「少女」がページを閉じるとき -どうしてアイドルポップスは消えたのか-

ここまでいろいろなアイドルポップスの中で表現されてきた「かわいい少女たち」の姿についてみてきたわけですが、一方で現実の女の子自身はこういう「少女像」をどうとらえていたのでしょうか。少なくとも今時の女の子たちがこれを見ると「ちょっと違うよね」という感想をもつだろうことは想像に固くありません。「アクロス」編集局の調査(70)によると、少なくとも80年代中頃までは女の子自身、「かわいい・ロマンチックな少女」というイメージに少なくとも好意的な印象をもっていたはずですが、その後急速に「脱・女の子」の動きが進展してきて、その代わりに「かっこいい/ナチュラル&カジュアル」が女の子文化の基調となってきました。つまり「現実的でシンプル、そして他人に媚びないタイプの女の子」が増えてきたわけですね。だからこそ、(少なくともその当時は)モデル的な「かっこよさ」を誇っていた宮沢りえなんかが女の子たちの人気を集めたわけです。

世代論的に見るとアイドルブームを支えた男の子・女の子たちの小学・中学生時代は1970年代末から1980年代初頭であり、消費社会の成熟からバブル前夜にかけてにあたります。一方で今時の人たちは「少女文化」が衰退しはじめた1980年代後半期に小学生中学年を過ごしており、「女の子はかわいいものだ」という思考が初めからインプットされていなかったわけです。宮台(71)によれば「輝かしい60年代」に乗り遅れた70年代の人たちが「ちょっとした等身大の輝き」を求め、その代替物としての恋愛ツールが過剰に提供されたのがバブル期までの日本の状況です。「乙女チックなかわいい私」という自己規定は自分の外部に「輝いている世界」が存在し、いつか素敵な誰かがそこに連れていってくれる、という幻想に立脚するものです。しかし現実に「すばらしい世界」などあるはずもなく、あるのは不透明な「終らない日常」だけ、という事実に気づきはじめたのが80年代です。「等身大の輝き」であるはずの恋愛にしても「お金・車・ステータス」という外的なものによって制約されていた時代はまだしも幸せでした。しかしこの制約がやがて「コミュニケーション・スキル」という内的要素によるようになってくると「モテない奴はどうしてもモテない」という事実が歴然としてくるわけです。

こういう輝きのない「終らない日常」に対して適応していける人と、それができずに「終らない日常」を夢想しつづけるしかなくなった人の二極分化がこの時代には起こりはじめたのです。はなっから「すばらしい未来」なんて夢みる必要がなかったポスト団塊「ブルセラ」世代のコギャルたちは「乙女チック」新人類世代の「夢見る」オジサン・オバサンたちと違い、「夢多き恋」なんてものをリアルに享受するバックグラウンドがなかったために、「現実を現実として生きる」ことに抵抗がありません。男の子たちの多くも女の子に幻想をいだいていないから「ナチュラル&カジュアル」の流れに取り込まれる。それゆえに先に見てきたような古典的なアイドルポップスも絶滅寸前になるわけです。しかし「不透明」な「終りなき日常」を生きるというのはシンドイ。だからこそ多くの人が「1999年7の月」を待ち望み、それがスカだったことがわかると今度は「Y2K問題で正月にカタストロフィーが起きるかも」という報道に過剰反応するわけです。こういうご時勢でもコミュニケーション・スキルという点で問題もない人たちは「外部に何も期待せずに」「まったり」と生きていけばよいのです(72)。

