『ハートキャッチプリキュア』 ここらが正論の限界よ

〜クモジャキーによる否定的評価に対する具体的批判〜



はじめに

 
本論は、テレビ番組『ハートキャッチプリキュア』の戦闘シーンで定番となっているやりとりについて、敵幹部によるデザトリアン犠牲者の否定的評価がどの程度「正論」なのかを、より具体的に検討するものです。(なお、考察の主要部は2010年9月7日に公開し、その後の放映分については2011年10月9日までに追加しています。)
 前回考察では、やりとりの要約を一覧化したうえで、それらに示されている敵幹部とプリキュアの対立軸をいくつか指摘してみました。また、作品全体(まだ放送中ですが)についての結論として、敵幹部の正論度はあんがい高くない、と述べました。しかし、読者の方々からの意見には、それでも(あるいは、一覧表のみの印象として)敵幹部とくにクモジャキーの正論度は高いとするものが数多く確認されました。たしかにサソリーナやコブラージャはともかくも、クモジャキーの台詞には説得力があり、厳しい叱咤・訓話であるとも受けとれるということを、論者も認めるところです。その点については前考察である程度は反駁したつもりですが、例えば第29話などクモジャキーの説得力が最も高いと思われる話について、検討不足のまま終えてしまっていたことは反省すべき事実です。これでは論者がクモジャキーに「軟弱者」となじられても仕方ありますまい。それでプリキュアが助けにきてくれるのならともかくも……(もっと軟弱者)。
 そこで今回は、クモジャキー登場話のみを選び出して、デザトリアン犠牲者の苦悩・クモジャキーによるその否定的評価・プリキュアによる反論をもとに、クモジャキーの台詞の正論度をあらためて批判的に検討してみます。そのさい、評価の言葉そのものの正しさだけでなく文脈におけるその意味なども、もちろん問われることとなるでしょう。そしてまた、プリキュアによる反論がどのように犠牲者の力となるのかも、同時に究明される予定です。敵幹部とのガチバトルとまではいきませんが、プリキュアの力を借りながら利岡ユウトのように立ち向かってみたいと思います。
 ところでみなさんは、家族や友人の心を弄ばれたあげく見せかけの「正論」で罵倒されても、堪忍袋の緒が切れませんか。本作品のやりとりは、前考察をふまえて整理すると、次のような対応関係となっています。

正論−反論部分 侮蔑・責任回避−義憤部分
敵幹部 A:犠牲者の心は弱く、苦悩や努力に意味はない C:(1)(だから心を弄ばれてデザトリアンの素材になるのは、犠牲者自身に全責任がある。)
  (2)(デザトリアンとして無能なのも、犠牲者自身の弱さのせいである。)
プリキュア B:犠牲者の心は尊く、苦悩や努力に意味はある D:(1)(犠牲者の尊い心を弄び操作している責任主体は砂漠の使徒である。)
  (2)他者の心を操作することは、そもそも許されない。
  (3)純粋な心ゆえの苦悩につけこむことも、もちろん許されない。

 AとBの対決にばかり視聴者の関心は向きがちですが、じつはAはCを正当化するための言い訳です。プリキュアは、敵幹部のAをBで批判しつつ、Aに隠されたCをあの決め台詞によって、つまりDとその前置き「〜するなんて」によって糾弾するのです。
 しかし、実際のやりとりでは、敵幹部はCの態度をとり続けていながら、そのことをはっきり説明することはあまりありません。彼らの台詞で目立つのはAの部分、つまり「正論」と見なされやすい部分ですから、その部分が敵幹部の主張全体であるかのように錯覚されてしまいます。一方のプリキュアは、Dの(1)については第8話以外で明言していませんが、(2)と(3)については決め台詞とその根拠の部分でいずれかを繰り返し明言しています。すると、敵幹部の主張Aに対してプリキュアがBおよびD(2)(3)で言い返すとき、視聴者がCの存在に気づかずにA−Bの対抗のみに注目すれば、「どちらも一理ある」と評価したくなるでしょう。そして、視聴者がCの存在に気づかずBを軽視したままA−D(3)という本来的でない対抗図式で見てしまうと、「プリキュアが敵の正論を聞かずにキレている」と批判する落とし穴にはまってしまうことになります。
 ここで論者がもう一度はっきり述べておきたいのは、プリキュアがみんなのために戦う信念としているD(2)(3)は正しく、D(1)も事実であり、それゆえCの主張が根本的に誤っている、ということです。この時点で、
ブロッサムの堪忍袋の緒が切れるのは人として当然であると言えますし、敵幹部の主張すべてを「お前が言えた義理か」の一言で全否定して済ますことさえ可能でしょう。しかし、本考察ではあえてクモジャキーの土俵に乗り、A−Bの対抗図式を中心に据えながら、クモジャキーが放つAの「正論」の拳にカウンターを入れてみる所存です。



1.クモジャキー話におけるやりとりの一覧

 前考察の一覧表から、クモジャキー登場話(第20話と第25話を除く)のみを抜き出して整理しました。

デザトリアンの苦悩など
/解放後の展開
敵幹部による否定的評価など プリキュアによる反論など(主に反論と義憤)
(a)-(f)は前考察2(3)内の区分記号
4 小笠原まお「ペアを解消されたくない」
 (つぼみも同じ苦悩)
/お互いの誤解がとけて元鞘
(えりかからの申し出を受容し親友に)

クモ「コンビだの一人じゃないだのくだらん。漢は独り生きるもの」
マリ「ブロが好き。ブロでいい、じゃなくてブロがいい」
ブロ「くだらなくない。人が人を求める気持ちは大切」(c)
「まおさんの気持ちを利用して魔物を暴れさせるなんて堪忍袋の緒が切れた」
8 ももか「友達がほしい」
マリ「姉の心を弄ばないで」
/仕事も友達作りもがんばる、姉妹仲良し
クモ「弄んだのは周りのお前ら」 ブロ「気づかなかったのはその通りだが引きずり出して弄んだのはクモ」(e)
「堪忍袋の緒が切れた」
マリ「気づけなくて悔しい、だからこそこれからは」
「ここらが我慢の限界」
11 酒井よしと「格好悪い兄でいてほしくない」
/兄弟でカンフーの稽古にいっそう励む
クモ「その場で力が出せない臆病者は最初から負けている」 ブロ「臆病ではない。(ここで兄まさとは弟玉を奪取)自分は無理と思ってしまう弱さは誰にでもある」(bかc)
「卑怯な手で兄弟の絆を弄ぶなんて堪忍袋の緒が切れた」
15 ヒロト「師匠に叱って欲しかった」
/素直に謝罪し、道場への復帰を許される
クモ「甘えん坊」 ブロ「謝りたかった心を利用するなんて堪忍袋の緒が切れた」(a)
マリ「ここらが我慢の限界」
18 番ケンジ「漫画を描きたいが母を心配させたくない」
/自分の夢を母はすでに受容してくれていた
クモ「うじうじした弱虫に熱い漫画は描けない」
「番長は強さのみ、優しさ不要」
ブロ「うじうじなんかしてない、優しい」(a)
「心の強さは本当の優しさに宿る。その優しい心を利用するなんて堪忍袋の緒が切れた」
22 水島アヤ「なぜうまく育てられない」
/悪い思いこみに負けずじっくり頑張る
(クモ)- ブロ「植物へのひたむきな愛を利用するなんて、堪忍袋の緒が切れた」
マリ「植物を使って植物を駄目にするなんてここらが我慢の限界」
26 沢井なおみ「生徒会長と仲良くなりたいがどうしたらいいか分からない」
/いつきに自分から申し出て受容され、友達に
クモ「くだらん。理由も不明。ごちゃごちゃ悩まず相手に飛び込め」
「ぬるい友情では己を高められない」
マリ「憧れの人との接し方が分からない乙女心を馬鹿にするな」(d)
ブロ「その心を利用するのはひどい」
サン「友情のあり方は多様。うち一つを押し付ける心の闇照らす」(c)
29 林ゆうき「みんなに嘘をついた自分は駄目」
/みんなに謝り、箱根越えに再挑戦
クモ「くだらん。自分を駄目という軟弱者は気合の足りない弱虫。情けない」 ブロ「情けなくない。本当に駄目なら嘘をついた自分に悩んだりしない」(a)
「まっすぐな心を弄ぶなんて堪忍袋の緒が切れた」
35 杉山ごう「映画制作が間に合わない、学園祭がなくなればいい」
/大切な作品を発表したいから全力を尽くす


