日記
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2006年8月1日(火) にぎやか
 疏水さんの更新チェックページが、とても楽しげでして。それぞれのサイトを共通する関心事ごとに近寄せることができるんですね、なんか広場のあちこちでわいわい、という雰囲気です。

 「終わり」でぐぐると第1位。がーん。確かにうちのサイトは終わってますが……いろいろな意味で。むろしろ管理者が。
2006年8月2日(水) おくれっぱなし
 ハルヒDVD第1巻、届いたもののずっと開封してません。こうやって見たい作品なのに延々見ずにいるということはぼくの場合よくあることで、そういやAir最終巻もまだですね。あ、どれみDVDもだ。
 最終巻といえば、ぼくはテレビシリーズの最終話も見忘れることが多い人間でした。それまで頑張って見てた作品ほど痛恨の逸機。グランゾートとか。あああ。
 まあ、今はアニメを見るより別件の支度をせねばなりません。めんどー。
2006年8月3日(木) 萌えはこの世に
 稲葉振一郎『モダンのクールダウン』読む。素直に面白かったです。内容は、近代批判の文脈に東・大塚・本田を位置づけて、キャラ萌えを越える虚構キャラの人間化に突破口を見出そうとするもの、というまとめかたでいいのかな。
 萌えキャラの属性に還元し得ない「分からなさ」や「厚み」みたいな問題については、以前に文集界隈でも、複数のメンバーからみたキャラ像を交錯させることによってキャラの立体感が得られる、という話があって。その解釈視点の多様性に基づくキャラ理解の深化というのみならず、分かっていくと同時にますます分からなくなっていく(少なくとも、分からないことのありかが分かってはいくのだけど)というような理解のありかたが可能かどうか、とか。
 これが近代的リアリズムのたんなる繰り返しにおさまらないためには、例えばぼくの場合、この現実世界の側に、まさに萌えキャラそのものみたいな女性が存在している、ということを知ってしまった(そしてそのひととの会話を通じて、とんでもなく分からないことが苦しく楽しかった)衝撃を、自分のなかに大切に根付かせていかねばならないのかもしれません。しかしそれもまたリアル世界の単純な拡大にすぎないのかしら。うーん。でもねえ、この世界に生きる人々が萌えを生み出しているのであれば、この世界にも萌えはそのまま息づいているのですよきっと。こういう立場からぼくはアニプリ考察を書いたのですし。
2006年8月4日(金) スイカだスイカ
 暑くて意識もーろー。

「あちー……。スク水食いてー。」

 わけのわからないことも叫びます。
2006年8月5日(土) 芸術はばすはくはく
 「破壊」は「芸術表現」(あるいは少なくとも「表現」)たりうるのか。現代芸術では自分の作品に破壊風味を混ぜることはあるみたいだけど。
 もし芸術表現として最大限認められるのであれば、他者の作品をまさに芸術的に粉砕することが可能となる。それでもたぶん損害賠償とかいろいろ大変だけど。また、例えばアレントの言う「仕事」としての芸術が何らかの創作された構造物をその条件とするということであれば、この場合「破壊」を許容することはますます難しい。あの芸術家きどりの基地外皇帝ネロがローマを燃やしちゃったのは、さすがに芸術とは言いがたいですし。
2006年8月6日(日) ひまわりの笑顔
 久々のプリキュア。飛ばし飛ばしで観てはいたのですが、みちる&かおるの退場話を逃したのはまさに痛恨の極みでした。ううう。
 で、咲の誕生日をみんなでこっそりお祝い計画の巻。素直にいい話です。そしてミズシタターレ様は今朝も素晴らしく松井菜桜子でした。思い出すのはアルバム『道楽女王』
 内気な転校生だった(っけ?)舞がすっかりとけこんでいたり、優子が健太を、健太が咲を、咲が舞の兄を、という地獄の関係図が成立してたりと、いいかんじで「シックネス・ラブ」。そいえば健太は先週話末、咲が「優子を健太の家に」なんてたいした意味もなくおどけたとき、健太が怒って咲を追いかけ回しながら、お前はタコ飯でも作ってろ、とかドサクサに紛れて言ってませんでしたっけ。あれは咲こそ俺の家に来い、という意思表示だったのかどうなのか。
 で、健太に若干マークされてる舞兄は隕石のプレゼント。それはつまり、メテオたん萌えということですか。兄の名前は、への8号。ところでこの兄、舞を送り迎えがてらそのまま居着いてるんですかね。あるいは、舞が浮き上がらないための防波堤がわりか。チームメイト達に人気でそうだし。
 一方、つつっと咲に手作りの咲顔クッションを手渡す舞ときたら。いつもそばに置いてもらえるように、とクッションを選択するあたりの想いの深さ。汗が、よだれが染みこみますように。
 そして『道楽女王』から連想すれば、あのクッションは「フォーエヴァー・フレンズ」なのか、はたまた「呪いのサマーセーター」なのか。後者だとすれば、クッションの中身は舞の頭髪です。
2006年8月7日(月) ためてるわけのひとつ
 というわけで、入院してました。
2006年8月8日(火) すぺおぺちゅうがく
 手術を前にアッセンブルインサートを受ける。それインフォームドコンセント。ぜんぜん違う。

