『シスター・プリンセス・メーカー』における妹の可能性

〜企画第2弾を手がかりに(3)〜



はじめに

 本考察は、第1編に当たる(1)に示した基本的視点から、シスプリメにおけるシスプリ的普遍性と独自性とについて、企画第2段「St.Valentine's stories」応募作品のネオシスを対象に検討するものである。(1)で5名、(2)で6名のネオシスを取り上げたのに引き続き、ここでは5名について考察する。


12.美虎音(貴也氏) 〜別離の受容〜

 本編「ラブ・チョコレート」では、美虎音(みこと)が兄に贈るバレンタインのチョコと手紙を用意するまでの経緯が、キャラクターコレクション1話分(33字換算で147行、10ページ分、イラスト2枚、カット1枚)の物語として提示される。兄最後登場パターンをとってはいるが、このパターンによく見られる「動揺から兄による救済へ」という流れは本編にはなく、美虎音の想いは乱されないまま、兄へ贈るチョコと手紙に託される。そのため本編は、表面的にはやや平板な流れに見えるが、しかし、美虎音の設定や他の創作とあわせて捉え直すとき、そこに決して単純ではない彼女の想いのかたちが、シスプリの最重要点の1つとともに浮かび上がってくる。

「美虎音ちゃんはいろんな動物のことが大好きな心優しい女の子。道端で見かけた猫や犬ともすぐにお友達になってお兄ちゃんに紹介しちゃいます。でも、その時につけちゃう名前はちょっと個性的?」

 
この紹介文そのままに、本編も表面的には、美虎音の動物好きという個性を第一に描いているかに見える。既存の作品の全てに動物が登場することから、一応は特技派妹として分類できる彼女だが、じつはこの「特技」は、彼女の心の根幹と密接に結びつきながら、その隠蔽にも役立っている。ペットショップでチョコレートラブラドルを紹介されたとき、美虎音は「早速にぃにを連れて来てお友達になって」もらおうとはしゃぐ。そして店員から、チョコに手紙を添えることを勧められたとき、美虎音が「口で伝えられなくても文字でなら伝えられるもの」として記した言葉の中には、次の一文があった。
「今は離れて暮らしてるけど、またにぃにと一緒のお家に住めるようになったら、もう全然寂しくないように、美虎音とにぃにと、シマタとクロベといーっぱいのお友達と、ずーっとずーっと一緒にいようね♪」
 この一文こそが、日頃語られない彼女の想いを素直に表しているとすれば、そこに見出されるのは、兄との別離(別居)に対する受容と抵抗の姿であり、これに関わる動物達の役割である。

 別離といえば鞠絵の名が挙げられる。たんに現状の別居ということならば衛や雛子などのキャラクターコレクションでも述べられているが、鞠絵の場合は、過去に生じた同居生活の終焉が、発病という理由とともに明記されている(第1話「兄上様と一緒にお家で暮らしていられた時」)。鞠絵は、この本来あるべき同居生活に戻りたいと願う一方で、兄と離れた療養所に長く留まらざるを得ない現実の中で、孤独に溺れそうになる。その孤独を真に癒せるのは兄だけだとしても、いつも彼女のそばにいてくれるのは、愛犬のミカエルである。ミカエルは、鞠絵の世話役であり、鞠絵に世話を受ける者であり、鞠絵が押し隠した声の代弁者でもある。この、別離の寂しさを紛らわしてくれる存在のおかげで、鞠絵は兄の訪れがない日も、なんとか希望をもって生きていくことができる。その希望はもちろん、再び兄と一緒に暮らせる未来へのそれである。

