企業の究極の目的は、他社との商品販売競争に打ち勝って利益を上げることにある。そのためには製品(「サービス」も含む)の業界内差別化が必要となる。ある新規な製品が市場に投入された場合、初めは性能・機能・品質・デザインといった物理的差異により差別化を行うことが可能である。しかし、技術的発達が平均化した後には、イメージ的、あるいはサービス的な要素で他社製品との差別化を図るほかなくなってくる。米国マーケッティング協会の定義では、ブランドとは「個別の売り手または売り手集団の製品やサービスを識別させ、競合する売り手の製品やサービスと区別するための名称、言葉、記号、シンボル、デザイン、あるいはこれらの組み合わせ」とされている。これはブランドの持つ「消費者に対して製造者を証明し、品質を保証する」機能に着目したものだ。
ただしこれは単にブランドというものが、「買い手に対して特徴上の差異を明らかにする」とだけ理解すべきではない。売り手側の買い手に対する、「ベネフィット・サービスの継続的提供の約束」を含む概念であるからこそ、D.A.アーカーが言うように「ブランドは企業の無形財産」たりえる。リスクホルダーに対する経営方針の説明と同意もまた、企業理念としての「ブランド」を中心に行われるべきだ。コーポレーション・ガバナンスにとっても「ブランド」とは必須の概念なのだ。
なお、ここでいうブランド品とは「グッチ」や「ローレックス」の商品など、持ち主のステータス願望を充足させることに大きな意味がある商品のみを対象にするものではない。例えば、スーパーの牛乳売り場で「森永ホモ牛乳」と、聞いたこともないような、どこかの業者の製品を並べて売っているシーンを想像していただきたい(基本的に品質にはそれほどの差はないとしておく)。前者がリッターあたり180円、後者が165円でも、前者を選ぶ人がいる理由はどこにあるのだろうか。経済合理性からいうと、全ての人が後者を選ばなければいけないはずなのに。
ブランドの機能の一つとして、「価値を証明する」というものがある。もし消費者がブランドに対して信頼を置いているとするならば、上に上げたようなケースにおいても「森永ホモ牛乳」を選ぶ理由は説明できる。「あの会社の製品だったら信用できる。価格差も品質差によるものだろう。」という納得が、商品選別の根拠になっているのだ。これは仮に、もう一つのメーカーの牛乳がOEMとして森永から売り出されている場合でも成り立つ(こういう事実はないが)。すなわち、「ブランド名がつくことで、ブランド元の企業の信用力が付与される」のだ。
また、ブランドには消費者に対して、特定の商品イメージを与えることを通じて、商品に付加価値を与える」機能がある。分かりやすい例を出そう。「スカっと爽やか」なイメージで売り出している「コカ・コーラ」という商品があるが、これを目隠しあり・なしで被験者に飲ませて、感想を聞くと、ラベルを見せた方が「爽やかだ」という解答が多かったという。これは企業のイメージ戦略の重要性を示す一つの例である。
上の二つは消費者側から見た「ブランド」像だが、これを企業側から見るとどうか。「強いブランド」を持つことのメリットは次の4つに集約できる。
このような利点により「長期・継続的な一貫性のある強いブランドを育てることが、企業戦略として重要である」といわれている。こういう「ブランド構築」という考え方は、1990年代に入って日本企業にも浸透しはじめたという。ただし、これはよく思われているように「消費者にブランドがどう見えているか(どう見せるか)」という点が本質的には重要なのではない。むしろ企業側のアイデンティティー確立の問題としてとらえるべきであり、それを構築されたブラントを通じて消費者に問うということを意味する。それが上に書いた「ブランドに顧客へのプロミスを込める」という言葉の意味なのだ。
日本では顧客の購買行動において、企業ブランドが重視されている。すなわち製品の品質のみならず、メーカーから受けるイメージも重要な価値判断基準になっている。それゆえに「ブランド・プロテクション」というものが必要になってくる。
企業のもつ無形の財産には、商標やサービスマークなどの「ブランド」と、そのメーカーで培ってきた「技術」(作業上のノウハウなども含む)がある。競争企業にとって技術の完全なコピーは困難であるが、一方で技術は陳腐化し、あるいはパブリック・ドメインとなる宿命にある。逆にブランドは獲得が難しいが、うまく維持すれば「資生堂」ブランドのように長命を保つことも可能だ。だが技術とは逆に、第三者によるコピーや破壊がたやすいという特性がある。それ故に、企業はブランドに対して、技術に対する以上の保護策を講じる必要がある。
ここでいくつかの企業のブランド管理に関する取り組みを見てみよう。
だが、ここで頭に入れておかねばならないことがある。上に書いたような行動は、不当なブランドイメージに対する攻撃に対しては当然、行うべきことなのではあるが、一方でそれ自身、消費者の企業イメージ形成に影響するという事実だ。
例えばNTT-Xの"goo.co.jp"ドメインをめぐる一連の動きについて、疑問の声をあげる人は少なくない。これはNTT-X側から見ると、「正義の実現を目指している」といえるとしても、ユーザーサイトから見た場合、大手企業という「社会的強者」がその立場を利用して、「弱いものいじめ」をしているように「見える」。ここに問題があるのだ(もっとも、このケースでは「ルールを力で捻じ曲げようとしている」点が、NTT-Xに対するよりクリティカルな批判点になりうる)。それでは次に挙げるケースではどうだろうか?
