アニメ『ガールズ&パンツァー』にみる後継者育成と戦車道の諸相・その3

〜アンツィオ高校篇〜



はじめに


 アニメ『ガールズ&パンツァー』(以下ガルパン)に登場する全国高校戦車道大会出場校について、その戦術・指揮をそのまま分析評価するのではなく、チームのリーダー・サブリーダー間における後進育成に注目して検討するならば、そこにどのような教育理念や方法論、そして各学園艦の校風・伝統と結びついた独自性が見出されるだろうか。この視点から、すでにその1にて聖グロリアーナ女学院(以下聖グロ)を、その2にてサンダース大学付属高校(以下サンダース)を、それぞれ取り上げて検討してきた。続く本考察は、大洗女子の大会2回戦の相手であるアンツィオ高校(以下アンツィオ)について、その戦車道のありようと後継者育成の具体像を明らかにしていくものである。
 このアンツィオは、テレビ放映分では第7話にていかにもイタリア軍ネタ的な扱いをされていたが、OVAで2回戦が丁寧に描き出されたことにより、強豪校に伍するほどの魅力あるチームとなってきている。そして本考察の立場からすれば、アンツィオは、聖グロやサンダース・プラウダ高校・黒森峰女学園といった強豪校チームにはない特徴をいくつも備えた貴重なサンプルである。
 その特徴とはまず、アンツィオが非強豪校であること。隊長アンチョビが「目指せ悲願のベスト4!」と叫んでいるように、アンツィオは大会上位常連校ではない。伝統はあるが弱いチームの、作品中で描かれた唯一の例が、このアンツィオなのである。そのような非強豪校チームがどのように戦車道を自らのものとしているのかを、見ていくことになるだろう。
 次に、アンツィオが学園・チームともに資金難だったり、軽めの戦車が主力だったり、さらに未熟な隊員が多いので隊長の役割がより重要だったりと、大洗女子とよく似たチームであること。しかし、大洗女子が久々に戦車道チームを復活させたものの過去の伝統から断絶してしまっているのに対して、アンツィオはおそらく長い伝統を有している。つまりアンツィオは、類似した条件をもつ弱小校が戦車道の伝統を築き上げているという意味で、大洗女子の先行モデルとして捉えることができるのである。
 最後に、本作品内で試合展開が描かれたチームのうち、当初の作戦計画のもとで副隊長が別働隊を指揮していたのは、このアンツィオだけである。例えば決勝戦で黒森峰のエリカが一時的に追撃隊を率いているが、それはあくまでも試合展開に従っての臨時的な措置である。また、他の強豪校も一時的に部隊を分派する場面があるが、副隊長はそちらを指揮せずあくまで隊長と行動を共にしている。唯一サンダースのケイがアリサたちと離れて小隊を指揮し攻撃・追撃を行っているが、あの場合は副隊長のアリサが搭乗フラッグ車を単独隠蔽しながら、ケイ搭乗車を含む全体の指揮を事実上とっていた。大洗女子でさえ副隊長の桃が別働隊を率いたことはないので、隊長・副隊長による本隊・別働隊の指揮分担を曲がりなりにも実行できたのは、本大会ではじつにアンツィオだけなのだ。これを可能にする副隊長養成をいかにして行ったかについては、後継者育成という面からも注目に値する。
 以上の特徴を視野に入れながら、アンツィオ戦車道の独自性と課題について、また後継者育成の方針と実態について、それぞれ考察していこう。

 (なお、本考察は、あんよの日記2014/7/31の内容に大幅な加筆修正を行ったうえで単一コンテンツとしてまとめたものである。)



1.アンツィオ高校戦車道の独自性と課題


 アンチョビの指揮統率を手がかりにアンツィオ戦車道の現状を検討するとき、向き合わねばならない問いがある。それは、
なぜアンチョビはドゥーチェと呼ばれているのか、である。
 答えとしては単純に、アンツィオ戦車道チーム隊長の伝統的な称号としてそう呼ばれ続けてきただけなのかもしれない。しかしその場合、そう呼ばれ始めた最初の隊長は、なぜドゥーチェとあだ名されるようになったのか、という問いへと遡ることになる。ここでのドゥーチェ(Duce)とはあくまでも一般名詞としての「統領」「指導者」にすぎない可能性もあるが、普通に考えればムッソリーニを思い出させる。彼に例えられて喜ぶイタリアファンは、はたして多数派なのだろうか。それは黒森峰でまほをフューラー(総統)と呼ぶようなものではないのか。もっとも、イタリアにおけるムッソリーニ評価と、ドイツにおけるヒトラー評価とを同列に扱うべきではない。だが、少なくともムッソリーニは国家指導者であり、イタリア軍の機甲部隊を指揮した将官ではない。もちろん、グラツィアーニと呼ばれて嬉しい隊長はあまりいないだろうし、メッセパスクッチなど優れた将官の名は論者もいま検索して初めて知ったくらいだ。それゆえドゥーチェの他に呼びようもない可能性もあるのだが、しかしそんな消極的な理由しかないのだろうか。
 この問いに向き合うため、まずアンツィオ学園艦の校風と戦車道チームのこれまでについて、作品内描写をもとに想像してみよう。


(1)アンツィオ戦車道の伝統と課題

 アンツィオはその創始者であるイタリア人が「イタリアの文化を日本に伝えようとしたイタリア風の学校」であり、おそらくは調理・芸術系など独自の専門コースを揃えている。慢性的な資金難にありながら、アンチョビの落ち着きようからして大洗女子のような学園艦統廃合の危機に瀕していない様子なのは、そういった伝統ある独自性の持つ強みによるものだろう。アンチョビ率いる戦車道チームの一種余裕ある和気藹々とした雰囲気を見ると、もしも大洗女子が廃艦の危機になかったらこんなチーム作りもできただろうか、と思わされる。もっとも、大洗女子に財政面でのゆとりがあれば、そもそも戦車道チームは復活しなかったのではあるが。
 チームの雰囲気はイタリア人のイメージに沿ったラテン系の明朗さだが、また同時に「アンチョビ姐(ねぇ)さん」というペパロニの呼び方や隊員たちのやや粗野な口調などは、なんとはなしに夜露死苦系の珍走団を、あるいはイタリアンマフィアを連想させる。それらの描写からアンツィオ生徒たちの出身階層を推測することも可能かもしれないが、ここではひとまず、それがイタリア社会の家族的・共同体的性質を校風として受容したものとして理解しておく。この校風は、「貧乏」なアンツィオの委員会・部活の財政を補うために生徒たちが露店を出している場面で、最も端的に示されている。学外客が多いイベント日はともかくも、平日の彼女たちは自ら調理した食べ物をお互いに売り買いしているので、よく考えればこの露店は生徒たちの小遣いを吸い上げているにすぎず、学園艦の外部から持続的収入を得られているわけではない。しかし、学園艦の外部に売るための内職をしようとすれば(校則違反でなければだが)、おそらくノルマを満たすためのルーチンワークに日々従事しなければならない。そんな作業に追われるよりは、たとえ儲けが小さく学園艦内でのやりとりにすぎないとしても、個々の部活や集団が露店で料理などを提供することの方がよほどいい。それは、自らの活動資金を補うだけでなく、作る側も楽しく食べる側も美味しいという満足感をそれぞれ得られ、また生徒たちが協力しお互いに支え合うという
協同的な営みであるからだ。
 ただし、この風土は、内輪の連帯感を重視しすぎれば、よそ者の敵視や排外的な態度を生み出しかねない。学園艦の中ではあの開放的な露天の様子から見て、部活などの所属集団同士の対立はさほど問題でもなさそうだが、他校に対する姿勢については、「戦車でカチコミ」のような過激な言動を時として招くことがあるのかもしれない。

 この雰囲気のもとで、戦車道の隊員を含むアンツィオの生徒たちは、一見するとサンダース以上に脳天気な学園生活を満喫している。彼女たちの多くはたしかに衝動的で、知性を十分に働かせる前に行動しているようであり、戦車道の試合でも勝利より会食を楽しんでいるかに見える。この勝利至上主義ではないという点はすでにサンダース戦車道の理念にも確認しているが、アンツィオの場合はサンダースとは逆に、とりわけ隊長が勝利を真面目に追求している様子でもある。ともあれアンツィオの校風とは、生を謳歌することなのだろう。肉体的なものを、五感を、情念を大切にしながら、その充溢のなかに精神の飛翔を得る。その手段は学問でも、芸術でも、食事でもスポーツでもかまわない。
 しかし、このようなアンツィオの校風は、戦車道では「ノリと勢いだけ」と評されるような姿勢を生んでしまってもいた。戦車道において勝利を重視しすぎるかわりに、そこでの情念を重視しすぎた結果、闘争心や刹那的な攻撃衝動を美化し、冷静な判断に基づく慎重さや戦術的思考を軽視するという傾向をもたらしたのである(第一次世界大戦におけるその惨憺たる帰結の文学的描写については、エミリオ・ロッシ『戦場の一年』柴野均訳、白水社、2001年を参照)。もちろん、戦車道をどのように楽しもうがそれぞれの自由であり、蝶野教官も第2話で述べているとおり、まず動かしてから考えるというのが戦車道の入口ではある。だが、そのような戦い方や試合後の会食の楽しさだけを戦車道の醍醐味と考えてしまうのも、これまた了見が狭いと言える。ある意味でぬるま湯的な楽しさに浸っていたアンツィオの戦車道に足りないものとは、様々な条件をもとに最適な戦術を考えぬくことや、相手との知的な読み合いや、試合内容を反省しつつ自分たちの力量を高めていくことなどである。こういった知的側面や自己教育的な要素が不足しがちなアンツィオの戦車道は、学校の授業科目というよりサークル活動に似たものとなりがちだったと想像される。第1話で語られた戦車道理念のうち、「大砲のように情熱的」という点は十二分に満たすものの、「礼節」や「しとやか」さなどはいささか心もとなかったわけである。

