日記
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2004年2月1日(日) ぷりきゅあとか
 しゅんたんはぱんつにしみなんかつけません! とフォローしておく(逆効果)。

 ハヤカワFTベスト投票『仮藻録』さんから)。自分の場合だと、『妖女サイベルの呼び声』、『夢の10セント銀貨』、『ぺガーナの神々』、『最後のユニコーン』、『ガラスびんの中のお話』、魔法の国ザンスシリーズ、ハロルド・シェイ、『北風のうしろの国』、『妖魔の騎士』、『死の王』。フィニィやタニス・リーの他作品、あとジェイン・ヨーレンの作品も入れたかったところですが。ザンス以外は90年前後(つか大学で聴講中)にまとめ読みして、それっきりファンタジー小説をほとんど開拓していないことに今更ながら気づきます。

 今朝の『ふたりはプリキュア』。きわめてオーソドックスな、そして懐かしく気持ちのいい第1話でした。
 主人公の女の子2人の個性描写。なぎさの後輩ウケする活発さと、ほのかな恋心。自室に戻ってバッグやラブレターを放り投げる一方、ラクロスのラケット(でいいのか)だけは粗末に扱わない(たけかけるさい、椅子にぶつかって弾んだりしていない)。ほのかは今回メインではなかったものの、今後どういう隠された想いを示すかが見もの。
 家族の姿。なぎさの古典的母親と弟。若干はどれみ的展開の予感。ほのかはEDで家族が祖母だけしか登場しない。両親とも家にいないことが多いらしく、そのへんがどう影響してくるか。
 仲間の姿。なぎさもほのかも部活の仲間がたくさんいる。男子もEDで登場するので、この年齢に特有の関係が描かれていくはず。ほのかは両親の不在にもかかわらず、これだけ仲間がいるので完全に孤独ということにはならないが。
 メップルの登場。流星群の中から、自室へ飛び込む輝き。マジカルエミや『二人のハートブレイクライブ』(爆)を連想。
 敵の邪悪な目つき。もういきなりヤバイ奴だと分かる。ザケンナーはクレヨン王国の死神やライジンオーの邪悪獣っぽさ満載。負けると「ゴメンナー」と言いながら逃げていくという小ネタ。今回のジェットコースター野郎はほとんど『ゲノム』のパクマン。いやらしい。
 戦闘場面。各人の性格と不慣れな感じがよく出ていて、動きも軽い。
 これらの要素は、当然どの作品でも描かれてしかるべきものばかりだけど、その「当たり前」のことがちゃんとできていて、しかもそれらが丁寧に噛み合っているというのが何より素晴らしい。けっこう手放しで喜んでます。それはOPとEDを聴いたときの懐かしさにも影響されていて、あのOPは例えば『三つ目がとおる』などを思い出させるし、EDは(自分的には)80年前後の歌謡曲を彷彿とさせます。そういう、昔の作品のよさをただパクるというのではなく、また自意識過剰にそれらの逆をいこうとするのでもなく、子供番組として子供から離れずに、しかも手を抜かずに作っているという姿勢には、素直に嬉しさを覚えます。
 ちなみに変身シーンではセラムンとかコレクターユイとかを思い出しますが、ユイと大きく異なる点は、変身前の胸の大きさと変身後の胸のそれとが全く変わっていないことです。ユイの場合はいきなり肥大化しましたが、このプリキュアにおいて人類は大いなる進歩を成し遂げたのであります。何といいますか、彼女の胸は小さいが、人類にとって偉大な貧乳だ。とか。あんよすとろんぐ船長。
 それはともかく、『マジカルヒナ』でやりたかったのも、こういう要素をうまくこなした作品の創作なんですよ。
2004年2月2日(月) さいんはに
 おめでとうございますー。そうか、もう2年たつんだ。

 『Sisprism』さんのネオシスター簡易データベース、ついに自動更新機能を搭載っ。すごい。うちの
HREF="http://www.puni.net/~anyo/sisdata.html">シスプリメ関連ページ
も、現状の内容だとそろそろ役に立たなくなってきたので、キャラコレデータ中心に書き換えますか。

 そのシスプリメはサイトリニューアル。新企画に向けて加速中。
2004年2月3日(火) 股間にどなるどだっく
 IRCにて「内山亜紀に不必要に詳しい」との評価を得たので、調子に乗って語る「内山亜紀とぼく」。乗るべき調子を完全に間違えてます。

 内山亜紀はえろ漫画におけるB級の極北であり、堂々と褒める者がほとんどいないにも関わらず、「彼にパクられて一人前のえろ漫画家」という言い方もあるように指標的な存在として独特の位置を占め続けており、一定年齢以上の読者にとっては多くが知っている、あるいは「一度はくぐった」ものとして見下しながら若干の愛着を抱くという、脱童貞用売春婦のごときえろ漫画家である。いまの若い人(こんな表現を使うようになってしまった)には、内山亜紀なんて知らないと言う人も少なくないのだろうが、とりわけ30代前半の一部の者にとっては、この漫画家から受けた決定的な影響を確認できるかもしれない。もちろんここで述べているのは、80年代初頭に週刊少年チャンピオンに連載された『あんどろトリオ』のことである。この週刊漫画誌は現在もえろ漫画家を登用しているが、当時は千之ナイフや出井州仁などのえろ漫画家が次々に執筆陣に加わり、小山田いくやとり・みきといった新進漫画家達やベテラン勢と並んで、訳の分からない混沌たる誌面を構成していた。その先駆けとなったのが、内山亜紀のこの作品なのである。
 こんな話をすれば、吾妻ひでおはどうしたのか、という声が必ず投げ返されるだろう。実際ぼくも『ふたりと5人』には相当はまったくちであり、『がきデカ』などの卑猥さとは異なる「曲線への欲情」を、そこで培った。(手塚治が後に『プライムローズ』を連載し始めたとき、ぼくは彼がこの曲線の太祖と知らずに欲情を「再発見」した。)吾妻の連載が終わってしばらくして、ぼくは『あんどろトリオ』と出会った。そのとき、ぼくは小学校卒業を迎える頃だったはずだ。ろり衝動びっぐばん。いや待ってほしい、12歳の男子が同じような年齢の少女に欲情することは果たして「ろり」なのか。だが、もし少女の曲線を鼻息荒く賛美することが「ろり」であるならば、ぼくは小学生にして確かにその条件を満たしていた。そしてこのとき、ぼくは手塚や吾妻の柔らかな、しかし単純な曲線とは異なる、劇画的かつ繊細な曲線を、内山の作品に見出したのである。いうなればその曲線には、「におい」があった。
 さて、この連載当時、内山亜紀は最初の劇画的タッチ(『〜妖精』シリーズに見られる)から、よりアニメ的なタッチに(他人をパクリながら)移行しつつあった。えろ漫画界でもレモンピープルなどの雑誌が登場しようとしており、やまぐちみゆきの4コマろり漫画もおそらくこの時期に始まると思われる。そのような状況の中で、『あんどろトリオ』のヒロインであるつかさちゃんの姿は、当初の劇画タッチを残すそれから、次第に等身の下がった、線のシンプルなものへと変化していった。それは、主要登場人物の中で狂言廻し担当だった「センパイ」のギャグ漫画的造形に、ヒロイン達も引きずられていく過程だった。この「センパイ」は、同じくサングラスをかけた『ふたりと5人』の「先輩」から、精力絶倫さと達観した精神を除外した存在であり、ここに男性らしさや少女への届かなさに関する何らかの推移が見てとれるのかもしれない。それはともかくも、ここでの属性化・脱臭化に対して、ぼくは最初の興奮をもはや感じることができなくなり、連載後半ではほとんど読まない場合もあるほどだった。この結果、ぼくは『OH!透明人間』あたりに慰めを求めるようにすらなってしまうのだが、だからといって自分の中に根を下ろした「ろり」への志向が、そのまま消え失せるわけでもなかった。いわば雌伏の時期を迎えたのだ。その間にアニメ絵への理解を深めていってしまえたのも、つまりこの飢餓感を背景としている。
 その冬に終わりを告げてくれたのは、やはり内山亜紀だった、と言えたら格好がつくのだが、残念ながらその前にくりぃむレモンやプチトマトや中森愛が挟まってしまう。それでも決定的な再会の相手として、内山の『恋する妖精』を掲げることにためらいはない。思えば、高校からの帰宅時に学生服で購入していたのだから、古き良き時代だったというべきか。ここでぼくは、懐かしい劇画タッチのろり漫画を再び獲得し、そしてそこにアニメ絵への連続的発展の経路を看取し、吾妻らとは違う曲線への欲情のかたちを期待して内山の単行本を追い、そしてもちろん、無様に敗北した。きょぬーに打ち倒されたりもした。
 それでも、ぼくはなぜか彼の作品を追い続けてしまったのだ。熱意をもってというより、本屋に並んだ新刊を見ると、何となく諦めきれずに手にしてしまう。エースファイブ、トマトコミック文庫、シュベール等々。表紙とタイトルだけ変更した旧作に引っかかったり、古本屋で昔の単行本を安く購入できたり。森山塔に傾倒してからもなお、そんな振る舞いが続いたのは、あの曲線の未来を夢見てのことだったのだろう。
 そう、そんな訳の分からない希望を持たせるほどに、内山がぼくに与えた衝撃は強かったのだ。ぼくが内山作品と出会ったのは、正確に言えば、『あんどろトリオ』連載開始によってでは、ない。週刊少年チャンピオンでこの連載が始まる少し前に、おそらく読者の反応をみるためだったのだろう、『あんどろトリオ』と同じ登場人物による読み切りが掲載されたのである(やがてこの作品の第1話として単行本に収録されたか)。アルバイトでアンドロイドのふりをした少女が下着(おむつ)を下ろすに至る場面を、ぼくは今でも鮮明に思い出せる。ところが、これさえもぼくにとっては内山とのファーストコンタクトではないのだ。その本当の出会いは、読み切り掲載の前の週に、チャンピオンの予告ページに入れられた、内山による少女カットだったのだ。3人の少女がしどけない半裸姿を並べるその絵を見て、ぼくは、次の金曜日が来るのを本当に心待ちにした。そして翌週の読み切りを読んで、3人が登場していないことにかなしみを抱いたとき、ぼくは新たな世界への扉をとっくにくぐってしまっていたのである。

