兄の罪とその赦し 〜『ONE』と『シスター・プリンセス』〜





 このテキストは、then-dさんの浩瀚なTactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』(2007年8月発行)にくるぶしあんよが寄稿したものです。このたびthen-dさんのご厚意により転載許可をいただいたこと、そして何よりもぼくが『ONE』についてまとまった文章を書く初めての機会を与えてくださったことに、あらためて感謝申し上げます。


 『ONE 〜輝く季節へ〜』(以下『ONE』)との出会いは、ぼくの人生において画期をなしている。なんといっても、ぼくのHNの「くるぶしあんよ」とは長森瑞佳の左足のことなのだ(参考)。そんな変態的なやり方で愛着を示すのもいささか業深いものではあるが、ともかくこの作品なくして今のぼくはネット上に存在しなかった。その内容に衝撃を受け、しかも感じたことを言葉にできずにいたぼくが作品解釈を求めてネットを彷徨った結果、現在も親交ある方々のサイトに行き着き、刺激をうけてついには自分でサイトを開くに至ったのである。
 だが、そこまで重大な影響を自分に与えた作品であるにもかかわらず、ぼくは『ONE』についてまとまった文章を未だに公開していない。それは、『Kanon』や『AIR』の場合と同じく、麻枝作品から受けた感情をうまく言葉にできないぼくの限界ということもあるし、他サイトの優れた解釈・考察を読むことでほぼ満足しえていたということもある。しかし、こと『ONE』については、一方で魂を揺さぶられながら、一方で「何かが欠けているために物語が完結していない」という感覚が消えないままにあって、その「何か」をはっきりさせられないことがぼくを躊躇わせていたのかもしれない。だけど、今のぼくなら、それが何だったのかを言うことができる。それは、浩平とみさおの関係のことだ。
 浩平は、とりわけ一人の少女との絆を手がかりにして、幼い日に自らを呪縛した「永遠の盟約」からの自己解放を成し遂げる。そのかけがえのない少女はプレイヤーが選ぶルートにしたがって変わり得るが、しかしいずれのルートを辿るにせよ、浩平が「永遠の盟約」に至った過程は共通している。つまりその基点は、浩平がみさおを喪う幼少期にあり、妹の死は(この回想までもが浩平の事後構築による空想でないかぎり)取り返しのつかない過去の事実である。このことに引っかかるのは、いわば「死んだ妹の年を数える」ようなものかもしれない。しかし、浩平の生きる時間を止め、年を数えることさえ意識の底に沈めてしまうだけの衝撃がこの事実にあった以上、ぼくとしては、みさおに生き返ってくれとまでは言わない。せめて、浩平がみさおという妹の死を最終的にどのように受け止めなおしたのかを、それぞれの物語の結末部で、あるいは少なくとも長森エンドの中で、明確に示してほしかったのである。

