アニメ版『シスタープリンセス』に見る
秘匿された親子愛、あるいは同情的救済

たのしげ


はじめに 〜あえて考察をしよう〜

 既に各所で指摘されていることであるが、アニメ版シスタープリンセス(以下『アニプリ』)では大まかに言ってシリーズ前半では主人公・航が妹たちと家族関係を始める次第を、後半に兄妹の調和を描いている。これは言い換えると、シリーズ前半においては必ずしも仲の良い兄妹が描かれないということである。
 その点について、アニプリのストーリーラインは以下の各ステージから成るものと考えられる。

・邂逅  海神航とその12人の妹たち(および眞深)が同居を開始
・接触  航が妹たちを通じてウェルカムハウスにおける自らの位置を確認
・交流  航が妹たちと相互にはたらきかける交流活動を行い始める
・融和  航が自らの地位を納得したうえでその責任を果たすべく動くようになる

 実際、航は妹たちが(一方的にとはいえ)寄せる好意を無視した上、舞台たるプロミストアイランドからの脱出を試みさえしたように、「邂逅」と「接触」では兄妹間が実にぎくしゃくとしており、一見情けない航の言動に視聴者から不満の声が上がったことは否定できない。
 視聴者視点を代表するはずの主人公が、どうしてこのような視聴者の苛立ちを喚起させかねない振る舞いを、しかも多くの話数を割いてまで行ったのか? 
 本文では、アニプリの構成上これが不可欠であった理由を、あえてシリーズを俯瞰しつつ考察する。さらにこれと関連して、第4話「くまさんどこ?」における事件を考察し、そこから雛子とそのほかの兄妹の背景を推測評価する。またこの過程で、アニプリと「シスタープリンセスRePure(以下『RePure』)」との対比を試みる。
 なお本文の考察はアニプリから読みとれる事柄のみに依拠するものとし、原作およびゲーム版等アニプリ以外の「シスタープリンセス」の世界設定および各登場人物の背景などについては、両者を比較対照する場合を除き、原則的にこれらを考慮しない。


1.航くんとTVアニメの秘密

 まずはなぜ海神兄妹がこのような、原作ともゲームとも異なった環境――全員同居のもとで活躍することになったのかを考える。
 原作の「2ヶ月に一度しか逢えない12人の妹」というシチュエーションは、作劇上どうしてもそのまま2クールTVアニメの舞台として用いることはできないのは明白であるから選択肢から除外される。ゲーム版の設定を流用するにしても、そこには重要な問題が一つある。
 もともと13人の兄妹以外の登場人物がいないに等しいシスプリ世界では、シリーズを通じた主人公を決めるとすれば、それは兄以外にない。
 しかしゲーム版兄のようなキャラクタは、TVアニメ視聴者の代行には適していない。ゲームをスムーズに進行させるために、プレイヤー操るところの「兄」はあまりにも達観に過ぎる性格を付与されているからである。
 兄1人に妹12人というのは、初見の視聴者にしてみれば容易には了解し得ない不可思議な有り様だが、これをゲーム版の兄は何ら疑問に思わないし、妹たちが繰り広げる奇行(と呼んでよいだろう)の数々にもたいして戸惑わない。
 要するに、そこに疑問を持つであろう視聴者と、ゲーム版の兄とは既にその時点で認識を異にしているのである。結果、ゲーム版の兄のようなキャラクタを主人公とした場合、彼への感情移入は視聴者にとって難しくなり、物語世界への没入が妨げられる。逆に言えば、主人公は視聴者視点を代表するのだからこの舞台設定を直ちに受容してはならないということである。したがって主人公が自分の置かれた特異な状況に戸惑い、何らかの形で拒絶を示すのは当然で、そうでなければ物語は"嘘"になってしまう。

