日記
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2007年8月1日(水) タリ・ホー
 コマンドマガジンをまとめ買い。しばらく読んでなかったので、「68号は持ってたっけ……?」と店頭で悩む。レジで開封してもらい、特集記事を確認し「ああ、これは読んだ記憶がない」と安心して購入したものの、帰宅後に「コマンドいちねんせい」を読んで、でじゃぶー。あうー。特集も読まずにこっちだけ読んでいたのかしら。淺田さん最強説。
 で、70号台に入ってからは特に、シミュレーションゲームの過去における「敗北」についての対談や、原点回帰のゲーム製作など捲土重来の試みがいくつも。ここでも大佐や軍神など時代の担い手(過去もそして現在も)による自己批判と、淺田さんの新参ゲーマーぶりとが雑誌全体としてうまくバランスをとっています。
 『将棋世界』でも同じ問題に悩んでいるんでしょうけど、古参ファン向けの特集はどうしても狭くなり、新参ファン向けだと薄くなりやすい。かつての『TACTICS』はその案配に失敗して読むところの少ない雑誌になってしまいましたが、『コマンドマガジン』では過去の反省をふまえて戦略を練り、古参向けでも新参向けでも共通に「シミュレーションゲームの楽しみ方の基本」を示そうとしているかのようです。特集に取り上げられた特定の作品のファンしか理解できない、楽しめないような記事ではなく、その作品を知らない人でさえ読んで楽しく、そこに具体化された原理原則を理解することができるという記事方針。
2007年8月2日(木) うあー
 とりあえず、復活しました。

 しかし、さすがに3か月も溜めると、日記の書き方も忘れかけております。もちろん当時の記憶も曖昧。まあ、そうでなくとも日常的に曖昧なので、さして変わりはありませんものの。
 どうやって埋めよう……。「あ」から順に、思いつく言葉について書いていくというのはどうかしら。それでも50日分がいいとこ。あうー。
2007年8月3日(金) 
 アーガン・アーガー。
 TRPG『ルーン・クエスト』のトロルが信仰する神の一柱。っていきなりネタにしにくいものを連想してしまた。
 このゲーム、ルールブックをとうとう買うことのないままサプリメントばかり手元に残りました。オフィシャル世界のグローランサが、あまりに魅力的だったのです。この世界のトロルという種族は、愚鈍な飢えたヒューマノイドというのではなく、世界を左右するだけの力を持った主要な文明種族の一つです。その性質は、ルーンが示すとおり「闇」であるがゆえに、光のもとでは行動に制約が課されます。他種族との交易などのさいにも、この制約は大きなハンディキャップとなるわけですが、その障害を和らげるための能力や、そもそも異質である他種族とのコミュニケーション自体を容易なものにしてくれるのが、このアーガン・アーガーという神なのでした。たしか。
 交易を含むコミュニケーションを、ただ言語習得などによって技能的に可能になるものとしてとらえるのではなく、異質な文化間の障壁を越えるための術・知を超越的存在から与えられるというこの魔術的・神話的世界観。この雰囲気にぼくは惹かれつつ、一方では「これ、現代人にはロールプレイ不可能じゃないか」と尻込みしていたのでした。グローランサにも貨幣経済があるので、魔術的コミュニケーションの貨幣による変質(平準化)などを今後の歴史の中に想像したりもできましたが、ともかく思考方法を意識的に世界の側にシフトしないと本気では楽しめないという、まさに第二世代らしい作品だったのかもしれません。
2007年8月4日(土) 
 インドの山奥。
 ご存じレインボーマンなわけですけど、しかし「インドの山奥」って具体的にどのへんなんですかね。ヒマラヤといってもなかなか広うござんすが、カシミールとか、あるいは意外とデカン高原だたりして。
2007年8月5日(日) 朝番組
 プリキュア。夏よ! 島よ! おまけに妖魔もよ(違)
 孤島の別荘とは、なんという絵に描いたようなお嬢様ですかかれんさま。そしてこまちとナッツが、のぞみとココがいいふいんきに。あれー、りんは? りんはナッツを気にしてないの? ナッツ初登場のときの視線がずっと心に残ってたのですけど、やはりのぞみ一筋なのでしょうか。
 で、ガマオ登場。なんか山田を思い出す。そう、ここはプロミストアイランド。気がつけばじいやと一緒に山菜採り。そして翌日、SOS団も到着。
2007年8月6日(月) 
 ウラー。
 ご存じ、ロシア兵の突撃時の叫びです。カードゲーム『俺のケツをなめろ!』では、ソビエト軍1枚だけが敵プレイヤーに攻撃をかけるという、いまひとつ使いにくいカード。反撃でそのソ連軍カードが消えると、相手の攻撃の呼び水になっちゃうんだよね。
 こないだ観たフィンランド映画『ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦』では、1949年のソ・フィン戦争で延々と守備し続けるフィンランド歩兵の薄い戦線に、見渡す限りのソ連兵の波が「ウラー」と叫んで押し寄せるという悪夢が描かれていました。ぼくが守備兵なら塹壕の中で失禁&失神してますよ。
 ボード・シミュレーションゲームの『パープル・ハート』で、日本兵の万歳突撃に恐怖した覚えがあるけど、あのシステムで東部戦線ものがあったなら、マップの横三列に連なるソ連兵スタックを迎え撃つ降下猟兵なんてシナリオもできたかも。もちろん、最初に盤外砲撃の嵐。
2007年8月7日(火) 来るべき近未来
 馬鹿話。

