日記
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2005年10月1日(土) めも
 ちょっと思うことあって、ルカーチの『小説の理論』(原田・佐々木訳、ちくま学芸文庫、1994年)を読み直す。「第二章 小説形式の類型学試論 二 幻滅の浪漫主義」から、メモとしていくつか引用。

「内面性は閉ざされた宇宙のような性質をもっているので、自らのうちに安らぎ、自足する傾向がある。抽象的理想主義は、自らを行動に転化し、外界と葛藤することなしには、けっして実在を保つことができなかったのであるが、ここでは、葛藤を回避する可能性があらかじめ排除されてはいないようにみえる。なぜなら、すべての生内容を自分自身の胎内から生み出すことのできる生は、外部にある疎遠な現実とまったく触れあわなくとも、渾然としたまとまりをもち、完成されていることができるからである。したがって、抽象的理想主義の心的構造にあっては、何ものにも妨げられず外部に向かう過度の能動性が顕著な特色をなしていたとすれば、ここにはむしろ、受動性への傾向がいちじるしい。すなわち、外部との葛藤や闘争を受けいれるよりも、むしろそれを回避しようとする傾向、心情に関することは、すべて純粋に心情のうちにおいて片づけようとする傾向である。」(p.150)

「内面性を完全に独立したひとつの世界にまで高めるということは、たんに心情の事実であるばかりでなく、現実にたいする最終的な価値判断だからである。主観性がこのように自足するということは、主観性の絶望的な自己防衛であって、それは、外の世界で自らを実現するために闘うことは、アプリオリに見込みのない闘いをすることであり、品位を落とすことにしかならないから、そうした無用の闘いはやめにする、ということなのである。
 こうした立場は、抒情的なものの極端な高揚であるから、それはもはや純粋に叙情的な表現を行なう力をもたない。なぜなら、叙情的な主観性もまた、自らの象徴のために、外界を領略するからである。」(p.152-3)
2005年10月2日(日) めも2
 昨日分の続き。

「人生に対立する当為的存在の、あまりに烈しい、あまりに一途な渇望と、この憧憬のむなしさにたいする絶望的な洞察。すなわち、はじめから、やましい良心と敗北の確信を抱いているユートピア的夢想である。」(p.157)

「主観の価値をこのように無制限にもち上げることは、主観が、外部の世界を形象化するためのいかなる役割をも放棄することを前提として、また、そのような放棄を代償として行なわれる。」(p.159)

「純粋に心情的なものの内面的豊かさが、唯一の本質をなすものにまで際限なく高められ、同じように度外れな仮借なさをもって、世界の全体のうちにおいて、それの現存在は微々たる力しかもたぬことが暴露される。」(p.160-1)

「世界を肯定することは、理念を欠く俗物性を、つまり唯々諾々としてこの現実と妥協できるということを正当化することになり、安価で浅薄な諷刺を発生させることになるだろう。また、浪漫主義的な内面性を一面的に賛美することは、己惚れ鏡に姿をうつしたり、むやみやたらに自分を賛美するといった抒情的な心理化にうき身をやつすところの、漠然とした陶酔を生み出さないではおかないだろう。」(p.161-2)

「理念と現実のとのあいだのもっとも大きなむいちがいは、時間である。持続としての時間の流れである。主観性が、自己の力を証明することができないということを、もっとも深刻に、もっとも屈辱的に示すのは、必ずしも、理念を欠く社会的諸形態やそれの人間的な代表者にたいする見込みのない闘いにおいてではない。むしろそれは、主観性が、緩慢で、小休みのない時の流れに抗することができないこと、困苦のはてに到達することのできた頂きから、徐々に、しかしとめどなくずり落ちて行かねばならないということ、このとらえがたい、眼にはみえないが動いているものが、主観性からそのいっさいの所有物をしだいに奪い去り、−いつのまにか−異なった内容をそれにおしつけるということ−そういうことのうちに示されるのである。」(p.165)

