アニメ『アイドルマスター』におけるアイドルたちの目的と課題

〜第1話にみるスタートライン〜



はじめに

 
本考察は、アニメ『アイドルマスター』(以下アニマス)に登場する主役アイドルたちが相互関係のなかで成長しゆく過程について、その起点となる第1話「これからが彼女たちのはじまり」をもとに検討するものである。
 このアニマスの原作といえる『アイドルマスター』(以下アイマス)ゲーム版作品を、論者はプレイしたことがない。アイマスの公式作品に触れる機会はこのアニメ版が初めてであり、しかもBS-TBSにて第7話から観始めたばかりという、にわかファンの一人にすぎない。もっとも、以前よりアイマスの宣伝や二次創作には各所で出会っていたため、「アイドルを目指す少女たちの成長と、プレイヤー=プロデューサーとの関係深化」が物語の軸なのだろうという予想を抱いてはいた。また、アイドルたちの個性についても、同様にごく表面的にのみ把握していた。そんな論者が、このアニメ版アイマスを視聴したとたん、その描かれた物語世界にたちまちのめりこんでしまった。それは、美麗なアニメーションの魅力ももちろんだが、やはりアイドルたちの純粋さと、お互いに支えあいながら切磋琢磨する姿に強く心惹かれたためだった。
 しかし、にわかファンの一人にそのような力を及ぼした本作品が、原作(ゲーム版)ファンの一部から批判される点も持っているということを、すでに論者はツイッターや感想サイトなどで確認している。例えば、原作で描かれたやよいの姿と、アニメ版でのやよいの姿との間に、齟齬が生じているという意見などである。長年のファンからすれば、本アニメ作品に全体としては満足しつつも、やはりアニメ化によって生じたアイドルの「歪み」や原作からの「逸脱」を見過ごすことはできないということなのだろう。
 そのような違和感の表明を、にわかファンの論者は、先輩たちへの敬意をもって受け止めている。そしてまた、アニマスから初めてアイマスを知った者の一人が、そこに描かれたアイドルたちの姿を先輩たちとはやや異なるかたちでどのように理解し受容したのかを、述べておく必要もあると考える。これは批判意見に反駁するためではなく、その「歪み」を肯定的に受容しながらアニマスを楽しんでいるファンがいるということ、そしてそのような楽しみを与えてくれた本作品がBlu-rayソフト購入者を一人増やすことになったという事実を、記録しておくためである。



1.視聴時の基本視点

 さて、論者はゲーム版アイマスを知らないままにアニマスに触れたのだが、先入観を何ももたずに作品を視聴しているというわけでもない。上述のとおり、若干の作品関連情報はすでに有していたのであり、また、このようなヒロインが多数登場するアニメ作品を視聴するさいに、論者はどうしてもとある先行作品との比較をしてしまう傾向にある。その作品とは、アニメ版『シスター・プリンセス』(以下アニプリ)である。原作以前にアニメ版を知り、そこに少女たちの美しい相互関係と成長とを見出すというこの流れは、かつて論者がアニプリについて考察したときと同じパターンなのだ。もちろん、論者はこの2作品の優劣について述べたいわけではない(そういう意味での作品比較にはまったく興味がない)。複数ヒロインと単独男性が中心となるアニメ作品に対する論者の共通視点を、視聴時の偏向の中身としてここに示しておくにすぎない。

 ある作品をアニメ化する場合、必ずアニメという表現方法ゆえの変更がともなうことになる。例えばゲーム版がプレイヤー=キャラクター視点で構成されているのに対して、アニメ版では一応の主人公としてプレイヤー=キャラクターが登場するとしても、視聴者はそのキャラクターも含む作品世界を画面に観ることになるのであり、その意味で視聴者は第三者視点におかれることになる。また、ゲーム版ではプレイヤーによる意思決定とその反応の相互性を基本要素に組み入れているため、プレイヤー=キャラクターがヒロインに一対一関係のなかで働きかけることでヒロインの反応を選んでいく(つまりヒロインの変化・成長を左右する)こととなるが、アニメ版では視聴者の意思決定を直接取り入れることがないため、プレイヤー=キャラクターがつねに働きかけずともヒロイン同士の相互影響によっても物語を進められる。
 アイマスの原作(ゲーム版)・アニメ版・漫画版(その一例として『電撃G's magazine』連載中の祐祐『アイドルマスター2 The world is all one !!』)を、シスプリ・リピュア考察1の図をもとに比較すると、以下のとおりとなる。アニメ版にはそれ特有の表現方法があることに加えて、ゲーム版の内部でさえ作品ごとに設定の相違がある以上、アニメ版だけが「逸脱」するわけでもないということを、ついでながらここで確認しておく。

領域 視点 関係 物語の帰結 舞台 文法
ゲーム版 プロデューサー 一対一中心 単独(チーム)トップ 765プロ ギャルゲー
アニメ版 プロデューサー・アイドル・第三者 一対多 おそらく全員それぞれ 765プロ 成長ドラマ
漫画版 プロデューサー・アイドル・第三者 一対三中心 おそらくチームトップ 765プロ 企業スパイもの

 ただし、アニマスのプロデューサーは新米で未熟ながらもその誠実さや一生懸命さが作品内で描かれており、原作ファンが彼を批判する声を論者はあまり聞いたことがない。「逸脱」としての問題は、肝心のアイドルの性格などにおける変更点ということになる。論者の知るところでは、やよいが弱すぎる・伊織が子供っぽすぎる・千早が丸すぎる・春香の黒さが足りない、といったものだが、最後のはともかくとして、作品視点がプレイヤーから第三者的視聴者に移ったところでアイドルの性格までもが変わってしまうのはたしかにおかしい。
 これについては、先に述べたように、原作ではプロデューサーとアイドルの一対一関係をもとに描写しているのに対して、アニマスではプロデューサーもアイドルも含む事務所の全構成員の相互関係を描いているという点が大きく影響している。シスプリでも原作・ゲーム版とアニメ版とで妹の性格描写がずいぶん異なる場合があった(とくに亜里亜など)が、それは兄妹の共同生活というアニプリ独自の設定が、各妹の年齢設定や妹同士の関係を新たに作り出し、また役割分担をも要求したからだった。そして、それらはたんにアニメ版特有の「歪み」で終わることなく、むしろ原作・ゲーム版に還元されるなどして兄妹の多様な面を描くことにつながり、「シスター・プリンセス界」の拡大発展に寄与したのである(リピュア考察1参照)。原作からすればアニメ版の「歪み」と見えた点も、最終的に作品世界全体の視点からとらえなおせば、表現方法の制約ゆえに妹たちの支えあいを描くことができなかった、という原作・ゲーム版の「歪み」と表裏一体のものに見えてくる。そして、それらはどちらも「歪み」なのではなく、いわば地図の図法のように、兄妹の関わりあいを異なる視点から描いたことによる強調点の違いなのである。
 この視点からアニマスをとらえると、アイドルたちの年齢こそ原作設定から変更されていないようだが、やよいのダンス能力や春香の歌唱力など、本来もっと高くていいはずの長所が失われているかに思える。また、性格についてはすでに述べた以外の者にも若干の変更がなされているのだろう。これらは、数多いアイドルたちの違いを判りやすく新規視聴者に示すための単純化なのかもしれない。この変更が従来のファンにとっても許せるものとなるかどうかは、それによって生み出されたアニメ版ならではの「アイドルマスター界」の拡大深化、つまりアイドル相互関係のより充実した描写とそれにともなう各人への理解の深まりが、視聴者にもたらされるか否かにかかっている。そして、そのさい、設定変更による短所の極端化といった負の変更を、アイドルの成長(短所の克服や長所への転換)を描くためのスタート地点として役立てられるかどうかも、気になる点である。とくに、単独アイドルをゲーム版のように追いかけていくことのできないアニメ版で彼女たちの成長を描くためには、いわゆるメイン担当回を割り当てることで最重要課題とその解決(あるいはそのための大切な一歩)をはっきり位置づけるとともに、それ以外の話でも日々の姿とその微妙な変化に触れておく必要がある。後者が欠けていると、メイン話における成長が浮いてしまい、物語全体を通じて人物が生きているという感覚を視聴者が得にくくしてしまうからだ。この日々の変化を描くために、じつはアニメ版の「アイドル全員が最初から協力し合う」という設定が大いに役立つ。アイドルたちの努力を個々に描くだけでなく、仲間を思いやり支える、あるいは仲間を信頼して助けを求めるという姿によっても、そのアイドルの成長を描けるのである。プロデューサーとの一対一関係でじっくり成長を描けないぶん、プロデューサーがいない場所でアイドル相互関係に成長の端々を盛り込めるかどうか、ここがアニマスの見どころということになるだろう。

