『シスター・プリンセス・メーカー』における妹の可能性

〜企画第2弾を手がかりに(4)〜



はじめに

 本考察は、第1編に当たる(1)に示した基本的視点から、シスプリメにおけるシスプリ的普遍性と独自性とについて、企画第2弾「St.Valentine's stories」応募作品のネオシスを対象に検討するものである。(1)で5名、(2)で6名、(3)で5名、そしてここでは残る6名のネオシスを取り上げて考察し、総括を行う。


17.瑠巳佳(うさだるま氏) 〜静と動〜

 本編「手渡しの気持ち」では、瑠巳佳(るみか)がチョコを渡すことこそ第三者の存在に阻まれたものの、最後には想いをこめたスケッチを兄に渡せたという顛末が、キャラクターコレクション1話分弱(33字換算で92行、7ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。兄途中登場パターンに基づいて、冒頭での瑠巳佳の勢いは中盤での兄にチョコを渡している女性によって底を打ち、最後に兄が妹に直接真実(たんに瑠巳佳宛てのチョコを預かったにすぎなかった)を告げることで、妹は安心するとともに改めて自分の想いを伝えようと試みることになる。この媒体はスケッチ作品であり、つまりこれが彼女の特技とバレンタインデーという主題との接点となっている。

「とにかく絵を描くことが好きで元気っ子な瑠巳佳。休みの日にはいつも描きたい風景を探しつつ散歩。そして大好きなにいちゃんが来たときにはにいちゃんをモデルにデッサンをやったりしますが、実は肖像画が苦手な瑠巳佳はいつも出来に納得できない様です。」

 このような特技派妹としての課題に本編は応えているわけだが、その特技と瑠巳佳の性格との関係をみると、ここに一つの独自性が浮かび上がる。「元気っ子」という動的・外向的な性格特性と、「絵を描く」という静的な特技とが、対照をなしているのだ。性格特性と特技とのこの対照性は、秋香(考察(3)参照)にも見られた特徴だが、それぞれの静・動は、瑠巳佳の場合は逆になっている。(同じような例としては、漫画では藤田和日郎『うしおととら』主人公のうしおが、やんちゃな少年ながら意外にも絵を趣味にしている。)また、彼女の性格や言動の表現は、原作妹では鈴凛を彷彿とさせるものであるが、衛は活発さとスポーツという特技が一致できていたし、鈴凛は発明・工作という比較的静的な特技ではあっても、機械いじりというものが一般的に男性的な趣味として位置づけられていることにより、彼女の同性に好まれやすい性格とさほど違和感なく結びつくことができていた。また、両者の場合には、スポーツは「パートナー」として兄とともに楽しめるはずのものであり、機械いじりも、兄に作業を手伝ってもらえるなど、その特技の行使にさいして兄との共同作業が可能になっており、ここに活発な性格もまた発揮する場を与えられている。
 これに対して、瑠巳佳の絵画という趣味は、女性的だと断定はできないにしても、男性的だと言うことも難しい。原作以外に目を向けても、例えばゲーム版では鞠絵が絵筆を手にしているが、彼女の物静かな性格や療養生活という設定は、その振る舞いと整合しやすい。アニプリでは雛子が兄の姿をお絵描きをしており、動的な性格と絵画との貴重な結合例となっているが、しかしこれが雛子の特技というわけではない。またリピュアBパート第8話では、英国の四葉が、まだ見ぬ兄の顔を想像しながら描いている場面が登場するものの、これも同様に特技ではなく、帰国子女である四葉の憧憬をかたちにしたものである。そして、いずれの原作妹の事例でも、兄は描写される対象であり、絵を描く行為そのものに能動的に参画するわけではない。お絵描きする雛子と兄の会話には、お互いの感情の交流も確かに存在しているのだが、しかし基本的にはこの絵画は、妹から兄への一方的な関係として描かれやすいのである。
 こうしてみると、瑠巳佳は性格特性と特技との間に動・静のずれを抱えており、また特技の性質上、兄との相互関係をそこに示すことに一定の制限を与えられている。それゆえ、このずれや制限をどのように扱うかが、彼女の個性を描く上で一つの重要点となると考えられる。

 これを踏まえて本編を読み直すと、まず瑠巳佳の元気な性格は、冒頭から遺憾なく表現されている。また、兄を心配させまいとする想いの深さも、「にいちゃん彼女できたんだし、あたしの手作りチョコなんて最初で最後かもね」という台詞の中に寂しさとともに込められ、彼女の内面をより細やかに読者に示している。これに対して絵を描く方は、「普段は手作りって言うと絵をあげるってことが多い」ものの、バレンタインには当然チョコということで、最初は全く問題にされない。しかし、チョコを自分から手渡すことが不可能になったとき、想いを込めたという意味でチョコと等価なものとして贈るために、兄の肖像画をスケッチブックに描き始める。ここで論者は、瑠巳佳の絵画がつねに兄との絆として機能しているという特技派妹の原則適用を確認するとともに、「描き始めてから15分後、あたしはスケッチブックをギューっと抱きしめてからその絵をにいちゃんにあげました。」という文章に注目することになる。
 まず、この引用文の前半部分では、あえて「15分後」と記されていることの意味を考えねばならない。この具体的に過ぎる(瑠巳佳が本当に計っていたとは想像し難い)時間表記は、彼女の兄として本編を読む者が、自分を前にしてひたすらにスケッチする妹と、どれほど長く見つめあい続けているのかを、これ以上もなく端的に示してくれているのだ。瑠巳佳が兄を見据える視線には、絵に専念する彼女の雑念のない澄んだ色の中に、描く対象への想いが溶け込んでいるだろう。この視線を受け止めながら、15分間じっと絵の完成を待っている兄の立場に読者が身をおくとき、その居心地をどのように実感しうるだろうか。そして、苦手な肖像画に苦慮する妹の表情や振る舞いを、どのように愛情込めて想像できるだろうか。この、瑠巳佳が絵に集中しているからこそ「15分後」という一言で簡単に記されるべき時間の中で、兄妹の想いは暗黙裡に様々に交錯している。絵を描くとは本来時間がかかるものだが、その時間の長さこそ、このネオシスにおける兄妹関係の独自性を支えているのであり、その独自性は、特技が必要とする「静」なる時間の中に「動」を見出すことで、読者に理解されるのである。
 次に、引用文の中間部分では、「スケッチブックをギューっと抱きしめ」るという描写によって、瑠巳佳の想いの込め方がきわめて身体的に示されている。スケッチの間は、上述のような静の中の動は確かにあるにせよ、それが彼女の「元気っこ」という性格特性をそのまま表すものにまでは、おそらく至らない。それゆえ、絵を描き終えたとき、瑠巳佳は本来の身体性を完全に取り戻し、描く中でも込めていた兄への愛情を、再びここで「ギューっと」込め直す。その徹底ぶりは、第三者に兄を奪われる可能性に気づいたからこそのものかもしれないが、いずれにせよ、この振る舞いは彼女における静と動をの対比を浮き彫りにしている。
 以上のように、瑠巳佳の特技と性格の綜合は、本編では静と動の連続と不連続とを共に描写する(あるいは省略によって暗示する)ことによって、実現している。同様に「二人のサンタ」では、クリスマスプレゼントとして兄に贈る絵については「時々現物を見に行きつつ現像した写真を元にひたすら絵に没頭」しており、「静」を省略しつつ示している。一方、その絵を贈る段では兄の部屋にこっそり置いていこうとして兄もまたそのような行為に及んでいたことに後で気づき、「考えることは一緒」という兄妹の絆を再確認しつつ、彼女らしい「動」のさまを見せている。ただしその作品では、兄を真向かいにしてのスケッチとは異なり、描く対象は別の存在だったわけだが、それでも白いキャンバスやスケッチブックに絵筆やコンテを走らせるとき、そこに対象に重なって写るのは、やはり兄の残像に違いない。