 で、この「時間」が追憶として浪漫主義的小説に形式を与えることにもなる、と続くのだけど(ぼくの理解が正しければ)、この一連の引用箇所を含む本著作から、萌えや萌え作品について、セカイ系について、萌え人の過去認識についてなどを考えるさいの手がかりが与えられるような気がしてならない。のだけどいまは届かない。
 シスプリ原作において看取される、「追憶」の視線。初恋を顧みる少女のまなざし。敗北の予感を抱きながらのタタカイ。それらはむしろ「抽象的理想主義」に近いのか、それとも綜合としての『修業時代』に近いのか。
2005年10月3日(月) 萌色ダイオード
 明日菜回路。
 同級生の少女達からいろいろなものを受け取り、その影響による変化の成果を、ネギとタカミチ(のみ)に振り分ける。戦闘的・非日常的な面での変化はネギへ、恋愛面での変化はタカミチへ。刹那達に対して明日菜が与えてきた影響は、変化の成果ではなく明日菜本来の素質ということで。
 成長を一つの主題かつ物語展開軸とする少年漫画の主人公というものは、周囲からやたら吸収しながら、周囲に純粋パワーをまきちらすけど、その点では明日菜もネギに負けてない。刹那を励ましたのも、エヴァを受け入れたのも、重荷を抱えながらひたむきに生きてきた他者に向かって腕を伸ばせるという、明日菜の純粋パワー。

 それにしても、大会を通じて明日菜の能力が次第に覚醒しつつある(少なくとも鋭敏な感覚など、その力のほどが再確認されている)のを見るにつけ、今後の展開が非常に気がかりです。ネギは父親の問題で、明日菜はタカミチの問題で、と完全に別方向を向いているので、それぞれが別個に暴走したり強い衝撃にさらされたりしたとき、誰がフォローできるのか。このタイミングで刹那が一皮むけたのはそのためか。あと、明日菜vs刹那のときにネギの応援が無意識のうちに明日菜の魔力強化につながっていたけど、二人が別々の場所でそれぞれの目的のために戦うとき、その意識されざる絆が、何かをもたらすのかも。

 あやかと性格的に近いカゲマン(違)こと高音があんなに前面に出てくるということは、あやかはこのまま小太郎側で動いていくことになるのかなあ。高音・D・グッドマンがモンキー・D・ルフィーの親戚だという展開でもいいです。
2005年10月4日(火) うれしみっともなし
 mixiの紹介文。基本的に褒めていただけてるのですが(本来そういうものだし)、しかし、皆さんからの紹介文の所々に混じる一言が。
 「世代が上のロリコンの人」
 「偉くてダメな人」
 「偉大なるダメ人間」
 あうー(笑)。

らむだ「徹底してると褒められてるのが『例:シスプリ考察』で、
    まったくいい加減と貶されてるのが『公共料金の支払い、仕事など』
    というのが社会人としてじつに釣り合ってませんな。」
美 森「つっても実際、間違ってないだろう。」
らむだ「あうー、そうですがしかし。」
美 森「まあ、あんまりひどいと言うのなら少し修正してやるか。」
らむだ「わーい。で、どんなふうに?」
美 森「徹底してるとこの事例:シスプリ考察『のみ』」
らむだ「がーん」

 実際、間違ってません。
2005年10月5日(水) 解釈
 馬鹿話。

らむだ「BGM、七色の虹の人か。たーとえこの身がー」
美 森「どーなろとー」
らむだ「……このフレーズ、
    たとえ『このみちゃん』がどうなろうと、
    って意味だったりして。」
美 森「何だそれは(笑)えろげ向きな話だなそれ。」
らむだ「いや、えろげに限ったことでは。」
美 森「なかなかいい。書いとけ。」

 久々に出ました。
2005年10月6日(木) あれこれ
 思いつくままに。

 ネギま第11巻表紙、遠く左後方にいる明日菜・木乃香・刹那をよく見ると、明日菜の視線だけがその斜め前方にいるタカミチの背中を見つめていて、表情もやや紅潮している。ところがその視線をさらに前に伸ばすと、視界にネギがぎりぎり収まるかどうかという微妙な塩梅。明日菜のまなざしの二重性。
 第12巻の表紙は朝倉だそうですが、その朝倉はネギvsタカミチ戦で、倒れ伏すネギに動揺して司会としての役作りを忘れ、タカミチに怒鳴ったり勝敗を勝手に決めてしまったり。その心中が直接吐露されることはないんだけど、だんだんにネギ寄りになってきてるのが分かる場面。