らむだ「そういえば、今年は『15年前の過去にみらいちゃんがタイムスリップする年』なんだねえ。」
美 森「ああ、ママ4か。もうそんな年なのか。」
らむだ「残念ながら、あそこまでの発明品は実現しませんでしたが。」
美 森「でもあの未来世界、テレビがブラウン管だったよな(笑)」
らむだ「あ、そうだったっけ(笑)。」
美 森「あと、そろそろお前の持ってるママ4のLDが観られなくなる頃。」
らむだ「あ、あうー。」

 どうしよう。
2007年8月8日(水) エンディングでバチカンの騎士に
 馬鹿話。

らむだ「『ドンキー一二三Jr.』というゲームはどうだろう。」
美 森「どんなだそれは。」
らむだ「加藤一二三が、とらわれのローマ教皇を救出するゲーム。
    バナナを房ごと食べると1UPして、『私はタイトル○期ですけどね』。
    パワーアイテムを取ると、ネクタイが伸びる。
    ときどき、加藤先生の後頭部が画面を覆い隠す。
    タイムリミットが迫ると、BGMが『あと何分?』の繰り返しになる。」
美 森「やなゲームだなそれ(笑)。しかし、もしそれが作られたら、
    将棋棋士がゲームタイトルになるのは、芹沢八段以来じゃないのか。」
らむだ「古っ!(笑)」

 ドンキーならむしろ橋本七段でしょうか。
2007年8月9日(木) 突撃!となりの準備体操
 馬鹿話。

らむだ「へーんーしーんするーんだー、ただしい男ー♪」
美 森「『ただしい』って自分で言っちゃうあたりが、かなりあぶないよね。」
らむだ「たしかに。でも、正じゃなくて義なんじゃない? 正義というより義理がたいの。」
美 森「いや、『但し、男』かもしれない。」
らむだ「ただし書きなのか(笑)」
美 森「そう。変身するといっても、魔法少女じゃないよ、と(笑)」
らむだ「わくわくして観てたのに、なぁんだ男か、と背中を向けるオタクたち。」

