日記
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2006年12月1日(金) ネギまティーガーの再検討
 12/20のこちら、アニメ版『ネギま!?』に登場したティーガー模型の描写について厳しいツッコミをされてます。が。
 たしかにご指摘の点はその通りなのだと思いますし、あたらいい加減なものをさも正しいかのように描いたのだとしたら、それは問題です。私も自分の関心事についてこんなことされたら、たぶん批判するはず。そして、ぼく自身は作品を実際に視聴してないので、うかつなことは言えません。

 だけど、ここで気になるのは、「裕奈」が戦車模型を、というところです。
 原作だとそんな設定はまだどこにも登場しておらず、アニメ版独自の、あるいは暴走した設定ということだとはあり得る話です。しかし、なぜわざわざ裕奈なのか。もっと手先が器用そうなキャラがいるはずなのに。もしもこれがアニメ制作者の暴走でなく、むしろキャラの個性をふまえた独自の表現だったとしたら、何か別の可能性はないのでしょうか。
 そう疑問を抱いてこの批判を読んでいくと、最後の方に示された以下の文章が、一つの手がかりを与えてくれます。

>実は真名が絡むと設定が急に引き締まって間違いがなくなるだけでなく、原作の設定をわずかにシフトさせるような細かいネタも見られたりします。

 もしや制作者は、兵器・戦闘のプロフェッショナルである真名と、完全にアマチュアでツッコミどころの多い(しかも自分でそれに気づいていない)初心者である裕奈とを、対置したかったのではないでしょうか。
 同じ話の中で二人がこの点で扱かわれてるのか分かりませんけど、裕奈がいかにも初心者で、にわかミリタリーマニアで、しかもその間違った知識を(もっと知識のない友人達に)偉そうにひけらかせばひけらかすほど、何も語らずしかし兵器や戦争の真実を知っている真名のありようは、いっそう引き立ちます。であれば、「ツィメリット云々」と蘊蓄を垂れる裕奈の「無知の無知」ともいえる滑稽さは(それはまた彼女の活動的な魅力ともつながるものですが)、一つの演出方法として理解できるのです。すなわち模型の誤りは、アニメ制作者の無知によって描かれたのではなく、制作者によって意図的に「全部間違っている」ものとして描かれたのです。それが演出として成功したかどうかはさておき(視聴者に気づかれない演出は、なかったも同然ということにもなってしまいます)。例えば、裕奈の勘違いについてその場で指摘しツッコんでくれるような仲間がいればその意図も視聴者に伝わりやすかったでしょうが、クラスのツッコミ役である千雨や夕映はもとより、その方面の知識をもつ級友はおそらくいません(ハカセも厳しそう)。たとえ真名が持っていたとしても、わざわざそんなことにツッコミを入れるような性格ではありません。適役はせいぜいカモぐらいですかね。役割分担の空隙といえるのかも。

 ですから、ぼくのこの勝手な想像が一部なりとも妥当であるとすれば、ミリタリーマニアからの今回の誠実な批判は、まさにこの演出意図を、描写のレベルのみに対する全面否定というかたちで受け止めたものとなるでしょう。しかし、裕奈の模型と知識は間違っていればいるほど望ましかったわけですし、視聴者がそのことに気づいたうえで、制作者の意図をも看取してくれることが大切だったのです。そして作品全体を観る立場からは、今回の個別的な批判をふまえつつ、裕奈や真名の個性を対比的に描こうとした演出全体の意味を見出すように努めるほうが楽しいのではないでしょうか。