 気がつけば、ずいぶん長々と書きつづってきたようだ。こんな文章を書くことに意味があるとは自分でも思えないし、読む人にとっての意味などさらに見いだせない。だからこそ、ここまで読んでくれた人には感謝の気持ちを抱くべきなのだろう。あるいは人によっては、男子小学生がそのような暗黒に踏み入ってしまえることに、恐怖を抱いたかもしれない。もしそうだとすれば、ぼくはその方々の前で、新たなる恐ろしい事実をここでつけ加えねばならないことを遺憾に思う。確かにぼくは小学生にして、今に至る「ろり」好きの基礎を獲得した。だが問題はそれだけではないのだ。じつは内山亜紀に出会うより半年も早く、ぼくは、今の自分を支配しているもう一つの衝動を既に己の内に見出していた。その衝動の名を、20年後の今日、人は「妹萌え」と呼んでいる。
2004年2月4日(水) 一日遅れ
 「胸ポロリ」という見出しの「胸」より「ロリ」に注意を向けてしまう朝。

 昨日の内山亜紀話に、リンクいただいてしまった…(笑)。こうなれば先日のハヤカワFTベストのように、「内山亜紀作品ベスト10」とか募ってみようかしら(リストアップ不可能)。

 そんなことしている間に世の中は節分(楓ちゃん発見できました)だったりにーそ鞠絵だったりと、歩み続けています。

 「株式会社 ウェディングが悪徳商法?マニアックスを訴えるのか?」ということで、以前もお伝えした問題のその後。こちらでは「今は"株式会社 ウェディング"で検索すると、礼賛するサイトばっかり引っかかります。html一枚だけで、ボタンは全部利かないところが怪しさ爆発です。」とのこと。こちらにはより詳しい説明が。スラッシュドットジャパンでも記事に。
 で、当事者である『悪徳商法?マニアックス』。googleから消されたり、プロバイダ経由であれこれされたりと、なおも大変なご様子です。

 ペヤングソース焼きそば。ふやかすの禁止に賛成。ぼくは物心ついてこのかた、カップ焼きそばといえばペヤングであり、あれが絶対尺度でBigだと考えているのであり、子どもの頃はあのCMまんまの下敷きをなぜか持っていたのでした。大学時代は下宿の本棚を「ペヤング探し」可能な状態にしてました。
2004年2月5日(木) 歌う!大妹宮城
 「妹をアニソンに喩えると会議」に対抗して、つまり最近の歌を知らない人間のあがきとして、古めの歌を中心に揃えてみる。

美 森「まず咲耶は『あんなに一緒だったのに』(機動戦士ガンダムSEED:See Saw)」
らむだ「いきなり最近じゃないかっ。雰囲気いいけど。」
美 森「まあ気にするな。他には?」
らむだ「『Push!』(赤い光弾ジリオン:結城梨沙)。I don't stop on my way.」
美 森「あー。じゃ、『風の行方』(太陽の牙ダグラム:麻田マモル)なんかどう?」
らむだ「『乙女のポリシー』(美少女戦士セーラームーンR:石田よう子)とかも。
   うーん、そっちの基準はリピュアBパートの、こっちはアニプリの咲耶なのかな。」

美 森「じゃ花穂。」
らむだ「『fight』(魔神英雄伝ワタル2:高橋由美子)。
    または『コンディショングリーン』(機動警察パトレイバー:笠原弘子)。」
美 森「『It's my style』(陸上防衛隊まおちゃん:堀江由衣)は?」
らむだ「よく知らないんだそれ。
    『思い出の鏡』(風の中の少女 金髪のジェニー:堀江美都子)もいいぞ。
    だいすきだった真っ赤な靴。Bパートっぽく。
    もう着られないドレス。花穂太っちゃった。」
美 森「お(笑)」

らむだ「次、衛。『未来派LOVERS』(機動警察パトレイバー:笠原弘子)とか、どう?」
美 森「それは鈴凛向きでは。作品もさっき出たし。」
らむだ「んじゃ、『魔法の砂時計』(魔法の天使クリィミーマミ:太田貴子)」
美 森「あー、Bパート。『Tsubasa』(バトルアスリーテス大運動会:朝倉ゆかり)はどうだ。」
らむだ「お、作品も似合ってる。それだ。」
美 森「あるいは『青春ダッシュ!』(ダッシュ勝平:kiki)」
らむだ「えー(笑)。いや、確かに『ボクの』ハートとか言ってるけどさ。」

美 森「白雪。」
らむだ「『きこえるかしら』(赤毛のアン:大和田りつ子)だろ。王子様が迎えに来るの。」
美 森「え、『お料理行進曲』(キテレツ大百科:YUKA)じゃないの?」
らむだ「まんまだ(笑)!いやまあ、クッキングパパとかよりはいいけど。」
美 森「『ミント・夢飛行』(魔法のエンジェルスイートミント:笠原弘子)あたりも。」
らむだ「そばかすが消えるように、レモンパックでぃすの。」

美 森「じゃ、鈴凛。『未来派Lovers』?」
らむだ「作品被りを避けて、『夢冒険』(アニメ三銃士:酒井法子)は。」
美 森「愛情するよりこんなとき、兄妹愛ですか。
    同じNHKなら、『YES, I WILL…』(ふしぎの海のナディア:森川美穂)も。」
らむだ「鈴凛の特技で考えれば、機械関係…。
    『ハートフル・ホットライン』(ビデオ戦士レザリオン:かおりくみこ)かな。」
美 森「誰も知らんぞそんな歌。」
らむだ「あ、だったら『おじいさんへのおてがみ』(みかん絵日記:TARAKO)だっ。」
美 森「うわ、ジジに捧げる歌か。」

らむだ「鞠絵もそんなノリでいけそう。
    『ははうえさま』(一休さん:藤田淑子)を『あにうえさま』と変えて歌うと(涙)」
美 森「うわーっ。あにうえさまー、おげんきですかー…。」
らむだ「替え歌は反則だけど。」
美 森「なら、『思われている』(花の魔法使いマリーベル:中嶋美智代)は。」
らむだ「見えない力を感じてー…(涙)」
美 森「そして『5分だけのわがまま』(蒼き流星SPTレイズナー:富沢聖子)」
らむだ「5分だけ!たった5分だけの(涕泣)!」

美 森「まあ落ち着け。ほら雛子だぞ。」
らむだ「わーい。…でも意外と難しいのかしら。」
美 森「勢いで『ン・パカマーチ』(夢のクレヨン王国:徳光由香)」
らむだ「ああー。じゃ、『ぼくはカリメロ』(カリメロ(1974):山崎リナ)」
美 森「ピヨピヨピヨか(笑)。『走れ正直者』(ちびまる子ちゃん:西城秀樹)は?」
らむだ「うーん、『にんげんっていいな』(まんが日本昔話:中島義実、ヤング・フレッシュ)」
美 森「古いところが並んだものだ(笑)」

らむだ「お返しに亞里亞。『幸せのバビラトラリラ』メーテルリンクの青い鳥:福原みどり)」
美 森「酷え(笑)。」
らむだ「真面目にいけば『見えるだろうバイストン・ウェル』(聖戦士ダンバイン:MIO)とか、
    『緑の陽だまり』(山ねずみロッキーチャック:ミッチーとチャタラーズ)は。」
美 森「ロッキー…古すぎないか、それ。」
らむだ「ならば…あ、『詠人』(おじゃる丸:北島三郎)があった。」
美 森「ぐはっ、まったりまったりか(笑)」
らむだ「あの2人、気が合うかも。」

美 森「千影の場合はどうだ。」
らむだ「『ホロレ・チュチュ・パレロ』(魔動王グランゾード:徳垣とも子)」
美 森「そうきたか(笑)。でもまともにいけば、
    『コスモスドリーム〜宇宙をかける夢〜』(新竹取物語1000年女王:森梨雅樹)や、
    『イリュージョンをさがして』(機甲戦記ドラグナー:鮎川麻弥)じゃないか?」
らむだ「いや、あえて『Catch You Catch Me』(カードキャプターさくら:グミ)でひとつ。」
美 森「ぐは(笑)。でも思いこみの強さでいけば、
    『絶対運命黙示録』(少女革命ウテナ:上谷麻紀、東京混声合唱団、杉並児童合唱団)や
    『未來のイヴ』(AVENGER:ALI PROJECT)あたりでどうよ。」
らむだ「前者はファーさまを思い出してしまう…。」

美 森「あと3人か。四葉。」
らむだ「『輝く瞳』(巨神ゴーグ:TAKU)。過去と未来の扉を開くんだ。」
美 森「『空からこぼれたストーリー』(名探偵ホームズ:ダ・カーポ)あたりは。」
らむだ「正統派だなあ。ではちょっと狙い気味で。
   『さがしに行かないか』(超合体魔術ロボ ギンガイザー:ささきいさお、東京荒川少年少女合唱隊)」
美 森「またマイナーな。だったら四葉の性格からして、
    『わりきれなくて』(科学冒険隊タンサー5:ビリー山口、ミノタウロス)だろう(笑)」
らむだ「むわ、そこまで困った奴だったのか(笑)」

美 森「ラス前。春歌。」
らむだ「以前、『哀・戦士』(機動戦士ガンダムII:井上大輔)を挙げました。
    『はいからさんが通る』(はいからさんが通る:関田昇介)もいいです。」
美 森「それ、ひねりがなさすぎ。
    『ヤマトナデシコですの』(魔法少女猫たると:山本麻里安)は。」
らむだ「そうくるか(笑)。歌詞はともかく歌調は、まほろさんなんかいいんだけど。」
美 森「なら『そ・れ・い・ゆ』(まほろまてぃっく〜もっと美しいもの:川澄綾子)がいいかな。」
らむだ「こんなとこか。」
美 森「でも性格は『もうれつ先生』(もうれつ先生:相模武、上高田少年合唱団)じゃないか?」
らむだ「なにー(笑)そんな歌普通知らんし(笑)」