 この、いわば当たって砕けて終わるという傾向には、アンツィオの「イタリア風」の伝統が影響していると同時に、弱小校の戦車道が陥りやすい現状追認的な態度もまた見え隠れしている。サンダース考察1(2)において、高校戦車道における既得権益と格差の固定化の危険性について指摘したが、強豪校にとってそれが強豪校であることに胡座をかく傲慢な怠惰をもたらす一方で、アンツィオのような弱小校にとっては、それは試合をする前から勝負を諦め、大会参加という最低限の実績のみで満足するような敗北主義を育んでしまいやすい。出場車輌を中戦車で揃えられないようなチームは、どれほど隊長が戦術に長け隊員が訓練に明け暮れようとも、準決勝(15輌出場可能)を突破することはほとんど不可能だし、おそらくその前に強豪校と対戦して敗退するのが関の山である。
 もちろん、優勝候補以外にも強力なチームは存在する。みほの台詞の中で継続高校チームの優秀さが語られているが、あそこは三号突撃砲などを装備しているだろうし、やはり言及されているとおり指揮官の能力などにフィンランド補正も加わっていることだろう。また、アンツィオが今大会1回戦で破ったマジノ女学院も、サンダースなどに次ぐ中堅チームと呼べるだろう。実際に大洗女子が大番狂わせを果たしたように、それらの学園チームが活躍する機会は無視できない。しかし、それにもかかわらず黒森峰は9連覇を遂げていたのであり、継続高校にしても練習試合で黒森峰を「苦戦」させる以上の成果を挙げられずにいる。
 この状況を脱しようとして勝利至上主義へ向かってしまうのは、戦車道の理念に反することになる。しかし、現状に甘んじるままであるならば進歩と成長はない。多くの弱小校では、厳しい現実を直視しながら最大限の努力を重ね、結果は結果として爽やかに受け入れているのだろう(その爽やかさは、現状では持てる側の強豪校にも共有されている)。だが、ことアンツィオの場合は、この弱小校としての矜持ある姿勢が、試合における刹那的・衝動的な暴走と日常における快楽の反復に置き換えられてしまいがちだったのである。


(2)ドゥーチェという称号の意味

 このようなチームを率いる隊長に隊員が期待する第一のものは、日々の情念を満たしてくれる活動の維持と指導であろう。過去にはそのような期待にのみ応えてきた隊長もいたかもしれない。しかし、アンチョビという最新の隊長を見れば、その枠内に留まらない者も間違いなくいたはずである。
 アンチョビは明らかにアンツィオの校風を、仲間たちの明るさを、愛している。そして自分が加わったアンツィオの伝統的な戦車道の楽しさも認めている。しかし、戦車道の楽しさがより広く深いものであることにも気づいている。頭を使って戦い合う面白さや興奮、真剣勝負を通じて育まれる対戦相手への敬意、自分たちの成長への感覚、そういったものもまた戦車道で得られる生の一面であるはずだ。このべき論にアンチョビがこだわりすぎれば、彼女はチームからも学園からも浮いてしまい、頭でっかちの理想主義者として消えていっただろう。だが彼女は、アンツィオの仲間たちの雰囲気も素直に好んでいる。隊員たちに合わせて明るく振舞うことを自らに強いて、心身を消耗させている様子はない。この、理想と現実の両方を見据えたうえで、そのバランスを取りながら少しずつ理想に接近させていこうとするのが、アンチョビによるチーム指揮統率の基本方針である。
 この方針は、おそらく過去の多くの隊長たちも共有していたものだろうし、アンツィオ戦車道の伝統の中に無理なく組み込まれるよう工夫されてもきた。その一端は、例えば今年度にP40を1輌購入できたことについて、ペパロニが次のように語っていることにうかがえる。

ペパロニ「P40をそりゃもう気の遠くなるくらい昔から貯金しまくって、あたしらの代でようやく買えたんだ!
     アンチョビ姐(ねえ)さん、あぁうちの隊長なんだけどもう喜んじゃって、毎日コロッセオのあたり走り回ってるよ。燃料もあんまり無ぇのに!」

 代々と呼べるほどであれば、当然この2、3年というわけではない。過去の隊長が長期的計画を立案して隊員一同おやつを我慢する慣習を作り上げ、さらに屋台の売上もつぎこむ(CD『あんこうチーム訪問します!』)などして、積立を受け継いできたことになる。しかし、今でこそおやつを1回分がまんするのが伝統となってはいるが、実行当初はそう簡単に事が運ばなかったに違いない。こと食欲という基本的欲求に関わる問題であり、当時の隊員たちの不満や反発が当然のごとく想像される。このとき、彼女たちを率いていた隊長は、何を語ることによって皆を説得できたのだろうか。
 それはまず、目の前の情念を統御することで将来いっそうの利益が得られるという、合理的な快楽主義への誘いである。アンツィオの校風に真正面から逆らうことなく、その傾向をより理性的に修正していくことで大きな目標に到達させようとする、バランス感覚の表れと言える。だが、これは結局は今ある欲求を抑えることなので、隊員としては理屈として理解できても、実体験が伴わなければなかなか我慢しようという気にはなれない。そこで当時の隊長は、日常の学園生活や試合のなかで、すぐに成果を得られるような欲求抑制の小さな実践を重ねることで、隊員たちに受け入れられやすい土壌をしだいに培っていったと思われる。とはいえ、おやつの我慢がそれらの実戦経験と明らかに異なるのは、我慢の結果として叶う重戦車の購入が、自分たちの在学中には実現しないという点である。隊員たち自身に見返りのない抑制を承知させることが、続いての課題となる。
 そこで隊長が語りかけたのは、未来の後輩たちのために自分たちができること、また託すことの意味についてである。アンツィオ戦車道は、刹那的な快楽充足があたかも伝統のごとくなりかけていた。これに対して当時の隊長は、将来の後輩たちのためにいまできることをするという意識を、つまりチームに創りだしていく伝統への歴史的意識を、隊員たちに形成したのである。その基盤となったのは、隊員たちが日頃馴染んでいるアンツィオの家族的・共同体的な校風である。いまはまだいないがやがてここで学ぶ後輩たちへの眼差しを隊員たちが獲得したとき、彼女たちは、まだ見ぬ後輩たちをも自分たちの一員として実感し、愛情をもって配慮することが可能となったのだ。
 このときの隊長が備えていた資質能力を振り返ると、注意散漫で気移りしがちな隊員たちをまとめあげるための弁論術と管理能力、隊員たちに試合に勝てばもう一度もっと痛快に、敗れれば惜しいあと一歩、と思わせられるだけの戦術眼と指揮能力、そして何よりも、自らの信じる戦車道の夢を熱く力強く語り行い貫くことのできる情熱が挙げられる。重戦車購入計画を実施に及んだ当時の隊長は、以上のようなことを隊員たちに熱心に示していただろうが、その理屈の正しさや利益の多寡などよりも隊員たちを惹きつけてやまなかったのは、夢を皆と分ち合おうとする隊長の情念の迸りだったのではないか。この隊長の言うことなら信じてもいいか、と思わせるようなアンツィオらしい人格が、理屈を抜きにして隊員たちを納得させたのではないか。
 もしかすると最初のうちは、こんな夢語りをする隊長のことを、一部の隊員たちが揶揄して「ドゥーチェ」と呼んだのかもしれない。口先では美しい未来を語りながら、実行が伴わない張子の虎の独裁者になぞらえて。しかし、そう呼ばれていることに気づいた当時の隊長は、そのあだ名を拒絶することなく、自ら受け入れたのかもしれない。自分が皆に求めていることがいかにも絵空事でありえることを誰よりも理解していればこそ、自分が戦車道の理想を追い求めすぎてアンツィオのよさを裏切ってしまわないようにとの自戒の念を込めて、足元おぼつかぬドゥーチェであることを諧謔味をもって認めたのである。そんな隊長の姿に、やがて当時の隊員たちは、自分たちが知らなかった生の充溢を感じ取った。最初は揶揄にすぎなかった呼称は、しだいに愛称へと、そして本物の敬称へと意味合いを変えていった。言っていることは気宇壮大に過ぎるが、その情熱と実行力とカリスマは誰しも認めざるをえない。そんな隊長のチームと戦車道と学園へのあふれる愛を隊員たちが分かち合い、この隊長と共に、この隊長のために戦いたい、そう思えるようになっていった。すなわちこの隊長が中興の祖であり初代のドゥーチェにして「姐さん」、アンツィオ戦車道の再生(ルネサンス)・再興(リソルジメント)のときである。
 なお、この初代ドゥーチェがその称号に相応しい悲喜劇的運命に陥らずにすんだのは、彼女の能力と志の高さや運のよさなどにくわえて、アンツィオ戦車道にはイタリアにおける古代ローマ帝国のような栄光ある過去が存在していなかったということが影響しているかもしれない。輝ける歴史とその担い手に自らを投影し、およそ地に足つかない野望を夢見てしまうという罠を、戦車道試合の実績がないことによって回避できたわけである。しかしまた、それゆえにアンツィオでは、弱小校としての諦めに立ち戻らないためにも、栄光への第一歩をどこかで標す必要がつねに消えないままにあったとも言える。

 こうして始まったドゥーチェの系譜のなかで、アンツィオ戦車道に不足しがちな「礼節」の部分を補おうとする努力も様々に試みられた。そのうち最も成功し、現在まで継承されてアンツィオ戦車道の伝統にまでなっているものは、今回の対大洗女子戦でも描かれていた。試合終了直後、アンチョビは敗北の辛さをそのまま示すことなく、みほをハグして大洗女子の栄誉を称える。そしてアンツィオ隊員たちに向けて共に手を振るようみほに促したのち、速やかに恒例イベントの支度にとりかかるのである。それは、敵味方の区別なく、また大会運営に携わる者たちもすべて招き入れた共同食事であった。これは、礼儀作法そのものいうよりは、「礼節」の根底にある他者への敬意を修得する場なのである。

アンチョビ「いやー、今年こそは勝てると思ったんだけどなぁ。でも、いい勝負だった」
みほ   「はい、勉強させていただきました」
アンチョビ「決勝までいけよ? 私たちも全力で応援するからな。だよなー!?」
隊員たち「おーっ!」
アンチョビ「ほら笑って、もっと手ぇ振って!」
みほ   「あはは……ありがとうございまーす」

アンチョビ「諸君! 試合だけが戦車道じゃないぞ。勝負が終わったら、試合に関わった選手・スタッフをねぎらう。
       これが、アンツィオの流儀だ!」
隊員たち「それーっ!」
みほ   「すごい物量と、機動力……」
アンチョビ「我が校は、食事のためならどんな労も惜しまない!
      この、この子たちのやる気がもう少し試合に活かせるといいんだけどな……。
      まあ、それは追々やるとして。せーの!」
一同   「いただきまーす!」

 例えば弐尉マルコ『ガールズ&パンツァー もっとらぶらぶ作戦です!』第3巻(メディアファクトリー 2014年)で描かれていたように、一方の参加者からこのような会食を提供されることは、公正中立を求められる審判などのスタッフからすれば固辞すべきものなのかもしれない。だが、そのうえでなお、一同はアンツィオの利益誘導など考えることもなく、敵味方もスタッフも分け隔てなく食事を共にし、試合の余韻を楽しんでいる。「試合だけが戦車道じゃない」というアンチョビの言葉は、彼女が言い始めたものではなく、アンツィオの初代ドゥーチェが、あるいはそれ以前からの伝統なのかもしれない。この言葉に示されているとおり、アンツィオの戦車道の流儀は「ノリと勢い」に留まるわけではない。また、勝つことを真剣に目指すけれども、どんな手段を用いても敵を撃滅すればいいというような勝利至上主義には陥らない。それは、「いい勝負」を相手チームやスタッフと共に作り上げ、共に楽しみ、
戦車道の悦びを分かち合い敬意をもって競い合える関係を拡げていくことなのである。
 そして、この共同食事のために、アンツィオの隊員たちは進んで料理を準備し、食卓を整え、おそらくその予算も自分たちで賄っている。この企画の背景には、たんに彼女たちがこういう場やおいしい食事を好んでいるということもあるだろうし、また試合後の空腹を学園艦に戻るまで我慢できないという問題への対処や、試合に敗れたときの気持ちの落ち込みようを払拭する便利な手段といった、身内の情念コントロールの意味合いもあるのかもしれない。しかし、隊員たちのその情念や快楽欲求は、おいしい食事を相手チームと共に楽しむというかたちで、他者との共感や交流をもたらし、相互理解や敬意ある競争心を生み出していけるのである。なんとなく「タイマン張ったらダチ」という言葉を思い出す光景だが、こうしてアンツィオでは、
戦車道の理念を、隊員たちの情念の強さに立脚しながら追求していくのである。