 そしてしゅじゅちゅちゅー。部分麻酔なので状況がやや分かり。レーザーメスか何かで皮膚の焼けるにおいを嗅ぎながら、執刀医たちの会話もまる聞こえなのですが、

医者A「……嫌な感じだね。」
医者B「だね。」

 うわあ。

 けっきょく、予定の倍ほどの時間で無事終了。摘出したモノを見せていただけましたが、もうユッケとか煮こごりとかしばらく食べられません(食べる金もありません)。
2006年8月9日(水) すごいね人体
 夜中に鎮痛剤を2回入れてもらって朝。あんまり眠れなかったし、食事も抜いてるし、手術もしたし、とだいぶげっそり気分。
 でも体重が増えてる謎。すでに歩けるあたりも謎。
2006年8月10日(木) ぐったり
 暇なので、差し入れの『シャーロックホームズの冒険』文庫本読んだり。いかん、面白い。他のシリーズ作品を買いにいけない悲しさ。
 しかたないので、エヴァとパトレイバーの比較とか考えてるうちに、発熱してダウン。知恵熱ですか。
2006年8月11日(金) 妖怪大戦争感想
 暇なので、テレビでやってた『妖怪大戦争』を観て楽しむ。やりすぎ&やや足りないかんじ。以下ネタバレです。

 やりすぎというのは、あのラストって東京が爆心地になっちゃったのだと考えて。足りないというのは、CMカットのためかもしれませんが、少年とスネコスリの日常での機微を含め、各人の行動を支えるはずのエピソードがだいぶ省略されていると思われたので。正直、話の展開が速すぎるのです。
 妖怪ものにはエロスが不可欠だけど、これを姫さまに全面展開しようとするのは直球すぎて笑いました。また、少年が「敵を倒す」復讐心に目覚めたことが、かえって人間と妖怪との断絶をくっきりさせてしまう(最も人間的な存在だと思い込んでいた姫が、じつは人間を激しく憎み人間のような復讐心だけは抱くまいとしていた)というのは、足早な物語の中できちんとひっかかりを残しました。
 とはいえ、これは素直に、可愛い少年の怖がりようを楽しむ作品なのかもしれません。
2006年8月12日(土) 奇遇
 読むものがないといよいよ衰弱してしまうので、売店で新聞のほかに雑誌を何か1冊、と思って棚を見ると、並んでいるのは『プレイボーイ』と『週間大衆』。ええ買いましたよ『プレイボーイ』。生まれて初めて。
 で、きちんと袋とじとか開けてがっかりしながら、パラパラめくってたら、ウェブ関連ページでかーずさんが登場してて吹き出す。いや、こんなとこにまで……。
 あと、松本仁志が北朝鮮ミサイル問題に対して、日本も対抗して核武装すべし、ただし核ミサイル武装はベタすぎるので、核自爆用に保有すべし、と書いていたのにはさすがだと思いました。まさにサムライであります。
2006年8月13日(日) したたるしりーず
 病院でも観ますプリキュア。ああ今年も今作も水着姿は登場しないままなのね。でも浴衣でも大満足なり。そして咲の意外な隠し芸が炸裂。声がかわっちゃったぐり。
 予告で舞がついに大爆発。「お、思い出づくりに、二人だけでどこかに出かけない?」とか言ってた記憶があるのですが、聞いた瞬間に床に臥せってしまったのでどうでしたか。
2006年8月14日(月) 変換ごっこ
 もはや売店で買う雑誌すらなく、活字禁断症状に。ああ、せめてコミックRINだけでもあったなら(無理)。

