アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相・その4

〜プラウダ高校篇〜



はじめに 問題と視点


 アニメ『ガールズ&パンツァー』(以下ガルパン)に登場する全国高校戦車道大会出場校について、その戦術・指揮をそのまま分析評価するのではなく、チームのリーダー・サブリーダー間における後継者育成に注目して検討するならば、そこにどのような教育の理念や方法論、そして各学園艦の校風・伝統と結びついた戦車道の独自性が見出されるだろうか。この視点から、論者はすでに聖グロリアーナ女学院(以下聖グロ)、サンダース大学付属高校(以下サンダース)、アンツィオ高校(以下アンツィオ)を、それぞれ取り上げて検討してきた。続く本考察は、第8話から第10話冒頭にわたる準決勝戦の相手であるプラウダ高校(以下プラウダ)について、その戦車道のありようと後継者育成の具体像を明らかにしていくものである。
 もともとプラウダは強豪校の一角を占めるだけでなく、昨年度の高校戦車道大会優勝という実績をもつ。また、主力車輌はT-34をはじめとする戦車大国ソ連製であり、装甲・火力・機動力のバランスが高い水準でとれている。聖グロがとくに火力の面で、またサンダースが装甲の面でやや心もとないのに比べて、プラウダは黒森峰女学園(以下黒森峰)と並ぶ優勝候補にふさわしい陣容を誇っている。伝統ある強豪校における戦車道の独自性と現在直面する諸課題については聖グロとサンダースに見てきたところだが、それら2校と比べたときにプラウダがまた独特な要素を備えていることに気づく。
 まず、優れた装備を持ちながら、一昨年度まではライバル黒森峰に大会9連覇を許してしまっていたこと。単純なスペック上では(通信能力を度外視するならだが)両校の装備車輌は互角とすれば、実績に差がついた大きな理由は、隊員の通信能力も含めた練度、そして隊長の指揮統率能力やチームのドクトリンに見出されるだろう。いわゆるソフト面での劣勢をプラウダは長いあいだ撥ね除けられずにいたわけだが、言い換えればそれは、黒森峰が依拠する西住流に対する敗北の歴史ということになる。どの強豪校よりも装備面で黒森峰に匹敵するからこそ、ドクトリンや能力のレベルでの劣勢を対西住流という観点からいっそう強く意識せざるを得なかったのが、ここプラウダなのである。
 次に、そんな屈辱を吹き払うがごとく、昨年度は黒森峰を破っての優勝という栄光によって、現プラウダ隊長であるカチューシャが比類なきカリスマを獲得していること。これまで苦杯をなめ続けてきた相手である黒森峰、しかもその隊長が西住まほという最強の敵に対して、大会決勝戦という最高の舞台で勝利を収めたという事実は、プラウダにとって途方もなく大きい。この実績あるカリスマ隊長によるワンマンチーム、それが今年度のプラウダである。サンダースやアンツィオのような部隊指揮における分担も、黒森峰のような指揮代行もそこにはない。聖グロのダージリンだけがカチューシャに似た孤高のリーダーだが、いかんせんダージリンには全国大会優勝の経験がない(第3話の優香里によれば聖グロは準優勝が最高実績)。また、ダージリンは隊員たちにも自分の頭で考え行動することを望んでいるが、カチューシャは隊員たちが自分の命令どおりに動くことのみを求めているという点で、そのワンマンぶりがはっきり異なる。公式サイトのキャラクター紹介では「小さな暴君」とまで呼ばれてしまっているのである。
 最後に、この栄えある実績を今後につなげていくためには、カチューシャの後継者育成が重要な課題となるはずだが、そのことをカチューシャが考慮している様子がない。また、ワンマンチームと言いつつもノンナという実務面を支える優秀な副隊長がいるのだが、彼女もおそらくカチューシャと同じ3年生である。(じつはカチューシャノンナも公式には学年不明だが、ドラマCD『あんこうチーム訪問します!』収録「夜行列車は通ってないのか」にて麻子にプラウダ隊員の主体的判断能力不足を指摘されたさい、ノンナが「来年以降が心配ですね」と応えている場面が傍証となる。つまり来年度に少なくともカチューシャが引退することを意味しているし、またノンナが現2年生ならば彼女がいるかぎり来年度をそこまで心配する必要はなかっただろう。もちろん、カチューシャが2年生あるいは5年制工業高等専門学校の3年生という可能性もなくはないが、本考察では採らない。)後継者育成をこのまま放置しておけば、カチューシャ・ノンナ引退後にはチームが昨年度という頂点から転落し続けることにもなりかねない。このカリスマ隊長の後継者育成について、同じ問題を抱える黒森峰では試合中も観戦時も意識的に取り組まれていたが、決勝戦観戦時ですら後輩を隊長たちのそばに置いていないプラウダでは、その見通しの暗さが気になるのである。
 このようなあまりに乏しい後継者育成の描写とは対照的に目立っていたのは、プラウダにおける隊長・副隊長間での教育関係である。ただしそれは、カチューシャがノンナによって育てられていると言うべきものであり、しかも知育・訓育といった教育の意味よりも食事の世話や健康管理などという養育の意味で理解されうる。つまりプラウダでは、他の強豪校とは逆に隊長が主たる教育対象であり、その教育関係が先輩後輩や師弟というより母子のそれに近いと見なせてしまうのだが、しかしやはりそれでは両者引退後のチームリーダー不在という問題への答えはまったく得られずじまいとなる。後継者育成が事実上欠落しているプラウダにたちまちの問題解決は不可能としても、大洗女子との対戦ははたして何らかの改革の契機を与えることとなったのだろうか。このことを念頭に置きつつ、プラウダ戦車道の独自性と課題について、また後継者育成の現状と今後について、それぞれ詳しく検討していこう。

 (なお、本考察は、あんよの日記2014/8/3の内容に大幅な加筆修正を行ったうえで単一コンテンツとしてまとめたものである。)



1.プラウダ高校戦車道の独自性と課題


 作品本編でプラウダの名が初めて登場したのは、大洗女子と聖グロの練習試合前の挨拶でダージリンが「サンダースやプラウダみたいに下品な戦い方はいたしませんわ」と語った場面である。聖グロ考察ではこの台詞の意味について、現プラウダ隊長カチューシャが相手をいたぶるやり方を指すものと解釈した。
 しかし、弱小校はともかく強豪校が相手であれば、カチューシャもそんな余裕のある戦い方を選ぶはずがない。また、プラウダ戦車道の伝統は、例えば準決勝戦前に下宿で作戦を練るみほの「プラウダは退いてからの反撃が得意」という独り言によって端的に示されている。この後退・包囲戦術については、CD『今度はドラマCDです!』収録「プラウダvsサンダースです!」でも優花里が「プラウダの基本ドクトリンは二重包囲」と、さらにカチューシャ自身も「後退して敵を引きずり込むのがプラウダ校のドクトリンだからな」と述べている。三人が揃って挙げているものが「プラウダ」の基本方針であることからして、これはカチューシャ隊長着任以前から変わらぬプラウダの伝統的ドクトリンを指すものと考えられる。
 するとダージリンによる非難は、カチューシャ指揮下にある現プラウダだけでなく、後退戦術や二重包囲戦術といったプラウダの伝統的ドクトリンにも及んでいる可能性がある。もしそうであるなら、ソ連の十八番であるこれらの戦い方は、なぜダージリンから「下品」と見なされてしまうのだろうか。彼女自身も大洗女子との練習試合序盤では、優位な戦力による二重包囲(つまり両翼包囲)という戦術行動を指揮しているにもかかわらず、である。


(1)プラウダ戦車道の理念と伝統

 これを考えるために、まずプラウダ学園艦の教育理念について推測してみよう。
 プラウダの校章には、ちょうどソ連国旗の槌と鎌のように組み合わされたT定規と角定規が、そしてその上方に鋏が描かれている。学園名の漢字を用いた大洗や星に稲妻のサンダース、そして鉄十字に学園名の黒森峰といった校名に由来するもの、あるいは紅茶に花の聖グロやピッツァのアンツィオといった文化に由来するものに対して、プラウダはきわだって実学的な意匠である。大洗女子学園艦にも様々な専門学科があったが(OVA第3話「スクールシップ・ウォー!」参照)、プラウダでは農業・工業・被服などの実業系にいっそう力を入れていることがうかがえる。そしてそこには、ソ連と同じ新興国家アメリカをモチーフにするサンダースにも通ずるような、人文主義的教養よりも実学主義的・科学的知性を重視する姿勢が感じ取れる。
 もう一つの特徴として、戦車道チームの装備が示すとおり、プラウダは冬期・雪上での行動に慣れている。これには母港の位置も関係しているのだろうが、しかし洋上をゆく学園艦は、各艦ごとの航行範囲などが指定されているにせよ、ある程度は望ましい気候や天候を選んで移動できてもおかしくない。にもかかわらず、プラウダ学園艦は、北方の海原や寒冷地域を自ら望んで航行している。つまりプラウダはあえて寒冷地域での学園生活を生徒たちに課していると想像される。
 これら2つの特徴を結び合わせると、次のようなプラウダ高校の姿勢が浮かび上がってくる。すなわち、厳しい自然と相対するなかで強健な心身を育むとともに、その自然に人知の及ぶかぎり立ち向かう能力を、つまり科学と労働によって自然を克服する能力を培うというものである。厳しい冬に毎年襲われる地域でも、人々は生きていかねばならない。しかもその生活は、ただ自然に屈服するのではなく、科学と技術の力によって豊かさの獲得を目指すものでなければならない。過酷な自然を前にして必要なのは、精神的な豊かさの源泉となる人文主義的教養よりもまず、事実を直視しつつ物質的に問題解決していく人々の知的・物的協同の力である。それは具体的には、学園艦全体の自主的分業と合議的自治(つまりソヴィエト)という組織運営の面で、また寒冷地で使用可能な製品開発や品種改良・栽培技術向上などという産学連携のかたちで営まれることだろう。この
科学的知性に裏付けられた実学主義と、その実践によって生徒たちに培われる粘り強い実践的思考力や集団的規律とが、プラウダの独特な校風の基盤なのである。
 もっとも、この実学主義の結果としてたんに搾取されるだけの人材(従順な熟練労働者)を養成するのでは、学園艦の名が泣くというものだろう。プラウダが日本国内の高校であるかぎりは暴力革命を生徒たちに吹き込めるわけもないが、だからといって資本主義社会において「子供が単なる商業品目や労働用具に転化」(マルクス&エンゲルス『共産主義宣言』大内・向坂訳、岩波文庫、1951年、p.64)することを促進したいわけでもない。そもそもマルクスの理論が資本主義を攻撃したのは、それが当時のヨーロッパにあって人間疎外をもたらす決定的な要因と考えたからである。とりわけ人文主義的教養がしばしば体制擁護的な文化資本として機能し、近代学校教育がそのような教養の制度化を支えてきたという歴史をふまえれば、プラウダの掲げる実学主義はそれらの批判に基づいて、地に足ついた知的実践を通じて
人間性の回復を目指そうとする一つの教育的革命の試みとも呼べるのだ。しかも、良妻賢母といった男性中心社会に都合のいい反動的理想像によって抑圧され道具化されてきた女性こそは、人間性の回復を当然目指すべき存在である。現実社会の壁を乗り越え粉砕していける主体的かつ集団規律的な、しかも自力で働き自活することのできる女性の育成を追求していくために、学園艦という巨大な人工の生活共同体は、その維持に不断の努力と全人的な協同が不可欠であるという点で、まさに理想的な教育環境となる。そのうえ、ここで培った連帯意識と集団行動力は、卒業後に実社会で女性の権利を訴え、また男性と対等の主権者として社会改革を担っていくさいにも大いに役立つはずなのだ。

 このような教育理念を掲げるプラウダにとって、戦車道はまたとない教育手段だった。乗員の規律ある協同によって巨大な機械を維持改善し、過酷な外界に耐えることを可能にするという意味で、戦車はいわば小さな学園艦であり、日々の訓練はプラウダの生徒に相応しい人間形成を促すと考えられた。プラウダの装備車輌は雪原・悪路での機動力に優れたソ連戦車であり、そこにはサンダース同様のマスプロ的合理性が備わっている。さらにIS-2やKV-2といった重戦車も装備することで、プラウダの隊員は122mm砲・152mm砲の重たい砲弾や装薬を扱わなければならず、プラウダ的な粘り強さや身体能力を鍛えられる(もっとも、要塞攻略用のKV-2をあえて戦車道試合に用いるのはカチューシャの趣味だろう)。あんな小柄な少女たちが大口径の砲弾を装填できるのかという疑問も湧くが、画面に登場しなかった装填手が抜きん出て屈強なのかもしれないし、あるいはニーナのような小柄な子も見かけによらずたくましく、20年後にはロシアの偉大な母親たちのごとき貫禄を示すのかもしれない。
 そして重戦車の装甲といえども、降雪や厳寒といった自然の悪条件を消し去ってくれるわけではない。敵といかに戦い勝利するかという第1の目標と並んで、自然といかに向き合いよりよく生き延びるかという第2の目標が、プラウダの隊員には日常的に課せられている。例えば準決勝戦で大洗女子に降伏勧告を突きつけながら、待機中に焚き火を囲んで食事やダンスに興じている隊員たちの姿は、第2の目標に適った能力・技能の証左である。さらに、過酷な環境下で共に戦い共に暮らすなかで、隊員たちは否応なく虚礼虚飾を捨て去らざるをえない。天候や機械に礼儀作法は通じず、ただ冷厳な知性と実行力に基づくコミュニケーションだけが彼女たちを生き抜かせる。この過程で隊員たちは、これまでの生活で身につけてしまっていた慣習やそこに込められていた伝統的・反動的価値観を払拭させられ、プラウダ的価値観を吸収するためのまっさらな素地を、つまり人間性回復の基盤を獲得することができるのである。
 これらの利点は、アメリカ的な合理性のもとで自由主義・民主主義に基づく市民的資質の形成を謳うサンダースとも似通ったものに思えるが、しかし20世紀的覇権国家の米ソがそのイデオロギーを違えているように、プラウダが戦車道を重視する背景にはサンダースとまったく異質な理由がさらに存在していた。第1話で語られたように、成立当初の戦車道が目指す女性像は「礼節のある、しとやかで慎ましく、そして凛々しい婦女子」だった。だがプラウダの目から見ればこの女性像は、表面的には19世紀以来の女性解放運動を受けて自立的な職業婦人への道を切り開こうとしながらも、けっきょくは発祥国イギリスにおける伝統的「礼節」に基づいて、良妻賢母的な「よき妻、よき母」すなわち紳士にとって都合のいい淑女を、そして男性社会の歯車として役立つ「よき」職業婦人を育成するという、きわめて欺瞞的な性格を持っていた。プラウダの女子教育理念からすれば、このように女性をモノ化する反動的策略そのものの戦車道を、自らの教育課程に受け入れるわけにはいかなかったはずである。
 ところが建学当時のプラウダは、この戦車道をむしろ積極的に取り込んだ。その理由は、現実に多くの女性が戦車乗員として戦った国がイギリスなどではなく祖国防衛戦争時のソ連だった、ということだけではない。プラウダが
聖グロに代表される戦車道の抑圧的な女子教育理念を粉砕し女子を解放するという歴史的使命を担うと考えたからである。戦車道を正規の選択授業科目とすることによって、プラウダは保守反動的女子教育勢力を戦車道という彼らの土俵の上で直接打ち破ることができるのだ。全国大会でプラウダが聖グロなどに勝利するとき、それは戦車道試合における優劣にとどまらず、学園艦の教育理念そのものの優劣を指し示す。もっとも、このような対決の舞台は戦車道以外の選択科目でも得ることはできただろう(例えば忍道など――プラウダ忍道という言葉に論者はやや心躍る)。しかし、プラウダが掲げる実学主義的・科学的知性や集団的規律の勝利の証として対戦相手や観客にもはっきり認めさせるためには、個人の技倆が大きく評価されそうな忍道などは相応しくない。また、茶道・華道といった伝統的芸道は、すでにイギリス・日本などの反動的文化によって強固に体系化されており、うかつにそこに踏み込めばプラウダの生徒が逆に彼らの価値観に染められてしまう危険性がある。歴史が浅く、また戦車という近代工業システムの産物に依拠する戦車道であればこそ、プラウダが目指す女子教育革命にとってまたとない宣伝手段となるのである。

ノンナ    「準決勝は残念でしたね」
カチューシャ「去年カチューシャたちが勝ったところに負けるなんて」
ダージリン 「勝負は時の運と言うでしょ?」

 第8話冒頭で描かれたダージリンのプラウダ訪問の一幕はこの会話から始まる(その訪問意図については聖グロ考察3(3)を参照)が、ここでカチューシャが聖グロ敗退を半ば嘲笑しているのは、彼女の攻撃的性格の表れというだけでなく、プラウダ戦車道そのものが聖グロに対して抱き続けてきた対決姿勢の反映でもあったのだ。