 以上、多くの想像を交えながら、アンツィオ戦車道とドューチェのありようについて論じてきた。これらを踏まえれば、以来アンツィオの隊長は初代ドゥーチェの方針を守りながら、その時々の隊員たちの「ノリと勢い」を巧みに誘導して日々の訓練と試合に活かしてきたことになる。そして、この連綿と続く伝統の末席に位置するのがアンチョビなのだが、3年生が彼女のほかにいなさそうな様子を見ると、つい一昨年までは戦車道断絶の危機さえ迎えていたのかもしれない。しかし、彼女はこの危機を乗り越えて下級生を数多く確保することに成功しただけでなく、さらに一歩アンツィオの名を高らしめようと画策していたのであった。



2.アンチョビの目標と副隊長複数制の意味


 今年度アンツィオを率いるアンチョビが目指す高み、それは過去の先輩たちが到達できなかった「悲願のベスト4」、つまり準決勝以上への進出である。しかし、上位4チームに残るということは、高校大会トーナメントの常として、聖グロなど常連の強豪校のいずれかに勝利を収めなければならないことを意味していた。今回はたまたま大洗女子がサンダースに勝利したため、この弱小校を倒せば悲願達成という好機に恵まれたわけだが、大会前のアンチョビがこの幸運を予期できるはずもなく、どうにかして強豪校を打破する方策を練りぬいていたはずである。
 チームの編成においてその努力が最も如実に示されているのが、副隊長にペパロニ・カルパッチョの2名を指名している点である。強豪校でさえ副隊長を2名も揃えて試合に参加させているチームはサンダースしかないが、そのサンダースは1軍から3軍まで揃うほどの大所帯ゆえに複数の副隊長が必要と思われる。これに対してアンツィオは、冒頭の整列時で数えれば全員揃っても42名しかいない(それでも大洗女子より多いのだが)にもかかわらず、あえて副隊長を複数任命しているのである。この指揮系統によって、アンチョビは、チームに戦術行動における自由度とともに、隊員の情動管理における柔軟性をも確保しようとしていた。それぞれについて、以下に検討していこう。


(1)戦術行動面での自由度の確保

 対大洗女子戦では、アンチョビは「マカロニ作戦」と称する欺瞞作戦を実施し、予定通りにいけば大洗女子の後方に迂回したペパロニ隊による陽動奇襲と、それにタイミングを合わせた本隊による敵フラッグ車攻撃が続くはずだった。まずはここに隊長アンチョビの作戦立案能力の高さを確認できるが、その作戦をもとに試合を進められるかどうかは、味方側だけについていえば指揮統率によりけりである。その視点から試合経過を追っていく前に、アンチョビの狙いが見事に決まり勝利を獲得できた1回戦の対マジノ女学院戦に目を向けよう。ただし、実際の試合の光景は描かれていないため、大洗女子生徒会室の作戦会議にてホワイトボードに記されたレポートをもとに想像することとなる。

 アンツィオの戦力は、カルロ・ベローチェが7輌にセモベンテM41突撃砲が3輌(うち1輌はフラッグ車)。対するマジノ女学院は、ソミュアS35が2輌(うち1輌はフラッグ車)、ルノーB1が2輌、おそらくルノーFT-17が3輌、おそらくオチキスH35が3輌という編成だった。かなり乱暴にまとめてしまうと、FT-17とH35はカルロ・ベローチェ相当の軽戦車、残りが旋回砲塔のある戦車ということで、装甲・火力ではマジノ有利に思われる。
 これにマジノ学院メンバーについての分析を加えたうえで、アンチョビが選べた作戦は単純にみて2パターン考えられる。1つは、カルロ・ベローチェ隊を突入させてかき回し、混乱させたところをセモベンテで仕留めるというもの(対大洗女子戦もこの発展形)。もう1つは、やはりカルロ・ベローチェ隊を突っ込ませた後わざと退却させ、追撃する相手を十分引っ張りこんでセモベンテで包囲伏撃するというものである。いずれにせよ、最初はともかくカルロ・ベローチェ隊を突っ込ませておけば、相手の反応を見てから次にどちらの手を選択するか判断できることになる。試合の主導権を握り続けるためには有効な戦法と言えるだろう。もっとも、このカルロ・ベローチェ隊の運用法は、装備の機関銃で敵戦車を撃破できないため、相手に混乱を起こさせる以外にやりようがないとも考えられる。そして、本当は無力な攻撃を冷静に受け止められてしまえば、試合の主導権は簡単に相手側に移ってしまう。強豪校の壁を破れずにいたのは、この装備の差というどうにもならない現実ゆえだった。

 そのような限界があるにせよ、1回戦を突破できるこの戦法を実行可能なものとするために、アンツィオの指揮系統は独自の特徴を備えることとなった。
カルロ・ベローチェによる遊撃隊の指揮を副隊長の1人に委ねることで、本隊と遊撃隊の分担・協働を図っているのである。具体的には対大洗女子戦と同様、ペパロニがこの遊撃隊を率いて突撃する。彼女の勇猛果敢な指揮ぶりは隊員を奮い立たせる能力に秀でており、これによって遊撃隊は相手の攻撃で搭乗車輌をひっくり返されても不屈の意志で再起していく。撃破されたはずのカルロ・ベローチェがまるで無限に現れて群がりまといつくという恐怖もたらすことで、相手は(アヒルさんチームが陥りかけたように)混乱して士気と連携を喪失し、試合の主導権をアンツィオに委ねてしまうことになる。隊員たちの「ノリと勢い」は、この遊撃隊では不断の闘争心として不可欠なものであり、ペパロニはその先頭に立つ切り込み隊長としてまさに適任だった。
 しかし、隊員たちの「ノリと勢い」を共有し先導するペパロニの性格は、その長所と表裏一体のものとして、衝動にとらわれやすいというアンツィオらしい短所を有する。しかも頭があまりよろしくないので、状況の先読みに基づいた指揮統率ができない。その場の勢いに任せて行動することはむしろ得意であるため、つまるところ状況に流されやすく、敵の罠にかかりやすいわけだ。
 この短所を補うための方策として考えられるのは、まずペパロニの猪突猛進を試合中に軌道修正しなくともすむよう、奇襲・強襲によって一撃で敵フラッグ車を撃破するというものである。これは上述のとおり、アンツィオの少ない戦力とも釣り合う方針なのだが、しかしとくに強豪校との対決を想定すれば、試合中に主導権を握り続けられるとは限らず、どこかでペパロニの遊撃隊に次なる指示を与える必要が出てくるだろう。だが、頭に血が上っているペパロニたちに言うことをすぐ聞かせるには、後方からの指揮命令ではなかなか難しい。そのため、隊長自ら最前線に加わって陣頭指揮をとり、ペパロニたちの突進を直接止めたり正しい方向に導いたりしなければならない場合がある。
 そのような時に、前線に駆けつけるアンチョビが本隊・予備隊を任せられる指揮代行者が、カルパッチョということになる。彼女はアンツィオの中では冷静沈着な性格であるとともに、カエサルが「ずっと戦車道をやっている」と語るとおりのベテランとして、急を要する場面でとっさの判断を躊躇なく下せる能力をも備えている。しかし逆に、直情的な隊員の先頭に立つための資質にはやや欠けている。これらの条件から、カルパッチョは他校と同じく隊長のサポートを主な役回りとして与えられることとなったのである。
 もっとも、アンチョビ自らが前線参加するとということは、フラッグ車が敵の砲撃の前に露出するということでもある。おそらく対マジノ戦までは、アンチョビもカルパッチョ同様にセモベンテに搭乗していただろうから、アンチョビの突撃砲の側面を守るためにカルパッチョもまた追随せざるをえなかったかもしれない。対大洗女子戦での3号突撃砲出現時に見せた果断さは、そのような状況への慣れを感じさせる。カルパッチョが隊長車=フラッグ車を適切に援護するからこそ、アンチョビは指揮統率に専念できるのである。

 こうしてアンチョビは、遊撃・支援というそれぞれの役割に相応しい副隊長を指名し(あるいは逆に、今後を託すべき二人の資質能力に合った役割を案出して与え)、二人の長所を活かして伸ばすことによって、戦力の不利を指揮統率(コマンド&コントロール)で補うというアンツィオの基本方針に沿ったチーム戦術を実現するに至った。ただし、この指揮分担は、アンチョビならどちらでも担えるものを二人には片方ずつしか任せられない、ということをも意味している。アンチョビは切り込み隊の先頭に立って吶喊することもできるだろうし、本隊・予備隊による支援行動も指揮できる。しかし、ペパロニが待ちの姿勢で支援的な役目を果たすことは難しそうだし、カルパッチョが大声を上げて威勢よく突撃する姿もちょっと想像しにくい。サンダースや黒森峰でさえ似たようなものなのだから贅沢を言えばきりがないが、アンチョビが直接率いていない時には遊撃隊・本隊のそれぞれにできないことがある、ということが、作戦遂行のうえでの制約となり得た。
 また、このことは後継者問題、つまり来年度の隊長をどちらに委ねるかについても、選択を困難にさせている。強いて言えばカルパッチョの方が、視野を広くとり冷静に全体の指揮にあたれるだろう。しかし、彼女の穏やかな性格では、感情的な隊員たちをまとめあげていく「ノリと勢い」が不足気味である。とはいえペパロニは作戦立案能力などが欠けており、彼女の指揮下ではたんなる「ノリと勢い」だけの伝統的な戦い方に立ち戻ってしまうかもしれない。サンダースのアリサとナオミのように、ここアンツィオでもまた、次の隊長により相応しい姿を示すのはどちらの副隊長なのかが問われている。だが実績に乏しいアンツィオには、育成を第一に考えて試合に臨めるような余裕はない。そしてカルパッチョもペパロニも、アンチョビの後継者争いを念頭に互いをライバル視している様子はない。アンツィオの共同体的意識は、少なくとも組織内の地位に関するかぎり、生徒たちに過度の競争心を抱かせないのかもしれない。もっとも、カルパッチョとペパロニが親しげに会話している場面は作品内で描かれてはいないのだが、だからといってそれが両者の無言の対立を意味するということでもないだろう。そのことは、次の節で示すような、副隊長たちが見事に息のあった掛け合いを演じている場面にうかがうことができる。