 よってぼくが言いたいことは、この批判が「木を見て森を見ず」というたぐいの視野狭窄であるという逆批判ではなく、この批判が書かれたおかげで、アニメ版『ネギま!?』をさらに深く楽しむきっかけを得られたのかもしれない、ということです。ティーガーの名前や上っ面こそ知っていても詳細を知らないぼくたちは、裕奈の友人と同じく、「へー」と表面的に感心して終わりかねなかったのですから。いわば、クラスにいないミリオタ的ツッコミ役を、この記事は千雨的に見事に果たしてくださった、というわけです。「ったく、これだからにわかマニアってやつは……」とイライラしながら独り言をつぶやく千雨の姿が、そこに浮かび上がってくるかのようです。視聴者ファンもまた、こうしてあのクラスのごとく、それぞれの役割を分担しながら、賑やかな場を共同構築していくのでしょうね。
 というわけで、DVDで修正を要請なんて話は、少々気が早すぎやしませんか、と。ぼくが実際に作品を観てみたら、また考えが変わるかもしれませんし、実際にDVDで修正されるかもしれませんけど。
2006年12月2日(土) 裕奈のこととか
 昨日分に記した内容がどれほど妥当かは、視聴された方々からのご批判をまちたいところです。
 とはいえ、そこでぼくは、考察の書き方に示した通りの自分らしい解釈姿勢を守っているつもりです。「観てから書く」という大原則を逸脱してますけれども。
 例えば、「作品の一番の弱点・欠点にこそじつは素晴らしい何かが潜んでいた」という可能性の模索や、それを支える「作品に描かれた事柄の全てには意味がある、と信じる」態度、「キャラの個性や人間関係、物語展開などから、個人と物語の基本原則や独自性を導き出す」ための手続きなど。アニメ版シスプリでも、あのきわめてエキセントリックな物語の中で妹達の個性のかけがえなさはなんら変わらず存在していたのですから、『ネギま!?』でもそれはある程度期待していいでしょう。
 実際、四半世紀もミリオタしてながら未だに初心者のぼくでさえ、あの絵から「あ、これツィンメリットコーティングしてないよ」とすぐに分かります(他の指摘箇所はともかくも)。そこから、「これは演出や作画のミスだ」と考えるのか、それとも「そんなに分かりやすい間違いをあえてした積極的な意図はどこにあるのか」と考えるのかは、ぼくにとっては作品を楽しみ登場人物をより深く理解するうえで大きな違いです。

 例えば、今回取り上げられた裕奈の場合、原作で繰り返し描かれている彼女のいわゆる普通の女子中学生らしさ・スポーツ少女らしさや、お祭リーダー的な性格にくわえて、世間でマニアックとされる趣味に対する積極的なチャレンジスピリットを、アニメ版では強く描き出し、裕奈の魅力に新たな一面をもたらしているのです。たぶん。
 そして、この発見をもってあらためて原作漫画を読み直せば、そこでもすでに裕奈が超一味の発明品やコスプレをはじめ、世間では一般的でない対象に先入観なく「面白そう」と手を伸ばしていることに気づかされます。それは、あのあまりに多様な者達が結集したクラスにあって、その雰囲気を包容力あるものにして誰一人排除されないかけがえのない居場所にしている大きな要因の一つが、この裕奈の個性にあるのだということを、再び感じさせてくれるのです。思えば、背中の傷に深いコンプレックスをもつ亜子が、いつしか着替えのときにもその素肌をさらすことを怖がらなくなったのも、こういう裕奈のような「脳天気さ」が、すべてを受け入れてくれるという安心感を与えてくれるからでしょう(第14巻123時間目にちゃんとその指摘あり)。
 時に暴走してネギ達を困らせることもしばしばですけど、諸々のこだわりを吹き飛ばすその賑やかさが時に何よりありがたい人達も、このクラスにはいますよね。超もその一人だったはずですし(第15巻135時間目)。

 こうしてぼくは、ちょっと裕奈が好きになるわけであり、またこういう気持ちになっていけるのが、ぼくにとっての「考察」です。
2006年12月3日(日) 知恵熱でそう(横レス御免)
 今木さん12/27分から、市民革命の担い手について。受験参考書が手元にないので、『新編西洋史辞典』(東京創元社、1983年)でみてみる。って古い本だこと……。

「ブルジョア的発展が最も進んでいたイギリスでは、革命の主導権を新興の地主・商人が握り、農民・市民大衆の要求が排除され、妥協的な革命にとどまったが、両主権の残存の著しかったフランスでは、ブルジョアジーの革命にとどまらず、下層の農民・市民が革命に強力な介入を行い、封建的権利・義務の廃棄が徹底して行われ、農民的土地保有が実現した。」(p.340)

 もちろん、最近の研究で覆されている内容かもしれません。あと、清教徒革命については、宗教的セクト集団による公共社会の全面的な宗教的空間化がとくに強烈に試みられたという点が、他の革命でも宗教諸派の影響があったとはいえ、「市民」革命と呼びがたいところでしょう。それでは少なくとも「革命」とだけは呼べるかと言われれば、revolutionの「復古」「回帰」という原義に基づけば、信仰上の原点回帰・純化(まさにpuritan)という意味ではそれにあたるとしても、もうひとつの伝統である古典古代ゆかりの政治的な意味では、ちょっと言いづらい、と。