 美虎音の場合、病気という理由ではないにせよ、彼女の心をつねに支配しているのは、その明るさの下に隠された、別離の寂しさである。この彼女の寂しさは、かつて兄と同居していた頃の愛猫の喪失にもう一つの起源をもつ。これを描いた「ぽかぽか陽気に見る夢」では、亡くなった猫の代わりに訪れた2匹の子猫によって「家の中は今までと同じ……ううん、きっと今まで以上に賑やかになったのっ」と語られる。死という最も決定的な別離であっても、その寂しさを、さらなる絆の拡大をもって乗り越えていくことができる。兄とともに経験したこの日の記憶は、やがて兄との別離に対しても、同様に立ち向かおうとする姿勢を美虎音に与えた。別離の寂しさは、兄妹の共通の友人である動物が増えていくことで、一時的に埋め合わされる。そして、この動物達の仲立ちによって、兄妹の絆はいよいよ強められ、やがては兄妹を再び元のさやに収める。だから、美虎音が友達となり名前をつけた動物は、美虎音と同じように別離の寂しさに耐えている兄に、ただちに紹介されねばならない。兄妹は、たとえ目の前にお互いがいなくとも、共通の友人である動物達を媒介にして、お互いの想いを確かめ合うことができるからだ。
 例えば、
「新しいお友達」では、美虎音は「そうしたらきっとにぃにも寂しくないし、絶対楽しいに違いない」と確信し、兄も「今日はずっと美虎音と一緒にいれたし、それに新しいお友達も増えたしね」と応える。「海へ行こう」では、美虎音は「これだけ沢山のお友達がいたら次に海に来た時は全然淋しくなんかないよね」と兄に語りかけている。ここであえて「淋しくなんかない」と言わなければならない点に、彼女の中の深い寂しさを慮るべきだろう。そして、彼女がいくら動物の友達を作り、名前をつけていったとしても、その寂しさを真に埋め合わせることは決してできない。しかし、心の空虚が埋まらないからこそ、美虎音はその行動を続けていく。アダムとイブは楽園の動物にも名前をつけ、やがて罪を得て追放された。美虎音は兄との同居生活という楽園を罪なくして追われ、この世界を再び楽園に戻すために、動物に名前をつけて、終わりなき命の連鎖を兄との絆に変えていく。特技派妹の課題である内面と外面の連関は、ここでは、別離に立ち向かう意志と、特技・特徴的行動との連関として、見事に具体化されているのである。


13.詩帆(東雲あき氏、テキスト東雲大尉氏) 〜季節限定〜

 本編しほができること。では、詩帆(しほ)がバレンタインデーにもかかわらず(であればこそ)兄と贈り物の交換を行ういきさつが、キャラクターコレクション1話分(33字換算で149行、10ページ分、イラスト1枚、カット1枚)の物語として提示される。いったんは兄の想いと妹の想いが食い違いながら、最終的には相互理解によって互いの絆がいっそう強く結ばれる展開は、兄途中登場パターンを活かしている。その一方で、本編は、特技派妹の作品であるにも関わらず、その特技がほとんど前面に出てこない。

「詩帆ちゃんはプールはもちろん海や川にと泳ぐの潜るのが大好きな女の子♪将来の夢は兄(ケイ)クンのお嫁さんとイルカの調教師になること」

 彼女の特技とは、つまり水泳や潜水などの水に関わるものであり、これはイルカの調教師という未来像にも共通している。となれば、詩帆を描く作品の大半は、彼女と水の密接な関係を、兄との絆に重ねて表現するものであっておかしくない。だが、本編は、「水泳教室」や「部活動」という言葉でそれが示されてはいるものの、チョコに添えたイルカ柄のカードを除けば、兄への想いと特技とはほとんど結びつけられないままに終わっているのだ。これはしかし、創作技法などの問題ではなく、彼女の特技の独自性に由来するものである。スポーツ全般を自らの領域とするに比べて、詩帆の水泳という特技はかなり狭く、屋内プールなどの例外はあるにせよ、基本的に夏にのみその真価を発揮する。いわば夏季限定の特技を与えられたこのネオシスが、バレンタインデーという冬真っ盛りのイベントを主題化したとき、そこに特技派妹としての限界が生じたのは、やむを得ないことだった。また、季節というだけでなく、泳げる場所という点でも彼女の特技は限定されている。これらの意味で、現時点での詩穂の特技は、衛達若草ユニットのそれというよりも、むしろ白並木ユニットである可憐のピアノに近い。つまり、兄との絆を結ぶさいに重要な役割を担うものではあるが、それのみで決定的・独占的な意義を有するものではない、ということである。
 それゆえ、本編の内容は、特技よりもバレンタインデーと兄妹関係の連関に重点をおくことになった。それは、妹からの感謝を込めたチョコと、兄からの贈り物との相互贈与を通して、詩帆が兄との想いのずれとその相互理解に基づく止揚とを導くという展開として示される。このような兄妹の相互贈与と感謝の交換は、例えばアニプリ第14話で描かれたものと重なり合う。また、これを詩帆の立場における逆贈与(兄に贈ろうと思ったものを兄から獲得する)として捉えれば、キャラクターコレクションでは花穂の第2話における想像された兄の笑顔による応援が、これに該当する。そういえば、本編での詩帆の口調や描写が花穂を連想させるものがあるのは、名前が似ていることだけによるものではないのかもしれない。