 このような観点からプラウダ伝統の後退・二重包囲戦術の意味を捉え直すと、そこにはロシア・ソ連の伝統とともにプラウダ戦車道特有のこだわりが看取できる。
 もしもプラウダが強豪校以外の相手に対して戦力的優位を活かそうとするなら、聖グロや黒森峰のように堂々とした陣形で正面突破を図ることもできるだろう。例えば大洗女子との練習試合序盤でダージリンが両翼包囲を命令したのも、全車前進・攻撃という積極的方針の一貫としてである。いわゆる本来の戦車道からすればこの方が美しく、だいたいソ連でもトハチェフスキーらによる縦深攻撃戦術という当時最先端の機甲ドクトリンが開発されていたのだから、スターリン死後はこちらを選んでもよさそうだ。
 しかし、プラウダの基本ドクトリンではそのような積極策や王道を選ばず、敵を罠に誘いこむことでさらに優位を確実なものにしようとする。これは、勝つためにはたしかに賢明だが、「下品」と言われても仕方ない。サッカーの優勝常連チームがひたすら引いて守ってカウンター狙いに徹するようなもので、そんな試合で隊員たちの人格がきちんと磨かれるのかという非難の声が寄せられそうだ。だが、そこで無自覚に前提されている「人格」の中身がまさしく反動的・抑圧的な女性像のそれにすぎないというのがプラウダの主張なのだから、むしろ
プラウダは「下品」なドクトリンを自ら掲げて戦うことによって、戦車道の示す女子像や審美性に潜む保守反動的価値観を自覚的に攻撃しているのである。プラウダは、聖グロなどが非難し見下すそのやり方で徹底的に勝利することによって、戦車道の欺瞞を暴きつつ自らの女子教育理念の正しさを証明することができるのであり、そこにはサンダースのような勝利至上主義に対するためらいはなく、むしろ望んで勝利至上主義を振りかざす。そうして戦車道の試合では、相手から「下品」な戦い方と見下されながら、その通り「下品」に勝ち切ることで、相手の戦車道の誇る高尚さが実力不足と人間疎外を隠蔽する言い訳にすぎないと気づかせ、プラウダの現実的な戦車道による転覆(Revoltion)を図っていく。やがてプラウダがあらゆる敵チームを打倒し全国高校戦車道につねに君臨することとなったとき、高校戦車道は「よき」女性像のイデオロギー性を払拭し、プラウダの女子教育理念のもとに一新(あるいはより望ましい何かへと発展解消)されることとなるだろう。すなわちプラウダは勝利至上主義の旗のもと、戦車道を内側から止揚し女子教育全体を解放せんとするのであり、これを本考察では全国戦車道革命論呼ぶ


(2)プラウダ戦車道の課題

 しかしながら、このようなプラウダ戦車道理念をそのまま貫徹しようとする挑戦は、おそらく長続きしにくいものだった。
 まずプラウダの学園生活自体、厳しい自然環境が生徒たちを自然の力に立ち向かう知的工夫へと向かわせるだけでなく、逆に消極的順応へも引き寄せやすい。そこそこ環境の整った教室や艦内で生活する生徒たちにしてみれば、どうやっても気象そのものを操作することなど不可能なのだから、いま与えられているだけの恩恵に満足し我慢するほうが、無理せず穏便に暮らせるのである。だが、このような屈服はいわば、プラウダが本来目指しているはずの人間形成や人間解放と真っ向から対立するスラブ的諦念にほかならない。この観点からすると、画面に現れたプラウダ隊員たちの多くは純朴で温和な少女たちに見えるが、カチューシャ隊長に対するその従順さは訓練の結果というだけでなく、変えられない物的・人的環境に対する消極的順応という生徒たちに広く浸透した姿勢の表れともとれる。そして、そのような隊員たちにとって馴染みやすいのが後退・二重包囲という受け身の戦術なのだとすれば、対戦相手と戦車道そのものに対する攻撃的意味を持つはずの伝統的ドクトリンが、隊員たちの退嬰的姿勢によってたんなる受け身の戦術に転化してしまう。主導権を握らないまま後退していては、相手を十分誘い込んだところで両翼包囲し反撃に移るためのタイミングを逸しやすいし、相手の攻撃をそのまま受け止めようにもすでに味方は包囲行動に備えて分散してしまっており各個撃破をくらうほかない。しかしだからといって、これまで重視してこなかった縦深攻撃戦術を訓練不足のまま用いようとすれば、これまたバラバラに突出して撃破されるという1941年のソ連戦車部隊のような悲劇が待ち受けるだろう。
 次に、このようなプラウダ艦内生活における敗北主義の一方で、対外的な消極的姿勢もまた頭をもたげていた。それは、他校の戦車道やその背後にある各学校の教育理念を全否定するようなプラウダ本来の革命的言動を自ら抑制し、高校戦車道における(プラウダ優位の)共存共栄を目論むという妥協である。実際問題として、プラウダが試合でどれほど勝利したところで、敗れた他校は自らの伝統的戦車道を捨て去るものだろうか。戦術や訓練方法などについては優れたプラウダのものを摂取しようとするかもしれないが、教育理念や学校文化と固く結びついた戦車道そのものはそう簡単に変化しない。プラウダから見れば頑迷固陋なその態度は、敗北を多少重ねた程度でどうなるものでもなく、かえって彼らの愛校心が喚起されて反プラウダ的態度を生じさせかねなかった。こうして全国戦車道革命への道が険しいことが分かると、高校戦車道大会という革命手段が目的化してしまうという転倒が生じた。戦車道を止揚(つまり発展解消)すると口では言ってみたところで、実際の高校戦車道大会がプラウダの名声を獲得・維持する場として機能している以上、その場自体を解体してしまうような圧倒的勝利を収めることは、革命の夢を薄れさせたプラウダにはかえって損になる。とくにサンダース考察1(2)で述べたような教育行政側からの学校評価という圧力に対処するための既得権益への関心をプラウダも抱いたとき、毎年優秀な成績を収めることのできる戦車道大会はじつに都合のいい恒例行事と見なされた。ここでは建学当初のプラウダに漲っていたような保守反動的戦車道への攻撃精神は鳴りを潜め、むしろ既存の戦車道大会の秩序内でプラウダの優越を誇示することが主目標とされる。全国戦車道革命論はいわば
一校プラウダ主義論置き換えられたのである。
 この現状維持方針へと舵を切ったとき、プラウダ戦車道はじつに居心地の良いぬるま湯に浸かることができた。他の強豪校と相談のうえで全国高校大会における「暗黙のルール」(第5話、麻子の台詞)を定め、バランス・オブ・パワーの安定の中で自らの地歩を固めた。聖グロでさえも過去に大会準優勝どまりであることから、おそらく優勝旗はほとんど黒森峰とプラウダの間を行き来していたのだろう。プラウダにとってみれば2年に1度は全国大会優勝というノルマを達成できるという、いわば
教育実績の計画経済であり、この既得権益を守るためには圧倒的戦力をもとに伝統の後退・包囲戦術を繰り返しさえすればおよそ間に合ってしまうのだ。また、優勝常連校という立場上、他の弱小校や中堅校の戦車道チームに強化試合や共同訓練を依頼され、それらを通じてプラウダ戦車道を伝授・宣伝する機会も得やすかったかもしれない。こうしてプラウダは、戦車道そのものの止揚を諦めたかわりに、列強の一員あるいは東西ブロック(プラウダは大湊、黒森峰は熊本)の一翼としての権勢を獲得したのである。
 以上の2要因によってプラウダ戦車道は、堕落したとも言えるし、内外の現実に賢く順応したとも言える。むしろ建学当初の攻撃性のほうが過激な理想主義の過ちに陥っていたのであり、ソ連崩壊後もプラウダが廃校とならずに生き残れたのは現実主義路線への転換のおかげだった、と総括する関係者さえ存在したかもしれない。しかしプラウダ内部での議論はどうであれ、聖グロのダージリンからすれば、このようなプラウダ戦車道の現状維持的な態度はまさしく「下品」にほかならなかった。つまり、現隊長カチューシャの対戦相手をなぶるやり方や、質量ともに優れた戦力を消極的に用いる硬直化した伝統的戦術、そして聖グロ的戦車道をあえて全否定しようとするイデオロギー闘争的態度などよりも、
高邁な理念によって保守的戦車道との戦いを宣言しておきながら現実にはそれと馴れ合って勢力保持を図るという欺瞞的な振る舞いが、じつに「下品」だったのである。

 しかし、この微温的な一校プラウダ主義さえもが動揺・崩壊しかねない危機的状況が、この10年の間に生まれていた。その原因は言うまでもなく黒森峰の大会9連覇であり、長らくプラウダと優勝を分けあっていた黒森峰がいきなり圧倒的な覇権を確立したのである。既存秩序の枠内での勝利至上主義を掲げ続けてきたプラウダ戦車道は、
明らかに黒森峰に、つまりそのドクトリンを支える西住流にまったく勝てなくなった。それは、西住流という保守反動的戦車道の権化にプラウダの女子教育理念が対抗し得なくなったということの、すなわち勢力均衡に基づく一校プラウダ主義論の破綻の逃れようもない証だった。
 しかも西住流は、しほが娘たちに語ったように「強きこと、勝つことを貴ぶのが伝統」(第7話)という流派である。つまり、西住流はプラウダと同じく勝利至上主義を唱えながらプラウダ戦車道を圧倒したことになる。それは
保守反動的戦車道と勝利至上主義の合体という、まさしくナチスドイツの装甲部隊に蹂躙されたソ連のごときプラウダの悪夢を意味していた。この合体を可能としたのは、隊長まほの指揮統率が示すとおり、西住流がたんなる硬直した体系ではなく知性のひらめきを柔軟に活かせるという点にある。そうでなければ、陸上自衛隊の戦車部隊という本物の軍事組織にしほが教官として招聘されることもあるまい(第2話、蝶野の台詞)。しかしこの場合、競技の側でも軍事の側でも権威を確立している西住流は、伝統様式として価値あるだけでなく有効性のうえでも国内最高の評価を得ることとなる。しかも、黒森峰とプラウダの装備が拮抗していることに加えて、黒森峰がモデルとするドイツの装甲戦術は(航空支援や砲撃支援などが存在しない戦車道試合のレベルでは)ソ連の縦深攻撃戦術ときわめて似通っている。そうなると、プラウダが選ばなかったソ連軍ドクトリンによってプラウダが負かされたという、これまた(トハチェフスキー粛清後のソ連を彷彿とさせる)屈辱に満ちた結論が導かれてしまうのである。
 もしここでプラウダ連敗の主原因をドクトリンの選択ミスに見出すならば、これを解決するには優秀な実績を挙げている西住流を導入するのが手っ取り早く、縦深攻撃ドクトリンに似ている点でもプラウダにとって都合がいい。しかし、自らの改革を黒森峰の努力とその成果の模倣に委ねてしまっては、もともと消極的順応に陥りやすいプラウダ戦車道の隊員たちがライバルの上を目指していく気概など再び持てるはずもなく、黒森峰に完全に屈服することになる。もちろん外部の優れたものに学ぶことはプラウダの発展のために必要不可欠だが、それが思考停止をもたらしチームや学校の自立性まで損なってしまっては本末転倒である。また、仮にプラウダが西住流を導入して再び黒森峰と並び立ったとしても、それは高校戦車道大会の観点からすればきわめて似通った2つのチームが優勝旗を奪い合っているというだけのことになる。10年前までの試合では少なくとも、攻撃的な黒森峰と防御・反撃的なプラウダという好対照の勝負になっていた。黒森峰の大会連覇を阻止する期待が一部関係者たちからプラウダに注がれていたとすれば、それはただ勝利すればいいというものでもなく、プラウダならではのやり方で、つまり西住流とは異なるアプローチで高校戦車道の閉塞感を突破する役割をもあわせて求められていたのである。
 しかし、そこであくまでもプラウダの基本ドクトリンで黒森峰に対抗するとすれば、指揮統率能力や基礎訓練をライバル以上に向上させねばならないが、そもそもこれができれば苦労はない。すでに指摘したとおり包囲行動による部隊分散は各個撃破の危険をもたらすが、これを避けるためには小部隊規模での主体的な判断・行動能力を高める必要がある。だが、隊員たちに浸透している従順な態度は聖グロと同じくそのような能力の自己形成を阻んでしまうし、中途半端な育成ではかえって今ある集団規律の利点さえ失いかねない。最後に残るのは、黒森峰の真似をせずにプラウダ独自の縦深攻撃戦術(あるいはそれに匹敵する新たな戦術)を練り直すという抜本的対策だが、これまた雲をつかむような話である。全車輌をJS-2にするなど装備面での補強策も考えられるが、兵器レベルの改善で戦術・ドクトリンレベルの劣位を覆すのはそれほど容易ではないし、黒森峰が追随して装備強化しかねない。
 黒森峰の9連覇を許していた一昨年度までのプラウダは、全国戦車道革命はもとより一校プラウダ主義さえ否定されたうえ、そこからの脱却は独自のドクトリンによる対黒森峰戦勝利すなわち高校戦車道大会優勝によってのみ可能となるという、きわめて過酷な閉塞状況に置かれていた。あたかもモスクワ蹂躙間近のようなこの状況下で、見事にこの条件を満たしながら黒森峰から優勝旗を奪い取った立役者こそ、偉大なる同志カチューシャならびに同志ノンナということになる。



2.カチューシャ・ノンナ指導体制の特徴と限界


 ここでは、カチューシャ隊長・ノンナ副隊長によるチーム指導のありようとその問題について検討するために、まずカチューシャに目を向けよう。


(1)カチューシャの指揮統率にみる能力と個性

 戦車道隊長としてカチューシャが備える稀有な資質の一つは、楽に勝つことを知っているということである。例えば対大洗女子戦でカチューシャは、序盤の偵察情報をもとに敵の行動方針を推測したのち、囮と許容範囲の犠牲によって敵をキルゾーンへと誘導すると、すぐに包囲して反撃不可能な建物内へ追い込んだうえで降伏を勧告している。味方フラッグ車までも餌に用いて作戦を見事に成功させたわけだが、ここまでの展開でプラウダ各車輌には無駄な動きというものが一切ない。詰将棋のごとく、論理的に一手一手を重ねていき、シンプルに勝利をほぼ手中に収めている。降伏勧告を拒絶された時も、「あえて包囲網に緩いとこ作って」おいて敵の突破をそちら誘導し、「突いたら挟んでおしまい」と挟撃準備を済ませている。
 しかし、これはカチューシャの早熟な天才ぶりを示すものというより、むしろ彼女が
プラウダ戦車道の伝統の申し子であることを物語る。その指揮統率はあくまでも常識的・合理的判断を堅実かつ迅速に積み重ねていく秀才タイプのそれであり、後退・包囲戦術というプラウダの基本ドクトリンに忠実に戦っているにすぎない。そして楽に勝ちたがるということは、プラウダの勝利至上主義を徹底しようという姿勢でもある。もちろん、カチューシャは同じパターンの戦術行動を単純に反復するわけではなく、試合場の環境や敵が行う状況判断の傾向などの要素を勘案して、最も簡単に勝つための具体的な手立てを立案し指示する。だがそれらはプラウダの伝統からの逸脱・飛躍などではなく、基本ドクトリンの的確な実践という意味で、その精華というべきものなのだ。もっとも、彼女が高校戦車道屈指の指揮官であることは間違いない。
 カチューシャの指揮統率におけるもう一つの特徴は、彼女の激烈な攻撃性である。その具体的な表れは苛烈なリーダーシップと敵への容赦ない抑圧であるが、じつはその奥には自身の心身の不均衡に由来する劣等感が潜んでいる。ダージリン訪問時の会話を再び見てみよう。

カチューシャ「違うの。ジャムは中に入れるんじゃないの、舐めながら、紅茶を飲むのよ」
ノンナ    「ついてますよ」(口元を指しながら)
カチューシャ「余計なこと言わないで!」

 カチューシャは聖グロ敗退への皮肉に続けて、ダージリンがロシアンティーの飲み方を知らないことを揶揄する。ここには相手を見下す攻撃性とともに、自分のほうがものを知っていると自慢したいという幼さが表れている。しかし威張ったカチューシャは口の周りにジャムをつけてしまい、ノンナに指摘されるとムキになって反発する。これはダージリンの前で恥をかかすなという叱責であるとともに、自分が正しいマナーを知っているはずなのに守れていないという事実を認めたくないというこれまた子供じみた抵抗でもある。このカチューシャ初登場場面では、高い知性と幼い体格・身体能力や情操とのずれが、いきなり端的に示されている。
 おそらく彼女はこれまで、自分よりも知的に劣る凡俗にただ体が小さいという理由で子供扱いされるという屈辱を受け続けてきた。彼女ほどの知性の持ち主であれば他者の視線を逆手にとり、自らの一見幼い振る舞いによって逆に周囲をコントロールするという技も磨けたはずである。だが、そんな擬態・媚態を演じるには、カチューシャの自尊心は高すぎ、情動は幼すぎた。また、周囲の偏見に立ち向かわずに利益を得るような姿勢は、男性社会に従属する女性像を甘んじて受け入れつつ男性を間接的にコントロールするというような淑女の手管と相通ずる。これこそプラウダが排斥する悪しき伝統的女性像であり、
世の抑圧に反抗する姿勢においてカチューシャの生き様とプラウダ本来の精神とは重なり合うのだ。
 しかし、この重なり合いには、具体的な反抗の仕方においてずれが見られる。全国戦車道革命論を掲げていた当初のプラウダは、自らの勝利至上主義敵な戦車道が他校から見下されることを受け入れただけでなく、その見下しを積極的に利用して他校の戦車道を解体し全国の女子教育を刷新しようとしていた。ところがカチューシャは、自分を見下す視線を一瞬たりとも我慢できない。もしも彼女がプラウダの流儀に完全に従うのなら、彼女が指揮する戦車道の試合運びと同様に、他者から子供扱いされたその場ではスルーしておき(一時後退)、あとで実力で上回ってみせることで(包囲反撃)、自分を子供扱いしながら敗れた相手を恥じ入らせる(殲滅)という手も十分選び得る。しかし、カチューシャは自分の劣等感を刺激される場面では、戦術的後退という合理的な方策を一切選ばないし、選ぶだけの余裕がないのである。
 その余裕のなさは、いわゆる努力型秀才には見えないカチューシャが身長を伸ばすための日課として「ぶら下がり健康器」を使っていることにも示される(第10.5話字幕)。しかしこの自分を変えようとするたゆまぬ努力にもかかわらず、そもそもこんな器具で身長は伸びないため、自分より頭のよくない他の生徒たちばかりがすくすく育っていく。姿見を覗き、隊列に並び、周囲の者たちから自然と見下されるたびに、この劣等感と無力感は彼女のうちに繰り返し呼び起こされてしまう。もしもここでカチューシャが自らの小柄さをありのままに受け入れられれば、周囲は彼女の身長にこだわらず優秀な隊長ぶりにのみ注目するようになったかもしれない。だが、自分の小柄さを受け入れるということは、カチューシャにとっては等身大の自分を受容することよりもまず、一生このままでも仕方がないと諦めてしまうことを意味していた。彼女がこの諦めを拒絶し続けている姿勢は、まさしくプラウダの女子教育理念に適う面を持つ一方で、しかし他の生徒たちが消極的順応の裏にもつ堪え性という美点を、つまり厳しい現実をいったん受け止めることのできる心の余裕を、カチューシャが分かち持てないという問題をはらんでいた。
 また、カチューシャが負けず嫌いな性格である一方で、他者を自らの意志に屈服させられるだけの貫禄は、本来の彼女にはない。それは小柄な体によるだけでなく、彼女の論争能力や感情抑制の未熟さから、自分に反対する相手の前で踏みとどまることができないのである。これを端的に示す場面は、例えば準決勝戦直前のやりとりに見られる。杏のほうが背が高いのが気に入らず、ノンナに肩車させてカチューシャは言い放つ。