 で、アメリカについては、フランス革命との対比でハンナ・アーレント『革命について』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1995年)より。いまの革命の原義についてもこれをすでに参照しましたが、久々に読んだら面白いのなんの。

「アメリカ革命をのぞいてすべての革命にとってもっと緊急でしかも政治的に解決困難な問題を投げかけたもの、つまり、おそるべき大衆的貧困というかたちであらわれた社会問題は、アメリカ革命の過程ではほとんど役割を果たさなかった。」(p.32)
「もっともフランス革命のばあいでも、その最初の段階ではこの統治形態の問題は非常に重要だったが。これと対照的に、群衆の光景に威圧されてロベスピエールとともに『共和政だって? 王政だって? 私の知っているのは社会問題だけだ』と叫んだのはフランス革命の人びとであった。」(p.78)

 ここではアーレントらしい視点から、2つの革命とその担い手が区別されています。ひとつは、革命の担い手が政治的(つまり政治的公共性確立への)要求を掲げてそれを一貫できたアメリカの「市民」。もうひとつは、当初はアメリカのそれと同じような政治的要求を掲げながらも、やがて貧困階層への対応(取り込みや馴化)、さらには貧困階層そのものの無視し得ない「力」化によって、狭義の政治問題ではなく社会問題に対するものへとその運動を変質せざるをえなかった(この要素ももちろん最初からあったはずですが)というフランスの「市民」です。「市民」それ自体の中身はさておくとしても、このように「市民」が置かれていた関係が大きく違っていたようで、となるとそれは結局、社会的関係の中でとらえられるべき「市民」自体の性質も違っていたということになります。
 で、元の話題のひとつにも関わる日本の明治維新の場合には、薫さんが指摘ずみ。

 野嵜さんの方で続けられているスピノザの話題だと、そりゃ無神論のなかにもキリスト教的な無神論てのがあるわけで。キリスト教に基礎をもつ西洋的理性が親殺しもしかねないほどに徹底しえた、という指摘については野嵜さんのおっしゃる通りではないかと。カール・レーヴィットの哲学史で、最後をスピノザに戻って締めてたような記憶があります。

 愛国心については、「素晴らしい国だから愛する」だと「素晴らしく思えなくなった」ときには愛する必要がなくなるわけで、むしろ「自分の生まれた国だから」愛する方が、その国がおかしくなったときでもその国を見捨てず立て直していこうと努力できる。ということでしょうか。もちろん、一切の問題に目をつむるという「愛」はここでは注意されるべきで。そのへんはもう今木さんが説明されてる通り。例えば野嵜さんは、自らの愛国心に基づいて愛国心教育を批判されてるわけだし、北朝鮮国民が愛国心ゆえに現状を憂えて体制転覆を志す場合もあるでしょう。

 天皇制については、その制度にぶらさがろうとする諸々の事柄がどうしても気になります。それらがあるから天皇制を廃止すべきだとも言えるし、天皇制がなくなってもそういう社会の構造や仕組み、またそれを支える日本人の心性が残ってしまうなら、それはもはや天皇「制」だけの問題ではない、と。そのへんを慎重に検討すべきだというのが日本近代化論の一視点だったのではないですかね。(ソースとしては丸山眞男『忠誠と反逆』所収「歴史意識の『古層』」とかどうでしょう。)

 野嵜さんと高橋さんのやりとりは、いわゆるイギリス的な意味での「常識」に基づく保守と、大陸ヨーロッパ的な理念に基づく革新との議論に(単純化してしまえば)読めるのですけど、考え方としてはぼくは野嵜さんに近いのかしら。ただ、「自由と寛容を求めるに発して、宗教的独裁制に達」(堀田『ミシェル城館の人』)するような契機や「自由の専制」を予感こそすれ危機感は未だないですし、ユマニストの慎重さが問題となる場合があることも痛く承知しております。
2006年12月4日(月) 石炭
 黒いダイヤモンドじゃなくて、赤い方。浦和レッズ優勝ー。Jリーグ発足当時、「レッズが勝ったら一部商品半額」などというキャンペーンを、とあるファストフード店がやってたという思い出。そんな商売をしても間に合うほどに、さっぱり勝てなかったというあの頃。本当におめでとうございます。