 よつばと!第4巻。窓ガラスを割ってしまい、とーちゃんにお尻を叩かれて、泣きわめいて謝るよつば。しかし、その次の場面で、とーちゃんがよつばに危ないから近寄るなと言いながらガラスの破片を黙々と片づけるとき、そのかがんだ背中を前にして、よつばは直接怒られたときよりもずっと悲しくなってしまう。こういうときこそ子供なりの申し訳なさや不安がぐんぐん増してしまうわけで、そのへんの機微を一見ギャグ4コマとして描いてるあたりが、さすがこの作者。
 これ、前にも書いたっけ。
2005年10月7日(金) またまたためすぎ
 馬鹿話。

らむだ「こないだお前に勧められたあの漫画だけどな。」
美 森「読んだか。お前の好きそうな幼女ばっかだったろ。」
らむだ「すごいよ! 中までぷにぷにだよ!」
美 森「なんだそれは(笑)」

 しっぽの先まであんよがぎっしり。

美 森「しかしお前、そんなことばかり言ってて年はいくつだ。」
らむだ「なぁに、いつまでも心は少年。」
美 森「どうせそれに続いて、『いつまでも好きなものは少女』とか言うんだろ。」

 書いときました。 
2005年10月8日(土) しむ
 デスマーチといったら本当に修羅場の方々に怒られますが。きつ。

 各所より、福知山線事故回想。最近、バスの先頭座席に乗るのも気が引けます。
2005年10月9日(日) 万尿集
 枕詞を考えてみる。前にもネタにしたかも。

「あまがみの」:ふくらはぎ
「くつずれの」:入学式
「てんたくる」:触手
「ゆばりむす」:ぱんつ、おむつ

 誰か続けてください。
2005年10月10日(月) 折れる経緯
 合間を利用して『ラブひな』を読むことにする。 とうとうこの日が来てしまったというか。奪われる快楽風味。

 で、とりあえず第3巻までの感想ですが、なんか普通に楽しく読めました。見事なまでにギャルゲー世界なわけですけど、別段それが嫌味なわけでもなく。
 お話の枠組みとしては、幼年期の決定的事件に基づく「いま」の目的規定、女の子達との共同生活を通じての相互成長、そして(おそらくは今後展開されるであろう)受験後という未来像の構築、という感じ。幼年期での「女の子との」約束が「父親との」出会いに置き換わると、そのままネギまにならないかしら。未来像が全然違うか。
 ここまでの印象として、女の子はみんな可愛いです(節操なし)。

 ついでながら、おっぱい・裸体描写については、じつに少年漫画的な質と量。ネギまもよくそのへん批判されますが、むかしの週刊少年マガジンが『凄ノ王』だの、テレポーテーションするたびに全裸になってしまう(しかも夢遊病的にも能力発動する)女子中学生の漫画だの(タイトル忘れた)を掲載していたわけなので、時代が変わったとはいえ赤松漫画もごく普通のえっち度なのではないでしょうか。月刊だったら『OH!透明人間』ですよ。他誌なら『けっこう仮面』に『アンドロトリオ』ですよ(サンプル偏りすぎ&古すぎ)。
2005年10月11日(火) ぼくパパになる(ひゅーひゅー
 頭の中で延々と「ららら 消えちゃった私 あの子の あの子の 花嫁さんに なってあげるわ」という歌が繰り返され続けていたのですが、たしかピンポンパンの歌だよなあと思って検索したところ、こちらでおそらく「ぼうしをかぶったおとこのこ」という歌の出だしではないかと判明。子供心にすごいせつない歌だった記憶があり、以前考えてたオリジナル妹の原型もこのへんなのかと気づきました。