 つまるところ全員別居というのは、所謂ギャルゲーに供されるべく特化された設定にほかならない。一般にギャルゲーと呼ばれる分野ではプレイヤーの了解度が高く、かつインタラクティビティ面からはプレイヤー自身をゲーム世界に投影させ易くする必要もあって、演劇的な意味での主人公は敬遠されるのだ。
 このことが問題にならないような構造の作品≒「一見さんお断り」にする、という手もあるにはあるものの、その場合あえて主人公を設定せずに妹一人一人をカタログ的に紹介することでシリーズを構成するよりほかない。この観点から、連続ものとしての体裁を捨て、完全な短編オムニバス構成としたのが次期シリーズのRePureである。実際、RePureの1クール=13週ならばそうしてしまえる。アニプリの2クール=26週というそれなりの長丁場を乗り切るには、それだけだと話がもたないので、シリーズ全体を通してのドラマ性が必要になってくるのだが、これの達成は主人公無しには難しい。
 仮に、ゲーム版の設定でドラマづくりを行うときのことを考えてみよう。ドラマを展開するには、全員別居に至った次第の説明するが避けて通れず、それは否応なくテーマの一部になる。が、これはアニプリのように同居に至る過程をドラマとした場合に比べるとひどく陰鬱な要素を含む話であり、その後に続く本編も同様にネガティブな背景を抱えて進行することになる。劇作は無用に難しくなり、問題が多いだろう。
 アニプリは作品舞台としての原作およびゲーム版の世界を切り離し、主人公・航を導入、兄妹全員の同居を前提に、前述のステージを経るドラマづくりをした。それらの点が批判の対象とされることもあるが、実のところはこのように理に適った選択であった。

 余談であるが、前述の点と併せてよく批判されるのは、不条理で乾いたナンセンスを感じさせる、ともすれば前衛的な演出技法の数々である。眞深分身や影走りなど種々の事情でリテイクから漏れたと思われるものを除き、それらの持つテイストは大畑清隆監督(1〜13話)のそれであり、アニプリ以前に大畑氏が演出を担当したTVアニメ作品「天使になるもんっ!」とも明らかに類似している。にも関わらず「天使になるもんっ!」について同様の批判が少なかったのは、主に作画工程においてアニプリは明らかに「天使になるもんっ!」よりも時間およびマンパワーの投入量≒予算枠が小さく、そのため画が演出のインパクトを受け止めきれるものにならなかったからではないか、と筆者は考えている(そのわりに音関係は高い水準で仕上がっているが、これは服部隆之氏の楽曲と千葉繁音響監督の手腕によるところが大きい)。


2.交し合えれば力

2.1 探さなければ生き残れない

 第4話「くまさんどこ?」は、先の分類では「接触」の時期に当たり、まさに前章で言うところのドラマ性に因って、シリーズ背後にあるドグマを密かに決定づけた回である。
 この話の前半では、最年少の妹・雛子が夢に顕れた熊のぬいぐるみを探すと書き残して失踪するが、それを捜した末に旅姿の彼女を船着き場で発見した航は、自分も島を脱出したいと思っていることも忘れ、一緒に熊のぬいぐるみを探索する。
 この話で注目したいのは、雛子が冒頭でウェルカムハウスを出るときに言い捨てる言葉だ。

雛子 「ばいばい」
 雛子は「行ってきます」ではなく、「ばいばい」と別れの挨拶をした。
 彼女は「くまさんをさがしにいきます。ヒナ」との書き置きを残したが、これは文面どおり単に"くまさんを探索する"というだけの意味ではない。どこにいるとも知れぬくまさんのもとへ"行く"宣言である。このことは彼女が部屋をきれいに片づけ、かつリュックサックに帽子という彼女なりの旅支度を済ませていることで裏付けられる。
 このような、冷静に装備を調えた上での「ばいばい」は、雛子にはウェルカムハウスへ戻る気がまったく無いこと、ならびに航を含めた兄妹の誰もが彼女を引き止めうる力とはなっていないことを指し、事態は一見でも深刻なものである。花穂が慌てて航に助けを求めに来たのも無理はない。ましてこの一連の行動は6歳児がすべて自発的に行ったということを思えば、その意味はたいへん重い。
 くるぶしあんよ氏(「ページの終わりまで」)の考察に依れば、大きな熊のぬいぐるみは母親や庇護者の象徴的暗喩である。雛子が今回起こした行動は、ウェルカムハウスの新しい生活と、そこでの円滑でない人間関係からくるストレスに耐えきれなくなり、欠乏した母性=母親的保護者(を探し求めること)にその救いを求めた結果だと言える。