 ところで、ここまで述べた理由から、アニメ版におけるプロデューサーの役割はゲーム版よりもずっと小さくなるわけだが、しかし彼がいなくても事務所が回る・アイドルたちが成長するようでは、これまたアイマスにならない。やはりプロデューサーは、アイドルたちがスターダムへと昇っていくために支援し、アイドルたちの苦悩を共有してその解決の糸口を与え、そして場合によってはかけがえのないパートナーとなるという、大切な役割を担うべき存在である。アイドルたちが互いに支えあうにせよ、そこで解決できない問題や、かえってこじれてしまうような問題がないわけではない。これらに対して独自の働きかけを行うときこそ、アイドルの相互関係を描くアニマスにあって、プロデューサーが最も輝く場面となるだろう。しかし逆に、彼が万能でありすぎてもアイマスではなくなるし、アニマス特有のよさも失われる。アイドルを支えられる唯一の成人男性という面と、アイドル(そして小鳥さんや社長)に支えられる未熟な新米という面とをどのように組み合わせていくかが、アニマスが描くプロデューサー像の妙味なのだろう。
 また、ゲーム版のプロデューサー視点という制約から逃れているという意味でいえば、アニマスでは、アイドルの成長を支える他者として、彼女たちの相互関係に加えてもう一つ忘れてならない者たちがいる。それは、アイドルたちのファンである。プロデューサーに叱咤激励され、仲間に支えられたとしても、あるいはそれだからなおさら、前に進めなくなるときがあるかもしれない。そのとき勇気をくれるのが、ファンからの熱い声援なのだろう。アイドルはファンに夢を与えてくれる。そしてファンはアイドルの、夢を与える力を支えてくれる。このアイドルとファンの相互関係をより具体的に描くことができるのも、アニメ版のよさに含まれるのかもしれない。


 以上のような視点を、論者は視聴前から意識して持っていたわけではない。むしろ、初めてアニマスと出会った第7話視聴後、これらの視点をもとに楽しんでいるということをゆるゆる自覚していった。ウェブ上の様々な感想を読んでも、また「しゅーろくごー!」など声優の方々の言葉を聴いても、アニマスでアイドルたちの相互関係が今まで以上に深く掘り下げられていることは間違いなさそうだ。その一方で、アイドルの設定変更や個々の描写については、やはりゲーム版との違和感を抱く意見があり、そのゲーム版を知らない論者はアニマスをそのまま受け入れやすいという差があることも否めない。そんな論者が第1話を視聴したときどのような理解に至ったのかを、次に述べることにする。



2.アイドルたちの成長課題:第1話「これからが彼女たちのはじまり」

 第1話開始時点で、765プロのアイドルたちの多くはデビュー半年後の駆け出しであり、実績と呼べるものはほとんどない。それゆえこの導入回で描かれるものといえば、各人のおおよその性格と長所・短所、相互関係、そしてアイドル界という「サバイバルな世界」に踏み入った理由である。これらを総合すると各人のスタートラインが、つまり課題とそれを乗り越える手がかりとが、得られることになる。それらの課題がゲーム版と共通する各人固有のものなのか、それともアニメ版で手を入れられたものなのかは、論者には分からない。ひとまず、論者が見て取った各人の姿を記していこう。

(1)アイドルになりたい:春香

 春香は、笑顔を絶やさず前向きな少女。しばしば「無個性」と言われるように、それ以外の際立った特徴が与えられていないかにも思える。それは「王道」とも呼ばれるとおり、アイマスの理念を体現した存在であるからこその評価なのだろう(シスプリの可憐が同様に語られたように)。また、アニメ版では様々な仲間をとりまとめていく主導的役割を担うため、あまり尖らない性格をゲーム版以上に強く与えられたとも考えられる。しかし論者の見るかぎり、春香にははっきりとした特徴があり、しかも第1話ですでに描かれている。それは、13人の中で、アイドルになることが夢だと語る唯一の存在ということだ。あなたにとって『アイドル』とは、と訊かれて、春香は答える。

  春香「んー、夢、ですかね。憧れなんです、小さい頃からの。
      辛いこともないって言ったら嘘になりますけど、まだその夢も始まったばっかりで。
      今はそれ以外のことは考えられません」

 以下の各人で確認するとおり、他のアイドルたちのほとんどは何か他の目的をもっており、そのための手段としてアイドル業を選んでいる。アイドルになること自体を目的としている(少なくともそのことを明言している)のは、春香以外にいない。この、アイドルを「夢」として目指す意志の純粋さを誰よりも明示しているのが、春香という少女にほかならない。今はまだ駆け出しのアイドルだが、日々の苦労も下積み仕事も、この「夢」に向かって進む大切な一歩である。いや、アイドルになるという夢は、たとえ駆け出しだとしてもすでに叶っているとさえ言える。これからは、その叶えられた「夢」をひたすら磨き上げ、いっそう輝かせる過程ということになる。だから、事務所まで「2時間」もかかる移動時間を無駄にせず、努力の糧にできるし、CD路上販売でも売れ行き具合にへこたれず「それじゃ一緒に頑張りましょ。おー!」と笑顔で拳を突き上げられる。
 その一方で、春香はすぐ転ぶ。「どんがら」という通称もあるらしく、アニマス第1話でもいきなりコケている。また、電車の扉に頭をぶつけたりもしている。このドジっこぶりも個性のうちに入るわけだが、春香もそのへんは自覚しているだけでなく、他の能力についても冷静に評価していることがうかがえる。そのことを暗示するのが、千早に機器の説明をしていたさいの「だーいじょうぶだよ、私にもできるんだし」という一言だ。これは千早たちと会話するさいの方便としての謙遜というより、実際に春香が機械いじりを不得手としているための正直な台詞なのではなかろうか。だとすると、春香は、さほど高くない自己評価を見つめたうえで、それでもアイドルという「夢」に向かって着実にレッスンを重ね、一歩ずつ進んでいこうとしていることになる。「夢」とともに進むがゆえの純粋な意志と自己研鑽の持続力、すなわちこれが春香の個性であり、仲間たちを導くリーダーとしての資質である。
 そして、この個性が反面として彼女の課題をもたらしてもいる。まず、春香にはアイドルになる以外の選択肢がない。これは身も蓋もないというか、作品の性質上ここで指摘してもまるで意味のないことなのだが、しかし春香がアイドルの高みを目指す途上で挫折したときにどのようにして立ち直るのかは、純粋であるがゆえに、そして他の選択肢がないゆえに、仲間たちよりも厳しい問題となるだろう(ただし、この厳しさはおそらく千早にも通ずる)。また、いま論者はアイドルの「高み」と述べたが、もし春香がトップアイドルを目指すとすれば、そこで努力だけではどうにもならない壁に突き当たるだろう。今までどおりの自己研鑽では限界に達したときが、一つの挫折となりうる。とくにアニマスでは、ゲーム版のようにパラメータや選択肢が手がかりとして与えられているわけではない以上、何をどうしていいか分からない状況が生じうるのである。「夢」とともに進んできたはずが、気がつけば「夢」があまりに高い場所にいた、というのがこの場合の課題である。「女の子達の永遠の憧れ」「だが、その頂点に立てるのはほんの一握り」というテロップが示すとおりのトップ競争の激しさということも想像すると、他人と争うことが苦手そうな春香は、他プロのアイドルや765プロの仲間としのぎを削ることも苦にしそうに思える。これらについては、おそらくプロデューサーや仲間たちが、日ごろ自分たちを支えてくれている春香を、逆に励まし支えることになるのだろう。
 もう一つ考えられる課題は、「夢」と一体となれたはずの自分に疑問を抱いてしまう、というものである。努力を重ねてアイドルになり、ファンも増えて人気も伸びつつある。なのに、これが自分の夢見ていたアイドルの姿なのかと自問すると、何か違う気がしてしまう。第1話の春香の言葉からは、アイドルになることへの意志は誰よりも強く感じられる一方で、どんなアイドルになりたいのかについては何一つ分からない。個性がないのは春香自身ではなく、春香が夢見るアイドル像なのだ。それは、春香が「誰よりもアイドルを夢見て目指す」という個性をもつアイドルという、自己言及的なアイドルであるがゆえの課題である。しかしその段階で何か別の個性を出そうと試みても、仲間たちの個性や芸達者ぶりにはおそらく敵わない。また、本来の個性であるドジっこぶりに磨きをかけたならば、それは天然のよさを失って「あざとさ」と呼ばれるものに変質してしまう。このように春香には、いま駆け出しとしての課題ではなく、順調に軌道に乗ったあとにこそ爆発する時限爆弾としての課題が、第1話でこっそり語られていたのである。