 日記タイトルは、たぶんビッグマンモスの歌から。
2005年10月12日(水) 手軽で安心
 というわけで、『ラブひな』第10巻まで読む。って早っ。ご飯のお供にちょうどいいです。
 最初の感想とほぼ変わらず、典型的なラブコメとして面白い。ただ、恋のライバルが男側に登場しないのが、あまりにも安心感を与えすぎてます(瀬田は初登場時から明らかに「ライバル」ではあり得ない雰囲気だし)。あと、ネギまと比べると、まき絵のような普通っぽい(?)女の子が、ラブひな世界には見あたりませんね。
 素子がいかにも(刹那+アキラ)なのですが、ネギま第2巻でのつっけんどんなアキラ像は、この素子に似た姿の影響なのか。その後のアキラは第10巻までに相当やあらかくなりましたが。
 しのぶの花火キスシーンあたりは、のどかの学園祭水上花火キスシーンとほぼ重なるイメージ。その雰囲気が近い分、キスの攻撃性の違いが如実に。こういう、似たようなモチーフを使いながら、全く異なる、あるいは非常に対比的な性格・行動を描くというのは、ネギまのあちこちで散見されるところですね。ということは、学園祭3日目でのネギ&エヴァと明日菜&タカミチのデートの交錯が、夏祭りでの景太郎&しのぶとなる&瀬田のそれと形式的に重なりつつ、意味を変えていくことになるのかも。
2005年10月13日(木) あうー
 また溜めました。しかも最悪の記録かも、すみませんです。この季節はほんとにいろいろやばいのですが、さらに煮詰まってる風味。

 おリボンくわえた妹 おっかけて
 素足で 駆けてく おさげのメイドさん
 みんなが笑ってる ツンデレは怒ってる

 最後どうやって落とそう。
2005年10月14日(金) らぶひな
 この日とは若干前後しますが、『ラブひな』最終巻までちょっとづつ。∞の方もさわりだけ読む。この作品にかぎって言えば、うーんじつにあざとい。つまりそのあざとさもあわせて楽しめる漫画なわけですが。『ネギま!』の前にこれを読んでたら、ずいぶん印象も違ったでしょう。いや、そもそも読む前から「あざとい萌え漫画」と思いこんでたので、あんまり変わらないのかしら。
2005年10月15日(土) らぶひな感想
 なつみ&むつみのような性格の母子は、現実に存在します。読んでてすごい懐かしかった。あの子は、あの子にとっての景太郎と今も仲良くやってるのかなあ、と、ふと。

 作者自身も言ってることだけど、みつねという女性が全くメイン話を割り当てられていないまま終わる。「ナビゲータ」としての役目は確かに必要だったとしても、みつねの奥行きを結局あちこちの細かい箇所でうかがい知るしかなかったのは、もったいなかったというか。
 以下、妄想。なると景太郎をくっつける算段の最中で、みつねが彼女だけの過去をにおわす場面というものがあってもよかったのでは。あるいは、後輩のために冗談まじりながら尽くしてしまう彼女の心のうちを、はるかが何気なく受けとめてやる場面とか。みつねにも甘えられる相手がいていいと思います。
 カオラやサラも同様に、もっと広がる余地がいろいろあったと思うけど、そのへんはアニメ版で補完されてる部分もあるらしく(なるやしのぶの実家のことなどもか)。それにしても、しのぶはなるに素直になってって言えなかったのだろうか。一番怒っていいのは君だ。
 印象としては、アニメ版Kanonのような単線型の近似例。もっとも物語の幅はそれだけ広がる可能性をもっていたとしても、連載の中でメインストーリィをよそにそれらを拾っていくわけにもいかない。そのうえ作者自身による外伝がないので二次創作への衝動わきまくり、と。

 西遊記劇のときを除けば、基本的に男と男が女をめぐって戦う、という闘争的な場面はほとんどなし。むしろ、女同士のタタカイばかりが(微温的ながら)繰り返し描かれるわけで、このあたりは『ネギま!』ではもっと微温的に思える。ただし、対ヘルマン戦は形式的に明日菜をめぐってネギが戦ってるわけで、その点であのエピソードは非常に重要。最も受けキャラな者が主人公であるわけだとすれば、前半は景太郎、後半はなるが主人公というのもよく分かる展開。