 やむをえず、頭の中でネギまを藤田和日朗絵に変換してひがな遊んでました。逆も試してみたけどかなり難しい。
2006年8月15日(火) イシャはどこだ
 早朝、窓のすぐ外に救急車が止まる。

(あれ、近い……。どこに用なんだろ。)

 もちろんここです。
2006年8月16日(水) 点滴の腕は確かでした
 ドジな新米看護婦さん(今は「看護師」さんですか)がおりまして。おじいさんに渡そうとしてお茶をこぼしたりなんだり、一生懸命なのは分かるんですがいろいろと騒がしく。
 で、その人が担当の日に、予備のガーゼを少し持ってきておいてもらおう、と思いましてお願いしたところ、分かりました、と元気よくナースステーションに戻って足早にとってかえし、はいどうぞ、と差し出したのがどう見ても腹帯っぽい。
 もちろんぼくはにこやかに、どうもありがとう、と言って受け取りました(気弱)。
2006年8月17日(木) 頭こそ心配
(せいるさんは、別にぱんつそのものになりたいわけじゃないんだよなぁ……。)

 そんな哲学的なことを考えながら眠る日々にもどんどん飽きてくるわけでして。
 血圧を毎朝調べてもらってるとき、そういえば普段の脈拍数を調べておくと、時計がないサバイバル状況で時間をそれなりに正確に計測することができるんだったっけ、と思い出しました。でもあれって脈拍が落ち着いてないとだめなわけで、例えば非日常的な状況に陥ったときには動悸も激しくなってしまうものじゃないのでしょうか。
 そう考えたぼくは、では脈拍のかわりになる周期的な数値は何かないものか、と思いをめぐらし、やがて、どんな状況下でもおそらく一定のリズムをとるであろうものを発見しました。
 というわけで、テレビカードの残り度数で確認しながら1分ずつのちんちんたいむ。平均すると185回/分となりました。これって早いのか遅いのか。10秒なら約30回、3分なら約550回あたりを目安にすれば、サバイバルも万全というわけです。問題はそんな場面で暢気にちんちんいじってる余裕があるかどうかですが。

 てなことをしているうちにめでたく退院。やれやれでした。
2006年8月18日(金) 考察環境
 『消失』考察もずっと滞っておりますが、期待していただいてるみたいなので、体調回復しだい頑張ってみます。でも、そちらの考察も読んでみたいです。ぼくも朝倉さんの重要性をなんとか示したいとは思うのですが、やはり彼女に入れ込んでる人の解釈には、切り込む真摯さでかなわないものですので。

 あと、こちらの最新版リストをみても「うわあ」と思うのですけど、考察する準備段階として、作品解釈についての先行サイトを(せめて代表的なものだけでも)きちんと読んでおく必要があって、これがなかなか大変なのです。アニメ版シスプリ考察もネギま考察も『憂鬱』考察も、そうやって先行水準をふまえつつ自分の新たな解釈を付け加えてきたわけですが、それらはいずれも、作品への好意的な解釈がまだ綿密になされていない時期に公開することのできたものであり、『消失』みたいにすでに相当いじられている作品を取り上げるというのは、後発の手間という障壁があるのでした。