18.來夢(蛇無氏) 〜照れのかたち〜

 本編「Valentine Story 〜バレンタインストーリー〜」では、來夢(らいむ)が兄へのチョコを手渡しながら、胸につかえていたためらいを解きほぐすに至るまでの経緯が、キャラクターコレクション1話分(33字換算で144行、10ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。兄最後登場パターンをとるこの作品では、その形式に則して、兄の言動によって妹の問題が一挙に解決されるのだが、その爽やかな読後感はともかくも、ここで注目すべきはその問題の内容である。

「來夢ちゃんは、花を育てて、その花に囲まれながら読書をするのが好きな、元気溢れる女の子。自分の中で色々と考え事をして、小説を書いたりするのが、大好き。お兄ちゃんに自分が育てた花を見せるのが好きな、ガーデニングを趣味としている女の子です。」

 この紹介文からは、來夢が内省的な面と快活な面とを併せ持つ妹であることが分かる。その趣味と結びついた内面の想いの深さは、「イロナグサ 〜彩無草〜」では「にぃやんの匂い」のする全体が純白のマーガレット(花言葉は「真実の愛」)に託されて、幻想的に描かれることになる。花とはまさに兄との絆そのものを指し示すわけだが、これを花穂と対比して考えることは本節の目的ではない。企画参加作品で主題となっているのは、花や読書をめぐる兄妹関係ではなく、いわゆる「照れ」についてであるからだ。
 冒頭で來夢が「今日は、私に取っても、にぃやんにとっても、凄く大切な一日」と独白するとき、そこには、妹にとっての要件は兄にとっても要件であると妹に理解されるという、シスプリの基本原則の一つが示されている。だがそこで、「倒していた写真立てを、そっと起こして、にぃやんの顔を見ます。にぃやんは、私の隣で、いっつも笑顔なの。」という一文を読むとき、論者はそこに違和感を覚える。なぜ兄の笑顔の写真をわざわざ倒していたのか。これは、寝姿を見られたくないという女の子らしい羞恥心の現れであるとともに、兄の笑顔に対する彼女の抵抗感をも含みこんでいると思われる。その原因の一つは、やがて語られるように、もしもチョコがおいしくなかったなら、兄が食べてくれたときに「絶対顔に出る」ことへの不安である。写真中の兄の笑顔は、それゆえここでは、到来しない未来への不安をかきたてるものとして、一時的に伏せられねばならなかったと考えられる。もう一つの原因は、昨年のバレンタインで受けた友人からの仕打ち(というほどのことではないにせよ)である。「私、『にぃやんにあげるの』って言ったら、友達に笑われたの。もう、あの子のバカ……。あの時、すっごく恥ずかしかったんだから……。」そう回想する來夢は、そのときの恥ずかしさを今なお抱き続けている。兄への想いを直接的にはなくとも笑われたという、この批判的第三者の反応は、來夢に、兄妹関係への第三者的視点を与えてしまい、そしてその視点が兄妹関係に適用されるとき、彼女の兄への想いは、以前のように素直に表出しえなくなってしまっていた。「にぃやんの隣は、恥ずかしかったから」、学校へ一緒に行こうという兄からの誘いを、これまでいつも断らざるをえなかったのである。兄への異性愛的な意識の芽生えもここにはあるのだろうが、それよりも明瞭に看取されるのは、批判的第三者の視点を内在化した妹の「照れ」である。

 ここで原作キャラクターコレクションを振り返れば、あの妹達にも様々に照れる(あるいは恥ずかしがる)場面があるものの、それらは來夢の「照れ」とは性質が異なる。例えば、可憐(第3話)は兄と買い物中にはしゃいで高校生に笑われ、恥ずかしがっているが、それは直ちに、兄も恥ずかしく思ったかどうか、その場合には一緒の買い物が不可能になってしまうのではないか、という不安へと転換されている。これと同様に、花穂(第4話)も習字の先生に叱責されたとき、その場に居合わせた兄の気持ちを慮っている。咲耶(第1話)は店員の言葉に思わず憤った直後、自分の振るまいに気づき慌ててているが、これも兄との距離に影響していない。また、「照れ」といえば春歌だが、彼女にせよ他の妹達にせよ、「照れ」によって兄からあえて遠ざかろうとすることはほとんどなく、むしろ兄にいっそう接近していくのが通例である。「照れ」とは、兄妹の絆の強さを第三者に指摘されたことに対する一つの反応だが、それは、兄に嫌われる危険性への不安を除けば、妹自身の態度に何ら変化を与えないのである。
 これに対して、來夢は、批判的第三者にからかわれたときに、兄もそのようなからかいを嫌がるだろうから兄に近づきすぎない、というのではなく、自分自身が恥ずかしかったので行動を改める、というように、自分と第三者の間に強い関係性を示している。これは、シスプリでは基本的に兄妹関係が閉鎖的に描かれ、それ以外の人物がどこまでも手段として扱われやすいということと対比すれば、他者関係への開放性というシスプリメに独特の(秋那など幾人かのネオシスには共通して見いだせる)性質として理解される。そして、この性質は來夢の場合、上述のように自己相対化の視点として具体化されており、そしてその視点とはおそらく、彼女の読書や創作行為を通じて培われてきたはずのものなのであろう。兄の突然の訪れに慌て、
「きっと私の顔、真っ赤っ!」と独白する場面にも、そのようにうろたえる自分の姿を客観視する意識のありかが指し示されている。また、「私、本当は、にぃやんの前でチョコ食べられて欲しくなかった」というシスプリの妹にしては珍しいためらいも、先に述べた笑顔への不安などとともに、自分を気遣うだろう兄の姿を通して、兄妹関係をどこかで客観視していることの現れでもある。ここに、兄妹関係認識のありようというシスプリの普遍的な要点に立脚した、來夢というネオシスの独自性が見出されるのである。
 このような視点を有する來夢の兄への想いが薄いということはもちろんなく、むしろ原作の妹達にこそ冷静な視点があまりに欠けているように思えることの方が問題なのだが、その相違を越えて本編も、最終的には兄が妹の不安を癒して兄妹関係をさらに緊密にするというシスプリの原則に、忠実に従っていることを確認しよう。兄の不意打ちに驚いた來夢は、チョコを兄が本心から美味しく味わってくれたことによって、その笑顔を素直に受け入れることが再びできるようになった。思えばこの場面で、彼女は兄の表情をひたすら見つめていたに違いないのだが、そこで兄の笑顔が視野いっぱいに広がることで、彼女の意識から、批判的第三者に由来する(バレンタインデーに関わる)視点はたちまち雲散霧消してしまう。いったんはそのような視点を内在化したからこそ、來夢はいま再びの兄妹の近さを自然に感じることができた。何かを自然に思えるというのは、一度はそれを自然なものと客観視すればこそである。「さっきのにぃやんの笑顔、見たら何だか、普通に言えたの。」そう独白する彼女は、その普通さを心のどこかで冷静に再確認しながら、当事者としてその喜びを満喫する。この「女の子を少しだけ成長させてくれる、神秘的な日」に、來夢は、そんな普通さや素直さの価値と、それを兄とともに享受することの幸福を、視点の統一とともに深く理解したのである。