カチューシャ「あなた達はね、全てがカチューシャより下なの。戦車の技術も身長もね!」
桃      「……肩車してるじゃないか」
カチューシャ「むっ、聞こえたわよ。よくもカチューシャを侮辱したわね、しゅくせーしてやる!」

 自分から喧嘩を売っておきながら、桃の素朴な指摘にさえカチューシャはうまく言い返せていない。あるいはCD『今度はドラマCDです!』収録「プラウダvsサンダースです!」では、練習試合前にカチューシャはアリサと舌戦をしばし繰り広げるものの圧倒され、ノンナに泣きついている。これはさすがに相手が悪かったとも言えるが、ドラマCD『あんこうチーム訪問します!』収録「夜行列車は通ってないのか」ではニーナやアリーナに「ちっちゃいし、じつはほんとに子供なのかもしれねぇな」などと小声で呟かれている。プラウダ隊員たちでさえもカチューシャ個人に対しては畏怖より先に可愛らしさを感じてしまうわけで、「小さな暴君」一人では自分の意志に他者を従わせることはなかなか困難なのである。

 そんなカチューシャが戦車道を選んだ理由は何だったのだろうか。すでに見たとおりプラウダ戦車道は他の競技などに比べても学園理念を体現していることから、周囲に対する彼女の反抗心がこれに惹かれたのもうなづけるし、また彼女の才能が戦車道向きだったということもあるだろう。しかし戦車道は、カチューシャにとってさらなる利点をも備えていた。彼女は人並みの身長を得たいだけでなく、日頃自分を見下している者たちを逆に見下ろせる優越感を得たいという欲求を、劣等感の裏返しとして抱いていた。この欲求を、戦車はじつによく満たしてくれるのである。集団スポーツ競技では、いくら司令塔向きの優れた頭脳の持ち主でも、身体技能が劣っていればレギュラーにはなれない。だが戦車道の車長にはアスリートほどの身体能力は必要ない。つまりカチューシャは小柄さと非力さのおかげで車長以外の役割を免除されることとなり、彼女は戦車道の授業中だけは普段よりずっと視点の高い砲塔ハッチから周囲を睥睨しながら、自らの身体にとらわれずに優れた知性を存分に発揮することができたのだ。
 しかも、高い位置に立つことへのこの欲求は、車高に秀でたKV-2への偏愛などを生んだだけでなく、さらに集団のリーダーを務めることによって、つまり車長として自車乗員を指揮することや小隊を率いること、やがてはプラウダ隊長として全隊員を統率することによって、組織内の最頂上に身を置くことの快楽を見出させていった。カチューシャは自らが率いる乗員・隊員たちの集団に、自分の知的優位を物質的優位へと変換し、低身長という劣位を払拭するための拡張された身体を発見したのである。この観点からすれば、カチューシャが自分を副隊長に肩車させるのは、他者を見下ろす最も単純な方法であると同時に、隊長を高く掲げた副隊長のもとに全隊員が従うという組織の象徴的な姿でもある。そして試合でのプラウダの勝利は、この拡張された身体としての全部隊を統制・操作するカチューシャの勝利であり、勝利の高みから対戦相手を見下ろす機会でもあったのだ。ここにおいてカチューシャにとっての戦車道は、自らの身体的劣等感を拡張的身体による優越感へと置き換えるというきわめて個人的な目的を備えることとなった。
 もっとも、彼女の独力ではこの組織の頂点まで上り詰めることは難しかっただろう。そんな彼女を肩車するノンナこそは、まさしくカチューシャが求めていた自らの意志を実現してくれる第一の拡張的身体である。すなわちノンナは、隊長の指揮統率・部隊管理の補佐という他校副隊長と共通の役割を果たすだけでなく、隊員たちがカチューシャを軽んじないようにする、言い換えれば知性は高いが貫禄に欠ける隊長の"能力”を自らの技能と上背による威圧感をもって現実の”力”に変えるという、他校の副隊長にはない独特の責務を担っているのである。


(2)ノンナの役割と個人的目的

 カチューシャがノンナという相方を得てその真価を発揮するには、車長カチューシャのもとに砲手ノンナが配属された、あるいは別々の車輌ながら小隊を組んだといった機会が必要だったであろう。もしかすると、下級生の務めとして装填手などをやらされていたカチューシャを初めて車長の座に引き上げさせたのは、ノンナの有無を言わさぬ威圧感によるものだったのかもしれない。そして二人の名を全国に轟かせたのは、やはり昨年度の全国大会決勝戦での活躍だと思われる。実際にどのような戦功を上げたかは作品内で説明されていないが、勝敗を決した場面について確実に言えるのは、黒森峰フラッグ車がその車長であり副隊長であるみほの突然の下車によって行動停止し、その隙にプラウダに撃破されたという事実である(第7話回想)。
 そもそも、なぜみほはあの豪雨の決勝戦場でフラッグ車を指揮しながら、川沿いの狭い土手道を通り抜けようとしていたのだろうか。ドラマCD『あんこうチーム訪問します!』収録「少し久しぶりの黒森峰です」によれば、当時のまほ隊長は部隊を「ハンマー」と「鉄床」に分担させたやや複雑な包囲挟撃作戦を立案・命令していたらしい。すると、みほ搭乗フラッグ車は、護衛の3号戦車2輌とともに安全な場所へと退避中だったか、あるいは一方の攻撃軸を指揮するために移動中だったことになる。今年度決勝戦でも隊長まほ搭乗のティーガーはフラッグ車でありながら最前線で戦闘しているので、同じ車種に乗っていた副隊長みほも(戦力で互角なプラウダ相手ということもあり)後方に控えたままではなさそうに思える。つまり、まほ直卒の主力が「鉄床」として敵正面に圧力をかけ続けている間に、みほたちが敵フラッグ車の予測位置あるいは敵陣の薄い箇所へ向けて移動し「ハンマー」の役割を果たす。みほと護衛以外の「ハンマー」主戦力はすでに合流予定地点に集結しており、みほたちの到着を待って攻撃に移る予定だった。あるいは、猛烈な雨という悪天候のため相互の通信がうまく届かず、当初の計画では後方待機のはずだったみほが状況判断のうえで「ハンマー」直率に向かったのかもしれない。川と崖に挟まれた泥道を進んだのは(他にも選択ルートがあったとすればだが)まさかティーガーがこんな狭い悪路をという常識の隙をついたみほらしい判断である。
 しかしここでプラウダが従来どおり後退・包囲戦術で対応する最中、カチューシャは黒森峰が自隊の後退によって生じた隙を突いてくると予測して、敵別働隊の取りうる移動経路上で待ち伏せ攻撃をかけた。自らの隙を逆用するというこのすぐれて攻撃的な防御には、カチューシャのプラウダドクトリンへの深い理解が看取できるのであり、彼女は対大洗女子戦でもこの手際を再演することになる。ただしこの行動時点では、カチューシャはあくまでも黒森峰別働隊の撃破による優位確立を目指しており、まさかそこに敵フラッグ車がいるなどとは想像していなかったのかもしれない。もしもみほがティーガーを離れなかったならば、駆けつけたプラウダ部隊はかえって返り討ちをくらっていた可能性もある。回想場面によると、ティーガーの前後は3号戦車に守られており、両側面は崖と川。ここで露払いの3号を盾にしつつその陰から砲撃されてしまうと、横に回り込めないだけに平坦地よりもむしろ手の出しようがなくなってしまう。ただし、多少の困難については、カチューシャは自車(あるいは僚車)の砲手ノンナの腕を信用し、十分対処できるという腹づもりだったのだろう。この回想場面ではT-34/85とIS-2が少なくとも1輌ずつ向かって来ており、その直前には黒森峰前衛の3号戦車の足元に不意に2発着弾させ川へ滑落させている。たんなる偶然の結果かもしれないが、もしかするとカチューシャは、3号が障害物として残らないようにあえて地面を砲撃して崩させ、ノンナたちがその命令に応えた可能性がある。もっとも、その後は西住流フラッグ車との正面対決になるはずだったが、車長のみほが仲間の救出へと飛び出してしまったのはまったくの幸運だった。(この機を逃さずティーガーの砲塔基部を一撃で撃ち抜いたのは、左の崖面に近い側から砲撃しているのでT-34/85かと思えるが、描かれた照準器は劇場版でノンナ搭乗のIS-2のものと同じである。)
 いずれにせよ、ここで決定的な戦果をものにしたカチューシャは、黒森峰10連覇阻止とプラウダ優勝の立役者として、現隊員どころか9年上の卒業生さえ逆らい難いカリスマを獲得した。輝ける栄光を背に、カチューシャは満場一致の万雷の拍手とともに隊長の座に就き、わずかな反対者がいたとしてもノンナがしゅくせーし、お互いに本来の能力を遺憾なく発揮していくことになったのである。二人の協同能力がどれほど高い水準にあるかは、準決勝戦前半でも確認できる。カチューシャはまず隊員2名に移動中の大洗女子を偵察させ、「全車北東方面へ移動中。時速約20キロ」という報告をもとに敵の意図を的確に推察した。

カチューシャ「ふぅん、一気に勝負に出る気? 生意気な……。ノンナ!」
ノンナ     「分かってます」

 もちろん二人は事前に分析・検討を行ったうえでさまざまな計画を策定しておいたのだろうが、それにしても見事な以心伝心ぶりである。カチューシャの優れた作戦立案・判断能力に、ノンナの砲撃技倆・管理能力や威圧感が合わさることによって、今年度のプラウダは他校に類を見ないきわめて完成されたリーダーシップを得ることができた。しかもこの隊長と副隊長の協同は、能力面での相補関係だけでなく、いわば情的な相互依存関係によって、はじめて実現できたものなのだ。

 カチューシャは戦車道を履修することで延長された身体を獲得するという個人的目的をもっているが、ノンナもまた彼女独自の目的を有している。自らの資質能力の活用や、試合の勝利とそのための隊員育成という表向きの目的と並ぶその個人的目的とは、カチューシャを守ることと、カチューシャと自分との関係を維持・深化させることである。日課が「カチューシャ日記」(第10.5話字幕)というほどにまで、ノンナはカチューシャへの情愛をこじらせており、補佐役として隊長の言動をつねに把握しておく必要があるという言い訳が成り立つとも思えない。ノンナにとって、カチューシャは自分の能力を最大限に引き出してくれる車長・隊長であると同時に、自分の母性愛などを最大限に引き出させる可愛いお子様でもある。そしてこの情愛は、いわば母性の二面性そのままに、カチューシャを温かく守り育むと同時に、まるごと包み込んで駄目にしかねない。しかしともかくもノンナのこの情愛によって、カチューシャは自分を全面的に受容してくれる相手を見出せた。口は悪いが打たれ弱いカチューシャは、ノンナの庇護を得た安心感によって、持てる実力をいっそうためらいなく発揮できるようになった。そしてノンナもカチューシャの期待に応えるべく、そして勝利に喜ぶカチューシャのはしゃぎぶりを愛でたいがために、全力を尽くさんとするのである。
 もちろん、ノンナのこのようなきわめて個人的な欲求は、彼女をあらぬ方向へと暴走させてしまう危険性を持っている。サンダース副隊長アリサがタカシというチーム外の他者への恋心によって勝利至上主義の隘路へと突っ走ったのと同じく、ノンナはカチューシャへの執着によってこの隊長が望む一切を実現すべく驀進してもおかしくなかった。ところがノンナの個人的欲求は、かえってカチューシャと一蓮托生のスチームローラー的全面攻勢を踏みとどまらせる足場となっている。その大きな原因は、恋愛成就というアリサの個人的欲求が試合勝利という部隊目的と(アリサの脳内では)完全一致していたのに対して、カチューシャとの関係深化というノンナの個人的欲求が試合勝利というチーム目的と必ずしも一致しない、という点にある。ぶっちゃけ試合で負けたとしてもカチューシャが不利益を被らず満足できれば、そして自らがカチューシャとより親密になれればノンナの個人的欲求は満たされるわけで、試合がどう転んでもいいように備えておくことが重要なのである。準決勝休戦時の大洗女子では、降伏を認めない桃に向かって、みほたちが勝利よりも大切なものがあると反論していた。しかし、ほかならぬ勝利至上主義のプラウダの、しかもNo.2の人物がやはり勝利以外の個人的目的を内心で掲げていようとは、みほはもちろんカチューシャさえも気づいていなかったに違いない。
 もっとも、カチューシャが満足するのはたいていプラウダが試合に勝利したときであり、そのことはカチューシャとノンナの関係に良い影響を及ぼすため、ノンナは勝利を追求することに反対はしない。また、カチューシャのカリスマ獲得が黒森峰を打破したという類まれな実績のおかげである以上、敗北を重ねてこの背光を失うことは、部隊内でわがままに振る舞うカチューシャへの反発をいきなり生み出しかねない。その反発をノンナが強面で押さえつけたとしても、抑圧的な雰囲気が隊員たちにとってもカチューシャにとっても居心地の悪いものであり、ますます勝利を遠ざけてしまうという悪循環をもたらすことは容易に想像がつく。そこで、試合に負けて荒れるカチューシャがチーム内の敗北主義者を見つけ出そうとし、隊員たちがその恐怖に怯える時、ノンナは隊長と隊員たちの間に立ち、カチューシャの不満を一部発散させながらやんわり宥めることで、隊員たちを過度の八つ当たりから守ってやれる。これによって隊員たちは、ノンナがいなければカチューシャの怒りが自分たちにもっと降り注いだだろうと想像してノンナに畏怖しつつ感謝し、今後もカチューシャのそばにいてくれることを願うことになる。そしてカチューシャにしてみれば、幼い見かけの自分の指示を隊員たちが軽んじることも、また逆に自分の行き過ぎた横暴によって隊員たちが決定的に離反してしまうことも、ノンナが予防してくれたことになる。さらに隊長が隊員たちに多少の罰を与えたのちは副隊長相手に発散する(そしてノンナは全てを受け止める)ことを反復するうちに、ノンナはカチューシャが素直に甘えられる唯一の相手となるのである。

ノンナ    「ついてますよ」(口元を指しながら)
カチューシャ「余計なこと言わないで!」
ノンナ    「ピロージナエ・カルトーシカもどうぞ。ペチーネも」

 このやりとりでのカチューシャは、ちょうどダージリンをやり込めていたところに水を差されたと感じたわけだが、ノンナも隊長に恥をかかせようとしたわけではない。ジャムをつけっ放しにさせておくよりはすぐ指摘したほうが隊長のためであり、また客人への口撃が度を越さないようにブレーキをかけたものと想像できる。しかしいま注目したいのは、このような「余計なこと」を言ったノンナが詫びもせず、カチューシャから罰を与えられてもいないことである。他の隊員たちであれば何らかの労働罰がただちに課せられたことだろう。これは、ノンナがプラウダにおいて副隊長かつ屈指の砲手という特権的地位にあるだけでなく、カチューシャにとっての特別な存在であることを意味している。これくらいはノンナが言っても、カチューシャが本気でへそを曲げることはない。同じようにノンナがカチューシャをからかっているかのような場面は、試合中もそれ以降も画面に繰り返し登場する。その一方で、カチューシャはノンナに不満をぶつけたり、食事その他のお世話をしてもらったりする。このお互いに母子のように甘えられる関係こそノンナが戦車道チームの中で着実に育んできたものであり、他校に比べて図抜けて強固で独特な隊長・副隊長関係が成り立つゆえんである。ここであらためてカチューシャを肩車するノンナの姿を眺めれば、そこには俗流マルクス主義的な上部構造・下部構造の図式よりも、マルクス主義と母なるロシアの二重構造が映し出されているのかもしれない。知的だが純粋にすぎる理想を、矛盾に満ち懐の深い大地が支えているのである。


(3)カチューシャ・ノンナ体制下におけるプラウダ戦車道の諸問題

 さて昨年度大会の優勝後、新たな隊長に率いられ副隊長に管理されることでプラウダはまさしく常勝チームとなった。そのことを隊員たちはカチューシャに感謝しているだろうし、隊長自身も癇癪持ちとはいえ彼女なりに隊員たちを大切に思っていることだろう。しかし、その指揮統率によって生み出された秩序は、理想的と呼ぶにはためらわれる大きな問題をはらんでいた。

