「少女」たちはどこに? -アイドルをめぐる歴史-

「アイドル」の根流は1971年デビューの天地真理と南紗織まで溯るといわれています。1972・3年には「スター誕生」から「花の中三トリオ」(桜田淳子・山口百恵・森昌子)がデビュー。浅田美代子・キャンディーズも同時期デビューです(4)。アイドル歌手がそれまでの歌手と異なる点は、「身近の、手を伸ばせばとどきそうなところにいるかわいい娘」というイメージが優先され、そのために歌や演技が(全く)ダメだとしても勘弁されたところにあります。

なぜこの時代に「乙女ちっくな少女趣味の夢を歌う」アイドルが誕生したのか?大塚(5)によれば「少女」とは農耕従事者が大半を占めていた明治期以前には存在しません。近代社会の家父長制度の下では、女の子に「処女性」を与えることが婚姻における交換価値を高めることになったことから、彼女たちは結婚前の一時的に「女学生」あるいは「家事手伝い」という形で社会の生産過程から除外されることになりました。舟木一夫の流行歌「花咲く乙女たち」(6)でも「ああだれもがいつか恋をして/離れて嫁いでゆく人か/みんなみんな咲いて散る/街に花咲く乙女たちよ」というフレーズで、結婚によって社会システムに再度組み込まれることが「少女」としての終焉であることを暗示しています。非生産者としての「少女」の中に芽生えたものが、非現実的かつ「かわいい」イメージを重視する「少女」文化です。それゆえに「生産」からの距離が離れるほど「少女性」も高まることになります。

70年代前期は高度成長の終焉によって(第一次はもとより)第二次産業の生産活動が低下すると同時に70年安保の敗北による男性原理の後退で、細々と続いていた「少女幻想」の実体化が促進された時期にあたります。具体的には使用価値よりも「かわいさ」に重きをおくファンシーグッズの誕生や、少女まんがのふろくのファンシー化が開始されるのもこの時期です。史的唯物論のテーゼではありませんが、「消費社会への移行」という経済システム(下部構造)の変化が、「少女性を受け入れる」社会意識(上部構造)を規定したわけです。その後のバブル経済に陰りが出る80年代末まで、男の子はもとより女の子も「かわいい少女」を受け入れ続けた理由の底には以上のような理由があると考えられます。

一方、70年代は音楽シーンにおいても重大な転機がいくつか起こっております。本来、60年代後半のカレッジフォークから出発して、「友よ/夜明け前の闇の中で/斗いの炎をもやせ/夜明けは近い」[岡林信康「友よ」(7)などと歌い、社会の矛盾を告発する「社会派」に至ったフォーク・ロックが、吉田拓郎・かぐや姫などの「叙情派」フォークやチューリップ・荒井由美などの「ニューミュージック」に取って代わられる、というのが一つの流れです。また日本語ロック論争(8)を通じ、その後の音楽シーンに大きな影響を与えた「はっぴいえんど」は1973年の解散しましたが、メンバーの一人であった松本隆は「プロ作詞家」として、その後「木綿のハンカチーフ」[太田裕子(9)]をはじめとする、すばらしいアイドルポップスを作り出していくことになります。

「少女」というのはいつの日にか大人になる宿命をもっています。1980年、偉大なるスタア、「菩薩」こと山口百恵が三浦友和と結婚して引退。同時期にピンク・レディーとキャンディースという2大グループも解散します。その隙を縫ってデビューしたのが松田聖子。百恵の「つっぱり」路線に対し「ぶりっこ」路線で若い男の子の人気を集め、一つの成功を収めました。プロの歌手・俳優としての「見上げるスター」でなく、「近くにいそうなふつうな女の子」(10)であっても人気が出てしまう。その事実が判明してしまったためか、その後、堰を切ったように聖子フォロワーズのアイドル歌手が登場することになります(11)。特に「偉大なる年」1982年には中森明菜・小泉今日子・三田寛子など、今でも芸能界で生き残っている実力派の人たちが登場、その後も玉石混合ながら続々と新人が現れてきました(12)。

当時、アイドル歌手たちは週末ともなると、レコードキャンペーンイベントで日本各地を回っていたものですが、そのアイドル歌手たちを追いかけて「生写真」を撮ることを生きがいにする「カメラ小僧」が肖像権絡みで問題になりました。そういう困った人を「イヤらしい男の子たちが遠くの方で/私のサラサラの足をうっとり見てる」と歌ってドッキリさせたのが森尾由美の「おねがい」(13)です。当時はバブル経済に向かって景気が急上昇する時代でもあり、「アイドルは作るもの」「アイドルは金になる」とでも思ったのか、1984年には数十億円をかけたメディアミックスプロモーションなんてものも行われています(14)。