クモ「ムーンがいくら戦おうとこいつの心はもうボロボロ」
ムーン「学園祭がなくなって後悔しないのか。本当にやりたいことは何か自分で考えろ」
「決して枯れさせはしない。全ての心が満るまで戦い続ける」
41 ノリコ「高校生に敵わない自分、どうやったら先生らしくなれるの」
/自信と愛情をもって園児のために

クモ「なんちゅう軟弱」
ゆり「園児に最も頼られているあなたが自信を失ってどうする」
43 カスミ「妹にかまけてばかりの両親に自分は愛されていない」
/先輩の姉としてすすんで妹を大切に


クモ「愛だの家族だのくだらん。大切なのは勝つか負けるかのみ」
ブロ「親に愛されていない子はいない、本当はカスミちゃんも妹が大好きなはず」
「家族や妹を思う気持ちを戦いの道具にするなんて、堪忍袋の緒が切れた」
46 - クモ「戦いが全て、俺を楽しませろ」
「何の力もない弱い妖精」

「そうかもしれんが分かるわけにはいかん」

コフ「マリンのためならどんな無茶でもする」
マリ「コフレの方が何万倍も強い、誰かを守るためなら頑張れるその心が本当の強さだと思う」(a)
「ただ自分が強くなりたいがためにたくさんの心をもてあそび世界を砂漠にした、ここらが我慢の限界」


 このうち第22話では犠牲者への評価台詞がありませんので、それ以外の各話について、詳しく検討することにします。なお、すでに述べたとおり、「心を利用」し「弄ぶ」ことに対するプリキュアの義憤(「堪忍袋の〜」)は、すべて正当なものです。それゆえ本論の主な検討対象は、否定的評価とそれに対する反論の部分です。



2.各話の検討

(1)第4話:ペアペア礼讃だー

 この話では、テニスのペアを熊沢あゆみに解消されたと勘違いした小笠原まおの苦悩と、プリキュアのコンビをえりかに解消されたと勘違いした花咲つぼみの苦悩とが、重なり合うようにして描かれています。まおもつぼみも、自分より優れた相方から見捨てられたと感じたわけです。実際には、あゆみはむしろ自分の方こそまおの足を引っ張っていると考えて単独練習に専念するつもりでしたし、えりかはつぼみとずっとコンビのつもりでしたし。分かってみれば「なぁんだ(笑)」という感じのすれ違いなので、このことを「くだらん」と切り捨てることもじつは可能です。しかし、そのすれ違いが苦悩を生んだことも事実ですし、クモジャキーが否定したのはそこではなくて他者との絆の必要性についてでした。
 さて、そのクモジャキーの台詞を正論として解釈すると、他者はあくまで他者なのだから依存せず、自分の力で生きる覚悟を持て、となりますか。なるほど説得力があります。ブロッサムによる反論では他者を求める気持ちが大切とされていますが、論者としては互角という印象。
 しかし、ここでまおが突っぱねたえりかの「正論」を参照してみましょう。えりかは、まおの相方が去ったことを、まおが新たな・よりよいパートナーを見つけるチャンスとして捉え直し、励まそうとしました。これもまたたしかに一つの視点ですし、とくに失恋時から立ち直るために役立つ考え方とも言えるでしょう。ですが、まおはかえって苦痛を感じました。なぜなら、彼女がパートナーとして認める相手は、未だあゆみだけだからです。そこには依存心もあるでしょうが、それに加えて、この相方にパートナーと認めてもらえる自分でいたい、という意志もあるはずです。互いにそう思える二人がコンビを組めば、そこには共依存などよりもまず、相手と向き合うなかで自らを高めていく、つまりお互いを高めていける、そんな関係が生まれます。これが、「独り生きる」ことではままならないパートナーシップの素晴らしさです。ブロッサムによる反論では、「人が人を求める」と語っていました。それは、ある人が、他の誰でもないこの人を、求めるということです。ブロッサム自身がたったいま、マリンに「ブロッサムがいい」「ブロッサムが好き」と言ってもらえたからこそ、この言葉はためらいなく口をつきました。ブロッサムもまた、マリンが好き、マリンがいい、のです。だからこそ、見捨てられたと誤解して泣いたのです。じつは、つぼみのこの不安と同じものが、えりかにもあったようです。えりかが「あたしたち、親友だよね?」と問いかけるときのためらいと焦燥感、つぼみに笑顔で肯いてもらえたときの一瞬泣きそうに見える表情。顔は広いけど親友と呼べる相手がいなかったえりかの、こころの花がまたひときわ輝いた夕暮れでした。
 もちろん、えりかの「正論」と同様にクモジャキーの台詞も、ある状況・ある者にとっては大いに支えとなるでしょう。(その者がデザトリアンにされていなければですが……。)しかし、そんな「正論」を吐いたクモジャキーでさえ、成長するプリキュアとの戦いを通じて自らの技を磨いているではありませんか。「独り生きる」漢にも、好敵手と書いて「とも」と読む相手が必要なことに気づいていないとは。クモジャキーの漢道、まだまだ先は長いと言えましょう。

