朝鮮戦争  (エポック/サンセットゲーム


 中共軍参戦までの朝鮮戦争を描く作戦級シミュレーションゲーム。
 もう10年以上も前のこと。大学受験にまんまと失敗し、浪人時代に突入したぼくは、相変わらず勉強もせずに、読書やゲームに明け暮れていました。予備校に通うよりも本屋などを巡回するのが日課となり、ついに予備校除籍になったのも、今となってはいい思い出です(不幸な過去)。そんな爛れた毎日を過ごしていたぼくが、ある時友人達と入ったホビーショップで、何故か鍵のかかったショーケースの中に幾つかのゲームが鎮座ましましているのを目にしました。その横には「絶版ゲーム」の文字。
 シミュレーションゲームというのは買う人間の数などたかが知れていますから、版を重ねることなど大抵ないものです。しかし、その中でも、有名作品であるにも関わらず、諸般の理由からもはや入手不可能というものが当時少なくありませんでした。売れすぎて在庫なしというではなく、会社が倒産したとか、作品に問題があって販売を停止したとか、そういうものもあったわけです。で、このコーナーに飾られていたエポックの『朝鮮戦争』こそ、まさに作品の問題ゆえに幻の存在となっていたゲームでした。詳しい経緯は知りませんが、この戦争をゲームのテーマにすることを批判したマスコミがあったとか。歴史から何も学ばない連中がやりそうな思想統制ですけど、残念ながらこれに屈することになった結果、『朝鮮戦争』は店頭から消えました。そしてエポックの広告でも、他の作品が並ぶ中で、この13番というナンバーも不吉な作品の位置だけは、広告中央の人間の拳によって上手に隠されていました。思えばあの拳こそ、マスコミの暴力を、あるいはそれに対する義憤と革命の叫びを暗喩していたのかもしれません。
  こんなわけで、一度も現物を拝むことなくぼくの記憶からその名を消されそうだったこの作品が、なぜかその店に1箱だけ生き残っていました。思わずショーケースに飛びつくぼく。これを逃せば2度と会えないかも知れない作品を、当然買う気で値段を確認。すなわち倍額の7600円。うぐぅ。ええ買いますとも、某かるた店さん! さて帰宅後うきうきとパッケージを開けると、そこにはいつものエポックらしい色調豊かで波打ちやすいマップと、赤青緑のユニット、そして鈴木銀一郎の名が入ったルールブック。ああ大佐、またお会いできました! しかし何と大佐はこの『朝鮮戦争』こそ初デザイン作品とのこと。購入できた僥倖への喜びもいや増します。

 この朝鮮戦争、全体としては中共軍が参戦して国連軍と押し引きを繰り返すまで長々と続くのですが、本作品では最初の韓国の危機、つまり開戦と、仁川上陸による攻守交替の時期までを描きます。これはデザイナーズノートにもある通り、以降の時期は戦争の様相も異なっていきますし、この期間だけでもイニシアチブの転換を含めたダイナミックな戦いが楽しめるので、正当な措置でしょう。
 ゲームコンポーネントは、フルマップ1枚に戦場となる朝鮮半島の南部が描かれ、ユニットは大きく北朝鮮軍、韓国軍、国連軍(主に米軍)の3タイプに色分けられています。額面戦力は北朝鮮軍が圧倒的ですが、もちろんこれはユニットの規模が違うからであり、北朝鮮軍は分割ユニットによって戦力を小分けに運用することも可能です。

 ここで重要なのが、まず韓国軍と米軍のスタック禁止(例外あり)。指揮系統が異なる軍隊同士が協力するのがいかに困難かが、司令部ユニットの指揮能力とからめて、端的にルール化されています。徐々に増援として送られてくる米軍ユニットですが、すぐに前線に投入したくても韓国軍とスタックできないため、どうしても単独で配置してしまいがち。こうして瞬時に撃破される危険性を冒すか、それとも前線の危機をこらえて戦力を蓄積するか。どちらにせよ前線の戦況が問題になるわけで、北朝鮮軍としては当然相手を焦らせて予備を消耗させるため、突破に次ぐ突破を求めていくことになります。
 そして、これと関連して重要なのが北朝鮮軍の特殊ユニット。相手ユニットの支配地域にない特定海岸部に上陸できる部隊はごく少数ながら、それに対処するための後方警戒部隊を、ただでさえ部隊が足りない守備側に要求します。また、何といっても強大なのが、3つの戦車部隊ユニット。これは韓国軍(対戦車能力がない)の支配地域を無視できるという代物で、つまり韓国軍部隊の横を自由に通過できるという按配です。重要地点で守備していても、その背後に回られて包囲攻撃にさらされるのでは、いかに防衛線をひくかが韓国軍の大いなる悩みどころというわけ。あまり突出しすぎると狙われる危険性もありますけれど、この戦車の突破力は北朝鮮軍最大の長所といえるでしょう。

