案で、尾行大作戦発動。さすがは日本有数のガンタンク使い、目の付け所がリュウホセイです。でもその男性も場所が分からず彷徨っていた模様でやむなく転進。つか、ぼくが先頭に立った時点で既に砂の十字架でした。でもあのリモコンガンタンク、ほんとに素晴らしい出来。それを操縦しながら滔々と説明する文月さんの姿は、いかにも「脚なんて飾りです」と言いそうで。
 駅への移動時にもついつい先頭に出る癖がでてしまい、名古屋オフに引き続いて秋月さんに襟首をつかまれて戻される。とても三十路の社会人とは思えない子供扱われぶりです。駅では便所に入るときと出るときにそれぞれ迷いかける。車中では行き先が分からずに困る。つか、行きと帰りの交通手段が違っていたことに今気づきました。
 新宿らしき場所でお肉を食べる。そこで「杏(あんず)サワー」をみんなで「きょうさわー」(くらなどキャラの杏ネタ)と喜んでいるとき、店員に飲物の注文を訊かれて思わずそのまま「きょうさわー」とやってしまう。あうー。

美森「お前ならやると思ったから、黙って任せてた。」

 あんまりすぎる、したり顔。期待を裏切らないぼくもたいしたものか。
 
 ところで、このオフ会レポは各所で既に掲載されてるのですが。
 秋月さん、「よだれ」はぼくの発案じゃありませんっ。
 サンフェイスさん、便座カバーを渡したのはぼくじゃありませんっ。
 いえ、「小四ロリ」の話とかは本当ですが。つか、上記の2点以外は全く自分のしたことなので、頭を抱えるしかないのですが(笑)。だから「やりかねない」わけだけど、ええと、あれ?やっぱりぼくがしたのかしら?3歩歩くと忘れます。ともかく、たくさん馬鹿な話をしゃべったことだけは覚えています。ってそれ普段のまま。
あと、サンフェイスさんの便座カバー芸は拝見したかった。たぶんダンボール片付け中の出来事だと思われるので。

 というわけで、いいオフ会でした。次も楽しみです。オフ会に来られなかった方々とも会場でお会いできて何よりだったたし、祭を満喫したこの夏でした。
2004年8月18日(水) びぶりお
 さて、考察本絵師のあまのさんも、最近すっかり下着絵師と化しているわけですが。美凪の次はみちるきぼんぬ。あと、鰻がご馳走だとかいう話を読むと、昔書かれていた『すくらっぷ・ブック』などの漫画の趣味とあわせて、とても他人とは思えません。

 それはそれとして、考察本があれだけ好評を博した大きな理由の一つは、やはりあの表紙絵です。ぼくが考察というテキストに込めたシスプリャー魂に、絵師として真っ向勝負を挑んでいただいた結果が素晴らしい表紙なのだとすれば、これぞ兄の本懐。
 で、このあまのさんの手になる表裏背表紙に包まれた360ページの本というのは、ひとつの迫力です。手前味噌もいいとこだけど、本好きの人間としても素直にそう思う。CDなどの便利な媒体に本というあり方が圧されてきているのは分かるし、自分でも実感するところ。でも、やはり、この紙をたばねて文字を並べたというだけでなく、「装丁」した本というものの手応え・見応えというものは、未だしばらくはそれなりの魅力であり続けるのではないでしょうか。
2004年8月19日(木) もう1年前かあ
 いずみのさんのとこでのやりとりと関連各所を読んで色々考えるけど、遅参の傍観者がいまの時点で言うべきことはとくになく。各所で叩かれている伊藤剛氏だけど、彼が公開してきているアニメ批評がどんなものなのか興味はわきました、というだけ。
 ただ、コメント欄で薫さんがぼくの名前を出しておられるので、その部分に関してのみ反応してみます。当該箇所を以下引用。

「というようなことは昔涼宮ハルヒの騒動の時に書いたわけですが、あの時のkagamiさんに対するバッシングと今回の状況はかなり違います。あの時もkagamiさんのヴァルネラブルな文体が問題にされたわけですが、文体の問題を指摘する事だけに汲々とするサイトばかりで、俺が煽り立ててあんよさんが応えてくださるまで誰もkagamiさんの言っている内容に踏み込もうとはしなかった。」