(2)第8話:捕れない責任があるものか

 この話では、えりかの姉である来海ももかが、モデル業のやりがいと周囲からの賞賛の影で、多くの友達をもつことのできない不自由さや孤独感に苦悩するさまが描かれています。唯一の親友であるゆりの存在はとても大きいものの、彼女にさえ相談できないこの痛み。もちろん家族の前で出すわけもなく、とくにえりかに対しては、妹が突っ張ってくるぶん姉も平気な顔で突っ張り返すほかありません。その妹自身は姉に対する劣等感で日々苦しんでいるのですが、姉から見ればこの妹は、たくさんの仲間という自分にないものをごく自然に持っています。お互いを羨望しつつ、そのことを勘づかれたくないという姉妹の間柄は、まことに近くて遠いもの。隠されていたその事実を、クモジャキーは暴露したうえ、ももかの心を弄んだのは周囲のえりか達だと糾弾しました。
 前考察で述べましたが、ここにはクモジャキーの責任転嫁が隠蔽されています。ブロッサムが指摘するとおり、「引きずり出して弄んだ」のは彼なのですから。しかし、マリンが自分からは反論できなかったように、ももかの苦悩を身近な者達が察してやれなかったという事実は残ります。ブロッサムもまた、その点については認めています。クモジャキーの「正論」は、今回ここにありました。
 さてしかし、えりかや周囲の者達は、ももかの心を「弄んだ」のでしょうか。彼女の苦悩に気づいてやれなかったことや、彼女が自分達とは違う存在であるかのように振る舞うことなどを通じて、本人達にはそのつもりがなくてもももかを孤立させていた、というのは事実です。しかし、それは意図的に「弄ぶ」のとは異なります。悪意をもってももかを孤立させる者も、あるいは若干いたかもしれません。ですが、ほとんどの者達は、ももかのファンとして彼女に笑顔を向け、一流モデルのそばにいるには自分は相応しくないと感じて、あえて距離をとっているのです。敬意や賞賛や好意が意図せざる苦悩を与えてしまうという皮肉がももかの問題なのであり、当事者のなかには「弄ぶ」主体などいません。
 それゆえ、クモジャキーの「正論」は、この点においても批判されることになります。だいたい、えりかはクモジャキーの言葉を真正面から受けとめて、ほかならぬ妹の自分が、姉のことが大好きな自分が、その姉の心を分かってやれなかったことに、悔しさを痛感しました。それはえりかのせいではない。えりかが意図して姉を弄んだわけではない。でも、えりかは姉の苦悩の責任を引き受けようとしています。責任(responsibility)とは自らすすんで応答する(response)ことであるならば、このときえりかは、姉の苦悩に自責の念で応えたのです。これぞ
海より広いえりかの心。これに対してクモジャキーは、自分がももかの心を弄んでいることを堂々と認めることもせず責任転嫁して笑うとは、まっこと漢らしからぬ卑怯な態度。えりかの方が、そして心配する妹の前でもう一度明るく突っ張ってみせるももかの方が、なんぼか漢、いや乙女と申せましょう。

(3)第11話:これが最後の真実

 この話では、カンフー少年である酒井まさとが自信を失ったことをきっかけに、格好いい兄を尊敬し一番弟子として稽古に励んでいていた弟よしとが、ヒーローとしての兄像の崩壊に耐えられない悲しみからデザトリアンにされてしまいます。自分の実力のなさという現実に直面したまさとは、苦しむ弟が囚われる玉をスナッキーから奪い返す勇気を出せません。そんなさまを見たクモジャキーは、その場で力を出せない奴は臆病者で最初から負けている、とばっさり切り捨てました。これはまさしく「ここがロドスだ、ここで飛べ」。かなりの説得力をもつクモジャキーの「正論」に、画面のこちら側でも論者が悲鳴をあげました。激痛です……しかし一人では倒れません、クモジャキーを道連れに(迷惑)。
 スナッキーに立ち向かえない段階のまさとに対して、クモジャキーの台詞はそのまま通用します。これはもう間違いありません。ただし、「最初から負けている」からといって、最後まで負けているかというと、そうでもないのです。その理由のひとつは、ブロッサムが反論したとおり、「自分は無理だと思ってしまうことは誰にでもある」からです。言い換えると、無理だと思わずに頑張れることや、一度は諦めたけど再起することももまた、誰にでもあるのです。一度の結果をもって丸ごと「臆病者」と評価し見放すのではないブロッサムの姿勢もまた、十分に正論であると言えるでしょう。しかしそうは言っても、人間にはここで結果を出さねばならない場面があるのではないか。例えば今回、まさとが弟の閉じ込められた玉を奪取できるかどうかは、そんな決定的でとりかえしのつかない場面なのではないか。
 ここで、兄まさとの課題をおさらいしましょう。(デザトリアン化されたのは弟よしとなのに、クモジャキーの評価対象は兄なのです。)今回まさとにつきつけられた現実とは、あくまでカンフー趣味でしかない自分の実力はたいしたことがない、という、これまでの肥大した自己像を粉砕するものでした。柔道で敗れた相手に(そして無関係な奴にまで)頭を下げさせられたというのは、たいへんな屈辱だったでしょう。しかしそれは、強制的にではあれ、まさとが妄想に逃げ戻らずに現実を直視したことの証でした。そんな兄の情けなさをなじった弟が怪しい者達に捕えられたとき、まさとは、可愛い弟を助け出したいという兄としての意志と、それだけの実力などないはずだという自己理解との間で葛藤し、立ちすくみます。さあ、ここが大事なところですよ。

デザトリアン「兄ちゃんが力を出せば、あんなやつ本当は倒せるのに!」
まさと「……兄ちゃんは……!」
クモジャキー「ふん。本当も何も、その場で力の出せん臆病者は、最初から負けとるぜよ」

 ご覧のとおりクモジャキーの否定的評価は、まさとの態度に対するものですが、「本当も何も」は弟よしとの苦悩の声に対するものなのです。まさと自身が「本当ならこんなやつ」などと言い訳しているわけではありません。彼はただ、水晶玉を取り戻すための一歩を必死に踏み出そうとあがいています。その足を押しとどめているものは、スナッキーへの恐怖というよりも、眼前の大柄スナッキーがあの柔道野郎を思い出させるからです。自分が一度は誠実に負けを認め、カンフーをやめると宣言したことが、まさとを縛り付けてしまっていました。弟の期待に応えられる実力はない。「本当は倒せ」ない。クモジャキーの台詞のなかで最も重要なのは、「最初から負け」ているという決めつけです。それは、まさと自身が痛感していたことだからです。
 その束縛を解き放ったのは、ブロッサムの叫びでした。

ブロッサム「臆病ではありません!」(二人、戦いに復帰)
まさと「!……うやあああああ!」(大柄スナッキーに突進)
ブロッサム「自分は無理と思ってしまう弱さは、」(まさと、スナッキーに一撃)
       「誰にでもあります!」(まさと、もう一撃を与えて水晶玉を奪取)

 ここで、ブロッサムの反論の最中にまさとが突進していることに注目してください。誰にでもある弱さをブロッサムに認めてもらえたから、まさとはスナッキーに挑むことができた、というわけではありません。むしろまさとは反論の根拠を聞く気もなく、全力でスナッキーに挑んでいます。つまり、まさとの背中を押したのは、ブロッサムの「臆病ではありません」というたった一言です。そう、臆病ではない。自分は弱い、自分に実力はない、自分は嘘でごまかしていた、それが過酷な現実。でも、大切な弟を助けたいという気持ちもまた、嘘偽りのないたしかな事実であり、捨てたくない真実です。「考えるな、感じろ!」まさと自身がつぼみに教えたように、感じるその気持ちに身をゆだねれば、スナッキー目がけて突き進み、自然に打撃を2発入れていました。カンフーの稽古は、たとえ真似ごとだったとしても、まさとの心身に実を結んでいたのです。
 玉から解放されたよしとが目覚め、夢の話を兄に伝えようと頑張ったとき、まさとは「兄ちゃんも夢を見てたようだけど」と言いました。それは、一連の出来事の恐怖を弟の心に残さないための台詞でもあります。そして、現実を直視していたつもりで真実を見誤っていた自分自身を、反省する言葉でもあります。このとき彼は、自分をあらためて見つめ直す勇気を得ています。そして、その勇気は最初から彼に備わっていたものかもしれません。まさとはたしかにスナッキーを前にして力を出せずにいました、しかしまた一歩たりとも後ろに下がろうとしていなかったのです。そんなまさとの秘められた漢気を見抜けなかったクモジャキーこそ、その場で力を出すこともなく、デザトリアン敗北を見て撤退してしまうではありませんか。クモジャキーは最初から負けていたのです。『北斗の拳』におけるラオウとフドウの逸話を、ここで持ち出す必要すらないでしょう。