  春香「桜、散っちゃうかな?」

 雨の夜空を見上げたこの一言は、花を気遣う彼女の優しさと、自分たちの努力が花開く前に散ってしまわないかという不安とを物語るものと見せながら、じつはいま咲いている桜と同様に、彼女がアイドルとして花開いたあとに訪れるかもしれない危機を、本人の意識せぬまに暗示していたのである。

 春香以外のアイドルたちは、各人の目的を別にもちながら、ともに手を取り合って日々の努力を重ねている。彼女たちの場合は春香と異なり、各人の目的とアイドルになることとのすり合わせが、一つの課題となっている。

(2)自分を変えたい:雪歩、真、伊織

 雪歩は、このグループの典型例である。虫が苦手で、男性と話すのも苦手。度を越した引っ込み思案で、そんな自分が情けなく、でも治せずにいた。外見と立ち居振る舞いの可愛らしさや趣味のよさなどは真が羨むかもしれない女の子っぷりとも言えるが、雪歩本人とすればとてもこのままでいいとは思えない。「人に自慢できるようなもの、ほとんど持って」いないと言いつつ、きちんとした教育を受けてきたと見えるあたりは家庭の余裕を感じたりするものの、それが雪歩の自力で得た評価になるわけでもない。
 そんな弱い自分を変えるために、あえてアイドルという道を選んだ。それは、彼女よりも自信に満ちた者たちでさえ容易に踏み出すことのできない険しい挑戦であり、雪歩の一見虚弱な体に秘められた芯の強さを物語るものである。……と言いたいところだが、「でも、オーディションの申し込みは友達がしてくれてて」というあたりでケチがついてしまう。そのことは誰よりも雪歩自身が分かっていて、「やっぱり私なんて駄目ダメですよね……」「なのにアイドルになりたいなんて、その……夢、見過ぎでしょうか?」と、後ろ向きな言葉が繰り返される。
 しかし、それでもやはり雪歩は、弱い自分と戦っている。オーディション申し込みは友人のおかげとしても、実際にオーディションに臨んだのは雪歩であり、採用されたのは彼女の素質と意欲あってのことだ。男性インタビュアーを怖がりながらも逃げ出さないのは、真たちがそばにいてくれるだけでなく、雪歩自身が懸命に頑張っているからだ。

  雪歩「あ、あの、私、自分に自信がないから、だからこそ、違う自分になれたらいいな、って……」

 そう答える雪歩は、カメラマンに背中を向けながらも、ただ一人で頑張っている。この性格を鍛えて弱さを振り払うことはもちろん彼女の課題だが、「違う自分」がいまの自分から遠く離れた反対側にではなく、意外とすぐ近くにあるということ、すでに自分の中に芽生えているということに、やがて雪歩は気づくだろうか。そしてそのとき、彼女本来の細やかな優しさが、新たなつよさの芯としていっそう美しく輝くことになるだろうか。その確認は物語の進展を待たねばならないが、この今ある弱い自分―作るべき強い自分という対立軸は、真の場合には逆転したかたちで適用できる。

 真は、内面の乙女心と、外面の格好良さとがミスマッチしており、そこが魅力にも弱点にもなっている。父親の教育方針で男の子のように育てられながら、本当は女の子として可愛く生きたい。しかし、周囲からの評価はそれを許すものではなく、また真自身もつい男の子のような言動をしてしまう。「ボーイッシュ」と言われて落ち込みつつ、「いずれあの父さんの壁を、打ち破らないと! 見てろ、父さん!」と戦いを挑むあたりが典型例である。それゆえ、真がアイドルを目指す理由も、本来の女の子らしい可愛さを獲得するための手段として、ということになる。

  真 「えっとそうですね、こうフリフリッとしててプリプリッとしてて、ぼくもいつかそんなふうになれたらなーって」

 アイドルに憧れたという意味では、真は春香に近い。ただし、真はアイドルの何に惹かれたのか自覚しており、それゆえ視点は明確かつ限定的である。いわば、強制された自分から脱却して本来の自分を回復するための手段が、真にとってのアイドル業なのである。その意図的な回復が、とってつけたような可愛さの表現としてなされるとすれば、それはアイドルとしてよさを得られないだけでなく、真のいまもっているよさをも失うこととなってしまうだろう。
 とはいえ、真本人がまったく女の子らしくないわけではない。虫が嫌いだったり、少女漫画雑誌を愛読したり、クリームソーダを飲んだりといういわゆる女の子らしさを、真は無理に演じているのではなく自然に示している。女の子としての可愛さは、すでに真のうちに備わっている。そしてその一方で、真は大舞台で「かっこよく踊りたいんです!」とやる気満々で語るとおり、男の子らしいかっこよさを嫌っているわけでもない。体力も含め、それはそれで自分の長所であり、そのよさをアイドルとして発揮したいという意欲も持っている。どちらも真の一面であり、どちらが欠けても真のよさは消えてしまう。だから、真が本当に望んでいるのは脱却・回復というより、正確には自分の両面の統合なのである。ただ、駆け出しアイドルの現状としては、可愛さを求める気持ちを抑え込み、かっこよさで売り込むことが効果的であるだろうし、また真の表向きのよさを皆に認めてもらってから隠れた可愛さにも気づいてもらったほうが、ファンの心理をくすぐりもするだろう。しかし、そのためとはいえ、少女漫画ファンであることを「らしくない」がために「内緒ですけど」と隠さなければならないということが、真には辛い。そしてその反動として、可愛さを過剰なかたちで表現しようとしてしまうのもまた、周囲にはきつい。ファン増加とともに真の両面が受け入れられることとなるのか、それとも既存イメージを壊さないためにいっそう乙女な面を抑圧せざるをえなくなるのか。後者の危険が大きいとすれば、プロデューサーや仲間たちが真の両面をどのように認め、全体としての・一人の少女としての真とどのように向き合うのかが、重要な鍵となるだろう。
 そのような統合の未来はさておき、真の物おじしない性格は、もう一人の勝気な仲間としばしば衝突しがちである。その相手は、真と同じく他者による評価と理想的自己像とのずれに挑みながら、やはり家庭環境に由来する固有の課題を抱えている。