 まず、兄妹の関わりようが作中で唯一描かれるあの回想シーンを振り返ろう。そこで幼い日の浩平はみさおを蹴って「いつものとおり」泣かせてしまっている。みさおが母親に言いつけ、母親が浩平を叱りつけて妹に謝らせる。それは一見してどこにでもあるような幼い兄妹の姿である。そう、年上で体格のいい兄は、年下でか弱い妹をいじめてしまうものなのだ。生まれながらの力の差のために、無自覚に妹を泣かせてしまい、そこで初めて自らの暴力性や攻撃性を、そして非難される側としての自己を見出すのだ。そもそも、妹はこの世に生まれた瞬間から妹として、つまり兄のいる世界への参入者として現れる。しかし、兄は、妹が生まれた時から、ようやく兄となる。兄は妹に遅れてやってくるのである。しかも、己を妹の攻撃者として理解しながら。みさおは浩平に蹴られても蹴り返さず、ただ泣き喚き、浩平の詫びを「うん、わかった…」と受け入れるだけだ。やがて少年は、年下の少女を泣かさないように、自分の暴力を抑制することを覚えていく。妹にしてはならないことを理解すること、それは、少年が兄として再生する第一歩である。
 しかし、この攻撃性の自覚と抑制という消極的な自己形成のみでは、兄となるにはまだ足りない。妹のために積極的になすべきことを理解することが、これに続かねばならない。浩平はこの点できわめて自覚的であり、さらにいえば強迫的だった。彼は、みさおにとって自分が「いい兄」であったかどうかを回想の中で繰り返し省みている。妹がすぐに泣きやむことでさえ、浩平は妹の「性分」ではなく「みさおにとってはいい兄であり続けていたから」だと「思いたい」のだ。この兄としての責任感、妹に庇護を与え、つよさを育み、そのことで自分への信頼感をも培ってきたはずという思い。母親にお兄ちゃんらしくしなさいなどと叱られている描写は作中に存在しないが、あるいはそのような言葉をなおも忘れたままに済ますほど、浩平は兄であることの責任を自分の意思として引き受けているのかもしれない。そしてそれは彼の場合、母子家庭であるがゆえの父性愛の欠如を、自分ひとりで補おうとする意思にほかならない。だが、父親参観の嬉しさが「えいえんの謎」である浩平にとっては、おそらく父親の愛情そのものもまた謎であっただろう。それゆえ、みさおの参観日に自分が出席しようとする「一大作戦」とは、みさおの父性愛欠如を自分の「男としての愛情」で補ってやろうとするだけでなく、父親演技によって自分自身の空白を埋め合わせようとするものでもあったのだ。それはまた、みさおが浩平の参観を迎えて示す笑顔によって、その正しさが保証されるはずのものだった。「みさおの笑顔は、好きだったから、うれしかった」というのは、一面においてそういう意味である。
 なのに、父親という模倣対象なき「男としての愛情」は、それが最も必要と思われる場面で、浩平にしてみればまったく不能なままに終わる。「こんなに妹が苦しんでいるとき」に「一番離れた場所で、ただ立って見ていること」しかできない「こっけい」さ。ついにみさおが苦痛を訴えたとき、転びながら駆けつけて手を握り、力づける言葉をかけても、それが死を目前にした妹にとって何ほどの意味があったのかという無力感。参観日を楽しみにしていたみさおの笑顔、浩平が好きだったあの笑顔は、妹の末期の表情ではなかっただろう。兄らしいことを妹に十分にしてやれなかったという痛惜の念は、浩平を責め苛んでいく(これについては雪駄さんが「自責の念」としてすでに指摘している)。彼は「男としての愛情」をみさおに注ぐことに失敗した。つまり、愛情を与えることにも、またそれを通じて愛情を獲得することにも失敗したのである。思えば、その兆候はずっと前から現れていた。病気の辛さを聞けば「絶対に、ううん、と首を横に振るに違いな」いほど「気を使」うはずであり、「お兄ちゃん、おかあさんのことも心配してあげてね」と縁遠くなりつつある母親との関係にまで配慮している妹。そんな妹の気遣いは、父親参観の代理出席の話に最初は「お兄ちゃんって、あいかわらずバカだよね」と呆れながら、兄の優しさに笑顔で喜び、そしてその優しさを傷つけずにいようとして「うん。今年こそはきてもらうよ」と微笑み、ついには最期を予感しつつ父親参観を決行するというさまにも、明確に示されていた。みさおが苦痛を訴えたならば、「そのとき、なぐさめてやればいい」。しかし、それは逆に、みさおが浩平に自分を慰めさせてやる機会なのではないか。兄らしい振る舞いをさせてやろうとする妹の気遣いなのではないか。浩平は兄としてみさおの妹らしいわがままを受け入れようと待ちかまえているのに、みさおは、最初から浩平の希望を満たすかたちでしかわがままを言おうとしないのではないか。あたかも、その手にするおもちゃのカメレオンのごとく、仮面の下に本心を隠蔽したままで。