 ところで、季節限定の特技をもつ妹は、その季節以外の時期には何をしていればよいのだろうか。水泳部では、冬季には屋内プールで活動できない場合、例えば筋力トレーニングなどの地味だが不可欠な鍛錬がなされる。ネオシス創作でトレーニングを題材にすることはおそらく容易ではないだろうが、これが実現しえたなら、よほどきわだった独自性になりそうではある。
 だが、そのような表現技法ももちろん大切ではあるが、まずは、特技が活かされない季節の意味を考えてみる必要がある。それらの季節は、その妹にとって著しく不利な時期である。例えば料理をしていないときの白雪は、勉強をしていても料理や兄のことを考えてしまう。体を動かしていないときの衛は、つい日頃の自分らしからぬ考えに耽ってしまう。このように、特技に不利な状況下の妹は、空想などに逃避したり、意外な内面を露わにしたりする。同様に、冬が苦手な季節であるならば、苦手であること自体を、そしてその苦手から逃避したり内面を暴露したりするさまを、描くことが可能である。つまり、四季に沿って詩帆の姿を描くとき、それぞれの季節に応じて彼女が示す特技や内面の様々な姿が、季節の移ろいとともに描き出されていくことになるのだ。
 このことは、じつは本編でも、兄の「寒がりの詩穂が完全装備じゃないなんて、珍しいな」という台詞の中に、既に自覚的に示されていた。夏向きの詩帆が「寒がり」であること、冬場での彼女の外出姿、そしてそのような日頃の姿と対照的な、バレンタインデーに気もそぞろであるがゆえの薄手の格好などは、季節的な特技における限界を逆用して、彼女の特徴を浮き彫りにしているのだ。この特徴はまた、冬場の水泳教室における彼女の姿を「暖かい手」にて伺い知ることで、さらに明確なものとして把握できる。こうして、本編で直接的には描かれていない日常的な詩帆の姿をも想像し、さらに紹介ページをもとに最も積極的な季節での躍動感と開放感(そしてそれに相応しい水着姿)を思い浮かべるとき、ようやく読者は、本編でこの特別な日にだけ見せた彼女の想いのかたちを、詩帆の全体像の中で受けとめることが可能となるである。



14.秋香(杉浦修氏) 〜内面乙女〜

 
本編「バレンタインの告白」では、秋香(しゅうか)が兄にチョコを渡すまでの動揺とその結末が、キャラクターコレクション1話分弱(33字換算で117行、8ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。兄最後登場パターンの形式に基づき、批判的第三者を通じて兄への告白を間接的に実現しながら、しかし兄はその言葉を完全に聞き取ることはなく、妹の頭をなでてやるに留まり、結果として兄の側からの兄妹関係は何ら変化していない。これは、兄妹関係についてのシスプリの原則を満たしながら、バレンタインデーという「特別な日」の価値をも損なわないための、初創作ながら巧みな構成と言える。
 だが、この構成よりも読者の目を引くのは、秋香の言葉遣いや兄への態度だろう。兄に対しては敬体、普段は女の子にしてはややぶっきらぼうにも思われる常体という、その特徴的な口調は特技とともに、彼女の独自性を端的に示している。

「秋香ちゃんは空手が得意な女の子です。空手をやっているときはとても強気だけど、人と話すのが苦手でいつも困っています。意外と甘い物が好きで、よく自分でお菓子を作っています。」