 全巻を通して一番好きな場面は、メイド素子の仁王立ち。腹を抱えて笑いました。莫迦だ。可愛すぎる。

 あと東大、文靴犬磴覆て文気覆里。あそこの区別ってどうだったっけ。
2005年10月16日(日) 朝番はどっちだ
 日曜朝番の感想がここのところさっぱりなのは、実際に観ていないからです。時間がないというよりも、響鬼から遠ざかったら全部と切れてしまいました。どうしたものやら……。
 せめてマイメロだけでも(そっちか)。
2005年10月17日(月) 心が折れた日
 ラブひな、面白い。




 すみません、更新滞納分やお返事などは少しずつなんとか……。
2005年10月18日(火) 焦燥
 今日は衛の誕生日なのだけど、その日がいつなのかを思い出せずに検索してしまいました。がーんっ。最近この日記でも、溜める溜めないは別にしてシスプリ関連の話題がほんとに消え失せてしまってます。無理にしすぷる必要はないとしても、なんかこう、忸怩たるものが。
 やるべきことはたくさんあるので、もう少し。なんとか。その。
2005年10月19日(水) ねぎま
「あなたがそのノートパソコンで出来ることは何もありません」

 茶々丸が一見無感情にそう告げたとき、千雨は確かに普段のネットウォッチャー以上の何事をもなしえていない。サイト管理人であるネットアイドルとしても、おそらく「ノートパソコンで」できることはたかが知れている。だが、だからこそ、その機械を媒介とせずに、千雨になしうることがある。
 あのコスプレ大会で優勝できたのは、ネギ達によって無理矢理に参加させられた結果。「ちう」と敵幹部という二重の虚構の肉体をも、観客に感じさせてのこと。だから、次は、千雨が自らの意志で、本物の体ごと立ち向かうとき。それは、「ちう」と千雨が重なる瞬間でもあるはず。どちらも併せ呑んで、受け止めてくれる人がいるから。臆病に立ちすくむ足をあえて一歩踏み出したとき、スポットライトは彼女を照らす。
2005年10月20日(木) わが上なる星空と
 柳沢行『ふたつのスピカ』。教育テレビでアニメ版の再放送をしてるとき、先輩に勧められてちょっとだけ観たのですが、そのとき引っ掛かったので。原作漫画、第8巻までやっと追いつく。
 ロケット発射事故の大惨事によって失った母親の記憶もないままに、宇宙飛行士を目指すアスミ。そのあまりに純粋な魂とか、仲間達の絆とそこにある様々な心の機微とか、大人達と若者の距離とか、なんと言いますかもう。震える。

 高校生が宇宙飛行士になれるかもしれないという設定。時代は今より30年ばかり先の話なのに、街並みも文化も人々の姿も、むしろ70年代頃の懐かしさを覚える。つか貧乏くさい。
 でもそこに流れているのは、「青春」の御旗を振りかざす単調さではなく、どこまでも叙情的でもどかしささえ感じるような、互いにからみあう想いの複雑さ。マリカはほとんどもう一人の主人公のように成長してきているけど、他の主要人物達もそれぞれが、パターン的「トラウマ」に解消しがたい何かを抱えて、模索しながら生きている。これを至極「当たり前」な古くさい作品として批判できるとしても(そして実際にそのような評価が肯定的にも否定的にもなされてはいるのだが)、その「当たり前」が説得力をもつためには、どれだけの空気が作品に込められなければならないことか。
 その作品世界の空気を説得的に、かつここまで叙情的にしている大きな要因の一つは、アスミの独白がないということだ。例えば、同じく星を題材にした懐かしい雰囲気の作品である、ぼくの大好きだった『星のローカス』(小山田いく)と比べてみれば、その違いは明白だろう。主人公の内省的独白を読者が共有することで同様に内省的・ロマン主義的な青年像へと自らを重ね合わせていくのが小山田作品だとすれば、アスミはそのような内省をまったく口にせず、ひたすら自分の夢を目指して駆けていく。その意味では、これはむしろスポコン漫画なのだが、宇宙に駆け上ることに勝利という言葉は似合わない。ともかくも、アスミは内なる言葉を語らない。だからこそ、その秘めた言葉を、アスミをとりまく仲間達の目に映るアスミの姿を通して、アスミのうちに、そして作品世界全体に、ある距離をおきながら読者は感じとるのである。(この仲間達の目線のうち誰のものにより共感するかは、読者によって様々だろうし、ぼくの場合は府中野の「届かなさ」が一番胸に迫る。そして、彼らの目線はアスミ以外の仲間達にもちゃんと向けられていて、それぞれのずれが心の機微を含み込んでいる。)
 そんなふうにして次第に重ね合わされていく仲間達の想いを包むように、ライオンさんのハーモニカがかすかに響いていく。