 しかも、プリキュアでは薫と満がついに復活。ああ、しやわせ。
 キリヤも向こうで祝福してくれてるでしょうか。
2006年12月5日(火) その頃、眞深は南米に
 浦和レッズの優勝を祝して、ねろさんが妹12人レッズを見事全員分を描ききってます。すごい躍動感。
 応援団の山田を想像したら、この赤いユニフォームがなんかやたら似合いそう。
2006年12月6日(水) 名物にうまいものあり
 同僚の出張土産に、茨城の「妹ほっこり」とか沖縄の「ちんすこう」とかいただく。どうしてこんなにストライクをついてくるのでしょうか。
2006年12月7日(木) なお産経への言及はなし
 『将棋世界』新年号。特集は「名人戦の真実」。ほとんど無謀ともいえるページ数で、あの騒動を連盟理事側の見解をもとに描き出しています。この刊行当時はまだ名人戦問題の決着がついていない状況にありながら、毎日新聞社への反論を行うのはややタイミングが悪いのではないか、という不安も確かに抱きました。しかし、マスコミ側の主張のみが喧伝されるのはたんに不利でしかなく、連盟側にこの『将棋世界』という宣伝媒体があるのだからこれを使わない手はないという判断なのでしょう。自分に有利なことをどんどん主張した方がいいというのは経済の世界では当然の話。今回は、「連盟からの批判がありうる」という事実を新聞社に意識させただけでもよし、と。
 ただ、このことをきっかけにして、米長をはじめとする理事達の主張のみが雑誌を形作るようになると、それはそれでまずいのでは。今回のような大事件のさいには意思統一(の態度)が必要であるとはいえ、神崎棋士のウェブ日記のような、内部からの連盟批判についても、自浄作用を示すという意味で紙面に反映させていくことが、一考に値するのではないでしょうか。
2006年12月8日(金) 悪役登場
 『将棋世界』といえば、12月号で渡辺竜王が「私は予想を裏切るだろう」というキャプションとともに特集されてましたが、ほんとに「佐藤竜王復活」という予想を裏切ってくれて、素直に感嘆しました。だって連敗からの防衛ですよ。佐藤棋聖のここ最近の勢いがあまりにすごすぎたので、さすがにこれは、と思っていたのでした。
 これで渡辺竜王は、かつて羽生王座を追い詰めての2勝3敗、森内竜王を破っての4勝3敗、そして佐藤棋聖を撃退しての4勝3敗と、3強に対してタイトル戦では堂々の勝ち越しです。竜王戦以外では最近ふるわないとしても、この結果は見事です。こんな戦績をおさめられる若手棋士は他にいないでしょう。
2006年12月9日(土) 教育しすぎ
 あまのさんの日記が結婚式に至る過程を克明に描きまくりでなんとも「こいつめー」なのですが、ぐはっ。不意を打たれました。ならば、もしやあの祝電の意味も分かったのでは……。
2006年12月10日(日) 年齢も判明
 『よつばと!』第6巻。ああ、9月に入ってしまいました。夏の太陽はすっかり日常化しました。しかしこのとーちゃん、ほんとに伝統的な理想の父親してますね。ひとつ気になるのが、これだけしつけに注意しているとーちゃんですが、よつばが不意に飛び乗ったり、腹に突撃したりするときには、痛みをこらえながらも叱ることはないということ。よつばのありあまるエネルギーがこういう力任せのスキンシップとして表出するとき、とーちゃんは他人にその矛先が向かないようにしつけたうえで、自分自身だけはその例外としておき、よつばをひとり全力で受け止めようとしてるのかもしれません。
 あと、ふーかが学校であんな存在だったなんて。えー。
2006年12月11日(月) あるいはビッグボイン再登場
 『金色のガッシュ!!』最新刊。暴走を止めるための戦闘が延々と続いてるのですけど、ここらへんでスズメたち一般人の健気な支えあいを、もうすこしゆっくり1話ほど使って描いてみても、と思ったり。テンション高いまま戦闘モードを維持するのはしんどいので、緩急付けてみてはどうか、と。そういう話は、清麿たちが本当に切羽詰まってからでもいいのかもしれませんが。
2006年12月12日(火) 再生と新生
 プリキュア、戦闘シーンでの動きがいつになく気合い入ってました。