美 森「さあ最後だ。お兄ちゃん、可憐ですよ。」
らむだ「これは決定打がある。『やんちゃなエンジェル』(炎のアルペンローゼ:コニー)だ。
    夢見ごこちで、ロケットの中は誰にもないしょ。やんちゃかどうかが怪しいが。」
美 森「そんな歌があったのか。でも、可憐のイメージとしては
    『夢見る愛天使』(愛天使ウェディングピーチ:FURIL)も相当いいぞ。」
らむだ「あー、夢もフリルもいっぱい。花嫁気分か、なるほど。」
美 森「でも、やはり可憐ならあれだろう。」
らむだ「?」
美 森「『亜美のGuilty Night』(くりぃむレモン:亜美)に決まっておろう。」
らむだ「ぐふうっ(吐血)」

合 唱「おーにいちゃーんー、もーいーちどー。」

美 森「原作原理主義者には『アニメじゃない』(機動戦士ガンダムZZ:新井正人)」
らむだ「む(笑)。なら山田は『男は一人道を行く』(怪傑ズバット:水木一郎)あたりで。」
美 森「かっこつけてるだけか。『ネコはいいたい』(オヨネコぶーにゃん:武内宏)も、どだ。」
らむだ「燦緒は『美しさは罪』(パタリロ!:竹田えり)」
美 森「皆井は『めざせ!一番!!』(NG騎士ラムネ&40:草尾毅、ラムネス応援団)」
らむだ「航は…。」
美 森「『スターダスト・ボーイズ』(宇宙船サジタリウス:影山ヒロノブ、こおろぎ'73)か
    『TOUGH BOY』(北斗の拳:TOM CAT)」
らむだ「ああ、なるほど(笑)」
美 森「んで、妹達全員として、『来て来てあたしンち』(あたしンち:平山綾)」
らむだ「うは、『お兄ちゃんの日』かー!」

 オチがつきました。
 …あれ、眞深は?
2004年2月6日(金) 砂漠のあさひ作戦
 朝日新聞「声」欄の挿絵が小銃とヘルメットの墓標。どうせなら、朝日新聞の社旗を半旗にすればいいのにね。

 リンクページを少しずつ修正・拡張中。でも整理がつきかねております。シスプリメ関係者をまとめた方がいいのかな。
 右列の中段は、萌え批評というのか、いわゆるテキスト系というのか、ともかくそういう雰囲気。自分が直接意見を交わしていない場合は、自分が共感できるかどうかでリンクを貼らせていただいてます。このリストからぼくにレッテルを付けることもできるのかしら。
 基本的に、原典の参照と解釈に基づかない議論のやりとりにはあまり興味がありません。あと、フランスの現代思想は苦手。フランス語まったく読めないし。野嵜さんの闇黒日記(平成十六年二月二日分)に「アランの教育論なんて今時、讀む奴ゐないんだらうな。」とあるのを読んで、古典的教養というものに思いをはせるのは、だから一方で現代思想(の原典)へのこの距離感ゆえでもありますが、それでもやはり、誠実に読むという努力を自分なりに続けていきたいからでもあります。もちろん、それが本当に誠実かとか、ここでの誠実さとは何かとか、その努力を仕事で発揮しろとか、まあ色々あるのですけど(欺瞞まみれ)。
 ところで平成十五年十二月二十日分日記に、こんな文章が。

>まあ、「お兄ちゃん」だの何だのと言つてゐる人間にろくな奴がゐない事は、これまでの經驗上、分り切つた話なのだが。ここはわらふところ。

 …(鏡を見て)まあ、そうかな(笑)。いやもちろん、レッテルということじゃなくて(「ここはわらふところ」であり、特定個人の同様の叙述に対する皮肉なのだから)。
2004年2月7日(土) メイドさんほしい
 先日、部屋を片付けました。
 こうIRCに書き込んだだけで、それがトピックにされてしまうというあたりに、ぼくの今までの行いが如実に現れているわけですが。あうー。もちろん自発的に掃除しようと思うなんてことはありえず、電話工事のためにジャック近辺の空間を空けねばならなかった、というかその前に人間が入れるようにしなければならなかったのです。
 そして工事前日までほとんど手つかずのまま、当日早朝からバタバタ(予定通り)。大量のゴミ、大量の段ボール箱、大量のホコリを掃き出して、いらないものを捨てたらこんなにもお部屋の中が無限に広がったよ。床が見える部屋ってすごく落ち着かないよ。なんで衣装箱の中からネギが見つかるかな。などとやっているうちに工事の時間に片付けが終わらず、時間を繰り延べてもらう(予定通り&迷惑)。ようやく全てが済んだとき、ぼくはどの段ボール箱に何をしまい込んだのかすっかり分からなくなっておりました。そして今、地道に箱を開けて中身を広げ、部屋を元通りに戻しつつあるのでした。
 それにしても暖房が効きにくくなったことよ。部屋の空気量がものすごく増えましたし、窓からの冷気が流れやすくなりましたし。喉にはずいぶんよくなりましたけど、寒いのは苦手。あと、玄関からの見通しがいいのがとても不安。散らかってないと落ち着かないという話は、大昔に『天才バカボン』の漫画家ネタにありましたね。編集者が作業部屋を片付けてしまったら、漫画がつまらなくなったという。
 ついでにお風呂も2年ぶりに洗う。でもトイレは2年越しのままにしておく(するな)。そのうえ電球も切れていて真っ暗な便所は、これまた子供の頃を思い出す不気味さなのでした。
2004年2月8日(日) GBA版感想とか
 こないだ亞里亞とおじゃる丸の相性について触れましたが、『Sisprism』さん(2/8分)にてその2人の絵が。うわー、ありがとうございますー。

 部屋を片付けてなぜかやる気が起きたのか、ゲームボーイアドバンスド版リピュアの感想を書き上げたので、掲載します。忘れ去られかけた頃に文章を出すというのは、いつも通りというか、ミネルヴァのふくろうというか(全然違います)。
2004年2月9日(月) ぬうう
 オマル!(『金色の雅臭』)

 昨日のプリキュア第2話。おもちゃ売りつつ、敵側と味方側の設定説明。
 これで幼稚園では、女の子が2人でプリキュアごっこをするわけですよ。手を繋いで。ぎゅっと手を繋いで。作品内でのヒロイン達の振る舞いに百合っぽさを看取するのも結構ですが、この作品を観て真似をする現実の子供達に目を向けてこそ、本物ではないでしょうか。本物って。いやだから、悪役を演じる先生さんが「ザケンナー!」と叫んで幼稚園児を脅かしたり、「ゴメンナーゴメンナー」と逃げて笑わせたり、っていうほのぼのした情景を想像しているわけですよ。名前のひねりとか設定の妙味とかはぼく達オトナが勝手に要求しているものにすぎないのであり、お話そのものが素直に楽しくて、子供が真似したくなるキャラばかりだったら、それでいいと思います。脳内補完は、あくまでもその次のことで。

 ところで、プリキュアごっこをしている時に、悪役がやりすぎてプリキュア役の女の子が泣き出してしまうという状況では、なぎさ役の子が泣く方がいいのか、それともほのか役の方がいいのか(最低)。

 80年代の再帰説。その真偽はさておき、例えばアニプリ(2001年放映)も同様に80年代初頭の再帰だとすると…。ああっそうか、ぼくが感じていた懐かしさは。名作劇場のそれ(+山本正之)だったのかっ。ちなみにブレイドはZガンダムの再帰。叫べば通じるとでも思っているかのような会話が。
 あと、クラス委員長選挙でなぎさ票が少なかったのは、「生徒に人気のある者」よりも、「先生ウケする者」の方を、中学生なら選ぶからだと思います。

 読みが長い漢字といえばおにいちゃんだいすきですかね。

 晴ボン。な、懐かしすぎる…。当時この絵のタイトルは暗記しました。(以上2件、『カトゆー家断絶』さんより。)

 入江さんのとこから、日記判定

>あんよ さんは 詩人日記 を書くと多くの人を魅了します。

>あなたは自分の感性で言葉を紡ぎ,共有できる人が少なくなっても自分にとって大切なものとなるように,情緒を高めてより効果的にした日記を書くと成功するかも知れません。

>あんよ さんが書く日記の性質
>人間度 25 精神度 66 思考度 20 変態っぽさ 25 やましさ 50

 意外と変態じゃなかった!(嬉)いや待て、あくまで変態「っぽさ」であって、真に変態かどうかは別問題なのかしら。つか人間度が低いです。
2004年2月10日(火) 対話
 いずみのさんから。「まず子供番組ありき、であって、その子供番組を素直に享受しつつ色んな角度で楽しんでしまうというのがオタクの本道だったのではないか」という言葉に共感します。あと、その「色んな角度」の中に、もしその作品を観ている子供が「えー、なんで?」と腑に落ちないわだかまりや悲しみを抱いたとき、これをほぐしたり期待を持たせたりできるような見方の角度を、いつも1つぐらいは用意しておきたいものです。
 「『面白さを探す』苦労や楽しさ」。あんまり多くのアニメ作品を観ていると、そのための時間さえとれないのかも。ぼくとしては1年に1、2作品がその苦労に見あえばいいかな。『コメットさん』は間違いなく名作でしたが、同時期にもっと派手な『どれみ』があったということと、妄想する隙があまりなかったということが影響しているかも。登場人物達が毅然としていたし、初代コメットさんや二代目コメットさんの声が作品に快い落ち着きを与えていたし。あと、全国放送じゃなかったし。
 80年代といえば、ではもうじき新たな装いの内山亜紀が(来ません)。

