『たぬき』

猿元



「早く帰ってきなさいよ」
「わかってるって」

靴紐に掛けた左手を止めることなく、智代は答えた。いつもより少し遅めの、飛び石連休
の朝。目の前に転がっていた通学靴を片手でよけ、靴箱からお気に入りのシューズを
取り出す。

「Question Mark」の通称、「LOVE & PEACE」。

ピンクのデニム地に3色のストライプがアクセントとなっている、彼女一番のお気に入り
の一品。その割に、つま先が薄茶色に汚れているのは、まあ、ご愛嬌だろう。

「今日は修が帰ってくるんだから」
「はいはい、わかってます。オカアサマは毎日顔合わせている私なんかより、半年も電話
一本よこさないオニイサマの方がとっても大切なんですからね」

冗談めかしてそんな一言を返しながら、彼女がドアノブに手をかける。

「本当は、あんたが一番、喜んでいるくせに」

そんな母親の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか。右手に下げたバッグが扉にぶつか
る間もなく、智代はドアの外に踊り出た。

夏の暑さもようやくに過ぎ去り、今年の台風もいくつか過ぎ去った。

「秋晴れ」

というには程遠い天気だが、この様子ならば、傘を持っていくほどのことはないだろう。

〜 〜 〜 〜 〜 〜

「待ち合わせは何時だったかな・・・っと」

いくつも並ぶ着信履歴の中から、手馴れた調子で一つのメールを探し出す。

「じゃあ11時に『ABAB』。いつもの所で待ってます。トモミ」

田中知美−智代が彼女と知り合ったのは、いつの頃だっただろうか。少なくとも小学校に
入る前から、二人はいつも一緒だった。

・・・いや、この表現は正しくない。ためしに、何枚かの写真を広げてみよう。そこには二
人の女の子と一緒に、彼女たちよりも少し背の高い二人の男の子が映っているはずだ。
たとえば、これはたしか、今から5・6年も前に撮影したものか。初夏の太陽の下、
つば広の麦わら帽をかぶり、ピンクのギンガムドレスを纏った少女、知美。その傍ら
で、照れたような顔をして視線を彼女の靴に落としているのが、彼女の兄、純一だ。
知美の左側には、白い夏帽子で顔を半分隠した女の子。水色のスモッキングをもてあ
まし気味に、ポケットに両手を入れて立っているこの子が、智代である。彼女は、当
時からこういう「女の子らしい」格好が苦手だったのだろうか。そして、彼女から一
歩半ほど離れた所で、あさっての方角を向いているのは・・・。

〜 〜 〜 〜 〜

さすがに休みだけあって、エントランス前は待ち合わせの人で一杯だ。端の方で座り、
友達と話し込んでいる若者もいるかと思えば、待ち人来たりて、二人して店内に入っ
ていくOL風のカップルもいる。

11時15分

智代が5回目に携帯を取り出した時、画面にはそう表示されていた。

「遅すぎる」

 普段から時間にはタイトな知美のことだ。何かあったのか?そんなことを思った彼女は、
着信履歴を開き、発信ボタンを押そうとした。その時、コスメ試供品や、ティッシュ
配りの横を次々と通り過ぎていく人波の中から、誰かがこちらに駆けてきた。ふと目
をやると、ピンク地の「Emily Temple cute」のジャンバースカートを着た女の子だ。
今日はそれほど気温は上がっていないはずだが、額に汗がにじんでいる。

「ゴメン!遅くなって」

智代の前で手を合わせる。どうやら、電話は必要なくなったようだ。

「私からさそったんだから、別にかまわないけど。でも珍しいね。知美が遅刻なんて」
「本当は、ちゃんと間に合うはずだったんだけど」
「だけど?」
「向こうの大通りで、ショルダーバックを下げた男の人に声をかけられて」
「なんて?」
「・・・『写真撮らせてもらっていいですか?』って・・・」