 伊織は、誇り高き財閥令嬢である。しかし、この生まれと性格が、すでに彼女に課題を与えてしまう。
 水瀬財閥のご令嬢がなぜアイドルに、と訊かれて「父親や兄達はそうですけど、私は私の手で何か掴みたいと思ったんです。だからこの事務所にも、オーディションに自分で応募して、」と答えるが、しかし「社長には知人に頼まれて預かったとお伺いしたんですが」と突っ込まれ「あ、あら? そうだったかしら……?」とひきつり笑ってごまかそうとする。カメラに気づいてとりすますあたりから、「偶像」としてのアイドルを地で行く振る舞いではあるが、この望ましい役割を演じることそのものは、財閥令嬢として生まれた伊織がその実生活のなかで否応なく培ってきた態度なのだ。素の自分を出せない社交場面で、伊織は令嬢として正しく振舞いつつ、おそらくストレスをため込んできた。その本心を語る相手は、つねに腕に抱えている人形「シャルル・ドナテルロ18世」だったのだろう。(やよいも初耳だったこの名前が、インタビューの場でこしらえられたものでないとすれば、固有名を持って当然なほどこのウサギ人形が大切な語り相手だったことを意味する。「ウサギじゃないです!」と返した語気の強さがそれを裏付けている。)その助けを借りながら、伊織はアイドル業でもその演技力を活かそうとしている。気の強さなども含めて、トップを目指す戦いに参入するための素養をそれなりに備えている、と言えるだろう。
 だが、そもそもなぜ令嬢としての役割に満足せずにアイドルを目指すのか。

  伊織「決まってるわ! この伊織ちゃんをみんなに認めさせるためよ!」

 こう叫ぶとき、伊織はもはやインタビュアーに媚びていない。期待されている答えを予想してその通りに返すのではなく、、本音を吐露している。先にも「私の手で何か掴みたい」と語っていたように、伊織は家柄を離れた自分についての評価をまだ得ていない。財閥を築き維持してきた父親や、その継承を期待されている兄たちは、財閥の発展が彼らの評価となる。しかし、伊織は社交界で役割を演じたところで、それが財閥の発展に目に見えるかたちで寄与するわけではなく、あくまで可愛らしいお人形のように扱われるにすぎない。財閥令嬢という肩書をもった飾り物としてではなく、伊織自身としての評価を得たい。家族から強制された自分を脱却したいという思いは、自尊心の高さゆえに、真以上に徹底しているかもしれない。
 しかし、そのために選んだ手段がアイドルなのである。たしかに、まだ子供の伊織が実務で独立することは不可能だろうし、何ら資格を有しているわけでもない。自分の手札を冷静に検討した結果、アイドルが最も有効な手段だと判断したのだろう。だが、このアイドル業で役立つ演技能力や美的センスなどは、彼女が飾り物として用いられてきた社交界で磨かれたものにほかならない。財閥令嬢という他者からの評価を脱却するために選んだ道で、役立つのがそこで培った能力だとは。もちろん真も同じような矛盾を抱えているとは言える。しかし、真は「私の手で何かを掴みたい」とは言わない。自力で高評価を得るための手段が、自力で脱却すべき強制的役割によって獲得した能力を必要とするというこの矛盾こそ、伊織固有の課題である。たとえこのままアイドルとして成功したとしても、それは伊織が自分の手で掴んだものなのか、それとも自分の意志があるかないかの違いだけで結局は財閥令嬢のときと変わりないのか。自由意志の有無は重大事だが、自由意志で行えばこそ、かえって袋小路は痛烈なものとなる。「この伊織ちゃん」とは、どの伊織なのか。認めてもらいたい自分とは何なのか。そこに深刻な苦悩がありつつも、いざカメラを前にすればつい手慣れた演技をしてしまう自分に、苛立ちは募る。なのにその苛立ちの根本原因を自覚できていないため、伊織は仕事がこないことや評価されないことへの直接的な不満のみを意識していく。
 そして、その意識的・無意識的な不満は、真や雪歩への意地悪によっていくぶん発散される。それは、真正面からぶつかってくれる相手を求めているということでもあるだろう。自分を変えたいと願いながら甘い考えを捨てきれない二人の年長者への苛立ちでもあるだろう。さらに論者の解釈からすれば、「引っかかるほうが間抜けなのよ」という伊織の嘲笑は、そのような演技をそぎ落としたあとに残る自分というものを掴み切れていない伊織への、自嘲ともなっているのである。
 このような課題を隠し持つ伊織は、第1話時点からやよいと並んで描かれている。様々な点で対照的とされつつ「やよいおり」というペアで知られるこの二人だが、その相方であるやよいの課題とは何だろうか。

(3)稼ぎたい:やよい、響

 やよいは
かわいい。さて、彼女は年少者の中でも小柄で幼く見える一方で、長女として家計を切り盛りするというたくましさを備えている。この実生活上での能力の高さと、アイドルという職業世界での知識技能の乏しさ、さらに言えば意欲においてもずれがあり、そこにやよいの課題の一端が示されている。

  やよい「えっと、少しでも家にお金を入れて、両親の役に立ちたいなーって」

 アイドルとは、と訊かれてこう答えるやよいにとって、アイドル業は家計を助けるための有効な手段にすぎない。アイドルになることそのものには、たとえ憧れはあったにしても家にお金を入れられること以上の重みはない。中学生で堂々と働いて稼げる手段としてアイドル業が存在していただけのことであり、例えば保育園で雇ってもらえるのであれば(そして安定した収入が見込めるのであれば)そちらを選んだ可能性も高い。
 家族を思うやよいの気持ちは、正直素晴らしい。そのために自分ができる仕事を探したということも、賞賛したい。そして事務所では、雪歩を宥めたりカメラへにフォローしたりとその配慮を行き届かせており、さらに掃除やゴミ出しまで自発的に行うなど、職場への貢献度は相当に高い。ところが、それらの美点はやよいが家事を担ったり弟妹の世話をしたりするなかで培われたものの応用であって、アイドルという異質な職業世界のなかで舞台に立ってすぐ役立つものはさほど多くない。伊織とは対照的な点の一つとして、この文化資本の小ささがある。
 そして、やよいが家族のために精一杯頑張っていることは間違いないにせよ、彼女がアイドルを手段としてとらえているということが、インタビューへの受け答えにこぼれ出てしまう。「あなたの自慢」を聞かれて、やよいは、「貧乏」な家の「6人きょうだいの一番上」として「妹や弟の面倒みたり、スーパーとかのセール品やサービスを利用して上手にお買い物することが自慢……」と語りだす。しかし「アイドルとしてのセールスポイント」だと突っ込まれて「あ。 う? あ! うう、な、何なんでしょう? うー、んと、あうー……ぜんぜん思いつかないかも……」と大いに弱ってしまう。すぐフォローをもらって突破口を得ることになるものの、ここに示されているのは、やよいがアイドルとしての自分を考えるよりも前に、家族の一員としていっそう頑張ろうとする自分を考えてしまう、という姿である。家族第一に考えるのは彼女の優しさだが、アイドルとしてのインタビューを受けてアイドルとしての意識を忘れてしまうというのは、少々問題がある。かなり厳しく言えば、そのような気構えではアイドル業でうっかり失敗を重ねてしまい、本来の目的である家計を助けることもままならなくなってしまうのではないだろうか。アイドル業が手段であるがゆえに、その手段に専念できず目的も満たせなくなるということが、やよいの課題ということになる。
 これを解決するために、何が必要となるだろうか。おそらくその手がかりの一つは、仲間とともにアイドルの道を進むことそのものに、やよいが価値を見出すということだろう。伊織たちとともに努力すること、ともに高みを目指すことが、家計を助ける手段であると同時に、やよい自身の喜びとなり夢となるということ。ただしそれは、まず何より家族のためにという彼女の思いやりと、彼女の個人的欲求との衝突というかたちで、新たな課題を生み出すことになるかもしれない。アイドルを続けることが、たんに自分のわがままではないのか。十分な収入が得られるうちはこの葛藤も無視できるだろうが、それでも仕事が忙しすぎて家に帰れない日が続いたならば、家族のために努力した結果として自分が家族から離れてしまうという矛盾を抱え込むことにもなりうる。そんなときにやよいの首根っこを掴んで連れ帰りそうな伊織がいるということが、論者としてはありがたい。
 この家族のためにという意志を強く示しているもう一人のアイドルが響である。ただし、こちらは人間の家族ではない。