 これは、昨年の夏に日記に書いたハルヒ感想のことを指されているのだと思います。これは、薫さんが「煽り立てて」と表現されているこちらでの「虚無性への言及がない」という批判をうけて、ならば実際に読んで書かねばと反省した結果、かたちを結んだものです。その後、kagami氏とは不幸な断絶を迎えるに至ったわけですが(ぼくの日記にヴァルネラビリティを発見された氏が、非常にヴァルネラブルな絶交メールをぼく宛てに送られたということか)、面白い作品に出会えるきっかけをいただけたことは間違いなく、そのことには感謝しています。
 ところで、そのさいのぼくの行動なのですが。氏の反論・補足に対するこちらからの再批判として、ぼくは7/14から8/3にわたり、延々とハルヒ考察を書き連ねております。これがまた長い。どれくらい長いかというと、平均的なアニプリ考察よりもまだ長い。文章の内容への批判と文体への批判を切り分ける、という場合、ぼくのこの文章の長さは、「無駄に長すぎる」「言葉の量の暴力」とたしなめられることはありますが、そのおかげで内容への批判を回避できてしまっているようにも思えます。長いからあまり読まれないので、ツッコミも受けにくい、と。脆弱性を冗長性でカバーしていると言えればいい塩梅ですが、冗長性というよりは、あれだ、消耗戦ではないかしら。
 でもね、もし誰かに「結論を簡単に述べよ」と言われても。ぼくが作品(アニメにせよ小説にせよ)について語るとき、それはいつでも表現の一つひとつを不器用に辿りながら全体を再構成していく方法しかとれないし、その過程を抜きにして結論を述べても、ぼくの解釈は全く意味をなさないんですよね。
2004年8月20日(金) 弱点
 言葉の量という暴力を体系的に整えると? そう、それは考察本という秩序になるのでした。

 ところで、考察への批判をいただくときに。その論理的整合性や切り口への批判であれば、それはただ悔しいだけです。十分きついですけど、それでもその批判をうけて当該箇所を修正できる。でも、おそらく最もダメージが大きいのは、ぼくの考察の雰囲気を形成している叙情的な文章を、叩かれることです。「悪趣味」とか「表現が下手」とか。そして、その部分は直そうにも直せない。自分の感性とその硬直加減に劣等感をもってますから、すさまじくしんどいのです。
2004年8月21日(土) いろいろ
 『1976腐女子』さんの、『パタリロ!』との出会いというのが。ぼくと。ほとんど同じで。当時ぼくは中2あたりかと思いますが、やはり家族旅行中に電車の中で読むためにと駅の売店で親が買ってくれたのがこの第18巻でした。それはもう大問題な内容なのに同性愛そのものが今一つ理解できないというわけで、いまでもそのときの困惑と衝撃を覚えています。その後、古本屋で全巻買いそろえたりもしましたが、あの作品は落語的センスが快く。だけど『おらが丸』の美少女趣味(娘愛)の方はすんなり納得してました。既に駄目。

 『■ちぇき。■』さんより、「追加人名用漢字最終案」に「憐」の字が残ったとの情報。ばんざーいばんざーい。

 馬鹿話。

らむだ「もともとないやる気ー
    それが全てなくなるときー
    俺は生まれ変わるー
    ……何に?」
美 森「知るか!」
らむだ「あうー。」
美 森「もう少し考えてからしゃべれ。」

 無理です。
2004年8月22日(日) とれとれぴちぴち
 帰省・出張中の出来事から抜粋。もはや日付はむちゃくちゃです。

 甥っ子姪っ子と一緒に海に行く。人見知りもだいぶ緩和されたみたいで一安心。
 で、その海岸近辺の温泉に浸かったのち、脱衣場で体を拭いていたそのとき。父親らしきおっさんとともに、小学3年生くらいの女児がいきなり登場。あれよあれよという間にすぽんぽーんとまっぱだか。慌てて目をそらしたものの、ふと視界のすみに映ったのは、腰まで届く黒髪と、その下のおしり。
 おしり。
 一夏の思い出(最悪)。