 だがここで疑問がひとつ生じる。
 すなわち、失踪するほど追いつめられているのになぜ母性を求める衝動が熊のぬいぐるみ探しなどというメタファーにとどまっているのか、なぜ本当の母親のもとに帰ろうとしないのか、ということである。
 ここにおいて筆者は、妹達が全員別の家庭で暮らしていた以上はそれぞれに同居する親がいた(くるぶしあんよ氏)とする見解とは異なった立場をとる。
 もちろん、雛子が「ママのところに帰る」などと言い出せばその瞬間にアニプリがシリーズ根底から崩壊するのは言うまでもなく、作劇的には絶対にあってはならない展開である。それだから、というのは理由の一つになろうが、とはいえそういった制作側の理由から人物背景を決定することはごく普遍的にあるもので、本文でもそのような点をふまえ、以下の考察を行う。なお、2.3節はくるぶしあんよ氏による考察と視点を違えてはいるが内容的に重なる部分が多いことを先にお断りしておく。

2.2 雛子、その魂

 雛子程度の年齢の幼児が、何か強いストレスにさらされる。それで自力で別環境へ脱出しようとはするが、母親のもとには決して帰ろうとはしない、そのような考えが浮かぶことすらない。平均的な幼児に比べかくも強い独立心を確立させた要因が、雛子が何らかの特別な資質の持ち主でなければ、彼女の過ごしてきた養育環境にそれを求めざるを得ない。
 雛子はいかなる環境に置かれて育ったのだろうか?
 これを推測するにあたり、彼女が母親を直接的に求めようとしなかった点をこそ掘り下げて考える。なお、ここでの「母親」には「母親的存在」としての里親等も含まれるとする。

 要となるのは、雛子の認識下に母親が不在であるという点である。これには以下の2つ、母親が実際に「いなかった」場合と「いた」場合があり得る。各場合における母親不在の原因と考えられるものを次に示す。

いなかった …… 死別あるいは生別しており、観念的に母親を知らない
いた ………… 母親は自分を保護してくれる存在だとは認識していない
 
 まず前者、「いなかった」場合であるが、母親と別離した時期は雛子が物心つくよりも前であったと考えられる。というのも、雛子は幼年であるがゆえにその表層意識より母親の存在が払拭されうるとは考えにくく、だからこそ彼女の認識には初めから母親がいなかったのだとするのが妥当だからである。
 そうかといって、母親が居ないぶん父親(的な存在)およびほかの家族、あるいはその代行を為す何らかの養育者に対する依存度が増しているかといえば、雛子にその気配は無い。
 ということは、雛子本人が知る限りにおいて、母親的存在はもちろん父親的存在も周囲に絶無だったということである。すなわち、「頼れる」人物が彼女に無いということが言える。
 翻って後者の場合、母親は「いた」のだとすると、雛子は自らの意志で母親を積極的に否定していることになる。
 幼児の精神において、これは家庭、ひいては世界そのものの否定と同義である。雛子程度の年齢なら本来持っているべき依存心を、ここまで彼女が捨てきったその原因は、作中に手がかりが乏しいため憶測するしかない。
 一般的なことを言えば、母親あるいはその交際相手等による虐待があり得るところであるが、養育者はおそらく海神家が選出したこと(後述)と、かつ海神兄妹とその養育環境は当然ながら海神家の監視下にあることから、その可能性は低い。しかし、もしもその面で海神家の手落ちがあったとするなら、ウェルカムハウスへの招聘は、事態に気づきこれを憂慮した海神家による救済措置であった可能性も併せてここに記しておく。