 このへんは、こちらのネギま考察界隈への意見を読んでも感じることで、さまざまな考察なり研究なりがあちこちで試みられることは賑やかでいいとして、それらが何らかの蓄積を果たすことがあるんでしょうかね。ぼくの場合は、この日記での感想や視点提起や他サイトへの言及と、考察コンテンツでのまとまった解釈の蓄積とを分けてます。膨大な分量の考察を参照しやすいかたちで掲載することは日記やブログでは難しいと考えるからです。ブログサイトでは、自サイト内でのそういうコンテンツ整理がどこまで可能なのか、またブログサイト間でのまとめリンク集などがネギま関連でどこまで構築されているのか、ちょっと気になるところです。あるいは、各所で提示された数値的・統計的なデータをもとに、新たなネギま像を勢いよく組み立てるというような、分析をふまえた綜合の試みが、ないものかな、と。

 あと、アクセスアップのためのネギま考察、とかいう流れもあったみたいですが。そんなことのためにネギまを読んでも、自分自身があまり面白くないんじゃないんですかね。作品が面白くて好きでたまらなくて、そういうやまざる気持ちが考察なり何なりというかたちでどろりとまろびでたときに、初めてそのコンテンツ作成者は持続的な注目を集めるだけの怪しさを持ちうるのだと思いますし。

 入院してる間に、鈴置洋孝氏が逝去されてました。がーん。なにやってんの。もう、あ〜るのみならず鰯水も登場できません。
2006年8月19日(土) 夕映のアーティファクトとか
 ネギま第15巻読む。久しく雑誌連載を読むことができなかったので、まとめ読みの快楽にひたっております。

 さて、新メンバーもいよいよ加入のネギパーティですが、この図書館探検部(木乃香を除く)3人娘の能力は、役割分担がすでにきっちり定まってるみたいですね。
  のどか:他人の思考を読み、情報を獲得する。
  夕 映:さまざまな情報を分析・体系化し、新たな概念や推論を生み出す。
  ハルナ:それらの概念などを表象(イメージ)として具体化し実体化する。
 こんなかんじで。思考・表象をめぐる能力の組み合わせによって、いろいろ面白いことができそうです。今後が楽しみ。

 で、このうち夕映のアーティファクトは、第15巻時点ではさほどの能力もない「魔法使い初心者セット」の一部である「初等魔術のための教本」(137時間目)と述べられているだけであり、上述のような能力があると作品中で明言されているわけではありません。しかし、このアーティファクトが「世界図絵(Orbis sensualium pictus)」(136時間目)という名前であることを鑑みると、おそらくその能力はより高度なものへと今後成長すると思われます(たんに上級教本に移るだけかもしれませんが)。
 すでにこの「世界図絵」という名前に関しては『ねぎとわけぎと。』さんにて論じられてますが、そこでは現実世界での同名作品の著作者コメニウスについて言及されているものの、話がアンドレーエ経由で薔薇十字団へと展開しています。それはそれで面白い話なのですけど、ここではあくまでアーティファクトの話にしぼって。
 で、このコメニウス。『世界図絵』を子供向けの絵入り教本として著したわけですが、神からはじまり自然世界や人間、社会・国家まで包含したその内容構成は、出版情報などをみると、じつは彼の「汎知学(Pansopia)」という学問体系が背景にあった、ということみたい。こちらの『薔薇十字団』書評にも「汎知学」の名が登場してますね。つまり魔術的、ということは当時の文脈では総合的な世界解釈の試みのとして、神も人間も世界も全部ひっくるめて一つの体系のなかに収めてしまおうというのがコメニウスの「汎知学」であり、その子供向けに分かりやすいヴァージョンが『世界図絵』だったというわけです。
 となればもうお気づきのように。夕映は現時点ではたんなる魔法入門者であり、日常世界によって限定された認識枠組みを魔法世界に拡大させようと努力している段階ですので、子供向け・初学者向けの『世界図絵』で学ぶのが当然。しかし、彼女がこれからもその地道な努力を積み重ね、自らの世界観を(彼女の人格的成長とともに)いっそう拡張していくならば、それにしたがって彼女のアーティファクトもまた、その能力を向上させ、やがては魔法世界も日常世界もひっくるめてあらゆる事象からそこに隠された知を導き出すような、そんな「汎知学」的な素晴らしい力を発揮することになるのではないでしょうか。
 ただし、そこまでの歩みはゆっくりとしたものであり、仲間たちの成長に焦燥感を抱くこともままあるかもしれません。だとしても、それもまた夕映の秘めたる才能の大きさを思えば許されることなのでしょう。考察中編2(3)にも記してありますが、「夕映」という名前が暗示するように、ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛ぶのですから。
2006年8月20日(日) じくじく
 もるですー(血が)。
 こないだドジっ娘看護婦さんの話をしましたが、じつは自分こそ粗忽患者でした。

