「Talk to Talk」

(Clear / 2002.2)


Clear 」の第3作。学園ものラブコメか?欝度・エロは低め。詳細は 公式サイトを参考。

 さて、この作品のテーマは「人間が人間であるとはどういうことか?」という、本質的には極めて哲学的なものである。主人公はある組織(「システム」)が作ったロボットであり、彼自身もそれを知っている。で、そのロボットが「より人間に近いロボットを作るためのデータを取るために」学園で生活を送る。もし彼が試作品としてまだ改良の余地がある(つまり、人間と同等に達していない)と判断されたなら、組織は彼を回収して、次のロボットを作る。現に「プロトタイプ」と呼ばれる試作品が、彼の前に人間世界に送り込まれており、話の進展の中で、その記憶を主人公が取り戻すことで、話が一気に急展開することになる。

 このような設定は、人間同士のコミュニケーションについて描く手段としても、それほど間違ってはいないように思える。もっとも、それが「クローン人間」である必要があるかどうかは別だし、主人公に「自分が被検体である」という自己規定を与えている時点で、話の深さが一ランクほど浅くなっているように私には見える。

 製作総指揮である秋津氏の インタビューによると、主人公は次のような存在とされている。


秋津
「(前略)彼は別に感情がないわけではなく、あくまでも感情
というものの認識が苦手ということであって、ないわけではないんです」

秋津
「簡単に言うと思考や判断を行う時の根拠となるものの正体、あるいは
それを根拠にする理由が不明確だとと言えばいいのかも」

秋津
「ええと、言い換えると人が行動を起こす時にはその正邪はともかく、
自分にとってよかれと思う方を選択しますよね」

秋津
「彼もそのように判断を下して行動するのですが、なぜそれがいいと
思える判断だったのかその根拠となる感情がどのようなものかわからない……
そんな感じでしょうか」

インタビュアー
「ということは、感情が『ない』ってわけじゃないんですね」

秋津
「そうです。だから、冷酷なわけでもなくむしろ性格的には、素直という
か無邪気というかそんな感じでしょうか」

インタビュアー
「なるほど……で、彼がクラスメートと過ごすことでその感情の存在に
徐々に気づいていく……そんな感じでしょうかね」

 つまり、十分な情報収集能力と合理性に基づく判断だけなら、ロボットでも可能だが、人間はそこに「感情」というファクターが入る。つまり、人間は自分でも「なぜかよく分からない」(分析的な判断からは、理由が推定できない)、なぜか非理性的な判断を行う余地がある。そこで、学習機能を持ったロボットが、人間と生活することで、そのような感情を身につけられるかどうかを、「システム」は実験している訳だ。わざと難しく言うと、これは「人間と同様の(公共言語の領域に属している)言語表現の使用能力と、理性による事柄の間接的な認識(推論)能力のみを持つ存在者が、学習によって人間同様、「感情」を持つ存在者として他人とコミュニケート可能な能力を身に着けうるかどうか、検証するために行われているもの」と定式化できる。実際問題として考えても、これが可能なのかどうかは、面白いテーマだと思う。