   「だいじょうぶだぞ。ほら、こうしていれば、痛みはひいてくから」
   「はぁっ…あぅっ…お、おにいちゃん…」
   「どうした? お兄ちゃんはここにいるぞ」
   「うんっ…ありがとう、おにいちゃん…」
   ぼくは、みさおにとっていい兄であり続けたと思っていた。
   そう思いたかった。
   そして最後の感謝の言葉は、そのことに対してのものだと、思いたかった。

 そう思えないからこそ、浩平は、兄になることに挫折した。兄は、妹に己を兄と認めてもらえなければ、あるいはそう認めてもらえていると確信できなければ、兄たりえない。こうして浩平は、兄妹関係という絆を喪失して「ひとりになってしまった」ことの「痛み」と「空虚」とに打ちのめされた。少年の挫折感は、かけがえのない妹を救うこともその本心からのわがままを引き出すこともできなかったという罪悪感を、そして妹が自分を兄として受け入れてくれていたこと自体を信じきれないという絶望をもたらす。兄妹関係における自己否定、これが浩平を永遠の世界に旅立たせてしまった根本的な絶望である。その深さは、物語中、みさおの記憶を長森と混同したり、長森との関係について「兄妹」「姉弟」「きょうだい」ではなくわざわざ「兄弟を見る目に近い」と表現したり(母については「母親気取り」という表現があるのに)、澪という名にかすかに何かを感じるに留まったりと、みさおの存在を浩平の記憶の奥底に隠蔽してしまうほどだった。その一方で、長森という存在は、みさおの記憶を幼少期の彼女によって代替しつつ、無能な兄と、その兄を面倒見ながらあしらう有能な妹という、浩平が想像するところの自分とみさおのその後の関係をも、補填するものであった。
 そして、浩平が特定の少女との絆によってこの絶望から自らを救済していくという本作品のほとんどのルートは、かつて奪われて獲得しえなかった愛を、もう一度、かけがえのないひとに与えることで、ようやく獲得しなおす過程であると言える。つまり、すでに失ったはずの虚像を追い求めそこに固着し続けようとする少女を、「男らしい愛情」で輝ける外界へと歩み出させてやることによって、浩平自身もまた少女とともに「永遠」の袋小路から脱出する経路を発見するのである。このとき、それらのヒロインエンドでは、浩平は兄としての自己否定感を男性としての自己肯定感によって暗黙裏に超克することとなる。
 だが、擬似的な兄妹関係を久しく培ってきた長森とのルートでは、これまで抑圧してきた兄としての絶望が無意識のうちに解き放たれ、他のヒロインとは全く異なる様相が展開される。そもそも幼い長森との出会いは、「永遠はあるよ」「ずっと、わたしがいっしょに居てあげるよ、これからは」という言葉をきっかけに浩平が「永遠の盟約」を内面世界で結ぶこととなったという点で、みさおの死とともに物語上の決定的な意味をもっている。その長森がこれまで現実世界で果たしてきた役割は、浩平を、失われた幸福の記憶への閉塞という永遠の過去から、反復する日常生活と親密圏の揺るぎなさという永遠の「いま」へと導くものだった。