 響は、野性児タイプの元気娘である。身体能力が高いヒロインが二人いる場合、片方が内面乙女としてのギャップを備えると、もう片方は性格上のずれを持たないことが多い。響は真に対してそのような位置づけにあり、しかも文武両道という方向でもなさそうなので、このまま直情径行を個性として突き進むのだろうか。思ったことを正直に口にして問題を招いたり、逆に壁を突破する機会を作り出したりといった活躍が期待されるのだが、第1話ではまずオーディションの場面でその長所と空転ぶりが描かれている。ペットの話ばかりに熱中して失敗したのである。
 ここには、やよいと同じ課題が見て取れる。大勢のペットを育てていることが大変ではないかと訊かれて、響きは「なんくるないさー! 家族は大勢のほうがにぎやかでいいぞ。みーんなかわいい妹や弟なんだ」と快活に答える。大家族への愛情が原動力という点、そしてアイドル業がその家族のための手段として語られているという点で、響は手段としてのアイドルがもつ課題を有している。彼女がどのようなアイドルを夢見ているかは、第1話の言葉からは分からない。あくまでその台詞のみにしたがって解釈するならば、響はペットのエサ代を稼ぐために頑張っていることになる。ただし、そこには、やよいと微妙に異なるニュアンスも感じられなくはない。

  響 「みんなのエサ代も稼がないとね!」

 アイドルとは何か、と訊かれてのこの返答は、よく聞くと、みんなのエサ代「も」稼がないと、とある。ということは、ペットという大家族を養うことが目的であることに間違いないが、それは一つの目的であり、他の目的「も」存在していることになる。それは、ペットのみならず実家のためにも稼ぐということであれば、やはりやよいと重なり合うことになるだろう。しかし、エサ代も稼ぐし自分の別の夢も叶えるということであれば、そしてその夢がアイドルになることであるならば、響はやがてやよいが到達するかもしれない段階に、つまり家族への貢献欲求と自己の快楽欲求とを両立させるという段階に、すでにいるということになる。
 ただし、これについては逆の考え方もできる。響はそれらの両立段階にあるのではなく、自分の欲求をやよいほど制御できないという課題を抱えている、という解釈である。もちろん、ペットを見捨ててトップアイドル目指して邁進する、という姿などとうてい想像できない。しかし、響は我慢できずに「ハム蔵のご飯食べちゃった」と泣き叫んでいるが、やよいが弟妹のご飯を食べてしまうことなど冗談でも絶対にあり得ない。ペットと人間の違いはあるにせよ、「妹や弟」との関係や最年長者としての意識が響とやよいとで異なることが、ここからうかがえる。この欲求や感情を我慢できずに直球で表してしまうという性格を、より肯定的で他者のためになるように制御していくということが、野生の文明化という枠組でとらえた場合の響の課題ということになるだろう。そして、それは彼女自身の変化によって、例えば性格が丸くなるとか処世術を身につけたといったことでも可能だが、それによって長所としての直情径行を失ってしまうよりは、仲間との関係と通じて役割分担がなされるなどの方が、論者としては好ましく思える。

(4)楽しみたい:亜美、真美、美希

 ここでは、自分を変えたいという願望よりも、アイドルになることを楽しむ姿勢が強い者たちを取り上げる。アイドルということにこだわる点では春香に近いが、「夢」を叶えることがどうとかでなくこの状況を満喫しているという、快楽主義的な雰囲気が感じられる三人である。

 亜美・真美は、最年少者の双子のおませさんである。律子へのインタビュー中に平気で割り込んできたり、ハム蔵を探す響に追随したりと、良く言えば緊張感をほぐす・悪く言えば場をかき乱す役割を果たしている。叱ってもしばらくすると元通りに騒いでいそうで、律子たちの苦労が偲ばれる。ちなみに、新規ファンである論者は、亜美と真美の声の区別がまだついていない。ゲーム版ファンは、やはりきちんと区別できるのだろうか。余談はさておき、この二人にとってのアイドルとは何か。

  亜美「なんかチョー楽しそうだよね」
  真美「うんうん。早くテレビとかもっと出てみたいよね」

 楽しそうで、テレビに出られる。たしかに間違いではないし、むしろ小中学生ならこう答えて当然でもある。実際にレッスンなどの苦労も多いわけだが、学校とアイドル活動の両立についても前向きである。

  亜美「ぜんぜん平気だよー! だってどっちも楽しいし。ね、真美?」
  真美「うんうん! 楽しいことはいっぱいあったほうがめっちゃお得だよね」
  亜美「二人でいれば、苦しいことも半分だし」
  真美「みんながいれば、楽しいことしかないっしょ」

 楽しいから、厳しい練習も乗り越えられる。「お得」という功利主義的発想で、得られた機会を最大限に楽しもうとする。子供らしい態度とも言えるし、この二人の個性とも言える。そして、「みんながいれば」とはこのアニマスの基調ともなる言葉だが、その直前の「二人でいれば」の方は、この双子の間にある絆を示す表現であるとともに、二人の課題を指し示すものでもある。おそらくは生まれてこのかたずっと仲良く育ってきたこの二人が、アイドルの仕事を続けていくなかでそれぞれの道を選ぶときが来るのかどうか。もしも本作品中でそのときを迎えることがあるとすれば、あるいはその予感を抱く場面が訪れるとすれば、亜美は、真美は、そこで何を思うのだろうか。「苦しいことも半分」にならない未来、それにどう向き合うかが亜美と真美の遠方にある課題である。
 双子のこの課題に対して、「苦しいこと」を一人で半分以下にしようとしているのが美希ということになる。

 美希は、豊かな素質・才能と反比例する意欲をもつイマドキ少女である。登場場面からしてソファーで寝ており、起こされてもなお自己紹介にやる気がない。しかし、それでも「あと、胸おっきいよー」と最小コストで長所を売り込むあたりは、彼女の省エネ的態度がたしかに一貫している。ちなみに論者にそのアピールは効果がない。

  美希「美希ね、疲れるのとか好きじゃないから、楽チーンな感じでアイドルやれたらって思うなっ」

 結局なぜアイドルになりたいのかは分からずじまいだが、ともかく亜美・真美に比べても努力に熱意を向けられない子だということだけは伝わった。とはいえ、これは伊織にも共通する点だが、定められたレッスンなどを手抜きしようとか、ズルをして怠けようとかいった気はおきないように見える。怠惰といっても、悪い意味で要領よく生きるということではなく、必要なことを必要以上にはしないという合理性なのかもしれない。「まだわかんないことばっかだけど、少しずつのーんびりやっていこーって感じかなー」という台詞は、初心者なりにマイペースに努力する宣言として理解できる。この悠然とした態度こそが美希の個性であり、またその緩やかな努力で最大限の成果を挙げてしまいそうなあたりが持ち前の素質の恐ろしさである。
 そして、この個性がそのまま彼女の課題でもある。美希は豊かな才能があるのにほとんど待ちの姿勢を保っており、求める快楽の実現を未来に期待している。たしかにゆるゆると歩みつつあるとはいえ、他の者からすれば、それだけの才能があるのになぜ本気にならないのかと思いたくもなるだろう。例えば伊織は同学年ということもあり、また彼女の目的追求的姿勢からしても、その真逆をいくような美希の態度には苛立ちを覚えているかもしれない。「寝る子は育つということかしら……?」というぼやきには、あらゆる意識的努力を重ねているつもりの自分と、何も努力していないのに得るものは得ている美希との止むに止まざる比較が、ふと反響しているように感じてしまう。どこで何をきっかけに美希が積極的にギアチェンジするのか、そして仲間たちがどんな影響を受けるのか(とくに春香)が、今後の論者の楽しみということになる。