 ここで問題とされているのは、「感情を媒介としたコミュニケーション」とは何か、ということだろう。まずは「コミュニケーション」の方から考えていくことにする。榎本博明が「<本当の自分>のつくり方」(講談社現代新書 2002)で、「自己物語」という概念を使って「私」の成立メカニズムを考察しており、その議論はここでも役に立つように思える。「自己物語」とは、「本当の私」の正体ともいえるもので、社会的文脈によって規定された「生きるためのシナリオ」である。自己物語は私が私を理解するためのフレームだが、他人理解においても「私が理解し、構築した他人の物語」が他人理解のための枠組みとして機能しているのでは、という仮説を立ててみよう。
 通常、私と誰かが話しをしている場合、私は他人を、自分の内部にある「他人の物語」を通じて理解している。また他人も同様にして「私」を理解する。そうでないという証明が不可能である以上、他人の「私」認識に関しては、このように解釈するしかない。
 「私」の側から見た場合、コミュニケーションの本質は、「私の構築した物語」を通じて解釈された他者像に対して、「私」を差し向ける行為だといえる。相手の「感情」は、それが表出された時点で、それを受け取る「私」側に解釈の枠組みの違いを認知するための情報を提供する。その情報によって、枠組みの違いの「すり合わせ」が行われることで「相互理解」が可能となる。
 「感情の理解が苦手」ということは、与えられた情報から、相手の持つ世界理解の枠組みを導出することが困難であることを意味する。だが仮に、私が他人(あるいは私自身の感情)を理解することが困難であった場合でも、他人によって私の感情が「理解」されることはありうる(仮に私自身に感情が「なかった」としてもだ)。なぜなら、他人側には私によって表出された表現と、私の置かれた社会的文脈によって、私の「物語」を構築することが可能だからだ。Talk to Talkの世界においては、主人公が「高校の転校生」として、理解可能な形で振舞っている限りでは、「ちょっとヘンな奴」という印象を与えるぐらいで、他の人ともそれほど障害なく付き合って行けると。
 だが、他人の感情を理解できない自動機械があったとして、それははたして「本当の私」という自己イメージを持つことができるのだろうか。主人公が人のような感情を持つ / 他人の感情を「理解できる」ようになろうが、あるいはそう「振舞える」ようになろうが、私にとっては(多分、ヒロインたちにとっても)「どちらも大差ない」ことだと思える。むしろこのような実験を通じて、オートマトンに自我の同一性を持たせることが可能かどうか、という点の方がはるかに興味がある。前の方で「主人公が、自分を被検体であるとする自己規定を持っているってどうよ」と書いたのは、はじめからこの問いが排除されているからだ。
 理性的な存在者ならば、推論によって<私>の「存在」だけは確実に認識できるはずだが、それがいかなるものなのか、というイメージを作る作業には(その実存性は別にして)自らの外部にある「何か」の介在が必要だと思われる。「本当の私」とでもいうべきものの実体が、「他者の了解に基づく」自己物語であるとするなら、その「了解」に対して「感情」というファクターが寄与しているかを見極める必要がある。では、このゲームの中で、それがどのように行われているかというと・・・どうも切り口が甘い。というか、この主人公、ただの「ニブイ朴念仁」以上でも以下でもないのだ。

 私がこのゲームに期待していたものは、「論理判断能力しか持たないロボットが、どのようにして感情を獲得するのか」というストーリーである。後で話しが追えるようにと、わざわざエディターを立ち上げて、重要そうなセリフは全てメモしておいたのだが、結局、主人公が人間の感情を理解していく経緯は理解できずに終了した。要は主人公はなぜかモテモテの鈍感野郎で、ストーリーの成り行きの中で女の子キャラの勝手な感情変化を見ているうちに、自らの内に人間的な情動が目覚めた、みたいな感じで処理されているのだ。こういうのを「肩すかし」という。
 別に狙ったわけではないが、結果的には法月みさきシナリオに移行した。下 級生キャラと、その姉、そして主人公の三角関係(結果的に)がストーリーの軸となっている。このシナリオでは11月6日の1箇所の選択でバッドエンドとトゥルーエンドに分岐するようになっている。しかし不自然なのは、この選択がみさきとの関係をクリティカルに変化させるものでもないのに、「必要なイベントを発生させない」という形でバッドエンドを誘導する形になっている。しかもこの選択自体、主人公の現実認識や感情の表現を的確に表現するもののように私には見えない。この辺はシナリオ書きが手を抜いたのか?という感を受ける。
 ストーリーは次のようなものだ。主人公の前世とでもいうべきプロトタイプ「祥平」と、みさき姉である茅野さんがラブラブだった。一方、みさきも祥平に恋心を抱いていたのだが、姉に遠慮していた。そのうちに祥平が回収されることになって、みさきは内心、「目の前でいちゃつかれずにラッキー」と思ったと。しかし今度自分の前に現れた男(裕樹)はどうやら姉に気があるらしい。とりあえずせくーすしてみたけど、この男、なんか「茅野さん」とか言ってるし。
 ここからがエンディングの分岐にかかってくるが、トゥルーエンドではみさきが「前に姉を妬んだバチがあたった」と理解して、前世祥平な裕樹を姉に譲ろうと身を引く。が、姉の方はというと、しっかりとけこーん相手を見つけて、無事妹の方もカップリングが成立。この辺のストーリーはありがちながら、それなりに成立している。一方、バッドエンドではみさきが「もう続けられない」として一方的に縁を切るが、前世云々の話しは直接は関係ない。
 多分、このシナリオで描こうとしたものは「人間同士の理解のすれ違い」というものだろうが、これって現実的にはかなり偶発的な要素が結果に大きい影響を与えるので、ロジカルに結果を納得させなければいけないゲームにあっては、きちんと考えてシナリオを作らないと失敗に終わりやすいテーマと言えるのかもしれない。この話でいうのなら、バッドエンドの喫茶店のシーンに続いて、トゥルーエンドの11月25日以降(夜の講演で茅野さんに合うシーン)が起こっても、シナリオ上は全く支障はないように思われる。これは、プレイヤーの合目的的な選択とは無関係に、偶発的な事象の発生の有無によってエンディングが変化し得ることを意味する。たしかにこれは現実社会を反映しているとはいえようが、ゲームシナリオとしては、あまりいい趣味とはいえないだろう。