 プリュアのエンディング。ほのかの両親が帰国したら、あのほのかと祖母の間に2人が収まるのかなあ。

 闇黒日記(平成十六年二月十日)を読んで、ふとブーバーを引っ張り出す。

「個的存在はいかなる現実にも関与せず、いかなる現実をも獲得しない。個的存在は他者にたいして自己限定を行い、経験と利用とによって、できるかぎり他者を所有しようとする。<それ>から自己分離を行い、<それ>を自己のものにしようとし、しかも、この二つが非現実的なものの中で行われること、これが個的存在の働き(ディナミック)である。ひとりで勝手に主観であると思いこんでいるような主観は、どんなに多くのものを自己の所有としようが、そこからはけっして<実体>は生まれてこない。それはあくまでも瞬間的機能的な経験と利用であり、それ以上のものではない。個的存在がいかに自己を広がりをもつ多様な特殊存在にしようと、またいかに熱心に<個別性>を主張しようとも、これが実体となる助けとはなり得ない。」(『我と汝・対話』植田重雄訳、岩波文庫、1979年、p.82-3)

 「動物化」とか思い出す。ただし、日本にはこの「個的存在」を可能にする<われ>は生まれなかったということなのですが。
 などと書き写していて急に不安になったのですが、いまどきブーバーとかアランとか持ち出すと、もしかして笑われちゃうのかしら。アランが危機感を抱いた時代の空気もまさにそんな感じだったみたいだけど。
2004年2月11日(水) ひねくれて
 『ブラックキャット』表紙絵変遷。確かに大きく様変わりなのですが、これを「ラノベ」としての変遷として捉えるのは、えーと、同時期の『星へ行く船』の表紙は竹宮恵子さんだったはずですのでちょっと。『ブラックキャット』第1巻発売時は、この表紙が他作品に比べてむしろ渋く感じられた記憶があります。それはそれとして、まさか今になって続編が出るとは思ってなかった新井素子ファンの自分。

 渋川修一氏の朝日新聞「声」欄挿絵批判、それを受けての東浩紀氏の「社会から降りる自由」論、それに対する唐沢俊一氏の徴兵制実現不可能論&現代思想屋批判『カトゆー家断絶』さんより)。まあ、東氏みたいな30過ぎの肉体労働に適さない人間を徴兵する段階になったら、たいていのいまどきの国家はとっくに経済的に破綻してます。

 派遣された自衛隊員が既に様々な主義主張のための道具としてしか語られえず、無事帰国してもそれらの議論の材料としてのみ扱われるとすれば。それは、従軍中にはもちろん、帰国してなお本国の人々(家族を含む)から自己の心中をまるで理解してもらえずレッテルによってしか受け入れてもらえないという、ベトナム戦争どころか第二次世界大戦でも兵士の多くが経験した疎外感を、ぼく達は彼らに対して与えることになります。だから、派遣行為そのもののの是非もさることながら、今の時点でぼく達は、戦争が促進する悪(人間のモノ化)を、既に自分の手で実現しつつあるわけです。
 従来の意味での徴兵制が今日不可能であることについては唐沢氏の意見に全く賛成なのですが、ただ、米国でも他の国でも、貧しい若者が大学に進学するために軍隊に入って奨学金を得たり、軍隊勤務を単位に振り替えてもらったり、といった制度が現在あるはずです。イラクでもそういう若者が死んでます。強制的な徴兵でなくとも、経済的な理由などから「自分の意志で」兵役に服するということも十分あり得るわけなので、その可能性には注意しておくべきだと思います。

 ただまあ、東氏の「社会から降りる自由」というのは一方でフィヒテあたりを思い出すわけで、しかしその場合はフィヒテによれば、その個人が自然状態に戻る、つまり共同体による庇護を受けられなくなることを意味します。全て自己責任で生きろ、と。強制権とその装置が存在しない場所で、自分の命も自分で守れということです。
 もちろん東氏はそこまでの極論なり決意なりを示しているわけではなく、あくまで日本を離れる、つまり徴兵制のない他国という別の共同体に移住することを述べているにすぎません。で、それはそれで個人の自由として尊重すべきなわけですけど、この場合東氏の論は、例えば先に例示した経済的境遇から自発的に兵役につく人間に対しては、何の助けにもなりません。国外に逃げられる、「否」と言える、そういう人間はいいかもしれませんが、そう言えない、そう行動できない人間が、この世の中にはけっこういるんです。ぼくも奨学金もらって進学したくちですが、もし当時もっと不景気で、返済不要の奨学金があって、その条件が自衛隊2年間入隊なり予備役編入なりだったとしたら、もしかしたら申し込んでいたかもしれません。元自衛隊員で尊敬できる人を知ってますし、そのへんでの抵抗感はないので。
 で、そのときのぼくに「社会から降りる自由」を告げられても、そりゃあんた達はいいけどさ、となりますね。国外逃亡よりは国内で抵抗権を行使するとか、せめて米国などの良心的兵役拒否者がするように、国内での奉仕活動や社会的活動に従事してほしいな、とも思うかも。これは氏の議論の方向と離れてしまっているかもしれませんが、最初からある国を捨てていいと考えている人間がその国のために論じたあらゆる意見には、説得力ないです。たぶん正直者なんだろうな、とは分かるけど、自分の正義を貫きながら国法に従って毒杯を仰いだ人も昔いました。
 ちなみに、フィヒテが著書で述べた人間の自由は、既存の国家や社会から個人が脱出することを意味するにとどまらず、その社会や国家を変革する権利を個人に認めるためのものでした。反フランス革命のただ中で書かれたものですので。「〜からの自由」じゃなくて「〜への自由」というのは、フロムの『自由からの逃走』を持ち出すまでもありませんが。

 なんとなく思い出したので、ロバート・グレーヴズ『さらば古きものよ』下巻、工藤政司訳、岩波文庫、1999年より。

「イギリスは私たちのような帰還兵の目には奇妙に映った。いたるところに蔓延する、疑似軍国感情の捌け口を求める戦争への狂気は理解できなかった。民間人は外国語をしゃべっていた。外国語とはほかでもない、新聞用語だった。私は両親とまじめな話がほとんどできないことに気がついた。」(p.85)

「バートランド・ラッセルは齢をとりすぎて戦争に行けなかったが、熱心な平和主義者で(まれにみる結びつきだ)、ある日の午後私に鋭い視線を向け、『もし君の中隊が軍需会社のスト破りに駆り出され、労働者が仕事に戻ることを拒否したら部下に発砲を命じるかね?』と訊いた。
 『ええ、あらゆる手段が失敗に終ればやります。ドイツ兵を撃つのとあまり変わらないでしょうからね』
 彼は驚いたという顔で言った。『部下は命令に従うかい?』
 『彼らは兵器や弾薬をつくる労働者を憎んでいますから、五人や六人撃つぐらい喜んでやりますよ。ストをやる奴なんて怠け者だとしか思っていませんから』
 『しかし、戦争は悪で無意味だとわかっているんだろう?』
 『そうです、私同様にわかっています』
 彼には私の態度が理解できなかった。」(p.121-2)

 白雪の誕生日なのに、こんな話に。
2004年2月12日(木) 風邪気味
 Zoroさんのトップ絵をはじめとする白雪誕生日祝い、『Brainstorm』さんにてリンクが。今回も置いて行かれたにょ。SSを書く者には、何より「いつでも書ける」能力が必要だと痛感します。

 いや、最初は80年代以前で固めようと思ってたんです。でも、ロッキーチャックとか初代カリメロとか頑張ってみたものの、平均90年程度で落ちついてしまいました。

 「無関心が何に由来するか」。国家が「リアルな外部的なものとして『認識されていない』」とすれば、だから国家なる共同体を今一度復活させねば、と主張する「軍国主義者」も、認識してなくても国家的・権力的なものが主体に忍び込んでいるんだからそれに気づきなよ、と批判する「若手知識人」も、結局は父親を捜しているという点で共通しているのかしら。
2004年2月13日(金) 久々のリピュア話
 リピュア考察補論1にて、作中と監督設定に登場する「リンドグレン舎」と「オールコット工房」について、それぞれが女流作家のリンドグレンとオルコットに由来するものか、と書きましたが、そのとき気づかなかったこと。

 リンドグレンの代表作である『長くつ下のピッピ』の主人公ピッピは、その外見が非常に眞深的です。
「髪の毛はにんじんのように赤くて、鼻は小さいじゃがいもみたい、顔はそばかすだらけで口が大きい。着ている着物はお手製でつんつるてん、長くつ下の一方は黒で、もう一方はだんだら縞、くつは二そうの船ほども大きい。腕の力といえば町じゅうでこの九歳の女の子にかなう者は一人もいない。」(ベッティーナ・ヒューリマン『ヨーロッパの子どもの本』野村訳、ちくま学芸文庫、2003年、p.54)
 まあ、眞深はそこまでいってませんけど。「だんだら縞」のくつ下は、リピュア作中ではリンドグレンのロゴになっています。
「子どもにしろおとなにしろ、感受性のある者なら感動なしにはこの珍しい本の最後の三ページを読むことはできないだろう。そこには子どもの不滅の天国が描かれ、その天国の真中に、ピッピがちらちら燃える一本のろうそくをまえにして、夢みるようにすわっている。」(同p.58)
 なんとなく、アニプリ第20話を思い出したり。

 また、オルコットの代表作は『若草物語』ですが、ヒロインの一人である作家志望で男まさりのジョーは作者本人がモデル。そして作者自身についても、こちらによれば、「常々、男に生まれたかったと言っていたというルイザは、竹を割ったようなさっぱりとした性格で、美人ではなかったけれど、背が高く均整の取れた、その気丈な性格が姿に現れているような印象深い女性であったと彼女の伝記作家チェニィは伝えています」とのこと。

 以上のように、ピッピやジョー(オルコット)の外見や性格は、眞深というキャラクターを連想させるものであり、リピュアストーリーズパートでは、眞深そのものを登場させられなかったにせよ、こういう設定を通じても、彼女を暗示しようとしていたと考えられます。
 なお、ここからさらに、リンドグレン&オールコット社が山神家に属すると想定することも一応は可能ですが、その場合は燦緒の立場がなくなるなど色々面倒が生じるのでぼくとしては却下。それはともかくも、この話は後日考察に追記しておきましょうか。