 ちなみに、浜辺ではスクール水着がとれ放題でした。
2004年8月23日(月) 戻り
 長らくの出張から帰宅後、録画していたアニメを見る。ティオたん萌え。プリキュア、なぎさとほのかの体の線がすさまじくいろっぽい。そして戦災おばあちゃんに転ぶ。山本と米内でマーブルスクリューですよ。プリキュアの美しき魂で二重包囲ですよ。それはともかく、敗戦記念日にこういう話をもってくるとは参りました。まさに無条件降伏。その次の話は、浴衣。
2004年8月24日(火) 谷あり谷あり
 考察本まわりで威張った話がここんとこの日記で多いのは、「笑えるうちに笑っておけ」というあれです。「いつか笑えなくなるときがくるから」。

 そして、通販で届いたえろまんがのうち半分以上がハズレでいきなり笑えない有様に。
2004年8月25日(水) おしごと
 この日もまた出張だたーよ。今月ほとんど落ち着けませんでした。車中で読むヴァールブルグ『異教的ルネサンス』が染み込むしみこむ。
 出先では、新らしく試みたことがそこそこ成功したので、よしとする。
2004年8月26日(木) 徒労
 前日やや希望のもてた案件が、じきに根っこから消滅すると判明する。あうー。谷あり谷あり。
2004年8月27日(金) 考察本通販
 考察本、通販希望受付開始しました。詳細は同人誌宣伝ページの下方にて熟知すべし。
 いやもう、コミケにてせっかくご来訪いただいたのに売り切れだった方々、申し訳ありませんでした。もしよろしければ、ご利用下さい。もちろんそれ以外の方々も。ただ、残り部数に限りがありますので、そのへんはご了承下さい。なお、重版などについては、ただいま非常に前向きに検討中です。

 不在時分の日記がまだ埋まっていない状況ですが、もはや猶予ならんので本日分を更新。
2004年8月28日(土) 突発オフ
 利休さんとミニオフ。というか、利休さんのご友人とたまたま現状での仕事内容が近かったので、ご挨拶がてらお出かけ。ぼくは利休さんとは3年ほどのおつきあいをいただいてますが、それ以上の昔から利休さんを知っているご友人の言葉からは、後輩をからかいながら心配する親愛の情が伝わってきて、思わず微笑んでしまいました。

 で、そこで話題となったのがオタクについて。以下、ご友人の意見とぼくの反応を列挙してみます。

1.オタクはなぜ自分達を「一般人」と区別したがるのか。誰だって「一般人」とは違う性質をもっているのに、オタクはとくに「一般人」を自分達の上に置きながら優越感を抱いているかに見える。この屈折が嫌だ。

 その通りなんだけど、実生活上、「一般人」から拒絶されることがあまりにも多いので。性的マイノリティであることを職場などで公言しても、現在では何とかなりそうだけど、(萌え作品やえろげの)オタクであることを告白すると、たいていは白眼視されるという経験。

2.なら、自分達がオタクであることをもっと堂々と認知してもらえるような戦い方をすればいいのでは。

 実際にそういう戦いを進めている方々もいる。でも、例えばオタクとイコールではないがそれと重なる少女愛好者の場合、どうやって戦えばいいのでしょうか。例えばぼくが「少女愛を認めて!」とアピールしたとして、あなたはまともに聞いてくれますか。

3.まあ、それって犯罪だからね。

 でしょ? これを論理的・倫理的に正当化できる戦術があるなら教えて下さい。
 そもそも、「一般人」はよくオタクに「思ったことを正直に話してごらん」とか言ってくれるんですが、本当に「思ったこと」を「正直に」伝えたとき、いきなり「信じられない」という顔で遠ざかっていってしまわれるものです。そうなると、どこまでなら「正直に」伝えても安全かをいつも気にしなければなりませんから、どうしても一番安全なあたりで線を引くことになるのです。