 守る側としては、部隊数の少ない初期にユニット除去だけは避けたいところですから、どうしても後退しつつ上手く戦線を維持したいのですが、これが簡単なわけがありません。しかも北朝鮮軍に占領された都市からは、徴兵によって補充マーカーが誕生しますから、あまり下がりすぎても自分の首を絞めることになります。移動が極端に制限される山岳地などを利用しながら、それでも何とか守れる状態にしていこうとすれば、自然と戦線は釜山近郊にまで縮小することになります。このあたりに設定された最終防衛線の内側に、北朝鮮軍が突入した瞬間にゲームはサドンデスで北朝鮮軍の勝利。その外側の諸都市では、「軍隊に民主主義は存在しない」という言葉通りに死守を命じられた部隊が、凄惨な防衛線を繰り広げることでしょう。
 しかし、凄惨なのは実は北朝鮮軍も同様であり、攻防両者に損害が出やすいこの作品では、この最終ラインに到達する頃には、すっかり疲弊の色を濃くしているはずです。それでも補充を徴発しつつ、何とか最後の一押しを。これを可能にするのが、恐るべき「万歳(マンセー)突撃」です。これは、完全戦力の師団ユニットが2ステップロスの犠牲を払うことで、2倍の戦闘力を発揮するというもの。後先考えない突撃の暴力性をまざまざと見せつけられます。とりわけ米軍にとってはこの攻撃、日本本土で味わわずにすんだはずのものだっただけに、恐怖もひとしおだったのでは、と想像したくもなりますが、ともかくこの攻撃は決定的な戦闘で実行すれば、作戦全体の帰趨を変えるだけの威力をもっています。その時まで、完全戦力のユニットがあれば、の話ですが。あまり調子よく遭遇戦を繰り返していても消耗が激しく最後に躓きますし、かといって慎重すぎれば国連軍の予備部隊を作らせてしまいます。このへんは北朝鮮軍に周到な計画が求められるところでしょう。

 そう、本当に周到な計画が。

 マップには、最終ラインの外側に、さらに2本のラインが引かれています。それらは、それぞれあるターンまでに北朝鮮全軍が超えなければならない絶対突破ラインなのです。これを満たせない場合もサドンデス、ただし今度は北朝鮮軍の敗北。制海権も制空権も敵側にある中で、なんとしてでも突破をはかり、全軍をラインの内側に踊りこませなければならないのですが、ここでは間接アプローチがどこまで通用するかが一つの焦点になるでしょう。第2ラインの外側で強力な国連軍が頑張っていたとしても、別の場所で最終ラインに向けて突破がなってしまえば勝負はそれまで。どうしても撤退せざるをえないようにしむければ、そのさい必ず北朝鮮軍がつけ入る隙が生まれる、と。
 いや、生まれてくれなければ困るのです。この2本のラインが何を意味するのか、北側のプレイヤーが一体誰を演じているのかを考えてみて下さい。それは指導者本人ではありません。なぜなら、彼に敗北などありえなかったからです。北朝鮮軍の失態をもたらすのは、つねに無能な軍部の将軍達にほかなりません。指導者の真意を理解できない彼らこそが、ありえざる罪を犯すのです。つまり、サドンデスとは、まさに文字通り、責任を取るべき将軍であるプレイヤーの死を直接的に意味するのです。それが政治的なものであろうと、そうでなかろうと。
 この作品を楽しむには、ただ当時の戦況だけを理解しているだけでは足りません。ソウルの地獄絵図、マッカーサーの賭け、原爆使用の可能性、ミグ通り、仁川上陸作戦時の日本人船先案内人など、様々なエピソードを知っているならば、それはプレイ中にちょっとしたスパイスとなってくれることでしょう。しかし、戦争における究極のスパイスとは、己の死を賭けた戦いの中で感じる恐怖と、その裏返しの歓喜にほかならないのではないでしょうか。とりわけこの作品では、プレイヤーは、まさにその恐怖を背後に感じつつ作戦を遂行すべきなのです。なぜなら、それこそが本作品における真のシミュレーションを意味しているのですから。

 ですから、この作品を遊ぶには、どちらの側にもプレイヤーを二人用意することをおすすめします。守備側には、韓国軍プレイヤーと国連軍プレイヤーに一人ずつ。統一的な防衛計画をどこまで徹底できるかが問われるでしょう。そして、攻撃側には、部隊ユニットを実際に動かすプレイヤーと、おおまかな計画と結果の評価だけを行う指導者プレイヤーに一人ずつ。前者は敗北の責任を、後者は勝利の栄光をそれぞれ受け持つことになります。きわめて民主主義的な分担といえましょう。
 これはふざけた遊び方でしょうか。両国の感情を逆なでする行為でしょうか。いえ、そうではないはずです。いったんはタブーの闇に葬られかけたこの作品が、今日サンセットゲームズより不死鳥のごとく蘇ったのであれば、そのプレイの仕方もそれに応えるべく真剣なシミュレートとなるべきです。そして、その戦争のみならず背景全体にわたる理不尽さ、両国どころかその後見人である米ソにすら民主主義が存在しなかった冷戦初期の戦争を、真剣なシミュレートによってわが身に感じることができたなら、そのときこそ、マップ南端のわずか向こうにあるはずのわが国が、この戦争にいかにかかわったのかについて、あらためて考え直すこともできるでしょう。何よりもこの戦争で生じた特需景気を足がかりに、この作品が遊べるだけの繁栄が得られたという事実を振り返れば、むしろタブー視するということ自体が、ぼく達の後ろ暗い過去を忘れ去ろうとする欺瞞的行為にほかならないということに、誰もが必ず思い至るに違いありません。そんな隠蔽を図ることが正義だと思い込み、真実の追求に対してヒステリックな糾弾を行うという姿勢は、戦後の「民主主義」が培った悪癖です。軍隊どころかどこにも真の民主主義がないこの国で、ひとまずこんな良いゲームの中から、それを問い直そうではありませんか。まさに勇敢な会社からこの作品がより美麗なコンポーネントとともに再販され、多くのゲーマーによって受け入れられた今こそが、お互いの国民の感情悪化を冷静に見つめ直す最大の好機なのだと、ぼくは信じて止みません。


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