1.入院手続き時、必要書類のありかが分からなくなって慌てたあげく、最初から手に持っていた
2.入浴後にちょうど通りかかった担当医に検査室で診てもらい、終わって部屋を出ようとして洗面器を忘れた
3.退院時、タクシーに荷物だけ預けてキャッシュコーナーでお金を下ろし、戻って乗り込んだタクシーが別の車だった

 その入院中、IRCでご心配いただきありがたかったわけですが、その不在時期の会話例。小学校の名前の話題で。

<MK2> ああ、あとあれだ。長崎の。
<MK2> 女の都。
<美森> 「めのと」だったか?
<MK2> です。しかしこの文字列はどうなんだ。
<美森> なんとなくあんよさん向けのような気が。
<Shun> 素敵だ。
<Shun> 略して女の小
<MK2> それこそあんよさん向け。

 みんなひどいや(笑)。
2006年8月21日(月) ぷろれたりあSF
 馬鹿話。

らむだ「テポドン騒動もどうなったのかねえ。」
美 森「もう旬が過ぎたんだろう。」
らむだ「弾道ミサイル発射できても国民は飢えているなんて。」
美 森「まあ、それが現実の社会主義。」
らむだ「考えれば、デュマレスト・サーガなんか典型的だったけど、
    結局は宇宙時代が到来しても、その宇宙にも貧困や格差社会があるんだよね。」
美 森「二等船室か。」
らむだ「で、宇宙マルクスが登場。」
美 森「宇宙蟹工船とかな。」
らむだ「ああー(笑)」
美 森「絶対脱走できない(笑)」

 どこの蟹を加工するのやら。
2006年8月22日(火) 読書の残暑
 『からくりサーカス』感動の最終巻。うわー、ちゃんと完結したー。途中、どうなることやらと思ってましたが、ほとんどたたみきるあたりはさすがです。『うしおととら』でできなかったことをやる、と言いながら、いくつかのモチーフは前作そのままのものもありましたが、フェイスレスのあの最期の揺れぐあいは、ぼくには納得できました。

 グインサーガ新刊。もう何巻だかわからない(半分本気)。ここのところますます「書きたい放題」加減が強烈な内容。読んでて楽しいことは間違いないのですけど、これほんとに完結するんですかね(今更)。ブラックホールのように、結末に接近すればするほど時間の流れが遅くなるような、そんな雰囲気。やがてほぼ停止。
2006年8月23日(水) 噴射のリアリティ
 馬鹿話。

美 森「エロ漫画読んで鼻血出すなんてこと、実際にあるのかねえ。」
らむだ「うーん、さすがにそれはなかった。
    でもぼくも子供のころはちょっとした刺激で鼻血出してたし、実際ありうるかも。」
美 森「いや、ああいう鼻血ぶーはありえない。」
らむだ「そりゃまあ、あんなふうに噴出したりはしないだろうけど。」
美 森「母乳ぴゅっぴゅっくらいありえない。」
らむだ「なにー(笑)」