4.でも、少女愛好者とオタクとはやはりイコールではないから。

 はい。でも、そういう部分を切り捨てていくと、何も残らない気もします。

5.なんでオタクはもっと外の世界に目を向けないのかねえ。

 では、ぼくもあなたから色々教わりますので、あなたもぼくから、ろりえろまんがについて学んでいただけませんか。さしあたり50冊ほど伝授しますので。

6.うーん、1、2冊なら……。女装趣味なら、以前かなりものにしたんだけれど。あと、コスプレイヤーの目つきが嫌だ。

 そう感じるコスプレイヤーも確かにいます。

7.だいたい同人誌とか二次創作とかって、そんだけのエネルギーや創作能力があるなら、なんで素直にオリジナルなものを作らないわけ? その態度が分からない。

 まず、いちいち全部考えなくていいので楽だから。
 次に、ここでの同人誌とは、その作品を共有するファンの間で本来的に流通すべきものなのだとすれば、それ以外のこと(一般社会での評価や普遍的価値の取り込みなど)は不必要。

7.でもそれってずるいし、志が低い。「好きなだけだから」って逃げるのは、自分を枠の中にしまいこんで高めないようにしてるだけ。

 そういう場合もある。
 しかし、次のような場合もある。
 ある作品への愛をもって、その作品をもとにした二次創作を行うとき。その登場人物のコスプレをし、そのありうべき情景を表現することで、その作品への敬愛をかたちにするとき。その想いを皆に共有してもらうために、自分なりの全力を尽くすとき。
 あるいはまた、そのような作品が、自分にとって本当にかけがえのない、人生の一部にほかならないような場合。その作品についてひたすら語り、描き、様々に表現し、その結果として、自分という人間そのものを込めた新たなもう一つの創作物を生み出してしまうような場合。
 ぼくの考察本は、アニメ版シスプリというかけがえのない作品をぼくがどう受け止め、どう自分の一部にしたかを体系的に示したものであり、その結果、それは一つの物語となっている。でも、それは元の作品を完全に無視したものではなくて、ぼくという人間をくぐって再構成されたもの。
 こんなふうに、ある感動を与えてくれた作品を自分のものにしようと努力するうちに、元の作品と無縁ではないが大きく異なった独自の作品が生み出されるということは、創作一般において見られることだと思うし、そこにはオリジナルな作品と二次創作の差はない。

8.それについては同意。だけど、なおさら「だったら最初から何か作れよ」と言いたい。

 ぼくはファンであって創作者ではないので。

9.でも、シスプリって結局、12人も妹がいて、しかも全員が兄を別の呼び方するってのがキモなんでしょ?

 企画としてはそうですが、ぼくにとってはそうではありません。詳細は考察本をお読み下さい。

10.でも、そんな作品、やっぱりおかしい。

 おかしいなんてことは最初から分かっている。でも、その(一般的には)おかしい作品のおかげで、救われている人もいる。ぼくもその一人。それは社会に背を向けるとか逃避とかではなく、シスプリのおかげで、ぼくは現実に向き合うきっかけを得られた。だから、いかに「おかしい」作品でも、「駄目な」「あり得ない」「不出来な」作品でも、それによって救われるファンや、何か大切なものを得るファンがいるのであれば、ぼくはその萌え作品や駄目作品を決して否定しない。

 そんな感じでいろいろ議論。オタクの世界にかなり理解のある方であり、いわゆるはじっこにいる人々に(操作的ではなく)内面的な興味を抱ける方でしたので、こちらも相当、言いたい放題言えました。概略、あちらは「ものを創る」立場の意見、こちらは「ものを鑑賞する」側の意見なのかな。オリジナリティは、ものを創る場面にももちろん存在するわけですけど、その作品にこちらが見いだすというかたちでのオリジナリティもあり得ると思うのです。それもまた、かけがえのなさ。
2004年8月29日(日) その続き
 前日分に記したようなお話をしたほか、利休さんとご友人と滋賀県立美術館に行ったり。コピーをテーマにしていたのですが、赤瀬川原平のあの千円札を拝見できて感激しました。順路最初のデュシャン作品をみていて、「ああ、こういう流れが赤瀬川あたりの作品にいくのかな」と思っていたら、まさにど真ん中ですよ。つか、そういえば入館チケットのど真ん中にもその千円札が描いてありましたよ。どこを見ていたのか自分。
 現代日本美術家の作品もいくつか別のとこで拝見。作品からこみ上げてくる力に圧倒されつつも、「これってスタジオぬえだよなあ」「この土偶ミンスクは『ヤマタイカ』か」と、明らかにその芸術作品に先行する漫画やアニメ設定が頭をよぎる。べつにオタク世界の方が芸術よりも立ち勝っているとか言う気はないけど、どうなんだろう。