 それで打ち切られたのか(違)。
2007年8月10日(金) 
 えろげ。
 えろげというものを最初に見知ったのは、大学の友人が持っていた月刊コンプティークの「ちょっとエッチな袋とじ」だったはず。たしか、『ランス2』か『闘神都市』の特集でした。ここで開花したぼくは、やがてテクノポリスで『妖獣倶楽部』や『マーシャルエイジ』などといった作品に衝撃を受け、そのまま堕ちていったのでありました。
 それからというもの、金もないのに喜んで地雷を踏み渡ったものです。『ドラゴンナイト』とか『ランス3』とか、遊べる名作があると分かっているのに、さんざ下調べしたあげくに1本だけ買えるだけの金を握りしめて店に入ると、なぜか初見の『密猟区』なんかをせっかくだからとレジに運んじゃうのですよ。嗚呼ZeroやZero。その一方、『あゆ』などの当たりを引くこともありましたが、通算打率を考えると鼻血でます。えろまんがの打率もここしばらく惨憺たるものでしたが、あっちは1冊あたりの単価が安いので、ダメージがまだ小さいのです。でも捨てるときに積み上げると、その高さが何気にじわじわボディブロー。
2007年8月11日(土) 前にもやったっけ
 というわけで、これまでのえろげ生活をふりかえって、思い出に残る10作品を挙げてみるの巻。

1.『妖獣戦記』
 これはもう、ね。ええ。ゲーム性、物語、キャラ絵、そして触手と、完璧な構成でした。えろくて遊べて触手。これです。ぼくが味を占めるにいたった戦犯級名作。最近リメイクが出ましたが、そっちは未プレイです。

2.『マーシャルエイジ』
 これも同格。ゲーム性、物語、キャラ絵、そしてロリと、完(以下略)。

3.『ランス4』
 で、それらの上をいく大作。圧倒されました。ここから廃人の道へ。

4.『あゆ』
 かと思えば、こんな小品に傾いたり。あゆといったら『Kanon』じゃないんだよ! 影崎由那(由多)作品です。

5.『Baby Face』
 剃毛ロリえろげ。PC買うと必ずインストールする作品の1つでした。陰湿な作品が好き。

6.『痕』
 その一方で、ここからヴィジュアルノベルの第一歩。だけど、次の『To Heart』までで一区切りしてしまいます。えろげは「えろ」「げ」だから別に泣かせんでもいい、いろんな意味ですっきりさせれ、という主張でした。ふきふき。

7.『鬼畜王ランス』
 ほら、こういうえろげらしい傑作があるわけですから。今でも遊べる古典作品。

8.『ONE』
 なのに、友人に薦められて試してみたら、奈落の底ですよ。でも、まだ「えろげ」の本分にこだわるぼく。

9.『AIR』
 で、こだわりが終わりました。んで、この作品についてあまりに腑に落ちないので、ネット上を徘徊しているうちに辿り着いた「銀すず」と「づし」。『AIR』がなければ『萌え文集』の方々との接点も得られなかったし、サイトを開くこともなかったわけで。

10.『ドーター・メーカー』
 話題にはなりにくかった作品なのですが、ぼくがえろげ声優という存在に気づいた最初の作品でした。

 『カオスエンジェルズ』や『同級生』もリストに入れたいところでしたが。
2007年8月12日(日) 5分割
 プリキュア5。夏よ! お化けよ! もちろん(以下同文)
 怯えるりんが可愛うございました。『泥んこ祭』に通じる興奮です。ますこみかさんも大変でしたが、かれんさまもそうですか怖いですか。こまちに思いっきり抱きつくべきです。つか、ご幼少のみぎり両親不在の雷雨の夜などは、じいやの布団に入るわけにもいかず、独りで震えていらっしゃったのでしょうか。萌え。
 伯爵も生前には、りんそっくりの恋人に毎日世話やかれたり叱咤されたり踏まれたりしてたのかしら。わっはー。でも、りんの優しい笑顔って強烈な魅力ですよねえ。これで伯爵の顔がのぞみそっくりだったらなあ。
2007年8月13日(月) 
 オージェ。
 『エルガイム』に登場した敵側のヘビーメタル。大好きでした。金色で強くて怖い顔。基本的にアニメの戦闘兵器については「最強が好き」というマンチキンなのですが、シールドに守られた顔面が(パイロットの精神的にも)弱点だったり、由緒正しい出自の兵器だったりと、けれん味たっぷりのところが従来にない魅力でした。いま「かれんみ」と打ってしまいました。FSSではパトラクシェミラージュやオージ、アルスキュルに受け継がれたその美しいフォルム。思い返せば、最後まで撃破されなかったんだなあ。
2007年8月14日(火) 
 河出翔。
 切出翔(きれいで しょう)の最初設定された名前、だったけど河川唯とかぶるから変更された、んだったっけ。漢字が間違ってるかもしれません。ほんとどうでもいいこと覚えてるな自分。たのきんとりお。なかすどうおみや。くるつてる。おすまんとるこ(そんなのはいません)。
 『奇面組』は3年のシリーズだけ読んで、修学旅行先で単行本買って以来6巻とも揃えて、でもハイスクールに連載移行したときに「もういいや」と読むのをやめました。『ドラえもん』も6巻までと心に決めている人間です。