(2)情動管理面での柔軟性の確保

 OVA冒頭で、アンチョビは隊員たちにアンツィオ初の重戦車(というか初のまともな中戦車)P40をお披露目するにあたり、ちょっとした演説を行っている。隊長の指揮統率ぶりと副隊長たちの役割分担を見事に要約しているこの一幕を、ここで細かく検討してみよう。

アンチョビ「きっと奴らは言っている。『ノリと勢いだけはある。調子に乗ると手強い』」
隊員たち 「おおー」「強いってー!」「照れるなぁ」「でも姐さん、『だけ』ってどういう意味っすかー?」
アンチョビ「つまりこういうことだ。『ノリと勢い以外は何もない。調子がでなけりゃ総崩れ』」
隊員たち 「何だと―!」「ナメやがって!」「言わせといていいんすか!?」「戦車でカチコミ行きましょう!」
カルパッチョ「みんな落ち着いて、実際言われたわけじゃないから」
ペパロニ「あくまでドゥーチェによる冷静な分析だ」
アンチョビ「そう、私の想像だ」
隊員たち 「なぁんだ」「あーびっくりしたー」

 まずアンチョビは、外部から見たアンツィオの評価が低いことを冷静に捉えたうえで、これをあえて隊員たちに語っている。一つには、彼女たちの気に食わない表現を用いることで、「奴ら」つまり次の対戦相手である大洗女子への闘争心を掻き立てるためである。だが、その刺激は過剰な反応を招きやすいので、適度に宥める必要がある。ここでは、副隊長の二人が揃ってそのブレーキの役目を果たしている。

アンチョビ「いいかお前たち、根も葉もない噂にいちいち惑わされるな。私たちはあの、マジノ女学院に勝ったんだぞ!」
隊員たち 「おおー!」「そうだった!」
カルパッチョ「苦戦しましたけどね」
ペパロニ「勝ちは勝ちだ」
アンチョビ「うん。ノリと勢いは何も悪い意味だけじゃない。このノリと勢いを2回戦に持っていくぞ。次はあの西住流率いる大洗女子だ」

 ここでアンチョビは、隊員たちの流されやすい意識に釘を刺しながら、「あの」マジノ女学院に対する自分たちの勝利を思い出させることで、自信と士気を高めようとしている。そして、たんなる衝動に陥りがちな「ノリと勢い」を、実績に裏打ちされた戦いへの意志へと組み替えていく。その対象となる大洗女子に、マジノ同様「あの」と付したのは、隊員たちに油断させないための注意喚起であり、また同時に、マジノに続いて西住流の大洗女子も打破できればいっそうの自信を生み出せるという目論見でもある。なお、ここでの副隊長たちは、カルパッチョがブレーキをかける一方で、ペパロニがアクセルを入れる役回りを担っている。
 ここまでで明らかなとおり、
隊員たちの「ノリと勢い」の微妙なコントロールを、隊長・副隊長の3人が協力して行っている。しかも、カルパッチョはどちらの場面でもブレーキ役だが、ペパロニはブレーキ・アクセルの両方を使い分けて演じている。いずれにしても二人は、隊長の言葉を隊員たちがどのように理解すべきかを、身をもって示す役割を担っていると言える。そして、副隊長の二人が隊員たちの勢いを適度に刺激・抑制した段階で、隊長が総括し次の話題へと展開させていく。このように、副隊長たちは、隊長の言葉を隊員たちがどのように受け止めたかに応じてその修正をすぐさま行い、隊長の指示が誤解なく、また望ましい情念のもとで全体に行き渡るよう努めているのである。
 そのさい、もしも副隊長が一人だけだとしたら、副隊長がブレーキ入れたときにそれが効き過ぎと感じた隊長が若干アクセル入れたり、その逆になったりと、隊員から表面的に見れば隊長が副隊長の言葉をすぐさま否定しているかのように映る場合があり得る(例えば大会決勝戦における黒森峰のまほとエリカは、指揮統率の実地指導に関してではあるが、そのような印象を与えかねない)。その点、副隊長が二人いることで、両者が役割を替えつつバランスをとるという柔軟性と、隊長と副隊長たちの判断の不一致を常態化させないことによる指揮系統への信頼感が、確保できたのである。サンダースのケイがナオミとアリサに期待していることを、アンツィオが先んじて実現しているとさえ言えるかもしれない。
 しかし、このように優れた情動管理面での組織的配慮を行っているアンチョビにも、十分に対応できない状況がある。続くやりとりを見てみよう。

隊員たち 「西住流ってなんかヤバくないっすか」「勝てる気しないっす」
アンチョビ「心配するな。いや、ちょっとしろ。何のために3度のおやつを2度にして、コツコツ倹約して貯金をしたと思っている?」

 西住流の名を聞いてとたんに士気を下げかける隊員たちにアンチョビはアクセルを入れようとしているが、ここで注目したいのは、直前でペパロニ(アクセル)とカルパッチョ(ブレーキ)が分担していた台詞を、アンチョビ単独で語っている点である。つまり、「心配するな」と勇気づける(アクセル)やいなや、その一言を聞いて隊員たちが安心し舞い上がってしまわないように、「いや、ちょっとしろ」と急いで抑制をかけている(ブレーキ)のだ。隊員たちの情念の揺れ方が軽いのでこまめにコントロールしなければならないのだが、先ほどのように副隊長たちがすぐさま介入しにくい場合は、アンチョビがアクセルもブレーキも同時に操らねばならない。その結果、「ちょっとしろ」と「何のために」以下の台詞との間が、言葉のうえでは直接的につながらくなってしまっている。副隊長たちが言葉を挟まないほうが隊長の演説の勢いや隊員たちとの対話性は増すはずなのだが、そうすると皮肉なことに、隊長自身が隊員たちの情動コントロールをも細かく担わねばならず、演説の勢いはかえって削がれてしまうのである。

隊員   「何ででしたっけ?」
アンチョビ「前に話しただろ! それは秘密兵器を買うためだ!」
隊員たち 「おおー!」

 経緯を覚えてない隊員に、ついアンチョビは感情を露わにしてしまう。ここは例えば「何でだったか、覚えている者はいるか?」などと尋ね返して、隊員の誰かに答えさせるという手もあったはずで、そのほうが士気を高める流れとしてはより効果的だったかもしれない。そういう手立てを思いつく前に感情的になってしまうのがアンチョビの欠点とも言えるが、しかしもしかすると、隊員の誰一人覚えていない可能性を察知して隊長自ら話を進めたのだとすれば、さすがは民心を知るドゥーチェといったところである。それはさておき、やはりここでも隊員の言葉に副隊長たちが反応していないので、アンチョビ自身が向き合わざるを得なくなっている(あるいは、副隊長たちが反応する前にアンチョビが勢い込んでしまっている)。それでもアンチョビは自らと隊員たちの勢いの調整にある程度成功し、いよいよ秘密兵器のお披露目に、となるのだが。

アンチョビ「オホン。秘密兵器と諸君の持っているノリと勢い、そして少しの考える頭があれば、必ず我らは悲願の3回戦出場を果たせるだろう。
       みんな驚け。これが我がアンツィオ校の、必殺秘密兵器だー! (チャイム)……あ」
隊員たち 「いえー、ご飯ごはーん!」(一斉に駆け出す)
アンチョビ「こ、こらー! お前ら、それでいいのかー!?」
隊員たち 「今の季節、食堂のランチ売り切れるの早いっすよ!」(全隊員いなくなる)

 民衆は指導者の予想を越える。いや、これもアンチョビの予想範囲内なのかもしれない。「……あ」という虚を突かれたような一言は、たぶん隊員たちがこのチャイムで気をそらされてしまうだろう、と直感してしまった表れであるとも考えられるからだ。しかしいずれにせよ、アンチョビの試みは残念な結果に終わった。隊長としては、ここでP40をお披露目して士気をぐんと高めつつ、その「ノリと勢い」を「少しの考える頭」で正しい方向へ導くためのスローガンを与えるつもりだったのかもしれない。熱狂しているときに刷り込まれたスローガンならば隊員たちは記憶に留めやすいし、後の座学で詳細な作戦を教えるための土台になるからである。これを果たせなかったのはアンチョビにとって不本意であっただろう。また、隊員たちが隊長の制止を振りきって勝手に食堂に向かってしまうというのは、「少しの考える頭」の有無を論じる以前に、そもそも組織として困ったものではある。
 しかし、本考察の流れからもう一つ注目したいのは、ここでアンチョビがお披露目しようとしていたP40とは、先輩たちが代々倹約して貯金してきたその成果であり、この初めて購入できた重戦車はアンツィオ戦車道の歴史・伝統と未来の栄光の象徴でもある、という事実である。先述の想定では、初代ドゥーチェ以来まだ見ぬ後輩たちのために積み重ねられてきた努力は、一方では戦力増強を目指すものであるとともに、また一方では部隊の伝統を創出し、そこへの帰属意識を生み出していくものでもあった。それは、いわば
時間軸における共同体意識なのである。だが、いま眼前の隊員たちは、この伝統への意識を分かち持つことなく、ただ自らの食欲のままに行動しているかに見える。この事態は、アンツィオ戦車道が長らく取り組んできた情動抑制や伝統創出の試みが、失敗したことを意味するものなのだろうか。アンチョビの言葉を聴いてみよう。