 口下手で不器用、誠実でやや堅物、特技は空手、ところがじつはお菓子作りも好き。表向きはあまり女の子らしくはないものの、その内面は意外に乙女の純情。このような性格を、さしあたり、内面乙女と呼ぶことにしよう。原作では、この
内面乙女と言えそうな妹は鈴凛だが、しかし両者ともに、兄に想いを伝える能力に不足はない。特技の傾向としては春歌が近いのだが、彼女の場合は不器用さがない。結局、不器用な内面乙女として挙げられるのは、むしろ他作品のキャラクター、例えば『あずまんが大王』の榊などだろう。この点で秋香は、シスプリの中で前例のない存在となっている。
 内面乙女の傾向としては、彼女の外面的な格好良さや男性的魅力は、本人の自覚なしに、同性の友人に強く印象づけられる。その一方、本人の女の子らしい性格は、堂々と女の子らしく振る舞うことができないために抑圧されやすい。この隠された面を他者が理解するとき、それは意外な内面という新たな魅力となり、またその押し隠された想いのあり方こそが、「和風」などの要素と結びついた古風な女性らしさとして捉えられることもある。
 この場合に問題となるのは、榊が自分に相応しい猫に巡り会う可能性がきわめて乏しかったのと同様、兄が自分の想いを受けとめてくれる機会がどれだけ確保できるかである。楓(考察(2)参照)のように、特技が否定的性格特性を強化して妹を兄から引き離すことは、秋香の場合にはなさそうに思える。また、空手という特技が基本的に個人的な修練によるものである以上、この特技に兄を積極的に関わらせるのは難しいが、しかし決して不可能ではない。例えば、春歌の第2話のように決闘に兄を巻き込むことや、『To Heart』の葵のように練習に兄が協力することなども、十分あり得るからだ。日頃は下校時の兄に声もかけられない秋香が、空手の特訓のときだけは兄の胸を借りられる(さすがに拳で語り合うことはないとしても)という対比は、おそらくは、特技を肯定的に活かしながら秋香の独自性を示す一つの方策となるだろう。そのさい、秋香の特訓を主導できるだけの身体能力が兄にあるならば、彼は衛の兄に近づくだろうし、それだけの能力に欠けている場合は、春歌の兄に接近することになる。

 それにしても、春歌の長刀や弓道はまだしも、秋香の空手(格闘技)という特技は本来あまりにも男性的であり、逞しさや鋭さ、攻撃性などと結びつく。また、稽古のさいのかけ声や気合いなどから秋香の声を想像すると、この格技について無知な論者はとくに、比較的低めの声やハスキーボイスを彼女の台詞に重ねたくなってしまう。この声色と口下手という性格、そして空手という特技をあわせると、彼女の魅力を理解しながらも、その一方で、ややもすれば悪い意味で体育会系的な面を、秋香の中に見出してしまいかねない。例えば原作妹の衛も、雑誌連載当初は乱暴な言葉遣いのために若干不利を被っていたが、次第にその否定的な部分を丸められて現在のような「ボクっ娘」に至った。秋香の場合も、同様の変化が今後必要になるのだろうか。
 いや、彼女のこの不利な面は、既に設定において解消されている。その一つは、秋香は姓ではなく名前で皆に呼ばれているということである。シスプリの妹達が基本的に姓を明示しない以上、これは不可避のことなのだが、しかし、内面乙女が姓で呼ばれやすい(「榊」)ことを考えれば、これによる親近感の薄さをあらかじめ払拭できていることになる。
 より重要なもう一つの点は、彼女の背の低さである。中2で身長146cmというのは昨今の女子平均を下回っており、原作妹と比べれば衛(150cm)よりも低く、花穂(143cm)と可憐・鞠絵(148cm)の間となる。彼女達が空手を習っている姿を想像すれば、また『あずまんが大王』の榊が高校生としても非常に背高(174cm)であることと比べれば、その意味が分かる。この小ささが、秋香の男性的側面を大きく緩和し、「小柄で口下手な女の子」という可愛らしい姿を与えてくれるのだ(榊は榊で別の魅力があるが)。本編のイラストも、兄と並んだ妹の照れ姿の小ささを、正しく描き出している。また、本編中で登場する女子の友人達については身長の描写はないものの、その大部分が秋香よりも高いとすれば、気のいい仲間達から年下のようにも可愛がられる(そして温かく見守られる)秋香の姿が想像できるだろう。もちろん、このことが秋香にとって必ずしも快いものではないだろうし、彼女が空手を習い始めた理由の一端も、あるいはそのあたりにあるのかもしれない。
 そんな憶測はさておき、秋香の性格と特技、体格、そして口調は、華奢な姿に凛とした空気をまといつつ、からかいたくなるような振る舞いを見せるという、非常に微妙な重なり合いを示している。そして、それぞれのずれ具合が兄への想いにおいて解消する一瞬こそが、本編の最後でも垣間見せた裂帛の気合いもろともに、読者に突きつける彼女の真骨頂なのである。