そういうわけでアイドルポップスに見られた「少女趣味」な歌が今やアニメソングやゲーム主題歌など「等身大の輝かしさから疎外されたが、そういう幻想から自由になれない」一部のお友達層(73)をターゲットとする分野でしか散見されなくなってしまったわけです。着目すべきはこれらのアニメあるいはゲームの製作者層の中心が「かわいい文化」真っ盛りに青春を送った30代の人たちであるという点です。野浪(74)は「30代ごっこ」というノンフィクション本の中で、この年齢層の人たちの恋愛状況について描いており、これを見るとかつては結婚して子供の二人ぐらいいても不思議のない年齢の男女が「過去の恋愛イメージに縛られて」現実から逃避し続ける様子がわかります(75)。しかしながら先に記したように、「かわいい文化」を生み出した「少女」というものの本質はあくまでも一時的かつ期間限定の姿であり、やがては「結婚」(あるいは「就職」)に代表される儀式を経て現実社会にコミットメントすることが前提とされているものなのです(76)。しかし困ったことに消費社会の進展が彼らをして「少女」であり続けることを可能たらしめ、かつそういう人が再生産されているのが現実なのです。

一昔前の少女まんがあるいは少女系小説においては「子供→少女→(多分幸せな)新生活」というスキームで表現される、通過儀礼モデルに立脚してストーリーが展開されて行きます。特に目立つのは(どう見ても「赤毛のアン」な世界の)知らない土地に行って、そこで生活して、少女時代と決別するというパターンで、これを苗美さと子の少女まんが「幻のエメラルドパイ」(77)で説明するとこんな感じです。主人公の「ことり」は3歳のときに両親を交通事故で亡くし、 一度、養父母に引き取られますが、そこに子供ができて孤児院に逆もどり。14歳の時、「たんぽぽ村」にある「ベーカー青い鳥」で3ヶ月間ホームステイすることになり、そこで多くの経験をすることになります。。なお、そこの主人は彼女の両親の形見である絵本「幻のエメラルドパイ」の作者です。彼女が施設に戻る日が近づくにつれ、そこで出会った男の子との恋心を自覚し、素敵な大人のレディーになると誓って故郷に向かう列車に乗り込みます。最終話の冒頭には絵本からの引用という形で「少女は長い旅の果てに幸福をよぶパイのレシピを見つけました。しかしある一つの材料がみつかりません。でももうすぐ少女は気づくでしょう。それが目の前にあることを。そしてその時 彼女は少女ではありません。」と書いています。ここには「やさしさでいつか/夢から連れ出して」と祈る、西村知美の「君は流れ星」(78)の女の子と同様、「救済者」としての男の子というコードが見てとれます。 このマンガと同様、「女の子が故郷から一時的に離れて、その土地でいろいろな経験をして、素敵な大人になる」というストーリのものとしては、あゆみゆい/若村杏の「うえるかむ」(79)も挙げられます。また、やぶうち優は「水色時代」(80)において、高校生の優子が自分の中学生時代の私小説を書き上げた後、久しぶりに元恋人のヒロシ君と再会したシーンで「なんでもいいからたった一つでも一生懸命になれるものをみつけたら」「それは「青春」の始まり」「それが「水色時代」のおわり」と書いています。このような少女漫画で展開されたストーリーの結末は「少女」が幸せを望んで「大人」(の恋)に目覚めた時に、少女の時が終るということを示唆しています。アイドルポップスにおいてもそれが「虚構」である以上、終焉の時がくることを常に意識してきました。たとえばCoCoの「はんぶん不思議」(81)に出てくる女の子は、両想いの彼氏とラブラブ真っ盛りな時でも「いつかは違う幸せを選んでいても/今は 同じ未来を夢見ていたい」と、恋が終る日が来ることを意識しています。佐野量子には「少女がページを閉じるとき」(82)という曲があり、また南野陽子の「楽園のDoor」(83)に出てくる女の子は「世界中が他人事なら/傷つかずに過ごせるけど/心ごと/生きていきたくて」楽園のような自分の世界から「あこがれと/哀しみがぶつかってもつれる街角」に一人出て行きます。