 ちちにいちゃん(もういい)。
2007年8月15日(水) 雛子の誕生日
 夏の旅行から帰ると雛子ちゃんのお祝いをする、というのが毎年の我が家の行動パターン。今年もその予定のはずが、通信教育の課題を溜めこんたこの義妹にはそんな楽しみを味わう余裕があるはずもなく。
「手伝ってー」
 こういうときだけ猫撫で声。もちろん猫好きのぼくはいちころです。
「半分こね」
 おやつじゃないんだから。では、先に数学の問題を片付けてしまいますか。
「じゃあ、小論文は全部書いてね」
 最近は中2でもそんなの練習してるのか。いやいや、たしかにこれは半分こできないけど、そんなら雛子ちゃんは代わりに何を全部するのよ。
「絵。美術の」
 なるほど、それも折半できないね。
 そんな課題が受験もの通信教育にあるはずないことに気付いたのは、小論文を書き上げてからのことでした。
「もういいじゃん、男は終わったことにこだわらない。御苦労でした、お兄ちゃんっ」
 笑ってごまかして台所へ駆けていく足音。お兄ちゃん、とぼくを呼ぶのは、いまはこの小生意気な少女。
「おとうさん、おわったー?」
 それでは、続いて娘の宿題をば。
2007年8月16日(木) 
 麒麟児。
 力士の名前って意外に覚えているもんですかね。どんな相撲取りだったかはほとんど記憶に残ってないんですけど。あと漢字で書けない場合も。両国。大徹。琴富士。北勝鬨。三杉里。琴桜。逆鉾。寺尾。孝の富士。花の国。ますらお。けんこう。さっしゅうなだ。るわんだ。ぶるんじ。
2007年8月17日(金) 待ったなし(下品)
 力士の名前って「四股名」っていうんだよな、と思い出してから、ふと。おなにーするときの「シコ名」というのを何種類か決めておくというのはどうか。床入りは雲竜型。得意技は上手出し投げとか送り出しとかなんとか。
 馬鹿ですね。
2007年8月18日(土) 
 グイン・サーガ。
 濁音だけど、やはりこれか。読み始めて以来、もう何年になりますか。四半世紀? 出会いはファンロードの特集。
 好きな登場人物は、スカール。生き方も魅力的だけど、とにかくあんまりしゃべらない方だから。最近の栗本キャラは、みんな饒舌で困ります。イシュトヴァーン中心の20巻台から独白の長さが気になりだしていましたが、いまや会話までもが長広舌。グインもとうてい寡黙とはいえない有様です。そこをもちっと簡略化すれば、話が倍速で進むんじゃないのか。
 記憶に残る登場人物は、アンダヌス。あれは。あの表紙絵は。『アはアンダヌスのア』なんてSFがあってもおかしくないくらい。SFの皮をかぶったホラー。
2007年8月19日(日) またか
 朝番見忘れ。
2007年8月20日(月) 
 ケル・カリア。
 ご存じですよね、あのゼントラーディ軍の司令部偵察ポッドですよ。やがてマクロスのプロトカルチャー信者となるワレラ、ロリー、コンダ(いま見てもすごい適当な名だ)が搭乗してて、アーマードバルキリーに撃破されたあの機体。なのです。大好きでした。設定資料を穴があくほど見ていたものでした。戦艦もノプティバガニス5631とか覚えてしまっているのでした。
 なんか参考になる映像はないかと検索してたらこちらを発見。懐かしいプラモの嵐です、あああ。クラッシャージョーの映画に登場した無人メカとか! ウォーカーマシンのオットリッチタイプとか! 金がないので玩具店で毎週箱絵を見つめていましたよ。悩んだ末に購入したデストロイド・スパルタンやリガードは、そうか出来のいいキットだったのか。たしかにスパルタンはよかった。
 しかし、個人用戦闘ポッドではグラージ大好きなのに、なんでリガードを買ったのか自分。まあグラージは高かったけど。後の「予定外えろげ衝動買い」を予感させる子供時代でありました。三つ子の魂えろげまで。
2007年8月21日(火) どうでもいい補足(下品)
 こないだの「シコ名」の話ですが、浴びせ倒しという技もありましたね。
2007年8月22日(水) お前いらない
 『戦国ランス』の援軍がこんなんだったら。

