『シスター・プリンセス・メーカー』における妹の可能性

〜企画第2弾を手がかりに(2)〜



はじめに

 本考察は、前編に当たる(1)に示した基本的視点から、シスプリメにおけるシスプリ的普遍性と独自性とについて、企画第2段「St.Valentine's stories」応募作品のネオシスを対象に検討するものである。(1)で5名のネオシスを取り上げたのに引き続き、ここでは6名について考察する。


.杏奈・若菜(PSYCHICER氏) 〜双子と妹相互愛〜

 本編「ZAPPING Valentine」では、双子の妹が兄にチョコを用意し、兄妹がプレゼントの相互贈与を通じて互いの想いを確かめ合う過程が、杏奈(あんな)視点と若菜(わかな)視点からキャラクターコレクション各1話分(33字換算で119行/135行、8ページ/9ページ分、イラスト1枚ずつ)の物語として提示される。兄途中登場パターンであるこの話では、兄不在場面での妹個人の意識と妹間のその交錯、そして兄登場場面での3者の交流とを、対比的に捉えることができるだろう。また、クリエイターのサイトでは、さらに兄の視点からの物語が掲載されているが、この斬新な試みは妹視点の原作とは異質のものであると同時に、この兄妹達を捉えるさいに常に複数の視点が求められることの一つの現れでもある。

「杏奈ちゃんと若菜ちゃんはとっても仲がよい双子の女の子。そして魔導師のタマゴでもあります。ふたりは大好きなお兄ちゃんの許を離れて、自分達が魔法を使える理由を探すために魔導学校に通っています。」

 紹介文を読めば明らかなように、このネオシスの最大の特徴は双子の妹達という設定であり、それが彼女達に与える独自性は、シスプリの枠組みを軽々と越えてしまう。これは、きわめて危険であると同時に魅力的な可能性を、シスプリメに突きつけている。
 雑誌連載では、兄妹を一対一関係にするために、妹達の兄が同一かどうかは曖昧にされていた。これを踏襲するキャラクターコレクションでも妹達の相互交流はなく、ゲーム版を経て編まれたポケットストーリーズでは、一緒に数名いながらもどことなくぎこちなさを抱えていた。そのぎこちなさは、妹同士の関係が直接的にお互いを結びつけるものではなく、兄を介在して間接的に繋がっていることに起因する。部分的には、千影の「小さい人は可愛い」という言葉に示されるような、妹から妹への直接的な愛情表現も見いだせるのだが、それがあくまで例外的である点に、原作の兄妹関係最優先という原則が看取される。
 このぎこちなさが解消されるには、ゲーム版での一時的集結という段階を越えて、アニプリでの共同生活を待たねばならなかった。そこでは、しのぶ氏が『魔法の笛と銀のすず』2004年1月6日分日記で指摘しているように、女の子コミュニティが成立していた。第7話のウェディングドレス作りを通じて、妹達は、確かに兄と自分との結婚式を夢見たにも関わらず、その空想やドレス作りは妹達だけの間で共有され、兄を排除する結果となっていた。原作の兄=読者という前提と異なり、アニプリでは航=視聴者では必ずしもなかったために、このような事態が生じ得たのではあるが、この場面に代表されるようにアニプリで描かれた妹達だけの空間は、シスプリの原則をほとんど逸脱しかけながらも、妹同士の関係を豊かに描き出すことで、結果的にシスプリ界の発展に大きく寄与したのである(例えば鈴凛・四葉ペアもここに由来する)。
 この認識の上に立てば、杏奈・若菜という双子ネオシスは、アニプリで拡大された境界線を、さらに大きく踏み出す存在なのだ。彼女達の関係は、アニプリ的な妹相互の絆を継承するばかりでなく、そこに姉妹愛さえも実現しうるのである。創作における双子のキャラクターには、お互いを自分と同一視するタイプも存在するが、その場合、双子としての特殊性は強調されるものの、各人の個性はきわめて薄くなる。これに対して、杏奈と若菜が独立した自我を持ち、しかも両者は決して対等な関係にないことは、杏奈が若菜を「最高の妹」と呼び、若菜が自分を「アンナちゃんの妹でよかった」と独白していることに表されている。杏奈は兄の妹であると同時に若菜の姉であり、その「最高の妹」に対して非常に甘い。若菜は兄と杏奈の両方にとって妹であり、子供っぽさを強く感じさせる。そして杏奈は若菜を「愛している」。つまり、ここには、2つの兄妹関係のみならず1つの姉妹関係をも包摂した、兄姉妹関係が存在しているのだ。そして、杏奈が兄と妹を、若菜が兄と姉を常に見つめているように、兄も2人の妹に分け隔てなく想いを抱く。この兄の妹へのまなざしが並行的であるという点に、原作の兄との決定的な違いがある。本編が3つの視点から構成されているのは、つまりこのような関係と視線を包括的に描くための不可欠の措置だったのだ。
 このように姉妹関係を取り込むことで、杏奈と若菜は、ぎこちなさのない絆をあらかじめ有することができ、また、双子ものにありがちな単純な性格分担(外向的/内向的など)を回避し得ている。確かに杏奈は咲耶、若菜は可憐に似ている(兄呼称もそのままだ)。だが、そこに「ホワイト・クリスマス」に示される「でもお兄様、もし・・・もしもよ? わたしと若菜・・・どっちか一人選べっていわれたら、どっちを選んでくれるのかしら?」「もしお兄様がわたしだけを選んでもわたしが若菜を見捨てられるわけないし、若菜もわたしのことを見捨てるなんてこと、できないわよね・・・。」といった杏奈の自問自答が、若菜にはその対応物を全く見出せないということに注目すれば、そこには、原作の咲耶が示し得なかった姉妹愛に基づく自己抑制や、可憐が示し得なかった姉への疑いなき信頼感が、表現されているのだ。この姉妹愛が、本来必須の兄妹愛を妨げないまま培われるとき、そこには、兄という最年長者をめぐる兄妹関係と、最年少者の妹をめぐる兄姉関係とが重なり合った絆のありようが、豊かな可能性とともに築かれることだろう。そしてそのためには、
たんなる「よく似た姉妹」ではない双子としての特殊性を何らかのかたちで維持すること、そしてこの双子の特技である魔導が各人の性格や役割と今後うまく結び合わされることが、おそらく重要な意義を持つのである。