19.麗音(星倫吾氏) 〜第三者の全力支援と宗教〜

 本編「求めよ、さらば与えられん」では、麗音(れのん)が兄への想いに不安を抱き、信頼できる師への告白を通じて回復するまでの筋道が、キャラクターコレクション1話分(33字換算で118行、8ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。兄最後登場パターンをとっているものの、本編は兄によって問題が解決されるというよりも、中盤に登場する第三者の役割がきわめて大きい。

「麗音ちゃんの特技は歌うこと。声楽の特待生として声が掛かるほど、実力は折り紙付きなのですが、あがり症なので人前で歌うのは苦手です。最近は歌うことよりも、自分で歌を作る方に興味を持ち始めているみたい?! ほかの子と比べて長身でスタイルもいいけれど、本人はその事にコンプレックスを抱いているようで、そんな彼女を優しくリードしてくれる兄を、頼もしく思っています。」

 この紹介文にあるように、麗音は声楽という特技をもつ特技派妹であり、本編でも彼女における歌と想いの関係が描かれている。ただし、本節で注目するのは、麗音の想いの躓きと、それに対する支援的第三者の振る舞いについてである。
 まず躓きの内容を見てみると、麗音の兄に向ける想いを友人(批判的第三者)に「子どもっぽい」と言われたことに端を発して、兄への秘めた想いとそれを告白するためのチョコが、兄に対して負担になってしまっているのではないか、という自問に至る。これを、兄への想いが許されるかどうか、という問いとしてひとまず広く捉えておくと、このような問いが、妹自身のうちで解決されることはまずない。妹にとって、その問いは、批判的第三者によって示される一般社会の禁忌がいかに圧倒的なものであるかを痛感させられるものであり、その圧迫を押しのけるだけの力を持ち合わせているような妹はほとんどいないのである。例えば、咲耶はその意志を有しながらも挫けそうになり、千影は別世界の論理でそれを乗り越えようと試み、春歌はその圧迫をそもそも感じていない。
 ところで、この3人を例にしたことにも明らかなように、ここには他者認識や社会性の発達が関係するため、通例この自問は年長者において示される。年少者の場合は、社会通念も包摂する問いにまでは至らず、自分の想いが許されるかどうかは兄妹関係の中でのみ検討されることとなり、その結果として、兄にとって自分の想いが迷惑にならないかどうか、という不安に留まる。実際に、本編で麗音が告白する苦悩も、「もしかしたら兄さんにとって、私の想いは迷惑なのかもしれない、なんて考えてしまって……。だって……兄さんは私に色々してくれるのに……私は兄さんに何も……何も…………」というように、この水準にあることを指し示している。より明確に言えば、兄の支えに応じることができない、一方的に自分が負担をかけてしまっている、としょげる姿は、花穂の「見捨てないでね」という不安や、せめて自分にできることとして兄を応援しようとする姿と、重なり合うものである。背が高く、年齢(「生活科」ということは小学生)にしては大人びているとはいえ、彼女はやはり年齢相応の発達段階にあると言えるだろうか。しかも、親と一緒に暮らしている花穂と異なり、「全寮制」学校の「特待生」として一人で学び生活している麗音には、そのような苦悩を日常生活の中で和らげてくれる保護者は存在しがたかったかもしれない。その環境の弱さが、バレンタインデーという特殊な日とあいまって、花穂のような兄へのお返しへの前向きな努力を阻んでしまっている、とも考えられる。

 しかしここで、もう一方の注目すべき対象である支援的第三者が登場する。聖歌隊の指導者であり、麗音にとって身近で尊敬すべき大人として、シスター・メアリーが姿を現すのである。修道女であることや「聖歌」隊の存在、また「聖母マリア様」という言葉から、この学校(苺野学院)はカトリックミッションスクールらしいと分かるが、これから検討するシスターの言葉が果たしてどこまで宗教的に許されるのかは、論者の能力を越える問題であるため明らかにし得ない。ともかくも、このシスターに麗音が胸のうちを告白するとき、その告白という行為自体が涙とともに、彼女の痛みをいくぶん和らげていることを指摘しておく。リピュアBパートの咲耶はどこまでも独りで耐えねばならなかったが、本編の麗音は、既に孤独を脱している。
 そして、聞くことでその孤独を癒しながら、さらにシスターが彼女に伝える言葉は、シスプリの原則からすれば、決定的な意味をもつものだった。