<リーザス>

1.アスカ
 「お助けするろ〜」
 魔法はそこそこですが体力がなさすぎ。ダンジョンでもお荷物に。ミルがいないので強化もなし。

2.エレノア
 「はい……戦います……」
 魔法戦士だけど、能力が中途半端すぎ。ダウナー。油断するといつのまにか自決してます。

3.キンケード
 「私が参りましたからには、どうぞご安心ください」
 口ばっか。使えないことおびただしい。また占領地で暴虐を働くのでしょうか。
 せめてジュリアなら……いや、その方がさらに戦えませんか。どこかのダンジョンで強化されそうだけど。

<ゼス>

1.パパイア
 「うっふっふーん」
 施設を造るとなんか怪しいアイテムを作ってくれるとか、どうでしょう。

2.チョチョマン
 「……誰?」(ランス)
 現役の四天王・官僚ですが、まあ戦えませんよね。内政担当。すぐ解雇。

3.アニス
  糸冬 了
2007年8月23日(木) 遅い話題
 この頃、アキハバラ解放デモ主催者がコミケで暴走という事件がありました。内容は、6月末に実行された解放デモについて各所から批判された主催者たちが、批判者を追及するための手がかりとしてその顔を勝手にこっそり撮影しようと、コミケ会場に手先を潜入させた、というもの。これが「テロ」かどうか、など議論する前に、そもそもこれってコミケのルールにあれこれと違反している行為だったわけで。「オタクの解放」を主張する集団が、オタクの聖典を汚してどうするよ、という。いよいよ内ゲバの時代到来です。

 で、この主催者側はMixiで「私立聖桜学園生徒会放送局」という名のコミュを立ち上げてたそうで、これがまた何とも……。さっぱり「ワクワクキラキラ」してませんから。まなび達はたしかに学園祭中止をめぐって暴走しかけてましたが、異論を唱える人々を意図的に弾圧することはありませんでした。仲間のなかに、まなびの暴走をきっちり抑止することのできる、めーちゃんという仲間がいましたし、彼女をまなび達が忌避することもありませんでしたから。
 そして、まなび達は、「ワクワクキラキラ」とはこういうことなんだよ、という具体的な姿を、例えば「学園祭」に描き出そうとしました。であれば、彼女達の名を掲げるのならせめて、オタクにとっての学園祭ともいえるコミケを盛り上げ、自分が愛している作品のファンが一人でも増えるようにという願いを込めながら自分の想いを表現し、またそういうことのできる場を自ら準備し守り抜く、というのが、まなび達に応えることではないのでしょうか。
2007年8月24日(金) くせ
 コロッケパンなんかを食べるとき、はさんでる側をどっちに向けますか。ぼくはたいてい左側。パンを右手で持つから、手のひらにくっつかないよう、はさんでない方を右にもってきてるのかな。
 おにぎりも串焼きも右手で持つので、「よつばさいきょう」ができません。
2007年8月25日(土) 麻帆良祭考察書きかけ
 今年中に書き終わるかどうか怪しいので(12月24日にここ書いてます)、『ネギま』麻帆良祭(第10-18巻)考察第1弾の草稿を順次掲載していきます。こういうのは完成してから公開したいものですが、あうー。