 復活した薫と満の存在消滅危機。友達との絆を胸に、わずかな可能性にかけて再び立つふたり。最後の笑顔は、あまりに美しくてかえってはかないのですけど、もしもふたりがほんのわずかのいのちを終えるときを迎えたとしても、しかしそこにはたしかに自分の生を勝ち得たという笑顔があるはず。
 もちろん、そのときこそはふたりが新たないのちを獲得するときであってほしいものですが。すなわち第3第4のプリキュアとして。
2006年12月13日(水) むしろ役者の体格が問題ですか
 グインサーガ最新刊。グインが戦っている!(なぜ驚くか自分)いや、ここのところずっと主人公らしいなあ、と思いまして。場面のすべてが漢くさすぎ。記憶喪失の件もそろそろどうかな、という流れです。
 このへんの展開を読んでいて楽しく思えるのは、剣闘士たちとの戦いの緊迫感というより(戦闘そのものはグインが負けるはずないのできわめて安心)、ここで登場する者達がその職業的性格上、あまり長広舌にならないという点によります。栗本キャラはとにかく台詞が長くて、それが独白にせよ対話にせよ、読んでいて時々うんざりさせられるのです。無口なキャラや禁欲的なキャラが多くなると、この苛立ちがかなり薄れるのですね。また一方で、こういう長たらしい台詞廻しは、あんがい舞台に上げるのに都合が良いのかもしれないな、と思ったり。小説的というよりは演劇的なキャラクター達です。
2006年12月14日(木) パラフィン紙の思い出
 すでに有名なとこですけど、こちらで連載されている、本読みびとたちの4コマ「今日の早川さん」が楽しくて。自分に思い当たるふしがあると「あーあー」と転げます。
 ぼく自身は岩波さんに近い読書傾向なのですが、むしろ文庫びとと言うべきなのかも。子供の頃、お金がないのでハードカバーが買えず、文庫落ちするのをじっと待っていたものでしたが、気がつくと、同じ内容でもハードカバーだと読めないのに文庫だとすいすい読めるという体質になっていました。とくに移動中に片手で持って読めるとか、寝転がって読んでも重たくないとかいうのが、文庫本の偉いところです。
 あと何年かすると、シスプリ考察も文庫落ちでしょうか(しません)。
2006年12月15日(金) 文庫びとの悦楽
 昨日分タイトルの「パラフィン紙」というのは、言うまでもなく昔の岩波文庫に表紙としてかぶさってたあれのことです。本屋さんにカバーかけてもらわないと、すぐ破けちゃうんですよね。古本屋でも美品の文庫本はこれに傷がない。普通の本屋でも、延々と売れずに残っている岩波は、このパラフィン紙がいいかんじに色づいていて、言いしれぬ味わいをもっていたものです。
 それがいつしか、まっとうで頑丈なカバーが概要説明とともにつくようになっちゃいまして、あーた。なんかイメージが崩れる気がして、あの当時は悲しかったですよ。
 いちばん悔しかったのは、アウグスティヌス『神の国』の第4巻まではパラフィン紙表紙で購入して読めたのに、最後の第5巻だけはこのカバー変更後に刊行されたものだから、そこだけ違ってしまったということ。昔の形式でも出版しろ、とか勝手なことを叫んでた記憶があります。
 それは文庫びととしての無意味なこだわりであると同時に。あの頃のぼくはわずかな小遣いで文庫を買って読み終えては、そこにかけられた本屋のカバーの背表紙に本のタイトルを記す、ということを、一つの儀式のようにしていたのでした。その本を自分なりにきちんと読んだという証として、また一種の征服行為として。手書きの汚い文字タイトルが、本棚に少しづつ増えて並んでいくのを見るのが、ぼくの長らくの楽しみだったのです。
 いつしかぼくは、残りのお金を気にせずに、欲しい本をどんどん購入するような大人になりました。それにともなって書架は混乱を極め、カバーは本屋でかけてもらわなくなり、わずかな蔵書を繰り返し読むことの快さも久しく忘れてしまっております。
2006年12月16日(土) 記憶のかなた
 うはー、ついに2ヶ月近くも日記溜めてしまいましたー。
 もう文章をこねている余裕もないので、ネタメモからそのまま転記。