「あなたはお兄さんに何も出来ないって嘆いているけれど、そんなこと全然ないのよ。何故なら、麗音ちゃんがお兄さんの事を好きなように、お兄さんも麗音ちゃんの事を愛しているから。だって、誰だって愛する人のためにだったら、喜んで力になって上げたいって思うでしょう? 」
 この台詞の中で決定的とされる箇所は、兄も麗音を愛している、という断言である。シスプリ原作において、兄が妹を愛していることの手がかりは、兄の態度から妹が憶測する以外に存在しない。妹の不安を支援的第三者がいくらか和らげるとしても、それは妹の側の想いを肯定するというかたちによってであり、第三者が兄の想いについて妹に保証することはあり得なかった。それは、シスプリ原作が、妹視点からの兄妹関係を、ほとんど兄と妹の相互関係にのみ立脚して描く作品だったからである。兄の妹愛の中身さえ曖昧にぼかされて表現されるという状態では、第三者がこれを明確化するどころか、示唆することさえかなわない。そして、そのような方法では妹が兄の想いを確信できないからこそ、妹は不安を抱き、兄を求めて行動し、兄の態度に安心を見出そうとするのである。ところが、シスターはこのシスプリの原則を遠慮なく踏み越えて、兄が麗音を愛しているという、それ自体は間違いなく正しいであろう言葉を麗音に告げる。しかも、「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉までも、「自分が望むものがあるならば、自分から進んで行動を起こしなさい、そうすれば神様はきっとそれに応えて下さります」という解釈とともに、この「迷える子羊」に贈るのである。じつはここには、麗音が求める兄の愛を既に獲得しているはずであるにも関わらず、その兄の愛という「望むもの」を求めるならば行動せよ、と述べることで、その愛が未だ獲得し得ていないようにも語っているという、表面的な矛盾が隠されている。しかし、この矛盾は、麗音の「望むもの」が兄の愛というよりも、それをも含む兄妹相互の調和的な関係であるという想像から、容易に乗り越えることができるだろうし、また今さらに問題にすべき点はそこではない。はるかに重大なのは、麗音とシスターが信じるところのキリスト教における神が、麗音の兄への想いを嘉したまうであろう、と明言していることである。もちろん、シスターの信仰心と麗音のそれとが全く重なり合うものでもないであろうし、そもそも麗音がどこまで信仰心を抱いているのかも考慮しなければならない。だが、「Alleluiah!」で「この広い世界で、私と兄さんとが、近しい存在として引き合わされた『奇跡』を、神様に感謝します……。」と独白するとき、麗音は、この兄妹関係を神の働きに帰している。そして、シスプリの妹がもしも兄妹関係を与えてくれた超越的存在を認めるとすれば、それは絶対的な信仰の対象に他ならない。そのような対象を、麗音は己の神として見出しているのであり、しかも本編で、神が自分の想いまでも肯定していると理解するに至った。神という最強の支援的第三者によって宗教的な裏付けを得たとき、妹が抱く兄への想いは、もはや現世の禁忌を軽々と越えていくこともできただろう。それは一見して千影の現世観に近いが、確信の度合いにおいては、むしろ春歌の疑いなき態度にこそ似ているものとなっただろう。
 だが、実際の麗音がそこまで一気に飛翔することはなかった。それは、麗音の成長段階が、まだそこまでの変化を許容していないからでもある。シスターの助言が麗音の苦悩に対応して、あくまでも兄妹関係の枠内にとどまるものであり、社会的規範の侵犯可能性に直接言及するものではなかったからでもある。しかし、さらにそこに、麗音が兄妹関係を神に完全に委ねてしまおうとはしないためらいを、つまり「神への不信」と言っては言い過ぎになるだろうが、自分の想いの行方を自分の側に、そして兄との絆のうちに留めおこうとする意志を、見出すことはうがちすぎというものだろうか。本編を最初に読んだとき、論者は、シスターが立ち去る場面と兄が登場する場面の間に、麗音がシスターの言葉をどのように受け止めたのかを示す文章が必要ではないか、と感じた。だが、その描写の欠落は、推敲時間不足による省略というよりも、このような麗音のためらいを暗示するものではないだろうか。そこには、シスターに告白し、シスターから言葉をいただいたことによる解放の歓喜が確かに存在している。しかし同時に、シスプリの妹らしい不安とためらいをなお抱き続け、それによって自分と兄の絆の行く末を自分達に引き受けようとする良い意味での意固地さを、垣間見せてくれているようにも思うのである。そして、これもまた、「言葉やチョコレートだけじゃ伝えきれない私の想い」の一部なのではないだろうか。


20.海羽(不二氏) 〜絵と文章の相補性〜

 
本編「St.Valentine」では、海羽(うみう)がチョコを手作りしたものの手渡し損ないかけてしまい、兄の想わぬ訪問によって何とか想いを伝えることができたという顛末が、キャラクターコレクションではなくオリジナルストーリーズ1話分(テキスト&イラスト6ページ分)の物語として提示される。全ページを絵で描ききったその技量と熱意もさることながら、論者が第一に指摘したいのは、この形式が海羽というネオシスに最も適切な表現手段として選択されている、という事実である。

「海羽ちゃんはとても頭に血が上りやすくケンカっ早い、ちょっとおてんばな女の子。しかし、実際その容姿と萌え声でほとんど相手にされない。また、要所要所でちゃんと自分の愛らしさを武器に甘えてくる事もある。結構泣き虫で「おぼえてろよ〜」など捨て台詞を吐いて逃げていく事も……。」

 否定的性格特性ばかりが並んでいるかに思えるこの紹介文だが、だからといって海羽の性格が全て否定的な要素で占められているわけではない。例えば「海羽の喫茶店」では、「自分の発案ながら素晴らしい企画よのぉ〜、ウヒヒ……♪」などというやや品位に欠ける発言が見られる一方で、兄との身体接触の状況では、まだまだ純真な女の子らしい照れや慌て様を示している。そして、その内面が兄との関係を通じて最大限に発揮されるという展開は、シスプリの原則に忠実なものである。
 しかし、本節で注目するべきは、この紹介文において、性格と容姿の「ずれ」が彼女の要点となっているという点である。上述のように性格にも外面と内面との「ずれ」が存在するわけだが、そのような隠された内面を待たずして、既に「ケンカっ早」く「おてんば」な性格と「容姿と萌え声」のギャップは十分に大きい。瑠巳佳のような特技と性格の「ずれ」とは異なり、海羽のこの「ずれ」は言動のあらゆる面で表出されるものであり、そこに見出される可愛らしさが、彼女の魅力でありまたネオシスとしての独自性ともなっている。
 そうであるならば、海羽の魅力を読者に伝えるべきネオシス創作では、いかにしてこの「ずれ」を肯定的に描くかが、重要な課題となる。ところが、この対照の一方をなす「容姿と萌え声」とは、妹一人称のテキストではほとんど表現することができない類の特徴なのである。つまり、性格と容姿の「ずれ」を一つの独自性として打ち出しているこの海羽というネオシスは、妹自身の独白とわずかな絵によって構成されるキャラクターコレクション形式では、その本来の持ち味を完全には発揮しえないのだ。もちろん、読者は、キャラクターコレクションの絵とテキストからその妹の立ち振る舞いを脳内で再構成することができるだろうし、これによって「容姿と萌え声」もある程度想像できるかもしれない。そして、シスプリという作品は、そのような読者の自由な想像に委ねる部分をあえて大きく残すことで、企画として成功したのだとも言える。だが、それは、原作の妹達がそれぞれにテキストと絵で示しうる魅力的な特徴を有していたからこそ可能なことなのであって、海羽のようなその特徴を示しにくい妹にも妥当するものとは言い難い。
 ここでもしも、あくまでキャラクターコレクション形式で海羽を描こうとすれば、どのような手立てが必要になるかを考えてみよう。その場合、彼女の「ずれ」に由来する可愛らしさを、地の文章で(ライターの視点から)示すことはできない。例えば、兄や第三者の言動の中で海羽のその魅力についての評価を行わせるか、あるいは海羽が、そのような他者の反応から自分の「ずれ」を自覚させられて独白するか、といった手立てが必要になるだろう。ところが、紹介文では、海羽自身がその「愛らしさを武器に甘えてくる」ほどにまで、既に「ずれ」への自覚があり、しかもこれを屈託なく利用するだけのしたたかさを身につけていることが示されている。これもまた確かに海羽の魅力の一部をなしてはいるものの、海羽が自分のその「ずれ」に煩悶するような言動から読者が見出す種類の可愛らしさは、結果としてきわめて得難いものとなっているのである。