15.聖羅(秋月蓮華氏) 〜特技の評価尺度と感情表現〜

 
本編「笑顔を見るために」では、聖羅(せいら)が兄と語らいながらチョコを食べてもらう経緯が、キャラクターコレクション1話分弱(33字換算で106行、8ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。本企画応募作品の中で、本編は、聖羅が兄に語る台詞のみによって構成するというきわめて独特な叙述形式をとっている。このような形式は、本企画のみならず、原作キャラクターコレクションでも希であり、可憐の第5話(冒頭部分を除く)を唯一の例外とする。この形式と聖羅の設定とを対照させてみるとき、そこに一つの「ずれ」と結びついた独特の魅力が見出される。

「行動派で回りを明るくする雰囲気を持つ。人の笑顔を見ることが好きでとても前向き。兄にもいつも笑っていて欲しいと想っている。趣味が手品で何故かいつも手品のための道具を持っている。良く保育園や老人ホームなどに行って、手品を見せたりボランティアをするのが好き。」

 手品に焦点を当てれば、特技派妹の1人として捉えられるこの聖羅だが、この特技は、兄を含めた他人を笑顔にするための手段であり、自己表現のためのそれではない。ボランティアという行動も同様であり、それを必要とする他者がいて初めて意味を持つ。つまり、聖羅の特技は、笑顔でいて欲しい相手、さらには笑顔になりにくいがゆえにその契機を必要とする相手に対して、向けられる。この「笑顔の欠落」という視点をあえて強調するならば、「いつも笑っていて欲しい」兄こそが、誰よりも笑顔を欠きやすいのではないか。その原因はもちろん、シスプリの基本前提である兄妹の別離状態にあるのではないだろうか。
 美虎音には適用し得たこの想定は、しかし本編では、「おかえりなさい」という言葉によって最初から否定されている。基本前提からの逸脱がここに見られるわけだが、それをひとまず措くとしても、「前向き」で「行動派」である聖羅に、そのような不安の駆動因を見出そうとする論者の姿勢がそもそも妥当なものとは思われにくい。それではなぜ論者は、そのような構えをとるに至ったのか。

 その理由の一つは、聖羅の特技にある。先述の通り、手品やボランティアはそれを享受する他者を必要とする。そのような特技としては、原作の特技派妹では白雪の料理が該当する。彼女の場合は、第4話でお菓子作りの余剰を保育園の子供達に振る舞っているにすぎないが、それでもやはり「みんなに喜んでもらえる」ことに「ニコニコ」している。料理を作ることが目的なのではなく、料理によってまず兄を喜ばせること(そしてそれを見て自分が満足すること)が目的なのだが、ここではさらに、兄以外の他者にもその特技が活用されている。しかし、白雪の料理は、その代価が兄の笑顔や満足感という日常的かつその場限りのものであるために、休息がないだけでなく、彼女の達成感や兄との親密感をさらに増大させようという欲望にかられてしまいかねない(食事の量にそれを求めたアニプリ第19話参照)。このような、いわば満足水準の際限ない上昇は、客観的な評価尺度がない特技の場合に生起しやすい
 このことは、聖羅においては、手品のスケールアップやトリック・道具の新奇さの追求などによって、やがて示されることになるのかもしれない。だが、本編以外の創作が今後に待たれる現状では、そのような特技派妹としての暴走可能性(もちろん暴走しなければならないわけではない)はともかくも、兄のさらなる笑顔への欲望が、本編での彼女の台詞に密かに込められているのではないか、という想像を、論者は先走らせることになったのである。