 『12人いる!』さんにて、白雪漫画。こ、このネタは。

 ドイツの軍革動向

 先日の長い読み方の漢字について、おどりこさんから「一文字目は『由乃さんと祐巳さん』と読む」というご提案。一文字目って…(確認)ああっ!(笑)
2004年2月14日(土) 一日甘党
 シスター・プリンセス・メーカー、ついにSt.Valentine's stories作品公開開始です。

 しのぶさんより、「キャラコレとリピュアBの関係は楽譜と演奏の関係に準えても良いと思う」。ぼくとしてはあくまで「変奏」か「編曲」としてとらえたいのですけど、あのキャラクターパートで妹達が立体化したことは確かに認めます。そこからキャラコレを再解釈できたのも大きかったし。

 ばれんたいんのちょこ。後輩から2個(喜)。還暦を過ぎた伯母から1個(何故)。

 闇黒日記高橋氏の日記を読み比べながら、例えば『AIR』を実際にプレイしたキリスト教徒の感想ってどこかにないものかしら、と思いました。いやもう、両者のやりとりは、背後にある古典的教養世界とポストモダン的サブカル世界との軋轢(あるいは相互不信)をも指し示すものなのかもしれませんが。揚げ足取りに終始する現状が続いていくよりも、「キリスト教徒が見た『AIR』」のような具体例事例がどこからか与えられた方が、本筋の話が進むように思うのです。
2004年2月15日(日) 脳味噌茶碗蒸し
 特撮2作品はあえて見逃しつつ、プリキュア。オープニングで女子生徒達がわーっと駆けてくる場面で、いつも失禁しそうになります。
 敵組織の幹部が主人公達の学校の教育実習生として乗り込む、というキータクラー的導入ながら、後半しおしお。あれ?もう失速でしょうか。前半で、ほのかの祖母が去り際に一言なぎさにお願いする場面など、すごくよかっただけに残念でした。あの場面は言うまでもなく、両親と離ればなれに住み友達もあまりいない(ように見える)孫娘が久々に友達を連れてきたことに安堵し、またその友達にこれからも仲良くしてやってほしいという、思いやりのあらわれですね。持ってきたお茶菓子がクッキーだったというのも、祖母的に考えた末の選択だったのでは。ってこれがつまりオトナの深読みか。
 で、後半について。先生を人質にとられてさあ大変という場面で、例えば、ほのかがポーチを2つ放り投げ、それに気を取られた隙に先生となぎさを確保。ポーチの中からあらかじめ抜いておいたカードコミューンをなぎさに渡して変身。ポーチだけをキャッチした敵幹部は憤るも時既に遅し。とか、そういう流れはなかったものでしょうか。ほのかに対しても人質は有効なんだから、もうすこし丁寧に進めてほしかったです。
 でも、段幕に締め付けられる2人は色っぽくてよし(駄目)。この作品の見所はもちろんヒロイン達の危機っぷりにあります。

 そういうわけで、ほのかが膝の上に座っている感触を掴みました。久方ぶりに妄想力発揮。おしりの肉が薄いので、腰骨の堅さをちょっぴり感じます。あと、匂いが。なぎさのがやや強めのフローラルなのに対して、ほのかのはこう、あっさり石けん風味。新しい朝が来たので深呼吸。
2004年2月16日(月) ふええ
 教育実習生が実は悪人、という話で思い出すのは、岡崎つぐお『ただいま授業中!』だったりします。ドジで泣き虫ではにゃんな新米女教師の純情物語。あれはいい作品だったなあ。学校教育がどうだこうだ言われる昨今、とくに読まれるべき漫画です。
 プリキュアのオープニングの頭は「渚のシンドバット」という話にやっと合点が。確か『三つ目がとおる』の時も、これ何だったかなーと首を傾げていた覚えがあるのでした。

 こないだの妹アニソンについて、美森氏が一覧表にまとめてくれました。うひ。これに従えば、平均1988年くらいでしょうか。そらそらみ。

 豚生うどんは、風邪をひきかけた冬の日によく食べたものでした。あの端がベタベタするどんぶりが懐かしいです。あと、夏には冷やしかしわそば。

 こちらから、東浩紀氏の「がんばってどうなるんだろう?」という疑問。引用文の前後を知らないので憶測になりますが、もしこの疑問がその前に掲げられた「なんで、世の中を変えようとするのか」という問いと直結するのであれば。先日の、徴兵制施行にさいしては国外逃亡をもって臨むという氏の態度と、これは一貫するわけですね。共同体は変革しえないのだから、自分がそこから離脱するしかない。楽園は外部にある、ということかしら。でも、そのような外部への逃避が不可能になったとき、内部を絶対化し始めるというのが、1930年代の経験だったと思います。
2004年2月17日(火) 証拠
 唐揚げ!裏めにうの存在は知りませんでした。ああ、食べたかった。
 こちらこちらの、長崎弁マリみても素敵です。イントネーションが分かれば最高ですけど、文字だけでもかなり。

 こちらのコメント欄でのやりとりが面白くて。ポストモダン気取りの人間が粗雑な主張を繰り返すと、ポストモダンの意義はますます疑われていきますが、それはそれでまずいのでは。東氏の論点に基づいて、実際に作品を分析する試みが、どこかでなされていないものでしょうか。
 現代思想論と大衆文化論の切り分けという話で、なんとなく鶴見俊輔の『限界芸術論』を思い出したり。
2004年2月18日(水) 考察びと
 『ランバダ将棋』さん(2/15分)の「あなたは、一体何のためにSSを書いていますか?」という問いかけ、『Sister Freedom』さん(2/17分)の「あなたは一体何のために絵を描いていますか?」という問いかけ。『double bells*』さんの「『絵』は出会ったときの第一印象、『文』はその人との会話。」という言葉にとても納得しました。

 というわけで、回答者をもっと局限する問いを立ててみる。

「あなたは何のために考察を書いていますか?」

 ある作品の面白さや意外さ、そしてその作品にに対する自分の好意を、他人に説得的に伝えるために。
 もちろんその方法は、日記テキストでも二次創作でも絵でもいいわけですけど、絵が描けず感情表現が苦手な自分にとって最適なのは、一見論理的な文章の中に感情を含ませることでした。そしてその文章も、作品を快刀乱麻に分析するという鋭さを到底持ち合わせていないので、作品内容を素朴に追っていくにすぎず。ただ、作品内容をあまりに適当に扱う論議も少なからずみられる現状で、内容に則しつつその解釈・組み替えを行う作業の必要性と楽しさを、自分なりに示そうとも思っています。
 しかしまたそれゆえに、その作業での確固たる方法論は、ありません。段取りとしては普通に、
(0)その作品に感動し、何か語りたくなる。
(1)その作品に対する、先駆者の評価や解釈をだいたい確認する。
(2)それらの位置づけを行い、自分の解釈と照らし合わせて相違点を明らかにする。
(3)考察の主題、視点を決定する。
(4)「問題の視点」を書く。
(5)本文を書く。
 となるのですが、肝心の(5)での自覚的な方法論がないわけです。考察内容の比重は
(A)その考察の主題に関わる引用と解釈
(B)主題周辺内容の解釈
(C)真面目なふりをしたネタ
 を6:3:1程度ですけど、それは方法論ではない。例えば物語の構造分析とか、登場人物の精神分析とか、近代批判とか、現代文化論とか、フェミニズムとか、一切無縁。そのおかげで、「思想を語るために作品を利用する」ことも回避できてはいますが、あまりに素朴。
 いや、分析として素朴というより、ぼくは「考察」の名のもとに、「分析」しているわけではないのでしょうね。むしろ感覚としては、新たな視点からその作品を読み直すことにより、ある(自分に好ましい)物語を作品内に見出そうと試みている。それはつまり、作品そのものを再構成するという特殊な二次創作なのです。
2004年2月19日(木) 抵抗せよ
 どこぞのニュースでえろげ叩きが行われたそうですが、そこで提案するえろげタイトル。

<セイギの使者>

 ニュースキャスター、プロ市民、PTA……世の中、正義ヅラした奴等が多すぎる!
 そんな奴等が俺の聖域、えろげの世界にまで介入してきやがった。「青少年に悪影響」だの「自主規制」だの喚きやがって、手前ら大人のその偽善者ぶり、自分の無責任さを他人に転嫁するその愚劣さ加減、もはや我慢ならん。そこまで「悪影響」を吹聴するならば、その「悪影響」の真の様を思い知れ!

 主人公はえろげおた。己の正義(セイギ)を疑わないやかましい世間に性技(セイギ)の天誅をくらわし、真の性義(セイギ)に目覚めさせるのが目的です。使用できる技は最初は限られていますが、物語の中でえろげやえろまんがから学ぶことによって、より強力で危険な技を習得できます。また、萌ええろげだけから学ぶことで、攻略対象キャラと「恋愛」できるようにもなったりします。

 攻略対象の女性キャラは、売れっ子キャスター、ニュースでインタビューされた女子学生、市民運動家、その娘、PTA役員、組合系教師、教育評論家、婦人警官、ソフ倫役員、その姉、規制派国会議員にえろげ告発文を投書した女、じつはその者こそ主人公の義弟の妻(つまり実妹)。
 隠し攻略キャラは千代田区在住以下御名御璽。

美 森「せんせー、それ完成に3年以上かかりそうです。」
らむだ「大丈夫、鍵にはお任せしないから。」
美 森「でも、この内容で『非18禁』というのはどうだ?」
らむだ「うわー(笑)」
2004年2月20日(金) シスプリメ考察とか
 その氏名リストは…もしや炎とか「感じ悪いよね」とか、色々と何ですか。