 ご友人が彫塑に関して「いかに重力に逆らうかが重要だそうだ」と述べられたとき、ぼくの脳裏に浮かんだのは、シラーのカリアス書簡での同様の言及と、観鈴ちん。大地を離れたその姿は、自由な精神のかたちか、それとも空への呪縛か。彼女を救わんとするのもまた、重力を脱して自らを失う、そら一羽。

 利休さんに連れられてパチスロ初体験。8k費やして26k戻る。最後の1kがたまたま当たったという絵に描いたようなビギナーズラック、このままだとやばいので夕飯などで全部使い切りました。

 わんわんなテーマパークでは、犬も可愛かったけど、それよりもちっちゃいこが特盛りでした。どちらを撫で放題しようか素で悩む。

 帰路途中で、スターバックスのドライブスルーなるものを発見。天下一品の直後でも飲み物がぐんぐん入る不思議。駅では台風のことを考えて早めに別れる。ゆっくりできずにすみませんでした。しかし、自分では絶対に行けない場所や、どうにも回りきれない各所に連れて行っていただけて、お話とあわせてとても楽しかったです。お二人にはどうもお世話になりました。

 利休さんよりもパワフルな人を拝見できたのも、貴重な体験でした。
2004年8月30日(月) 考察本通販受付終了
 申し込み人数が現存部数を超過しましたので、考察本通販受付を終了させていただきます。お申し込みくださった方には、説明メールをさしあげますのでご確認くださいませ。
2004年8月31日(火) 萌えアニメとか
 こちらのコメント欄からリンクされてたので、つい反応してみる。

 まあ、「あざとい」作品とか「やっつけ」作品などというのはあるもので。これが、いわゆる萌えアニメの場合と、それ以外の創作分野の場合とで、どれほど比率の差があるものかは知りません。スタージョンの法則を思い出したりもするし。
 で、ぼくが最もよく知る萌えアニメとはアニメ版シスプリですし、リンク先でも考察ページが言及されてますから、ここでもその話になります。さしあたりアニプリを取り上げたとき、ご指摘の5点についてぼくはどのように言い得るでしょうか。

1.「主張がない」

 ぼくはアニプリを、兄妹の絆に焦点をあてた人間形成(しかも共同的な)物語として読み解きました。その解釈は、妹達の成長も浮き彫りにするという点で確かにぼく独自のものでありました。しかし、これがたんなる恣意的なものでないことは、考察読者からいただいた感想からも確認できましたし、また作品そのものを見ても、例えば第3話や第4話から延々と語られ続けていると分かります。
 「最後に適当な主張をもってくる」作品というのは萌えアニメに限らずどこにでも転がってますが、アニプリに限ってはそうではない、というのがぼくの理解です。

2.「話が同じようなものばかり」(=物語に独創性がない)

 上記の解釈視点から、ぼくはアニプリを、一種の教養小説(ビルドゥングスロマン)のように扱いました。この人間形成のドラマという点では、アニプリは他の教養小説と「同じ」ですが、このことは作品の普遍的性質を示しこそすれ、欠点にはなりません(教養小説が現代において通用するかという批判もありますが、「教育的」という言葉を踏まえれば、通用しなくてはならないものだ、と応じられるでしょう。)
 そして、その普遍的性質を、兄妹という独自の人間関係のなかで表現してしまったところが、この空前絶後の作品がもつ独創性です。「兄として」「妹として」形成される人間性などというものは、個々の人物としてなら確かに先行作品にも登場していましたが、これを作品総体の主題にしてしまったのはアニプリをもって嚆矢とします。