いかにも困った顔で話す知美と、それを見てあきれた顔をしている智代。もっとも、彼女
たちにとって、こういう出来事はそれほど珍しいものでもないのだが。

「『トモミがかわいい』っていう男の子の気持ちもわからなくはないけど、でも、もう少
しガードを固くした方がいいと思うわよ。オネエサンさんとしては、ね。」

 知美のチャームポイントであるツインテールの先を指でつつきながら、智代は笑う。そ
んな彼女に、知美は

「・・・多分、私の方が半年先に生まれているんだけど・・・」

と、頬を膨らませた。ヘアバンドの『たぬき』たちはゆらゆらと揺れながら、そんな彼女
を横目で見ていた。

〜 〜 〜 〜 〜

 朝の曇り空が嘘のように、太陽は空高く輝いている。少し暑くなってきたのだろうか、
道行く人の中には、ジャケットを小脇に抱えて歩いている人もちらほらと見受けられ
る。彼女たちの住む街の駅前。心なしか、朝よりも車の量が増えてきたようだ。

「それにしても、珍しいよね。」
「ん?何が?」
「それ」

知美は智代の左手にある、大きな紙袋を指差して言った。別に「にやにや」とした顔では
なく、いかにも「不思議なこと」といった雰囲気だ。

「ああ、これ?ちょっとした心境の変化」

ホームタウンまで、列車で数十分。社内が混雑していたこともあり、智代はこの大荷物を
持ったまま立ち通しだった。いくら彼女が陸上部所属であるとはいえ、それは少々大
変なことだったが、しかしそれは、さほど苦痛なものでもなかった。この袋の中身は
何か。それは、2時間前、とあるブランドショップにまで遡る。


「智代ちゃんは今のままで、かなり格好いいって思うけど・・・」

「NICOLE CLUB KIDS」で揃えたパーカーとロールアップジーンズ、これは彼女の普段着と
いってもよいものだが、たしかにこの年ぐらいの女の子から見れば、格好よく見える
のかもしれない。しかも彼女の背丈は知美よりも10cmは高く、背中合わせに並べば智
代自慢のポニーテールは、知美の肩にかかるはずだ。そんな彼女が数日前、知美に
「ちょっとファンシーに目覚めてしまった」と、宣言。そういうファッションに造詣
が深い知美を引っ張り出して、智代は都心まで買い物にやってきたわけだ。

「智代ちゃんが『興味ある』っていうなら、私、思いッきりキュートでかわいい服選ん
じゃうね。」

さて、それからが大変だった。彼女お勧めの服たちは、どれもこれも、智代の想定の範囲
を逸脱するものばかりだったから。

「ちょっと、本当にこれ、私が着るの?」
「うー、もしかして、もう少し派手な方が好み?ラメ系とか」
「・・・もしかして、ワザとやってる?」

とまあ、こんな会話が2時間近く繰り広げられた挙句、薄青色のカットソーと、白いフリ
ルがワンポイントのフレアデニムスカートといった無難な線で、智代は知美を妥協さ
せることに成功したわけだが、

「もう、ワンポイント・・・そうだ」

知美は髪に手をやると、茶色のヘアゴムをポケットに入れた。そして智代を試着室の鏡の
前に立たせると、

「ちょっとごめんね」

といって、器用に彼女の首筋までかかるポニーテールをほどいた。それから数分後、鏡に
映っていたのはショートカットの女の子と、それよりも少し背が高いツイーンテール
の娘だった。

「ほら。もっとかわいくなった」
「悪いけど、なんか似合わない気がする・・・」

智代はヘアゴムを外すと、知美の前に差し出した。しかし

「いいよ。絶対に似合うから。なんかあったら使ってよ」

笑顔でそう言われてしまうと、

「じゃあ、せっかくだから。ありがとね」

と答えるしかない。知美の『たぬき』はポケットに入ってもらうことにして、彼女はまた
元のように髪をアップで束ねた。


「それにしても、ちょっと残念かも」

知美は、視線をそれまで見ていた紙袋から智代の顔に移しながら言った。

「成功したら、ちゃんと紹介してよね」
「はいっ?」

鳩が豆鉄砲を食らったような按配。声も裏返っている。

「だから、男の子なんでしょ。コ・ク・ハ・ク」
「ちょ、ちょっと、全然まったく、そんなんじゃないって!」
「うんうん。たしかに、長距離の高橋先輩、カッコいいもんね。悲しいけど、彼は親
友である智代に譲るよ」