(4)第15話:受けと攻め

 この話では、かつて明堂院流道場から追い出されたヒロトが、本心では師匠に謝りたいのに素直になれず、卑怯な手でいつきに勝利したもののやはり叱ってもらえずに苦悩するさまが描かれています。いつきもまた、可愛いもの好きという趣味を無理に我慢しながら道場の後継者たるべく修行するなかで、自分の本当にやりたいことについて戸惑うのですが、これがヒロトの苦悩と重なり合うわけです。このヒロトに対するクモジャキーの評価は「甘えん坊」。いやその通りですね、じつに正論。
 ブロッサムによる反論は、シンプルに「謝りたかった心」として捉え直すというもので、これもまた事実です。テーマが「素直な心」や『謙虚さ」ですので、今回の正論度は両者イーブンと見なしてよろしいでしょうか。
 よろしくありません!(ブロッサムの声で)――今回のポイントは、ヒロトが明堂院流を究めたいと自ら願う意志、いつきが「武道も可愛い服も大好き」と素直な気持ちに立ち返り、その両方を望む意志というように、二人とも自分の望むものへ自ら向かっていこうとしていることにあります。師匠もそのことを二人に気づかせようとし、あえて一度は突っぱねてみせているわけです。たとえ稽古が厳しくとも、たとえデザインが難しくとも、自分が好きで努力していることだから頑張れる。そこには、自分が自分の素直な欲求のために努力しているということへの自負心と、それが楽しいという満足感があります。
 ところがクモジャキーは、いつきに「遊んでやる」と余裕をかまし、デザトリアン浄化後には「次はもっと俺を楽しませるぜよ!」と言い捨てて姿を消しています。いつきに真剣勝負を挑まないのは、たしかに生身の人間とでは力の差がありますから認めてもいいでしょう。しかし、俺を楽しませろ、とはどういうことでしょうか。これは余裕の有無という問題ではありません。「楽しませる」という言葉は上から目線の偉そうな物言に聞こえますが、見下している相手が何かしてくれないかぎり自分が楽しめるかどうか分からないわけですから、じつは主導権を自分からすすんで敵に渡しているも同然。他人が自分にしてくれることを待っている、そんな甘えん坊がクモジャキーであり、いつき相手に居付いてしまったということなのです。楽しみを受動的に待っている者が、能動的に楽しむ者にかなうはずもありません。顔を洗って出直しましょう。

(5)第18話:男の子と違う、女の子って

 「島本プリキュア」として名高いこの話では、見た目は怖いが心優しい番ケンジが、少女漫画家を志すも母に告げられずにいたがついに白状することとなり、母を悲しませるのではと苦悩するところをデザトリアンにされてしまいます。彼の描いた漫画原稿を読んで憤りながらも、引き裂くことはしなかったクモジャキーさんに論者もいくぶん好印象。そんなクモジャキーの今回の評価は、うじうじした弱虫に熱い漫画は描けない、番長には強さだけがあればよく優しさは不要、というものでした。
 「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」という有名な言葉に照らせば、クモジャキーの台詞はすでに不十分と言えます。もっとも、男ではなく番長が問われていますので、番長の定義によっては十分ということにもなります。とはいえ、論者が知る様々な番長漫画(『熱笑!!花沢高校』『私立極道高校』『ガクラン八年組』『筋肉番長』『嗚呼!熱血ロリータ番長』)でも、番長の強さとともに優しさが描かれていたと思います。
 ブロッサムも、ケンジが「うじうじ」ではなく優しいと捉え直したうえで、「心の強さは本当の優しさに宿る」と言い切っています。漢としては、「心の優しさは本当の強さに宿る」と言い換えたいところかもしれませんが、少なくとも今回の両者の言い分としては、プリキュアに軍配が上がるでしょう。そして、ケンジが心配していた母の気持ちにしても、母は息子の夢を知るとそのまま受け入れ、励ましました。妖精達も最後に語っていたように、ケンジの苦悩はこの母の広い心の前に杞憂ですんだのです。
 というわけで、今回クモジャキーの「正論」は空振りに終わったわけですが。このさい、ケンジには別の視点から苦言を呈しておきたいと思います(僭越)。それは、「熱い漫画」を描くことについてではありません。島本和彦先生も「描かないほうが 売れると思うよ」と笑っておられますし……。ここで問題とするのは、投稿漫画の中身についてです。実在のプリキュアを主人公にする、それはいいとしましょう。起承転結を決める前に描く、それも一つのやり方です。しかし、あの作中の「ケン」は何事ですか。自分の名前をつけた美男子キャラを二人の想われ人にするとは。いや、気持ちはよく分かります。とくに二次創作などでは、原作キャラよりオリキャラに力が入ってしまいがちですし。憧れのプリキュアと、理想化された自分との関係を夢見るのも、悪いことではありません。二次創作を認めない雑誌投稿作品であるにせよ、あるいはそうであるからこそ、自分の全てをそこに叩き込んでしまうのは、一歩譲って熱い心と認めておきます。
 しかし、屋上でつぼみとえりかに演じてもらったあの一幕を、思い出してください。ブロッサムとマリンがケンを巡って思い悩む展開について、二人は何も文句を言ってませんし、その漫画を進んで手伝いさえしています。しかし二人の凄いところは、ケンジの妄想漫画に素直に馴染んでおきながら、作中のケンと自分達のどちらかが結ばれるような結末を、あのロールプレイングでやんわりと、しかしきっぱりと拒絶していることです。ケンジも猛烈に感動して泣いている場合ではありません。たしかにあのクライマックスは涙を誘われるものですけれど、少女漫画家を目指すケンジがここで注目すべきは、つぼみとえりかが何の準備もなしに見せつけた女の子の対人スキルなのです。投稿作品の完成に集中するあまり、自分が描くべき女の子というものをより深く理解する絶好の教材をつかみ損ない、投稿作品に活かす余裕を得られなかったことは、仕方ないとはいえ残念でした。もっとも、そのようなことは投稿を終えて一段落した頃に、自分の作品を振り返り、掲載作品を読み直し、クラスでつぼみやえりか達を眺め、また家で母親の話をよく聴くうちに、だんだん受けとめていけるようになるのかもしれません。そしてケンジが女性というものをいまの彼なりに理解したとき、家の中でも「お母様」ではなく「おふくろ」と呼べるようになるのでしょう。

