あんよの日記

くるぶしあんよ
(脳内家族 妻:瑞佳、娘:未来、実妹:可憐、義妹:雛子)



 私はあんよ。正確に言えば、長森瑞佳の左のあんよ。瑞佳本人から見れば、左足のくるぶしから先の部分が私である。生まれてこのかた、瑞佳のたおやかな体を弛みなく支えてきた。いや、「生まれてこのかた」というのはやや言い過ぎになる。彼女が1歳8ヶ月で歩き始めてからずっと、と訂正しよう。さらに付け加えるならば、就寝中も支えているわけではない。だが、そういう瑣末な点については不適当な表現も、また全般としてあまりに生硬に過ぎる言葉遣いも、どうかご寛恕願いたい。なにしろ、私は脳ではなく、口や手ですらなく、一介のあんよにすぎないのだ。もとより考えることには慣れていない。もちろん、いつなりとも自分の過ちを改めるのにはやぶさかではないから、識者のご指導よろしくいただければ幸いである。

 さて、ただいま「一介の」と申したが、さりながら別段自分を卑下するつもりはない。あんよであることの限界は承知しているが、自分が瑞佳のそれであるという事実については、むしろ大いに誇りを感じている。虎の威を借る狐、という諺を知らぬわけではない。だが、わが主ながらこの瑞佳という女性は、ただのあんよにすぎぬ私をも清らかな高みに引き上げてくれる、そんな稀有な人物なのである。読者諸氏にあえて拙稿でお目汚しいただくなどという蛮行に及んだのは、ひとえに主のその崇高さを広く知らしめんがためである。

 ところで、ここで何故私のごときあんよ風情が、そもそもいかにして文字を綴っているのか、と訝しく思われる方も少なくないことと推察する。種を明かせばなんのことはない、瑞佳の寝床の足元に、たまたま古いワープロが置かれていたのだ。主が安らかな眠りについた後、私は朋友の左脚に頼んで布団からにょっきりと突き出させてもらい、機械の電源を入れてこの文章をしたためているという次第。普段両手の振る舞いには憧れつつつねに注意しているゆえ、その指捌きを真似して不慣れながらも文字を打ち込めるというもの。私の親指は大きすぎてキータッチには不向きだが、しばらく練習した結果、微妙な力の入れ具合で打ち間違いをほぼ解消できた。目は口ほどにものをいうそうだが、あんよだって負けはしない。いや、公平を期すために付言すれば体の各部位はいずれ劣らずそうなのだが、その方法がなかなか微細すぎて他人が読み取れないだけなのだ。その点、私はこうして文字を綴ることができるのだから、はるかに恵まれているとはいえる。これには生まれの幸運に感謝するほかない。

 ところが、私と長年連れ添ってきた右の奴ときたら、この謙虚な心をひとかけらも持ち合わせないのだから困ったものだ。きゃつはあんよと呼ぶには品性あまりに卑しいゆえ、以下「右足」と表記する。この右足は、私よりも日々の苦労が少ない。なぜなら、瑞佳はその重心を私のほうにおくのが常であるからだ。例えば台所で調理中、彼女は私を床にしっかりとつけて体を支え、その一方で右足をつまさきだけ床に触れ、鼻歌にあわせて踵を左右にリズミカルに揺するのである。この運動といい、鼻歌といい、おそらくは料理を美味にする何らかの呪術、儀式の一部なのだろう。その証拠に、これらの一連の動作が伴わない時の料理が、いつものような馥郁たる香りで床を包むことは決してないのだ。それは瑞佳の心に何かどっしりとした悩みや悲しみが居座っている時にほかならない。
 そんな時、私は、普段揺らされている右足に体重の半分程度をあずけられているにもかかわらず、瑞佳のその心の重さを静かに土踏まずの上に感じるのだ。しかし右足ときたら、そんな麗しの主の思いに気がつくどころか、たまの奉仕を負担としてぶつぶつ不平をもらす有様。軽やかにリズムをとることを身上としている右足は、私と同じ務めを果たさねばならないことに我慢がならぬらしい。まことに傲慢きわまりない、お前のその骨格は飾りだとでも言うつもりだろうか。

 いや失礼した、私の愚痴を書き連ねることが目的ではなかったはずである。謙虚を尊びつつ他者を謗るとは、これがあんよとしての品性の限界かもしれぬ。日頃から地面にべったりと身を低うしているつもりであるだけに、かえって増長の誘惑は強いものであろうか。自らを語れば危険も多い、ここはわが主の優美な姿をあんよの位置から仰ぎみることに専念しよう。