手の平で涙を拭うふりをしながら、冗談めかした顔でいう知美と、

「だから、全然、そんなんじゃないって。というか、もしかして知美、高橋さんが好
きだったの?よかったら紹介しようか?」

マシンガンのように、考える前に言葉が出てくる智代。短距離を5本ほどこなした後と同
じぐらい、顔が赤くなっている。それにつられてか、話を振った知美まで、なんだか
恥ずかしいような気分になってきた。

「♪♪ ♪♪♪」

 その時、知美の方から、聞き覚えのある音楽が流れてきた。「あゆ」の新曲『GAME』だ
ろうか。彼女は右ポケットに手を入れると、手馴れた調子で携帯のフリップを開いた。

「もしもし・・・」

〜 〜 〜 〜 〜

「だから、『やめとけ』って言っただろ」

この辺では知らない人もいない、有名進学校の校章入りベストを着用した温厚そうな顔つ
きの若者が、向かいに座っている長身の若者に言う。彼も型崩れした「学校指定」と
おぼしきジャケットを着ており、足元の巨大なスポーツバッグ、そして何よりもその
日焼けした顔が、彼を目の前の男と違う「体育会系」な奴だと証言している。

「くそっ、これで0勝8負か」
「いや、違う。0勝10負。やっと2桁の大台に乗ったな。」
「そんなこと、わざわざ解説せんでもいい!」


と声を荒げながらも、その目は笑っている。

「というか、『勝てない戦いはしない』っていうのが、お前のポリシーじゃなかったの
か?修」

空になった巨大なパフェグラスの中にトールスプーンを投げ込みながら、その眼鏡の男は
からかうように言った。その向かいには、寸分違わぬ大きさのグラスが、ただしまだ
中身を半分ぐらい残したまま存在している。

「"Cafe Eastern" 名物『ビッグパフェ』2,500円(税込)」

何のひねりもないネーミングだが、この巨大パフェに熱い青春の涙を流した若者は数知れ
ない。この種の商品の「お約束」だが、「30分以内に完食された方は代金不要&記念
写真展示」という特典がつく。周囲の学校の通学経路の要所に位置しているという地
理的要因もあってか、とりわけ新入生歓迎シーズンにはチャレンジャーも多い。オー
ナーが太っ腹なこともあってリピーターも多く、店内には古いものから新しいものま
で何枚もの写真が貼り付けられている。

「俺はな、昔からいつの日か、この店に、俺のサインが入った写真を飾ることが夢だった
んだよ。お前も男なら、この俺様のロマンがわかってくれるはずだろう。純一」
「そんなに大げさなものか?つーか、さ、今のお前なら『パフェ大食い』なんてイロ
モノ狙わなくても、高校総体優勝でも実業団入りでも十分にいけるだろ。そうすりゃ
あサインなんて書き放題だろうが」

いささかあきれた顔で純一は言った。彼の友人−智代の兄、修−は中学を卒業後、『ス
ポーツ推薦枠』で静岡の某有名私立高校に入学。その気になれば日帰りも可能な距離
だというのに、今日のこの日まで、一度もこの街に戻って来なかった。もちろん、学
校には夏休みもあれば冬休みもあるのだが、この時期は合宿トレーニングなどもあ
り・・・というのは親向けの説明。実は単純に寮生活が楽しかったことと、帰省が面倒。
それだけが本当の理由だった。

「まあ、そのうち、そんな展開もアリかもな。で、おまえの方はどうなのよ。」
「俺か?まあボチボチといったとこだな。奨学金取らなきゃならんから、適当に成績
だけは稼いでるけどな。」
「たしかに、お前のとこ、妹さんもいることだし、おばさんも早く楽にしてやらない
といけないしな。」

修の声のトーンが落ちる。それはまだ小学生の頃だったか、彼は葬儀に列席した記憶があ
る。その時にはよくわからなかったことだが、有能な企業戦士だった純一の父親は、
勤め先企業の倒産に伴う残務整理に明け暮れた挙句、今でいうところの「過労自殺
」を図ったらしい。せめてもの幸いは、純一の母親が看護士として一家の家計を支え
ていけるだけの収入があることだ。