 連載およそ200回、単行本にして既刊20巻を数えるに至った赤松健『魔法先生ネギま!』(以下『ネギま!』)だが、その物語のうち81時間目(第10巻所収)から162時間目(第18巻所収)までは、麻帆良祭という単一の学園行事を描くことに充てられている。20巻までのほぼ4割、準備や前夜祭(72-80時間目)を含めればおよそ半分を占めているこの行事は、まほら武道会にはじまり、少女達の様々な幕間劇、そして超鈴音との全面対決という、その長さに見合ったじつに多くのイベントによって構成されていた。それらの一つひとつが、ネギに対してはもちろんのこと、明日菜やのどかをはじめとする少女達に対して、少なからぬ影響を与えたいうことについては、おおよそ衆目の一致するところである。そして、『ネギま!』を少年漫画としてとらえる視点が、いずみの氏『リクィド・ファイア』内「赤松健論」などを通じて広く受け入れられている現在、麻帆良祭の影響をネギ達の成長という意味で理解することもまた、ほぼ一般的な読み方となっていると言えるだろう。

 この学園祭より以前のネギと少女達の成長については、すでに論者は「『魔法先生ネギま!』にみる成長の相互性」(後編)にて考察した。そこで各人の具体的な成長の様相とともに明らかとなったのは、マギステル・マギを目指すネギの成長とそこに懐胎する危機、少女達がとらえる「教師(年長者)」・「子供(年少者)」・「少年(対等者)」というネギ像の重なりとずれ、そして主にバトルパートにおけるネギの成長と学園コメディパートを中心とする少女達の成長との対比・相関、などであった。『ネギま!』導入部において作品構造をかたちづくるものとして指し示されたこれらの諸要素は、麻帆良祭編にも同様に見出すことができる。しかし同時に、麻帆良祭編では、これらの諸要素をそのまま保持しつつも、物語の枠組みがこれまでになく激変しているのである。そして、その変化の原因は、少年少女の成長が学園祭以前のものと質的に異なっていることにある。端的に言って、麻帆良祭にて生起した各人の成長は、精神的安定をもたらす調和的なものよりも、むしろ今まで隠されていた事実や各人が気づきたくなかった心情の強制的顕在化によって不安や動揺をもたらすものが、きわめて多かったのである。そのような場面を第20巻までの内容全体から求めると、さしあたり下表のようにまとめられる。(表は省略)
2007年8月26日(日) 続き1
 ぴえろ氏『赤松健作品総合研究所』「『魔法先生ネギま!』の年表」によれば、1-80時間目までが4ヶ月と少々。これに対して麻帆良祭編はもちろん開催期間3日、時間跳躍分を含めた延べ日数でも2週間に満たない。麻帆良祭以前の1割程度というこのわずかな日々に、それ以前を越える数の不安・動揺の契機が見出せたのである。ただし、例えば高音の強制脱衣は(自尊心・自己像の動揺が認められるにせよ)コミックリリーフ的な描写にとどまっており、ここに挙げるにはやや違和感があるかもしれないなど、上記の表に過不足があることは十分考えられる。とはいえ、短期間に多くの(しかも以前の主要メンバー以外を含む)登場人物が動揺し不安を抱いたという概括は、さしあたり可能だろう。
 麻帆良祭編のこの特徴は、作品全体を俯瞰する視点からいえば、それまでの導入編でネギや少女達などの基本的人間関係がおおよそ構築され、今後の物語の布石となる諸要素が出揃ったことを受けて、いよいよそれらを組み替えたり重ね合わたりしていく段階に入ったということを意味している。少年少女の成長を描いていくためには、彼らの自己像や世界認識などをいったん動揺・解体させ、その痛みをともなう再構成を通じて(少年漫画の主人公にふさわしく)さらに輝きを増してお互いを照らしあっていくような問題状況を、いったん作り出す必要があったのである。
2007年8月27日(月) 続き2