そしてバブルも最高潮に達しようとした1985年4月、あの「夕焼けニャンニャン」が始まったのです(15)。知らない人のために補足しておくと、いかにも普通っぽい女の子たちが出てきて、その場のノリと勢いでもってどーでもいいことをやって、ついでに歌も歌ってしまう、みたいなバラエティー番組(16)。ともあれこの「おニャン子フィーバー」当時、フジTVは全メディアを揚げておニャン子の露出を図っており、また毎週のようにグループやソロのシングルが発売されていました(17)。アイドルとは人為的に作り出された虚像に過ぎないにしても、それまでは「それを言ってしまってはおしまい」みたいなところが製作側にも受け手側にもあったわけです。しかしこの番組で行なったことは「アイドルを作り出すプロセスの情報開示」そのもので、「そのプロセスに君も参加できる!」という点があれだけのヒットを生んだ原因の一つといえましょう。事実、多くの若者も彼女たちを盛り上げるというゲームに邁進すべく、しっかりと「発売日に」レコードを買っていたりしたものです。

一方、このようなアイドルの売り出し方に批判的で清純・素朴路線のアイドルを求めるファンたちは、菊池桃子・岡田由希子ラインの延長線上にあるMOMOCO3人娘(18)などに走ったわけですが、実際の活動には大差がなかったという点で、中革と革マルの路線対立を見るようです。またこの頃、おニャン子に対するアンチテーゼとしてなのか、より低年齢の「美少女ブーム」が発生しました。同時期に女の子自身の意識もだんだん変わりはじめ、「かわいらしさ」よりも「美しさ」「POPさ」を重視するという傾向が高まります。こういう環境の変化によって「アイドル」たちの歌も「女の子にも受け入れられること」が成功の一条件となり、古典的なブリブリかつ甘あまな路線で攻めていたアイドル達はB級の地位に甘んじることになります(19)。「夕ニャン」終了後、「スケ番刑事」シリーズでデビューの斉藤由貴や南野陽子、「毎度お騒がせします」でデビューの中山美穂が一世を風靡しましたが、その後急速に「アイドルブーム」の熱は引いて行き、アイドルポップスは一部マニアのものとして地下に潜伏することになります。

なぜ古典的な女性アイドルは消滅したのか?これについてはいろいろな人が意見を書いていて、その一つが「夕ニャン」犯人説。フジサンケイグループは「アイドル夢工場」というプロジェクトを打ち立てていたこともあるのですが、若い男の子たちにとって「アイドル」とは「かくあってほしい」女の子の幻想を投影する対象という側面があったわけですから、その幻影を作る仕組みがオープンソース化されて、しかも工場で大量生産されてしまっては醒めてしまうっていうものでしょう。また、今や「おばんになっちゃう その前に/おいしいハートを・・・食べて」(20)と歌うおニャン子クラブの歌が可愛く思えるほど現実の方が進んでしまったために、男の子たちが生身の女の子に対して幻想を持ちにくくなってしまい、また男女が若いうちから付き合うことに対するハードルがかつてよりも低くなったために「代用品としてのアイドル」が不要になったという説も説得力があります。

その一方で幻想を抱きにくいご時勢だからこそ「あくまでも自分の理想にこだわりたい」、だけど無理して女の子の機嫌を取るのも面倒、という男の子も増えてきている気もします。こういうユーザーのニーズに答えるかのように、ゲームやOVAの世界にも彼らにとって理想的な恋人はあふれかえっており、「二次元なひとたち」もちゃんと補完されるようになっているわけです(21)。これは80年代のアイドル全盛時代からは考えられなかったことで、所詮、虚構とはいえども「みんなの恋人」である三次元のアイドルよりも、二次元であっても自分だけに飽きるまで付き合ってくれて、しかも自分の意のままになる女の子の方がいいにきまっている(22)。何か不毛な気もしなくもありませんが・・・。以下ではそういうダメな、いや純粋な皆さんを対象に、かつてのアイドルたちがどのような「少女」の世界を構築してきたか、その一片を垣間見ていただこうと思います。

Back to Previous PageGo to Next Page