アイドルポップスにおいて「学校」とは少女が少女として存在できる時空を越えた場所として設定されており、そこから出て行くことは「少女時代の終焉」を意味します。それが端的に現れた曲が森川美穂のデビュー曲「教室」(84)です。主人子の女の子は「理由はあとで/人の噂で/おそらく耳に/はいると思う」としか書いていないから、理由はわからないのですが、突然退学することになった女の子が「心をこめて/涙とともに」教室に一礼をして外に出て行くお話です。また真璃子の「不良少女にもなれなくて」(85)では主人公の女の子が、「燃えるような恋をしたあと」自分でけじめをつけて学校を出て行く少女を見て「忠告するふりして/羨ましがっていた」「不良少女になる素質もない私は/平凡な女の子/その他大勢なの」と語っています。

伊藤麻衣子が「微熱かナ」(86)で歌っているように「昨日までは、悪いことでも/明日からはなんでもないこと」になって、「いけない子も/退屈な子も」「初恋も/失恋も/この教室に残したまま」大人の世界に旅立っていく日が卒業式です。おニャン子クラブの第一号「卒業生」河井その子と中島美春のために「夕ニャン」で作られた曲「じゃあね」(87)ではこのシチュエーションが「もっとこのままでいたかった/時が止まったらいいのにね/だけど 微笑みながら/目の前の扉 開けましょう」と歌われています。少女たちは「ためらう心」や「小さい記憶」を箱に入れて卒業していくわけですが、沢田聖子は「卒業」(88)で、その箱に結んだリボンを「すぐにほどいてしまうのは何故なの」と、少女時代に対する哀別を歌っています。その沢田聖子が作詞・作曲した卒業ソングが水野あおいの「金のボタン」(89)。この曲の主人公は彼からもらった制服のボタンを握って「いつかは今日 振り返る日がくる/後悔しない 生き方がしたいの」と、未来に向けて歩き出します。このように閉ざされた「少女」の世界から出ていった女の子が、その世界を懐かしむという例としては藤谷美紀の「転校生」(90)も挙げられるかもしれません。この曲の主人子は「転校生になってから/一人寂しくしていた・・・」「新しいクラスにまだ/悩んでいた頃」、前のクラスで片想いしていた男の子からラブレターが届きます。それを読んで「もう逢えないけれど/それは勇気をくれる」と、新しい生活を始めるのです。

多くのアイドルポップスにおいて、学生たちは「卒業式を迎える」ことで、幸せな少女時代の終りを迎えることを示唆します。そのために卒業式シーズンを前に、毎年数多くの「卒業ソング」が作られてきました。例えば1985年の春には尾崎豊・菊池桃子・斉藤由貴および倉沢淳美が「卒業」という同名のレコードが発売されています。これは「卒業」が「学生生活」という通過儀礼における終了儀式の機能をもつからです。尾崎豊は「卒業」や「15の夜」(91)で「学校」を「管理と支配」の象徴として描いていますが、その彼にしても「この支配からの/卒業」が終ったときに「本当の自分」にたどり着けると思っている点で、多くのアイドルポップス同様「通過儀礼モデル」から自由であったわけではありません。倉沢淳美の「卒業」(92)では「誰もが苦い秘密を隠していた」「紺い制服」を脱いだら「みんな離れ離れなのね」と歌っています。制服を少女時代の象徴とみなし、それを脱ぐ時ことで少女時代の終りを象徴するというのは、先に紹介した「微熱かナ」や「セーラー服着るのも/そうね 今日が最後なのね」と歌う、松田聖子の「制服」にも見られるパターンです(93)。菊池桃子(94)と斉藤由貴(95)の「卒業」はいずれも「彼氏が卒業して都会に出て行くことになり、お別れ」というお話で、これと同じシチュエーションの曲にはCoCoの「さよならから始まる物語」(96)というものもあります。この曲で「今度 逢う夏までに/私 素敵になる/さよならから始まる時間/無駄にはしないから」と歌われているように、卒業によって強制的にやってくる別れは「少女」を大人に向かわせるものなのです。

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