7.楓(氷室沙羅氏) 〜和風〜

 本編「ひとりでできるもん!」では、楓(かえで)が兄への手作りチョコを完成させるまでの過程が、キャラクターコレクション1話分(33字換算で114行、8ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。人気投票で第1位となったのは、楓自身の人気を別にしても、本編の構成や描写の巧みさによるものである。例えば、「トリュフ・オ・ショコラ」と「丸薬」という、主題と特技の結合は、苦さと甘さの対照もあわせて、特技派妹の課題を巧みに解決している。
 ところで、本編が兄不在パターンであることは、楓の性格と密接なつながりを有する。

「楓ちゃんは忍の里からあにさまに会うためにやってきた忍者のたまご。とっても恥ずかしがりやさんで、耐えられなくなると忍術でささーっと逃げてしまいます。それでもあにさまのことは大好きで、こっそり尾行しちゃうこともあるみたい。」

 楓は忍(考察(1)参照)と同じく、忍術を得意とする特技派妹である。特技の忍術は、様々な場面で用いられるが、しかしそこには大きな問題が存在する。楓が兄に対してのみ極端な照れ屋となるため、得意の忍術で兄の前から消えてしまいやすいのだ。忍の場合には、「隠れ身の術が苦手」という特技上の弱点が彼女と兄を接近させていたが、楓の場合、特技が彼女を兄から遠ざけてしまう。ここでは、楓の否定的性格特性と特技の連関が兄妹関係を困難にするという、原作妹達には見られない事態が生じているのだ。本編の楓は、その事態を自ら乗り越えるために、最後の場面で、飼い犬のイナ(稲穂)を相手に兄へ想いを伝える練習をしている。その成果が無事に現れることを論者は願う次第だが、これに対して「もうすこしだけ」では、舞台本番から逃げ出してしまった楓の苦悩が描かれている。
 ところで、その逃げ出した楓の独白をみると、和風の要素に気づかされる。例えば「あにさまが楓のせいで、はずかしくなってしまう」という言葉からは、「だんなさま」となるべき兄に、妻となるべき自分が恥をかかせてはならないという、夫にかしづく女性の姿が浮かび上がる。この和風っぽさは、楓自身の照れ屋という性格と分かちがたいが、忍術というまさに和風の特技を通じて、忍にも同様に感得されていたところのものだった。
 原作で和風といえば鞠絵と春歌であり、どちらも兄に尽くす妹だが、その尽くし方は対照的である。鞠絵の和風らしさは、兄のそばにいられず兄に迷惑をかけていることに対する申し訳なさと、わずかな機会も逃さずに兄に尽くそうとする健気さとにある。ただし、それらは基本的に「和風」というより「病弱」に由来するものであり、和風らしさにおいては、春歌の方が圧倒的に明確かつ積極的である。その態度は、和風という言葉に自己主張の弱さや慎み深さといった性格特性が含まれるとすれば、それを大きく逸脱している。だが、春歌の和風の根幹は何よりも、自分を兄にとっての「妹背」(=妻)と理解することで、兄妹=和風夫婦という図式を自明のものとしている、という点にある。つまりシスプリにおける和風とは、長刀や茶道・舞踊などの習い事や趣味によって示される特技的な要素や、慎ましやかで清楚で抑制的などといった性格特性などと並んで、妹における兄妹関係の理想像が、重要な意味を持つ。批判的第三者がいなくても常に兄=夫の一歩後ろに妹が立とうとするとき、その妹は和風である。しかしその場合、兄からすれば、妹が一歩引いているというより、自分が一歩前に出されていると感じることも少なくない。第2話で春歌によって頭上にリンゴを置かれたときの兄は、まさにそれである。そこでの和風とは、主である兄が従である妹の尻に事実上敷かれている状態をさすのだ。鞠絵も第7話の遊園地前でのみ、この意味での和風らしさを発揮しているが、彼女の場合はやはり、一歩引く和風の典型と言えるだろう。