 まず、カチューシャの立案する作戦はすぐれて勝利至上主義的な合理性を備える一方で、戦車道としての隊員育成の面が弱体化した。例えば準決勝戦の開始早々、カチューシャはT34を3輌まず囮にし、うち2輌が撃破された。続いて、この残る1輌が反撃ののち後退して大洗女子の追撃を誘導し、3輌のT34(フラッグ車含む)と2輌のT34/85の横列で待ち構えたところ、ここでも1輌のT34/85を撃破された。戦力の2割(15輌のうち3輌)という大きな犠牲だが、敵を致命的な罠に誘い込み勝利をほぼ確定させたのだから収支計算としては悪くない。しかし、この3輌に搭乗していた隊員たちは、囮としての役目を命じられた結果、足を止めた状態でほとんどまともな交戦もできないまま、試合序盤で脱落せざるを得なかった。無駄な動きをせずに任務を全うしたというのは、燃料や砲弾の浪費を惜しむ(「燃料がもったいないわ」「主砲はもったいないから使っちゃだめ」)カチューシャの指示通りなのかもしれないが、しかし育成を考えれば味方隊員たちの早期脱落こそが一番もったいないのではないか。
 もちろん集団競技でも戦争でも、全体の勝利のために部分を犠牲にせざるを得ないことがある。だが教育的営為としてのプラウダ戦車道は、人間疎外を打破し女性を解放するための革命闘争であると同時に、それを担いつつ生きていく隊員たちの自己形成を促進するものでなければならないはずだ。他校を見ると、例えばアンツィオは(車輌数の少なさ・弱さもあってのことだが)囮作戦にデコイを用い、またペパロニという勇猛な副隊長に別動隊を委ねることで、彼女たちの試合開始早々での被撃破や士気喪失を抑えていた。またプラウダ以上の陣容を誇るサンダースでも(車輌数制限もあったが)やはり味方を囮として使いつぶすことはなかった。これら他校では各自の非プラウダ的な戦車道理念のもと、試合勝利と隊員育成とのバランスをとりながら、できるだけ多くの隊員たちが試合の終わりまで戦い続けて経験を得られるように配慮しているのである。
 もしかするとカチューシャは、乗員の練度が低い車輌を囮群に用いることで、全隊員がその能力に見合った役割を担えるように計らったのかもしれない。たしかに彼女たちは任務を全うしたことにはなるが、この準決勝戦という大きな舞台で囮として早々に脱落することで、いったい彼女たちは何を学べたというのだろうか。黒森峰との決勝戦が控えていることを考えれば、この弱小校との準決勝戦で低練度の隊員たちに試合経験を少しでも多く積ませておくべきとも思えるのに、あえてカチューシャがそうしなかったということは、まほと自分の戦術・指揮能力の優劣に比べれば隊員たちの多少の育成などたいした影響をもたない、と高をくくっていることの反映なのだ。さらにこのときカチューシャが、せめて囮くらいはできるだろうなどと考えていたとすれば、そこには隊員たちへの育成意図どころか、仲間意識や隊員たちの尊厳への配慮すら感じられない。こうしてカチューシャが隊長としての教育責務を放棄し、隊員たちをコマとして道具化する姿からは、育成よりも実績を優先する勝利至上主義の弊害とともに、
人間性回復のためのプラウダ戦車道がかえって人間疎外を生じさせてしまうという矛盾を指摘できるのである。

 こんな指揮統率のもとで勝てたとしても、はたして隊員たちは楽しいのだろうか。だがたとえ不満を抱いたにせよ、隊員たちはこの隊長に面と向かって逆らえない。勝つことはたしかに嬉しいし、カチューシャが勝利をもたらしてくれていることは事実だし、彼女と異なるやり方で実績を上げるだけの能力など誰にもない。そのうえカチューシャはプラウダ戦車道の(一面における)体現者であり、彼女に反抗することはプラウダの女子教育理念そのものに反逆することを意味する。誰も逆らえない状況下で、自分が最も正しく賢明だと信じるカチューシャの威勢はますます激しくなり、あだ名が示すその「地吹雪」がごとき横暴にさらされる隊員たちは、育成への配慮不足にとどまらない悪影響を受けてしまうことになる。しかも、相手がカチューシャだけなら隊員たちはその命令に従うふりをして手を抜くこともできそうだが、ノンナの目を逃れることはできそうにない。カチューシャに対する隊員たちの服従心や思考停止は副隊長の実行力によるところが大きいのである。

カチューシャ「いーい? あいつらにやられた車輌は、全員シベリア送り25ルーブルよ!」
ノンナ    「日の当たらない教室で、25日間の補習ってことですね」

 カチューシャの代名詞であるこの懲罰台詞だが、同じような厳寒下の強制労働罰の例は、ドラマCD『あんこうチーム訪問します!』収録「夜行列車は通ってないのか」での「シベリア送り25ルーブル」(「北向き木造校舎で、床板の数を数える」)、またドラマCD4『月刊戦車道 戦車女子特集します!』収録「突撃!隣の戦車女子 14:00 プラウダ高校」での「永久凍土で穴掘り10ルーブル」(雪の積もった校舎裏で、戦車道訓練用の塹壕を10個掘る)や「ツンドラで強制労働30ルーブル」(学園艦の端っこで、樹木の伐採を30日間)が挙げられる。これらはいわゆる「飴と鞭」の「鞭」にあたる指揮統率法ではあるが、プラウダ生徒たちの自然への消極的順応という問題を重ねれば、これらの罰には隊員たちのそのような後ろ向きの態度を強制的に払拭するための劇薬という意味合いも見出だせることになる。過酷な環境に隊員たちが怯えれば怯えるほど、かえってカチューシャはそれを用いた罰を教育的に下そうとするわけだ。
 ところが、そんな無慈悲な罰を命じるカチューシャ自身が、自分の身体という最も身近な自然を克服できていない。それは身長のことではなく昼寝の習慣のことである。彼女は体が小さく、またおそらく子供じみて体温が高いこともあって、寒い戸外ではこまめな食事や短時間の睡眠をとる。準決勝戦の最中でさえ、大洗女子の降伏を待つ休戦時の間にノンナの子守唄を聴きながら一眠りしている。さらにドラマCD4『月刊戦車道 戦車女子特集します!』収録「突撃!隣の戦車女子 14:00 プラウダ高校」では、ノンナが「同志カチューシャは偉大なる指導者ですから、午後の授業は彼女が起きてから始まることになっています」「昼食後は毎日お昼寝します」と述べており、まさしく「小さな暴君」の名に相応しい所業だが、これが隊長の懲罰命令の教育的意味を著しく損なっていることは言うまでもない。もちろんカチューシャも日々精一杯頑張ったうえでのことだとしても、彼女が自らの身体の疲労や睡魔を抑えきれていないのは明白である。それは隊長の権威や公平性への信頼を揺るがすばかりでなく、自然に立ち向かおうとする姿勢とはまったく逆のお手本を、ほかならぬ隊長自身が示してしまっていることになる。しかし、偉大なる隊長カチューシャに向かって隊員たちがそのことを指摘できるわけがない。その結果、カチューシャが下す様々な罰は隊員たちに望ましい姿勢を取り戻すための機会とはならず、むしろその罰への恐怖心と命令者カチューシャ・実行者ノンナへの服従心を通じて、自然ならびに隊長という抗えない圧倒的存在への諦念や思考停止をいっそう強めてしまうのである。
 しかもこうして隊員たちがいっそう委縮することで、カチューシャはやはり自分が全て命令しなければだめだとますます確信し、よかれと思って隊員たちを抑圧し続けることになる。聖グロのダージリンが自覚的に問題視していたこの隊長―隊員間格差とその悪循環は、プラウダではカチューシャが無自覚なまま悪化の一途を辿ろうとしていた。ここには、プラウダが戦車道において対立している聖グロとの奇妙な一致が見出せる。すなわち、聖グロ考察2(1)で指摘した
「戦車道理念とその伝統的様式そのものにかかわっているからこそ解きがたい」ような「伝統維持の限界と改革の困難」という問題における一致である。しかも、それぞれの問題をもたらした背景が保守的な聖グロと革命的なプラウダとでまったく異なるにもかかわらず、両校ともに優秀なリーダーの指揮統率と集団的規律の徹底によってとりあえずやり過ごすほかなかったのである。

 こうして萎縮し隊長への服従を叩きこまれていく隊員たちの中から、次代リーダーに相応しい者が現れるとは期待しにくい。とはいえ、準決勝戦後にみほの実力を素直に認めたとおり、カチューシャは人を見る目がないわけではない。下級生の誰かに隊長としての素質を見出したなら、カチューシャはダージリンがオレンジペコにしたように自分の膝下に置き、日々威張り散らしながらも後継者育成に励むこともできただろう。しかし実際にそうしてこなかったのは、カチューシャから見て下級生が物足りなかったためかもしれないし、また部隊を自らの延長的身体と捉えている彼女としては、その頭脳たる自分の立場を脅かす者を急いで育てる気になれないという抵抗感によるのかもしれない。さらに、カチューシャに気に入られそうな有望な後輩をノンナがあらかじめ厳しく警戒してしまうため、副隊長の壁をあえて越えようとする者が出てこなかったのかもしれない。隊長と仲良くしすぎると真夜中に宿舎のドアを激しくノックされる、というわけである。
 だが、それらとは別の意味で重大と思しき外部要因に、ここで目を向ける必要がある。第2話のせんしゃ倶楽部店内で流れていたスポーツニュース映像を思い出そう。

アナウンサー「高校生大会で、昨年MVPに選ばれて国際強化選手となった西住まほ選手に、インタビューしてみました」

 そう、大会優勝校はプラウダでその立役者はカチューシャなのに、カチューシャに敗れた黒森峰の西住まほが最優秀選手の評価を得ていたのだ。あくまで大会MVPではなく「昨年MVP」なので、大会だけでなく練習試合その他の年間実績が評価されたのだろうし、準決勝戦までの活躍もやはり図抜けていたのだろう。それでもカチューシャとしては、全国大会という最高の場で屈服させたはずの西住まほにMVPの座を不当に奪われたと感じざるを得なかった。なぜ自分ではないのか。西住流ではないからか。ここに彼女は、自分に対する世の理不尽な抑圧を発見したのである。しかもMVPとは部隊全体ではなく個人に与えられるものであるために、カチューシャの劣等感は直に掻き立てられてしまう。いわばカチューシャはまほに未だに見下されているのだ。それゆえにカチューシャは、今大会で再び黒森峰とその隊長である西住まほを打ち倒すことによって、自らが最優秀の戦車道隊長でありあらゆる他校戦車道の上に立つ存在であることを全国に知らしめようと決意しているのである。このような意図をもって何が何でも優勝を目指して大会に臨んでいるカチューシャからすれば、自分が卒業後に部隊を率いる後継者の育成などもはや眼中にない。というか、そんな余裕はないのだ。
 そしてカチューシャがMVPをめぐって不当に見下されたと感じたゆえの心の痛みは、まほを始めとするあらゆる他校隊長・隊員をたえず見下し返さなければ収まらない。

カチューシャ「このカチューシャを笑わせるために、こんな戦車用意したのね? ね?」
杏      「やあやあカチューシャ、よろしく。生徒会長の角谷だ」(身をわずかに屈めながら手を差し出して)
カチューシャ「……ノンナ!」(ノンナに肩車させる)
        あなた達はね、全てがカチューシャより下なの。戦車の技術も身長もね!」

 準決勝戦開始前のこういった侮蔑や、ダージリンとの会話に見られたような揶揄が、おそらくどの対戦校にも向けられているのだろう。だが、誰の言動をも自分の評価や利害に関わるものと見なしてしまうというカチューシャの態度は、幼い自己中心性というだけでなく、彼女の自尊心が休むことなく苛まされ傷つけられているという事態を暗示する。高笑いするカチューシャに杏が挨拶の握手を求めたとき、カチューシャはこれに返さずムッとした表情でノンナに肩車を命じる。この感情の上下運動をもたらしたのは、
杏がカチューシャと握手するためにわざわざ身を屈めたことにある。杏もまた高校3年生にしてはずいぶん背が低いのだが、その彼女でさえカチューシャを上から見下ろし身を屈め、自分の優越を誇示しようとする。いやもちろん杏にそんな悪意はまったくないのだが、カチューシャにとってみれば、みすぼらしい戦車しか揃えられないような学校の生徒会長に馬鹿にされたとしか感じられない。この直前、カチューシャとノンナが大洗女子に挨拶に向かうさい、すでに圧倒的勝利を確信するカチューシャはノンナに肩車させる必要もなく自分の足で一歩先を進み、我が身ひとつで隊長らしく堂々と振る舞おうとしていた。だが杏の何気ない振る舞いによって、カチューシャは自分の劣等感を刺激され、それゆえにノンナによる肩車を突如必要としてしまったのである。わざわざ「身長も」と一言付け加えざるを得ないことに、皮膚を剥かれたハリネズミのようなカチューシャの辛さがこぼれ出ている。

 こんなピリピリした態度で常にいられては、ふだん身近な隊員たちもたまったものではない。ノンナもこれまで同様にガス抜きしてくれるものの、カチューシャの不満が西住まほの優越にある以上、再び黒森峰に勝利したうえMVPを獲得でもしないかぎりは解消されない。そして、このプラウダ連覇のための努力がすでに述べたとおり隊員たちの道具化をもたらすことで、現在の指導体制はますます抑圧的なものとなってしまいかねなかった。
 しかも、カチューシャの暴走はプラウダの隊員たちでは止められないばかりか、学園艦内ではプラウダ戦車道にとってきわめて積極的な意味づけさえ与えられてしまう。それは、カチューシャ指導体制による全国戦車道革命論の復活である。部隊の外から見れば、カチューシャはプラウダ戦車道本来の理念を掲げ、プラウダ本来のドクトリンを用いて、あらゆる敵に勝利し、あらゆる他校戦車道を粉砕しようとしている。それは、保守反動的戦車道の一掃というプラウダ戦車道の悲願成就を目指す偉大なる事業にほかならない。一度はこの全国戦車道革命論から一校プラウダ主義論へと転換していたプラウダ戦車道は、黒森峰9連覇による一校プラウダ主義論の否定を乗り越えて、カチューシャ独裁によって再び女子教育の解放という真の目的に向かって邁進するのだ。もちろん実際のところ、3年生のカチューシャが卒業までに国内高校戦車道をひっくり返せるわけがない。しかし、全国戦車道革命論という誇大妄想をたとえ1年足らずの間でも現実のものにしてくれるのではないかと一部の者に信じさせるだけのカリスマを、カチューシャ隊長はその身に(その第一の延長的身体であるノンナとともに)帯びつつあった。ただしそのカリスマは、プラウダの戦車道を原点回帰させ女子教育解放を担おうとする崇高な使命感によるものではなく、自らの劣等感をバネとする強烈な反発心から生み出されていたのである。この点においてカチューシャはサンダースのアリサと似通った個人的目的を(ただし無自覚に)抱いており、また両者ともその実現に役立つ勝利至上主義へと傾斜していたと言える。
 こうしてカチューシャの意志はプラウダの全国戦車道革命論へと表面的に一致したわけだが、
しかしそれは他校生徒を保守反動的女子教育理念から解放するという建前のもと、カチューシャ独裁による抑圧的体制で覆いつくそうとするものでもある。もしもこれが現実のものとなったなら、プラウダ内部での人間疎外の問題が全国高校戦車道に広がることになるだろう。もちろんカチューシャという少女は、そのような度外れた横暴を好むわけではないはずだ。だが、ノンナや隊員・部隊という延長的身体を獲得し、黒森峰連覇阻止という栄光を掴み、さらにプラウダ戦車道本来の理念を体現する存在として周囲から見なされてしまったとき、カチューシャは自らの劣等感と学園理念を両輪とする巨大な抑圧システムの組織化を止めることができなくなっていた。その仕組みに気づくこともなければ、たとえ気づいたとしてもすでに彼女一人の意志で止められるものではなくなっており、カチューシャはひたすら勝利を求めつつ、勝利する以外の選択肢を奪われかけていたのである。

ダージリン「彼女は搾取するのが大好きなの。プライドをね」

 準決勝観戦中に呟かれたこの言葉は、ダージリンが直接指し示しているようなカチューシャ個人が弱小校をなぶる様だけを意味するものではない。いまカチューシャが他校隊長・隊員の自尊心への蹂躙攻撃をかける姿に、かつて他校の戦車道の誇りと伝統を踏みにじろうとしてきたプラウダ戦車道の影が、重なるように揺らぎ浮かんでいるのだ。ところがその担い手であるはずのカチューシャもまた、あらゆる事象によって自らの劣等感を刺激されることでまさしく自分自身のプライドをも搾取されていたとは、何という皮肉だろうか。高校戦車道に幽霊が出る――全国戦車道革命論という幽霊であるその幽霊はカチューシャを犠牲の祭壇に捧げながらプラウダと他校を覆わんとしつつある。今年度大会ではその攻撃の最も鋭い矛先は黒森峰のまほに向けられていたが、その前に粉砕すべき敵がいることをカチューシャに教えたのは、ほかならぬダージリンだった。



3.ターニングポイント・対大洗女子戦


 いよいよ準決勝戦を見ていくことになるが、この試合に先立ってノンナがカチューシャとチームの問題状況をどのように捉え、試合に何を求めようとしていたのかについて、まず検討しよう。


(1)ノンナの選択肢(第8話)

ダージリン 「次は準決勝なのに余裕ですわね。練習しなくていいんですの?」
カチューシャ「燃料がもったいないわ。相手は聞いたこともない弱小校だもの」
ダージリン 「でも、隊長は家元の娘よ。西住流の」
カチューシャ「え!? そんな大事なことをなぜ先に言わないの!」(ノンナに向かって)
ノンナ    「何度も言ってます」
カチューシャ「聞いてないわよ!」
ダージリン 「ただし、妹のほうだけれど」
カチューシャ「えっ? ……なぁんだ」