美 森「お前の尻に興味はない。それともあったほうがいいのか。」

 前後の文脈をまったく覚えていません。
2006年12月17日(日) ここだけの話
 原因の一つは戦国ランスなんですけどね……。
2006年12月18日(月) ちきう大自然
 馬鹿話。

らむだ「『パジャマでおじゃま』が終わって久しいいま、NHKの存在価値はないですね。」
美 森「また言い切ったなあ。
    でも、アニメ版が始まるかもしれないぞ。」
らむだ「あ、あー。」
美 森「TV放映時の透過光隠蔽は、のちのDVDの時に消えると。」

 そんなコレクターユイな(嘘)。

美 森「そんなの、NHK教育で放送できないけどな。」
らむだ「いっそ『NHK調教』というのはどうでしょう。」
美 森「書いとけ。」
2006年12月19日(火) ぴっこり旗が立つ
 馬鹿話。

らむだ「ピタゴラスイッチで核ミサイルのボタン押さないかなあ。」
美 森「銀球がころころ転がってくのか(笑)」
らむだ「で、最後にポチッとな。」

 むしろノストラスイッチ。
2006年12月20日(水) からくりサービス
 馬鹿話。

らむだ「『笑点』で、面白いと座布団もらえるじゃない。」
美 森「ん。」
らむだ「あれ、抱き枕だったらいいのにね。」
美 森「なにがいいんだ。あそこの観客に分かるかそんな趣味。」
らむだ「10枚たまるとこれがなんと。」
美 森「動くのか。」
らむだ「あ……そっちの方がいいかも。」
美 森「お前はどうなると考えてたんだ?」
らむだ「いや……オリエント工業……。」

 汚れました。
2006年12月21日(木) あるべき第1話
 馬鹿話。

らむだ「『遅刻ちこくーっ』て叫びながら、
    えろまんが口にくわえて走るというのはどうだ。」
美 森「いや……やってみたらいいんでは。」
らむだ「最近のは版型が大きいから、あごが疲れちゃうよね。」
美 森「美形の転校生も絶対ぶつかりたくない相手だな。」
2006年12月22日(金) 賞味期限はひとけた
 馬鹿話。

らむだ「いなり寿司やイカめしの要領で、くつした寿司というのはどうか。」
美 森「いや、どうかと言われても。」
らむだ「ちっちゃいくつしたに、ごはんをぎっしり詰めるの。」
美 森「幼女が履き古したやつでか。」
らむだ「くつしたからね、こう、出汁がしみこんで、」
美 森「はいはい。」

 真面目に話してるのに。
2006年12月23日(土) 毎日こんな会話ばっかか(下品)
 馬鹿話。

美 森「小便小僧の形の練乳いれ、とかどうだ。」
らむだ「えー、小便少女の形のレモネード壜がいいなあ。」
美 森「どうせお前のことだから、じかのみとか言うんだろ。」
らむだ「いや、見てるだけ。」
美 森「書いとけ。」

 嗅いでもいいかも(却下)。
2006年12月24日(日) 聖誕祭(下品)
 馬鹿話。

らむだ「水戸黄門で、葵のいんのうとか出したりして。」
美 森「するかぼけ。」
らむだ「いんのうだけ出されても困るよね。」
美 森「出さんて。で、あれか。助さんが『この紋所が目に入らぬか!』って叫ぶと、」
らむだ「悪代官が『すごく……大きいです……』と。」
美 森「うっかり八兵衛もどんなうっかりするやら。」

 この男、ノリノリである。
2006年12月25日(月) みさくらだ・ふぁみりあ
 馬鹿話。

らむだ「らーはらめぇのら〜♪」
美 森「そんなサウンド・オブ・なんとかはありません。」
らむだ「しーは」
美 森「もういい。どうせなら、むしろこれだろ。
    らーめらーめらぁめらめぇ♪」
らむだ「うは、古すぎる(笑)」
美 森「丸出らめぇ夫。」

 バックコーラス想像すると腹痛いです。
2006年12月26日(火) インターネットは悪(以下略
 馬鹿話。

らむだ「ISDNはじめちゃん♪」
美 森「今更そんなもんでインターネット始めるやつがいるか。」
らむだ「北の国は、ICBMはじめちゃんだけどね。」
美 森「うわ、トップがバカボンのパパか(笑)」