3.「意図的に不純な感情を抱かせる内容とキャラ」

 第1話の可憐の態度にこれを感じたこともありますが、ぼくはその後の物語を通じて、その「あざとさ」が変化する過程を、つまり可憐が成長することでそのような振る舞いが消えていく過程を、見て取りました。また、「不純な感情」にしろ悪意などの負の感情にしろ、そういったものをもはらむ個人としてキャラをとらえることで、それらを含んだうえで総体的に成長するという人間の姿を、考察で示したつもりです。意図的に純粋すぎるキャラもまた、人間を一面的にのみ描くという過ちを犯すことにほかならないからです。

4.「作品が使い捨て」

 ぼくは「使い捨て」ずに、いまなおこの作品を愛しています。作品終了してしばらくたった今もなお、ぼくの考察を読んで新たにこの作品に目覚めてくれる方がいます。

5.「商業目的が前面に押し出されている」

 商業主義と一見して無縁なふりを装う他の文芸的分野よりも、そのことをあからさまに突きつける萌えアニメ業界の方が、こちらとしては誠実な印象を抱けます。そして、その制約の中で、これだけの素晴らしい作品を与えてくれたスタッフには感謝しています。
 その一方、ぼくはグッズというものをほとんど購入しません。よいファンではないのでしょうが、ぼくは作品から得たものだけで満足できてしまうタチなのです。

 さて、「教育的」という言葉について、最後にあらためて取り上げます。
 ぼくは、萌えアニメに「教育的」性質は不可欠のものではない、と考えます。それが目的で作られているわけではないからです。人は駄目になりたいときがある。自分のしょうもない感情にごろごろまみれたいときがある。それを充足させてくれるのが萌えアニメなのだとしたら、その目的を満たしてくれさえすればいいのです。(このへん、単純化して書いてます。)
 ただし、その第一の目的を満たしながらも、同時に「教育的」な何かも与えてくれる作品があります。ぼくの場合、それはアニプリでした。しかし一般には、そのような評価はほとんど見られませんでした。だから、ぼくは考察を通じて、アニプリのそんなよさを「も」、みんなに分かってもらおうと努力しました。アニプリは萌えるし、それに加えて、けっこう素晴らしい作品なんだよ、ということを、ぼくは少なからぬ読者に伝えられたと思っています。そして、その中で、ぼくはアニプリに潜んでいた新たな「萌え」を掘り起こしさえしたと自負しています。

 もちろん、世の中の萌えアニメがそんな作品ばかりだとは信じません。つか、ぼくはほとんどその手の作品を観ないので、判断のしようもないのですけれども。それでも、テレビドラマや現代小説などのいい加減さをこの目で認めるにつけ、それらを見ている人達にもっといい作品を楽しむ時間をもってもらいたいな、と思うことはあります。ですが、「そんなん見るな」とは言えない。「しっかりと現実を見れば」とミラージュさんのように諭すつもりもない(萌えアニメだって、それ自体もそれを楽しむ自分も現実の一部だからです)。だから、ぼくは、ぼくが見出した価値ある作品を、全力でみんなに紹介するのです。ほら、ここにこんな素敵な作品があるよ、と。
 まあ、萌えアニメばかり見てると頭が悪くなるぞ、と言いたくなることもありますけどね。音楽や文学やスポーツや哲学ばかりでも馬鹿になるのと同様に。そして、いろんなことを知っている方が、萌えアニメにせよ他の何にせよ、楽しみ方を広げられるとも思います。アーレントやルソーやゲーテを読んだ経験がアニプリ考察に活かせましたし、逆にアニプリを観た経験が、古典を読むときに役立ったりもするのです。
 でも、そんなふうに自分のあらゆる教養を振り絞って考察を書き上げたぼくこそは、おそらく一番馬鹿な部類の人間なのでした。

 そうそう、美森氏のとこで見せてもらったアニメ版『D.C.』は、なかなかよかったです。

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