 ダージリンが大洗女子隊長の名を教えたこのプラウダ訪問場面だが、カチューシャが西住の名をノンナから報告されていたにもかかわらず聞き流してしまっていた(そしてダージリンの言葉を聞いてまほが大洗女子にいるのかと誤解してしまった)というのは、まほにこだわるわりには迂闊に思える。まほが黒森峰の隊長であることは先の準決勝第1試合でも明らかなので、まさか「聞いたこともない弱小校」に西住姓の別人がいるとは思ってもいなかったためだとすれば、まほへの執着と大洗女子軽視は想像以上に強かったことになる。あるいは、ノンナが西住みほの名を本当にカチューシャに伝えていなかったという可能性もないわけではない。この場合、ノンナはカチューシャの指揮統率に悪影響を及ぼすことを避けようとしてあえて知らせなかったということになるが、「何度も言ってます」の返事に彼女にしては珍しいほど感情(困惑や非難)がこもっているのを聞くと、さすがにここでの腹芸はなさそうに思える。
 そう、この一言に漏れ出たノンナの感情は、直前の口元のジャムでのやりとりのように受け流すことのできない、試合前に彼女が抱いていた懸念の強さを物語っている。
現在のプラウダは隊長と副隊長がそれぞれの個人的欲求によって突き動かされている点で独特であり、カチューシャとノンナは似た者同士と言える。だが、ノンナが自らの欲求について自覚的であるのに対して、幼いカチューシャは無自覚なままにある。この相違によって、今年度大会に臨む二人の間には、勝利に対する姿勢に決定的な差が生じていた。

 すでに見てきたように、カチューシャは西住まほと黒森峰を完全屈服させて自分が最優秀であることを認めさせるために大会連覇を求めている。たしかに連覇ということだけならノンナも全力で補佐するのに吝かではないが、それが実現したときに待っているものは何か。プラウダの栄誉や入学・入隊希望者の増加などは、ノンナにとって二の次である。最も問題なのは、カチューシャが求めてやまないMVPの称号をついに得るかもしれないということだ。そうなればたしかにカチューシャはご満悦、その傍らにいるノンナも日記の筆が進むだろう。だが、MVPのカチューシャは昨年の西住まほと同じく国際強化選手に選ばれる可能性が高い。そのときカチューシャは国際強化選手対象の合宿やロシアなどでの海外訓練に参加することになるのだろうが、ロシア語も真面目に学んでいない彼女がノンナと離れてやっていけるとはとても思えない。と言うより、自分がいなければ一人でやっていけないようにノンナが一切のお世話をしてきたのである。もっともカチューシャ個人ではなく搭乗チームでの参加が認められるのだとすれば、彼女は当然ノンナを連れていくに決まっているが、しかし隊長・副隊長が不在ではプラウダ隊員たちは訓練も試合も満足に行うことができなくなってしまう。もちろんいざとなればノンナは同行を選ぶとしても、高校戦車道で一度頂点に上り詰めてしまったカチューシャは、国内に留まれば忘れられたかもしれない劣等感を、わざわざ国外に出ることでより広い舞台で掻き立てられてしまうことになる。国際強化選手集団の中で、海外の選手や試合相手に対して、つねに自分が最優秀者と認められることを求め、他者を見下そうとしてしまうだろう。そこで生じる軋轢もさることながら、はたしてカチューシャが今後ずっと勝利し続けることなど現実的に可能なのか。その欲求が満たされないたびに、昨年のまほに向けたような憤りを、そしてその背後にある劣等感による痛みを、よりいっそうの激しさで抱くばかりではないのか。そこにカチューシャの本当の幸せはあるのだろうか。毎日カチューシャを補佐し、お世話し、観察記録をつけているノンナだからこそ、愛しいカチューシャの夢の先に待つ陥穽に気づき、彼女が自らを苦しめ続けるという可能性に我が身以上の辛さを胸に秘めていたのである。
 そしてそのような未来のほのめかしは、すでに眼前に現れていた。カチューシャが副隊長の報告義務違反を叱責し、ノンナの能力に対して疑いの目を向けたのである。きわめて些細なことだが、これは一つの兆候なのだ。プラウダ戦車道が君臨し続ける未来では、カチューシャはさらに多忙になり、さらに増長し、さらに人の言うことに耳を貸さなくなるだろう。その結果、このような勘違いによる叱責は毎日のように繰り返されることになる。すると、カチューシャから見ての過失を重ねるノンナは、いったいいつまで隊長の信頼をつなぎとめることができるだろうか。隊員たちとの間に立つ調整的役割を、いつまで維持することができるだろうか。そして、それらによって支えられてる日々のカチューシャとの相互依存関係を。ここでもまたノンナは、プラウダ戦車道の行く末を予想しながら、自らの個人的欲求にとっての得失という基準で判断していた。つまるところ、カチューシャの個人的欲求の強さが彼女をプラウダ戦車道との一体化による自我肥大化へと向かわせたのに対して、ノンナの個人的欲求の強さは全国戦車道革命論という妄執に対抗しうる妄執として、プラウダ戦車道の課題克服の足場を与えるのである。

 しかも、それはたんにノンナの利己的判断というに終わらない。ノンナが失脚するときはカチューシャを丸ごと受容し公私にわたって支えてくれる副官を失うときであり、つまりはカチューシャが頂点から墜落するときである。愛するカチューシャが孤独と失意に陥ることは、ノンナにとって何より許せない。しかもプラウダ学園艦では一部の者がカチューシャに過度の期待をかけている以上、彼女があえなく敗北すればたちまち責任追及の攻撃が押し寄せるだろう。そのとき隊員たちが一緒になってカチューシャを責めず庇ってくれるかどうかは分からないし、たとえその意志があってもカチューシャというカリスマを失えば組織としては瓦解してしまうかもしれない。ほかならぬノンナ自身が、そのような体制の構築を担ってきてしまっているのだ。しかし、だからといって他にどのような道が選びうるのだろうか。黒森峰との再度の対決を前に(妹とはいえ)西住流家元の娘に敗れることでカチューシャが受ける衝撃の大きさは、ノンナにも予測がつかない。準決勝戦に臨むノンナの心のうちに、何らかの答えがすでに得られていなかったとすれば、彼女はあくまでも副隊長として、今までどおりカチューシャを全力で補佐しながらチームの勝利を目指すばかりだった。
 とはいえ、ノンナに希望がまったくなかったわけでもない。次の対戦相手の大洗女子は、サンダースやアンツィオといった強豪校・中堅校を倒してきており、もはや弱小校とは呼べない実績を上げている。ケイによる西住みほ絶賛の声は、おそらくノンナにも届いていただろう。しかもこうしてダージリンが、大洗女子隊長についてカチューシャに注意を促すだけのためにわざわざプラウダを訪問している。ダージリンの真の意図は分からないまでも、みほ率いる大洗女子は強豪校による馴れ合いの閉塞感に間違いなく突破口を開きかけている。だとすればこの台風の目は、カチューシャとプラウダを覆う霧を吹き払う役割をも果たしてくれるのではないか。決勝戦でまほに敗れるのに比べればまだしもカチューシャの自尊心を傷つけることなく、別の道があることに気づかせてくれるのではないか。もちろんこのような曖昧な期待で大事を決してしまうノンナではないが、永遠に勝ち続けることを目指す以外の可能性を見出すとすれば、もはやそこに賭けるほかなかったとも言える。


(2)対大洗女子戦前半(第8話・第9話)

 大洗女子隊長の正体を教えられたカチューシャは、憎き西住流を2試合連続で屈服させられることに気づいた。そして、昨年度大会決勝戦で醜態を晒した西住妹を今度は完膚なきまでにいたぶることで、決勝戦での西住姉の指揮統率に悪影響を与えられるのではないかと算盤をはじいた。みほはまほ打倒の道具となり、まほはカチューシャが頂点に立つための踏み台として再び打ち負かされる。この輝ける未来像に向かってカチューシャはノンナとともに大洗女子の試合内容を分析するわけだが、それはみほと大洗女子の弱点を鋭く突いた作戦立案をもたらすとともに、自らの劣等感に由来する優越感獲得への強迫的欲求によって、彼女本来の楽に勝つための合理性を歪めてしまうことにも繋がっていく。

カチューシャ「あら、西住流の」
みほ     「あ……」
カチューシャ「去年はありがとう。あなたのおかげで私たち、優勝できたわ」
みほ     「あ、う……」
カチューシャ「今年もよろしくね、家元さん。じゃあね、ピロシキ〜」
ノンナ    「ダズヴィーダニャ」

 試合開始直前の挨拶の別れ際、カチューシャが最初の揺さぶりをかけた。この痛烈な皮肉は、みほに当初の計画を撤回させる一因となったかもしれない。昨年度の10連覇を逃す原因となった失態を思い出せられたことにより、みほが事前に立案した慎重策とは反対の積極策を隊員たちが主張した時に、(士気を重視するという名目があるにせよ)そちらを優先したくなってしまったのである。ただし、カチューシャ自身はあくまでも敵隊長の動揺を誘ったまでである。
 続いて試合開始直後、カチューシャは部隊全車輌を疾走させつつ訓示を垂れる。

カチューシャ「行くわよ―! あえてフラッグ車だけ残して、あとはみんな殲滅してやる。力の違いを見せつけてやるんだから」
隊員一同 「「ウラー!」」

 ここで一同「カチューシャ」合唱となるわけだが、試合後半の大洗女子の「あんこう音頭」同様、歌や踊りはチームの気持ちを一つにし高揚させるために役立つ。しかももともと戦時流行歌だから尚更である。しかし、その歌い方には一つ注目すべき点がある。まずノンナが1番を独唱し、続いてカチューシャが2番を途中まで独唱、後半を全隊員で合唱しているのだ。これはたんに画面演出によるものであり、実際には全ての歌詞を全隊員で合唱していたのかもしれないが、もしこの画面の通りの歌い方だったとすると、何らかの意図が感じられる。
 つまり、まずノンナが士気向上の観点からこの歌をチーム合唱歌に選んだ。カチューシャ隊長としては自分の名を呼ぶ歌に悪い気はしないから喜んで歌っているうちに、日頃「ピロシキ〜」などと挨拶するようにあまり真面目に勉強していないロシア語を、いくらか練習できる。そして1番をロシア語と歌唱に長けたノンナがまず歌ってリードすることで、他の隊員たちも引きこまれやすくなる。だが『ソヴィエト・ロシア軍歌集積所』「カチューシャ」歌詞によると、1番の歌詞は岸辺に出てきたカチューシャの姿を、2番ではそのカチューシャから恋人への、つまり「娘が愛する人」である「草原の蒼き鷲」への想いを詠っている。ということは、隊長カチューシャが2番を歌うとき、それはノンナの耳にはあたかも隊長がその可愛い歌声で恋人への想いをたどたどしく訴えかけているかのように聴こえるわけであり、そのうえカチューシャの身辺で「草原の蒼き鷲」という二つ名に相応しい勇者といえばまずノンナだろう。副隊長の士気はだだ上がりである。
 もっとも、いまのノンナは自らの抱える懸念ゆえに歌の余韻を楽しむ余裕はなかっただろうし、今しがたカチューシャが隊員たちに伝えた言葉がその懸念をいっそう深めさせてもいた。「あえてフラッグ車だけ残して、あとはみんな殲滅してやる」というこの余裕かました発言は、隊長の徹底的な攻撃精神や大洗女子への軽侮を指し示すというよりも、カチューシャが「力の違いを見せつけてやる」相手がみほや大洗女子というよりその先に待つ黒森峰のまほであることを暗示している。もっとも、彼女が敵を舐めていることは、プラウダ車輌が冬季迷彩を施していないことからも明らかである。しかし、偵察を派遣したりこまめな食事休息をしたりなどの基本はきちんと守っており、完全に油断しきっているわけでもない。ただカチューシャは、この準決勝戦でみほが「フラッグ車だけ残して、あとはみんな殲滅」などという恥ずかしい負け方をしたならば、決勝戦の相手であるまほの冷静さと高慢さをいくぶん損なうことができる、と考えているのである。

 そしてここからの後退・包囲戦術は、見事の一言に尽きる。2段階の囮で大洗女子の追撃を誘い、そのままフラッグ車を村落へ逃げ込ませることで敵が機動しにくい状況を作り出す。相応に技倆の高いフラッグ車が家屋を盾にしつつ前後に回避運動して砲撃を引きつける間に、大洗女子の後方、右方、左方を全て囲む。みほたちが急いで逃げ込んだホールの建物を砲撃して士気を動揺させたのち、降伏勧告の使者を送って出方を待つ。まさにプラウダドクトリンどおりの絶妙な指揮統率である。
 しかしカチューシャの恐ろしさは、この後退・包囲戦術を容易に成し遂げた能力だけではない。フラッグ車でキルゾーンに誘い込む手順、敵に側面を向けてのフラッグ車の回避運動、そして内装破片を上から注がせるための建物への砲撃。これらは、2回戦後半で大洗女子がアンツィオに対して行ったフラッグ車38(t)による誘導と回避運動、そしてこれに釣られたアンチョビの隙をついた包囲と上方からの砲撃という手順を、ほとんどそのままなぞっているのである。つまりカチューシャは、ダージリン訪問後に大洗女子の大会試合映像を真面目に分析し、直前の試合でみほがアンツィオ相手に行った戦術行動をやり返すことで、みほに自分自身の策略を見破れない愚か者というレッテルを与えようとしているのである。もちろん、このような戦術や回避行動は、どこでも似通ったものになりやすくはある。だが、アンツィオ戦で自信を高めていた大洗女子隊員たちやみほからすれば、ただでさえ被包囲下の恐怖と焦燥に襲われていることに加えて、さらにこのような意趣返しに気づいてしまったならば、確かにその衝撃による自己否定で土下座降伏してもおかしくない。ダージリンによる「プライドを搾取するのが好き」というカチューシャ評の的確さが、ここであらためて理解できよう。
 ところが、この圧倒的優位を確立した瞬間に、カチューシャはやがて後悔することになる手抜かりに及んでしまう。

連絡隊員「カチューシャ隊長の伝令を持ってまいりました。『降伏しなさい。全員土下座すれば許してやる』」だそうです」
みほ   「あ……」
桃     「なんだと……!? NUTS !
連絡隊員「隊長は心が広いので3時間は待ってやると仰っています。では」

 この降伏勧告は、すでに勝利が確定した段階で無駄な弾薬を浪費しないという合理性に基づいてもいるが、むしろ桃が「全員、自分より身長低くしたいんだな」と見て取ったように、やはり敵を見下ろしたい・ひれ伏させたいというカチューシャの個人的欲求の表れでもあるだろう。しかしまた、この降伏勧告の「3時間」という期限指定は、みほたちの無様な姿をできるだけ長時間まほに見せつけることを狙ってもいる。この結果、勝利を最優先するはずのカチューシャは、大洗女子に勝つという目標を達成すべき場としてではなく、決勝戦に有利な状況を作り出すための手段として、この試合をはっきり用い始めてしまっていた。たしかに勝利はほぼ確定したとはいえ、これはどう見ても油断である。

カチューシャ「ねえ。降伏する条件に、うちの学校の草むしり3ヶ月と麦踏みと、ジャガイモ掘りの労働をつけたらどうかしら?」(ボルシチを食べながら)
ノンナ    「汚れてますよ」
カチューシャ「む、知ってるわよ!(差し出されたハンカチで口元を拭く)
         ふう、ごちそうさま。(ハンカチをノンナの方へ投げ捨てつつ)食べたら眠くなっちゃった……」

 大洗女子の降伏を待つ間、カチューシャが他校隊員たちに「土下座」という屈辱的な行為だけでなく、試合後にまで労働罰を課すという思いつきを嬉しそうに語っている。べつにプラウダの指示通りにしなくとも、大洗女子が大会ルールに則って敗北を認めれば試合は終わるだろうし、何も終了後にまでカチューシャの命令に従う必要はない。しかし、カチューシャはさも他校生徒の服従が当然に実現するかのように目を輝かせている。ここでは明らかにカチューシャの誇大妄想が危うい水準にまで及んでいる。ノンナはただやんわりと口元の汚れを注意するだけで返事をしない。カチューシャのお世話をすることはこれまでと変わらぬ楽しい務めであり、また彼女の幼い言動を愛でる気持ちもそのままにある。だが、カチューシャの状態はかつてと変わらぬものではもはやない。

ノンナ    「降伏の時間に猶予を与えたのは、おなか空いて眠かったからですね?」
カチューシャ「違うわ、カチューシャの心が広いからよ! シベリア平原のようにね」
ノンナ    「広くても寒そうです」
カチューシャ「むぅ、うるさいわね。おやすみ!」
ノンナ    (「コサックの子守唄」を歌う)