 さて瑞佳の見目麗しさについては、「可もなく不可もなく」などとつまらぬことを言う輩もいるが、ここでは主の夫(あいにくなことに、いるのだこれが)が以前これをより適切に言い換えた言葉が相応しい。すなわち、「優と良だけ」。どこをとっても平均点以上というのは、つまり全てにわたって「可」を越えているということにほかならぬ。この男、私からみるに全く取るに足りない人物なのだが、こういうことを思いつくあたりは評価してもさしつかえない。しかし、当の瑞佳は、こう賞賛されるよりも「可愛い」という言葉の方がよほど嬉しいとみえる。これもまた「優と良」のほんの一要素にすぎぬのではないかと疑問を抱くが、ことこういう問題については論理学的思考は通用せぬものらしい。もちろん私とて、瑞佳が可愛いということに何の異議をさしはさむものではない。

 そのことを最も強く思うのは、主が我が指爪の手入れをするときである。日頃は遙か上方に拝するのみであるその美しい顔を、ぐっとこのあんよに近づけて、やや口元を尖らせた真剣な面持ちで事にあたる。午後の室内体操の時間を除けば、私が主の顔に最接近する瞬間である。たまたまその髪が数条ばかり我が甲にしだれかかることもあり、思わず私も喜びと緊張で汗ばむが、あまり湿ると爪切りを持つ手がすべるゆえ、発汗を抑えるのに懸命にならざるをえない。その一方で、風呂上り直後でほどよく水分を吸収した爪は、切りやすいようにそのままの湿り具合を保たねばならぬ。こうみえてあんよも苦労が多いのだ。

 また、右足の爪を切るときには、私の指に意外な力がこもる。この爪切りに限らず、瑞佳が何事かの手仕事に専念しているときには、おそらくは無意識になのであろうが、必ずあんよの筋肉が引き締まり、とりわけ指が揃って曲げられる。これも短い時間ならば愛嬌があってよいのだが、あまりに根を詰めてしまう場合には、後々に腱を痛めたり、踝やふくらはぎにかかった負担が残ってしまうなど、困った事態を生じもする。私がいかに痛もうと耐えてみせようが、我が痛みはほかならぬ主の苦痛である以上、己の忍耐をもって済ませるわけにはいかぬ。それゆえ時折は指を伸ばしたり、土踏まずの力を抜いたりと、私の意志の及ぶ範囲でできるだけの配慮を行っているのである。しかしながら、正座している主のその臀部が、おもむろに我が踵に載せられているとき、その柔らかさ、その暖かさに、つい私も自らの義務を忘れて指が曲がるに任せてしまうこともある。まことに恥ずかしながら、これもあんよの品性の限界なのであろうか。

 またも話が逸れてきた。
 瑞佳の一日は早朝に始まる。妹、娘、夫、義妹のために、まず朝食や弁当の支度をするのが日課である。昔は朝方は裸足でいたものだが、ここのところ足裏から冷えを感じるらしく、起きぬけに靴下を履くのが習慣となっている。もちろん「足裏」というからには、右足の奴が気を遣わぬゆえの冷えである。私は冬の台所で床に全面触れていようとも、毛細血管に鞭をくれて、体温が下がらぬように絶えず努めてきたのだ。そんな配慮もせぬ右足のために冷え性が治らず、しかも義務に忠実な私にまで右足同様に靴下を履かされることになろうとは、私の自尊心も深く傷つけられた按配だが、これも主の養生のためやむをえぬと心得る次第。それに靴下も慣れればそれなりに快いものである。

 夫が新聞を取ってくる頃には朝食の支度も整い、八匹の猫達も騒ぎ出し、餌を求めて我が甲や横面を浅く引っ掻きだす(靴下を有用と思う瞬間でもある)。起きてから立ち通しの瑞佳が椅子に座るのは、味噌汁の盆を食卓に運んでようやくとなる。この味噌汁という飲み物が何とも香りよく、いつかその味を知りたいものとは思うのだが、いかんせん我が身があんよであるだけに、遠い望みと諦めてはいる。一度だけ我が親指に、食卓から幼い妹君がこぼした味噌汁が注ぎかかったことがあったが、あのときはひたすら熱いのみであって、今しばらく我慢すれば汁を皮膚に吸収して味わうこともできたかもしれぬが、私も主も火傷の危険の方が重大事であった。まことに貴重な機会を逸したとはいえ、あの熱さにそう耐えられるものでもなく、かといってぬるい味噌汁では本当の美味さは分からぬそうであるし、やはり夢は夢としてしまっておこう。なお、瑞佳の好物である牛乳の味は幼い頃より何度となく味わってきた。あれは間違いなく美味ではあるが、後の処置が遅れると臭いがたまらぬ。