 この観点からすれば、楓は、「だんなさまのひみつを守るのも、お嫁さんのおしごとだもの」と、自分達の関係を和風夫婦に内心なぞらえている。そしてもちろん、そこに兄の同意は求められていない。一見おとなしい楓は、じつはその内面に、春歌の積極的な「和風」を秘めているのだ。そしてその一方で、楓のおとなしさや照れ屋という性格特性は、鞠絵の抑制的な「和風」と同じく一歩引いた態度を彼女にとらせる。ただし、否定的性格特性が成長とともに和らげられるとすれば、楓はその積極的和風の面を伸ばしていくことになる。つまり楓は、現段階では春歌と鞠絵の両者の「和風」を併せ持つ妹であり、このまま兄妹=夫婦関係に疑問さえ抱かなければ、やがて春歌に近い存在にもなり得るのである。
 もちろん、シスプリにおいて妹達は劇的には成長しない。それゆえに楓も、今しばらくは積極的和風の可能態にあり続けることになる。しかしまたこの場合には、逃走行動をどのように解決するかが問題となる。その方策の一つは、発達段階と特技の接点、つまり楓の幼児性による技の未熟さにある。彼女は忍者として未熟というより人間として幼いゆえに、たとえ全力で逃げても、忍術の心得のない兄にさえ行動を読まれて見つけてもらえるかもしれない。また一つには、第三者による支援である。愛犬のイナは、鞠絵にとってのミカエルのように、主の代わりに兄を招き寄せてくれるかもしれない。このことは、本編での予行演習にきわめて間接的に描かれているほか、先述の「もうすこしだけ」では実際に、兄がイナの姿を追いかけた先に、楓を発見している。この支援的第三者の助けを借りずとも、兄に想いが伝えられるようになるとき、楓は新たな段階に進む。しかし、それまでの間は、この幼く恥ずかしがりやな妹を見守り追いかけることが、兄の日々の喜びであり続けるだろう。


8.彩音(アスマ氏) 〜競技的感覚〜

 本編「甘くて苦くて」では、彩音(あやね)が兄に手作りチョコを賭けた勝負を行い、意外な展開のもとで兄の手にようやくそれが手渡されるまでの顛末が、キャラクターコレクション1話分強(33字換算で156行、11ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。彼女のキャラクターコレクション的作品は、じつに本編が初であるが、それゆえに彩音の独自性は、勝負好きという一応特技派妹に属する特徴をはじめとして、本編の中できわめて明瞭に描かれている。これを検討する前に、まず彼女の紹介文を確認しよう。

「とにかく彩音ちゃんは勝負することが大好き。とくに兄とは勝敗数をつけるほど勝負をしています。学校までの道のりでも、食べ終わる早さでも、何でも勝負事にしてしまいます。趣味のゲームセンターでは格闘ゲーム、レース、音関係のゲーム、シューティング、すべてが得意分野。でも兄にはなかなか勝てません。現在は7勝252敗と、兄に負け越しています。何でもこなしてしまう兄に気持ちを寄せつつも、勝負でしか接することができない恥ずかしがり屋でもあります。」