顧客(消費者)が商品(サービス)を購入する際、初期段階として「マインド・セットの形成」と「マインド・セットのブランド排除」という二つのメカニズムが働くといわれる。前者は購入候補ブランドの想起とブランド間の優先順位付けである。これには広告宣伝活動がもっとも影響があるとされ、事実、宣伝量と出荷量・販売量に正の相関を示す消費財も存在する。これに対して後者は、広告によって形成された関心・興味や購買意欲を無意識的に減速させるものだ。このような否定的な認知・意識はマスメディアのみならず、口コミ情報や、サポートに対する体験などによって形成される。極端に言えば、いくら「インパク」に出展して知名度を上げてみたところで、口コミやコンピューターネットワークを通じて黒い噂が流されるような状態を放置していては、何の意味もなさない、ということだ。しかも恐ろしいことに、消費行動にはこういう学習効果の他に「習慣形成効果」が存在する。ブランドではないがば1996年の狂牛病・O157騒ぎ後の牛肉の家計消費にはこういう事例が報告されている[11]。「雪印乳業」製の低脂肪乳出荷量も、未だに事件前の水準に回復していないという。これらの事実は、一度ある商品について使用中止あるいは代替品への乗り換えが行われると、消費者が容易にはその商品を再度利用するようにはならないことを示している。
一方、多くの企業には「お客様相談室」が設けられており、クレーム対応に勤めている。そしてクレーム対応に好感を持つと、その会社に対してファンになるという現象も見られるという。これは逆にいうと、いくら企業側に理があったとしても、対応を誤ると不要な企業イメージのダウンにつながるということでもある。それが何を意味するのか、ということは、ここまで読んだ人ならば理解できるだろう。
米国においては企業に対するネガティブコメントの公表が一般に認知されており [12]、yahoo.comに「Boycotts」 というサブカテゴリーがあるほどだ。日本にこのような商業文化が根付くかどうかは不明だが、少なくとも一般消費者の態度も「告発的」になってきている兆候が見られる。商売は大多数の消費者がそれなりの道徳的感性を持っていることを前提とするものだが、それすら危うくなってきているのかもしれない。
さらに企業や官庁に対して明確に悪意を持った攻撃を行う個人・企業あるいは団体は厳然として存在する。雪印乳業大阪工場の大規模食中毒事件が起こったときには、金銭目当てのクレーマーが出現して、警察沙汰にまでなっている [13]。インターネット技術の急速な普及・一般化は、それまで「草の根」ネット社会などの片隅で細々と生きていた社会不適応者たちが一般世界にアクセスするチャンネルを開いた。彼らの「透明な悪意」の矛先が、「自分だけは大丈夫」と思いこんでいる多くの人に対して向かう、潜在的な危険性(リスク)が拡大したことは否定できない。そしてその悪意の持ち主が、もしかしたらあなたの管理するマシンのユーザーかもしれないのだ。
社会全体から見た責任論としては、行き過ぎた消費者保護は結果として消費者の利益を損なうという考え方も成り立ち、実際にこれを支持するような調査結果もある[14]。消費者のバランス感覚を育成するための教育・啓蒙と、「企業攻撃」の風潮に乗って不当な利益を得ようとする輩を社会から排除する施策が一方では求められているのだ。
(reference)
(C)猿元
4/14/2001
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