 そっちは実際にあるんでしょうか>識者。
2006年8月24日(木) 訂正
 先日、(せいるさんは、別にぱんつそのものになりたいわけじゃないんだよなぁ……。)と記しましたが、これについてご本人から「いや、なりたいと思うときもあります。」とお答えいただいておりました。遅ればせながら誤解をここにお詫びし訂正いたします。
2006年8月25日(金) 人形愛
 プリキュア放映中のCMで、おもらししーちゃんの宣伝が最近なくなったので心配していたのですが、まだ売ってるみたいで安心しました。

美 森「そんなに気になるんなら買って送ってやる!」
らむだ「い、いやいやいや。」
美 森「オリエント工業のやつの方がいいか!」
らむだ「い、いやいやいやいや。」

 手元にあっても毎日お世話できないもんねえ(理由がそれか)。
2006年8月26日(土) 物語である前に、人
 ハルヒ関連で。ええと、その読み方こそキョン=読者を神にしてしまうのではないのでしょうか。違うのかな。
 手に入れられなかった学生時代への憧憬というのは、ぼくもやはり感じて自分の考察で(まるでモテない古泉の語り口みたいだ、などと言われながら)基調に用いたものでした。ただ、キョンが主人公でハルヒはキャスト、という位置づけにはどうも抵抗がありまして、つまるところ、ハルヒもキョンも自分の人生を生きているという意味でこの物語の主人公である、とするのがぼくのしごく単純な前提です。

 このことは、例えば他の団員たちについてこそ、自覚的に述べていたつもりでした。考察6(1)で、ぼくは次のように記しています。
 
「虚無性は、ここではモノや道具としての存在が自分自身の意味を見出す過程においてという、ハルヒの場合とは違ったやりかたではありますが、やはり乗り越えられているのです。」

 つまり、ハルヒとキョンのいずれを主人公と見なすにせよ、そのような立場からでは等しく「キャスト」なり道具なりと見なされてしまうような三人が、すでにこの『憂鬱』の時点でその道具的規定を脱ぎ捨てることができた、というわけです。そして、ぼくはこのように登場人物たちを主体化することで、虚構中のキャストという位置から現実世界に引き寄せ、セカイと世界を重ね合わせようとしているのです。

 とはいえ、ぼくはあの考察で「ニヒリズム」解釈を批判するために生の象徴として「乙女の純情」を持ち出したわけですから、ぼくのこの解釈を受け入れられない(あるいはその解釈に独断的な傲慢さを見て取られた)方が別の何かをもって作品をもっとわくわくするように読まれるというのは、もちろん素晴らしいことだと思いますし、その読み方をぜひぼくにも分かち与えていただきたいと思います。で、そのへんの基本的な立場は、そちらとぼくとでそんなに違わないような気もしてます。
2006年8月27日(日) すいーとくろす
 プリキュア。すっごくかみ合わせの悪い展開に、もしやと思ったら脚本羽原。ちょうど新アイテム登場への布石をうつ回だったので、中途半端な内容もやむなしなのかもしれませんが、うーん。
 ところで、フラッピ・チョッピでの変身のかわりにフープ・ムープで、という予想展開に、何かひっかかりを感じていたのですが。これはあれか、ガオガイガーの氷竜・炎竜と風龍・雷龍か。べつにシンメトリカルドッキングはしませんけど。それむしろ咲と舞が。
2006年8月28日(月) うちの祖父は祀られてません
 靖国問題についてちょっとだけ。

 A級戦犯がどうとかいうのも確かに一つの焦点ですけど、そもそも靖国に祀られている戦死者同士の間で、恨みつらみはないんでしょうかね。みんな戦死してるんだからお互い様、という考えもあるでしょうが、中には、「あの上官のおかげで無意味な戦死を余儀なくされた」という仏様が、その上官と一緒に祀られているということもあり得るのでは。
 そのへんの様々な違いを、「戦死者」というかたちで一緒くたに均質化してしまうのが靖国の手法なんだとすれば、ぼくはそのやり口には馴染めません。速水さん(8/16)もご指摘のとおり、ちょっとでも戦史をひもとけば「もっと怒るべき」だと感じられます。東京裁判を否定したり中国韓国の陰謀を叫んだりする人こそ、自分たちの国の軍人・指導者に対する冷静な批判を今こそきっちりしておくべきじゃないのかな。