「そんなに不景気な顔するなよ。久しぶりに会ったというのにさ」

窓の横を通りすぎていく、自転車に乗った中学生に目をやりながら純一は言った。制服か
ら判断するに、彼はきっと純一や修の後輩にあたるのだろう。

「ああ、そうだな」

純一と同様に外を見ていた修は、視線を目の前に戻す。「ビッグパフェ」の中身はもう溶
けかけて、コーンフレークと渾然一体化しようとしている。

「それよりも今回は悪かったな、忙しいところわざわざ呼びつけて」
「いや、俺の方も夏休みに帰らなかったせいか、おふくろから『帰ってこい』とうる
さく言われていたとこだし。ちょうどいい機会かもな。」
「恩に着る。コーヒー代ぐらいは俺が払うよ」
「セコい奴だな。パフェの代金もチャラにしろよ」
「それはそれ、これはこれ。っていうか、『負けた奴が金を出す』って言い出したの
はお前だろうが」
「情け容赦ない奴だな」
「勝負の世界は厳しいんだ・・・といいたいとこだが、ま、もう少し待ってろ。祝いな
ら、もう少しマシなものを用意した。」

「にかっ」と笑いながら純一は、通りがかった給仕服の女性に向かって手を挙げた。

「すいません。『アメリカン』と『ブレンド』をもう一つずつ」

〜 〜 〜 〜 〜

 電動ドアの稼動音とともに、向かいの道路を通過中の、大型バイクの爆音が店内に流れ
込んできた。観葉植物で仕切られた奥の4人掛け席。純一は目の前の男から、その音
の方に目をやると、軽く右手を挙げた。ドアが閉まり、店内が先ほどと同程度の静け
さを取り戻してから数十秒間、入り口に立つ背の低い女の子は誰かを探していたよう
だが、やがて目的の人を見つけ出したようだ。その後を背の高い女の子がついていく。

「いきなり呼び出して、なんか用事?おにいちゃん」

知美が見下ろすテーブルの前には、兄の純一とともに、どこかで見たような人が座ってい
た。パフェの残骸は、もうすでに撤去されており、冷水を入れたコップの下の雫だけ
が、彼らがここにいた時間の長さを物語っている。

「えっと・・・」

誰だったか思い出そうと、その男の顔をまじまじと見ている彼女の肩越しに、智代が顔を
出す。

「あっ」

彼女は思わず、知美の後ろに体を隠そうとしたが、

「やあ、智代ちゃん。お久しぶり」

という純一の声に、逃げるタイミングを失ってしまい、不承不承といった感じで姿を現す。

「っていうか、なんであんたがこんなとこにいるわけ?」

少しあきれたような、怒気を含んでいるような声で、智代は知美が凝視していた男に言っ
た。

「う、うちに帰るのは夕方だって言っといただろ。それまで俺が誰とどこにいようが、お
前には関係ない」

あせった口調で答える修。そんな彼らを見て純一は「してやったり」といった顔で言った。

「兄と妹、2年ぶりの感動の対面だ。まあ二人とも、そんな顔しないで、ここに座れ。あ、
知美はお兄ちゃんの隣だぞ」
「うん」

そう答えて椅子に腰掛ける知美。先ほどまでとはうってかわり、目の前にいる修から視線
を外したままだ。窓から差し込む夕日のせいなのか、少し頬が紅いようにも思える。


「しっかし、お前もおせっかいな奴だな」

テーブルの上には半分ぐらいに中身が減ったコーヒーカップが二つ。智代の前にはグリー
ンのソーダ水が手付かずのまま置いており、知美はといえば、さっきから下を向いた
ままでチョコレートパフェのグラスにトールスプーンを運んでいる。

「なんでだ?」
「お前は俺がこんな奴に会うのを楽しみに、わざわざ戻ってきたとでも、本気で思っ
ていたのか?つーか、智代もさ、いい年なんだから、少しは女の子らしい格好をした
らどうだ。いつまでもそんな格好してないで」