 このような問題の所在を理解したとき、本編がオリジナルストーリーズ形式で創作されていることの意味が、初めて明瞭に浮かび上がってくる。この形式は、人物絵を作品の中心に据えることで、どの場面でもつねに妹の容姿と妹の言葉とを対照可能にしているのだ。キャラクターコレクション形式では困難だった「ずれ」の表現は、それゆえに本編では様々な場面で実現しえている。本編のテキストは、キャラクターコレクション1話の半分にも満たない分量だが、それは、テキストが絵による情景描写で大きく補完されているというより、絵とテキストが「ずれ」をも表現するために相補的な関係にあるからだ。
 例えば、チョコを作り終えた海羽がつい居眠りをしてしまい、夜になって目覚め慌ててラッピングして家を出ようとする場面(p.5)を見てみよう。上段では彼女の寝顔が目も含めて描かれ、中段では起き抜けの焦る姿が示されているものの、その表情、とくに目は描かれていない。この間の彼女の感情は、テキストでは「はっ……! って気づいた時には外がもう真っ暗で……今、何時!? バレンタイン終わっちゃうよ!」と、焦りこそ明確に述べられているものの、これに続く文章では内面描写は全くなく、彼女の行動だけが綴られる。これを受けつつ、下段で兄の訪れに驚く海羽の姿が描かれるとき、彼女の目に涙が浮かんでいることに、読者は強い印象を与えられることになる。この涙は、兄の言葉を聞いてのものでは、未だない。それは、チョコを渡し損なうかもしれないことへの焦燥と後悔に彼女がほとんど狂奔しながら、その絞られるような胸の苦しみによってもたらされた涙であるかもしれない。あるいは、必死になって仕度を整えた海羽が、玄関を飛び出そうとして兄に出くわした瞬間の、安堵とともにこぼれた涙なのかもしれない。いずれにせよ、ここには、テキストで記されていない海羽の心の動きが、目の描写(その意図的な欠落)と涙を通じて、これ以上もなく雄弁に語られている。
 続く兄との会話場面(p.6)では、まず
「な、なに? なんでにいがアタシの家に居るの!?」と驚きの声をあげているが、これは前ページで涙を既に描いていることによって、外見に先に現れた海羽の感情を理性が追いかけて言葉にするその時間のわずかな差をも、読者に実感させている。そして、「学校に居た時のアタシが何か変だったから様子を見に来たって……もう……にい……照れくさいこと言わないでよ……」と記されるとき、このテキストは本編唯一のハートマークによって、妹を心配する兄の愛情が海羽にどのように伝わったかを端的に示す。それとともに、絵の方ではチョコの包みを胸に抱きしめる海羽の涙ながらの笑顔が、このハートマークの内容をそのままに具体化している。こうして、絵とテキストがひとたび一致したのち、再び最後に 「絶対、残さず食べろよな!」という乱暴な物言いとともに、嬉し涙をぬぐう彼女の晴れやかな顔が描かれることで、「ずれ」の魅力はさらに強烈に読者に伝えられるのである。(なお、兄を前にして想いを伝える海羽のこの最も活き活きとした姿は、真正面から大きく描かれており、読者が兄の立場に身を置くことを可能にしているのは、シスプリ読者の感情移入の経路を正しく掴んでいる。)
 こうして本編の後半部分では、内面描写を抑制しつつ、絵と言葉の「ずれ」に読者の意識を向けさせることに成功しているが、この後半部分で得られた視点をもって前半を見返してみるとき、そこに新たな読み方が与えられる。例えば、図書室に猛ダッシュしながらも、勝手が分からず「ちょっとオドオド」したり(p.3)、励まされて「恥ずかしくなって急いで逃げて」きたり(p.4)するとき、これらの場面には海羽の姿は描かれていない。それらは、「ずれ」のない感情として既にテキストによって表現されているがゆえに、これに重ねて絵で表情を示す必要がないのだ(気弱な表情への推移を後半部分に集中させるためでもあるが)。しかし、それらの場面全体を含む学校での彼女の姿については、「学校に居た時のアタシが何か変だった」という兄の指摘から、絵で描かれていない海羽の普段とは違う振る舞いを、読者は、それを見つめている兄の立場から想像することができるようになる。このようにして、妹の「ずれ」を見つめる読者の視線は兄の視線と一致し、海羽の「ずれ」は彼女の兄への想いにおいて一致する。そして本編そのものもまた、シスプリの原則とネオシスの独自性を、オリジナルストーリーズ形式において見事に一致させているのである。


21.彗(エクゼター氏) 〜パロディの地平線〜

 
本編「彗は、おいしいぞぉ」では、彗(すい)が初めてチョコを手作りし、兄に手渡すまでの騒動が、キャラクターコレクション1話分強(33字換算で174行、12ページ分、イラスト1枚、カット1枚)の物語として提示される。兄最後登場パターンに基づいているが、最終的に妹側の何らかの問題が兄によって明確に解決されるというわけではない。その一方で、読んでいて何より気になるのは、そこに散りばめられたアニメ作品の台詞のパロディであろう。論者が確認できたのは、『機動戦士ガンダム』からの幾つかの引用だが、例えば「一撃で、一撃で撃破か…」については、ガンダムのビームライフルの一撃で初めてザクを撃破した場面での台詞ではないかと憶測する程度にとどまる。しかし、「料理の出来の違いが、チョコのおいしさの決定的差ではないということを…教えてやる」となれば、これは明らかにシャアの台詞のもじりであると分かる。

彗ちゃんは彗星のようにあらわれて彗星のようにさっていく熱い女の子/お兄ちゃんを自分の趣味の同人誌即売会の売り子にするなど元気一杯な女の子です。ちょっぴり口はませてるけど、彗ちゃんは早くオトナになりたいんです。

 この紹介文にあるように、彗は同人娘である。この趣味は、原作では到底考えられないものであり、人によっては、シスプリの枠をあまりに外れてしまうものと受け止められるかもしれない。事実、論者自身も一読して「イロモノ」の感を拭えなかった。この違和感は、ネオシス紹介ページでの本編タイトルに「すげえサブタイトルだな」とサイト管理人からの一言が添えられていることにも強められた。この斜に構えた態度を暗示する言葉から、クリエイターがいわばシスプリのシニカルなパロディを自覚的に生み出そうとしているのではないか、と思えたのだ。(だいたい、性格設定の短所欄に「恥知らず、世間知らず」と書かれてしまう妹など、前代未聞である。)だが、そのような印象を離れてこの同人趣味という設定そのものを考えてみれば、これはネオシスの設定として必ずしも不適切なものではなく、むしろ読者が慣れ親しんでいる分野に妹を接近させることで、その妹への親近感を抱かせることにもつながり得る。この点のみをとらえても、彗というネオシスは、きわめて明瞭な独自性と可能性を有している。
 しかし、その独自性は、既にある一定の方向に修正をかけられている。同人活動に携わる女子達が、最も関心を寄せるのは、ガンダムではなく別の領域、とりわけ「やおい」作品ではないだろうか。たとえガンダムが好きだとしても、初代よりはむしろXやWなどではなかろうか。ただし、論者はそれらの作品を見たことがないので、既に本編に盛り込まれている引用に気づいていないだけかもしれない。また、このような考えそのものが、ガンダムファンの女性からすれば悪質な偏見にすぎないと批判されるかもしれない。その批判を受けることは覚悟の上でなお、論者は、ここに、作品世界と現実世界との関係について、2つの問題を見出すものである。