 兄と勝負、というのは、あたかも女の「タタカイ」の一種として見なされかねない。確かにここには、万能の兄に挑む気構えが存在し、また「彩音が勝ち越したら1週間デート」という目的もある。だがそれは、兄と優劣を決することへの欲求や、衛のような特技において兄と対等の力量を持ちたいという欲求とは、やや異なっている。それは、勝負をするために兄と同じ土俵の上に立とうとする、勝負条件の公平さへの欲求に基づいているのだ。そして、彩音の竹を割ったような性格は、この勝負へのフェア感覚と、分かち難く結びついている。ただし、ここで注意すべきは、勝負の方法がおそらく彩音によって勝手に決定されるということである。妹が決めた勝負に、兄は否応なく巻き込まれる。この土俵が一方的に定められる点で、じつは兄妹は公平な立場にはない。このフェアとアンフェアの混在は四葉を想起させる(ただしキャラクターコレクションの四葉は兄と探偵勝負してはいない)。
 これらのことは、チョコを贈るにさいにして彩音が独白する「苦労して作ったチョコだもん、兄さんにも苦労してもらわなくちゃ」という一見身勝手な言葉に示される。この彼女なりの公平さに基づいて、彩音は結果としての勝敗を度外視している。あるいは、内心では万能の兄が勝って当然と割り切ってさえいるかもしれない。にも関わらず、対等な条件で挑んだ自分に兄が手を抜かずに全力で立ち向かってくれるとき、そこには勝敗以前に、兄と同じ場所に立っていること、兄が自分にだけ向き合ってくれていることへの喜びがあるのだ。

 とはいえ、勝負の結果はいつも度外視できるわけではない。とくに、結果によって自分の想いを兄に伝えられるかどうかが決定されてしまう場合は、勝敗こそが重要である。それでも自分が勝てばいいのならまだしも、本編では、兄が勝たねばならないはずのチョコを賭けた勝負に兄が負けてしまい、彩音は「勝ったら悲しいなんて思わなかった」と俯く。だが、いくら兄に勝ってほしいとはいえ、勝負の時点で兄にわざと負けようとはしていなかった。手を抜けば公平さを失い、兄と同じ場所に立てなくなるからだ。とはいえ、このままでは、兄にチョコを渡すという本来の目的は達せられずに終わってしまう。
 特技が兄妹を遠ざけるというこの皮肉な状況に、突破口を開いたのはやはり兄だった。勝負に負けたにもかかわらず、チョコが欲しい、と頭を下げたのだ。これは勝負のルールを破る行為であり、本来認められないだけでなく、兄の日頃の万能さをも自ら否定する振る舞いだった。兄のこの格好悪さが、しかし、彩音を明るい自省に導く。「だって、自分からチョコが欲しいなんて普通言わないよ?しかも自分の妹に!」と呆れた彼女は、「なんかバカみたい。チョコが欲しいと言うほうも言うほうだけど、あげたいほうもね」と、自分が定めた今回の土俵にも、問題を見出すこととなったのだ。そして、彩音が兄の求めに応じてチョコを渡したとき、この勝負は兄妹双方のルール違反による両者敗北となり、また同時に、想いを伝えられ、受けとめられたという意味では、両者の勝利となった。いわばノーサイドである。このような決着は、四葉の場合は、自分の土俵そのものを反省しえないために難しい。つまり彩音は、兄妹の競技的空間を構築しつつ、これを客観視できる批判視点も保持するという点に、独自性を示しているのである。彼女の年齢が比較的高め(中3から高1)に設定されているのは、この冷静な自己認識が可能となるための措置とも考えられるだろう。この冷静な視点と、彩音の性格とが合わさって、本編はシスプリとしては珍しいさっぱりとした読後感を与えてくれる。

 それにしても、このような巻き込み型の妹の場合、妹の求めに兄がどこまでつきあうかが焦点となる。四葉の探偵行動の場合、兄は素直に妹に従ったり(第5話)、妹のやりすぎをやんわりと咎めたり(第3話)、自分の過失から妹にネタを提供したり(第2話)している。彩音の兄がどの程度までつき合いの良さを示すのか、どこに限界を定めるのか。それは、勝負にさいして兄妹の想いそのものだけは絶対に賭けないという点に見出されるはずであり、本編の妹の想いが込められたチョコは、まさにこの限界線上にあった。それゆえに兄は、最終的にルールを破ってまでチョコを求めたのであり、妹も安心して想いを伝えられたのである。しかし、彩音が「照れ屋」であるがゆえに、この兄の掟破りさえもが兄妹の素直な交流を維持させられず、むしろ来年のバレンタインでの勝負ルールに回収されてしまうのではあったが。


9.愛乃(天煌純一氏) 〜超常能力〜

 本編「いとしい人へ愛する想い」では、愛乃(あやの)がチョコを作るさいの魔法をめぐる反省が、キャラクターコレクションほぼ1話分(33字換算で144行、10ページ分、イラスト2枚、カット1枚)の物語として提示される。兄不在パターンで綴られるその文章には、彼女の独特な口調が違和感なく溶け込んでいる。魔法でチョコレートケーキを作ることは容易
だったが、その容易さは、愛乃が兄への想いを込めたという手応えを感じさせてくれない。「バレンタインのチョコは、ホントにホントの手作りじゃないとダメだ」と気づいた彼女は、不慣れながらも自分の手でチョコをこしらえ、満足感と期待とで高まる想いを胸に兄のもとへ向かう。特技派妹における特技と主題(チョコ)の相克を描く本編は、とくに、超常能力を有する妹特有の問題を如実に示している。