 それにしても、アスミはマリカ以上に死に近しい。作品中では幾つものモティーフが繰り返し登場するが、そのどれもがあの大惨事にまつわるものである。だとすれば、繰り返されるべき最大のモティーフとはその大惨事そのものなのではないだろうか。だいたい宇宙飛行という所行が常に死の危険であるのみならず、幼い頃から幽霊と仲良しだったアスミは、すでに半分あっちの世界にいるようなものだ。もちろんここまでの展開では、過去のモティーフは現在において必ず仲間達の間で乗り越えられるかたちで生き直されてきている。いつも空を見上げたままでどんどん駆けていく少女を、この世に引き留めることができるようにと、少年少女達の後ろ姿にただ願うばかり。ぼくももう年ということで。

 タイトル「ふたつのスピカ」の意味が作品内で明らかにされる瞬間。こういう待ち遠しさを感じさせてくれる作品も久々です。遅ればせながらお薦め。とくにマリカは美森氏におすすめ。
2005年10月21日(金) すたーげいざー
 府中野の身長はアスミよりずっと高くて、その差がますます広がってもいるのだけど、アスミの見上げる瞳は、過去と未来のないまぜとなった星空や桜花しか映さない。ようやくその視線が地上に戻ったかと思いきや、それはまた別の少年へと向けられるしかなく、不器用すぎる幼馴染みはただひたすらにいつも通りのつっけんどんな態度をとり続けるのみ。

 ライオンさんを見ることのできないことへの、嘆き。だけど、アスミの背中を斜め上から追いかけているだけでは、たぶん彼にはライオンさんは見えない。引きちぎられた想いを胸に宿した者だけが、音の入り込む隙間をそれと知らずに持っている。
2005年10月22日(土) ふと
 『ラブひな』の男女性別を入れ替えると、キャンディキャンディやナージャみたいになりませんか。そうですか。
 つか、エピローグで絵馬が引っ越してきたとき、先住者が全員、かつての女性陣の性格をそのままに性別だけ男性にしたようなイカスメン達になってたら、本編の物語をそのままなぞれそうで連載も楽ちんです。まさにシンデレラストーリィ。
2005年10月23日(日) 作者は森
 『ラブひな』パロディネタ。時間ないので、登場人物だけ並べます。


<主人公>
 堀内 悪太郎:主人公。いいとこなしの駄目監督。
        夢は若い時に約束したはずの優勝、だがそれがなかなか叶わない。
        勝率も夏の時点で4割がやっと、このままでは3年目もまた……。 
        この物語は、そんな悪太郎が優勝を目指すなかで、
        以下のヒロイン達と心のふれあいを重ねていくスポ根ラブコメである。

<ヒロイン達>
 川上哲 はる:万能にして攻撃的なツンデレ。かつて安打小町と呼ばれていた。
 沢村 しのぶ:相手打者の料理が得意。仲間いわく「不幸が似合う投手」。
 長嶋 しげみ:すごい天才なのだがどこか抜けてるお茶目さん。
 クロマ・ティ:謎の黒人。敬遠球を打つなど器用だがいつも不真面目。
 王貞 治子:日本刀の名手。表情がきつくて誤解されがち。
 広岡みつね:通称キツネ。面白半分に悪太郎相手に陰謀を巡らす。
 ハラ・マクドゥガル:悪太郎への子供っぽい我が儘も徐々に軽減。クロマ・ティと仲が良い。
 堀内 金田子:ロッテからきた義妹。入居者達と最初折り合いが悪い。