 食卓の上では家族同士が談笑しているわけだが、食卓の下でも我等あんよ同士が語らっていることは言うまでもない。私もこのときには床に着くばかりでなく、ぶらぶらと休む暇を与えられる。その間に、働きづめだった腱をほぐしつつ、普段寡黙な私としては比較的多弁な振る舞いをみせるのである。
 ここで仲間(つまり「あんよ」と呼ぶに相応しいもの)を紹介しておくと、小さな妹の左あんよと右あんよ、赤子の娘の左あんよと右あんよ、そして義妹の右あんよである。

 妹君のあんよは、いずれもその主の性格のままに、自由奔放な明朗さをもってそのあんよらしさとなしている。しかし面白いことに、左あんよはやや気儘な性格が強く、時としてそれが(愛嬌はあれど)我儘さになりかねないのに対して、右あんよはそれをいさめつつ、やや気取った立ち回りをみせるということである。幼いながらも大人びた態度を示す側と、年齢相応の側とが既に各々の個性を示しているわけであり、我が身を振り返れば確かに私と右足とは早くから不仲になっていたとはいえ、他人の姿でそれを知るのはなかなかに興味深い。

 ところでこの妹君の左あんよは、しばしば私を踏んづけたり蹴ったりと、ある種の親愛の情を示すことがあるが、これに対して我が主の右足が反撃を試みるとき、どうもこの右足の奴は加減を知らないのではないかと危惧させるときがある。その点、私がごく稀に反撃の役を仰せつかるさいには、決して乱暴に蹴り返すことなどせず、代わりに妹君のあんよの裏を我が指でくすぐるのを常とする。お互いの主が炬燵の中であんよ同士くすぐりあうときなど、その愉悦に我が腱も痙攣するほどである。

 瑞佳の娘である赤子のあんよは、この妹君のそれよりもさらに幼い。生後ようやく二年になろうかというこの娘の乳臭い愛らしさについては敢えて申すまでもないが、そのあんよたるや、我が主の乳飲み子の頃を髣髴とさせる。つかまり立ち歩く姿は未だおぼつかぬが、そのあんよは健気に床を踏みしめ、力強く育ちゆくその将来を約束している。しかしなおそれぞれのあんよの個性が現れるまでには至っておらず、その主と同様、交わせる言葉も取るに足りぬ。早く、といっても急かすつもりは小指の先ほどもないが、これらのあんよと親しむ日が来ることを切に待ち望む次第である。

 これら両名のあんよ達はさほど気構えもなく付き合える間柄だが、義妹殿のあんよについてはそうはいかぬのが正直なところ。いや、彼女の右あんよとはそれなりに互いに礼を尽くした関係を保っている。他のあんよ達ほどに接触する機会はまずないが、これは元々血縁でない間柄ゆえ、仕方のないことであろう。だが、彼女の左足のよそよそしさは、それだけの理由では説明しえぬ。それは我が主の右足のようなぶしつけな態度ゆえに「足」と呼ばれるのではなく、あるいはその姿が粗雑ということでもなく、ただひたすらに思いつめている態度が、本来あるはずのあんよらしさを自ら足蹴にしているのだ。

 食卓の上では、日々変わるところのない語らいが続く。しかしその下では、床にそっと触れている彼女の左足が、不意に椅子の脚にからみつくのである。当の主が転がるような笑い声を響かせているその最中に、この左足はいかにも苦しげにその身を強張らせ、指を捻らせ、踝をこすりつけるのである。この声と裏腹の身悶えは一体何を意味するのか。この苦悶の原因は何か。何が左足をしてこれほどの苦痛を無言の裡に耐え忍ばせているのか。その答えは私の貧弱な知性では未だ把握しえぬが、それでいて、黙して語らぬかの姿に、私は刹那、形容し難い共感を覚えることがある。いつか彼女の左足が束縛から解放されて、あるべきあんよに立ち戻る日がくるのだろうか。

 そんな感慨を綴っているうちに、とうとう夜明けが近づいてきてしまった。我が指も不慣れな作業に相当疲れてきたことでもあり、あまりに中途半端な内容ながら続きはまたの機会ということで、作業の間我が身を支え続けてくれた左脚に感謝の意を表しつつ、擱筆させていただくこととする。さて、主が目覚める前に、布団の中で温まらねば。

(終)

『萌え文集2』所収のものを若干改め転載)

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