 超常能力といえば千影である。日常世界と異世界、現世と前世の両方に視線を向ける彼女は、呪術や幽体離脱などの特殊な能力を通じて、兄を自らの居場所に引き込もうとする。日常世界に距離を置きながら兄を引き寄せることは、兄をこの世から連れ去ることになる。この未来を実現しえないためらいや意外な女の子らしさもまた、千影のかけがえのない一部分ではあるのだが、それにしても彼女が「魔女」としての闇の顔と、それに相応しい兄への執心とを、有していることは疑いを得ない。そして、千影と兄を取り巻く世界は、日常と異常とが対立し錯綜する空間として、他の妹達のそれとは全く異質な黄昏の色を纏っている。
 つまり、千影のキャラクターコレクションは、日常世界(明)と異世界(暗)、千影の兄への執心(暗)と女の子らしさ(明)とを対照的に位置づけ、しかもその対照を客観的に指摘しうる第三者を登場させないことで、世界観をわざとぼかしている。これによって読者は、作中世界が日常世界と変わらない(それゆえ超常能力は千影の妄想や誇張的表現に過ぎない)と捉えてもいいし、あるいは作中世界がはるかにオカルト的なものであると捉えてもよく、自らの想像に多くを委ねられる。そして、この闇をめぐる読者の想像こそ、作中の兄が抱く不安と魅惑を共感的に理解させるのである。
 これに対して、愛乃とその世界は、あまりにも光に満ちている。

「愛乃ちゃんはこれでもちゃんとした魔法使いなんです! まだまだ練習が必要だけど……妖精や精霊や……幽霊なんかも見えちゃいます。本人は幽霊とかオバケとか大嫌いなんだけど……。」

 超常能力を持つ「魔法使い」である愛乃は、しかし幽霊が怖いという1点だけでも既に「魔女」ではない。さらにその姿、その魔法の使い方を見れば、むしろ「魔法少女」と呼ぶのが正しい(マスコットキャラは不在だが)。「えはは」と笑う彼女の姿は、明朗で健全である。そして、魔法は日常世界と対立せず、むしろ魔法学校が存在するなど、日常世界の中に溶け込んでいる。このような世界で、愛乃は、たまたま魔法も使える女の子として、兄を慕っているのだ。これによって愛乃は、普通の特技派妹にほとんど近い意識と行動を示すことが可能となり、千影よりも日常世界に開かれたその自由な姿は、既存の作品に様々に描かれている。この超常能力と日常世界の親和性は、愛乃によって初めて明確に示されたものと言っていい。
 だが逆に言えば、このことは、魔法の潜在的な危険性や力への欲望といった闇の側面を、あえて払拭しているということでもある。魔法を日常世界と対立させないとき、日常世界は異世界を包摂し、魔法に優越する。そこでは魔法は他の特技などと同等のものとなり、その結果、魔法「でしか」できないことの意味は薄らいでいく。過去の魔法少女もの作品でも、魔法を与えられた普通の少女は、日常世界の基本原則をほぼ守った生活をしており、また最終的には逆に魔法の限界に気づいていた。同様に愛乃もまた、「つたえられる想い」では、「言葉は魔法」であり、兄と自分とがお互いの言葉で想いを通じ合えるとき、「今は魔法なんていらないです」とはっきり独白している。そして本編でも、魔法で作ったチョコレートケーキを否定して手作りチョコを肯定している以上、ここには魔法の否定の契機が立ち現れているのである。『魔法の妖精ペルシャ』の「魔法にもできないことってあるんですのね」や、『魔法のスターマジカルエミ』の「魔法、返そう!」といった台詞までの道のりは、もはやそれほど遠くない。
 思えば、千影があれほどまでに自分の超常能力に専心する理由とは、日常世界における禁忌(近親相姦の禁止)を乗り越えて兄と自分を結びつける正当な手段が、彼女の見る限りそれ以外にないからでもある。いや、正しくはもう1つだけある。それは、兄の側から禁忌を破ってくれることである。じつはこれらの点で、千影という妹は、日常世界の規範を尊重し、兄に対して非常に受け身の部分を持っているのだが、しかしまたそうであるからこそ、あえてその規範を打破して兄を招き寄せようとするさいに、兄の自律性を否定せんばかりに異常な執心を示さねばならないとも言える。彼女の魔法は、その飽くなき欲望がかたちを結んだものに他ならない。
 これに対して愛乃と兄の関係では、そこまでの執心は未だ描かれてはいない。兄は妹と会う度に、妹への想いを比較的積極的に示してくれる。そして愛乃も、兄を自分のものにしようという欲望までは抱いていない。もし、このままの関係が続いていくとすれば、魔法は現状通り特技の一種として扱われていくことになるだろう。だが、もしも、兄と「結婚できないことは知っている」愛乃が、それでもわずかな可能性を求めて、魔法によって禁忌を破ろうとまで思いつめるならば、そこには、魔法少女らしい闇のかたちが描かれることになるだろう。あるいはそこまで行かずとも、やはり彼女の魔法の源泉は、千影と同じく兄への想いなのかもしれない。例えば本編の最後に、「早く飛んで行きたいキモチで勝手に速くなっちゃう足に負けないように、そっと、でもぎゅっとチョコの入った箱を胸に抱えて……おうちの外へ飛び出しちゃった……。」と綴られるとき、愛乃の体は本当に兄の家へと飛翔していたかもしれないからだ。