 まず、論者がここでガンダム云々と考え始めてしまったように、作品世界に現実世界の固有名詞(作品、会社名、地名など)を持ち込んだ場合、その固有名詞にまつわる想像が広がりだしてしまう。その想像が妹の姿をより具体的にとらえ、より深く理解していくことに寄与するならいいのだが(そしてもちろんそれを目的としての設定のはずだが)、その想像が読者の関心をそらし、作品世界への没入を阻み、さらには違和感を与えてしまう場合もあるのだ。ただし、例えば彗のガンダム台詞については、これが兄への想いの発露であると解釈することもできるだろう。兄がガンダムファンであることから、兄と同じ作品を好きになろうと努力したのかもしれないし、あるいは兄と一緒にアニメを見たという快い絆の記憶が、この作品と結びついているのかもしれない。ここまで考えれば、彗が初代ガンダムにこだわる理由が、シスプリの原則と一致したかたちで導き出せるだろう。
 しかし、このような解釈を行うこと自体が、次なる問題となっている。なぜ初代ガンダムの台詞を、と考えるとき、論者は、他のガンダム作品や、ガンダム以外のアニメ作品や、同人世界についての若干の知識などを動員して、解釈を行おうとしていた。そこでは、もちろんシスプリの原則との適合を最終目的としているとはいえ、ネオシス作品世界の内部に、現実世界の知識が大きく干渉していく契機も与えられている。例えば、「来週までにはこの衣装を仕上げないともコミケにも間に合わない。」という一文を読むとき、「コミケ」が「コミックマーケット」であるとすれば、それは8月と12月に開催されるはずなので、2月のバレンタインデーには何ら影響しないのではないか、と論者は疑問を抱いた。ここでの「コミケ」なる語の意味内容はともかくとして、問題なのは、「コミケ」という現実世界のイベントの知識が、作品内での彗の生活世界(そこでは「コミケ」は2月開催かもしれない)に優越してしまっているという点である。この、実世界の作品からの引用が、作品世界を現実世界に従属させてしまうという問題は、バレンタインデーや正月、夏休みなどの社会・学校で一般的な年間行事を越えて、特殊なイベントなどが取り上げられるさい、作品世界を束縛してしまうという危険を示唆する。この問題は、原作では鈴凛の発明という特技でも指摘されていた。彼女の発明の水準が、現実世界におけるロボット工学や情報工学などのそれとどこまで整合的であるかを問うことは可能であり、それが面倒な議論をもたらすことも容易に予想できるがゆえに、原作では具体的な技術の描写は一切存在しなかったのである。この原作における曖昧さは、男性読者に親近感を抱かせる趣味・特技を、批判やツッコミの入りにくいかたちで妹に与えるための方策であり、これによって、男性的趣味・特技とシスプリらしさとはようやく妥協しえている。

 このような妥協の余地がない彗の場合、彼女の同人趣味と、女の子らしさとは、微妙な距離をもって描かれることになる。本編では、「みんなのチョコの話は少しだけ、うむ少しだけだが、気になるのだ!」という冒頭から、同人娘の彼女がバレンタインデーに寄せる想いを感じさせ、また(あまりに破天荒ではあるが)母親との会話の中で、兄を慕う彗なりの努力のさまが示されている。これらの箇所では、趣味と性格特性とは比較的親密に描かれていると言ってよい。一方、「魔法の切れないシンデレラ」では、学園祭という主題が優先しているために、同人趣味はほぼ等閑視されている。
 このような趣味の位置づけの差は、主題の相違によるところも確かに大きいが、さらに重要な点として、兄がどこまで同人趣味を共有しているかが曖昧なままにおかれているという背景がある。つまり、同人趣味が兄との絆を保障するものかどうかが判然としないのだ。兄のこの曖昧さはシスプリの原則に適っているのだが、その一方で、兄妹のアニメ台詞での掛け合いなどを困難にしてしまっている。もしも、兄をアニメファンとして描く以外の方法で、妹との掛け合いを描写することができるのであれば、彗がアニメ台詞などの定型的な言い回しに込めている兄への想いを、兄が引き出すという場面が実現するのではないだろうか。それは、兄がニュータイプであるという反則的な設定を呼び込むことかもしれないが、言葉の奥に潜む意味を理解するという能力こそ、この妹の兄には何より必要に思われる。ひとは、分かり合えるはずだからだ。
 また、現実世界が作品世界に優越することを解消するには、現実世界のアニメ作品をネオシス世界に持ち込まないことが最も確実だが、それではこのネオシスの同人趣味は成り立たなくなってしまうという懸念が拭えない。この問題に対する一つの処方としては、ネタ元となるアニメ作品などを、ネオシス世界内に新たに創造してしまうというものが挙げられる。つまり、作品世界内部に引用元作品を用意することによって、現実世界からの干渉を抑えるのである。この実例は何よりもアニプリのガルバンであり、あの作品内作品はガンダム(そしてそのパチモン)のパロディではあったものの、アニプリ世界内での役割を確かに与えられてもいた。しかし、このような作品を創造することの手間と、それがパロディであると読者に理解させる描写法の困難とを鑑みるに、複数のネオシスが共有する作品世界を構築する機会でもなければ実現しがたい。逆に言えば、そのような作品世界のディテールを生み出す契機を、彗はシスプリにもたらしてくれてもいるのである。



22.鏡子(テディ氏) 〜同居〜

 本編「ライバル宣言」では、鏡子(きょうこ)が友人という恋敵の登場によって動揺し、その友人の思いがけない言葉にさらに動揺する顛末が、キャラクターコレクション1話分(33字換算で150行、10ページ分、イラスト1枚)の物語として提示される。兄途中登場パターンだが、実際には兄は妹と直接言葉を交わすことはなく、兄不在パターンに近い。
 さて、本企画の最後を飾るのは、シスプリの原則に真っ向勝負を挑むネオシスの作品である。


「兄とは双子なので、自分の言いたいことははっきりと言ってきます。さらに、生真面目な性格で曲がったことは大嫌い。その生真面目な性格からか、兄妹であることを気にして、面と向かって「好き」とは言ってきません。しかし、大好きな気持ちは押さえることが出来ず、しばしば態度に出てしまいます。」