(6)第26話:分かってんねんで

 この話では、いつきの前で緊張しすぎてしまう沢井なおみが、えりかの豪快な気遣いに耐えきれず逃げだした先で自分の勇気のなさを憂えているところ、デザトリアンにされてしまった姿が描かれています。友達になりたいのに、どうしていいか分からない。この苦悩に対して、クモジャキーは「ごちゃごちゃ悩まず相手に飛び込め」と叱咤します。後半の「ぬるい友情では己を高められない」という部分については、それを一面的に押しつけることの弊害をサンシャインが指摘しており、それで反論は十分済んでいます。しかし前半の「相手に飛び込め」の部分は、たしかに広く通用するはずの正論であると視聴時の論者も感じたものでした。
 これに対するマリンの反論は、憧れの人との接し方が分からない乙女心を馬鹿にするな、というもので、前考察では、論理的な批判と心情的な共感との対立軸をここに見出しました。また、それは、「相手に飛び込め」の部分に対する反論というよりも、クモジャキーが「くだらん」とか理由が不明だとか否定している前置き部分に対して、反発しているものと言うこともできるでしょう。今回のこのやりとりは、これまでのケースにも増して正論vs正論という雰囲気です。
 しかし、これも前考察で指摘しましたが、なおみは自分がすべきことを頭ではとっくに分かっているのです。普通に流し素麺に参加すればいいし、普通にハイタッチすればいいし、一度は「いつきさん」と呼べたのだからそれを続ければいいし、わたしも質問させてと言えばいい。そんなことは百も承知であり、だからこそ分かっていてもできない自分が情けなく、えりかの気遣いに応えられないことが申し訳ないのです。この苦悩は、第11話のまさとのそれよりも、第8話以降にももかが友達をつくろうと動き出したとき周囲の同級生達が感じるであろう困惑に近いと考えます。憧れのあの人に親しく声をかけてもらえたけど、普段の仲間達とするような気安さで返事ができず、つい構えてしまう。そんな自分のぎこちなさが辛くて、内にこもってしまうという。第15話でなおみは、入部前のいつきをとっこ達と並んで囲みきゃいきゃいしてますから、この時点では素敵なお客様相手という気分でしたが、同じ部員となるとやはり違いますよね。、論者にしても向かいにつぼみ達が引っ越してきたとしたら、いくら日頃そんな妄想を繰り返していたところで緊張してどうにもなりません。
 番ケンジくん、先ほどは批判してしまってごめんなさい。
 さて、デザトリアン化して戦うさなか、プリキュア達から励まされ、サンシャインからも友達だと言ってもらえたわけですが。いつきでなくサンシャインがそう言ったのに嬉しいというのはどういうことなのか、また水晶玉に囚われている間の出来事はどこまで犠牲者に影響するのかなど、検討すべき問題がここにいっぱいあります。結果としてはクモジャキーが主張したように、解放されたなおみが自分から飛び込んで、いつきに受け入れられました。しかしクモジャキー自身はと言えば、「相手に飛び込め」と叱咤しながら自分は離れた場所におり、「ぬるい友情」を批判しておきながら未だパートナーシップの重要性に気づいていないという有様。まぁ後者については、同僚の一人は逃亡、一人は半分ポワポワでしたから、彼を責めるのもお門違いですが……。孤高のバンドマンを気取るヒモみたいな雰囲気。
 なお余談ながら、壁を乗り越えたななみが百合暴走するのではないか、という一部視聴者の憶測について、論者はわりと否定的です。夕暮れ目覚めたとき、いつきが浴衣の着付けを手伝ってくれると言ったのに、なおみはそこで反応していないのです。あの場面では友達の申し出をすることで頭がいっぱいだったのかもしれませんが、だとしてもいつきに受け入れてもらえて安心した直後、そのことに気づくはずです。もしなおみが次の一線を目指しつつあるのだとすれば、浴衣に着替えて浜辺へ下りるとき、滑って転び駆けたいつきの背中を支える手指の表情が、なおみの秘められた心のうちをもっと物語っていてもよかったはずでしょう。

(7)第29話:その嘘ほんと

 この話では、京都から東京まで自転車走破に挑んだ林ゆうきが、箱根の山を自力で越えられずバスを利用したものの、学校でゴールの出迎えをしてくれた先生・級友にそのことを言えず苦悩していたところ、デザトリアンにされてしまうさまが描かれています。この酷暑のなか、中学2年生が自転車で京都から延々走ってきたあと箱根越え。しかも飲み水がなくなってしまったという状況では、無理をしたあげく万一の事態に陥るよりもずっと懸命な判断だったと思います。しかし、夏休み前に宣言したことを完遂できなかったという意味では、ゆうきにとって挫折は挫折。出迎えの場面でみんなに正直に告白できればよかったけれど、あれだけ賞賛されてはなかなか言えませんよね。
 やり遂げられなかったこと、そして嘘をついてしまったことに対するゆうきの苦悩を、クモジャキーは「自分を駄目という軟弱者は気合の足りない弱虫」とばっさり否定します。これまた痛烈な正論であり、画面のこちらでのたうち回る論者の無様な姿が再び披露されたのでありました。ですが、論者はともかくゆうきの場合には、駄目な自分のさまに苦悩しつつも、だから自分はもうこのままなんだ、しょうがないんだ、と諦めの言い訳にしようとしていたわけではありません。そもそも、駄目な軟弱者という自己像を乗り越えるために、この夏は大冒険に挑んだのです。それゆえに挫折が辛く、もう一度そこから立ち上がるために必要な力は、休み前のそれをはるかに越えるものになってしまったのです。そう考えますと、今回の対立軸としては、(b)結果としての評価と過程としての評価、も適用できるかもしれません。
 ブロッサムによる反論は、「本当に駄目なら嘘をついた自分に悩んだりしない」というこれまた素晴らしい意見。それはすでに述べたとおり、ゆうきが諦めの言い訳をそこに見つけようとしていないからです。理想があるから悩みもあるということ、それは第21話の鶴崎先生と共通する図式でした。その鶴崎先生は、生徒達がゆうきに対する落胆と非難を示すさい、箱根越え以外をすべて走っただけでも大変なことだと教育者らしく示唆しています。ですが、この評価は、ゆうきのツーリングについては適切な温かい正論なのですが、ゆうきが嘘をついてしまった(正直に告白できなかった)ことについてはカバーしきれていません。一同はあくまで勝手にゆうきの偉業を讃えたのだとしても、そこには善意と、今まで見下してしまっていた級友に対する素直な申し訳なさが込められていただけに、棘が刺さったままに感じてしまうのは仕方のないことでしょう。だから、ブロッサムの反論は、ゆうきの嘘をめぐる苦悩を癒すための大切な言葉なのです。