10.乃彩(静葉氏) 〜夜行性〜

 本編「ほっと&すいーと」では、乃彩(のあ)がチョコを手作りする過程と、兄への想いに動揺をきたしながらその不安を乗り越えるまでの顛末が、キャラクターコレクション2話分(33字換算で274行、19ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。ホットチョコレートを作るという発想は、後述するような乃彩の特技とバレンタインの主題とを結びつけ、また一般に固形でありがちなバレンタインチョコの通念を打破しているという点で見事である。なお、本編がこのネオシスの初創作ということになるようだが、それゆえにか、贈り物のことのみならず、批判的・支援的第三者との関係や、兄妹関係への相対的視点の契機など、2編に分けても十分なほどの内容が盛り込まれている。それにも関わらず兄不在パターン(厳密には違うが)という形式をとっていることは一見驚きだが、彼女の特技を見るとその理由も明らかになる。

「乃彩ちゃんは天文趣味な女の子です。誰にも知られていない星を見つけてお兄ちゃんの名前をつけるため、毎晩のように望遠鏡を覗いています。でも、いつも夜遅くまで起きているから少し寝不足なようです。」

 天文趣味ということで特技派妹に属するこの乃彩は、特技派一般の長所と短所を有する以上に、その特技に由来する独特の行動時間を有している。それはである。
 夜といえば、再び千影の名が挙げられる。彼女の場合は、魔法や異世界との結びつきを示す夜闇や黄昏時が、独自の活動に相応しい時間である。ただし、その闇の妖しさがまず先に立つために、普通の夜の暗がりを兄と共有することは、かえって難しい。一方、他の原作妹達にとっては、夜とは、兄に異性的魅力を感じてしまう特殊な時間を意味している。それはお泊まりの夜であったり、戸外の夜であったりと様々だが、不安を抱く妹達を男らしく守り安心させてやることで、兄は妹に、異性愛に近いさらなる愛情を抱かせるのである。このように、千影と他の妹達とで夜の描かれ方は異なるが、しかし、夜という時間に特別な(異性愛的な)含意を見出すという点は、全ての原作妹に共通しているとも言える。それゆえに、そのような兄妹関係を常に求めている千影以外は、異性的兄の印象や妹の意外な内面などを強調するために、夜の場面をほとんど1話(大抵はお泊まりやその前振り)だけに絞り込んでいる。