それは、「永遠の盟約」の契機となりながらも、かけがえのない誰かとの絆が結ばれるまで、あるいは長森との「相変わらず」の関係が断ち切られるまで、その発動を先延ばしにするものでもあった。すなわち長森ルートでは、この両方がいちどきに実現することとなる。遊びの告白を大真面目に受け入れてしまった長森に、浩平は非情な態度を強迫的にとり続ける。それは、かつて約束された永遠の現在を喪失してしまうことへの恐怖でもある。また、兄としての自己否定が浩平の無意識のうちにあるがゆえに、そんな自分を愛するという長森への不信もある(長森もまた、浩平でなければならない、とは最初は明言しない)。そして、本気ではない告白を受け入れられてしまったことで、自分の意思ではなく恋人になってしまったという経緯に、浩平は二重の苦痛を抱いてもいる。それは、一つには(結果的に自分の行動によって)これまでの擬似的な兄妹関係を解体してしまったことへの苦痛。一つには、擬似的な兄妹関係を解体して恋人関係の構築を余儀なくされながらも、相手の存在によってその関係の当事者に不可避になってしまい応答させられるという兄妹関係の起点を再度つきつけられたことへの苦痛である。つまり恋人関係の発生は、擬似的兄妹関係という永遠の現在を破壊しつつ、忘却の彼方にある真の兄妹関係という永遠の過去を呼び起こすのだ。
 それらの苦痛に耐えられない浩平は、長森を徹底的に拒絶する。それは、彼自身がやがて独白するように、「その優しさを踏みにじり続けて」「それでも与えられる愛情を実感」したいがためである。だが、それはまた、無能な兄にみさおが愛情と信頼を寄せてくれていたのか分からないという不安を、長森からの愛情の実感によって乗り越えようとすることでもあった。もちろん、長森は浩平を「許してしまう」のであり、さらに「浩平のそばに居たい」と初めて彼女自身の浩平への想いを言葉にして伝える。ここで浩平の「そんな大好きな長森に、誰よりも好きでいられたかった」という願いが受け入れられたとき、しかもそれが自分の能力いかんではなく「浩平でないとダメなんだ」との言葉どおり自分の存在そのものの全面受容であると知ったとき、浩平は「ずっとおまえのそばに居るよ…」「…居たいからな」と応えて、妹との関係では確信できなかった相互的愛情による絆を獲得したのである。
 しかし、長森とのこの新たな絆は、なお浩平を完全には解放しえていない。長森による許しの直前、「大好きだった長森を失った今…。いまオレにできる償いがあるとしたら、なんだろう…。」と浩平が独白するとき、失われた恋人との関係に対するこの贖罪の念は、失われた妹との関係に対する贖罪の念と、そのまま重なり合ってしまっているのである。そして、長森から全面受容されたにもかかわらず、その後の浩平は、プレゼントの手袋をつけたままにしたり、病気を圧して長森を抱いてみたりと、自分の愛情を試し、長森への贖罪をなそうとする。それらは単純に、かつて恋人にしてしまったことへの罪滅ぼしと言うこともできるだろう。だが、そこに「男としての愛情」を相手に満足してもらえるよう発揮しなければならないという強迫的な態度を見て取るならば、この点において浩平は幼少期から変わることができずにいる。