 このように、どちらの場合であるにせよ、雛子がウェルカムハウス以前に居たところはおよそ世間的な「家庭」のイメージからはかけ離れた場であったこと、およびそのことにより彼女がある種の欠落を自覚なく抱えていることが推測されよう。
 かつて暮らしていた其処が、彼女にとっていかほどの価値も無いからこそ、雛子は一人でウェルカムハウスに発つことができた(ドラマCD『Prologue of Sister Princess』)のであり、そして航のようにもといた場所へ戻ろうとも考えず、ただくまさんを探しに旅立つのだ。
 彼女には、戻るべき処が無いのである。

2.3 おにいたまになろう

 第4話の後半は次のような話である。

 半日を費やした探索もむなしく、熊のぬいぐるみは見つからなかった。疲れてしまい駄々をこね出す雛子だったが、航はその我が儘を受け容れ、独り探索を続ける。そうやって自分のため懸命になってくれている彼の姿を目の当たりにした雛子は、彼の後についてぬいぐるみ探しを再開する。やがてその末に疲労から眠ってしまった雛子と、彼女を負ぶった航は、ウェルカムハウスへの家路で互いの心を通わせるのだった。

 ここで示されるのは、航の兄としての行いと、それによって雛子が「戻るべき処」を得たことだろう。
 航は一日中雛子と一緒に熊のぬいぐるみを探して街を歩き、店を訪ねた。座り込む自分の代わりに、道行く人に聞き込みしてまで真摯にぬいぐるみを探すその姿は、やがて雛子にぬいぐるみよりももっと、ほんとうに欲しかった何かを見い出させる。
 雛子は「ヒナもがんばってくまさんさがす!」と言ったが、このときすでに彼女の望みはくまさん自体ではなく、”航と共にくまさんを探す”ことに移っている。あれだけ請い求めた熊のぬいぐるみだったが、これは自分を保護しかつ味方になってくれる存在のメタファーであった。そして航の行動は、そのような人が確かに自分の傍にいることを彼女に教え示した。そのとき、ぬいぐるみそのものはさしたる重要事ではなくなったのだ。
 彼が雛子を負ぶってウェルカムハウスへの帰路につき、その背中で雛子が目を覚ましたとき。それはようやくほんとうに”帰る”家が雛子にできた瞬間であり、彼女にとって”家庭”の獲得だ。航の自覚こそ乏しいが、ここにきて彼は真におにいたまとなったのであり、雛子の空虚な家庭観を埋められる存在として唯一彼女に認められたのである。
 家庭や家族について観念的な理解の欠けている雛子とまだまだ兄として悟さない航では、そのふれあいは危うくもある。話終盤では、「おにいたまがいれば何も要らない」という雛子の言葉にも顕れているように、彼女の航への依存関係が過剰に高まりそうな気配が生じている。これを憂慮したじいやは大きな熊のぬいぐるみをウェルカムハウスに手配し、以後の結びつきが適度なものとなるよう策を講じてまでいるが、これは雛子の得たものがそれだけ大きかった証左である。


3.海神の訓え

 第4話では雛子に家族という認識の発生を見ることができ、それが彼女にとってある意味で何より求めていたものの獲得であることはここまでで確認した。
 しかし、筆者の推し量るところでは、雛子のほかにも海神兄妹全員がおよそ似たような境遇であった。これについてその原因等を以下から考察する。

3.1 ロンリーマリー

 一例として、鞠絵の場合を考える。
 第8話において、鞠絵はウェルカムハウス以前には療養所住まいだったと独白している。彼女はその暮らしを「ひとりぼっちの病室」、「兄上様のいない世界なんて……!」と忌む。
 この発言からは鞠絵の置かれていた、やはり寒々とした環境が伺えないだろうか。
 鞠絵の言「兄上様のいない世界なんて」からは、鞠絵の中における航の存在がそれほどまでに大きなものとなっていることがわかり、兄に縋る彼女の姿は見る者の胸を打つ。しかしこれは同時に、航が傍にいない=かつて彼女がいた場所が、彼女にとって世界全てを否定しなければならないほど寂しい、辛いところだと訴えてもいる。これは単に"航の存在の大きさ"だけからこの言葉が来たのではないことを匂わせている。
 また、両親(実親か里親かはともかく)とはやはり別離しており面会者はいなかったとしても、「ひとりぼっちの病室」について、一般の病院に類する施設なら他の患者もいただろうに、少しは彼らとの交流なども無かったのだろうか、と疑問も浮かぶ。