 もっとも、この言葉をゆうき本人が直接聞いているわけでもありません。彼が立ち直っていく経緯について、つぼみ手作りのメダルを鍵として確認してみましょう。(ああいうものを女子が男子に贈るとなると、同級生が妙な反応しないかと冷や冷やしますが、おそらくつぼみはそういう子として理解されているのでしょう。ふざけた噂はえりかと番が叩き潰すし。)
 ゆうきのゴール時、つぼみがメダルに込めているのは、ゆうきの目標達成への「おめでとう」と、彼の宣言をきっかけにつぼみ自身の目標を見つけられたことへの「ありがとう」「私もがんばる」です。「おめでとう」という意味については、他の級友と同じくつぼみが善意で出迎えてくれていることから、ゆうきもすぐ分かったことでしょう。しかし、なぜ布メダルなのかは不明。これが判明するのは、保健室でつぼみと直接話す機会を得たときです。そこでつぼみは、ゆうきの挑戦が自分を発奮させたことを伝えるのですが、それは厳しく言えば、ゆうきにそのつもりがないところで彼女が「私はどうしよう」という問いを勝手に受けとったものです。もしもゆうきがこの話を聞かなければ、そのまま嘘で押し通したかもしれません。しかし、困難な課題に取り組むつぼみの姿は、箱根越えまでの自分の姿そのものです。つまりメダルは級友による賞賛のシンボルというだけでなく、ゆうき自身が持っていたはずの真摯な意志のシンボルともなったのです。途中で挑戦を放棄し、嘘までついた自分の言葉がもとで、つぼみが挑戦を続けている。自分の言葉にはそんな価値などないのに。いや、その言葉に相応しい自分になれるはずだったのに。
 この重みに耐えかねたゆうきは、部員に囲まれて頑張るつぼみの姿を見かけた場面で、とうとうメダルを返してしまいます。そしてデザトリアン化と解放を経て、ゆうきは、自分の前にいるつぼみがついに衣装を完成させたことに気づきます。普段は大人しいのに、自分を変えようとする意志を貫いたつぼみ。同じく自分を変えようとして失敗したゆうきは、彼女の「新しい自分」がまぶしくて、自分にもそういうものが欲しいと呟きます。そこでつぼみが答えたのは、自転車があるじゃないですか、という言葉。はっとして振り返れば、土手のうえに愛用の自転車が待っていました。そう、ゆうきはどんなに苦悩しても、この自転車を乗り捨てることはなかった。それは嘘ではない、ぼくにはたしかに自転車がある。
 この自転車とともにした苦労と、自分の挑戦した意志に誇りを感じるから、ゆうきはみんなの前ですべてを告白し頭を下げました。たちまち起こる級友のブーイングに、割って入ったのがつぼみです。彼女の慰めは、下手をすればかえってゆうきを追い込む危険性も持っていました。しかし、つぼみが彼の首にもう一度メダルをかけたとき、それはつぼみが意図したような、彼の努力と勇気に対する表彰や、彼のおかげで頑張れたことへの感謝という意味から外れ、新たな意味を勝手に獲得しました。ゆうきにとって今このメダルは、彼の宣言を勝手に受けとめて自分の目標を達成させたつぼみから、ゆうきに投げ返された問いなのです。私は頑張り抜いた、新しい私はこうしてみんなの前で勇気をふりしぼることができる。私はあなたの言葉を嘘にしない。あなた自身はどうなのか。最初の宣言をこのまま中途半端なままで終わらせるのか、それとも誇りを抱いてその達成へ再び向かうのか、と。それはメダルというより挑戦状、リングの中央に置かれたベルトなのです。ゆうきの漢気を引き出したのは、つぼみのメダルの意図せざる力でした
 だから、まだ首にかけるのは早い。弁護してくれてありがとう、と言ってすますこともできない。ゆうきは直ちに「この自転車で」箱根越えに再挑戦することを宣言しました。歓声を上げる級友とつぼみ、しかし彼女はゆうきが勝手に決めた勝負の相手だったのです。自転車の前にまるで道を照らすライトのようにメダルを結わえて、ゆうきは箱根の坂をこぎ登ります。前へ、前へ、メダルの先へ。一歩前をゆく級友に追いつき、追い越せるように。やがて胸を張ってゴールしたとき、ゆうきは三度このメダルをつぼみにかけてもらうのでしょうか。いえ、論者はそれよりも、ゆうきが箱根土産の野の花を、つぼみに贈るのではないかと想像します。自分が再挑戦してかちとった記念のメダルとして、まだ直接伝えられていない「ありがとう」と「おめでとう」を込めて、それぞれ自分の目標を達成した者同士の毅然とした誇りと友情をもって。もしかするとそこに慕情も混ざってしまうかもしれませんが、恋心を抱くのもゆうきの勝手、
見事砕け散るのも青春でしょう。

(8)第35話:鎧袖一触

 この話では、映画研究会の杉山ごうが、明堂学園祭までに映画制作を間に合わせられないと焦りまくったところ、その心の隙をつかれてデザトリアンにされてしまうさまが描かれます。これで犠牲者になるのであれば、年末進行の大人達はまるごとデザトリアンになれますよね……。さて、ごうの場合は学園祭を粉砕する方向で暴走しましたが、これは「学園祭がなくなってしまえば」という暴走する意識がわずかに存在していたためでしょうか。それとも、こんな姿になろうとも自主制作の映画作品そのものは壊したくないという歯止めが、やはり無意識に働いていたからでしょうか。学園祭の看板などには攻撃しても、校舎など重要な部分には手を出さないあたりも、そんな感じがします。
 その後つぼみ達が変身できないという危機を、ゆりが一身で救ったわけですが、ダーククリスタルの力でデザトリアンを乗っ取ったクモジャキーも、あっさり撃退してしまうその強さたるや。杉山デザトリアンには叱咤を与え、クモジャキーの否定的評価には「枯れさせはしない」とたんに突っぱね、その言葉どおりの結果を出す。友人・知人以外の犠牲者に対するプリキュアの対応を、典型的なかたちで示してくれるのがムーンライトです。
 今回はムーンライト無双すぎて、クモジャキーの態度はもはや負け惜しみと呼ぶことさえせつないものでした。せっかくパワーアップしたのに……。いえ、それどころかデザトリアンの悲鳴に否定的評価を下す暇さえ与えてくれないなんて……。もしや、この速攻即決というムーンライトの強さ・ためらいのなさこそが、クモジャキーの「正論」にとって最大の敵なのかもしれません。しかも、元の姿のゆりは、一見クールビューティながらじつは生真面目さの隙を後輩たちに突かれてうろたえるという可愛さをも持ち合わせています。硬軟あわせもった完璧乙女に対抗すべく、クモジャキーも意外な一面を垣間見せることが必要なのでしょうか。でもそれだと、番ケンジとかぶってしまいますよね……。ウエスターの道さえ塞がれているとは、これこそムーンライトの恐るべき戦略と言えましょう。

(9)第41話:マッチポンプ?

 この話では、保育園のノリコ先生が、園児に対する指導力に自信を失ったところ、デザトリアンにされてしまうさまが描かれます。すぐ上で述べた第35話と同様に、ゆりがノリコデザトリアンを叱咤することで、ノリコは自信と愛情に満ちた先生として大切な子供たちを抱きしめられるようになりました。ただし、ゆりの言葉だけでこの回復がなされたわけではありません。デザトリアンの正体がノリコ先生だと知らない園児たちが助けを求めてノリコの名を呼び、さらには「ノリコ先生を返せ」と泣きじゃくりながらデザトリアンに立ち向かう姿を目の当たりにしたからこそ、ゆりの叱咤もノリコの心に届いたのです。
 そしてこの一連の展開のなかで、クモジャキーの非難はプリキュアたちから何の反論も招きませんでした。愛の対極は憎悪でなく無関心であるとすれば、本話のクモジャキーはまさしくそのような華麗にスルーされる存在となっていたのです嗚呼。園児に披露した人形劇のなかで、えりかが悪役クモジャキーを「ジャキジャキーッ」と演じていたのが、せめてもの関心の表れとして受け止めるべきでしょうか。
 まあそれよりも本話で問題なのは、そもそもノリコがあそこまで自信喪失した直接的原因が、ゆりの園児あしらいの巧みさだったということですけれど……。論者も観ていて「うまいなー」と感心しておりました。ノリコも普段から園児を叱れないことなどに悩んでいたとはいえ、一介の高校生にあんなお手本を示されてしまっては、プロとしてさすがにしんどいものです。要するに今回は、ノリコをへこますのも叱咤するのもゆりの役目となってしまったわけですが、ゆりも当然へこます意図などあるはずもなく。優秀すぎて周りの者が(第31話の才谷秀雄のように)辛くなる、というのも天才肌の人間にありがちな面倒ごとであり、もしもゆりがプリキュアでなかったなら、そういう悩みによって心の花をしおれさせていたかもしれません。一方のノリコ先生も、キュアムーンライトじゃなくて元の姿のままのゆりに叱咤されていたわけであり、高校生に叱られたということに後で気がついて再びへこまないかしら。しかし、相手が年下であろうと誰であろうと、自分のためになることを教えてくれる人から謙虚に学ぼうとする心をも、ノリコは今回得られたのかもしれません。その学び育ちゆく姿勢もまた、園児たちにとってまたとないお手本となるのでしょう。がんばれみんなのノリコ先生。