   浩平「不甲斐なさ過ぎるオレには立派すぎる彼女だよ」
   浩平「オレのほうが頑張らないとな」
   長森「そんなことないよ? 浩平だってわたしのために頑張ってくれてるよ。すごくすごく」
   浩平「そうだったらいいけどな…」

 最後の呟きに込められた躊躇いには、おそらくこの時点でも回復できていない過去の記憶の抑圧が、恋人としての能力への不安として表出してしまっているのである。浩平は「そんなところも含めて全部含めて好きなんだし、わたしっ…」という長森の言葉に素直に喜ぶ前に、彼女の「馬鹿正直」という言葉に「おまえにばかって言われたら、お終いだぞ」と引っ掛かりを覚えているのも、かつて妹に言われた軽い言葉であるはずの「バカ」が、重く鈍く反響しているのだ。このように、長森との絆によって「永遠の盟約」を超克する契機を得ながらも、今なお意識されざる妹への罪悪感と絶望とによって、浩平は完全な救済を得られずにあった。だからこそ、浩平は、永遠の世界に旅たたざるを得なかった。
 それでは、浩平はどのようにして現実世界へと回帰できたのか。それは、浩平自身が「滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間だってこと」をあらためて認識し、失われた過去と不動の現在に固着する「永遠なんて、もういらなかった」と決意することによってである。ただし、それらの言葉は、「永遠」の世界に存在する「みずか」に向けて語られる。おそらくこの少女は、幼い頃の瑞佳のイメージをもとにして浩平の内面に創られた「永遠」の象徴的人格である。他者として生み出されたそれは、浩平が、長森との絆の中でさえ伏在していた妹への罪悪感と兄としての絶望とを、この「永遠」の世界に吸い込まれたのちにようやく自覚的に対象化しえたということを意味する。そして、この少女の呼称が長森ルートのみ「みずか」であるのは、それらを伏在させた「永遠」の象徴である「みずか」を、現実世界の瑞佳とはっきり切り離すことで、瑞佳と自分との間にある相互の愛情を確固たるものとして維持していることの現れである(それゆえ、長森ルート以外では「キミ」と呼ぶだけで間に合っている)。ここでの両者による浩平の内的対話は、彼が「ぼく」から「オレ」へと自己認識を完全に転回させた時点で終わっているが、それは浩平が現実世界へ戻る経路を自らの心のうちにある長森との絆に見出したことを指し示す。
 だが、このとき「みずか」がどうなったかについては、作品は何も語らない。いや、「この世界の存在を受け止めたうえで、あの場所に居残れるんじゃないかと、思っていた」浩平が、叶わずに「永遠」の世界に囚われてしまった以上、そこからの解放は、「永遠」の世界とその象徴である「みずか」の否定によってのみ可能だったと考えられる。だとすれば、浩平が創造した「みずか」は、彼が「オレ」に立ち戻った瞬間に消滅し、本来の瑞佳の思い出に統合されているのだろう。しかし、もともと実体のない存在である「みずか」についてはその通りだとしても、彼女の姿によって自覚化されたみさおへの想いは、この失われた妹への罪悪感と絶望とは、浩平の心のうちにどのように位置づけなおされたのか。「ずっと、みさおと一緒にいた場所にいたい」という浩平の幼い望みを自ら断ち切ることができたとき、浩平は妹との絆そのものまでも断ち切ったわけではないだろう。「滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間」というのであれば、みさおとのあの日々もまた、そのような「かけがえのない瞬間」だったはずではないのか。しかし作品中の描写からは、浩平が最終的に妹とどのように向き合うこととなったかについて、ぼくは何も読み取れずにいたのである。それゆえ、欲求不満に陥ったぼくが想像したのは、帰還後の浩平が、長森と(あるいは別ルートならばそのヒロインと)みさおの墓参りに行くという後日談だった。自分の中だけで閉じていた妹との関係を、いま隣にいてくれる大切なひとと分かち合えたとき、浩平の兄としての絶望は、その少女に支えられながら、ゆっくりと解消していくことだろう、と。ただ、この想像もまた、浩平が妹にどのように語りかけるのかを明らかにしてはくれなかった。

 その鍵を与えてくれたのは、『ONE』の後にぼくが没入した別の作品だった。そう、『シスター・プリンセス』(以下シスプリ)だ。とりわけアニメ版第1作の評判が芳しくなかった頃、ぼくはそこに兄妹の輝く季節を目の当たりにして感動し、その想いを言葉で伝えようとして膨大な考察を公開した。その中で見出したのは、兄と12人もの妹との関係を成り立たせている様々な原則であり、兄妹の個々人の努力・誠意であり、そして互いを結びつける愛情の深さだった。
 そのようにして兄妹が生きる世界は、しかし、ただ優しいばかりではない。むしろ、兄妹であるがゆえの絆の終わりを、シスプリ諸作品は絶えずこちらに突きつけてきた。淡い想いを兄に対して抱いた幼い妹も、やがては兄と結ばれることのできない現実に気づく。兄との時間が永遠には続かないことを否応なく知らされる。それは死による断絶ではないにせよ、いまの妹の一切を否定してしまう痛みとして現れる。

   …わかってる!本当は、いくら想ってもかなうはずのないことくらい、もう十分わかってる…。
   だからって、なにもこんな時に思い出すことないのに…もう私ったら、バカね…。せっかく幸せの予行演習のハズなのに…。
   …ポトッ。
   でもきっと…本当は、こうして微笑む私の横に立つのは、お兄様じゃなくて…。
   …ポトッ。
   イヤ…考えちゃダメ。…でも、どうしても、頭の中から消えてくれないの。
   こんなドレスを着て白い燕尾服を着たお兄様の横で微笑むのは、きっと誰か…私じゃない女の人…。
   そして…私はそのそばで…『お兄様、おめでとう』って言ってあげなきゃイケナイの…。