 そしてこれらは、鞠絵のいた「療養所」が鞠絵専用に海神家が用意した施設であったとすれば、納得がゆくのである。
 後述するが海神家は膨大な財力を有しており、その程度誂えるのはわけもないことだろう。かつ彼女に個室が与えられていたこと、医療施設に飼い犬の持ち込みが(さすがに病室内には入れないものの)おそらく許されていたことなども、その裏付けの一端にはなる。
 であれば当然、彼女の他に入所者などいようもない。看護者にも、鞠絵と親交を持とうとした者はいなかったことになるが、これは雇い主である海神家に禁じられていたためと考えられる。これについても後述する。
 有り余る財力でカバーされた完璧なフィジカルケア。そしてメンタル面は、今はまだ逢えない兄を想うことでまかなう。これにより鞠絵の虚弱な体質は早期に改善がみられ、本編でウェルカムハウスに来ることもできたのではなかろうか。
 ただこれにも暗い方向での推測は可能である。それは、鞠絵は一般の施設に入所しておりそこでいじめに遭っていた、というものだ(ミカエルは退院後に飼い始めたとする)。鬱屈しやすい療養所という環境のせいもあり、いじめは苛烈なものであっただろう。この場合、雛子同様ウェルカムハウスへの招聘は救済だったと言える。

3.2 内部抗争の火種としての兄妹

 ウェルカムハウス"以前"について言及のない他の妹たちの背景については、これもその言動などから推測するしかないのだが、本文ではその際ある点に着目する。
 年齢もそれまで育ってきたところもそれぞれ異なる妹たち全員に共通する一点、それは過去をまったく振り返らず、兄妹がそろって暮らすウェルカムハウスをこそ我が家とするその強力な意志であり、くるぶしあんよ氏が言うところの"掟"だ。
 これは、妹たちにはその実感として、家族も家も親しい友人も無かったからだ、と筆者は考える。もとより、四葉や春歌に見られるエキセントリックな言動や、千影と亞里亞の異質な世界観、鈴凛や可憐の優秀すぎる頭脳などは、彼女らが周囲から孤立する理由となり得たであろうが、原因はそれだけではない。

 ここで、本編から読みとれる事実「海神家は政治経済ほか各方面にきわめて強大な影響力を持つ」ことと、「海神兄妹はその全員が、嫡出の子か民法第779条で言う認知された子のいずれかに該当する」という仮定に基づき、次の仮説を提案する。

海神家は本系の子の養育において、海神家の意志の安全な執行者以外の関与を許さない
 この規則は厳密で、被養育者の親兄弟姉妹も関われない(したがって鞠絵の療養所ではその環境の特殊性も考慮され、職員程度が彼女と親交を持つことはできなかった)。

 本編から推測する限り、海神家は途方もない権力と財力を擁する、由緒ある家柄であり有数の旧家である。
 そのような大きい家がしばしばそうであるように、海神家にとってその家督および有形無形の財産の相続は、家の行く末ばかりでなくその現状をも左右するきわめて重要な問題だ。
 海神家が政財界に対してふるう凄まじいばかりの権勢は、規模としてはすでに一つの都市であるプロミストアイランドの全てを事実上海神家が私有していることからも、その壮大さが伺える。しかもそれとておそらくは、氷山の一角に過ぎないのだ。当然、敵は外にはもちろん、内側にも数限りなくいるだろう。
 歴史を省みれば、現当主に直接対立はしなくとも、よりガードの薄い周辺人物の縁に絡んで、間接的に海神家の中心へと食い込んでこようとする輩の存在が十分にあり得ることは論を待たない。
 また今更ではあるが、いかに旧家とはいえ13人兄妹というのは多すぎる。みな同腹であることはあり得ないから、海神家当主が妾に篤く積極的に認知したのか、または政治的事情から養子をとったかであろうが、ともかくその母親や後見人などがもしそれぞれ自分の擁する子の各種継承権に不満を唱え、これを主張したりすれば、混迷はますます深まるだろう。
 中でも、邪悪な意図を持つ何者かが将来の被相続者たる兄妹たちを手の内におきこれを恣にするようなことは、当主とその意を汲む者たち――おそらくじいやが密接に関わっている――にとり、何があろうと絶対に防がれなければならない事態だと言える。
 そのような観点から、仮説のような因習めいた規則は、これらの懸念を一掃する究極手段であり、これを海神家が定めていると仮定することで、兄妹の育った環境とその事情に説明がつくのである。