アンチョビ「……はぁ。ま、自分の気持ちに素直な子が多いのが、この学校のいいところなんだけどなぁ」

 そう、アンチョビはこの隊員たちの有り様を全否定してしまわない。さすがに溜息をつくほど不本意な結果であることは間違いないが、そもそも昼休みのチャイムが鳴ったということは、アンチョビの演説が授業中に行われていることを意味している。つまり、この冒頭場面は戦車道の授業中の一幕なのであり、おそらくは練習を終えての隊長訓話の時間を新兵器お披露目にあてたのだろう。ということは、たしかに隊長の指示を聞かずに駆け去った隊員たちも問題だが、アンチョビがもっと早めに練習を切り上げて集合させていればちゃんとお披露目まで済ませられたはずである。彼女の溜息は、言うことを聞かない隊員たちへの残念さだけを意味するものでは決してない。
 そんな語られざる自己反省とは別に言葉として示されるのは、アンチョビが隊員たちの「いいところ」に目を向けているという事実である。そして、彼女が挙げるその長所とは、「自分の気持ちに素直」という、短所と表裏一体の性質だった。アンツィオという学園艦の裏面と校風は、生徒各人が自らの生を充溢させることを求めており、その実現のためにはこの長所が欠かせない。そしてまた、この長所を活かしながら、短所としての面をうまくコントロールすることで、戦車道大会におけるいっそうの成果を獲得することも不可能ではない。それは、日常生活や勢いだけの試合運びでは味わえない高みへと、隊員たちを導けるまたとない機会であり、それを本当に体験することが代々の先輩たちに報いることにもなるはずである。しかし、伝統の継承と新たな成果の獲得によってチームの共同体意識を維持発展させるために、隊員たちの素直な気持ちを過度に抑制させ、日々の学園生活を味気ないものにしてしまったならば、それは本末転倒なのだ。いま隊員たちがランチを求めて駆け去ってしまったのは明らかに問題だが、だからといって隊員たちの空腹を無視するわけにはいかない。友達とランチを楽しむこと、そのために食堂へ競走すること、間に合って喜びあうこと、売り切れで嘆きあうこと、そんな些細な日常もまたこの学園艦で学ぶ彼女たちの大切な生の一部にほかならないからである。そんなアンツィオの校風と生徒たちを、アンチョビは情け深く理解し、愛している。
 日々の楽しみを損なわないという点については、アンチョビは彼女自身も例外にはしていない。隊長としての自己抑制に励む一方で、ついに手に入れたP40に「もう喜んじゃって、毎日コロッセオのあたり走り回ってる」のである。慣熟のために必要な燃料については最低限の算段もあるのだろうし、またP40の車上にてポーズを決めて生徒たちの喝采を浴びてもいるように、士気向上・資金獲得や伝統創出のためのデモンストレーションと理解することもできる。しかし、それだけでなくアンチョビ自身が、
ねんがんのじゅうせんしゃをてにいれたぞ! とはしゃいでいる面もあるだろう。それは彼女の幼さというより、アンツィオの生徒らしい「気持ちに素直」な姿なのである。
 これを過度に抑圧することなく、適度に統制し、活用し、弱小チームを栄光に導けたとき、アンチョビはアンツィオ戦車道の新時代を隊員たちとともに切り開くことになるはずだった。そして、そのために戦術面においても情動管理面においても重要な役割を担うのが、二人の副隊長だったのである。しかし、情動管理面について付け加えれば、試合中に隊長の「ノリと勢い」が暴走したとき副隊長たちがブレーキをかけられるのか、という問題がじつは横たわっている。先の演説場面でもアンチョビがややつんのめる姿が見られたが、指揮統率におけるこの問題は対大洗女子戦で現実のものとなるのである。



3.対大洗女子戦にみる成果と課題


 ここからようやく大洗女子との2回戦の模様について検討していくわけだが、まずは事前に編まれたアンチョビの作戦とそこで副隊長に委ねられた役割を確認し、続いて実際の試合展開をもとにその成果を評価しよう。


(1)アンチョビの対大洗女子作戦

 サンダースを破った大洗女子と戦うにあたり、アンチョビは「マカロニ作戦」を立案する。これによれば、まずペパロニ率いるカルロ・ベローチェ隊が自隊車輌のデコイ(板張りの絵)を街道十字路の左右に迅速に設置し、アンツィオがあたかも戦場中央の要所で待ち構えているかに見せる。この欺瞞に大洗女子が引きつけられている間に、ペパロニ遊撃隊が相手後方に回りこむことで、デコイと挟撃されていると錯覚させる。さらにセモベンテ2輌の側面警戒隊が別方向から攻撃して混乱を拡大し、とどめにアンチョビとカルパッチョの本隊が突入、敵フラッグ車を撃破するという手はずである。
 この主作戦では、アンチョビが自隊・大洗女子・地形のそれぞれについて熟考した形跡がうかがえる。自隊についてはすでに述べたところだが、大洗女子についてはその戦力評価だけでなく、大洗女子がアンツィオをどのように評価しているかについても予測し、それを作戦に活用しているのである。「きっと奴らは言っている。『ノリと勢いだけはある。調子に乗ると手強い』」という冒頭の演説の一節は、隊員たちを発奮させるための表現であると同時に、大洗女子のそのような先入観を逆手にとることを考えてのものである。実際に角谷会長たちは「ノリと勢いだけ」という世評をそのまま受け入れており、みほでさえ試合前半の展開に「ある意味予想外」と感じていた。みほが敵車輌の報告を徹底させ欺瞞の可能性に気づかなければ、アンチョビの「マカロニ作戦」はまんまと成功する寸前だったのである。敵を知り己を知らば百戦危うからず、というのは孫子の兵法だが、アンチョビの思考は自分たちの弱点とされることを逆手に取るという点で、弱小校ならではの鋭さを備えていた。そして、チームの弱さを直視したうえでその活用を目指すというこの姿勢は、アンツィオという衝動が先立つ校風のもとで部隊を指揮する隊長がもつべき伝統的な資質の一部であり、さらにいえば、
心理的動揺の混乱をついて相手を組織的に崩壊させ勝利するという発想は、電撃戦そのものにほかならない。思えば電撃戦もまた、持てる国家との消耗戦を避けるため、持たざる国家ドイツが選んだ短期決戦の方法論であった。みほと同じくアンチョビもまた、この弱者の戦い方を自らのものとしていたのである。

 もっとも、「マカロニ作戦」の方針をより徹底するならば、いきなりデコイを展開して相手の出足を止めるのではなく、最初に軽く攻撃をかけてすぐ撤退し、案の定「ノリと勢いだけ」と安心した敵が不用意に追撃してきたところを包囲して叩くという手もあり得るし、また敵の先入観を利用する点でいっそう効果的かもしれない。これは実際に、準決勝戦でプラウダのカチューシャが大洗女子相手に成功させている。しかし、T34を数輌犠牲にできるほどの物量をもつプラウダならともかく、アンツィオにそんな余裕はない。そこで、欺瞞作戦で相手を困惑させてから、ペパロニの後方回り込みと本隊突入による一連の攻撃までの間に、相手が欺瞞に気づいたり不測の事態が生じて作戦継続が困難になったりすることも、十分計算しておかねばならない。
 そこでアンチョビは、次なる手として「分度器作戦」も用意していた。これがどのようなものかは試合のなかで描かれずに終わったが(コンパス作戦が元ネタだとすると相当に自虐的ではある)、隊長自ら語るところでは包囲戦を中止して「戦力の立て直し」を図るため「フラッグ車のもとに集まれ」というものである。主作戦が失敗したら終わり、ではなくその備えまでも固めておくというのは、アンチョビの深慮をうかがわせる。ただし、そのような状況では戦力的にいっそう厳しくなっているだろうから、優位を意識して浮足立った敵を再び罠にかけるか、あるいは今こそアンツィオの本領発揮とばかりに「ノリと勢い」で乾坤一擲の勝負にでるか、というのが作戦の内実だったかもしれない。そしてそのときこそ、ペパロニの不屈の闘志とカルパッチョの冷静さが、アンチョビを支えて最後の一撃を生み出すはずなのだ。

 このように作戦立案能力の高さを発揮したアンチョビだが、しかしこの2回戦についてだけは、今までと異なる新たな制約要素が彼女に与えられていた。それは新兵器P40の存在である。すでに指摘したとおり、この車輌はアンツィオに加わった初の重戦車というだけでなく、戦車道の先輩たちが代々倹約し貯金してきたおかげで今年度ようやく購入できた、いわばアンツィオ戦車道の伝統の象徴である。このP40の導入に華を添えるためには、試合にデビューさせるだけではもちろんのこと勝利するのでもまだ不十分であり、P40の戦いぶりによってその実力を内外に示すことが必要である。学園艦で生徒たちに囲まれ声援を受けていたP40とアンチョビが、今度は勝利の立役者として、そして伝統に新たな栄光をもたらした指導者として、凱旋式でいっそうの喝采を浴びねばならないのだ。それはアンチョビの自己顕示欲というよりも、代々のドゥーチェをはじめとする先輩たちに報いたいという感謝と敬意であり、伝統を受け継ぐ者としての責任感であり、また輝ける再興をもたらす者としての自負である。
 だが、P40へのこのこだわりは、アンチョビから日頃の戦術的自由度を少なからず奪ってしまいかねない。もっとも、彼女は以前からフラッグ車に搭乗していただろうから、自車を安易に危険にさらせないという点では、P40に乗ろうがセモベンテに乗ろうが変わらない。しかしながらP40は、万一への配慮を今まで以上に要求するし、また勝利の収め方にも影響を与える。P40が無傷で、しかも敵フラッグ車に決定的な一撃を食らわすというかたちで勝利できたなら、夢の3回戦進出という歴史的偉業がP40の勇姿によって記憶されるのである。もしもこの実現にアンチョビが執着すれば、唯一の「重」戦車の装甲を活かしてあえて敵の攻撃を引きつけ、味方の側面攻撃をしやすくするという手を、自ら捨て去ってしまうことになるだろう。せっかくの装甲が守りに入りすぎる姿勢を生み出して主導権と行動の自由を奪う、という聖グロ考察2(1)にて述べた問題と同じことが、アンチョビにも生じ得たのである。
 ただし、この危険性は、カルパッチョのセモベンテがアンチョビのP40に随伴していることで、大きく軽減されている。今までもカルパッチョ車はアンチョビ搭乗フラッグ車を護衛しつつ、いざという場面ではアンチョビが囮となるタイミングを見定めて側面攻撃をものにしてきたのだろうし、少なくともそのための訓練を重ねてきただろう。冷静沈着な副隊長がこれまで同様に隣に控えていることによって、アンチョビは安心して前進を命じることができる。これもまた、性格の異なる副隊長を二人任命して役割分担させたことによる効果なのである。


(2)試合展開と副隊長たちによる補佐

 さて、そこまで入念な準備を整えていたアンチョビだったが、その目論見は試合開始早々いきなり裏切られることとなる。

アンチョビ「行け行け、どこまでも進め! 勝利を持ちえる者こそがパスタを持ち帰る!」
ペパロニ「最高っすよアンチョビ姐さん! てめぇらもモタモタすんじゃねえぞ!」
隊員たち「ぅおー!」
ペパロニ「このペパロニに続けぇー! 地獄の果てまで進めぇー!」
隊員たち「ぅおー!」
アンチョビ「よし、このままマカロニ作戦開始!」
カルパッチョ「カルロ・ベローチェ各車は、マカロニ展開してください」
ペパロニ「オーケー、マカロニ特盛りでいくぜ!」