 時間猶予の理由がカチューシャの空腹かとわざわざ尋ねたのは、ノンナが日頃のお互い甘えあえる関係のままにカチューシャをからかっているわけではない。ノンナはここで、カチューシャの個人的欲求の暴走をいよいよ指摘しているのである。降伏までに猶予を与えるということは、大洗女子にとって苦痛な時間を長引かせるということでもあり、また彼女たちが逆転の手立てを講じるための時間を与えてしまうということでもある。いずれにしても、カチューシャが自らの食欲や決勝戦での悦楽を優先して、手を伸ばせば得られる勝利をあえて掴まずにいることに変わりはない。だからカチューシャが自分の心の広さによるものだと反論したにもかかわらず、再びノンナは「広くても寒そう」と痛烈に切り返す。ここでもカチューシャは不貞腐れこそすれ罰を下すことはないが、隊長がいつものからかいだと感じた以上の意味をノンナはこの言葉に込めていた。カチューシャの心は、本当に凍える荒涼の地となってしまったのだろうか。プラウダ戦車道の覇権からカチューシャによる支配の夢へと、独裁者の広漠たる内面世界を得てしまったのだろうか。思わず口ずさむ「コサックの子守歌」『二木紘三のうた物語』内)のコサックとは、スターリンによる凄まじい迫害に苦しんだ民族のひとつである(もっとも、隊員たちもたき火を囲んでコサックダンスを踊っているが)。それでも、どちらに転ぼうともこの隊長についていく決心は、すでに固めてきたはずだ。
 そんなノンナの心を知らず、カチューシャは眠りにつく。その眠りの間にノンナが「吹雪いてきた……」と呟くとおり、試合場に吹く風は荒れていく。思えば隊長の二つ名は「地吹雪のカチューシャ」であるが、今まさにカチューシャの地吹雪は自らの視界をも遮ろうとしていた。「ブリザードのノンナ」がこの吹雪を阻むことはできず、ただその暴威に自らも加わるばかりである。とはいえノンナの呟きの後、隊員たちが集う各所には焚き火が点っており、食事の支給やとともに体力と戦意を維持するための配慮がなされている。敵だけでなく自然とも戦うプラウダらしい知性のありようを示す光景だが、カチューシャは自分の食事をとり休息につく前にこれらの指示をノンナにすませておいたのだとすれば、彼女は隊員たちを大切にしていないわけではないと分かる。ただ、いまのカチューシャは、本来もつ優しさを上回る衝動に振り回されてしまっているのである。

カチューシャ「で? 土下座?」
ノンナ    「いいえ、降伏はしないそうです」
カチューシャ「ふーん、そう。待った甲斐がないわね。それじゃあさっさと片付けて、おうちに帰るわよ」(目をこしこししながら)

 待機終了時のカチューシャは、土下座降伏勧告を突っぱねられても意外に激高していない。これは寝起きゆえのテンションの低さとも言えるが、もともと彼女が純粋に知的にのみ判断するならば、このように相手の態度にいちいち興奮することなく冷静に、それこそみほのように、現状における最善を考えることができるのである。だが、ここでの隊長にとっての最善とは、自分が敵に与えた3時間の意味(例えば麻子たちの偵察行動についての目撃報告を受けたとして、これによって得た情報がみほにどんな選択肢を与えるかなど)を考えることなく、この包囲時に定めていた作業を淡々とこなすことでしかなかった。

カチューシャ「あえて包囲網に緩いとこ作ってあげたわ。奴らはきっとそこを突いてくる。突いたら挟んでおしまい」
ノンナ    「うまくいけばいいのですが」
カチューシャ「カチューシャの立てた作戦が失敗するわけないじゃない!
         それに第2の策で、万が一フラッグ車狙いにきたとしても、そのときは隠れてるKVたんがちゃんと始末してくれる。
         用意周到な偉大なるカチューシャ戦術を前にして、敵の泣きべそかくのが目に浮かぶわ」

 「偉大なる」。そう自画自賛するカチューシャは、このまま勝利を収めてさらに連覇をものにするのか。そして隊長の暴走は際限ない暴走を続けざるをえないのか。ノンナには止める手立てがあるはずもなく、また彼女自身も大洗女子の取りうる策を他に考えつかない以上は、とりあえず油断を慎むよう促すくらいしか副隊長の仕事はない。ノンナとしてはいよいよ永遠の勝利を支える覚悟を決めるべきこの状況に、まさしく一点突破全面展開で見事な反撃を食らわせたのが、みほ率いる大洗女子の予想を超えた反撃だった。


(2)対大洗女子戦後半(第9話・第10話)

 降伏を拒絶した大洗女子は、まず避難していた建物から全速力で脱出すると、そのままフラッグ車全周防御隊列を組んで突破を図る。その行動を見てカチューシャは「予想通りね。さすが私」と再び鼻を高くするが、しかし彼女が想定していたプラウダ陣営の薄い箇所(カチューシャから見て右側方)を大洗女子は狙わずに、かえってカチューシャたち主力の待つ最も強固な正面へとまっしぐらに突撃した。

カチューシャ「こっち!? バカじゃないの、あえて分厚いとこ来るなんて!」

 すぐさま「返り討ちよ!」と叫ぶカチューシャの戦意は高いが、彼女のあくまで常識的な判断に基づく展開予想はみほによって一手目で覆されてしまった。ここにもカチューシャの秀才ぶりが表れており、そして対アンツィオ戦の意趣返しをされたみほが直ちにカチューシャの戦術判断への逆襲をかけていることも分かる。隊長から具体的な指示を与えてもらう余裕もなく、また夜間の降雪中ということもあり、強襲を受けたプラウダ主力の砲撃はさっぱり当たらず、逆に1輌のT-34/85にすれ違いざまの38(t)の砲撃が命中する。白旗が上がっていないので撃破されてはいないが、火炎発生により味方の目が眩んでしまう。

カチューシャ「やったな!? 後続、何が何でも阻止!」

 この命令の具体性の乏しさは指摘するまでもないだろう。後続車輌群は大洗女子の殿を務める38(t)の神憑かった奮戦によって2輌撃破・1輌履帯破損という大損害を受け、ノンナ車長のT34/85がこれを撃破するまで完全に翻弄されていた。ここではカチューシャは主力を率いて大洗女子本隊の追撃を行っているため、ノンナは後始末をしつつ残存車輌の合流を命じたうえで、自らは搭乗車輌の快速を活かして一足早く主力に追いついている。その頃カチューシャはといえば、すっかり頭に血が上ってしまっていた。

カチューシャ「何やってんのよあんな低スペック集団相手に、全車輌で包囲!」
フラッグ車長「こちらフラッグ車、フラッグ車もすか?」
カチューシャ「アホかー! あんたは冬眠中のヒグマ並みにおとなしくしてなさい!」

 ここでのフラッグ車長の発言はたしかに叱責されても仕方ないが、しかし現時点で大洗女子5輌に対してプラウダの稼働車輌が10輌(15輌のうち前半で3輌・後半で2輌が被撃破)、しかもそのうち履帯破損1輌に鈍重なKV2が1輌ということを鑑みるに、フラッグ車長としては自分以外の7輌で敵を包囲攻撃できるのだろうかと心配になるのも当然ではある。

カチューシャ「なんなの、チマチマ軽戦車みたいに逃げまわって……。機銃、曳光弾! 主砲はもったいないから使っちゃだめ!」

 この命令は、各車輌に積んである徹甲弾の残数を考えての措置であり、機銃を撃つのも(最終局面でみほが敵フラッグ車を射撃させたように)相手が「狙われている」という不安から判断を誤る可能性を高める手立てである。このあたりカチューシャはまだ冷静にも思えるのだが、この鬼ごっこが延々と続く間にしびれを切らせてしまう。

カチューシャ「追え追えーっ!」
ノンナ    「2輌ほど見当たりませんが?」
カチューシャ「そんな細かいことどうでもいいから、永久凍土の果てまで追いかけなさい!」

 もしもノンナがわざと敗北しようとしていたなら、ここで大洗女子2輌の不在を指摘することはなかっただろう。だが彼女はあくまでも副隊長として義務を果たし、危険な要素を的確に捉え報告するが、肝心のカチューシャはすでに戦術的な判断力を失ってしまっている。あれだけ余裕をもって眼前の勝利を引き延ばしていただけに、その勝利が自分の手をすり抜けてどこまでも逃げていこうとするこの事態は、とうてい許せるものではない。しかもその原因が、隊長としての能力を見下していたみほに意趣返しをやり返されて自分のほうが裏をかかれたためとあっては、カチューシャの自尊心はいたく傷つけられている。その事実を直視できないがために、なおさらカチューシャは敵の後ろをどこまでも追いかけてしまう。

IS-2車長  「遅れてすみませーん、IS2ただいま帰参です!」
カチューシャ「きたー!! ノンナ、替わりなさい!」
ノンナ    「はい」

 カチューシャの判断力の低下は、ここでノンナにIS-2の砲手への交替を命じていることにもうかがえるかもしれない。たしかにIS-2の砲撃力は随一であり、その122mm砲弾が当たれば大洗女子フラッグ車の89式はひとたまりもないだろう。だが、いまノンナが搭乗しているT-34/85をわざわざ離れてまでそちらに移る意味があるのだろうか。この副隊長車の砲手はついさっき38(t)を屠ったばかりであり、また1回戦の対ポンプル高校戦の一幕(第6話)でもノンナはT-34/85に搭乗していた。たとえいま砲手を務めている某隊員よりさらに腕が確かなノンナに委ねるつもりだとしても、いま搭乗しているT34/85の中で砲手とノンナが入れ替わればすむ。あるいは遅参したIS-2には(カチューシャ・ノンナ主力による追撃戦に参加していなかったため)まだ十分な数の砲弾が残っていたという事情も考えられるが、ともあれこの搭乗車交替の結果として、ノンナが乗り換えるために一時停止せざるを得なかったうえ、T-34/85よりもずっと低速なIS-2で追撃する羽目に陥った。
 もっとも、この重戦車の砲手となったとたんに大洗女子の2輌を立て続けに撃破しているあたり、さすがは全国に知られたノンナの腕前である。おそらく、これまで2年半の戦いの中でもノンナの砲撃で決着をつけたことが何度となくあったのだろうし、それゆえカチューシャがここでノンナの技に期待したというのは、これまで培ってきた全幅の信頼の証でもある。隊長の余裕が失われ判断力の水位が下がった時、そこにはノンナへの揺るがぬ信頼がいっそうそびえたつ。そして、その期待に速やかに応えるノンナにはもはやためらいはなく、隊長が求める勝利を得ることのみに専念する。たとえ連覇の先に待つ未来への懸念を拭えないとしても、ノンナがカチューシャを裏切って手を抜くことはない。
 大洗女子フラッグ車が危機に陥る一方で、みほもまたプラウダのフラッグ車が単独で隠れているのを発見して強襲をかける。休憩中も見張りを立て、またカップの中身の揺れで異状に気づける練度のフラッグ車搭乗隊員たちだったが、事態の急変に直面してさすがに慌ててしまう。

フラッグ車長「カチューシャ隊長! こちらフラッグ、発見されちゃいましたーどうしましょう? そちらに合流してもいいですか、てか合流させてください!」
カチューシャ「ニェット! 単独で広い雪原に出たらいい的になるだけよ!」
ノンナ    「ほんの少しの時間さえいただけたら、必ず仕留めてみせます」
カチューシャ「というわけだから、外に出ずにチャカチャカ逃げまわって時間稼ぎして! 頼れる同志の前に引きずり出したっていいんだから」

 再び勝利の尾をつかみ直したと感じたカチューシャは、フラッグ車からの悲鳴にも動揺せずに合理的な判断を下せている。KV2がどこまで「頼れる」かは不明だが、少なくともこの重戦車が敵の追撃部隊の前に立ち塞がるだけでも足止めとして十分ではある。しかし期待のKV2はみほたちに一瞬で始末されてしまい(後知恵だが、砲撃するよりも道を塞ぐよう斜行したほうがよかった?)、ついにお互いのフラッグ車をどちらが先に仕留められるかの競争となった。89式をカバーする大洗女子車輌はすべてノンナに撃破され「あとひとつ……」。
 やはりプラウダ勝勢かと思われたそのとき、両校の隊員たちが育んできた主体的判断力の差が表れた。プラウダのフラッグ車は単調な逃走パターンを続けた結果、そのことに気づかれて3号突撃砲による雪中伏撃をくらうこととなったが、フラッグ車長が「あれ、4号しかついてこないぞ?」と察知できたにもかかわらず、操縦手の「エンコしたんじゃね?」という希望的観測で流され、せっかくの判断材料を活かせずに終わった。一方、大洗女子フラッグ車の89式は、ただひたすらバレー部復活へ向けて結束したアヒルさんチームの根性で凌いでいるかに見えるが、実際のところはこの高い士気のもとで巧みな回避運動を繰り返してきていた。つまり、逃走パターンを単調にせずノンナに読まれにくくし、味方による逆襲成功まで粘り続けることができたのである。とはいえ、最後に勝敗を分けたものはもはや運と呼んでも過言ではないだろう。


(3)対大洗女子戦決着(第10話)

 互いの一撃がそれぞれのフラッグ車に同時に命中し、撃破されたのはプラウダ側のみ。ここにプラウダの準決勝敗退が決定した。カチューシャは決勝での黒森峰・西住まほとの再対決を目指しながら、いやむしろ彼女にとって最重要のその戦いを意識しすぎたがために、大洗女子という弱小校に敗れた。それはまた、西住流を立て続けに打破するどころか、前座の妹に逆に倒されたことを意味する。みほ率いる大洗女子は、カチューシャ率いるプラウダの圧倒的な戦力にも、巧みに実行された後退包囲戦術にも、混乱した戦況におけるカチューシャの指揮統率能力と隊員たちの錬度にも、それぞれ屈することなく勝利した。まさに完敗であることを、カチューシャが誰よりも痛切に理解した。

カチューシャ「……!! ……う、うっうっ……ひぅっ……」
ノンナ    「どうぞ」(ハンカチを差し出す)
カチューシャ「あっ ……な、泣いてないわよ!」(そのハンカチで鼻をかむ)

 そしてノンナは今後を予測する。カチューシャの永遠の勝利を支え続けるという無謀な未来は、とりあえずこれで考慮外となった。カチューシャが自らを呪縛した劣等感と支配欲から解き放たれるまたとない機会が、ついに得られたことになる。だが全国戦車道革命論の夢はここに潰え、カチューシャのカリスマはおそらく消失し指導体制は危機に陥るだろう。チーム内外の動揺については後で考えるとしても、何よりカチューシャがこの敗北をどのように受け止めるのか、はたして受け止めることができるのかが、ノンナにとって喫緊の問題である。不確定要素はあまりに多い。カチューシャの劣等感はどんな反応を示すのか。たとえカチューシャが敗北を受け入れたとして、みほは彼女の劣等感を刺激する振る舞いに及ばずにいてくれるのか。カチューシャとプラウダの再起の可能性を決定づけるのは、何よりもこの敗北の瞬間がもたらすものなのである。
 だから、ノンナは誰よりも先に、自分がカチューシャのそばにいることを示した。この敗北の痛みも悔しさもカチューシャと分かち合うことを、これからカチューシャに何が向かってこようとも自分がそばにいることを、身をもって示した。孤独な涙を流させることなく、自分が支え続けることを示した。ノンナが愛しいカチューシャに伝えるべきこと、伝えたいことはいまこのわずかな時間にすべて伝えた。次はカチューシャが行動する番である。

 そんなノンナに、カチューシャは「泣いてないわよ!」と強がってみせ、まずは隊長として毅然と振る舞う覚悟を示した。大泣きしてノンナにすがりつくのでもなく、素直に負けを認められず駄々をこねて暴れるのでもない。プラウダを率いる隊長としての務めを果たすべく、涙をぬぐい洟をかんだカチューシャは勝者のもとへ向かう。ただし、ノンナの肩車で。このときカチューシャの心中では、敗者としての劣等感が当然のことながら渦巻いている。本来の弱気が顔を覗かせようとしている。それらを小さな体の中に抑えこみ、そしてそれらの弱さを覆い隠すための攻撃性をも封じ込めるために、いまカチューシャは全力で自分自身と戦っている。この恐るべき内的二重包囲の戦いに挑んでいるカチューシャを、ノンナは肩車によって支え、ひとまずは目線の高さとともにその温もりによって隊長を安心させようとする。ノンナに無言で勇気を鼓舞されて、カチューシャは肩の上からみほに語りかける。

カチューシャ「せっかく包囲の一部を薄くして、そこに引きつけてぶっ叩くつもだりだったのに。
         まさか包囲網の正面を突破できるとは思わなかったわ」
みほ     「私もです」
カチューシャ「え?」
みほ     「あそこで一気に攻撃されてたら、負けてたかも」

 カチューシャは、自分の目論見を逆手に取ったみほの能力と意志を、いくぶん遠回しにだが正直に称えた。これに対してみほは、その選択が最終的な敗因となっていたかもしれないことを素直に告白した。たしかにあの突撃のすれ違いざまに集中攻撃を受けていたら、そのうちの一発が命中しただけで89式は撃破されていただろう。自らの指揮官としての能力を誇示するでもなく、敗軍の将カチューシャと自分を引き比べるでもなく、ただ事実を認めて微笑みながら反省した。そのあけすけにすぎる素直さにカチューシャは驚き、みほの内では敵・味方という区分や優・劣という評価基準がつねに働いているわけではないのだとあらためて気づいた。

カチューシャ「それはどうかしら」
みほ     「え?」
カチューシャ「もしかしたら……」

 そして、みほの素直さに触れたとき、カチューシャもまた自らが備えている冷静な分析能力を自分自身に向けてためらいなく働かせることができた。「一気に攻撃」と言うが、大洗女子の正面突破時にその準備をしていたならば、みほは今度は戦力を集中させすぎたプラウダ包囲網の薄い箇所をもっと簡単に突破してしまったかもしれない。いずれにしても、みほの取りうる選択肢をごく常識的に、つまり自分が見下せる範囲内で予測してしまっていたことが問題なのであり、その根本が変わらないかぎりカチューシャはみほに対応できなかったはずなのだ。さらに言えば、みほが「あそこで」と語るとき、カチューシャの脳裏に浮かぶのは試合再開直後の場面だけではなく、建物内に大洗女子を追い込んだあの決定的瞬間でもある。それこそ降伏勧告などせずに「あそこで一気に攻撃」しておけば、誰が見ても勝利は確定していたのだ。これもまた、決勝戦を第一に考えていたカチューシャの足元をすくわれた格好であり、彼女もそのことを正面から見据えて自省した。見下していては見えないものが、自分の外にも内にもあった。