 ところが、乃彩は天文趣味を有するがゆえに、その主たる活動時間がそもそも夜以外にあり得ず、夜は兄との絆を確かめる最も日常的な時間となっている。そして、夜だからといって過度の不安を抱くこともおそらくなく、むしろ天体観測に関しては兄をリードするほどに積極的になるのだろう。しかもその積極性は千影の異性愛的なそれではなく、他の特技派妹が昼間に示す一般的なものに近い。もちろん、この年齢の女の子として、ある瞬間に異性としての兄に胸をときめかせもするのだろうが、それでも夜が彼女の独壇場であることは変わらない。明朗健全な夜行性妹というのが、この乃彩の独自性である。それは、「寝不足」ゆえの昼間のぼんやりした言動などを、夜中の活き活きとした姿と対照的に描くことも、また、夜を中心とする兄妹関係という全く新たな絆のありようをかたちにすることも、初めて可能にしている。このような視点からすれば、本編は、日中の乃彩の姿のみを描いているという意味で、じつは例外的な作品とさえ言えるのかもしれない。なにしろ、友達に揶揄されるほど日課的な天体観測をあえて「お休み」にしてまで、兄のためのホットチョコレート作りに専念しているのだから。
 もちろん、これは、彼女に関わる創作の場面を夜だけに限定せよということではなく、昼間の彼女の振る舞いを読者が目の当たりにするとき、そこに夜の彼女の姿を想起するという楽しみが与えられているということである。既に秋那(考察(1)参照)について論じたときに指摘した、不在に思いを巡らすという視点が、ここでも適用できるのだ。兄不在パターンの作品構成である以上、本編はそのパターンに属する他の作品と同様、兄がチョコを受け取った後の物語は読者の自由な想像に委ねられている。しかし、こと本編の場合は、ホットチョコレートを兄が口にするのは、やはり瞬き始めた星の下であってほしい。妹からの贈り物に身も心も暖められて、兄がほっと息をつけば夜空をわたる季節はずれの天の川となり、その兄と向かいに立つ乃彩とは、これまた半年遅れの七夕のごとく。そのような想像を抱くのは、たんに論者が懐かしの小山田いく『星のローカス』のファンだからではない。千影の占星術や神話解釈とは部分的に重なりながら、天文学や気象学などに基づいたより科学的な知識を、兄への想いとどのように結びつけていくのか。夜の諸相が、兄への視線とともにどのように描かれていくのか。それはもちろん、なぜ乃彩が星にこだわるのかについての説明を交えつつ、具体化されていくことだろう。


11.焔(東雲大尉氏) 〜嫉妬心と血縁〜

 本編「甘い気持ちを受け取って」では、焔(ほむら)が潜在的な恋敵によって触発されて兄に想いを伝えるまでの経緯が、キャラクターコレクションほぼ2話分(33字換算で254行、17ページ分、イラスト1枚、カット1枚)の物語として提示される。「焔は兄様にとって何なのか」に思い悩んでバレンタインデーが好きになれなかった焔は、自分が兄の一番になればこの日を好きになれる、という論理を組み立てる。兄に本命チョコを渡す他の女子の姿を見たとき、焔は嫉妬しつつ躊躇するが、おばの赤いマフラーに励まされて、本命チョコを想いと共に兄に渡すことに成功する。ここで赤いマフラーのモチーフに挑戦するという勇気に拍手を送りたいが、これを可能としたのはおばという支援的第三者と恋敵という批判的第三者によってであり、そして後者を前にした彼女の嫉妬心が、白並木ユニットであるネオシスとしての個性そのものである。

「焔ちゃんはお兄ちゃんの事になると、とっても神経質になっちゃうヤキモチ焼きな女の子。でも、ヤキモチだけじゃなくて、イザという時にはお兄ちゃんの為にとことん頑張る。そんな、ちょっと健気な所もあるみたい。」

 嫉妬心といえば咲耶千影である。兄を独占したいという欲求は、どの妹にも少なからず備わっているものだが、これに異性愛や恋敵への対抗意識が加わるとき、それは強烈な嫉妬心として立ち現れる。咲耶の場合、第1話では兄にラブレターを渡す女子への敵意とためらいが、第2話では未来の兄の結婚式への悲しみが、第3話では兄と親しげな女子への直接的な対抗が、それぞれ描かれる。しかし、一般に焼き餅焼きとして理解されているにも関わらず、咲耶がその嫉妬心を、恋敵への憎悪にまで高めることはない。これに対して千影の場合には、第5話で兄と第三者結ばせてしまったキューピッドを想像し、「そんなこと、絶対に許さない!」と非常にまれな「!」マークまで用いて、そのキューピッドへの仕置き、つまりは想像上の恋敵の排除を決意しかけている。ここでの切迫感は論者の見るかぎり咲耶を超えるものであり、その原因は、兄妹関係の捉え方の違いにある。咲耶は、血縁のため結ばれ得ない兄妹であるがゆえに、それでも何とか「お兄様のそばに」自分が居続けられることを願う。一方、千影は、前世において兄妹が血縁でも異性愛でも結ばれていたがゆえに、現世においても自分主体の兄独占、つまりは兄妹一体な意志の回復を図る。本来の兄妹関係、「血」の絆の認識が、両者で正反対なのである。