 隊長の訓示、遊撃隊の副隊長によるその賞賛と率先垂範。それらによって隊員たちの士気高揚を得た隊長による作戦行動開始命令と、本隊付きの副隊長によるその確認伝達。ここまでは予定通りの流れだが、じつはペパロニの「特盛り」という言葉がすでに、予備として積んでいたデコイまですべて街道十字路に展開してしまうという命令違反をこっそり予告していたのである。
 ここで明らかなように、ペパロニは隊員たちの先頭に立つ分にはまたとない切り込み隊長なのだが、それを可能にしてくれる彼女の情念の強さと頭の足りなさは、事前に教えこまれたはずの作戦内容の細部をすっかり忘れ去らせてしまう。この副隊長の長所と表裏一体の短所を把握しているアンチョビは、それゆえにもう一人の冷静な副隊長カルパッチョに命令をより具体的に確認伝達させ、指示の不徹底がないように配慮している。ところが、それにもかかわらず、ペパロニは注意事項をきれいさっぱり忘れているのだ。副隊長として、また遊撃隊長として、これは言い訳しようのない過失ではあるが、隊長の予期せぬ逸脱行動を隊員たちがとることは大洗女子も同様、戦場の熱狂のなかでごくありがちなことだろう。むしろ、ペパロニがだいだいそういう子だと分かっていたはずのアンチョビやカルパッチョならば、指示のさいにデコイの予備は使うなとあらためて釘を差しておくこともできたはずなのだ。ここに見られるリスク管理の甘さと具体的指示の省略は、みほに比べてのアンチョビの指揮統率の不徹底とも言えるし、さすがにそこまで口酸っぱくして言わんでも大丈夫だろうというペパロニへの信頼ゆえの過失とも言える。

 アンチョビの「マカロニ作戦」は、しかしその実車輌数との相違をみほに気づかれてしまうまでは、大洗女子の出足を止めることに成功していた。対アンツィオを想定した練習では、みほはP40とタンケッテ戦術への対策のため、カバさんチームには敵フラッグ車の遠距離射撃、カメさんチーム(仮想的役のアヒルさんチームも同様)にはその邪魔となるであろうカルロ・ベローチェ遊撃隊の駆逐を、それぞれ訓練させていた。アンツィオの「ノリと勢い」を遠距離のうちに無効化する、あるいは近接突入を受けても混乱しにくくする、という構えだったものと想像できる。だが、この予測は、アンチョビの周到な作戦によって完全に外された。みほが気づくまでにペパロニが背後へ回り込んでしまえれば、当初の計画通りに包囲攻撃をかけられたはずである。
 それを阻んだのは、大洗女子の巧みな偵察行動だった。それはアヒルさんチーム・ウサギさんチーム個々の能力というだけでなく、各車が発見した事象を的確に隊長車へと報告し、そこで迅速な集約・分析が可能となっているという点が重要である。つまり、車長や隊長の能力を倍加させる要素としての、通信能力の優秀さである。その価値は、技術的にはやがて沙織がアマチュア無線の資格を取得したほどなのだが、この試合で両校を対照的にさせていたのは通信手の技倆よりもむしろ装備の差だったかもしれない。すでに各所で指摘されていることだが、アンツィオの車輌をみると、カルロ・ヴェローチェではペパロニが車長と通信手と機関銃手(砲手)を兼任している。セモベンテではカルパッチョが車長兼装填手。どちらの車輌も、部隊全体への通信を行うときは戦闘中の彼女たちが通信する余裕は少ない。なおP40では通信手が独立しているものの、車長が砲手を兼ねているため、アンチョビは自車が戦闘行為中だと部隊指揮がとれなくなる。これに対して大洗女子では、4号と89式とM3は通信手が独立、38(t)とV凸は車長兼通信手というぐあいに、戦闘中でも通信を比較的しやすい(通信手が砲撃・装填・操縦を担わない)車輌が揃っている。みほの指示が伝わりやすく、みほに各車からの報告が上がりやすいのは、こういう乗員配置を含む装備面の特徴にも由来していると考えられる。むろんサンダースほかの強豪校は当然のごとく通信手が独立した車輌を装備しているのだが、大洗女子もこの点に関してだけは遜色ないのである。
 ただし、アンツィオもその装備上の弱点を認識していなかったわけではなさそうだ。アンチョビやペパロニが通信の不徹底を生じさせている一方、後の場面でアンチョビが集結を指示したさい、これに従って移動する別働隊セモベンテの隊員が「ドゥーチェの位置まであと1.2キロ!」と叫んでいる。すでにアンチョビのP40は当初の本隊展開位置から大きく移動しているから、別働隊の隊員がここまで正確に隊長搭乗車の位置を把握できるはずがない。ということは、画面に描かれていないもののアンチョビ自身かP40の通信手が、集結予定地点についてのより詳細な情報を各車に伝えていたわけである。持てる装備で最大限に、という努力は大洗女子もアンツィオも同じであった。(もっとも、たんにセモベンテの隊員が当初の本隊展開位置を集結地点と勘違いしている可能性もあるが。)

 当初の読みを外されたみほは、得られた情報をもとにその対応能力を発揮し、偵察中の2車輌に対して、カルロ・ベローチェ隊が移動中と予想される周辺地域の捜索を指示する。その結果、アヒルさんチームがアンツィオ遊撃隊との接触に成功するが、ウサギさんチームは発見したセモベンテ2輌を不用意に攻撃してしまい、逆に追撃を受ける。このとき、ペパロニが89式との接触を隊長にすぐ報告していれば、アンチョビは「マカロニ作戦」失敗を認識して、ただちに次の手を打つことができただろう。例えば遊撃隊を2つに分けて89式への牽制と大洗女子本隊後方への突撃とに用いるとか、本隊と協同して89式を罠にかけるとか、彼女なら臨機応変な策を講じたはずである(その通りに部隊が動くかは別として)。しかし実際には、ペパロニに問いただすまで報告を受けられなかったため、大洗女子から主導権を奪い返すタイミングを逸してしまった。これもペパロニのみならず通信環境の抱える問題でもあり、またアンチョビやカルパッチョがこまめに確認通信を入れなかったことの帰結でもある。

アンチョビ「おい、マカロニ作戦はどうなっている?」
ペパロニ「すみませーん、それどころじゃないんで後にしてもらえますかー!?」
アンチョビ「……なんで?」
ペパロニ「Typo89と交戦中です、どうしてばれちゃったのかなー?」
アンチョビ「十字路にちゃんとデコイ置いたんだろうな!?」
ペパロニ「ちゃんと置きましたよ、全部!」
アンチョビ「はああ!? 11枚全部だと数多いから、即ばれるだろうが!」
ペパロニ「そっかあ! さっすが姐さん、賢いっすね!」
アンチョビ「お前がアホなだけだ! おい、出動だ。敵はそこまで来ている」
カルパッチョ「はい!」
アンチョビ「2枚は予備だってあれほど言ったのに、なんで忘れちゃうかな?」

 こうしてアンチョビが足を止めている間に、遊撃隊とセモベンテ2輌はそれぞれ89式とM3の追撃に引きこまれていく。もちろん目標を撃破出来たなら敵戦力を大きく削ることができたのだが、カルロ・ベローチェの機銃では相手を混乱させられても撃破は不可能であり、セモベンテの固定砲塔も伏撃ならともかく回避行動中の戦車を狙うのは難しい。そして敵を包囲するための配置も、この追撃によってまったく乱れてしまった。一見するとアンツィオが果敢に攻撃しているようで、その実アンツィオのうち8輌が大洗女子の2輌に振り回されている格好になっているのである。それでも追撃される側の2輌は恐怖と混乱によって士気喪失に陥りかけていたから、もうしばらくこの状況が続けばアンツィオにとって結果オーライとなっていたかもしれない。だが、みほの的確な指示によって、アヒルさんチームは反撃へ、ウサギさんチームは回避・阻止行動の徹底へと、それぞれ回復する。さらにみほは、アンツィオが追撃車輌と連携しづらい今のうちにそのフラッグ車を叩いてしまおうと、アンツィオ本隊に向けて威力偵察を開始するのである。
 この段階でようやくペパロニからの報告を得たアンチョビは、すぐさま眼前に現れたみほたちとの対決に自車を含む本隊を駆りださねばならない。本隊同士が相対するこの場面、アンツィオ側がP40(アンチョビ・フラッグ車)、セモベンテ(カルパッチョ)、カルロ・ベローチェが各1輌。大洗女子側が4号(みほ)、三号突撃砲、38(t)(フラッグ車)が各1輌と、互いの戦力は拮抗している。この3輌同士で戦ったならば、はたして先に敵フラッグ車を撃破したのはどちらだっただろうか。しかし実際には、カルパッチョが三号突撃砲をそのパーソナルマークから「たかちゃん」搭乗車輌と見て取り、またこの75mm砲が最大の脅威と判断して、自分のセモベンテで一対一の相手をすることを即断し、アンチョビに了解を得た。ここでのカルパッチョの冷静かつ果敢な判断力は、彼女に期待される副隊長としての役割を見事に務めていると言ってよい。だが後知恵で考えるなら、それは大洗女子本隊の戦力を奪うと同時に、アンツィオ本隊の戦力をはるかに大幅に損なう判断だったかもしれない。
 たしかに三号突撃砲の攻撃力は決して無視できないものだが、カバさんチームのこれまでの活躍を見ると、親善試合でも大会1回戦でも伏撃による撃破が主な戦果であり、双方が激しく機動するなかで味方車輌と協同して撃破なりアシストなりできたことは一度もない。突撃砲である以上、これは当然とも言えるのだが、しかしそれはまた、協同戦術に習熟できていないことの表れであるとも考えられる。事実、このあとのカルパッチョとの対決では、カバさんチームの凄まじい操縦能力が描かれており、単車での機動はすでに並みの突撃砲のそれを超えているように思われる(半ばパニック状態のおりょうが火事場のなんとかを発揮しただけかもしれないが)。だとすれば、仮にあんこうチームなどとの連携訓練に十分な時間を費やすことができたなら、みほが囮となって相手を釣りだしたところを三号突撃砲が横合いから撃破、あるいはカバさんチームが牽制している間にあんこうチームが機動といった、多様な協同行動が可能になったかもしれないのである。だが、この2回戦直前の訓練では、カバさんチームはあくまでも遠距離砲撃や伏撃の基礎を徹底するに留まり、連携攻撃などまだ先の話だった。
 これに対して戦車道経験者であるカルパッチョの場合、あくまでも想像だが、隊長との連携については一日の長があったのではないだろうか。先述のとおり、1回戦まではセモベンテに搭乗していたらしきアンチョビの側面を守り、また隊長の指揮・機動によって敵に生じた隙を狙うのは、カルパッチョ搭乗のセモベンテの役割だったと考えられる。つまりこの両者は、同型の突撃砲を指揮する必要から、互いの不利を補いつつ連携攻撃を行うという訓練・試合経験を長らく積んできているのだ。そして、そのような戦闘場面では、カルパッチョがアンチョビの命令を待って行動するのではとうてい間に合わず、隊長の戦術意図を勘案しながら瞬時に判断して自車を指揮し、アンチョビもまたカルパッチョの行動を予測しつつこれに対応して自車を機動させるという、以心伝心の相互信頼が不可欠である。これこそがアンチョビの目指す「ノリと勢い」のさらなる高み、すなわちたんなる感情共有や集団衝動にとどまらず共通目標の達成に向けて協同・連携し奔流を生み出すという段階の、一つの具体的な姿なのだ。もしも本隊同士の対決において、このアンツィオ隊長・副隊長の連携能力が円満に機能したなら、味方主力との協同を行いにくいみほは、親善試合と同様に自車のみでの状況打開を余儀なくされた可能性がある。