 このゲームは「対人関係シュミレーション」の要素もあるらしく、攻略キャラクターごとに何かしら人間関係成立に関するテーマが設けられているようだ。このシナリオのテキストによれば、主人公はみさき同様、「自分がヒトでない事に罪悪感を抱き」、付き合っている間何の感慨も抱けない自分を嫌悪して、「ヒトであったら、「祥平」の記憶を持っていなかったら」と、何度も願った。それにも関わらず、「ヒトと俺が理解し合う事などないと決めてかかって、みさきちゃんとの間に壁を作った。」として、みさきのことを理解しようとする努力を放棄したことが、関係破綻の原因として指摘されている。内的な自己洞察能力が他者の感情推定に必要ということが主張したいのだろうが、このような反省能力そのものも一種のストーリーパターン認識として、学習によって身につけるものなのではないのだろうか?

 10月23日の、主人公の夢の中のシーン。主人公の前世とでも呼ぶべき「プロトタイプ」”祥平”と、その恋人”茅乃”の別れのシーンの記憶が再現されている。 PRE ”祥平”という、ヒトの皮をかぶったまがい物が消える。 テストに失敗しヒトの感情をまともに学べなかったまがい物は、生きている価値がないのだ。 そのこと自体には、何の感慨も覚えない。 役に立たない部品が、丸ごと回収されるだけだ。 不良品が返品されて処分される、ただそれだけのことだ。 けれど俺がいなくなる事だけは、茅乃に伝えておかなければいけないと思った。 ・・・・・・こんなヒトのできそこないに、多少なりとも愛着を覚えてくれた茅乃に対しては。 (中略) ただ分かるのは、俺がいなくなった後に茅乃が一人ぼっちになってしまう事だけだ。 俺は、もう消えてしまうのだから別にいい。 ・・・・・・つらいのはきっと、残される茅乃の方だ。 (中略) 顔は笑っている。 だが、茅乃の瞳の縁になにかが揺らめいているのに俺は気づいた。 こういう時、俺はどうすればいいのか分からない。 せめて俺ができそこないではなくて、本当の人間だったら・・・・・・ 茅乃にこんな表情をさせずに済んだかも知れないのに。 /PRE  かなり不自然な話だ。これを読んだ限り、プロトタイプには相手の感情を、直面している事態に関する情報から推論できるだけでなく、相手の感情に直面することで、特定の情動が発生している節が見られる。もしこれが事実ならば、テストは無事、合格ということになるはずだ。

 情動を持たないロボットであっても、他人が(公共言語によって)「つらい」と表現される状態になることを、知識と論理を通じて「判断」することは可能であると思われる。もちろん、そのプログラムは感情を持つ人によって作成される必要があるが。言うまでもないが、「私」が経験できるのは「私の痛み」だけであって、「他人」の痛みなんて、推測によって想像することしかできない。「痛い」という公共言語で「私の痛み」を表現することができるということは、その言葉がどういう文脈で、どういう言葉との差異に基づいて利用されるものか、という点を理解していることを意味する。例えばあるシチュエーションにおかれた人が感ずる感覚を「痛み」と表現するとして、そのシチュエーションの完璧なリストの作成が可能ならば、一見、人間と同じように「痛み」という対応を示すロボットを作ることが可能だろうということ。それを見た人間が、ロボットは「かゆみ」ではなく「痛み」を感じているのだろうか、という疑問を持つことは可能だが、現実的にはそのような疑問はナンセンスだし、ロボット的には「痛み」を感じているとしか表現し得ない。
 同様に情動もプログラム化が可能なのだろうか。例えば「恋人として付き合ってきたギャルと別れる時には、”悲しい”という感情が発生する」というプログラムをされたロボットがあり、かつそれがそういうシチュエーションに置かれたなら、そのロボット的には”悲しい”と思わざるを得ないだろう。これを敷衍していけば、私を含めた全ての人が持つ感情も「ニャントロ星人」のプログラムに従って生起したということすら言いえる。
 もしかすると、情動の鍵となるのは、「もし俺が(対象)だったなら、こうしたい」という形に定式化される、主客置換を基幹とする反省的な自己意識にあるのかもしれない。であるとするならば、「私」の存在が希薄な人は、情動も希薄にならざるを得ないだろう。なぜなら、存在しない私が投影された対象は、何の欲望も持つはずがないのだから。また、引用文中の祥平には、「もし俺が茅乃なら、別れたくない」という明確な欲望が見て取れることから、情動は存在すると考えることができよう。


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