 確かに(2/19分)二次創作全体に言えることではあるのですけど、そですね。ぼくが「特殊」と呼んだ「作品そのもの」を再構成するということは、つまりここでは、その作品の主題や解釈視点を新たに提示し、その提示したものに沿って作品「全体」を検討する、という意味です。
 例えばアニプリ考察では、「航の成長物語」という従来捉えられてきた主題に対して、ぼくは「兄妹の成長物語」という主題を掲げました。妹達も成長しているんだよ、と。一般的に変化しない存在である萌えキャラとしてではなく、変わりうる人間として見てみよう、と。そうすることで、妹達に世話されてばかりの航もじつは物語の前半から既に妹達のために大きく寄与していた、という兄妹の相互性や、彼らを基点とする調和の拡大などといった要素も、一緒に見えてくる。
 で、それらの試みが成功したかどうかはさておき。こういった視点から、この作品「全体」(正確には「全話」でしかないが)を網羅的に検討した、というのが、ぼくの考察の特殊性です。そして、たぶんこれが他の二次創作と違う唯一の点。
 新たな主題、新たな解釈視点というのは、言うまでもなく絵やSSでも示されているものです。妹達の新鮮な魅力や、兄妹の意外な姿を描くとき、そこには今までになかった妹像、兄妹像がある。そしてそれらは、ぼくが考察で示したものより断然斬新で、シスター・プリンセス界をずっと拡大させ得るものだったりする。だけど、それらの新規な切り口は、惜しいことに、蓄積されたり一般化されたり共有化されたりしづらいのです。それは、絵やSSを生み出す創造性や主観性という、考察にはない長所のよりどころが反面で持つ短所です。あえて極論すると、新規の切り口がどんどん増殖するだけで、妹の全体像がぼやけていくかもしれない。つまり、ぼくがそうしてしまいがちということですが。
 これに対して、考察は、アニプリならアニプリという作品全体を扱うことで、その中での妹像をある程度首尾一貫したものとして明確化できます。そして、様々な場面で描かれる妹の言動を、他の場面での言動と結びつけて解釈することができます(というか、そうしないと「成長」なんて主題は示せない)。そして、その解釈内容が引用と説明文で示されるので、後で批判したりいじったりしやすい。アニプリという作品に対象限定しつつ、その作品内では共通のたたき台となれるような妹像の構築を目指した、と言えばあまりに気負いすぎですけど、まあそんな風に鼻息も荒かったわけです。

 しかしそんな増長も、「妹同伴で牛丼店に入ってみた次第」(2/19分)なんていう言葉に脆くも崩れ去るわけですよ(2/18分の考察も最高)。まだ精進が足りない。

 で。
 創作と考察とを不可分のものとしてシスプリを探求していこうというのがシスプリメ(とくにアーキネオシス)の主旨なのですけど、ぼくは今までキャラコレの形式分析などを通して、これにかなーり間接的に関わってきました。ですが、上記のような大口を叩いたわりには、ずいぶんと腰の引けた有様だと自省します。既に シスプリメ現企画「St. Valentine's stories」では、応募ネオシスの人気投票が予定されており、クリエイターの切磋琢磨を導こうとしています。この流れにあって、ぼくは考察者として何ら行動せずにすませられるものでしょうか。
 「なぜSSを書くのか」への応答でも問題になっていましたが、ぼくもSSをあまり読まない人間です。時間的限界もありますが、まず原作志向が強いので、創作への興味がもともと薄いのです。しかし、それを「自分の性格だから」として放置していては、シスプリ界をファンの側から拡大させる機会を自分から拒絶することになります。とはいえ、あらゆるSSを読むだけの余裕はなく、また「いかに読むか」という姿勢そのものが曖昧なままでは、ただ義務的に読み流すことになり、かえって作者の方々に失礼です。

 そこで。
 「St. Valentine's stories」に参加されているSSを、考察することにします。考察の主題は、
「そのSSの中でネオシスの個性とシスプリキャラとしての普遍性がいかに描かれているかを、そのネオシスの設定や関連創作物を参照しつつ、またシスプリ原作と対照させながら、明らかにする」
ことです。雰囲気としてはリピュア考察が近いかしら。なお、読者の感想や人気投票に悪い影響を与えないために、考察の公開は3月に入ってからにするつもりです。
 この試みは、原作(とくにキャラコレ)を基準にしてネオシスSSを叩こうとか、そういうためのものじゃなくて。人気投票の対象となる、つまり評価されることを前提に参加されているクリエイターの方々に対して、読者としてのぼくがぼくなりの方法で真摯に応えようというものです。非常に迂遠な経路ですけど、原作の妹達についてぼくが行ってきたように、考察する過程の中でネオシスを理解したいんですよ。そして、シスプリ原作と対照させることで、ぼくのキャラコレ・SS解釈視点が逆に吟味されて「読み方」が身につくでしょうし、クリエイターの努力がより明確に伝わってくるでしょうし、さらに、原作を越える何かが作品に見いだせるかもしれない。そう期待しているのです。
 ただし、これがあまり好ましくない試みであるのなら、企画者の方々にはお手数ながらご指摘いただければと思います。せっかくの盛り上がりに水を差したくはないのです。
2004年2月21日(土) どってんかいめい
 すごい白雪祝い(笑)。料理はタタカイの連続でぃすの。そして白雪はらんぷ亭を発見するのだった。

 痴漢摘発(2/20分)。素晴らしいです。でも、逆恨みというのは確かに怖いですよね。とりあえず、どの後どうなったかを駅で確認されるのがよろしいかと。性器露出の痴漢の場合は、その露出のさまを他の乗客にも確認してもらってから大声をあげれば、痴漢行為として認められずとも猥褻物陳列罪か何かになりそう。あるいは、こちらがそれを握っちゃうとか(嫌すぎ)。

 中国にスール制度が

 IRCで、冥王星ぴんちという話を聞いて。ふと、「萌王星」ってないものかと思いつく。ゼウスが天空を(天王星はウラヌスだけど)、ポセイドンが海を、ハデスが冥界を選んだとき、「じゃ、私は萌えをきぼんぬ」とのたまった神様or女神様。あるいはまた、女神ちっくな美少女(るんるん)。『オリンポスのポロン』、どこにしまっちゃったっけ。
 というわけで、太陽系を妹に喩えるテスト。
太 陽:兄。これは大前提。
水 星:四葉。メルクリウスだし、兄を至近距離からチェキ。
金 星:咲耶。ヴィーナスだし。
地 球:衛。地場なので(意味不明)。
火 星:春歌。戦闘的に。
木 星:鈴凛。落ち着き方が。
土 星:千影。メランコリー。
天王星:花穂。自転軸が転んでる。
海王星:白雪。地味なので。
冥王星:亞里亞。遅いので。
 月 :雛子。おにいたまを隠しちゃえー(日食)。
彗 星:鞠絵。はかなくなりそう。
ネメシス:可憐。
 なお、ネメシスは未発見です。
2004年2月22日(日) クラナド(低年齢版)
 そうか。『デカレンジャー』の5人の名前はミステリ由来だそうですが、あの犬指令は『ドーベルマン刑事』ということですか。そう気づいて調べたらこちら(12/27分)で既に指摘されてました。

 プリキュア。クラスメートのこれまでの成長といまの姿とをいっぺんに描いたいいお話。メップルたちが人間に与える幸せへの契機をも暗示させてました。敵もこないだより頭が良くなってましたし、ほのかの崩れた顔も登場しましたし、なぎさとの距離感も台詞に出てましたし、次回はいよいよ二人の性格的なズレが問題に。楽しみです。
 ところで、オープニングの二人は、手をつなぐ一方で、目線は交錯しないんですね。たとえ性格や感性、興味関心が違っていても、人は人のそばにいるし、お互いの温もりを確かめ合うことができる。見なくても、それはそこにある。ただ手を伸ばす勇気さえあれば、それを確かめられる。照れながら後ろ手に握る掌。
 そして今日も女子生徒群の場面で失禁寸前。

 シスプリメ企画作品考察、まずお一人分を書いてみる。いや、文章が進むこと進むこと。SSは溜めっぱなしだというのにっ。あれですね、ぼくは自分で創作するより、やはり他人の作品をあれこれいじるのが好きということですね。寄生的存在。だから、絵でもテキストでもご自身で創作される方々には敬意と憧憬を抱くわけです。

 で、書きかけ考察の中から、シスプリメというよりシスプリ全体に関わる部分を転載してみる。26さん(2/16分)による「若草ユニット」という概念提起を受けて、この特技派妹集団についてもう少し考えてみよう、という箇所です。

 (…)ところで、この特技には、兄妹関係において対称的なものと非対称的なものの2種類がある。前者は、例えば衛の場合、スポーツは兄妹の双方が一緒にかつ対等に参加し楽しむはずのものである。現状では性差や年齢差によって不均衡が拡大しつつあるとはいえ、基本的には、ここでの兄妹はお互いにその楽しさを分かち合える。これを対称的な特技と呼ぶ。これに対して後者は、例えば白雪の場合、料理を作るのはあくまでも白雪のみであり、兄は彼女が作った料理をほとんど食べるだけの役割を担う。料理によって兄妹が結びついているにせよ、ここでの兄妹の役割は同一のものではなく、相手の役割と入れ替わることができない。これを非対称的な特技と呼ぶ。ただし、鈴凛の場合には兄が作業を手伝うなど、この対称・非対称は必ずしも絶対のものではない。また、衛においては一緒にスキーを楽しむ話とサッカーで落ち込む話とがあり、白雪では料理を兄に振る舞う話とシュークリーム勝負で泣き出す話とがあるように、妹の特技は、直接的に兄との絆を結ぶ展開と、一時的に兄との距離感をもたらす展開との両方を与えるものであり、それらはどちらも最終的に兄との関係をより強固にするにせよ、妹の様々な感情の揺れや行動を導く基盤となっている。このことはまた、特技の「属性」への単純化を阻むことに役立っており、そして特技について描写されない話で妹の意外な側面が示される(白雪のリボン話など)ことで、妹の個性は総体的なバランスのもとで提示されるのである。(…)