カルパッチョ「あのパーソナルマーク、たかちゃん!? ……75ミリ長砲身は、私に任せて下さい!」
アンチョビ「任せた!」

 この頼もしさたるや、ナオミやノンナに匹敵する。
 だが、カルパッチョが本隊から分離したことによって、三号突撃砲の脅威を払拭できた一方で、アンツィオの大きな戦力要素であるこの連携能力が失われることとなった。その結果、アンチョビは護衛のカルロ・ベローチェ1輌のみを伴連れに、みほの4号と、柚子が操縦する38(t)フラッグ車を相手にせざるを得なくなったのである。この時点で、大洗女子はフラッグ車を回避に、4号を攻撃に専念させられるが、アンツィオはフラッグ車がその両方を行わねばならない。また、P40は4号と性能面で大差ないうえ、すでに述べたとおり乗員配置が不利となっている。車長兼砲手であるアンチョビは、味方への指示に全力を注ぐことができないのだ(対する車長専任のみほはアヒルさんチームへの指示までこなしている)。カルパッチョがいれば何も言わずとも自分のすべきことをしてくれただろうが、アンツィオの指揮系統がもたらしていた様々な長所は、ここですべて奪われていたのである。そしてカルパッチョ不在の背景には、この副隊長の冷静な戦力評価だけでなく、「たかちゃん」の乗車らしき三号突撃砲への対抗意識という、日頃の彼女らしからぬ情熱のほとばしりが存在していた。いやむしろ、カルパッチョもやはりアンツィオの生徒らしい熱い情念の持ち主だった、と言うべきか。
 そしてもう一人の副隊長はというと、

アンチョビ「おい、包囲戦は中止! とか言ってるうちにCVがやられた!? 丸裸だ……。
       一同、フラッグのもとに集まれ! 戦力の立て直しをはかるぞ、分度器作戦を発動する!」
ペパロニ「了解!」
隊員  「分度器作戦って何でしたっけ?」
ペパロニ「んー、知らん!」

 これである。とはいえ、ペパロニは作品内容を忘れきっているものの、隊長の指示に迷いなく従い、自車を速やかに隊長車の方向へと走らせている。操縦手の技倆もさることながら、あれだけ疾駆した後でのこの正確な地理感覚は素晴らしい。そして彼女は、アンチョビの下に集結してしまえば、そこからは隊長の指揮で主導権を握り直せると確信している。この確信を抱いて、隊長の目指すアンツィオ戦車道の高みにたどり着くため、自らの力を捧げんとする。

ペパロニ「待っててください、ドゥーチェ!」

 そう、ドゥーチェが自分たちの力を欲しているのなら、いざ鎌倉、ならぬいざローマ進軍、である。この澄み切った信奉の心が、ペパロニの瞳の輝きなのだ。
 そんな遊撃隊長たちの到着までの間も、アンチョビはおのれのP40で孤軍奮闘する。

アンチョビ「いいか、見せつけてやれ。アンツィオは弱くない、じゃなかった強いということを!
      目指せ悲願のベスト4、じゃなかった優勝だーっ!」

  この言い直しは「負けない、いや勝つ!」という台詞でも見られたが、これらはOVA冒頭の演説と同じく、冷静な現状分析を隊員たちの士気高揚のため咄嗟にアクセル入れて修正したものなのか。それとも、ついにここではアンチョビ自身も激情にかられて、誇大妄想的な目標を言い放ってしまったものなのか。どちらの面もありそうに思えるが、ともあれ勝利への執念を燃やして隊員たちを鼓舞するアンチョビは、しかしカメさんチームの囮行動により、キルゾーンに引っ張りだされてしまう。
 最終的にP40は4号によって撃破され、集結中の他の車輌もその直前にやられてしまうという、畳み掛けるような勢いでの完敗を喫したことは、いかにもアンツィオらしいと感じさせる。だが、その転がり落ちる結末の場面には、アンチョビ率いるアンツィオ戦車道の美点と欠点が、渾然一体となって現出していた。

アンチョビ「よーし、追い詰めたぞ!(砲撃外れる)あ、くそ、装填急げ!」
装填手 「はい!」
アンチョビ「(視線を上方に移し、4号を発見)え。ええーっと……」
セモベンテ隊員「ドゥーチェ、遅れてすみません!(斜面から転落)あ痛っ!?」(M3の砲撃でとどめを刺される)
アンチョビ「こら、無茶するな! 怪我したらどうする……!」
ペパロニ「(集結地点に全速力)アンチョビ姐さーん! 姐さーん!」
      (ペパロニ搭乗車は89式に撃破されて転がりながらセモベンテと衝突、P40はそれらを庇うように後退しつつ4号に砲撃するが命中せず。
       逆に4号の砲撃はP40を一発で仕留める)

 まず、必殺の地歩を締めた4号を発見してアンチョビが一瞬動揺するのは、みほと比べれば臨機の対応にやや劣ると言わざるを得ない。敵フラッグ車追撃の高揚感に呑まれ、それがポキリと折れたときすぐに次の手を打てないというあたりは、やはりアンチョビもアンツィオのいち生徒らしい衝動の持ち主だったということだろうか(たんにみほやまほが例外的という説もあるが)。
 しかし、彼女のアンツィオらしさ・ドゥーチェらしさが発揮されるのはむしろその直後、セモベンテ1輌がP40の背後に転落してきたときの咄嗟の一言である。「こら、無茶するな! 怪我したらどうする……!」と叫ぶその声は、隊員たちの万一の事態を心配し怯える響きに覆われている。そんな注意を与える暇があったら、4号を狙って先に撃破すべきではないのか。いや、よく考えればそれよりも、38(t)をもう一度狙って勝利のチャンスを奪い取らんとするほうが、いくぶん有利な賭けだったかもしれない。対サンダース戦でみほがナオミを気にせずアリサを狙ったように、である。それにもかかわらず、アンチョビは、仲間の怪我をまっさきに心配してしまった。それは上方の4号に戦意を挫かれたがゆえの、気弱さの発露だったのかもしれない。しかし、そこではたしかに、アンチョビの隊員たちへの愛情が溢れ出ている。みほと同じく、仲間の安全を第一に気遣う姿がある。
 さらにアンチョビのP40は、背後に転がる味方車輌群を庇うかのように、やや後退して4号を砲撃する。これは一方では、木立のなかへ後退しようとしたが味方車輌が妨げになった、と見ることもできる。だが他方またこの光景は、砲手アンチョビと操縦手が、敵車輌の射線から仲間たちをP40の装甲で庇おうとしてついフラッグ車の自覚を忘れてしまったようにも見える。4号のはるか上に外れた砲撃も、この後退によって照準がますますずれたにもかかわらず、まるで味方車輌への攻撃を妨げるために咄嗟に放ったかに映る。いかにも慌てた一連の行動は、ドゥーチェであるアンチョビの姉御肌ぶりを、そしてその意を汲める同乗隊員たちの心意気を、物語っているように思えるのだ。

 そして、この最後の場面でアンチョビともう一つの以心伝心ぶりを垣間見せたのが、ほかならぬペパロニだった。彼女はここまでいくつかの大きな過失を重ねてきており、「分度器作戦」についてもきれいさっぱり忘れてしまっている。しかし、作戦が何だったかは忘れても、隊長がその作戦の目標としていたはずの主導権の奪還と勝機の獲得については、ペパロニの衝動と直感は過たずに把握していたのではないか。つまり、もし彼女のカルロ・ベローチェがアヒルさんチームに撃破されずにP40のもとへと駆けつけることができたなら、この遊撃隊最後の生き残りは、おそらく動物的な勘でその全速力のまま敵フラッグ車へと突撃し、体当たりによって走行不能に陥らせ、アンチョビによる狙いすました一撃を呼び込んだかもしれない。直前までは思わず4号に砲身を向けてしまいかけていたアンチョビも、ペパロニの吶喊の声を聞きそのタンケッテの爆走を見れば、すぐさまこの副隊長の意図を掴んで38(t)に狙いを定め直せただろう。本来このような状況で予備の役目を果たすはずのカルパッチョは、いまだに三号突撃砲とのタイマン勝負を続けていた。だが、カルパッチョが冷静な判断のうえで戦況を覆すべきこの場面で、ペパロニは同じだけの貢献を果たしかけていたのである。つまり、カルパッチョがその落ち着きぶりでアンチョビの暴走にブレーキをかけられるとすれば、ペパロニはアンチョビを越える情念のアクセルを踏み込むことで、それを見たアンチョビが相対的に冷静になれるのだ。そして、このアクセル全開を可能にしているのは、ペパロニのアンツィオ生徒らしい激しい衝動を一筋の奔流へと方向づけている、アンチョビへの敬愛の情だった。
 もう一息で隊長のもとに辿り着こうとするペパロニの、「アンチョビ姐さーん! 姐さーん!」という叫びを聞くたび、その純粋さに論者は心を打たれる。ペパロニがアンチョビを「ドゥーチェ」と呼ぶのは、このOVA作品中では、冒頭演説中の「あくまでドゥーチェによる冷静な分析だ」と、集結地点へ向かうときの「待っててください、ドゥーチェ!」の2回。それ以外の場面では、学園艦で優花里に語るさいの「アンチョビ姐さん、あぁうちの隊長なんだけどもう喜んじゃって」、試合開始直後の「最高っすよアンチョビ姐さん!」、報告を求められたさいの「さっすが姐さん」、そして決勝戦応援準備時の「さっすが姐さん、抜かりないっす!」と、だいたいアンチョビを「姐さん」呼ばわりしている。とくに優花里に語った言葉をみると、むしろ日々の学園生活では、この
「アンチョビ姐さん」という呼び方のほうがペパロニの普段の口調なのである。そう考えると、アンチョビの冒頭演説中では、隊長の演出意図を副隊長として理解するがゆえに「ドゥーチェ」と呼んでいたことになるだろうし、試合中に集結地点へ急ぐさいには、試合開始直後から地が出てしまった自分を彼女なりに引き締めなおして、副隊長らしく「ドゥーチェ」と呼び「待っててください」と丁寧な言葉づかいを用いていることになるだろう。
 だが、それは言い換えれば、ペパロニが「ドゥーチェ」と呼ぶときにはあえて・役割を意識して、という距離感が生まれてしまうことを意味している。彼女の持ち前の衝動を抑制し、副隊長としてあるべき姿を演じるためには、この距離感は不可欠なものではある。しかし、それは、ペパロニのアンチョビへの想いにまでも制限を設けてしまう。「姐さん」と呼ぶときに込めているその手放しの敬愛の情と信奉の心は、まっすぐ表現できなくなってしまうのである。そのまっすぐさに誠実であろうとすれば、ペパロニはアンチョビに全てを委ねてしまうがゆえに、自分で考えなくなり自他ともに困ったことになる。しかし、そのまっすぐさが、すなわちアンツィオの伝統である一つの短所が、隊員たちを束ね発奮させるだけでなく、思いもよらぬ一瞬の勝機を生み出すことさえあるのだ。これも一種の、幸運(fortuna)を引き寄せる徳(virtu)言えるかもしれない。
 おそらくペパロニにとっては、アンチョビは戦車道隊長としての「ドゥーチェ」である以前に、日頃から好きで好きでたまらない先輩なのだろう。もちろん自分たちに戦車道の楽しさや難しさを教えてくれる指導者であるし、厳しく温かい隊長でもある。だがその前に、自分では想像もつかないほど賢く、でも自分と同じくらい負けず嫌いで、そのうえ面倒見がよく心配症で、意外とお調子者で茶目っ気があり、微笑ましく可愛らしくも思えるし尊敬も抱くし、という魅力的でアンツィオの校風を、生の充溢を体現する人なのである。優花里にペパロニが「もう喜んじゃって、毎日コロッセオのあたり走り回ってるよ。燃料もあんまり無ぇのに!」と嬉しそうに語るとき、ペパロニはチームの燃料事情について副隊長らしく問題を把握している。しかしそれでも、あるいはそれだからこそ、アンチョビが「喜んじゃって」P40を乗り回していることが、嬉しくてしょうがないのだ。日頃アンチョビがどれほど倹約を心がけているか、そしてその負担をなるべく隊員たちにかけまいとしているかを、ペパロニは知っている。アンツィオ戦車道の伝統と新たな栄光のため、隊員たちの歓喜と成長のために、P40の購入をどれだけ待ち望んでいたかを知っている。そんなアンチョビが待望の「新兵器」にはしゃいでしまうのも当たり前だし、むしろ遠慮せず思い切り楽しんでほしい。ペパロニが屋台でナポリタンを作っているのは、そんな隊長を可愛く思い、またその楽しいひとときの一助ならんとして、稼ぎの一部を今度は燃料費にあてようという考えなのかもしれない。それはまさしくアンツィオらしい協同的な振る舞いであり、ペパロニにとっての喜ばしい奉仕なのである。