不自然なほど早口で語る修と、そういうことにも気が回らず、思わず自分の姿に目をやる
智代。たしかに、今の姿を見られては、そう言われても反論はできない。

「本当ならば、足元に置いてある服を身に纏って、帰ってきた兄貴を驚かせるつもりだっ
たのに」

と思えど、今やそれも詮無きことだ。

「まあ、俺としてはだな。『トモちゃん』みたいにかわいい女の子だったら、いつでもウ
エルカムだが」

一瞬、パフェグラスに伸ばしかけていた知美の手が止まる。が、現在、極力、その方面の
食べ物から目を逸らそうとしていた修がそれに気づくことはない。

「それはこっちの台詞。私だってこんなとこでバカ兄貴なんかと顔つき合わせているより、
知美ちゃんと遊んでいた方がなんぼかマシってものよ。」

腹立ち紛れに、智代は応酬する。そんな彼らの姿を目に、
「やれやれ、いつまでたっても成長しない奴らだ」

などと思いつつ、純一は言った。

「とりあえず、お前にだけは、妹はやらんぞ」

〜 〜 〜 〜 〜

その夜−

一人息子を迎えた家庭は、はじめこそ他人行儀なところもあったが、やがて、かつてそう
であったような日常を取り戻した。たしかに母は舞い上がっているところもあったが、
父と息子は二人してあまり興味なさそうな顔をしており、そして娘はといえば、これ
またいつものようにテレビの画面を見ながら茶碗に箸を伸ばしている。

「じゃあ、日曜の夕方の高速バスで帰るのか」
「ああ。こっちは昼過ぎに出る」
「日曜は智代の学校の体育祭だから、家には誰もいないけど。修は来るの?」
「別に、お兄ちゃんは来なくてもいいよ」
「またそんなこと言って。本当は来てほしいくせに」
「まあ、気が向いたら顔ぐらいは出すかもな。一応、先生たちにも挨拶しとかないと
悪いだろうし」

−といった会話がなされたわけで、
そして、2日後の今日は、体育祭の日である。


「結局、無駄になっちゃったね・・・」

智代が部屋のカーテンを開くと、金曜日の夜からずっと袋からさえ出さず、部屋の片隅に
放置していた紙袋に、朝の光が照射される。店頭の蛍光灯の下で見た時よりも数段、
良い色合いをしているようだが、なぜか彼女にはくすんで見えてしまう。それはなぜ
か?


その前夜−

「そう、よかったじゃない」

たしかに彼女はそう言った。この時間に知美から電話がかかってくるのはいつものことだ。
特にここ最近は、知美が体育祭の実行委員になったこともあって、いろいろと助言を
求めてくることも多い。彼女が担当することになった「父兄参加」の企画に「障害物
借り物競走」というアイデアを出したのも、実は智代だったりする。

「『言い出した人の父兄が参加しない』っていうのも、なんか悪い気もするしね」
「別にそんなことはないと思うけど。でも、この前聞いた時は『おばさんも修一さん
も忙しい』って話してたよね。都合ついたの?」
「うん・・・それでおにいちゃんが、なんか気にしてくれたみたいで・・・」

なぜか、申し訳なさげな声で知美は言った。

「おにいちゃんの代わりに、修さんを行かせるから、心配するなって・・・」


別に誰も悪くない。むしろ知美のことを思えば喜ぶべき話だろう。にもかかわらず、この
前、兄を目にしたときの彼女の姿が思い出すと、なぜだか心の中に何か黒いものが浮
かび上がりそうになる。そんな気持ちを振り切るように、彼女は紺のブレザーに着替
えると、向かいの部屋のドアを乱暴にノックした。

「いつまで寝てるつもり?今日の体育祭、あんたも出るんでしょ」

〜 〜 〜 〜 〜

 ロープの向こうの「父兄席」。そこで修は居心地悪げに、父親の横に座っていた。周り
にいる、まだ気分が若い夫婦たちは、ハンディーカムで自分たちの息子や娘たちの雄
姿を記録に収めようとしている。何度もの硝煙の匂いと歓声。そして、午前の部、最
後の競技が始まる。

「続きましては、父兄の皆さんご参加による『障害物借り物競争』です。参加される方は、
グラウンドの中央までご集合ください」

放送部3年生にとっては最後の晴れ舞台。そのせいか、一段と気合がこもった声でアナウ
ンスが流れてくる。それまで、だるそうな顔をして座っていた修と、その横で、すで
に競技すら見ずに朝刊を読んでいた父が、重い腰を上げた。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

智代はクラスの列の中で、出番を待つ参加者たちの群れを見ていた。自分の父親を含めて
だが、いずれも40代の男性ばかり。そういう人の中では、彼女の兄はどうしても人
目を引いてしまうようで。