(5)機会を得たい:千早、あずさ、貴音

 ここでは、アイドルになることで何か別の機会を得ようとする者たちを取り上げる。目的が別にあるという点では自分を変えようとする者たちにも似ているが、こちらは期待する具体的な機会が語られているグループということになる。

 千早は、ストイックな実力派歌手の卵である。彼女の課題は、その自己抑圧にある。第1話本編でソロ歌唱しているアイドルは、この千早以外にいない。つまり、歌にかける思いや歌唱力という点で突出した存在なのだろう。その千早がライブ前座終了後、歌に対する想いを問われて答えた言葉が、彼女の歌に向けるひたむきさが表れている。

  千早「どのような歌であろうとも、つねに真剣に取り組みたいです。私がそうでないと、歌に対しても、聴いてくれる人にも失礼だと思うので」

 しかし、ここにはまた、彼女のこだわりもうかがえる。「どのような歌であろうとも」という表現からすれば、彼女の意に適う歌とそうでない歌とがあるのかもしれない。だが、千早は歌と聴き手への敬意をもって「つねに真剣に取り組」む。それは彼女の誠実さであり、歌手としてのプライドであるとともに、自分の好みを表に出さないという姿勢の表れと受け取れる。これは、駆け出しであるがゆえの謙虚さも含んでのことなのだろうが、より抑圧的な何かも感じられてしまうのである。「本当に歌が好きなんですね」に対して「はい。私には、歌しかありませんから。だから、遊んでいる暇はありません。……あの、すみません。もういいですか? 集中したいので……」と答えたこの言葉にも、「歌しか」ないという切実さが示されている。論者にはファッションセンスなど皆無なので、千早のそれを評価できない。少なくとも彼女は十分魅力的な少女に見えるのだが、しかし本人としては様々な劣等感があるのかもしれない。春香に「私には無理だわ」と返しているように機械音痴であるとか、自然な笑顔を浮かべられないとか、
ジャージの胸元に影がないとか。(ちなみに論者がハム蔵だったら、美希ではなく千早の胸元に入っただろう。)

  千早「歌うこと、それだけです」

 アイドルとは何かと訊かれ、そう答えながら横を向いてうつむく千早は、明らかに苦悩を秘めている。そしてどうやら、その苦悩をまだ仲間の誰にも打ち明けていないように見える。歌うことしかないと言いながら、千早にとって歌うことは苦行や懲罰にあたる何かなのだろうか。第1話で分かることは、彼女がアイドルを歌手としてのみ目指していること、そして歌うこと以外のバラエティ番組出演などはほとんど求めていないこと、である。ライブ前座でも、自分と歌に関心をもってもらうための挨拶やトークを用意していたとは想像しがたい。歌を聴いてもらう、歌だけを聴いてもらうことを望みながら、そのための余計なことを排除した結果、肝心の歌も聴いてもらえない。これは、手段に専念できないために目的も満たせないという意味でやよいと共通の課題と考えられるが、それはそれで千早の声優さんにとって喜ばしいことかもしれない
 それにしても、千早は心を閉ざし独り苦闘しているかに見える。彼女の歌もまた、痛みのほとばしりのように聴こえる(『蒼い鳥』ということもあるが)。しかし、そのこととまったく対照的に第1話で気づくもう一つのことは、エンディング画面で仲間と歌い踊るときの、千早の自然な笑顔である。おそらく千早は本当に歌が好きなのだろう。義務感や罪悪感などから歌うだけでなく、心から歌いたいのだろう。コメントの途中に差し挟まれた、シールドで縛られたマイクの映像が暗示するように、その束縛を解き放てる時をどこかで待ち望んでいるのかもしれない。そして仲間といることが、仲間とともに歌を分かち合うことが、今すでにかけがえのないものとなっているのだろう。だからこそ、この仲間たちとの絆が深まるにつれて、千早自身がなお分かちあえずに独り抱き続ける苦悩との巨大な断絶が、今後いっそう影を落とすことにもなりうる。
 こうして歌うことにこだわりを示す千早に対して、あずさは今回何のこだわりも示すことなく、異なる目的へと向かっている。というか、向かっているつもりである。

 あずさは、天然癒し系成人女性である。そう、このメンバーの中で唯一の成人なのだが、しかしとてもそうとは思えない。身体的には成人の標準を大きく超えるナイスバディである一方、性格的にはあまりに心もとない。占いを読んで喜んでいるのは本人も言うとおりの気休めとしても、例えばオーディションからの帰り道に迷う。論者も40代にして道に迷う人間なので批判できる立場にないのだが、地に足のついていない雰囲気が存分に感じられてならない。
 その原因は、あずさの人生設計にもある。事務所に入るきっかけを訊かれて、あずさは「短大を卒業して、なんとなく応募したんです。それまでは、歌やダンスなんてやったことなくて。5年くらい頑張れば何とかなるかな、って思って。でも半年しか経ってませんから、まだまだこれからですよね」と答える。短大卒ということは少なくとも20歳、そこから5年経てば25歳。アイドルの年齢に上限はないが、しかしそののんびり加減はどうなのだろう。歌などの経験がないというのも重ねて驚くところだが、元の素質で何とかカバーしてしまうのだとすれば、これは美希によく似ている。そして、望む未来をゆったり待っている姿勢もまた、二人に共通している課題である。
 いや、待っているというのはあずさに対して失礼だろう。彼女は彼女なりに、前に進もうとしている。

  あずさ「こうしてアイドルとして頑張っていれば、きっと誰かが見つけてくれますよね? うふふ」

 そう語るあずさは、たしかに積極的に待っている。自分が動くことで未来からの反応を得ようとしている。「恋愛運」の欄に小さな安心を得ながら、現実にそれを掴む日を探し求めている。ただ、目的地へ至る道を間違えているかもしれない。運命の人に見染めてもらう可能性を広げるためにアイドルという目立つ仕事を選ぶというのは、それなりに合理的な判断である。だが、誰もが見上げることのできる飛行機に、手を伸ばそうとする者はどれだけいるだろうか。道に迷っていることに気づいていないことが彼女の課題なのかと思えてくるが、しかし同時に、そんなあずさだからこそ、彼女の周りには自然に道が開けていくのかもしれない。ベンチに座れば子供やお年寄りが近づき、あずさと笑顔を分かち合う。一見遠回りをしているようで、じつは最短路では得られない幸せを、ゆっくり育てていくというのが彼女の持ち味なのだろう。例えば、律子が指導してくれた胸元強調キメポーズはオーディションで(そして論者に対しても)空振りに終わったわけだが、そうやって意識的に魅力を押し出すという最短路を進むよりも、無自覚な言動が伝える身体美のほうが、彼女のよさを存分に知らしめるのではなかろうか。
 そんな色香の最短路を教えられても決して従わず、しかし別の直線路のど真ん中を歩んでいきそうなのが貴音である。