 しかし、そのような機会を与える状況が、なぜ麻帆良祭という単一イベントでなければならなかったのか。上記の動揺・不安場面は、いずみの氏が指摘した「ねぎま串」構造に基づいて、主に超の計画によって生起したバトルパートでのものと、恋愛をめぐる学園コメディパートでのものに大別できる。このうち、世界樹の魔力に支えられる超の計画が麻帆良祭編の物語軸であるとすれば、恋愛話の多くを学園祭前後に振り向けることで、麻帆良祭編はもっと短い話数ですっきりと展開でき、「長すぎる」といった批判を避けられたはずである。それにもかかわらず麻帆良祭編にすべてを盛り込まねばならなかったのは、作者側の見通しに問題があったということではない。むしろ、それは、麻帆良祭が「祭」であるということに一つの原因を有する。
 祭とは一般的にみて、宗教的祭礼や乱痴気騒ぎの祝祭といった日常生活から逸脱する例外的行事によって、共同体の秩序を再確認したり、構成員の活力を蘇らせることで共同体を強化・再生したりするという性格を有する。乱暴な言い方をすれば、この逸脱が一時的なものであればその後に復帰する日常生活と伝統的秩序の活性化・柔軟化を促すだろうし、もしも逸脱が持続的なものになってしまえば、それは革命という祝祭を、つまり共同体秩序の根底的な解体・再構成をもたらすことになる。さて、麻帆良祭は学園祭である以上、宗教的な祭祀というより、学園での(タテマエとしての)勉学中心という日常から一時的に逸脱できる祝祭として理解できる。つまり、この学園祭は、日常的学園生活秩序からの一時的解放と、この解放を媒介とする日常的学園生活(のための活力)の再生と学園共同体の回復・強化をもたらすはずのものである。
2007年8月28日(火) 続き3
 このうち、日常的学園生活からの一時的解放については、各人においては自己制約・役割規定からの一時的解放として表現される。
 例えば、純粋にお祭り騒ぎを楽んだ大多数の学園生徒や、超やネギの思惑を知らずに最終日イベントに参加した裕奈達は、いかにも学園祭に相応しい一時的解放を果たしており、学園祭が終わればその楽しかった思い出を活力として再びお馴染みの日常生活に戻っている(その日常的な騒がしさや暴れっぷりがすでに常識外れだとしても)。
 これに対して、例えば学園祭の解放感に勢いづけられて告白するなどというのは、日常的学園生活における自己制約(すなわち否定的な自己規定)からの、しかもその告白を幸運にも受け入れてもらえれば学園祭終了後も影響を減じないような持続的解放である。例えば、亜子が青年ネギに告白しようとしたのが、未遂事件ではあったがこれに該当する。
 しかしまた、そのような自己規定が否定的な自己制約ではなく、肯定的な自負心・自己像や無自覚な先入観などであった場合には、学園祭によるそこからの解放は、肯定的な自己規定や常識的世界観の動揺・解体と強制的再構成というかたちで出来する。上表(省略)の右欄に示された各人が遭遇したのは、まさに個人レベルでのこのような強制的解放であり、そのうち恋愛にかかわるものの多くは、学園祭特有の解放的状況によって初めて成立しえたのである。
 そして、この解放を個人の水準どころか学園共同体を越えて世界全体の水準で実現しようとしたのが、超である。魔法と魔法世界の存在を日常世界に知らしめるという彼女の計画は、学園祭のどさくさに紛れて常識的世界観を無理やり再構成することによって「歴史改変」という凄まじい規模の革命=永続的祝祭を目指したものだった。
 これらの意味において、バトルパートの主軸である超とネギの対決も、学園コメディパートの中心にある各人の恋の一幕も、「祭」としての麻帆良祭において、表面的対立の裏に共通の性質を有していた。つまり、この両パートにおける持続的解放を肯定的・否定的なそれぞれともに主題化するためには、「祭」というイベントが最も適切であり、しかも物語を織りなす各人が立ち向かうべき動揺・不安を網羅するためには、あれだけ長大なものとならざるを得なかった、とここでひとまず言うことができるだろう。
2007年8月29日(水) 続き4