 米国があのおまわりさんでしょうか。
2006年12月27日(水) 萌え上官
 馬鹿話。

らむだ「『無能な働き者はメイドにせよ』ってのはどうかなぁ。」
美 森「なんだそれは(笑)」
らむだ「いや、ほら。軍オタ間で有名だけど出所の分からないフレーズに、
     有能な怠け者は司令官にせよ
     有能な働き者は参謀将校にせよ
     無能な怠け者は連絡将校にせよ そして、
     無能な働き者は銃殺にせよ
    ってのがあってさ。それを萌えにあわせてみました。」
美 森「ああ、キャラなら確かにマルチとかかだなあ。」
らむだ「でしょ。」
2006年12月28日(木) 萌え上官・続き
らむだ「じゃ『無能な働き者はメイドさんにせよ』は決まりとして。
    他の3つはどうなりますかね。」
美 森「『有能な働き者』か。」
らむだ「んと、『有能な働き者は幼馴染にせよ』でいかが。」
美 森「あー、『妹』かと思ったが。」
らむだ「ああー。それもありで。」
美 森「『無能な怠け者はケンカ相手にせよ』かなあ。」
らむだ「女悪友ですね。すると、残るは『有能な怠け者』ですが。
    んー、先輩……か姉かなぁ。」
美 森「いやお前、それにぴったりの役どころがあるだろう。」
らむだ「何?」
美 森「『有能な怠け者は主人公にせよ』だ(笑)」
らむだ「あー!(笑)」

 まったくでした。
2006年12月29日(金) 展開
 まだ続きました。

美 森「しかし、『無能な怠け者』というのは、
    『あずまんが大王』のゆかりちゃんでもよさげだなあ。」
らむだ「いや、何言ってるんですか。ゆかり先生すごいですよ。」
美 森「どこが?」
らむだ「だって、第1巻では外国人に英語で話しかけられて逃げてたけど、
    第3巻あたりではちゃんと英会話できてたような描写があったじゃない。」
美 森「そういえばあったかな。」
らむだ「きっと、逃げたあと英語教師として反省して努力したんだよ。」

 考えすぎでしょうか。
2006年12月30日(土) ファンの役割分担とか
 水野さんども。『To Heart』をはじめ、けっこう当てはまりますよね、あれ。

 うちのゲーム『朝鮮戦争』雑感は滅多に読まれないコンテンツですが、そこにリンクいただいた『XoD』さんこちらのアピール。シミュレーションゲーマーの裾野を広げるためにも、まず「ソムリエと観客」が必要であるというその主旨に、なるほどと思いました。
 例に使われている将棋について言えば、確かにぼくもほとんど将棋を指しませんが、しかし毎月『将棋世界』を購入し、NHK日曜のトーナメントを観戦し、2ch将棋板を眺めetc.といった具合に、「観客」としての役割をとり続けています。それは将棋界にとってきわめて微々たる寄与にすぎませんけど、そういうファンが増えれば少なくとも雑誌売上分のプラスにはなるわけで。一方、シミュレーションゲームの場合ですと、『コマンドマガジン』は購入し続けているものの、それ以上に追いかけることはほとんどしてませんね。その一因はやはり、「見せる・魅せる」対戦記録発信基地が見当たらない(見つける努力をしようと思わない)ことにありそうです。
 で、このサイトの「対戦記録」を拝見したのですが。加工済み写真がいっぱいあるのはありがたいとして、対戦者双方の「顔」(顔面そのものではなくて、その場面での声や想いや所作)が感じられないのがちょっと残念でした。ストイックな書き方もそれはそれで「らしい」雰囲気なのですが、『コマンドマガジン』の対戦記事でもそういった描写があるものの方が、ぼくという「観客」には臨場感があって嬉しいのです。
 いずれにしても、こういう取り組みは貴重ですので、今後もぜひ続けていってほしいと思います。ぼくも一観客として時々ここに感想を書くことにします。

 以上、年明け後の2/6の日記。
2006年12月31日(日) おおみそか
 というわけで、この時期は帰省してました。姪・甥を恐怖に陥れる伯父の来訪ふたたび。
 姪「おじちゃん、いつくるの?」
 甥「おじちゃん、いつあっちにかえるの?」
 そんなかんじの歓迎(されなさ)ぶりでした。

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