 「双子」。紹介文に記されたこの一言は、それだけでシスプリ原作の枠を大きく踏み越えるのに十分な威力を有している。まず、原作では曖昧なままにされていた兄妹の血縁関係については、双子の場合、「腹違いの双子」や「異父双生児」などおよそあり得ないと思われるため、実の兄妹とほぼ確定される。このことは、キャラクターコレクションではそれほど直接的な問題とはならないが、例えばゲーム版での血縁度による実妹・義妹の選択を不可能にする。もっとも、ゲーム版では兄1人に妹12人という離れ業を何の説明もなく行いえていることを考えれば、それでも問題を解決する手立てがあるかもしれない(『魔女っ子チックル』のような背景事情などによって)。次に、兄の性格や設定をできるだけ明らかにしないという基本原則についても、双子であるために妹の設定によって誕生日やおおよその年齢などが確定してしまう。個人的なことを記せば、論者はそれなりの年齢であるために、原作でも兄に感情移入することはやや難しかったが、鏡子の場合、彼女の若さを目の当たりにして、その困難をいっそう強く感じるのである。
 これらの点に加えて重大なのは、鏡子が兄と同居しているという事実である。シスプリは、アニプリを除けば、兄妹がそれぞれ別の家に住んでいるという設定に、重要な意味を与えている。兄を想う妹が、その兄と一緒に暮らせないという悲しみがあればこそ、「お兄ちゃんの日」というごく限られた機会にのみその想いのままに兄との時間を満喫できるという喜びが際立たされる。この「お兄ちゃんの日」という雑誌企画上の設定は、キャラクターコレクションでは不定期の「お泊りの日」というかたちに組み替えられているが、兄妹の日頃の距離と断絶、そしてそれを無効にできるわずかな機会という点では、雑誌の設定と共通している。ところが、鏡子は最初から兄と同居しているために、この日常生活上の距離がほとんど存在しないのである。

 以上の点はいずれも、シスプリの原則からすれば「逸脱」として理解されても当然であり、例えば彗における他作品引用などよりも、はるかに本質的な問題と言えるだろう。この鏡子がなおもシスプリの領域内に留まり続けるためには、双子や同居によってもたらされる非シスプリ的要素に、どのように対処するかにかかっている。このうち、兄妹の血縁関係は、ほとんど如何ともしがたい。兄の設定については、必要以上に具体性を帯びさせないことが望ましいとはいえ、作品の中で兄妹関係を描くうえで、当然ながらある程度は明確に示さざるを得ない。とくに鏡子が「生真面目」であるために、杏奈と若菜(考察(2)参照)のような双子の対称性がここでも適用され、やや頼りなげでいい加減な兄の一面が、多くの創作の中で描写されている。(それは鏡子の主導性を示すことにも役立っており、単純に否定されるべきものではない。)
 ここに至って、対処しうる要素として残されているのは、兄妹の距離のみとなる。シスプリの通例では、妹が兄のそばにいたいにも関わらず否応なく離れて暮らさざるを得ず、それゆえに妹が兄を想う心も強まっていく。つまり、距離と想いの強さとは反比例する。鏡子の場合、兄と同居している現状は変えられないため、至近距離に暮らしていることを前提にしなければならない。だからといって、反比例の法則に基づいて、鏡子の兄への想いがあまりに弱い、とすることはもちろんあり得ない。その想いの強さは維持したまま、兄との精神的な距離をいかにして確保するかが、ここで課題となるのである。それは例えば、「トンネルを抜けたら」では、「この先、わたしたちはいつまで手を繋いでいられるのかな?」という自問の中に、至近距離にいる現在の幸せがやがて終わりを迎えるだろうという、未来への眼差しというかたちで間接的に示されている。だが、ここで再び紹介文を読み直せば、この内面化された距離を、「兄妹であることを気にして、面と向かって『好き』とは言ってきません」という文言の中に、きわめて明瞭に見出すことができるだろう。「1122」では、兄妹の買い物姿が「夫婦に見える」とあるが、そのように見えてもおかしくないだけの自然な「近さ」を持ち合わせているだけに、あえて「好き」と言わないことの重さがきわだつ。そもそも、この「好き」と言わないという態度自体も全く非シスプリ的なのだが、それは同居生活と表裏一体のものとして、鏡子と兄の距離を確保するのに役立っているのである。ところで、このような「近いのに遠い」関係は、論者には馴染みあるラブコメ漫画に典型的なものである。そのような漫画では、主人公の男女がお互いすぐそばにいるにも関わらず、想いを伝えられず距離を一挙に縮められない期間が、中盤の大半を占めている。シスプリもまた、そのような先送りを行うことで兄妹関係の揺れを様々に描きつつ作品の寿命を維持してきたわけだが、この観点からすれば鏡子は、最もラブコメ的な先送りを可能にするネオシスなのだ。
 そして本編は、まさにこのラブコメ的展開の中で、一つの画期をなすべき場面を描いている。バレンタインデーという重要な行事に、明日香という批判的第三者どころか恋のライバルそのものである友人を登場させることで、明日香の電話を介して、兄の妹への情愛を間接的に鏡子に伝えるに至っているのだ。ここでは、兄の想いをあまりに確定させてしまっているという(これもまたシスプリの原則に関わる)問題に直面してはいるものの、読者は何よりも、最後に「えっ、それって…」と気づいた鏡子が、隣室かどうかは不明ながらわずかな距離を隔てて自室にいるはずの兄(「にいさんはにいさんで帰ってきた途端、自分の部屋に篭っちゃったし…」)に、いまやどのような距離感を抱いているのかを想像することになるだろう。そして、廊下に出た鏡子が兄の部屋のドアを見つめるその視線のいろや、押し隠された声の震えに、何らかの期待を込めたくもなるだろう。同居もの特有の、同居だからこそ感じられる距離のこそばゆさを、鏡子とその兄はここで読者の前に提供している。そして、この決定的なはずの事件を経たにも関わらず、今後もあまり事態が展開しないようにも思えるのは、ラブコメの性というだけでなく、シスプリの原則にある程度忠実に従っている点を見出してのことである。生真面目な鏡子と性格的に対をなす兄は、たんに若干いい加減というだけでなく、妹の思いつめようを適度に緩めるというシスプリの兄本来の役割を果たしている。それゆえ、論者は本編の続きに思いをはせるとき、鏡子が生真面目さによって自らを律するというよりも、むしろ兄が明日香の告白に対して妹のことを持ち出したのがいかに方便であったかを鏡子に説き聞かせたり、そこまででなくともあまりに無神経な振る舞いを鏡子に示したりして、せっかくの事態の推移を兄の側からご破算にしてくれるのではないか、とあらぬ期待をしてしまうのである。


おわりに 〜全体のまとめ〜

 以上4回にわたり、本企画参加ネオシス22名について、その応募作品や設定などに基づきながら、シスプリ妹としての共通性と、ネオシスとしての独自性を考察してきた。これを結ぶにあたり、全体を総括しつつ若干の課題を提示しよう。

 上述した本考察の主目的は、原作に見出される妹の設定と物語の基本要素がネオシス作品にも共通して確認できたことと、そこにまた原作の妹達には見られない新たな要素も少なからず発見できたことによって、おおよそ達成された。それは同時に、シスプリメを通じてシスプリ原作をよりよく理解することにもつながり、またその理解をもってシスプリメを再解釈する手がかりも今後与えられていくこととなった。この相互作用において、シスプリメは、原作に敬意を払いその枠組みを踏襲しつつ、さらにシスプリ界を拡大発展させるという困難な努力を、各々のネオシスの独自性に即して、確実に遂行しつつある。このことを明らかにしえたことを、論者はファンの一人として自ら嬉しく思うとともに、それだけの努力を積み重ねてきた、そして今さらにその歩みを続けているクリエイターと企画者の方々に、心より感謝する。