 貴音は、謎系お嬢様である。伊織が財閥令嬢なのに対して、彼女はやんごとなき家柄の出身という印象を与える。……正直なところ、論者は彼女につい事前情報をほとんど持っていなかった。そしてこの第1話でも、貴音を理解する手がかりは他の者たちに比べても少ない。とはいえ、その謎めいたありかたそのものが、彼女の個性ということなのだろう。千早のように悲痛な何かを秘めている、という雰囲気ではなさそうだが、さりとて軽々に語られていいというものでもないのだろう。高貴な生まれを感じさせるその物腰から、その生まれゆえの逃れられない定めをむしろ自らあえて引き受けて、戦いを挑んでいるのではないか、と想像したくなる。「私は、人生とは、己で運命を切り開くものだと信じております」と語るその優雅な微笑みには、決まり文句におさまらない凛とした意志が備わっている。
 それがアイドルとしての力に結びつかないところが、貴音の課題でもあるのだが。オーディションで出身を聞かれて「とっぷしいくれっと」と答えるのは、ウケ狙いでも何でもない本心からの言葉。「人には誰でも、秘密が一つや百個はあるものですから」というのも、毅然とした生き方の証。しかし、本人にとってはそうであるにせよ、それで仕事が取れるわけではない。将来は謎を秘めたアイドルということでファンも増えそうなのだが、そういう評判を得るまでの地道な営業に向かないのが彼女の個性である。この意味で千早たちに近い課題を抱えていることになり、しかも目的が不明なものだからそこへ至るための援助も他者からはしづらい。そもそも、こんな彼女がなんでアイドルになろうとしたのか。

  貴音「それも、とっぷしいくれっとです」

 どうしろと。採用した社長の度量に感服したい。
 しかし、貴音はその一方で、屋上で談笑したり携帯ゲームの遊び方を教わったりと、仲間とのかかわりを自然に受け入れている。そして仲間も貴音の高貴さを認めながら、敬して遠ざけることなく接している。千早も貴音も課題解決のために仲間との絆を必要とするとして、千早の苦悩については仲間からの積極的な働きかけが求められるのに対して、貴音の場合は仲間から勝手に吸収しながら自力で乗り越えてしまうような、そんなたくましさと水くささを予感してしまう。もっともその乗り越え方は、伊織なら世間知を持ちだすところで、貴音は騎士道精神か何かで正面突破するという感じなのだろう。

(6)育てたい:律子、小鳥、社長

 ここでは、以上のアイドルたちを支え育てていこうとするスタッフについて述べる。

 律子は、すでにアイドル業をリタイアしてプロデューサーとして営業に努めている。合理主義者で実務的、しかも姉御肌な性格はこの新たな仕事に向いていそうだが、一方で過去のアイドル時代については「内緒にしておきたかった」ということで、何かそこに蹉跌があったのかもしれない。少なくとも当時の写真に残る彼女の笑顔は、屈託のないものだったのだが。そこには律子を囲んで他のアイドルの卵たちが写っている。ということは、この半年ほどの間に、律子はプロデューサー業に専念することを決心したことになる。
 アイドルたちが「アイドル」とは何かを訊かれたのに対して、律子は、「アイドルの条件とは何か」と問われている。

  律子「んーそうですねー、諦めないことでしょうか。叶わない夢を持つのではなく、夢を叶えるための意志を持ち続けること。
      ……んふ、なんて私が言うのも何ですけど。私、彼女たちがアイドルとして成長していくのが、本当に楽しみなんです!」

 この返答には、律子がアイドルたちに寄せる想いと、律子自身のわきまえとが、明確に示されている。
 「夢を叶えるための意志を持ち続けること」。この言葉を、本節で春香について論じた箇所と重ね合わせていただきたい。まさしく春香は、仲間たちのなかで唯一アイドルを「夢」として語り、この「夢」を叶えるための意志をもって努力し続けている。つまり律子は、そうして春香が示すアイドルの生きざまを、ここでプロデューサーの立場からあらためて言葉にしているのである。律子は春香と同じほど、アイドルというものを突き詰めて考えている。その「夢」へ向かって進もうとする意志の持続が不可欠の「条件」であることを、春香に劣らず知っている。そして、そこまで理解していながら、律子は自分がアイドルになることを断念したのである。
 もちろん、この言い方は公平ではない。律子は、アイドルというものを深く理解し、そしてそのアイドルを目指す仲間たちの想いに深く共感し、そして自分自身の能力と意志を分析したからこそ、自分がこの765プロで最大限に活用する方法を検討し、プロデューサーの道を選び取ったのである。豊かな才能を、輝く素質をもった者たちが、今ここにいる。その天分を磨き、舞台で真価を発揮させるためには、彼女たちを支援し指導する役割を誰かが担わなければならない。そのためのマネジメント能力やプロデュース能力を兼ね備え、しかも彼女たちと親身に関わることのできる人物は、律子自身である。おそらくそのような思考の末に、律子は新たな道を選んだのだろう。そしてそのとき、自分がアイドルを続けた結果についても、冷静に吟味したことは容易に想像できる。
 そのような合理的計算の一方で、律子の情は厚い。亜美・真美にはしつけとともに宿題の指導もしてやり、アイドルたちの成長を「本当に楽しみ」にしている。根っからの世話好きで、頑張っている人を見捨てられないのだろう。自分のしたことが相手を力づけられたなら、そしてその相手が成長していっそう輝けたなら、そのことを幸せに感じられる少女なのだろう。この幸せのサイクルは、アイドルとファンとの間で生まれるはずのものでもある。だから律子にはアイドルとしての素質が間違いなくあった。ただ、それよりも大きくていま皆に必要なものとして、律子は支援能力を発揮しようと決めたのである。千早にはライブの前座とはいえ歌手としての貴重な機会を割り振り、あずさには最も単純で効果的な魅力の示し方を教授し、小鳥とスケジュールを調整し、事務所の規律を体現する。それらは、律子の能力の高さをうかがわせるとともに、彼女の善良で有能すぎるという課題をも暗示している。頭がよいだけならば、亜美・真美のような要領のいいお調子者として発散することもできるだろう。善良であるだけならば、自分の意志を誰かに支えてもらうこともできるだろう。しかし律子はその両方であるために、自分に求められている事柄を素早く理解し、それを満たすために行動できてしまう。その結果、彼女が過剰に自己犠牲的ではないにせよ、やはり自身の欲求を封じ込めてしまう傾向が生まれやすいのである。
 とくに、アイドル時代の話を訊かれてあのように動揺するというのは、そこにこだわりを残していることを意味する。もし律子がたんに合理的な判断として割り切れていたならば、「ええ、なんだか懐かしい感じさえしますね。でも今はプロデューサーですので」といった具合に冷静に対応できたはずだ。アイドルだった自分への気恥ずかしさ、ためらい、そして心残りなどが多少なりともあればこそ、律子のアイドル姿も楽しみにしていると言われて「え? ……ん、もう」とまともに照れてしまう。彼女が支えるアイドルたちが成長することで、そのような過去へのこだわりは解消していくのかもしれない。しかし逆に、その成長しゆくアイドルたちを間近に見つめることで、その遠い後ろに自分を置いてしまうということも、一つの可能性として考えられるだろう。
 そんな律子の大先輩かもしれないスタッフが、事務員の小鳥である。

 小鳥は、年齢不詳の美人事務員である。あの衣装は765プロ事務員の制服なのだろうか。他に事務員の姿が見えないので分からないが、つまり第1話を見るかぎりでは765プロの事務方はこの小鳥によってほぼ切り盛りされていることになる。もちろん律子の事務処理能力も相当に高いだろうし、この小規模プロダクションならアイドルたちが自分で片付けなければならない部分もそれなりにあるのかもしれない。とはいえ、電話対応や伝票の整理は当然として、CD販促の手伝いにまで駆り出されるというのは、とんでもない仕事量なのではないか。本人は「あくまで私はヘルプ」と謙遜するが、彼女なくして765プロは回らない。
 小鳥と律子の分担については、より裏方に関することは小鳥が、仕事場での対人関係が重要なこと(雑誌インタビューの付き添いなど)は律子が、というあたりだろうか。また、アイドルたちの日常的なお世話面では、より受容的な役割を小鳥が、より指導的な役割を律子が、それぞれ担っている様子である。両者の役割分担によって、事務所の規律と居心地とが保たれる。
 そんな縁の下の力持ちである小鳥の課題があるのかどうかは、第1話では分からない。もしかすると、婚期なのか。社長からお見合いの話をもちかけられたりしていないだろうか。