  「イヤ…そんなの…イヤよ。…お兄様…私そんなこと絶対に…信じないんだから…。
   お願いです…神様。どうか、私を…お兄様から…引き離さないで…どうかどうか…ずっと…お兄様のそばに…いさせて…お願い…」

 妹達のなかで最年長者であるらしきこの咲耶の悲しみ(キャラクターコレクション第4巻第2話より)は、兄をめぐる「女のタタカイ」に挑む彼女の女としての愛情が、近親婚不可能という過酷な現実の前に無能感へと突き崩される瞬間を物語る。この話がアニメ版第2作であるリピュアBパート第12話で映像化されたときの衝撃は、今なお忘れがたいが、このときの咲耶の内面を妹としての絶望と呼ぶならば、それは浩平の兄としての絶望と対称系をなす。

   こんな哀しいことが待っていることを、ぼくは知らずに生きていた。
   ずっと、みさおと一緒にいられると思っていた。
   ずっと、みさおはぼくのことを、お兄ちゃんと呼んで、
   そしてずっと、このカメレオンのおもちゃで遊んでいてくれると思っていた。
   もうみさおの笑顔をみて、幸せな気持ちになれることなんてなくなってしまったんだ。
   すべては、失われてゆくものなんだ。
   そして失ったとき、こんなにも悲しい思いをする。
   それはまるで、悲しみに向かって生きているみたいだ。
   悲しみに向かって生きているのなら、この場所に留まっていたい。
   ずっと、みさおと一緒にいた場所にいたい。

 この浩平の独白は、いくつかの言葉を置き換えれば、そのままシスプリの妹達がいつしか抱かざるを得ない魂の慟哭となるだろう。「永遠なんてなかった」のだ、と。そんな悲しいことを未だ知らないからこそ、妹達の姿は壊れそうなほどに美しい。それは確かに、「滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間」なのだった。
 そして、シスプリは、浩平が抱いた兄の罪悪感も、諸作品中の兄に担わせる。原作の兄が「お兄ちゃんの日」に妹を精一杯喜ばせても、その時間は月に1日というごく限られたものでしかない。ゲーム版の兄は12人の中からただ1人を選ぶことによって、他の妹達の想いを裏切ることになる。アニメ版第1作の兄は、いきなり出現した妹達のために不慣れな共同生活を余儀なくされ、それを自ら受け入れた後も自分の兄としての無能感にしばしば苛まされる。第2作Aパートの兄は日ごろ完璧超人でありながら、、それでもうっかりミスをしてしまい妹の願いを十分に叶えてやれない自分を独り責める。それぞれの兄は、浩平と同じように、その妹達にとって「いい兄」であろうと努力する。だが、その努力はしばしば実を結ばず、常に不安と不信にさらされている。とくにリピュアAパート最終話では、兄のその無制限の責任感とそれゆえの挫折感が、妹にとっての兄として生きることそのものの原罪として、描かれていたのである。
 ところが、この兄の原罪からの救済は、シスプリでは、その罪を兄に抱かせる原因ともいえる妹達自身によって与えられる。兄と一緒にいることが何より幸せであること、他の誰と比べるまでもなく兄はかけがえのない兄であることを、妹達が笑顔とともに告げることで、兄はその重荷を支えられ、罪を赦されるのである。そのような兄の贖罪と救済の姿を、兄妹関係のうちに描ききるということが、リピュア(Re Pure 再浄化)というタイトルの意味だった。浩平もまた、長森の口からは全面受容の言葉を通じてこの赦しを与えられていたはずだったが、それは恋人としての言葉であったために、浩平の罪悪感を完全に濯ぐことにはならなかった。しかし、生前のみさおにとっても、浩平という兄はそのような赦しの相手だったのではないだろうか。みさおにとっては、浩平という兄がいてくれることが、そのまま喜びだったのではないだろうか。それは、浩平の兄としての能力によらず、そこにまず兄として存在することによって、みさおは妹としての安らぎを覚えたということである。黙って見守っていてくれることは、決して「こっけい」なことではなかったのだ。だとすれば、みさおは、兄として振舞おうとする浩平のためにどこか気遣っていたとしても、それとともに、妹として兄に素直に甘えてもいたのだろう。「最後の感謝の言葉」は、だから、「いい兄であり続けた」ことのみに対してのものではない。浩平という兄がいてくれたこと自体に対してのものなのである。
 感謝の言葉。それは、シスプリでは、アニメ版第1作において最も頻繁に、兄妹の間で語られた。この作品はまた、「みずか」を髣髴とさせるような謎めいた存在として、黄色い帽子の少女が登場していた。いかにも荒唐無稽に見えてじつは首尾一貫した物語の最後に、主人公である兄の航は、この少女が何者であるのかを思い出す。少女達との親密な日常生活という現在からひとたび引き離され、そこから自分の意思で兄妹の絆へと帰還した後に。