「・・・ほら、あそこだって」
「どこよ」
「だから、あの『バーコード』の隣だって」
「ああっ、いたいた。誰?あの人?」
「なんか『イケてる』よね」

そんな周りの女子たちの嬌声を聞くともなく耳にしながら、智代はぼんやりとトラックを
眺めていた。おおよそ80人ぐらい固まっていた参加者が、あと20人ぐらいまでに
減った頃。

「あ、走った」

一人の女子が言うと同時に、どんどん先頭を走る青年は、後ろの集団を引き離していく。
といっても、それは第一コーナーを過ぎるまでだ。そこからの障害物、特に網くぐり
を抜けることには、5人の参加者の距離は僅差まで縮まっていた。彼らは目の前に落
ちている封筒を手荒に開くと、一瞬、立ち止まり、回りをきょろきょろと見回してい
る。やがて5人のうち4人は、それぞれ、先ほどまで座っていた方角めざして走り出
したのだが、一人だけは違ったようだ。彼は3年生の学生席に向かう。

「おい、『トモ・・・』」

その大声に反応したかのように、列の前方に座っていたショートカットの女の子が、右手
を伸ばし、中腰になって立ち上がろうとした。しかし彼は彼女の左横を通り過ぎると、
一人のツインテールの生徒の左手首を掴む。

「ちょっとついて来い!智代。」

グラウンドを満たす歓声。残りの4人も戦列に復帰したようで、最後の100mは彼らにとっ
ても厳しい戦いであった。そして、ゴールのテープは切られた・・・。


「というかさ、勝利を自分の子供に譲ろうって気はないんかい、あんたは」

ふてくされた顔をして、修は父親に言った。

「負けるお前が悪い」
「だって、あんたが持ってきたのは『水筒』だろ。そんなの、どこにでもあるじゃな
いか。」

父はそれ以上、何も言わずに黙々と弁当に箸を伸ばしている。

「ところでさ、兄貴の紙にはなんて書いてたの?」

残念ながら一位は逃したものの、二人で二位を取れたことに浮かれていた智代。しかし修
は別に楽しくもなさそうに、あさっての方角を向いて、おにぎりにかぶりついている。

「本当に腹が立つ。なんでこう、可愛げがないかねえ」

などと憎まれ口を叩く彼女と、その向かいで小さな弁当箱をかかえている知美の目が合っ
た。思わず、目を伏せようとする彼女に向かって

「あ、そうだ、トモミちゃん、たしか封筒の中身が何か、知ってたよね」

話を振られて、あわてて顔を上げる、弾みで箸を落としそうになったが、何とかリカバー
したようだ。

「えっ、えーと、言っていいのかな・・・」

戸惑っている彼女の声を遮るように

「『たぬき』だ」
「え?」
「だから『たぬき』だって」

智代の方に顔を向け、彼女の髪にぶら下がって揺れている『たぬき』を乱暴に手の平で叩
くと、彼はおにぎりにかぶりついた。なぜか、さっきよりも目線が下を向いているよ
うな気がしなくもない。

〜 〜 〜 〜 〜

 それから数日が過ぎた。学校に戻り、今日の練習を終えた修は、先輩たちと別れると、
一人で街に向かった。別に何といった目的があったわけでもない。あえて言うならCD
ショップで『氣志團』の新譜をチェックしたかったぐらいか。そんな彼の元に、一通
の携帯メールが届く。

「知美です。この前はおにいちゃんが無理を言って、すいませんでした。えっと、この写
真、本人は嫌がっているみたいですけど、せっかくだから、送っちゃいますね。あと、
「借り物」の中身は、まだ教えてません。それではまた。」

どこでどうやって撮ったものだろうか。その写メールにはスカイブルーのカットソーとフ
レアデニムスカートを着た女の子が、少し横向き顔でバッグを振り回しているシーン
が映っている。よほど恥ずかしかったのか、右手で顔を覆っているつもりかもしれな
いが、残念なことに、それはあまり効果がなかったみたいだ。

「あいつ・・・」

彼の顔がゆるむ。

「たまには電話でもかけてやるか」

そうつぶやくと、彼は携帯の数字ボタンに手を伸ばすのだった。


(『たぬき』 おわり)


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