 とはいえ、作者も単行本折り込みにて「この巻からバトルパート」と記しているように、本作品におけるバトルパートと学園コメディパートの並列構成はこの麻帆良祭編でも維持されている。そして、以前は第3・6・8巻に見るようにいずれのバトルパートもほぼ1巻分相当の10話程度に収められ、学園コメディパートと互いに短期間に入れ替わるよう配慮されていたのに対して、麻帆良祭編では第15巻から第18巻冒頭にわたる約30話もの分量が、ほとんど超との最終対決に費やされている。そのうえ、作者が「バトルパート突入」と記しているのは、第11巻半ばから第13巻までのこれまた30話弱にあたるまほら武道会のことなのだ。残るほのぼの話は20話程度にすぎず、祭編全体としてみればバトルパートと学園コメディパートはおおよそ3:1の比となる。
 このバランスの悪さは、従来どちらかのパートに肩入れしやすかった『ネギま!』読者(とくに恋愛話を好むファン)に、作品構成への不満をいっそう募らせるという結果を招いたかもしれない。また、たとえそうでなかったとしても、少女達の成長が主として学園コメディパートでの恋愛をめぐって実現してきたという祭以前の状況をふまえれば、本作品の構成がこのようにバトルパートに大きく傾いていくならば、そこでのネギの成長こそさらに重点的に描かれるものの、少女達の側は成長の機会を奪われて物語の客体となるか、ネギと同じようにバトルパートでの成長を余儀なくされるかしかない。だが、そのいずれの場合にも、成長の多様性や少年・少女の対等な相互関係などはこの「少年漫画」作品から失われ、考察前編で指摘したような悪い意味での「萌え漫画」との意図せざる接近を再び果たしかねないのである。
2007年8月30日(木) 続き5
 この問題に対して、論者は、例えば「アンケート結果などを反映して本作品に何らかの修正・転回が生じた」などといった作品外論理を、これまでどおり解釈視点として用いない。
 むしろ、両パートの不均衡に一見思える麻帆良祭編において、今後よりいっそう徹底してなされるべきバトルパートでの成長と学園コメディパートでの成長の融合が、あるいは少なくとも相互関係の深化が、混乱とともに描かれたのではないだろうか。すなわち、超が日常的生活世界に魔法世界を広く知らしめようととしたとき、それは前者に対する後者の浸透を意味すると同時に、魔法世界に対する学園世界の浸透をも意味していたのであり、そのように相互浸透しかけた両パートの現出が、あの超との最終対決だったのではないか。
 そして、ネギが戦うとき、そこにはやはり今まで同様に少女達との学園コメディパートでの関わり合いが影響しており、しかもその影響力は以前にも増しているのではないか。また一方で少女達も、バトルパートに少なからず引き込まれることによって、自らの成長のありようを学園コメディパートのみでのそれから変化させ、しかもそのことによってバトルパートでもネギに影響を及ぼしうるようになり、ネギの成長のみちすじもいくぶん変化したのではないか。
 この仮説に基づけば、麻帆良祭編は少年少女達にとって自己像と世界観の解体・再構成の強制的契機だったのみならず、作品構成それ自体にとっても大きな動揺と組み替えの時期にあたっていたということになる。これを具体的に検討するために、本論ではまず、祭以前には狭義の中核メンバーではなかった者達を取り上げることとする。
2007年8月31日(金) 続き6
1.学園コメディパート中心の変容 〜あやか、夏美、亜子〜

 さて、両パートの相互浸透という視点を提起したものの、実際にはやはりそのどちらかのパートに主要な成長の機会を与えられた登場人物の方が多い。ここでは、学園コメディパートにおいて内面的変化を示した少女達を事例として、各人をめぐるパート間の関係や動揺・不安の中身を見ていこう。

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