 「表層と深層のテーマを別にする」という26さんの指摘を踏まえられていませんね。いま気づいた。
2004年2月23日(月) 地道に
 シスプリメ企画の考察、進行中。秋那ちゃんの節が書き終わったので、続いて梨愛ちゃんの節に入ります。リピュア考察以来培ってきたキャラコレでの読み方を、ネオシスSSにも適用してみて、そこから今度はまたキャラコレの読み方そのものも鍛え直されるという過程が、すごく楽しいです。ネオシスの独自性も色々分かってきました。
2004年2月24日(火) 白雪の不運
 天煌さん花穂キャラコレ分解1、ついに公開。ノートというのは、読解の過程そのものが現れていて、とても興味深いです。じっくり読ませていただきます。

 先日の特技派妹について、東雲大尉さん(2/25)の「表層は深層の裏付けである」、26さん(2/23分)の「表層に示される深層への導入」「表層→深層→表層→深層…のサイクル」という言葉を受けて。書きかけ考察から、また部分的に引用します。

 (…)特技派妹を描くときの共通の課題は、この乖離をいかに扱うかにあるわけだが、これについてキャラクターコレクションでは、各特技話に描かれる妹の姿をできるだけ多様にするという方法と、巻全体の展開の中で特技と個性を対立させたのち結びあわせていくという方法の、2種類を併用している。

 (…)対立と結合については、衛が最も分かりやすい。まず第2話で、スポーツをさほど前面に出さずに、彼女の心身における女性的成長のずれを描写する。これを踏まえつつ第3話では、衛の意外な女の子っぽさを強調し、読者が抱く衛像の内面的な「らしさ」を、スポーツという外面的な「らしさ」と対置させる。そして第7話では、球技を特技(スポーツ)の例外とすることで、スポーツという固有の絆の危機に悩む少女衛の姿を通じて、外面的な「らしさ」と内面的な「らしさ」を結びつけることに成功した。そこでは、女性的成長という衛の本質的問題はそのままに残しながら、彼女のスポーツへの困惑と兄との距離感を、兄が一挙に解消していることに注意したい。シスプリらしさの最重要点の一つは、兄との絆においてのみ、妹が個性と特技を結びつけられるということにある。

 そして、ここからはネオシスより原作妹の話題になるので、今回の考察では書かない部分ですが。

 このような対立と結合という方法は、しかし、外面と内面を対立させやすい妹の場合でのみ成功する。上述の衛のほかは、鈴凛がこれに同様に成功しているが、衛ほどに明瞭な対立ではない。それゆえ鈴凛は衛ほど人気がなかったのであり、雑誌連載で彼女の女の子らしさが強く描かれた(後にオリジナルストーリーズに掲載された浴衣話)瞬間に、人気が一時的に高まる程度だった。千影は外面の特技と内面の性格特性がほぼ一体化しており対立の構図を作りにくいが、それでも、彼女の幼い頃を描くなどして普通の女の子らしさを示すことで、硬派なオカルトvs内面の女の子らしさという対立軸を構成しえた。(また、千影はじつは「白並木ユニット」的な立ち位置にもある。)
 問題は白雪である。彼女の特技である料理は、「おませさん」「妄想癖」といった性格特性と、一致もしないうえに対立もしにくい。リボン話にしても、彼女の内面を描くことには成功しているが、それも結末部では妄想癖に吸収されてしまっている。実際、白雪は「料理」という特技で捉えるよりも、「おさな妻」という観点で見る方が、彼女の全体像を正しく把握できる。その場合、夫に尽くす献身的な妻という姿は春歌や鞠絵に任せるとして、白雪が示すのは新婚生活の甘々さである。
 このことは以前からもゲーム版などに関して指摘されており、決して目新しい意見ではない。しかし、キャラコレを見る限り、この「おさな妻」の要素はそれほど強く感じられない。それは、新妻が夫に対して抱く一つの感情が不明瞭だからだ。つまり、夫を包容する女性的情愛、あるいは夫を「可愛い」と感じるその気持ちである。
 この気持ちは、カズくん話のときに、カズくんを「可愛い」と思う眼差しを媒介に、兄にも向けられ得たはずだった。だが、そのフォローが他の話でなされなかったために、子供=男性を世話する女性としての包容力を、白雪は固有性にしそこなってしまっている。そしてその結果として、包容力は、より年長の新妻妹である春歌のものとなったのだ。

 ちっちゃくて(身長は花穂未満)夢見がちでいかにもまだ子供な白雪が、しかし台所に立てばその主となり、お腹を空かせた兄の姿を微笑ましく感じながら、子供をあやすように兄の世話をする。白雪の対立軸が、この「小ささ」「幼さ」と「包容力」「主婦らしさ」とに置かれたならば、彼女と兄の「おままごと」にも、より複雑な色調を与えることができたかもしれない。しかし、そのためには、読者が想像するところの主婦的・母性的な要素を、特技の面でも分かりやすく示す必要があっただろう。例えば、割烹着姿とか、御味噌汁によって。だがこれらの和風の要素もまた、いまや春歌の固有性に割り振られてしまっている。いわば白雪は、春歌という後発の妹によって、その妹像の拡大経路を制限されてしまったのである。(付言すれば、洋風趣味は亞里亞に持っていかれている。)

 だからといって、春歌を責めるのは誤りであるし、白雪にとって何の意味もない。むしろここでは、白雪の内面的な「らしさ」を特技と結びつけられる焦点として、「所帯じみた感覚」を提示したい。これは、春歌と重ならない方向で「主婦らしさ」を突き詰めたものであり、白雪の空想性に対して「意外な内面」として現実主義的な意識を置こうとするものである。
 例えば、兄に料理を振る舞うときにも、あんなにたくさんの料理を作るだけではなくて、限られた予算で最大限素晴らしい料理を作るために、あれこれ苦労し工夫する。料理はファンタジックでもいいが、料理までの過程にはとことん現実的になる。家計簿のような小遣い帳をつけて、やりくりに頭を悩ませる(算数計算が苦手な彼女にこれが可能かどうか定かでないが)。その流れで、兄の無駄遣いをいさめたりもする。こういう、下手をすればしみったれた雰囲気を感じさせてしまう行動をうまく用いることで、白雪のおさな妻かつ小女房としての全体像や、現実と空想の乖離しつつの結合が、描かれることになるのではないか。
 思えばこの観点は、既にアニプリで白雪がお尻を振る場面で暗示されていたのかもしれない。あれは、「お尻に注目しろ」という視聴者へのメッセージではなく、「兄を尻に敷け」という白雪へのメッセージだったのだ。

 このあたり、猿元さんの私信に応えるさいの前提でもありますね。返信そのものはもう少し後で、すみません。あと、美汐さんと白雪の類縁性もこれで分かってきたような。おばさんくささが前向きな突破口。

 そして亞里亞になごんだり。かわええー。じーっと見てましょう。

 いずみのさん望月茂さんの意見にほぼ同意。大衆娯楽としての共通性と、現代の固有性とを、きちんと切り分けたうえで結びつける作業が必要に想います。「ポストモダニストから見たオタク(の利用価値)」という言葉から、東氏を大塚英志氏と対比させてみると、東氏が「オタク的文化のため」と半分思いこみながら結果的には思想屋としてオタクを食い物にしているのに対して、大塚氏はオタクを食い物にしていることを自覚しつつ、そのうえでせめてもの文化水準を維持しようとしている。知識人の善良さゆえの悪行と、商売人の悪辣さゆえの善行と。
 そいえば、エヴァがポストモダンだと言うとき、エヴァ以前のアニメ作品はどのようにモダンだったのでしょう。
 などと考えていたら、薫さんからえろげ画像分析案。ああー。ならば、えろ漫画や、とくに昔のえろ劇画の世界なんて、まさにデータベース消費であって…。ああっ!パクリがオリジナリティと化している内山亜紀こそ、真にデータベース消費的なえろ漫画家だったのか!
 というわけで、オタク文化とポストモダンと切り結ぶ作業が2つ具体化できました。
(1)西欧の本物のキリスト教徒に『AIR』をプレイさせて感想を聞く。
(2)「内山亜紀データベース」を作成する。
 どなたかお願いします。

 ほのかのお婆さんのことなんですけど。こないだ、初めてなぎさを家に連れてきたとき、なぎさにほのかをよろしくと言ってましたが、ほのかは部活仲間を家に呼ぶこともなく、おそらくは友達とお出かけということもほとんどなかったと。でも、お婆さんは年配なので、ほのかにどうこうしてやれない。そんなお婆さんが、今度ほのかがなぎさとお出かけすると聞いたときにゃあ。
 こないだはクッキーを差し入れてましたが、もし再びなぎさがほのかの家に遊びに行くことがあったとして。そのとき、お婆さんの差し入れたお菓子がなぎさの好物だったりしたら、ぼくは悶絶します。あの作品は脇役がかなり堅固。
2004年2月25日(水) 子供料金
 くらなど7500円。18禁部分は1300円相当(違)。

 MK2さんの日記から『よつばと』について。「あまりによつばの夏休みはきらきらとしています。」とかいった言葉にただうんうんそうだよねとうなずくだけなのですが、世間ではそんなにあの作品て人気ないのですか。世の中(以下略)ぼくはあの作品を、読んで笑って、ときどき泣いてます。

 カール・レーヴィットなんて名前を久々に見てかなり嬉しいかったので、ちくま学芸文庫の『ヤーコプ・ブルクハルト』を引っ張り出す。歴史家が自らの視点の限界を意識することは常に正しいが、その研究内容が他者にとっても価値を持つのは、その歴史家が「いま」の世界とそこに生きる自分自身への問題意識を自覚しているときだけ。
 これは別に、新しい歴史家が駄目だという話では決してなく。良知力はそれを「歴史家のわだかまり」と表現していたけれど、あの人は確かに、実証的な社会史研究の中に、人間の生きる姿を見据えようとしていた。