4.聞こえるかこの兄の声が

4.1 妹たちの過去

 前章の仮説に基づき、憶測も交えた上で海神兄妹の養育事情を考える。

 海神家に従い、兄妹は海神家の意志を正しく反映する者にそれぞれ育てられるはずだった。
 しかし総勢13人という数は、この規則自体が孕む歪みを露呈させた。というのは、そのような規則が必要なまでに陰謀のはびこる中にあって、信頼できる配下がそれほどたくさんいるわけはないのだ。つまり、"海神家の意志の安全な執行者"の役割を与えるに足る者の絶対数が、兄妹全てに対して手配するには不足していたのだった。
 海神兄妹が継承する権力と財力は巨大であり、その誘惑もまた大きい。これに耐えることができ、かつ優れた養父母としての人格をも備えた人材は希有であるゆえに、海神家がこれを用意することができなかったのは無理からぬことだろう。
 ひとまず長男(おそらくは)の航には、じいやが割り当てられた。このじいやは様々な秘密を知っており、海神家の腹心にあたる人物であることは、本編における彼の言動を見れば疑いないところである。それに加えて彼が劇中で見せる様々な技能、年齢に見合わぬ行動力と体力は並々ならぬものであり、現役一流エージェントとして長じてもいるのは明らかである。そんな彼自らが航の養育を担ったのは、単に後継者の有力候補たる航が最重要視されていたからというだけではなく、純粋に人材不足である面があったのではないだろうか。
 しかし後に続く妹たちの養育者については、最適な人材が望めない以上、とにかく「海神家を裏切らない」ことこそに注目して選出されることになった。そうして順次割り当てていった養育者たちは、妹たちを材料に何事かを企みこそしなかったが、彼女らに家族のぬくもりを与えることもまた無かったのである。
 しかもどうかして彼女らは、自身の存在が場合によっては世の中を混乱に陥れ得ることを知るに至った。その面において航はじいやの完璧な庇護下にあり、とくに意識することなくエリート街道を進んでこられたが、他の養育者たちがじいやほどの手練れではありようもなく、妹たちを陰謀者と完全に切り離すことができなかったのだった。四葉、春歌、亞里亞、それに可憐が海外に預けられていたのは、彼女らを何とか"敵"の思惑から匿おうとした海神家の苦肉の策である。