 それでは焔の場合、嫉妬心はいかなる表れ方をしているのだろうか。本編でのそれは、恋敵への強烈な対抗心を示しながら、「兄様は焔のものじゃないけど、焔は兄様のものなんだから……兄様がどこかに行っちゃったら、どうしょうもないんだから……!」という独白に見られるように、兄のそばにいる自分という咲耶的な兄妹関係に立脚している。しかしまた、自分と兄が結ばれるかどうかについては、本編では一切語られてはいない。つまり、原作の咲耶が近親相姦の禁忌を強調するあまりに、義妹の可能性を表面的には大きく損なっていたのに対して、焔の場合には、その禁忌を自覚していないかあるいは問題視しないというかたちで、実妹・義妹の選択肢を残したままにある。
 そして、この隠蔽された血縁問題は、「ヒトミおばさま」の赤いマフラーが焔に渡され、これが彼女と兄の肩にかけられることで、既に一つの回答を与えられている。おそらく可憐の祖母や白雪のマダム・ピッコリに似た境遇をもつこの支援的第三者から、焔は想いを受け継ぎ、それによって励まされ、そして今度は想いの成就へと接近する。この展開は、ホワイトデーで兄が妹にお返しをする姿を描く「ホワイト・パフェ」において、さらに一歩前進し、その中で焔は、「焔のこと……選んでくれた……」と幸福に浸ることができたのだった。
 こうして見れば、今後の焔の嫉妬心は、既に確定されつつある兄妹の異性愛的関係を前提としつつ、それに波風を立てる事態に遭遇したさいに、その都度の批判的第三者に向けられていくことになるのだろう。だが、もし兄が妹を受け入れ、妹の想いが本当に成就してしまっているならば、それはもはやシスプリと呼べるのだろうか。兄妹関係の異性愛的な完結は、その妹の物語としての「終わり」に他ならない。バレンタインというイベント自体が「告白」という重大な要素をはらむとはいえ、焔の現状はシスプリとして必要不可欠な「寸止め」の線を、決定的に越えているように思われる。
 この問題は、今後クリエイターの創作の中で何らかのかたちで解決されることだろうが、あえて論者がそのすじみちを想像するなら、例えば次の2通りが挙げられる。1つは、本編を幸福な結末にこのまま据えておき、今後はそこまでの紆余曲折を描いていくというもの。もう1つは、この幸福な関係を獲得した後に、血縁問題が真に迫ってくるというものである。とくに後者については、本編で重要な役割を果たした赤いマフラー、もともと咲耶と密接に結びついたこのガジェットが、これからその本来の意味を露わにしていくのかもしれない。リピュア両パートで登場した赤いマフラーは、血縁と婚姻の両義的な象徴だった。それは、「赤い糸」として兄を自分に結びつける異性的絆への希望とともに、兄を自分と結びつけてしまっている血縁という呪縛への絶望をも暗示していた。だとすれば、焔に異性愛的な告白の勇気を与えた赤いマフラーは、逆に、血縁の悲劇性を教える鍵になるかもしれない。本編では描かれることなく隠蔽されていたこの問題が浮上してくるとき、焔の嫉妬心は新たな色合いを帯びることになるだろう。その意味で、真の呪縛はこれから始まるとさえ言っていい。
 もちろん、このような辛い展開にならずに、「結婚できなくとも一番であればよい」という、焼き餅焼きな可憐という方向で進む可能性も大きいのではあるが。


おわりに 〜やっと11人〜

 以上をもって、企画参加ネオシスの半数について、その独自性などを考察してきたことになる。いずれの妹にも、論じられた以外の特徴が複数備わっているものであり、本考察の目的がそれらを無視して単一の観点を強制しようというものではないことを、ここであらためて記しておく。
 なお、考察の目的からはやや外れるものの、ここで指摘しておくべきことがある。それは、本考察で除外している複数妹登場創作についてである。それらの創作はほとんどがパロディ的な作品だが、その中では時折、ネオシス達が楓を争奪しているかのごとき光景が描かれている。これは、最年少妹の一人である楓が他の年長者達から可愛がられやすいということの現れでもあるのだが、しかし、原作では、雑誌に連載されたパロディ漫画においても、このような妹達同士のみの関係が描かれることはまずあり得なかったことに注意したい。それは当然のことながら、妹達の愛情の対象が第一に兄であり、同じ立場にある他の妹を争奪するなど考えられないからだ。
 それにも関わらず、ネオシスのパロディでこれが可能となっているのは、楓自身が兄以外の者達に対しても「上級生のあにさま、あねさまたち」という表現を用いていることに関係する。唯一の兄だけが真の「あにさま」であるとしても、楓から見て他の多くのネオシスが「あねさま」と呼ばれ得るとき、ここには、杏奈・若菜において見出された姉妹愛が、より大規模なかたちで実現する契機が存在する。やがてシスプリメにおいて原作のポケットストーリーズのような複数妹登場作品が企画されたとき、あるいはさらにアニプリ的共同生活作品が創作されたとき(じつは論者がそれを創作したいのだが)、そこに兄妹関係と姉妹関係を重ね合わせて描くことも、これらの試みをもとにして可能となっていくのかもしれない。



(2004年4月13日公開 くるぶしあんよ著)

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