(10)第43話:妹っていいよね(結論)

 この話では、幼女カスミが、産まれた妹にばかり両親がかまっていることに嫉妬して愛情に飢えていたところ、デザトリアンにされてしまうさまが描かれています。本話でもクモジャキーの家族愛否定の言葉は、ブロッサムによって反論されることなく済まされました。もちろん、家族愛を「くだらん」とするクモジャキーに対してブロッサムは「戦いの道具」にしてはならないと言うわけですから、家族愛の大切さを主張するという意味では、きちんと反論しているともとらえられます。つぼみは日頃から家族愛に満ちており、さらに本話ではやがて産まれるきょうだいへの想いにあふれていましたから、家族愛がくだらなくないことなど当たり前すぎて、反論する手間さえかける気が起きなかったのかもしれません。
 そう記す論者もまた、13人の妹19人の姉妹への愛情に浸る日々を過ごしておりますが、もちろんクモジャキーの言葉になど耳を貸す気も起きない次第です。ええ。

(11)第46話: 分かってはいるが分かるわけにはいかん

 この話では、最終決戦を迎えたクモジャキーが、キュアマリンとのタイマンに敗れるさまが描かれます。戦いの快楽が全てだと笑うクモジャキーと、大切なものを守るためだから戦えると語るマリン。非力なコフレを嘲笑うクモジャキーと、コフレの勇気を称えるマリン。そう、マリンとコフレは、誰かを守るために懸命に戦うという姿勢において相通じています。(この最終決戦では、ブロッサムとシプレ、サンシャインとポプリが気持ちを同じうして共に戦うという、絆のつよさがじつに美しく描かれていました。)本考察でこれまで(本話放映前までに)述べてきたようなパートナーシップや、誰かの思いに応えること、本当の勇気、全力を出すこと、そういったものの素晴らしさを、ついに本話でマリン自身がはっきり言葉にして訴えてくれました。ファン冥利に尽きます。
 さて、最終話では元の人間として目覚めることができた熊本さんことクモジャキーですが、あの戦いへの偏執心を浄化してもらえたことで、武術家としても一皮むけたのでしょうか。それでもやはり完全にはこだわりを捨てきれず、何かのたびに大人気ない闘争心・競争心をむきだしにしてしまうとすれば、そんな熊本さんの姿を見たえりかが「どうしてこう、男ってものは……」と呆れる姿を論者は想像して、ちょっと楽しくなりもするのです。


おわりに 〜漢の拳と乙女のパンチ〜

 以上、各話にそって具体的にみてきたように、クモジャキーの否定的評価の正論度は、視聴者の印象ほどのものではなく、それどころか意外にも低いとさえ結論づけられます。クモジャキーが漢としての心構えを説いていると解釈するにせよ、犠牲者の漢気を奮い立たせているのは、むしろブロッサムの方なのです。そのうえクモジャキーは、自分が犠牲者に投げつけた評価によって、彼自身が批判されてしまうことが多すぎます。自らの言行不一致を正面から見据えて反省する漢らしいつよさが、クモジャキーには必要なのではないでしょうか。そういう論者自身はどうなんだ、と言われそうですが……この心の闇、照らしてみせて

 さて最後になりましたが、いずみのさんが指摘されていた問題について、今回もう少し考えてみようと思います。敵幹部の台詞の正論度はこのようなものであるとして、しかしデザトリアン犠牲者の苦悩の叫びにわざわざ一言投げかけるというこの行為には、彼らの目的に役立つ効果があるのでしょうか。例えばその嘲笑や侮蔑によって犠牲者をさらに苦悩においやり、デザトリアンの力と暴走意志を強めるとか。
 コブラージャが余計な一言によっていつきデザトリアンに蹴飛ばされた第7話を観ると、命令者である幹部に暴力を向けてしまうという問題はあるにせよ、敵幹部の言葉がデザトリアンをさらに暴走させる可能性を、一応ここに確認できます。しかし、作品全体を通してみると、この第7話をおそらく唯一の例外として、そのような描写はされていません。ほとんどの場合、敵幹部は犠牲者をただ嘲笑したいがため、ただ見下したい・唾棄すべきと感じるがために、そうしているように見えます。組織の幹部としてデザトリアンを有効に操るべきにもかかわらず、こうして彼らが個人的な感情や趣味を露わにしていることについては、彼らの組織人としての能力に問題があるとも言えるでしょうし、組織の手段・道具としての枠からはみ出る何かを視聴者がそこに感じとることもできるでしょう。
 また、敵幹部に共通するのは、犠牲者をあくまでデザトリアンを作るための使い捨て素材にすぎないものとして扱っていることです。犠牲者は、幹部達の基準ではどうでもいい理由でこころの花をしおれさせたあげく自ら素材になってくれるわけですから、まな板の上に鯉がわざわざ飛び乗ってくれるようなもので、心底愚かしく思えるのでしょう。そのような見下すべき犠牲者からこしらえたデザトリアンに、何も幹部自身の手間をかけるいわれもない。痛烈な言葉を浴びせて暴走させる程度ならたいした手間でもないのですが、もともとこの幹部達も人間の心の機微が分かっていませんから、うまく暴走の種をまくことができない。そんなわけで、せっかくのデザトリアンを有効に活かしきれていないのでは、ととりあえず考えておきます。プリキュアが敵幹部の言葉をちゃんと聞かない、という声はありますけど、そもそも敵幹部こそ、犠牲者の話をまったく聞かないうちにデザトリアンにしてます。スナッキーに赤ふんサウナを強制したりしてましたし、上司にしたくないタイプです。