<脇役達>
 藤田 記康:名監督ながら不遇。悪太郎の師匠となる。
 堀内あつし:悪太郎の年上の親戚。藤田とは昔、肩を並べて戦った仲間だった。
 金銭たまご:ペットの新人&FAロートル主砲。いつの間にかいっぱい増える。


 タイトルはもちろん、『ナベつね』。
2005年10月24日(月) 追いつけないかも
 熱が出てうなされながら寝ていたら、夢の中で美森氏に「お前最近、更新してないな」と言われてしまいました。なんか終わってます。というわけで、12日あたりから手持ちのテキストにてまとめ更新。書き殴りなものばかりでどうかと思いましたけど、それいつもだから。と気づいて了承。

 マリアさまのこころ、それはローザ・ミスティカ。いやそのまんま。

 もうしばらく科学技術が進歩したなら、薔薇乙女でプラレスとか可能になりませんかね。あ、でもそんな感じのアニメが少し前にあったような気が。『メタルファイターMIKU』だっけ(たぶん違う)。
 いますぐにそういう時代が到来したとしても、リングの中はバキとジョジョとキン肉マンの混淆した世界になりそうな予感も。勇次郎vsディオvsベンキマン。
2005年10月25日(火) オパオパかしらー
 真の生命を約束するノーザ・ミスティカをめぐって、殲滅戦争を続けるノーザ星人と地球人組織ホワイトナッツ隊。隊旗は白くて甘くてうにゅー(それナッツじゃない)。才能ある隊員JUMは他の隊員からの心ない仕打ちに引きこもってしまうが、仲間のトモエ達に支えられ、そして彼の手に握られた異世界からの光線銃の助けをかりて、明日なき戦いを生きていく。

 『真紅の光弾 くんくん』

 ちなみにアップルの銃はピンクで、チャンプのはブルー。って老人ですか隊員。老人メイデン(弁士中止)。
 あるいはチャンプのはグリーンで、ブルーのは敵の将軍が持ってる。そしてノーザ星の女王を守るのは、銀と漆黒の剣。

 エイミの入れたコーヒーは、泥水のようにぬるいです。
2005年10月26日(水) 趣味れーしょん
 眠たい。辞めたい。オンスロート遊びたい。コマンドマガジンの付録ゲームもカウンタ切らないままずいぶん貯まって、積ん読の本以上に今後もこのまま遊ばずに終わりそうな予感。もったいないです。レッドサンのキャンペーンソロプレイなんて、いくら時間があってももはや気力が続かないでしょうけれど。日々若さが消えていく感覚が、この頃とても強いです。つか若さそのものよりも、若い「つもり」の自己像が現実の自分に引き寄せられていってるだけですね。勢いのあるうちにシスプリ考察書いておいてよかった。
 だめだ、気弱に戻ってる。なんかおいしいもの食べよう。状況的に酒が飲めないのが辛いところ。
2005年10月27日(木) 休息
 『夜明け前より瑠璃色な』は、せっかく月面上の王国などという設定だというのに、なぜ「月光を浴びながらえっち」=「月面からの臣民達の視線を想像して身もだえ」といった演出にさえ応用できないのですか。世界設定をたんなるフレーバー程度にしか使えないこのもったいなさは、『海賊王冠』に匹敵します。
2005年10月28日(金) 語学壊滅
 理系と文系についての議論があるみたいですが、お互い非難しあうためだけなら、理系の形式論理性と文系の非合理性、ということで片づきそうですけど。学問的な水準であれば、ええと、ディルタイとかヴィーコとかをまず読むべきなのでしょうか。自然科学と精神科学とか何とか、それこそ延々と議論され続けている問題ではないかと。「科学技術と社会倫理」ととらえるにしても、それはそれでアリストテレス以来の話か。学知と賢慮とか何とか。あと学校教育の水準で考えるなら、例えば自由学芸について。哲学的思考じゃなくて人文的教養の立場からの意見があまり見られないのは、どうしてなのかにゃ。
 能力の傾向や優劣として考えると、まあ世の中には文系・理系両方の能力が高い人もいるわけで、身近ではとくにそう感じさせる人が少なくないです。猿元氏なんかその典型ですが、文系的能力を感性的表現能力としたならば、『萌え文集』関係者は軒並み当てはまります。つか、あの面子の中ではぼくのような「理系的な能力がない」人間の方が圧倒的に少数派。実際、英語よりも数学や物理が苦手だから文系コースに進んだかつての自分。論理学の初歩は学んでて面白かったですけど。それでもまあ、文章を書くのが好きというのは、確かに文系的なのでしょう。