 もう一つの理由は、これも先述したところの叙述形式にある。聖羅の台詞のみからなる本編は、キャラクターコレクション的な妹視点からの情景描写を、ほとんど提示しない。とはいえ、地の文章こそ一切ないものの、聖羅の台詞の中で若干の説明はなされており、そのことは可憐の第5話ともある程度共通している。だが一方で、その可憐話の叙述と比べてみても、さらにいくつかの点で違いが見出せるのである。
 まず、
本編には、笑い声などの直接的な感情表現がない。可憐の場合、「うふふっ」「ぐすっ」「えへへ」などの感動詞に加えて、「!」や「?」、ハートマークなどの記号が多数用いられている。これに対して、本編では、「嬉しい」という言葉は確かにあるものの、それらの表現がほとんど見られない。これはもちろん、可憐の感情表現が豊かにすぎることの現れでもあるのだが、しかし、聖羅が(あるいは年齢相応に)非常に落ち着いた雰囲気の持ち主であるという印象を論者に与えてもいる。しかも地の文章による自己像が描かれないことで、聖修のこの落ち着きは、彼女の実際の姿そのものなのか、外面が描かれないためにそう感じられるだけなのか、それとも彼女本来の感情を抑制しているということなのか、確定できないままにおかれる。
 次に、各行が句点(「。」)で終わる場合が多い。これはテキスト表示の美観のための措置でもあるはずだが、このように台詞が文ごとに改行される場合、論者は、それぞれの台詞の間に若干の間を想定してしまい、そこに抑制やためらいを看取するのである。可憐の第5話では、キャラクターコレクションの書式に従って、複数の文を繋いで段落にまとめているが、それは、目の前にいる兄への言葉が止まらない彼女の姿を彷彿とさせる。これと同様に本編の文章も段落化してみるならば、たったそれだけで意外に異なった聖羅像を得られるだろう。
 これらを踏まえつつ、考察(1)で言及した「不在への視線」を適用するならば、例えば、「誰にあげるって言うとね……彼氏とかじゃないよ。私、居ないから。」と語るときの表情の機微や、その「……」の間の兄妹間の空気はどのようなものだろうか。「どう?美味しい……?不味くはない……よね。」の前後の空行では。保育所の子供達について話すときの表情は。「でもね。私、好きだからやってるんだよ。」から「料理は愛情って言うし、想いっきり私の気持ち、お菓子に込めるね。」までの間の空行の意味は何なのか。あるいはそもそもこの最後の数行は、果たして本当に聖羅が兄に語った台詞なのかどうか。
 こういった問題に答えるには、本編が与える情報はあまりに少なく、そしてそれが一つの効果にもなっている。外面の笑顔と内面の相貌に読者が何らかの「ずれ」を感じ取るとき、そこに、秘められた魅力の源泉がわき出る。原作では、妹達の笑顔は、ほとんどの場合そのまま内面の感情と直結しており、最も抑制的な千影でさえ、その笑顔や「……フッ」が押し隠された寂しさを示すには、アニプリ第18話リピュアAパート第6話を待たねばならなかった。あるいは聖羅は、笑顔を求めるがゆえに、その笑顔の諸相を妹視点から描き出せる貴重な存在なのかもしれない。



16.桜仔(浅羽秀明氏、テキスト東雲大尉氏) 〜病の在処と内気の膨圧〜

 本編「今だけは目を閉じて」では、桜仔(さくらこ)が兄にチョコを渡すことに一度失敗した後、その反省を踏まえて再び想いを伝える決意を固め直し、ついに成功するまでの顛末が、キャラクターコレクション1.5話分(33字換算で194行、13ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。兄途中退場パターンという珍しい形式を活かして、チョコを渡そうとする冒頭と終盤の2度の場面が、中間の場面での落ち込み涙ぐみながら再起を図る姿を挟んで、対照的に描かれている。