おわりに


 以上、アンツィオ戦車道の理念と実態からみる課題、そしてアンチョビによる意欲的な試みと副隊長による補佐について検討してきた。アンツィオ戦車道は、
弱小校がその校風を活かしながら、試合における勝利と戦車道理念との両方を追求していこうとする一つの理想的な姿を示していた。これを率いるアンチョビは、伝統を受け継ぎつつ創造を行い、アンツィオ戦車道に新たな歴史を刻もうとしながら、同時にいま共にある隊員たちの情念や日々の喜びを無視せずに、指揮統率の難しいバランスをとっていた。そして、二人の副隊長は、隊長の困難な役割をそれぞれの性格・能力に応じて分担するなかで、その長所と短所を表裏一体のものとして示していた。
 長所と短所が分かちがたく結びつきながら独自性をかたちづくっているのは、アンチョビも同じであり、またアンツィオチーム全体がそうである。「アンツィオは負けない、じゃなかった勝つ!」といった何度も繰り返される言い直しに見られるように、アンチョビは厳しい現実認識をもったうえで、隊員たちを発奮させるための演技を行っている。また、地味でコツコツとした指導努力を重ねながら、その一方で耳目を集める派手な演出も忘れない。だが、P40に仁王立ちし、ドゥーチェドゥーチェの大声援を生徒たちから浴びながらポーズを決める姿からは、アンチョビが士気向上や宣伝のために隊長の務めを果たしているというだけでなく、彼女自身がノリノリで楽しんでいる気配がうかがえる。そして、みほが決勝戦の渡河のときに仲間への情愛と勝利への合理的判断とをようやく調和させられたように、アンチョビもやはり対大洗女子戦ではその2つの間で揺れ動くさまを垣間見せており、そこがリーダーとしての弱点であると同時に大きな魅力ともなっている。そんな隊長に率いられたチームの個性は、試合のさいに不利をもたらす面があるとしても、それが仲間たちとの独特なつながりを生み出す基盤でもあるという意味で、高校戦車道において勝敗とは別の大切なものなのである。
 とは言うものの、せっかく前日のうちから応援に訪れた決勝戦を夜通しの宴会のあげく寝過ごしてしまったのは、アンチョビのご愛嬌だのアンツィオらしさだのと笑ってすませてもいられない。大洗女子の準決勝戦にはおそらく予算不足で来られなかったぶん、決勝戦には全隊員を引き連れて観戦に訪れたにもかかわらずの大失態であり、何より副隊長たちの成長の機会を逸したという点に悔いが残る。大洗女子の優勝祝賀会に届けたお祝いのアンチョビ缶詰が半額見切り品だったのは、この決勝戦後の会食準備で予算を使いすぎたためではないかと思われるが、いまはまだこの程度の緊張感でちょうどいいのかもしれない。やがてペパロニたちが自らの責務を見つめなおした時にこそ、大洗女子の2試合の映像がほんとうの意味での教材となるのだろう。

 さて、そのときにアンツィオを率いる次代ドゥーチェには、はたしてどちらの副隊長が就任しているのだろうか。二人の今後の可能性について、最後にあらためて考えてみたい。
 まず、カルパッチョは作戦立案能力や冷静な判断・実行能力という点で、ドゥーチェの称号を引き継ぐ資格を持っている。問題は、彼女がアンツィオ生徒にしては落ち着きすぎているということだった。情念が先立つ隊員たちをまとめ率いるためには、ブレーキをかけるだけでなくアクセルを入れて率先して吶喊する姿も見せなければならないが、彼女の性格ではその激しさをはっきり表すのが難しく思われたのである。
 しかし、試合中の三号突撃砲に対する獰猛な攻撃精神の発露や、試合後の共同食事で「たかちゃん」と交わした会話をみるに、カルパッチョの情念は決して穏やかなものではないと分かる。

カルパッチョ「来年もやろう、たかちゃん」(手を差し出して)
カエサル  「たかちゃんじゃないよ」(握手をしながら)
カルパッチョ「え?」
カエサル  「私は、カエサルだ!」(スカーフを翻してチームメンバーのもとへ)
カルパッチョ「……ふっ、そうね。じゃあ私は、カルパッチョで!」(髪をかきあげながら)

 戦車道の試合に臨んでは、幼馴染の「たかちゃん」「ひなちゃん」ではなく、装填手の「カエサル」「カルパッチョ」として、お互いに全力で挑むべき好敵手として。これまでカルパッチョは、戦車道の経験者としてその優れた能力を発揮してきたが、好敵手と呼べる相手が他校にいなかった。しかし今回、ほかならぬ「たかちゃん」が自分のライバルになってくれた。みほとエリカのような因縁や対抗意識があるわけではなく、これまでの自然な「不滅」の友情のもとに競争心を分かち合える相手が得られたのである。カルパッチョの副隊長という立場はカエサルが共有できないだろうし、あるいは
未回収のアンツィオなどと称してカエサルをアンツィオに転校させようと画策したりもしないだろうが、カルパッチョとしてはともかくも、日頃穏やかに見える情念に大きなうねりが生まれたことになる。地中海という「我らが海」にも激しい嵐が吹くように、彼女の内面に潜む激しさを隊員たちにうまく伝えられるような術を発見できたなら、カルパッチョは次の隊長としていっそう推されるべき存在となるだろう。なお、隊員たちに情念を伝える術というのは、カエサルの演技を見倣うことでカルパッチョ自身の表現技術を高めるといったこと以外でも考えられる。例えば試合開始直後のペパロニがアンチョビの号令に合いの手を入れていたように、カルパッチョの言葉や表情・仕草の微妙な変化を掴んで隊員たちに分かりやすく感情的に説明してくれる者がいてくれれば、ある程度は改善されると思われる。
 次に、ペパロニは作戦理解の欠落や衝動的行動の抑制不足という点で、全体を任せるにはやはり心もとない。だが、カルパッチョが隊長にならないのであれば、彼女を副隊長のまま留めて実務面を支えてもらい、陣頭指揮と士気向上だけペパロニが務めるという手もなくはない。サンダースのケイに近いと言えば近い(ケイはいざというときの判断能力も有していたが)。また、たしかにペパロニは試合中の暴走が目立ったが、そんな自分の性格を彼女なりにどうにか制御しようとする姿も、作品内にしっかり描かれていた。すでに挙げた例では、試合中にアンチョビの集結指示を受けて駆けつけるさいの「待っててください、ドゥーチェ!」という言葉がこれに当てはまるが、もう一つ指摘しておくならば、冒頭のアンチョビ演説中に隊員たちがランチを求めて駆け去ってしまったとき、ペパロニがその場に残っているという場面である。たまたま本日のランチが好みでなかったとか、昼食をアンチョビ姐さんと一緒にとるのが日々の楽しみだとかいった理由があるのかもしれないが、本考察ではペパロニのこの姿を、
食欲に対する忍耐心・克己心の表れとして理解する。その背後には、アンチョビへの敬慕に加えて、隊長がP40にかける想いを、つまりドゥーチェが代々受け継いできたアンツィオ戦車道の理念と悲願を、ペパロニなりに感じ取っていることがあるだろう。そのことを胸に抱けているかぎり、ペパロニはドゥーチェの名を受け継ぐための必須条件を正しく満たしているのである。
 さらに想像をたくましくすると、この大会でもアンチョビたちと同じく普段通り明るいペパロニではあったが、今後アンチョビが引退・卒業を迎えるときに、はたして今までと同じ態度でいられるだろうか。
アンチョビの引退試合では絶対に勝って姐さんの花道に、などと心に期するものがあって真剣に相手を調べ作戦を考え訓練を指導し、周囲を驚かせたりしないだろうか。そして、それでも試合に負けてしまい、戦車道を始めてこのかたこんなに悔しいことはなくて、今までのように試合後の共同食事の支度をしても吹っ切ることができなくて、なのにアンチョビ姐さんが満面の笑顔で肩を叩いて「いい勝負だった! それじゃあ、せーの!」と食事の号令をかけてくれて、ペパロニが涙をぽろっぽろと零しながらも晴れやかな笑顔を取り戻したりしないだろうか。そこでペパロニが上を目指すきっかけを得るかもしれないし、そこからの生真面目な努力が彼女のよさをかえって損なってしまうことになるかもしれない。そんなペパロニのこれまでとは異質な暴走にカルパッチョや隊員たちがどうやってブレーキをかけようとするのだろう、などと妄想する論者の情念は止めどなく迸るばかりである。


(2015年6月10日公開・くるぶしあんよ著)

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