 話がずれるけど、アニメ版シスプリ考察本をまとめようとしたときのこと。美森氏は、ウェブで読めるものをわざわざ本にする意味がない、それでも出すならコストや機能性、運搬性の観点からCD-ROM版を勧めたのに対して、ぼくは「本」という形態そのものの価値を最優先しました。このあたり、美森氏の理系的で冷静な合理性と、ぼくの文系的な趣味判断とが、対比的に表れていると言えるかもしれません。最近では文系世界でもCD-ROM版の全集や事典がたくさん出てはおりますけど、本棚に並べる楽しみって文系的ではありませんかね。自分の人生の一部としての書架。
 そして、この意志決定の過程においては、それぞれの優先する理系的・文系的判断基準が相互補完的に働いているとも言えます。けど結局お互いに、相手の指摘を受けても自分の根本を変えようとしないのではありますが。美森氏はぼくの考察本を開きもしませんし、ぼくは美森氏に叱られても電話代などを滞納し続けるのです。いや、最後のは文系以前にたんに人として駄目なだけですが。
2005年10月29日(土) 超くいこみ理論
 赤瀬川源平の宇宙の缶詰をふと思い出して、すると「裏返したぱんつ」というのも宇宙にぱんつをはかせることにならないだろうか、と。さらに、裏返したにーそともなれば宇宙の絶対領域がそこに現出するわけで、事象の地平線すらもがあと一歩のところにあるのだと思います。
2005年10月30日(日) おぼろ
 仕事の煮詰まりと体調不良にうなされて、明け方に見た夢。
 ダンジョンみたいに闇と薄暗い広間が続く温泉宿に、シスプリの妹達12人と宿泊。全員登場したのはこれが初めてかも。妹達に囲まれた自分は海神航になってて、一人称でそんな馬鹿な状態。宿のすぐそばには泳げる海岸もあるんだけど、これがまた荒涼たる砂地が広がっててどうにも遊ぶ気にならない。可憐や咲耶に手を引かれて、屋内プールだか風呂場だかに連れて行かれる途中で、赤ん坊を抱いた母親らしき女性のそばを通り過ぎる。その女性と目が合ってしまいなぜか気になり、繰り返し振り返ると女性はじっとこちらを見つめ続けている。そこで意識が第三者視点となり、航達が駆け去った後のその女性を間近で眺めている。女性は胸に抱いた赤ん坊に何事か語りかけているが、よく見るとその赤ん坊は何かの奇病に罹患して肌がどす黒く顔が引きつっている。じつはその赤ん坊こそ、航の13人目の妹であり、この場所で航によって救われるかどうかの最後のチャンスに全てを賭けていた。しかもこの赤ん坊、自分でそのことをカサカサと語る。ここで「ゾナハ病」という言葉がふと浮かび、航はこの子に笑顔を与えることができるだろうか、うん、航なら大丈夫だよな、と思いをいたしているうちに目が覚めた。
 起きてしばらく喉元に引っ掛かる感じがぬぐえず、ああもう少し続きを見ておきたかったような目覚めてほっとしたような、ともかくもあの後の混浴シーンだけでも何とか(案の定)。
2005年10月31日(月) また一括更新
 D&D3.5版だと、ソーサラーとモンクのマルチクラスでメタマジックフィートを適宜選べば、ネギごっこができますかね。第8巻の怒れるネギは、あれは上級クラス風味。例えばレイジメイジ。うわ。

 「胸量保存の法則」によれば、世界全体における胸の総量はいつも一定なのだから、巨乳が増えればその分だけ貧乳も増加することになるのか。
 アメリカがんばれ。もっとがんばれ。

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