「桜仔ちゃんは上がり性な女の子/お兄さんと話をするために子鳥のハルとお話をして上がり性を直そうと悪戦苦闘中♪ そのせいか最近動物とお話が出来るとか。」


 この紹介文によれば、動物との会話という点では特技派にも分類できそうだが、動物との会話能力が現段階では兄妹の会話を円滑にするための一時的な手段にすぎないという点で、桜仔は特技派妹の条件を満たしていない。多くの特技派妹にとって、特技とは、兄妹の絆を深めるためのものであるとともに、自らの個性や生き方を示すためのものでもある。そのような自己実現の過程として修練されるべき特技は、兄妹関係を別にしても、妹という一個の人間から切り離せない不可欠の要素である。ところが、桜仔の場合、動物との会話能力は、兄と気楽に会話できるようになれたならば、もはや彼女の生き方にとって必要不可欠なものではなくなる。もちろん、その後もさらにその能力を発展させていってかまわないのだが、それは兄妹関係の未来に豊かな彩りを与えこそすれ、最初からその絆の根本に位置するものではない。この点で、例えば動物との関わりが兄妹関係と不可分の美虎音とは、特技の性質が明らかに異なる。
 そして、特技によって明確化されない妹の個性において、その否定的性格特性のみが強調されやすいとき、兄妹の良好な関係構築のためにその性格を肯定的に変化させようとする力と、たとえ否定的な要素であっても「妹らしさ」をそのままに留め置こうとする力とが、葛藤を引き起こすことになる。言うまでもなく、これは原作妹では鞠絵に当てはまる。桜仔を兄から遠ざける「上がり性」とは、まさに鞠絵の病気に近い役割を果たしているのだ。ただし鞠絵の場合、その疾患は彼女の体に宿っており、思うようにならない自分の体のために、彼女の心もまた気弱さに負けそうになってしまう。これに対して桜仔の場合、確かに「上がり性」というのもある程度は肉体に原因を持つものかもしれないが、本編を見るとやはりまず心の持ちように問題があるらしい。つまり、彼女の病は心の中にあり、基本的に気構えの問題であるがゆえに、本人が自覚的に治そうと努力できる一方、その成果が乏しい場合に、自分を責める度合いも強くなってしまいやすい。「頑張れば治せる」という自分への励ましを裏返せば、「治らないのは努力不足ゆえ」という自己批判が現れるからだ。こうして、桜仔は、病気という特質とそれに由来する兄との距離、欠落を補うための特技の修練や身近な動物の存在といった、鞠絵の特徴をほとんど共有しながらも、その病気を身体的なものではなく「上がり性」という否定的性格特性として定められることで、鞠絵ともいずみ(考察(1)参照)とも違う気持ちの病という新たな方向性を獲得しているのである。(「内気」などの類似した否定的性格特性を有するネオシスは少なくないが、彼女達にはそれを補いつつ自己実現を図れるような特技などがたいてい備わっている。)
 さて、動物との会話があくまでも過渡的な手段にすぎないとすれば、創作の中でのその位置づけも、特技派妹の特技のような全面展開とは一線を画す。そのことは、既に本編で非常に明瞭に示されている。桜仔は、バレンタインデーに備えて、小鳥のハルを相手に練習を繰り返していたが、「やっぱり本物のおにいさんは、ハルとは全然違う」というように、そのような行為の限界を自覚しているのだ。冒頭での失敗の後、ハルに事後報告をしながら今後の方策を問うとき、ハルの囀りは、「がんばって……もう、またいつもと同じ……」と解釈される。その「がんばって」とは、先述した通り、「頑張れば叶う/叶わないのは努力不足」という内面の自己批判の投影である。鞠絵のミカエルが活発に行動できるのに対して、ハルはかごの中で歌うのみであり、この姿もじつは飼い主の心を暗示している。その「上がり性」に苛まされる彼女の心が、チョコから叱咤の声を聞き取るのみならず、チョコを兄に素直に渡せていた頃の記憶を呼び覚まされるとき、その過去とは「まだ、私がおにいさんのこと、『スキ』だってことしかわかってなかった頃」、つまり鞠絵における発病前と同様の、自然で幸福な兄妹関係にあった時代である。そして、鞠絵が『Sincerely Yours』で最終的にその過去への回帰ではなく未来の獲得へと歩みだしたのと同じく、桜仔も、恋を知らない過去に戻るのではなく、新たな一歩を踏み出そうと決意する。もちろんこのとき、彼女の言葉は、既にハルには向けられていない。自分自身がかごの中から飛び立とうとしているからだ。