 その社長は、アイドルの条件について訊かれて「律子くんに全部言われてしまったかな」と笑うなど、鷹揚なのか何も考えていないのか不明な姿で描かれている。論者はこの社長の声から『重戦機エルガイム』のミラウー・キャオを思い出すため、なんとなく軽率そうな雰囲気を感じてしまう。
 しかし忘れてならないことは、この社長が採用しなければアイドルたちはこの場所にいなかったということである。貴音の個所でも述べたが、何か困りどころがあるとしてもそれも含めて彼女たちを原石として見出し、そこに社運を賭けてみようしたのは、社長の彗眼と度量と度胸である。もっとも、過去に不採用だった者がいたとすればその者たちとの比較はできない以上、もしかすると大魚を逃している可能性もなくはないが。
 そしてもう一つ、今回のカメラマン兼インタビュアーはじつは新規採用されたプロデューサーだったわけだが、このことを仕組んだのがほかならぬ社長だったということも見逃してはならない。それは社長自身が語るとおり、事前にアイドルたちのことを知っておけるように、との配慮から生まれた指示だったが、同時にまた、新人の能力と意欲を試すという意図もあったのだろう。後述するように、その成果はじつに大きなものとなった。社長は人の使い方を知っている。そして、このからくりをアイドルたちに打ち明けるとき、またおそらくは新人にこの指示を出したときもだろうが、社長自身が悪戯っ子のように楽しんでいるということは無視していいことではない。このような遊び心をもち、それを部下やアイドルたちと共有しようとする姿勢は、オヤジ的なそれとして拒否されないかぎりは、事務所の人間関係を風通しよくする要素ともなりうる。律子や小鳥があれだけの仕事をこなしながら、765プロがブラック企業の様相を呈していないのは、この社長の気質による部分も小さくない。
 課題があるとすれば、性格がよさそうなだけに仕事をぶんどってくる腕力があるかどうかや、顔を出さざるをえないアングルに耐えられるかどうかなど。

(7)「そしてもう一人…」

 社長の秘密命令にしたがい、新人プロデューサーはアイドル全員のドキュメンタリを撮影するという名目で、しばらくの間取材のふりをして彼女たちに対面することとなった。いわば試験期間と研修期間をいっしょくたにした日々がどれだけ続いたのかというと、撮影画面にあるスケジュール表を確認するに、例えば春香たちの「ボーカルレッスン」から千早のライブ前座(ホワイトボードの「ライブ会場確認」の翌日か)まで10日の間がある。ちなみに「ボーカルレッスン」の2日前に「宣材撮影」とあるが、このとき撮影された写真が第2話で問題となったものだろう。その場にはプロデューサーは立ち会っていないはずだから、これ以降だいたい2週間程度にわたって取材活動していたと考えてよいだろうか。
 その初日の朝6時にプロデューサーは駅で春香を迎えて事務所に同行し、その日の終わりにも駅で春香を見送っている。さて、春香が朝方の駅に着く前に待っていたということは、プロデューサーはどうやってこの時間に間に合えたのだろうか。新人に宿泊費が下りるとも思えないので、何か工夫したことになる。オーディションや仕事の現場に同行するさいには、事前に了解を得ているにせよ取材先で社外の人たちに挨拶を欠かすことはできないし、状況ごとの随時対応が求められる。毎日の取材終了後には、映像をドキュメンタリ化する編集作業が待っている。それぞれの能力について、新人プロデューサーはとりあえずの合格点を獲得したのだろう。
 論者がとくに注目するのは、インタビュー中にやよいが自分のアイドルとしての長所を答えられず困惑したさい、「…その明るい性格じゃないでしょうか?」と助け船を出した場面である。カメラを構えながらの咄嗟の対応。自分の声は指向性マイクに入らないのか、それとも後で編集消去したのか不明だが、この対応は今後彼女たちを支援する者としての資質を感じさせるものだった。雪歩が背を向けながらも「アイドル」とは何かについて一生懸命答えることができたのも、この段階でプロデューサーが距離のとりかたに配慮した結果かもしれない。CD販促手伝いの代行にはさすがに慌てもしたし、また貴音には「ウケ狙い」という一般的解釈を向けてしまうなど、今後精進すべき課題ももちろんあった。しかし全体として、取材という役割をこなしつつアイドルのことを知るなかで、彼女たちのために今の自分にもできることを試みるという姿勢が、論者には端々で感じ取れた。社長も認める期待の新戦力として、まずは幸先よいスタートを自ら切ったことになる。

  プロデューサー「夢は、全員まとめてトップアイドル!」

 そして、これこそが彼の、彼女たちの共通の課題である。



おわりに 〜「アイドルマスター界」の発展を祝して〜

 以上、第1話の視聴内容をもとに、新規ファンとしての論者が理解した各人の個性と課題を述べてきた。繰り返すが、これらはあくまでも論者の視点から見てとったものにすぎず、他の様々な観賞姿勢や解釈を否定するものではない。また、原作ファンが抱く「歪み」への違和感を解消できるような説明でもない。
 ただ、第1話のなかで綴られている言葉をあえて論者の視聴姿勢に引き寄せれば、次のことはあわせて述べておけるかもしれない。

    「彼女たちの『日常』」

 「日常」とは、アイドルの卵たちの今までの日々。あるいはまた、ゲーム版原作をはじめとするアイマス作品が描いてきた、アイドルたちの従来の姿。

    「変わりなく流れていた日常が
     少しずつ変わり始めている
     少女たちの想いをのせて……」

 プロデューサーの参加とともに、さらに加速し始める日々。あるいはまた、当たり前のものとされてきたアイドルたちの従来の姿が、アニメ版を通じて「少しずつ」変わり始めるこの半年。でもそれは「歪み」や逸脱ではなく、「少女たちの想い」をのせた拡大深化。

 アニマスはアケマスを上書きしてしまうものではない。それは、765プロ全員の相互関係を描くというアニメ版独自の役割を担いながら、「アイドルマスター界」と言うべき作品世界を広げていく新たな試みである。波紋をもたらしながらも、アイマスは様々なものを取り込んで豊かになり続ける。アケマスファンの手紙がゲーム内で用いられたように、ぷちマスが公式作品化されたように、声優の言動がアイドルに反映するように
 そのことを拒絶することもファンの自由であり、受け入れて楽しむことも、その拡大深化に参加することもまた自由である。論者はアニマスを積極的に受け入れたわけだが、それでもこの作品がアイドル全員をなるべく公平・公正に描くという前提から離れてしまったならば、やはり自分の求めるものとの違いを痛感することになるはずだ。今はただ、この第1話にも存分に込められている制作スタッフの作品愛を信じて、物語の進展を見守ることにしたい。

    「ひとりでは出来ないこと
     仲間とならできること」

 ゲームではできないことを、アニメで描く。アニメではできないことを、ゲームで実現する。論者もひとりでは、もっと豊かな楽しみ方が分からない。ファンの皆様の多様な楽しみ方を拝見しながら、自分なりの作品愛を育てていくこと。それが論者にとっての楽しい課題である。

(なお、本考察公開に先立ち、cosmorz 氏からtwitter上にて加筆箇所などについての貴重なコメントを得た。早くも論者の課題にとってありがたい助力をいただけたわけで、ここに記して感謝する。)


(2011年12月8日公開・くるぶしあんよ著)


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