4.2 孵化する世界

 このように兄妹の後ろにあるものを考えてゆくと、妹たちの当初の航に対する愛の方向性も、また理解できる。
 海神家はできる限りの防護をしたものの、結局妹たちは"敵"の気配とその狙いを、自ずと察知してしまったのだろう。彼女らの持てる聡さ、鋭敏な洞察力、特殊な感覚などからすれば不思議ではない。むしろそう考えておくのが自然であろう。
 したがって妹たちは、己を狙ってありとあらゆる陰謀が張り巡らされることを知っていた。可憐が操るような深謀遠慮の戦略は、こういった中にあって培われたものと見てよいだろう。そして彼女らは、自分たちの気を引こうとする者はいても、何の裏もなく親しい友好関係を持てる者や、家族と呼べる者などはいないのだ、と思っていた。
 だが、妹たちのうち年長の者は、かつてプロミストアイランドで航と逢い見えたことがある。また、本編およびドラマCD『Prologue of Sister Princess』より判断するに、他の妹たちにも、親族だが例外的に兄のことだけはその人物像などが知らされていたと見られる (眞深に対する対応などから、妹たちは互いの存在に関して知らされておらず、プロミストアイランドへと発つ直前に「何人か存在するらしい」としか教えられていなかったものと判断できる)
 そのこととプロミストアイランド関連の事物は、ことほど左様に過酷な条件下にあって、ともすれば荒廃に向かいやすい彼女らの心を守るためのメンタルケアであり、かつ画策の一部であるとも言える。
 妹たちが求めて得られない、与えるものとてない愛とその期待は、必定彼女らの兄へと向かうことになる。なぜなら兄・航は、彼女らを取り囲む種々の思惑とは本質的に無縁であり、彼女らを受け止めることができ、かつ絶対に"敵"ではない、彼女らと唯一ほんとうに交流でき得る人物だからである。ただこれは『条件』でしかない。

 妹たちは偽りの家に暮らしていた。うわべだけの友人と会話し、嘘にまみれた笑顔の中で過ごしてきた。そうするしかなかったためだ。
 そこにようやくあらわれた、初めての真実。そして将来も嘘と欺瞞に満ちた世界を往くであろう兄妹にとって、おそらく最後の真実がもたらされる。
 ウェルカムハウス。
 航は当初、ウェルカムハウスの生活、ひいては妹たちをそのままには受け入れられなかった。島を出てゆこうとしたり、第7話の「苦手なんだ、咲耶ちゃんのそういうとこ」という彼の言葉などに見られるように、はっきりと妹たちに難色を見せるときもあった。だがそれは彼が妹たちに何をも誤魔化さないという態度の表れである。
 そんな彼だからこそ、真に妹たちのことを納得し、その想い、好意を真摯に受け止めることができた。航には『条件』に加え、妹たちの期待に応えられるだけの『資格』があったのだ。なぜならいろいろな意味で彼は嘘をつかないからである。
 そして彼は妹たちを理解しようと努め、愛し、やがて兄として自ら責任を持つに至った。航はまさに、妹たちが夢見てきた"本物の家族"にして、初めて得た"寄る辺"になりうる人間なのだ。
 また妹たちからすれば、そんな兄はもちろん、そのもとにいる者たちとして相通じる姉妹がいるのは、どれほど心安いことだろうか。それに何より、たとえうまくいかずにぎくしゃくしたり、空回りしたりはしても、ぎこちない航の気遣いが、あたたかな誠意が、他意のない笑顔が、妹たちにとってどれほどいたわりとなっただろうか。
 航は妹たちが求めてやまなかったものを与え、それによって彼もまた妹たちから与えられる。第23話における可憐の「可憐のお兄ちゃんはいつも世界一よ?」との声は、まさしく彼が妹たちにとってそのような無二の存在であることを示していると言えよう。


5.結論 〜捩れざるを得なかった慈愛〜

 以上の通り、本文ではアニプリのシリーズ構成を2クールTVアニメにおけるドラマツルギーの面から妥当性の検証した。それにより主人公及びそのキャラクタが必然であり、少なくとも一部で批判されているように"無意味に原作を改悪した"とは言えないことを確かめた。
 またそこから雛子の過去における養育環境、ひいては海神家の因習的な規則の存在を推論した。この規則は仮説の域を出ないが、これを仮定することで妹たちの行動規範に一端の説明がつくことを併せて示した。

 ウェルカムハウス周辺および航に対して計画された試練が、航に妹たちが求め与えんとする愛へと応えられるようになってもらうための、おそらく海神家当主の意志によるものだということは本編で示されている。彼は、いかなる咎も無いまま生まれながらに過酷な定めを背負ってしまっている息子と娘たちに、何を思って後の指示をじいやに与えたのか――
 ここに、とても身勝手で複雑だが――どうしようもなく深い慈しみが、見えてこないだろうか。

 本文はアニプリの一解釈として、その点を主題に推すものである。


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