 ただし、この結果を言葉どおりに受け止めるには、若干のためらいがあるのもまた事実である。その理由はいくつかあるが、例えばまず、クリエイター同士の間で、またクリエイターと企画者の間で、シスプリメというものについてどこまでの共通理解がなされているのか、という点についての不安である。これについては、考察(1)の序にも記したように、参加者間での意見の対立が、シスプリメをさらに発展させるために必要な相互理解の機会を与えた、と考えてもちろん差し支えない。しかし、その意見交換の中で、シスプリメから排除されたと感じたクリエイターや、自ら違和感を覚えて参加意欲を失ったクリエイターも、いなかったわけではないかもしれない。これはある程度やむをえないことだとしても、今後もシスプリメが進展しゆく中で再び起こりうる事態だろう。しかもシスプリメがシスプリ原作の再検討をも目的にしている以上、シスプリ原作の受容をめぐってもこの問題は生起しうるのである。
 次に、クリエイターによるネオシス創作の内部においても、その自由な創作がネオシスとしての「原作」とパロディの区別なく行われるとき、シスプリの枠組みを拡大するのではなく、たんに逸脱し拡散していくという危険性はないか、という不安である。創造の自由が原則への配慮を欠いたまま安易さと無秩序に陥るとき、やがてそこには解体が待っている。論者がここで念頭においているのは、例えばバーチャルネットアイドルサイトの泡沫的流行とその崩壊である。また、拡散ということについては、ネオシスの数が増えすぎて全ての創作を把握しがたくなってきているという、既に実際に指摘されている問題とも関わっている。企画の広がりによって相互交流が希薄になる、あるいは一部の参加者同士の交流だけが内輪的に特権化していくといった事態がもし生じるとすれば、これもやはり看過しえない。企画全体の発展と公正さのためには、少なくともそれぞれのネオシスが目指しているものが現時点でいかなるものであるかだけでも、全員が確認できねばならないはずである。
 これらの不安を自ら解消するためにも、論者は本考察を著すことになった(そしてそれに一定度成功したと考える)のだが、しかしこの考察自体もまた、いくつかの問題を抱えてしまっている。それは、シスプリ的創作においてテキストと両輪をなすべき絵についてほとんど検討しえていない、という考察方法の限界だけではない。本考察では、ネオシスの設定と描写に見出される乖離や空白に対して、これを解消し充足しようとする試みをいくつか行った。しかし、このような試みは、雑誌企画としてのシスプリキャラが備える余白部分、つまりファンの自由な想像に委ねられる部分を、埋めてしまうことでもある。ALINE氏(『Sisprism』2003年12月25日分日記)の、「読者(兄)が原作エピソードから更に踏み出して想像する余地」が「原作妹やネオシスターの寿命」であるという指摘を踏まえれば、統合的把握への過剰な努力が必ずしもその妹のためにはならないと分かる。むしろ、あまりに酷いものでさえなければ、ある程度の乖離や矛盾は、その妹を多様に解釈させる契機として、肯定的に受け止められるべきかもしれない。とくにこのことは、東雲大尉氏(『Silver Zeppelin』2004年4月28日分日記追記)が、バレンタインデーという非常に特殊なイベントを主題とする企画の性質上、「1シチュエーションにおける妹の一面のみを掘り下げてしまうこと」には危険性があると指摘している。妹の姿は兄妹の相互性においてのみ統合的にファンに理解されるが、逆にその妹の兄への想いがあればこそ、妹の中に新たな分裂や矛盾を惹起することさえある。「成長」とまで言わずとも、そのような関係性と動態の中で、妹像をつねに追いかけていくことが、ファンには求められることになる。本考察では、論者は可能なかぎり当該ネオシスの他創作も参考にし、また「現時点での」「一つの解釈視点から」という留保をつけることなどによって、これらの問題に配慮したつもりではあるが、それでもネオシス達を一つの枠にはめてしまおうとする傾向がなかったとは決して言えない。とくに、これまでアニメ版シスプリなどについて考察してきた論者には、シスプリの「本質」や「原則」を究明しようとしてきた者としての驕りや先入観が生じやすい(「逸脱」という評価に潜む正統派としての自負など)。論者が本考察の結果にためらいを覚える最大の理由は、じつにここにある。

 それでも論者があえてこのような考察を示したのは、次の確信に基づいている。すなわち、
シスプリメのネオシスは、シスプリ原作と同様に、クリエイターと企画者、そしてファンの相互作用の中で、その個人の姿や兄妹の生きる世界を形作られる。シスプリ原作の場合、ファンは、雑誌を購入し、雑誌企画に投票・投稿し、ファンサイトを開設し二次創作を公開するなど様々な行動を通じて、シスプリ界の維持発展に貢献してきている。シスプリメにおいても、ファンは、クリエイターや企画者が創造する作品を享受するだけでなく、ファンとしての参加を行うことで、クリエイターや企画者に働きかけ、ネオシスのさらなる成長とシスプリメのさらなる進展に積極的に関わっていくことができるのではないだろうか。つまり、本考察は、論者の主観が多分に入り混じっていることを認めたうえで、一人のシスプリメファンが現時点でのシスプリメとネオシスをどのように理解しているのかを記したものなのだ。そのファンレターにしてはいささか長すぎる文章を、考察という形式で示したのは、現時点ではシスプリ原作との対照が何より不可欠であるとの認識に基づいているが、このこともまた、論者のシスプリメ理解の一端を示すものでもある。
 シスプリメの未来は、クリエイター諸氏がいかなる目的のもとに創作を行っていくか、その勇気ある試みを論者を含む読者がいかに受け止め、その感想や解釈をどのように投げ返していくか、そしてそれらの反応を企画者がいかに今後の方向性に反映させていくか、という各々の役割を踏まえた相互作用に懸かっている。そして、それを可能にするのは相互の信頼であり、この信頼は、相互の働きかけに基づく相互理解の増進によって、さらに強固なものとなっていくだろう。シスプリメとは、固有の創作であり、原作の再認識であるとともに、このような参加者全体への調和の拡大をもたらすものでもあり得るに違いない。本考察は、論者というファンからのそのためのささやかな一歩であり、また、これまでシスプリ考察を手がけてきた論者に現在なしうるシスプリメ参加の方法でもあった。クリエイターと企画者とファンの相互作用によってシスプリメが発展しゆく中で、やがてはこの考察の内容が乗り越えられて過去のものとなり、そこにシスプリの新たな地平が開けていくことを、そしてシスプリを愛する人々の絆がさらに広く深く結ばれていくことを、心から祈念しつつ筆をおく。



(2004年6月3日公開 くるぶしあんよ著)

makerへ戻る
etc.へ戻る