 だいたい敵幹部の作戦そのものが行き当たりばったりですよね。偶然見つけた犠牲者をデザトリアンに変えたら後は暴れさせ、プリキュアと戦わせ、気が乗ったら自分も戦闘に参加し、デザトリアンが敗れたら帰るだけ。ダークプリキュア以外は、いつの時代のAIかと思わせるような単純ルーチンです。その中でも目立って例外なのは2つ。
 まず第22話で、クモジャキーは、デザトリアンに督戦しつつ「植物をすべて駄目にして、人の心もカラカラに乾いた砂漠にしてやる」と語っています。これは、(ダークプリキュアによるプリキュアの名声失墜作戦を除けば)人間のみならず植物をも狙わせようとした唯一の作戦でした。この時点でデザトリアンは積極的に植物を襲ってはおらず、プリキュアを狙った触手が樹木を偶然倒しただけですから、それを見たクモジャキーが作戦を思いついただけなのでしょうか。それとも、犠牲者の水島アヤが植物を愛する人であることと、デザトリアンが襲う対象がしばしば水晶玉内の犠牲者にとって大切な存在(自分が愛する・配慮するがゆえに苦悩のきっかけとなる相手)であることから、アヤの苦悩をもっと強化して植物への悪意と破壊衝動として歪めやすくなるように、植物を攻撃させようとしているのでしょうか。しかしいずれにしても、継続的な作戦の一環というわけではなさそうです。
 次に第28話で、コブラージャは、夏休みの宿題に追われる小学生をまとめてターゲットにしています。これは論者も、なるほどこれならデザトリアンが大量発生だと納得した作戦でした。しかし、敗れてしまうと大量のこころの種をプリキュア側に提供するという両刃の剣で、結果的には敵に塩を送ることとなってしまいました。紛争地帯ではきわめて有効に思えますので、使う場所を間違えたと言えます。ここで怖い想像をするならば、プリキュアが駆けつけられない世界のあちこちで、そのような作戦が実行されているとのかもしれません……。『フレッシュプリキュア』終盤で不幸のゲージがいつの間にか満タンとなっていたように。

 ともあれ、それらの例外話においてさえ、敵幹部の台詞はデザトリアンの暴走加速に寄与していません。これに対してプリキュアによる反論は、デザトリアンに対する直接的な呼びかけとしてなされた場合、暴走を一時中止させるなどの影響を与えています。しかし、解放後の犠牲者が自らの問題に再び立ち向かうための力を、デザトリアン化している間に必ず得ているのかどうか、第12・17・19話以外ではよく分かりません。少なくともプリキュアの技は「浄化」のためのものですし、他の話数でも何度か語られる「夢」の記憶として影響してはいるのでしょうけれど(暴走によるストレス発散にくわえて)。
 あくまで論者のイメージですが、デザトリアンとは、犠牲者自身がそのまま変化させられた怪物と、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「神人」との、中間あたりに位置する存在ではないでしょうか。ハルヒ(意識・理性)と神人(無意識・抑圧された衝動)との関係(参照:ハルヒ考察)ほどには、玉の中の犠牲者とデザトリアンとは離れていません。犠牲者は外からの声をデザトリアン経由で聞けますし(第12話)。しかし、デザトリアンは犠牲者の苦悩を肥大化させ歪ませたものなので、犠牲者の心すべてがそこにあるわけではなさそうです。いくらデザトリアンが軽快に暴れようとも、犠牲者は玉の中で苦しんでいるはずですし。また、デザトリアンと犠牲者との関係も個体差が大きいという印象で、コントロールはかなり難しいと思われます。そのへんもまた、敵幹部がデザトリアンをうまく言葉責めできない理由かもしれません。(第31話以降は、ついに敵幹部がダークブレスレットの力でデザトリアンを直接操作し始めました。)

 しかし、そんな敵幹部の台詞も、デザトリアン犠牲者に対してではなく、他の人間達にとってはどうでしょう。例えば、暴れるデザトリアンに狙われた被害者達にとっては。第28話冒頭で、母親が子供達に「デザトリアンになっちゃうわよ」と脅かしている場面がありました。人間がデザトリアンにされてしまうという噂は、この希望ヶ丘市ではすでに広く知られているのでしょう。すると、敵幹部が吐いた台詞も、その噂に乗るかたちで、あるいはデザトリアンに遭遇した者達を通じて、広まっていく可能性があります。利岡ユウトのような当事者が立ちはだかったり、プリキュアが言下に否定したりしなければ(そして浄化できなければ)、敵幹部による否定的評価が周囲の人間に影響を与えてしまいかねません。デザトリアンによる直接的な暴力の恐怖とともに、敵幹部による人間への嘲笑・侮蔑が投げつけられるとき、人々は恐怖に背を向けて逃げだし、そんな自分達を見下して諦めるのです。この観点からすれば、暴力に立ち向かう意志のない人間にとっては、敵幹部の台詞は有効である、と想定できます。第11話のまさとや、第8話・第28話のマリンでさえ危うかったくらいですから。
 そして、このことはすでに、視聴者の少なからぬ者が敵幹部の台詞を「正論」と受け入れ、プリキュアの反論や義憤を「キレた」と揶揄してしまっている、という事実のうちに見出される大きな危険性なのです。第三者的なつもりでいる視聴者のこころの花をひっそりと枯らしていくことこそ、砂漠の使徒の遠大な作戦ではないでしょうか。恐るべきはプリキュアの敵。不幸のゲージを満たしてしまったのも、論者達のせいなのかもしれません。

 だから、プリキュアの言葉に耳を傾けましょう。敵幹部とちょうど対の恰好ですが、プリキュアがデザトリアンに語りかけるとき、それは、デザトリアンを弱体化させ浄化しやすくするための手段としてではありません。あくまでも、デザトリアンにされた犠牲者の苦悩を和らげるための言葉です。結果的に浄化しやすくなることを見越したりせず、またそのために効果的な言辞を弄することもありません。それは、その犠牲者の心を(たとえ正当な理由があろうと)操作することになりかねないからであり、みんなの心を守るという彼女達の目的に反してしまうからです。敵幹部は、やろうと思えば嘘や甘言を用いてでもデザトリアンを暴走させられるでしょうが、プリキュアは人として信ずる言葉のみを愚直なまでに語りかけます。そして、敵幹部の台詞に対してプリキュアがまっすぐ反論し義憤にかられるとき、それは犠牲者や周囲の人々の心を守ってくれているだけでなく、敵幹部の「正論」に惑わされそうな論者達の心をも守ろうとしてくれているのです。視聴者もまた「みんな」の中に含まれるのですから。
 それにもかかわらず、敵幹部の台詞に「正論」を聞きとれるほどの成熟した視聴者達が、そんなプリキュアを、(「はじめに」でも述べたとおり自らの錯覚によって)「キレやすい」などと嘲笑してしまうならば。それは、そんな「正論」に一度は真っ向から立ち向かっていくべき子供達を気づかないうちに抑え込み、幼く純粋なこころの花を人知れずしおれさせてしまうことに加担するという裏切り行為なのではないでしょうか。ほかならぬ自分達こそが、暴力に立ち向かう意志のない人間の見本になってしまうとは。
 だとしたら、敵幹部の「正論」がゆきかう世間の冷たさを肌で感じているからこそ、年長の視聴者には幼い視聴者のためにすべきことがあるはずです。画面の向こう側で「みんな」の心を守ろうと戦うプリキュアを応援し、敵の不正に対する義憤を分かち合うこと。そして画面のこちら側で、「正論」の冷たさに負けずにこころの花を咲かせていく自らの姿を、プリキュアに代わり一人の大人として子供達に示すこと。それが、こころの大樹を育む希望という本作品のメッセージを、大人が受け止め、子供達のために自らの務めを果たすことなのです。「大人を逃げるな!」「サンタになれ!」という名言が思い出されるところですが、やはり本作品の考察としては、次のかけ声で締めくくるべきでしょう。さぁみなさんご一緒に、せーの。


 やるっしゅ!



(2010年9月7日公開・2011年10月9日最終更新第41・43・46話分追加)

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