 「じゃあ原爆投下は無罪なのか」とか反論する人もいるだろうけど、言うまでもなくそっちも吟味すべきなのであって、日本が無罪かアメリカが無罪かしか選べないような思考がすでに硬直してるという話。国内での批判と中韓への批判だって両立しますし。
2006年8月29日(火) 相談だ
 REVさんとこから、こちら。REVさんに引用されている元記事の

>ベトナム戦争では、普通の兵士は一人殺すのに平均して5万発もの弾丸を費やしたのに対して、「人殺しの訓練」を徹底的に受けた米軍狙撃兵は、敵一人殺すのに平均1・3発の弾丸しか必要としなかった。

という記述は、もしや困った内容なのでは。というのも、「普通の兵士」の戦い方は、敵兵への命中ではなく敵陣の制圧を目的として弾幕を張るために(自動小銃による連射などで)大量の弾薬を消費する一方、「狙撃兵」の戦い方は、敵に自分の位置を察知されないように一撃必殺を狙いますので当然のごとく弾丸を浪費しないからです。と常識的に考えましたがいかが。もちろん訓練の影響は重要ですが。
 もしもそうだとすると、こういう記述はすぐに軍事系の人たちからツッコミを入れられて、主旨としてはいいことを書いてても、部分否定から全否定にもっていかれることが多いので、もったいないなあと感じます。それにしても、この箇所はデーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)からの引用のように書かれていますが、あの本にほんとにこう書かれていたのかしら。いま手元にないので確認できませんが、あれは米軍元士官によるとてもいい研究本なので、関心のある方はぜひ夏休みの読書感想文用に。

 識者から回答いただく。ありがとですー。さすが自前でぼにうの出る人は違う(事実誤認)。
 そして美森氏に作ってもらった画像でトップ更新。どもです。元ネタは例のあれ。
2006年8月30日(水) 解釈即生
 あ、了解です。他者の理解不可能性とかそういう問題でしたら、それはその通りだと思います。にもかかわらずぼくはハルヒや長門さんの視点を捏造して考察しようとしているわけで、つまり先日「傲慢」と書いたのは、他者の視点をそのように独断的に構築し、そこから理解できたと思い込んでしまいかねないぼくの態度についての表現でした。そしてこの分かったつもりになっているという態度そのものがまた、作品中でキョンがハルヒや長門さんに対して示している態度のまんまだったりして、ここでもぼくはキョンと重なり合うのでした(嘘)。
 つか、このへんはぼくが考察を書くさいに(自分の頭ではどうにもならないので)意識的に避けている「批評」の領域ですね。ぼくとしては普段どおり読んでいくことしかできないので、長門さん考察を後日掲載したときにはまた批判いただければありがたいです。
 そう言いながら書けなかったときはどうしよう。あるいは、「自分への立ちかえり」というのはつまり、もっと真面目に生活しろということかしら。それもまったくその通りです(駄目)。
2006年8月31日(木) 俺の目を見ろにょ
 馬鹿話。

らむだ「グリーンマンの歌ってどんなんだっけ。」
美 森「軍艦マーチのやつ?」
らむだ「それじゃないやつ。よく聞け〜手下ども、の次なんだけど、
    『子供を舐める真似はよせ』だったっけ。」
美 森「絶対違う。」
らむだ「でも確か、そんなかんじの……。」
美 森「子供を『狙う』です。」
らむだ「あ、あー。でも似てるよね。」
美 森「お前にとっては根っこが同じ願望なんだろうが……。」
らむだ「俺の声聞けー、『幼女好き』ー。」
美 森「書いとけ。」
らむだ「でも歌詞書いてると、JASRACに見つかってまずいのでは。」
美 森「別の組織を恐れたほうがいいぞ。」

 警察とかかしら。

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