 それでは、このバレンタインデーで克己を成し遂げた桜仔は、もはやハルを必要とさえしないのだろうか。今までのような役割としては、おそらくその通りだろう。だが、その代わりに今後のハルは、「がんばれ」とは異なる新たな心の声、例えば「よかったね」などの言葉を与えられることになるのかもしれない。あるいはしかし、さらなる「がんばれ」の言葉を、しかも今までよりもはるかに前向きな意味合いで、語り聞かせるという可能性もないわけではない。その根拠は、本編の結びにおける桜仔のあまりに積極的な振る舞いに見出せる。この場面で兄が原作の兄にならって動揺するとすれば(つまり兄妹関係が恋人関係に移行しないのであれば)、桜仔のこの振り幅の大きさは、勇気を出して告白した想いを兄に受けとめてもらえたことの必然的な結果としてよりも、彼女の隠されていた性格特性の発露として理解されうるものとなる。
 この意外な内面とは、例えば原作では白雪や春歌に指摘されることの多い空想癖である。桜仔が「上がり性」であるゆえんは、確かに兄を恋愛対象として意識していることにある。しかし、さらに加えて、彼女の内心で兄との望ましい関係をあまりに情熱的に想像してしまっているとすれば。その空想がきわめて甘美であるがゆえに、現実の兄の前でも胸の鼓動を押さえられないのだとすれば。そして、それが単なる空想に過ぎないと否定されてしまうのを恐れて、兄に想いを伝えられなかったのだとすれば。「上がり性」の背後に潜むこのような過剰な空想は、その実現を阻む不安が払拭された瞬間に、一気に兄を捉えることになるだろう。
 もちろん、ここで述べたのは論者による一つの想定にすぎず、桜仔に空想癖があると断定するのは勇み足も甚だしい。とはいえ、「上がり性」であればこそ、夢に見る兄妹の姿はどこまでも甘くてかまわないのであり、その光景をハルに語り聞かせる桜仔の表情も、どこまでも甘くせつないのだと想像するものである。


おわりに 〜あと6人〜

 ここまでの考察3編で、本企画応募作品のうち16人のネオシスについて検討してきた。各人の性格設定は様々ながら、これだけの人数がいると、複数の妹に同じ特徴が見いだされることもさすがに少なくない。それゆえ、後の順番になるにしたがって、そのネオシスの第一の特徴よりも、別の特徴に焦点を当てることになりやすいが、考察の性質上やむを得ないこととしてご了承いただきたい。
 なお、本考察では、作品の文体や叙述形式についても若干言及した。これについて、論者は、シスプリメが「原作準拠」を志向する企画であることから、キャラクターコレクションを判断基準にしている。この視点からすれば、「原作準拠」形式の最右翼は、考察(1)で取り上げた成慕のキャラクターコレクション準拠作品と、次回で考察する海羽のオリジナルストーリーズ準拠作品となる。しかし、これらのように原作の形式を図るためには、文章の創作に加えて少なからぬ労力が必要であるため、誰しもがこれを実現できるというわけではない。そして、本企画がシスプリの可能性を追求する試みでもある以上、原作の枠組みを文体や叙述形式においても越え出ていこうとする積極性に、独自の意義を見いだすこともできるだろう。もちろん、それが原作への敬意を踏まえたものであるべきなのは、当然だとしても。
 あるいは今後、書式については、シスプリメ共通のフォーマットがいくつか用意されることになるかもしれない。それなりに一般的なウェブ環境で、できるだけ読みやすい作品表示を常に心がけることが、読者層の拡大のために役立つのだとすれば、この点についての検討は一定の価値を持つだろう(過度の画一化や一部の環境の排除などは問題だとしても)。
 また、文体については各クリエイターの個性が発揮される部分であり、これを云々することは論者の勇み足にしかならない。それでも若干の提案を許してもらえるのであれば、例えば改行箇所などについては、句点だけでなく、読点(「、」)であえて改行することも可能だろう。つまり、一連の台詞のように、もし複数の文章が連続的に語られるものであるならば、例えば、
   「それは、〜なの。
    だからね、〜するんだ。
    そしたらきっと、(…)」
と普通に改行するのではなく、
   「それは、〜なの。だからね、
    〜するんだ。そしたらきっと、
    (…)」
というように、次の文の冒頭にある接続詞などを、前の文の終わりに加えておくのである。論者は外国の詩の翻訳などでこの改行方法をよく目にするのだが、兄に語りかける言葉のリズムを整えたり、聞いて欲しい想いの強さなどを込めたりするさいには、応用可能かもしれない。
 とはいえ、以上のようなことはクリエイター諸氏には釈迦に説法であり、論者はまず自らの考察文体こそ改善する必要があるのだが。


(2004年4月28日公開 くるぶしあんよ著)


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