 ライダー・ウルトラマン空白期の話。これ、重要な指摘ですね。望月茂さんがこれを受けて、ソフビ人形で物語を創造された逸話を述べられてますが、ぼくもそういう子供だったし(ダイヤブロックで巨大ロボットもの物語をこしらえた)、やがてビックリマンが流行した頃には、なんで「いまの」子供があんなものを買うのか分からなかった。男の子らしいコレクター魂か、あるいは今にして思えば、他に流行する作品がなかったからか。この言い方は物語をデータに優先させる考え方によるものだけれど。
 当時現役の子供だった方々は、例えばビックリマンのアニメが始まる前の段階で、自分で、あるいは自分達で、何らかのビックリマン物語を、自発的に編み上げていたのでしょうか。それとも、ひたすらシールを集めることに専念していたのでしょうか。これ、調べたら面白そう。
 ちょっと検索したら、ビックリマン語り部リングというのがありました。あと、こちらによれば、シールの裏側の物語断片が、「大きな物語」への欲望を喚起していたとのこと。だとすると、シール収集は、ある程度自由な物語生成のための多様なデータを収集しようとするものにとどまらず、単一の「正しい物語全体」(オリジナル)を求めるものと考えられます。そのへんの実態は個々人でまた違うのでしょうけど。

 シスプリメもデータベース的なキャラクター消費なんですかね。シスプリメ考察の関連で昨日の白雪考察みたいなのを書いていると、ネオシスも原作妹もいくつかの要素の組み合わせとして単純化してしまいたくなる誘惑にかられます。そうでなくても、例えば大塚の「キャラクター小説」という視点にどんどん馴染んでいくとか。
 でも、大塚がどこかでその枠組みを超え出るものを期待しているように、シスプリには、そしてシスプリメには、やはりデータで割り切れないものがある。そして、シスプリメのクリエイターには、データの操作者よりも、徒弟制の職人というイメージが似つかわしい。それは親方である原作者のたんなるコピーではなく、SSや絵というマスターピースを創造することで、親方の技と魂を継承しながら、クリエイターの固有の魂をネオシスの生きる姿に込める。その努力もまた新たなデータ蓄積の前提となるかもしれないけれど、クリエイターや企画者の方々という人間そのものと、各人がその妹に込めた想いは、絶対にデータベース化できない。

 それを感じ取れるようになりたいし、またそういう考察を書きたいけど、これがなかなか。ぼくの考察って、結局は既存の枠組みに当てはめてるだけだからなあ。でも薫さんの、第三者に対する内気さや「糟糠の妻」という鋭いご指摘を読んで、さらに発憤したり。猿元さんのキャラコレの性質についても(「兄や」が入ってないかも)。アニメ版による時間の流れの導入はリピュア考察1で述べましたが、キャラコレそのものの検討が今後必要ですね。
2004年2月26日(木) 
 「おたく」の成長過程など。「基礎教養」がいま危機に、という話もありましたねえ。その流れでこちらも再読。

 当時のビックリマンの多重構造。ワタルは、ぼくのショタとの再会でした。出会いはバイファムのフレッド。
 「仮面ライダーごっこ」については、そもそも今の子供達がみんなでごっこ遊びをしているのかどうか。ぼくの知っている子は、単一のライダーになりきって、父親や家庭教師を相手に戦っています。あるいは、複数のライダーの玩具を一人で所有しています。
 そいえば、ゴレンジャーが登場した経緯には、仮面ライダーだと女の子が敵側や犠牲者ばかりやらされるから、女の子も正義の味方になれるような男女混合編成になったという(『ゴレンジャー大全』より)。また、原作者の石ノ森が、週刊少年サンデーに『秘密戦隊ゴレンジャーごっこ』というパロディ漫画を連載していて、それが真面目なゴレンジャー漫画の連載終了後に掲載開始したものだから、子供心に驚きでした。あれは放映終了後に掲載されていたはずなので、「多重構造」とはちょっと違いそうですけど。同じような驚きは、やがて週刊少年チャンピオンでのウラシマン連載でも繰り返され(それたぶん違う)。

 そして、猿元さんによる解説。「本物」と「偽物」の区別が、「物語消費の位相では」消滅、というこの「位相」を意識してなかったり。あと、物語「パターン」(モチーフ)のデータベースと「記号」のデータベースとの違いとか、このあたりもぼくは一緒くたにしてましたね。
 で、「シスプリメは典型的な物語消費」だとすると、「萌え記号のデータベース消費」とは異なると考えていいのかしら。ネオシスにフェティッシュにハァハァする読者もいるだろうけど、創作者側は基本的にシスプリのモチーフなどを追いかけている、と。「表層」と「深層」という対置は、つまりは、「記号」である属性と、「モチーフ」である性格特性の現れ方とに、言いかえることができる。

 現実の「終わらない夏休み」を喪失して以来、ようやくシスプリという虚構としてのそれと出会うことができたけど、ぼくと同様に彼らもそのままじゃいけないだろうから、「終わり」へ向かう物語を見出そうとしてきた、はずだと思いつつも、その夏休みを夢に繰り返し見る日々。
 シスプリメ考察の方は、梨愛ちゃんの節がようやく一段落。
2004年2月27日(金) はよ書かねば
 特技派妹について天煌純一さん(2/26分)から反応いただく。特技を強調すると、その妹を属性だけで眺められてしまいそうで、でもだからといって内面を掘り下げようとすると、今度は特技があまり目立たなくなってしまう。これは、特技派妹をもつクリエイターの方々に共通の悩みかもしれません。
 隠された深い想いが、特技を通じて初めてかたちとなって兄に伝えられる、というのが綜合の段階では一番いいのかな。などと言うのは簡単ですけど。

 同人ユニット「Sakura-Fubuki」お披露目ー。

 シスプリメ考察、もっと適切な対比の仕方など思いついて、全面的に書き直し。あうー。公式サイトでは既に13本が登録されてますが、いつになったら全員分書き終わるのやら。現状だとネオシスと原作妹の両方を論じていて話が散漫だし、文章量もえらいことになりそうなので、原作妹に関わる部分をキャラコレ分析の方に移して、主役のネオシスに関わる部分をきっちりまとめることにします。
 とりあえず、原作妹を分析するための要素。

・性格特性(内面と外面)
・発達段階(心身の)
・特技(対称と非対称)
・過去(兄との記憶の有無)
・未来(希望と不安)
・兄(肉親愛と異性愛)
・第三者(肯定と否定)

 あと何だろ。
2004年2月28日(土) えうれーか
 今年はうるう年だったのか…。

 猿元さんからさらに解説

>彼の考え方に従うなら「設定」に(主体の去勢の反復を想起させるような)物語性は存在しないはずで、逆にこれが存在するならば、その集合物である「大きな非物語」と物語消費論のいうところの「大きな物語」の違いがどこにあるのか原理的に説明できないように思える。

 このへんが、ぼくも混乱している箇所。あるいは、でじこが「萌え」記号のデータベース的成果だったとして、それが4コマ漫画で既に「邪悪だがうかつ」という性格を与えられていたことや、さらにアニメなどによって物語を与えられていったことは、どう位置づけられるのだろう。完全既出の話題ですが。「えここ」はどんなふうに解釈できるのかしら、とかも。

 「萌えインデックス」については、眼鏡は「隠された内面性」でもありそう。これだとマナマナも該当しませんか。記号から性格特性が一意的に導かれない場合、これは記号というよりシンボルみたいな話になるのかな。

 エヴァの話で、現代はシミュラークルが蔓延したためにオリジナルを生み出すことが不可能になった、という言い方があるのかな。もしあるのだとして、でもそれは、原作のエヴァ(テレビ版)の結末があまりに不出来だったので、勢いファンが自分で補完せざるを得ず、あるいはもはや「ネタにする」しかなく、その結果、原作よりも出来のいい(と一部ファンには受け止められた)二次創作が多数登場するに至った、というだけなんじゃないか、と思ったり。
 そういう反応は以前から『キャプテン翼』などでもあったとしても、エヴァほど「オリジナル(の作者)を尊敬できない」作品も珍しかったように思います。で、それがいじりやすさを極限まで肥大させた、と。そういう「原作の舐めやすさ」を感じさせてしまったという意味では、エヴァはまさに画期的だったかもしれません。

 『放蕩オペラハウス』さん(2/27分)を読んでて、「いさましいチビの〜」の元ネタは何かという話に、「それはアニメじゃなくて、ディッシュの小説『いさましいチビのトースター』だろう」と思っていたら、それもまたグリムの「いさましいチビのしたてや」のパロディタイトルだったという罠。引用すべきオリジナルを見失う実例を鏡の中に見ました。
2004年2月29日(日) ふきふき
 タコヤキソースまみれの口をふいたハンカチをそのまま返すなぎさもなぎさだが、そのハンカチをその後ほのかが一体いかなる用途に用いたかを描く同人誌の具体像を妄想したぼくもぼくだ。
 こういう妄想する力は、同人誌に収斂するという点で現代的にはありますが、自分の過去を繙けばもはや生来のもの。チェスのクイーンにではありませんが、ぼくは詰将棋で玉将を追いかけ回す過程に嗜虐的に興奮した記憶があります。小学生の頃に(駄目すぎ)。

 猿元さんから反応いただく。「オリジナルとシュミラークルの間に差異は存在しない」とき、先行するものへの意識も、消えているのでしょうか。あと、自分が「わたしのおにいちゃん」を買わない理由も分かりました。あれは、ただの形だから。

 26さん(2/29分)も今読まれている大塚の『物語消費論』、ぼくもようやくにして買ってきました。今は一緒に買った同著者の『「おたく」の精神史』の方を先に読んでますが。70−80年代に「おたく」として育ったぼくにとり、何というか、非常に生々しい本です。
 14歳少年による小学生殺人事件についても記されているけど、ぼくはあの事件の10年以上前、自分が14歳だったときに、自分なりの宗教を創造しようとしていたし、その材料は『ムー』やオカルト本や哲学書や宗教書だったし、成長への強迫感もあった。もう一息思い詰める要素があったら、何か事件をしでかしていたかもしれない。そうせずにすんだ一つの理由は、おそらく、おなにーが好きだったこと。いや真面目に。フィクションで快くなる術を、ただ読書やゲームによってだけではなく、肉体的に獲得していた(というかそれから逃れられなかった)から、それ以上の現実性の確認を必要としていなかったのです。

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