   航 「あの時の約束を思い出させるために、君は、ぼくの思い出から現れてくれたんだね」

 この少女もまた、「みずか」と同様に、兄の抑圧された記憶と、過去の約束とにまつわる、幼い頃の妹達のイメージから航が創造した象徴的人格だった。だが、「みずか」とは異なり、航とここの少女の最後の対話は、浩平と「みずか」のそれと対照的に、お互いを認め合うものとなる。

   少女「約束守ってくれてありがとう。今度は忘れないでね。私は、みんなの中に、いるから」
   航 「ぼくの方こそ、ありがとう。忘れないよ、君のことも」

 ありがとう、と言い合えること。黄色い帽子の少女は、兄に先立つ妹の象徴として「みんなの中にいる」のであれば、そしてみさおもあのときに、浩平に心から「ありがとう」と告げたのであれば。浩平もまた、その胸の奥にいるみさおに、「ありがとう」と応えられるはずである。「移りゆく時間のなかで、変わらないもの」を確かに共有した兄妹として、「同じ時間を過ごせてよかったよ」と。あの病魔に冒された日々の果てでさえ、みさおはこの言葉を兄に告げられたのだ。「永遠の盟約」をもたらした兄としての絶望を乗り越えるために、浩平が「みずか」の向こうに隠れているみさおの思い出に語りかけた言葉もまた、この一言であったとぼくは信じる。それまで隠されていた黄色い帽子の少女の瞳を、その笑顔を航が初めて目の当たりにできたように、浩平もまた、駄目なところもあるけれど大好きな兄に向けられたみさおの素直な笑顔を、そこで再び取り戻せたと信じたい。そして、この感謝の言葉が真心を込めて浩平の口から告げられたことは、『ONE』の冒頭を見返したときにこれ以上もなく確信できるのである。

   とても幸せだった…
   それが日常であることをぼくは、ときどき忘れてしまうほどだった。
   そして、ふと感謝する。
   ありがとう、と。
   こんな幸せな日常に。

 たとえそれが、「幸せの小さなかけら」を集めることにすぎないとしても、それがたちまち壊れるかもしれない日常だとしても、「永遠」なんてないのだとしても。そのことに気づいた兄は、今そばにいてくれる妹に、かつてそばにいてくれた妹に、「ありがとう」と語りかけて自らの赦しと救いを得る。その兄妹の絆のうちにこそ、絶望を超えた永遠の生命がある。妹がいないという者にさえ、この永遠に至るみちすじは閉ざされてはいないかもしれない。己のうちにいる、これからそばにいてくれるはずの妹に呼びかけてみるといい。「永遠」の世界とは、曰く「誰にだって訪れる世界」なのだから。


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