カチューシャ「と、とにかく、あなたたちなかなかのもんよ」
みほ     「ぇぁ……」(目を瞬いて)
カチューシャ「い言っとくけど、悔しくなんかないから! ノンナ」
ノンナ    「はい」(カチューシャを下ろす、カチューシャ手を差し出す)

 カチューシャは、この好敵手を認めた。隊長みほだけでなく、大洗女子の隊員「たち」が「なかなかのもん」だと認めた。自分を、自分たちを破るに足るだけの実力を備えた強豪であることを認め、その源がどこにあるかをつぶさに見て取った。「悔しくなんかない」というのは負け惜しみでもあり、敗北の理由に納得できたという証でもある。だからカチューシャは、ついにノンナの肩の高みから下りて自ら雪上に立ち、みほの顔を見上げて、手を差し出す。劣等感に脅かされて虚勢を張るのではなく、副隊長の支えを借りずに背の低い自分をそのままさらけ出して、今回の負けを負けとして素直に認め、隊長として堂々と勝者を称えようとする。ノンナは独り歩きし始めたわが子を見守る母のように黙って後ろに控え、地に足つけたカチューシャのこの勇気にみほがどのように応えてくれるかを、みほの顔を見つめて固唾をのんで待つ。
 そして、みほは。

みほ     「あ……んふ」

 みほは一瞬虚を突かれながら、すぐに嬉しそうに手を差し出した。そう、
身を屈めることなく背を伸ばしたまま。ありのままのカチューシャをそのまま受け入れ、自らも身を高くも低くもせずに自然体でカチューシャに向き合い握手した。みほはカチューシャを見下すことなく、ただ戦車道をともに楽しむ仲間として、よい試合を戦った隊長同士として、敬意と友情をもって相対した。プラウダ戦車道はその誕生以来、伝統的戦車道を見下しながら、いわば望んで見下される戦術を選んできた。カチューシャは周囲に見下されることを拒むあまりに、あらゆるものを見下す態度を頑なにしてきた。しかし、みほとの握手の瞬間においてカチューシャは、ついによき競争相手たる友達との対等な関係を、そして自分自身をありのままに受け入れられる自尊心を、戦車道のうちに獲得したのである。

カチューシャ「決勝戦、観に行くわ。カチューシャをがっかりさせないでよ?」
みほ     「はい!」

 最後まで堂々たるカチューシャの後ろ姿を見つめながら、ノンナの胸に去来するものは何か。カチューシャは己との戦いにひとまず勝利し、いつもの不敵な笑みも戻った。ノンナはこの試合に敗れたが、この試合での途方もなく大きな賭けにひとまず勝った。今後カチューシャは、試合の勝敗にこれまでのように拘泥することなく、また飽くなき支配欲に突き動かされることなく、隊長の務めを全うできるだろう。ただし、それは隊員たちや学園艦関係者たちがカチューシャのカリスマ失墜を受け入れ、さらに自分たちが部隊の維持と後継者育成に成功すれば、の話である。むしろ始まったばかりのこの戦いにどう挑むのか、難問を心に秘めながらとりあえずノンナは懐中の、カチューシャが口元をふき洟をかんだハンカチに思いを致す。


(4)決勝戦観戦(第11話―第12話)

 約束通り決勝戦を観に来たカチューシャとノンナだが、試合前のみほを表敬訪問する二人の柔らかな笑顔を見るかぎりでは、プラウダ帰艦後にさほどの騒動はなかったかに思える。

カチューシャ「ミホーシャ!」
みほ     「あ、」
カチューシャ「このカチューシャさまが観に来てあげたわよ。黒森峰なんかバグラチオン並みにボッコボコにしちゃってね!」
みほ     「あ……はい」
カチューシャ「じゃあね、ピロシキ〜」
ノンナ    「ダスヴィーダニャ」

 カチューシャは自分たちを破ったみほと大洗女子への屈託ない応援を言葉にしており、黒森峰「なんか」という言い回しも以前の「去年カチューシャたちが勝ったところ」という敵愾心と見下しまみれの表現とは明らかに異なる単純な響きしか伝えない。しかし、ここで気になるのは、この二人以外のプラウダ隊員は観戦に同行していない、という事実である。画面に描かれていないだけでちゃんと来ているのかもしれないが、少なくとも隊長・副隊長の話を聞ける位置では観戦していない様子である。結局、決勝戦までのわずかな期間では、後継者と目される下級生隊員を選び出せなかったということだろうか。また、先ほどの試合前の挨拶から試合終了後の表彰式までずっと、ノンナがカチューシャを肩車したままであることにも注意したい。試合中継モニタを観るために肩車の上からのほうが都合いいという解釈は、聖グロやサンダースの面々が普通に椅子に座って観戦していることからも否定される。すると、カチューシャがノンナに肩車してほしかったから、というのが理由となるだろう。最初はお祭り気分ではしゃいでいたにせよ試合中ずっとというのは、ひとたび自分の足で立つ決意を固めたカチューシャにしてはずいぶん退行したかに見える。
 いや、退行というのは一面的にすぎる。敗戦以来ずっと自分の足で立ち続けてきたからこそ、今日このときだけは隊員たちの目につかない場所で、カチューシャはノンナに遠慮なく甘え、ノンナも喜んで受け止めているのだ。帰艦後にカチューシャは敗戦の将としての義務を果たすため、やりたくない仕事をノンナたちに委ねることなく自らこなしてきた。ノンナもまた、そんな隊長を副隊長として支え、とくに全国戦車道革命論を未だに声高に叫ぶ者や隊長の責任を必要以上に糾弾しようとする者からカチューシャを全力で守りぬいた。前年度優勝の立役者をそうおいそれと非難し続けられるものでもなく、また学園としても再び穏当な戦車道に立ち戻るほうが教育行政との関係上好ましいに決まっているため、ノンナが後ろ暗い手段に及ぶ必要もなかったが、それでもカチューシャにしてみれば一連の処理は相当にしんどいことだっただろう。それでも胸を張って務めを果たす隊長の姿勢を副隊長は尊重し、あえて補助しすぎないよう配慮した。それはカチューシャにとって忍耐の日々だったが、彼女を見守るノンナにとっても我慢に我慢を重ねていたのである。それゆえ、学園艦を離れて二人だけでいられるこの決勝戦こそは、カチューシャもノンナも安心して互いに甘えられる貴重なひとときであり、最初から最後まで肩車し続けたくなったのもうなづける話ではあった。
 この久方ぶりの雰囲気のなか、カチューシャとノンナは大洗女子の戦いぶりに見入る。

カチューシャ「そっか。 みんなで引っ張ってたのね、ポルシェティーガーを! ……(はっ)ゴホン」

 試合前半に高所を確保しようとする大洗女子の行動に、カチューシャはノンナの肩の上で前後に揺れながら大はしゃぎし、ふと我に返ってやや赤面する。しかし、ノンナはあくまでも無言で無表情のまま、カチューシャの子供っぽい振る舞いをまるで気にしていないかのようだ。これは、毎度のことなのでいまさら反応するまでもないということなのか。内心大喜びしているのだが表情に出すのをこらえていたり、首裏の感触に全ての意識を集中したりしているのか。あるいはノンナは、この決勝戦で大洗女子が結果を示せるかどうかに思いを巡らせていたのかもしれない。カチューシャのように純粋に大洗女子を応援する気持ちだけでなく、ノンナにはみほたちに黒森峰を破って優勝してもらう必要があった。プラウダに勝利した大洗女子が黒森峰をも倒したならば、その優勝校に敗れたカチューシャはぽっと出の弱小校に負けたわけではないということで、プラウダ学園艦内の批判者や教育行政側の評価者を沈黙させられるからだ。しかし、試合開始早々に三式を撃破された大洗女子は、ただでさえ大きな戦力差をさらに不利なものにしていた。いくらみほが優れた指揮官だとしても、はたしてこの劣勢下で主導権を奪いかえせるのだろうか。高所を確保できたとしても未だ黒森峰に損害が出ていない状況で、ノンナはカチューシャのはしゃぐ声に調子を合わせることはできなかった。
 その態度が変わってくるのは、丘の上から有利な攻撃をかける大洗女子が黒森峰重戦車の装甲と火力に押され始めたとき、ヘッツァーの攪乱によって再び攻勢に転じたあたりからである。

カチューシャ「おっもしろーい! 次から次へとよくこんな作戦考えるわねー……う、うぉっとと」(バランスを崩しかけ慌ててノンナの頭にしがみつく)
ノンナ    「これで、17対7ですね」

 はしゃぎまくるカチューシャに、ノンナも冷静にだが相槌を打つ。まだ黒森峰優位は変わらないが、立て続けの損害と隊員たちの動揺が戦力比を縮めさせようとしている。一方の大洗女子はいつもながらに統率よろしく、敵の大軍を翻弄しつつある。渡河中にM3がエンジントラブルに見舞われたときも、みほの八艘跳びでさらに士気を高揚させつつ乗り切った。その様子を食い入るように見つめるカチューシャに、ノンナが今回初めて軽口をたたく。

ノンナ    「カチューシャには、あんなことできないなーって思っているんでしょう?」
カチューシャ「違うわよ!」(口をとんがらがせて膨れる)

 これはいつもの愛情を込めたからかいであるとともに、カチューシャの思いをとらえて寄り添うノンナの繊細さの表れでもある。たしかにカチューシャにはみほのように戦車を跳び渡ることはできないし、これを指摘することは彼女の小柄な体格を揶揄することにもなるのだが、ノンナもカチューシャもそのことにはこだわらない。身長の低さで劣等感に苛まされることはもうないのだと二人とも知っているからであり、ここでのやりとりはそのことの確認を分かち合うことでもあった。
 しかしまた、みほにカチューシャが看取したものは、自分がこれまで隊員たちに示してこれなかった、自らの身をもって隊員たちをかばい守り慈しむ隊長の姿だった。そんなみほに救われたウサギさんチームの1年生たちは、隊長の慈愛に感激の涙をこぼし、その報恩の念でやがて黒森峰駆逐戦車群撃破を成し遂げることになる。このような隊長と隊員たちの関係を、カチューシャは知らずにいた。たしかに彼女も彼女なりにプラウダの隊員たちを大切にしてきたつもりではある。だが、みほのように示せていたかといえばそうではない。もちろん以前までとは異なるはずの自分だが、たとえみほのように振る舞いたいと思っても、カチューシャにどこまでできるものなのか。あれが理想的な隊長なのだとすれば、小さなカチューシャには届かない高みということなのか。
 いいえ、とノンナは無言で答える。「カチューシャには、あんなことできない」のだとしても、それが事実なのだとしても、そのことでカチューシャが諦めたり自分を見下したりする必要はない。カチューシャがみほのよさを真似できないように、カチューシャにはみほが真似できない魅力や、隊長としての独特な長所がある。だいたい、みほがプラウダ隊長だったらノンナはここまで尽くしていない。そして、試合開始からずっとはしゃいでいながらもみほの指揮統率ぶりに当たり前のように目を向けているカチューシャの姿勢は、まさに隊長に相応しい資質にほかならない。
 しかし、ノンナはカチューシャに、大丈夫ですよ、とはあえて言わない。カチューシャが自分のこれまでを反省し、これからについて思い悩んでいるいまの大切さを、深く理解しているからである。誰かを打ち負かすためでなく胸を張りあうために、さらなる高みへの素直な憧れを抱きはじめたカチューシャは、自分で考え、自分で突破口を開くだろう。その力が彼女にあることをノンナは確信している。だからノンナは必要以上に助けを出さず、カチューシャが自力で頑張れるように配慮する。それに、たとえ言葉に出さずとも、ノンナがこれからもカチューシャを大事にし支え続けることは、肩車する二人の間で疑いなく伝わっている。そんな安心感とカチューシャへの愛情が、口をとがらせたカチューシャの反論を聞くノンナの微笑みにこぼれ出ている。

 試合後半、市街地に移動した大洗女子を待ち受けていた超重戦車の登場に、カチューシャは「来ちゃった……マウス……!」と息をのむ。それは常識的に考えて大洗女子の戦力では撃破できない存在であり、またカチューシャにとっては劣等感をうずかされる巨大で攻撃的な他者の象徴でもある。だが、みほの柔軟な発想と隊員たちの統率のとれた行動によって、大洗女子は多大な損害を出したものの見事撃破に成功する。マウスに突撃を敢行したヘッツァーの勇姿にカチューシャが「わーお!」と目を丸くしたのは、その無謀にすぎる戦いぶりに驚いただけでなく、まさしく小さいものが巨大なものを倒さんとするその姿に自らを重ねて見たためかもしれない。それはカチューシャ率いるプラウダの今後を示唆する光景ということではない。むしろ、これまでカチューシャが周囲の偏見に挑んできた反骨の精神を、肯定してくれるかのような一瞬だった。彼女のこじれた劣等感が解消され、ハリネズミのような攻撃性が止んだとしても、今まで自分を周囲に認めさせようとしてきた努力そのものは、決して否定されるものではない。それもまた、カチューシャのありのままのよさであり、彼女をプラウダ隊長にまで引き上げてきた固有の力だったのだ。
 そうしてついに西住流家元の姉妹による一騎打ちを迎え、長い試合に決着がついた。優勝旗を掲げる大洗女子隊長みほの姿に、カチューシャもノンナも惜しみない称賛を送る。

カチューシャ「ハラショー!」
ノンナ    「パストラブリャーユ!」

 みほ率いる大洗女子の勝利に、カチューシャは心から喜びその気持ちを表す。ノンナもまたその喜びを共有しつつ、カチューシャとプラウダの面目が保たれたことに安堵する。たった二人による祝福だが、そこにはカチューシャとプラウダ戦車道を救ってくれた恩人への万雷の拍手が鳴り響いていた。
 得るべきものを得た二人は学園艦に戻り、再び彼女たちの戦いに挑む。部隊の管理運営と雰囲気の改善、後進育成、ドクトリンの見直しなど、山積みの課題はまだ端緒についたばかりである。だがカチューシャは自分の足で進むと決めた。OVA第6話「エンカイウォー!」では、優勝祝賀会を開く大洗女子一同のもとにカチューシャからの祝電が届いていた。「モスクワは涙を信じない。泣いても負けたっていう現実は変わらないから。もっと強くなるように頑張るわ」という短い言葉には、カチューシャが自らの幼さを乗り越えていこうとする意志がはっきりと語られている。しかし、それゆえに苦難の道は続く。戦車道においても、また相変わらずロシア語の決まり文句も覚えていないあたりからして日頃の学業においても。わがままで甘えん坊なカチューシャがすぐに独り立ちすることは無理だろうが、彼女のおぼつかない歩みをそっと支え、時には肩に乗せてやることが、ノンナのこれからの楽しみとなるのだろう。いずれにせよ、ノンナは今回もまた個人的欲求における勝利を獲得したのだった。



4.決勝戦以降の改革努力


 TV本編をもとにしたプラウダ考察は以上で終わるが、すでにお気づきのとおり多くの問題が未解決のまま残されている。その後の隊員たちはカチューシャ指導体制をどう受け止めたのか。後継者の指名と育成はとうとう進展しないままなのか。カチューシャとノンナの間のいわば親離れ・子離れは順調に進んだのか、などである。稿を結ぶにあたり、大会終了後を描いたドラマCDを手がかりに確認しておこう。


(1)CD『今度はドラマCDです!』収録「プラウダvsサンダースです!」

 ここでは、みほやダージリンたち観戦のもとでカチューシャ率いるプラウダとケイ率いるサンダースが練習試合を行っている。ここでの注目点は2つ、両校の戦術上の工夫の試みとカチューシャ・ノンナ関係の描写である。
 戦術面について見ると、ノンナが「あの一戦は、学ぶことが多かったです」と述べるとおり、両校隊員たちは対大洗女子戦から多大な影響を受けた。その結果、カチューシャもケイもこの練習試合では戦訓を取り入れつつ、それぞれの伝統的ドクトリンの固定化からの脱却を試みることにした。プラウダはまず一列縦隊で中央突破へ吶喊し、みほに「まるで、私たちのやり方を真似ているみたい……」と呟かせる。しかしそれは、準決勝戦後半での大洗女子の突破行動を単純に模倣したものではない。「中央突破と見せかけてー、」(優花里)「どこかに予備兵力が」(ダージリン)との予想どおり、後方からのIS-2による砲撃と同時にプラウダは散開して両側に分かれる。T-34/76を前面で囮にし、「85とスターリンが遠距離から砲撃」するというのがカチューシャによる新たな試みであり、しかもこれは偶然にも「サンダースと考えは一緒」だった(アッサム)。両校ともに大洗女子得意の乱戦に持ち込むふりを見せながら、じつは自隊の長所である遠距離大火力投射能力を機動力と結びつけて、大洗女子の模倣を超えた独自の戦術を切り開こうとしているのである。ここに、カチューシャがみほに学びつつプラウダの特徴を活かそうとする姿勢を、はっきりと受け取れるだろう。
 ただし、この後方火力に支援された機動戦という試みは、しばらくの間は小隊・中隊レベルでの分断・各個撃破をお互いに目指していたものの、両校の戦力・練度がほぼ同程度ということもあり、統制困難な大乱戦に陥ってしまう。やがて両校の後方支援能力の鍵を握るノンナとナオミが相討ちとなり、打つ手に困ったカチューシャは「んっくっぐぐぐ……全軍、敵フラッグ車へ突撃!」と最後の命令を下す。これはノンナ離脱によって戦術的柔軟性を失った局面で、しかし相手もまた火力支援を奪われたと判断しての飽和攻撃命令ではあるが、冷静に振り返ると政治将校による無謀突撃の雄叫びにも聞こえてしまい、こういう不慣れで煮詰まった状況下でのカチューシャの指揮統率能力にはまだまだ成長の余地が残されていると想像される。
 一方、この練習試合を通じてカチューシャは、ノンナにひたすら甘えている。試合開始前にカチューシャはアリサに舌戦を挑んだものの返り討ちをくらったため、自分を置いてケイと挨拶を交わしていたノンナのもとに「ノンナ、助けてー!」と泣きつく。背の低さをからかわれたことを訴えて、ノンナに「同志カチューシャは小さくなんてありませんわ。周りの人達が無駄に大きいだけです」と慰められたりもしているが、これは決勝戦観戦時とは異なり明らかに退行しているのではないだろうか。
 しかし、カチューシャは以前のように相手を選ばず噛みついたわけではない。選んだのはアリサ、つまり1回戦で大洗女子に対して通信傍受を行った副隊長ただ一人である。「は? サンダースがフェイアプレイ?」とも揶揄しているとおり、カチューシャはアリサのあの企てをまったく容認していない。プラウダの「下品」な戦い方は、あくまでもルールと慣習の範囲内でのみなされるのである。これを逸脱して憚らなかったアリサに対して攻撃的に振る舞うことを、カチューシャの退行と呼ぶのはいささか不適切だろう。
 また、カチューシャがノンナに泣きつくのは、たしかにアリサにやり込められた悔しさからでもあるが、同時にプラウダ隊員たちのことを「田舎者」と見下されたからでもある。見下しに過敏に反応するのはかつての習癖だったが、ここで嘲笑の対象となっているのはカチューシャ個人ではなくプラウダ全体である。ノンナに「それとも同志カチューシャは我がプラウダ校がお嫌いですか?」と尋ねられて「ううん、大好き」とためらいなく返答しているように、カチューシャは自分だけの劣等感に左右される段階から、仲間たちへの情愛を隊長として自然に示せる段階へと、自覚的に進んでいるのである。
 もっとも、先ほど見たようにノンナにしがみつくさいの理由は背の低さを笑われたことだったわけで、カチューシャがその手の劣等感を完全に克服できたわけではもちろんない。ただし、ここで注意しておきたいのは、以前ならたちまちノンナに肩車させた高みからアリサめがけてしゅくせーのご託宣が下されたはずのこの状況でも、カチューシャがその衝動を我慢してノンナに愚痴を聞いてもらうだけですませていることである。必要以上の喧嘩はせず、不平不満や辛い気持ちはおうちに持ち帰ってノンナに受け止めてもらう。これもまた、いかにも幼いながらカチューシャが自分自身の衝動を統御しようとする努力の一端を物語る姿と言えるだろう。そして、カチューシャがこの場面でノンナに助けを求めたのは、もう一つ重要な理由あってのことだった。

カチューシャ「それよりなんだ、やたらと向こうの隊長と仲良くして」
ノンナ    「試合前の親睦は必要です」
カチューシャ「それにしたって、カチューシャより仲が良さそうな」
ノンナ    「当然、同志カチューシャの方が上ですよ」
カチューシャ「……ならいい」

 そう、やきもちである。まるでお母さんがよそん家の子と親しく話しているのを見てのやきもちである。友達が大勢遊びに来てくれたのは嬉しいが、しかしそれだけは許せない。だからカチューシャはノンナに助けてもらおうと泣きつきながら、同時にそのことによってノンナをケイから奪い返したかったわけなのだ。このあたり、ノンナは決勝戦以来ほかの人達の前ではカチューシャと適度な距離を保つことに配慮してきたのかもしれないし、あるいはカチューシャが自分を頼ってくることを予期してあえてアリサとの舌戦を放置していたのかもしれない。いずれにせよ、カチューシャは彼女なりの努力を重ねながらも、いざとなればノンナに頼る傾向を変えてはおらず、やはりここでもノンナの個人的欲求面での勝利は継続中だった。しかもそのことがカチューシャの成長に悪影響を及ぼしていないことは、試合終了後に彼女がケイと自然に握手を交わしていることからもうかがえる。例えばそれは、公園の幼児が母親から少しずつ離れてはまた戻ってくることを繰り返しながら、だんだん遠くへ行けるようになる姿にも似ている。試合結果が「引き分け」ながらカチューシャが満足気なのは、戦車道を競い合う他校の仲間たちとの対等な関係のなかで、彼女たちから学びながらもプラウダらしさをいっそう発揮していこうとする隊長の務めに、あらためて誇らしさを抱いたためかもしれない。


(2)ドラマCD『あんこうチーム訪問します!』収録「夜行列車は通ってないのか」

 プラウダ学園艦を麻子が訪問しているこのトラックでも、カチューシャはノンナにさんざん甘えている。というより、だいぶ悪化してさえいる。その原因は何よりも、カチューシャが欲求不満を抱えて甘えたくなるようにノンナが仕組んでいるせいである。自覚的に細工しているあたり、先ほどのサンダースとの練習試合に比べて相当にたちがよろしくない。
 ここでカチューシャの欲求不満を募らせるためにノンナが用いるのは、麻子の存在である。この客人をノンナは丁寧にもてなし、細々と言葉をかわすわけだが、そのたびにカチューシャが説明に失敗したり何だりという機会がわざわざ設けられる。そうして不満が溜まっていくうえにノンナが麻子ばかりをかまうもので、ついにカチューシャは頬をふくれさせてしまうのだが、そのときノンナの表情はお供のニーナとアリーナによれば「目が笑ってらぁ……」「「おっがねえー!」」という代物だった。やがてカチューシャは「カチューシャのノンナなのに……」と拗ねるに留まらず、ついにノンナが麻子を肩車するに及んでは我慢の限界に至ってノンナの袖をつかんでしまう。

ノンナ     「どうかしましたか、カチューシャ?」
カチューシャ「そこ、カチューシャの場所……」
ニーナ    「ノンナ副隊長が!」
アリーナ   「今まで見たごとね、たまげた笑顔に!」

 これを受けてノンナはカチューシャを肩車し、その満足気にはしゃぐ姿にまたもや「なんが黒いオーラが見えそうな」「たまげた笑顔」を浮かべるのである。このような煽りは、いくらノンナとはいえさすがにやりすぎではないだろうか。また、せっかくカチューシャの自立の歩みを見守ってきたはずなのに、これではまったく元の木阿弥ではないか。
 だがこの一連の行動は、ノンナがカチューシャにやきもちをやかせ甘えてもらうという個人的な目論見のみならず、そのことによって初めて可能となる重要な計画のための準備にほかならなかった。そもそも麻子がプラウダ学園艦を訪問したのは、学園生活やその環境を見学することに加えて、戦車道の日々の訓練などを視察するためでもあった。ようやく訓練の光景を眺めてみると、手旗による円滑な命令伝達など日々の成果が見てとれはするものの、麻子の目にはその課題が明らかだった。隊員たちが「指示通り動いてるだけ」なのである。カチューシャは「う……そ、そんなことないんだから」と思わず否定するものの、ノンナは「と言いたいところですが、実際そうです」と自分たちの至らなさを認める。そこでカチューシャもその問題は認めたうえで「み、みんな頑張ってるけど、ただ、ちょっと自分で判断するのが苦手なだけなんだから」と、隊長として隊員たちをかばう発言を試みるが、そこでノンナは「来年以降が心配ですね」と鋭く本題に切り込んでいく。
 要はここなのだ。プラウダの後進育成は、次代隊長候補が見つからないうえに隊員たちの主体的判断力が乏しいという、じつに解決困難な問題を複数抱えている。このうち隊長候補はカチューシャ・ノンナ引退を控えているこの時期では最も急ぐべき案件のはずだが、しかし隊員たちの主体性がおしなべて低調な状態では、そもそもリーダーシップを発揮できる者など隊員たちの中にいるわけがない。そこでノンナは取り組む順番を入れ替えて、まず隊員たちに自由度を与えて自ら考え行動するように促し、そこで今後の可能性を感じさせた者たちを候補者として選抜・育成する、という計画を立案した。しかし、この方針転換はいきなり実施すればこれまでの強権的なカチューシャ・ノンナ指導体制を解体しかねないものであり、かといって漸進的に試みていくだけの時間的余裕はない。また、隊員たちに絶対的な命令を下し続けてきたカリスマ隊長カチューシャとその忠実なる副官ノンナが、いまになって隊員たち自分で考えて行動してみろと指示したところで、隊員たちは二人の顔色をうかがうばかりで何もできず、その結果カチューシャが堪忍袋の尾を切らせてしまうかもしれない。しかもそれ以前に、カチューシャにこの方針変更を納得させること自体が意外に難しい。ノンナはカチューシャのやり方をあまり表立って批判したくないし、ノンナ自身も隊員たちがどうすれば自分たちで考えるようになるのか思いつかないからである。しかし、隊員たちの誰かに進言させるという手も、そこまで気概があり隊長に聞く気にさせる者がいるわけでなし、また短期間ではこの転換がうまくいかないことは容易に想像つくため、そのとき責任追及されるのがこの隊員では不憫にすぎる。
 そこで、部外者の麻子の出番である。麻子は大洗女子優勝の立役者の一人であり、カチューシャに対して忌憚のない意見を言ってくれる性格と鋭い頭脳の持ち主である。彼女がプラウダの問題点を指摘し、その改善策について提案してくれたなら、カチューシャはわりあい素直に耳を傾けるだろうし、万一の場合でもノンナや隊員に被害が及ぶことなく別の方針に切り替えることができるのだ。

麻子     「ふーん。機会を与えてみたらいいんじゃないか? うちも大体の作戦は決まっているが、
        実践ではわりと各車輌に任せているぞ。そういうやり方もあるんじゃないか?」
カチューシャ「そっか。そうかも……でも、そんなアドバイスしてもいいのマコーシャ?」
麻子     「ま、ケーキのお礼と思ってくれ」
ノンナ    「そうですね、面白いかもしれませんね」
カチューシャ「……やらせてみる」
麻子     「下級生同士で、他の学校と練習試合とかしてみたらいいんじゃないか?」
ノンナ    「それはいい考えですね。ニーナ、アリーナ、あなたたちが司令官になって大洗と対戦しなさい」
ニーナ    「え! わたし達が!?」
アリーナ   「司令官ですか!?」
カチューシャ「そうよ、自分達がカチューシャだと思って試合に臨みなさい」
ノンナ    「そうですね、偉大なるカチューシャの名を汚さぬように」
ニーナ    「やっぱりおっがねー……!」
アリーナ   「んだんだ……!」

 ノンナの計略は見事に成功し、麻子の助言をカチューシャは受け入れた。その瞬間を逃さずに、ノンナはたちまち隊員たちに指揮官としての練習試合を命じ、この方針を既成事実化した。この場にわざわざニーナとアリーナをお供に連れて来ているあたり、ノンナとしては一応この両名に可能性を見ているのかもしれない。ともかくも、ここで麻子はノンナの期待に応えてプラウダにとっての価値あるお土産を残してくれた。彼女の言葉はあの大洗女子あんこうチーム操縦手の提言として隊員たちに伝えられ、カチューシャのお墨付きをもって実行に移されることになる。もっとも、最後のやりとりのようにカチューシャ(というかノンナ)による威圧的な空気はなかなかすぐに変わるものでもなく、下級生たちがのびのびと自主的に行動し始めるにはしばらく時間が必要だろう。
 しかし、たとえ失敗を重ねたとしても、この発案者が麻子である以上はプラウダ内部で責任問題が生じることはない。また指揮統率の難しさを痛感した隊員たちがそのまま萎縮してカチューシャの指揮に黙従してしまうのではなく、自ら積極的にカチューシャ教えを請うようになれたとすれば、それは今後の後継者育成にとって大きな一歩となり得るし、同時に隊長引退を控えたカチューシャも戦術・指揮の大先達として鼻高々に後進を指導することができる。そしてもしかすると、カチューシャが今までその優れた頭脳の中で完結させていた指揮官としての思考法を、後進育成のため言語化していく必要に迫られることで、これを筆記し整理するノンナの手でプラウダのドクトリン改訂が可能となるかもしれない。ここまで至れば、カチューシャに匹敵する次代隊長など期待できないとしても、今後のプラウダ隊長が参照すべき知の体系を大きな財産として残していけることになる。二人で完結してしまっていた指導体制の負の面に対する、これがノンナなりの償いでもあるだろうか。
 いや、そこまで殊勝な副隊長ではない。麻子に提言してもらいたいだけであれば、なにもカチューシャをあんなに欲求不満にさせる必要などなく、すぐに訓練を視察してもらえばそれで済んだはずだ。しかし、麻子を「マコーシャ」と呼ぶくらいに好感を抱くカチューシャが、麻子の的確な提言を聞いてその親愛の情をさらに深めてしまっては困るのである。ほどほどの友愛でとどめておいてもらわねばならぬのである。だからこそノンナは麻子を異常なまでに持ち上げ親しげに振る舞い、カチューシャにやきもちを焼かせることによって麻子よりもノンナを求める姿勢をかえって強固なものとしておくことが、訓練視察に先立って不可欠な手続きでもあり、またノンナにとっては麻子来訪の機会を利用したもう一つの目的でもあったのだ。見よ万国のガルパンファン、このようにして
ノンナの個人的欲求は永遠の勝利へと前進するのである。



おわりに

 以上、プラウダの現指導体制の問題とその改革の方向性を中心に検討してきたが、カチューシャ・ノンナにとっての後継者育成やその基盤となる隊員たちの自主性の教育などは、文字通り端緒についたばかりと言える。とくに隊員たちが優れた隊長たちの指示に無条件で服従する態度をどれほど変えていけるかは、最重要であるとともにきわめて困難な課題となっている。もしかすると、この隊員たちの態度を変えるための起爆剤としてロシアから戦車道留学生を招聘し、クラーラが新たに加わることになったのかもしれない。カチューシャとノンナを前にしても委縮せず、ロシア本国の訓練を身につけたベテランとして、クラーラが隊員たちに与える影響はさまざまに期待できるだろう。今後しばらくは試合敗退が重なるとしても、後輩たちがそこから立ち上がるための準備をノンナは着実に続けてきた。
 そしてそもそも、プラウダの隊員たちはこれまでの間もカリスマ隊長の命令に黙従してきたわけではない。OVA第5話「スノーウォー!」では、待機中のニーナが優香里たちに「食べだら寝るなんて、子供ですよねー」と隊長のことを語っていた。また、ドラマCD4『月刊戦車道 戦車女子特集します!』収録「突撃!隣の戦車女子 14:00 プラウダ高校」では、大会終了後も続くカチューシャのわがままに対して、下級生たちが正直に愚痴をこぼしている。カチューシャの昼寝にあわせての授業開始遅延について、ニーナとアリーナは「そのせいで私たち、家っこに帰るのが遅くなっちまうんだー……」「昼休みばっかし2時間半もあったって、困るべよ……」と呟いているのだ。隊員たちもカチューシャに少なからず思うところはあり、それを隊長・副隊長に聞こえてしまう場所で(つまり罰がただちに下されてしまう危険を承知で)口にする程度の自己主張は持ち合わせていた。あるいは、カチューシャ並みの低身長にくわえてそれだけの勇気と主体性を備えているからこそ、ニーナとアリーナは麻子訪問時にもお供に選ばれていたのかもしれない。
 しかも、隊員たちのこの不満は、準決勝敗退によって隊長のカリスマが失われた後も、カチューシャ批判によって現指導体制を解体するような反発を生むことはなかった。プラウダの校風のもと、その生徒たちはロシアの母のごとく忍耐強く、そして慈愛に満ちている。カチューシャの子供っぽさに半ば呆れながらも、そんな隊長を愛しく感じてもいる。KV2乗員の苦労をこぼしながらもKV2がカチューシャ隊長のお気に入りだからと付け加え、優香里に「車高が高いから?」と尋ねられたときの、ニーナの声は柔らかく表情は温かい。

ニーナ「そうなんですよ、この上に乗るとよぐ見えるがらーって」

 そう答えながらニーナがKV2の砲塔を見上げるまなざしには、わがままだけれど全国有数の指揮官である隊長への敬意と、この砲塔からのよい眺めに幼くはしゃいでるカチューシャへの優しさが、凍える雪の中でも灯っている。ノンナがカチューシャに寄せる思慕は、その強さ重さに大きく差はあれども隊員たちに共有されていたのであり、
じつはこの想いこそが、プラウダ戦車道における理想的女性像を支える下部構造だったとさえ言える。偉大で愛しい隊長を守るために、ノンナやクラーラのみならずニーナたち隊員がどれほど主体的に己のなすべきことを成し遂げるかを、論者たちはすでに劇場版で理解しているはずだ。カチューシャを肩車してきたのはノンナだけでなく全ての隊員たちであり、彼女たちはただの延長的身体などではなく、自らの意志をもってプラウダ戦車道を体現しようとしてきたのである。
 もっとも、あの場面でカチューシャに最も強烈な印象を残したのはやはりノンナではなかったか。カチューシャに隊員一同の想いと願いを伝えながらも、そこで一歩抜きんでるというあたりがもう何というか言葉もないわけで、ここは日頃この副隊長のやりくちに慣れている期待の後進たちに委ねることにする(「突撃!隣の戦車女子 14:00 プラウダ高校」より)。

アリーナ     「手段を選ばねぇ人ってのは、ほんっとに怖いなぁ」
ニーナ・アリーナ「「やっぱり逆らっちゃだめだなぁ!?」」
ノンナ       「何か言いましたか?」
ニーナ・アリーナ「「何でもありません!!」」(悲鳴)


(2016年5月7日公開・くるぶしあんよ著)

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